Heartfelt Memories(旧題:記憶は心の底に)⑥―降谷Side 3月―
三月十日、日曜日。
三年生の卒業式を間近に控え、赤井のピアノの練習も佳境に入っている。平日も毎日練習しているので日曜日くらいは休んでもよいのではないかと思ったが、赤井は朝からずっと部屋でピアノの練習をしていた。寝室から遠い部屋にピアノを置いているので、ピアノの音色はほんの少しだけ聞こえる程度だ。ある程度、防音の施された部屋のためか、何を弾いているのかまではわからない。
この家にはもともとピアノはなかったので、練習するときには学校の音楽室へ通っていた。当然、音楽室が空いている日中の時間しか練習できない。卒業式の日から逆算し、練習の時間が足りないと踏んだらしい赤井は、電子ピアノをレンタルしたいと降谷に相談してきた。コナンの知り合いからレンタルさせてもらえる目途が立ったのだという。
最初は乗り気ではなかったはずの赤井だが、気づけば真剣にピアノと向き合っている。練習をするうちに、心境の変化が起きたのかもしれない。
降谷はリビングへ行き、マスタングのプラモデルの前に立つ。裏返してスイッチを押すと、赤井の声が聞こえてきた。昨日入っていた声とは違うので、今朝吹き込んだばかりの声だろう。
『おはよう、零君。もしピアノの音で起こしてしまったらすまない』
「気にしなくていいのに……」
休日ということもあって、普段より少し遅めに起床した。もちろんピアノの音色で起こされたわけではない。起きてから、ピアノの音色に気がついたくらいだ。
今日は十日なので、自分たちの毎月の記念日でもある。赤井にはピアノの練習に集中してもらい、今夜は自分が、普段は作らないような手の込んだ料理を作ろうと思っていた。しかし、昨日、赤井は突然こんなことを言い出したのだ。
「明日、晩御飯は俺が作るから、君はゆっくりしていてくれ」
「え? あなたはピアノの練習があるでしょう? 僕がやりますよ。何も予定ないですし」
「いや、今月は俺ひとりで作ってみたいんだ」
「そ、そうですか……」
赤井の意思は固く、降谷はそれ以上、何も言うことができなかった。
宿題も予習も、昨日のうちに済ませてしまったし、今日は記念日なので予定も入れていない。晩御飯は赤井が作ってくれるというので、せめてそれ以外の家の事は自分がいつも以上に引き受けようと降谷は心に決めた。
朝食と昼食のとき以外、赤井はピアノのある部屋に籠りきりだった。降谷は昼食の後片付けを終えると、リビングのソファに腰を下ろす。午前中に家事はひととおり済ませてしまったので、特にやることもない。ふとテーブルの上に置かれた本が目に入る。赤井がピアノの練習を始めるようになる前、夢中で読んでいた本だ。買ったのではなく、この家の図書室に置いてあったのだと赤井は言っていた。
シャーロックホームズの『緋色の研究』。
シャーロキアンの赤井のことだ。書棚でこの本を見つけたとき、きっと心躍らせたに違いない。その様子を想像して、降谷は思わず笑みを零す。
しかし、ちくりと違和感のようなものが脳裏に突き刺さった。なぜ自分は、赤井がシャーロキアンであることを知っているのだろう。赤井の口から、直接聞いたことはなかったような気がする。では自分はいったいどこでそれを知ったのか。
記憶を辿っても、答えには辿り着けない。ホームズを好きなのは、赤井ではない他の誰かだっただろうか。一瞬、そんなことを考えたが、赤井のことで自分が記憶を取り違える可能性はまずない。何年も一緒にいるのならばまだしも、赤井と出逢ってからまだ一年も経っていないのだ。
きっと夜眠る前、うとうとしていた時間に雑談として聞いた内容