JCジョーチェリ♀/虎次郎くんの受難 おろしたての制服に袖を通し、鏡の前で背を伸ばす。
きっと背が伸びるだろうからと大きめに作った制服はややぶかぶかで、お世辞にも格好いいとは言い難い。
それでも、昨日までTシャツと半ズボンで表を駆け回っていた小学生の自分とは違う、少しだけ大人になった自分の姿を見て、虎次郎は顔に笑みが広がっていくのを止められなかった。
「へへ……」
今日は入学式だから、と、学ランの詰襟をきっちり上まで留めて、虎次郎はおろしたてのスニーカーをつっかけて玄関のドアを開ける。
「いってきまーす」
家の中に声を掛け、門をくぐる。
「遅い」
間髪入れずに飛んできたのは、幼稚園の頃から毎日一緒に登校している、幼馴染の薫の声だった。
薫は頭がいいからてっきり私立の中学を受験すると思っていたのに、通学に時間が掛かるからという理由でそれを断り、虎次郎と同じ地元の公立中学へ進学を決めた。
大人たちはそれを勿体ないと嘆いていたけれど、虎次郎としてはまた三年間、同じ学校へ通うことができるという喜びの方が大きかった。
今日だって、特に約束をしていたわけではないのに、こうして同じように薫が迎えにきてくれた。
つまり薫も虎次郎と同じ気持ちということで、虎次郎は新しい制服を着る嬉しさの上にその喜びを重ねて、満面の笑みを薫へ向ける。
「わるいわるい。制服着るのに手間取っちまってさ。ほら、この学ランのフック。お前も──」
留めるのに苦労しただろう、という問いは、しかし最後まで言葉にならなかった。
ざあっと風が吹き、紺色の布がなびく。
それが、薫が穿くスカートのすそだということを理解するまで、たっぷり十秒の時間が必要だった。
「なっ……」
こちらをじっと睨むような目つきで見つめる薫の顔は、昨日一緒に遊んだ時から少しも変わっていない。
けれど、首から下は、紺色のブレザーに赤いリボンを結んだ丸い襟のシャツ、そしてひざ丈のスカートといういで立ちで、虎次郎は驚きのあまり動けなくなってしまった。
「かおる、それ……」
「ん? お前と同じ制服だが?」
ふるふると震える指で指させば、薫は「なにかおかしいか?」と言わんばかりに、きょとんと首を傾げた。
おかしくはない。
そう、なにもおかしくはないのだ。
おかしいのは、昨日まで薫を男友達だと思い込んでいた自分の方で、ああ、なんでそんな当たり前のことを、自分は忘れていたんだろうか。
「虎次郎? どうした? 具合でも悪いのか?」
玄関先でがくりと膝をついてしまった虎次郎を、薫が覗き込む。
前かがみになった拍子に、桜色の綺麗な髪がさらりと肩口から流れて、虎次郎の頬に触れた。
昨日は一緒にスケボーをして遊んで、何度も転んだせいで、薫の髪は泥だらけのボロボロだったのに、いま虎次郎の頬に触れたそれは、さらさらでおまけにいい匂いがして、まるで知らないもののような気がして、虎次郎は顔が熱くなる。
「いっ……や、べつ、にっ」
つっかえつっかえ首を振れば、薫が更に顔を寄せてきた。
「本当か? 顔が赤いぞ、熱でもあるんじゃないのか?」
「ひえっ……」
前髪をよけながら額に白い手が触れて、とうとう虎次郎は悲鳴を上げてしまった。
「な、なんだよ。変な声出して」
ぱっと薫の手が離れ、虎次郎は緊張の糸が切れたようにぺたんと尻餅をつく。
ばくばくと暴れる心臓を押さえながら薫を見上げれば、顔へ辿り着く前にスカートから伸びるすらりとした素足が目に入ってしまって、そこから目が離せなくなってしまう。
薫の脚なんて、散々見慣れているはずだった。
昨日までの薫は虎次郎と同じように、半ズボン姿で走り回っていたのだ。
その脚が、スカートから伸びている──ただそれだけのことなのに、どうしてこんなにドキドキしてしまうのだろうか。
「おい、ほんとに大丈夫か? ……それとも、やっぱりオレの制服姿がおかしいか」
虎次郎がじっと薫を見つめたまま動かないことに気づいたのだろう。
薫が少しだけ顔を曇らせて、そんなことを言う。
「……まあ、似合ってはいないことは、オレが一番よく分かってる。けど、女子はこの制服じゃないとダメっていうルールなんだ。まったく、古臭いルールでうんざりするが、そういうわけだから、お前も我慢し──」
「ちがう!」
顔を曇らせたまま言葉を続ける薫を、虎次郎は全力で否定する。
「ちがう、そういうことじゃない! 悪いのはお前じゃなくて、俺の方なんだ!」
「……どういう意味だ?」
ぶんぶんと全力で首を振れば、薫がどういうことだと首を傾げた。
さらりと流れた髪からまたいい匂いがして、虎次郎は薫の口から出た「女子」という単語を反芻する。
「だから……俺、お前が女だってこと、忘れてて……いやっ、別にお前が女らしくないとか男っぽいとかそういう意味じゃなくて、その、男とか女とかじゃなくて、薫は薫っていうか……昨日までおんなじかっこで遊んでたのに、急にそんな綺麗なかっこになってたからびっくりしたっていうか、頭が追いついてないっていうか、だからその」
とにかく薫はなにも悪くないのだ、と全力で訴えれば、薫はきょとんと目を丸くした。
そして、ぽつりと。
「……綺麗」
虎次郎の口から出た言葉を繰り返し、微かに頬を赤らめる。
「ッ……!」
初めて見る恥じらうようなそれに、虎次郎はまたどきりと胸が震えるのを感じた。
(いやいやいやいや……なんだこれ、なんだよドキって、目の前にいるのは薫だぞ、あの薫だぞ、食い意地が張ってて、足癖も悪くて、でも、髪も肌もすべすべで綺麗で、笑うと可愛くて、素直じゃないとこもなんだかほっとけなくって……って、あああ、なに言ってんだ俺は……!)
ぐるぐると混乱しながらも、薫から目を離すことは出来なかった。
制服屋で女子の制服の見本を見た時は、古臭くてつまらない制服だと内心がっかりしたものだったけれど、薫が着ているのを見たらそんな気持ちは吹き飛んでしまった。
飾り気のないシンプルな制服は薫の華やかな外見を引き立たせることに一役買っているし、アクセントとなる赤いリボンは薫の桜色の髪によく合っていた。
つまり。
「……綺麗だ」
虎次郎はもう一度繰り返す。
「すっごく綺麗だ。似合ってる。綺麗だ綺麗だってみんなに言われてたけどさ、お前ほんとに綺麗なんだなって、女の子なんだなって……思ったら、なんか、頭まっしろで」
だから、ごめん。
つまらない言葉で、薫を傷つけてしまって。
そう頭を下げれば、薫はきゅっと拳を握りしめて、背を向けてしまった。
ああ、やっぱり怒らせた。当然だ。
そう思いながら薫を見上げれば、しかし、髪の隙間から覗く耳が、真っ赤に染まっている。
「……るさい、ばか虎次郎」
震える声は普段よりも勢いがなくて、虎次郎はその声にもどきりと胸を跳ねさせた。
嬉しいような。
照れているような。
そんな声のまま、薫はきっぱりと吐き捨てる。
「オレはっ、お前が男だってこと、ずっと前からちゃんと知ってたからな……!」
そして虎次郎を振り返らないまま、スカートを翻して中学校への道を駆けていく。
「……え」
取り残された虎次郎は、真っ白になった頭で、薫の言葉の意味を考える。
「え……えっ、それって……えっ……」
虎次郎の頭がようやく回り始めた時には、薫の姿は虎次郎の視界から見えなくなっていた。
「ちょっ……嘘だろ、速すぎだろ、オイ まっ……待てって、薫、今のどういう意味だよ、かおる~~~~っ!」
制服についた泥を払い、虎次郎が慌てて薫の後を追う。
中学校へ着く前に、どうしてもさっきの言葉の意味を確かめなければならない。
そうしなければ、あの意地っ張りな薫のことだ。
この先一生教えてくれないに違いない。
希望に満ち溢れていたはずの、中学入学当日。
虎次郎はこの先の人生に関わるであろう重大な選択をその身に迫られ、全力で逃げる桜色を追って、必死に走るのだった。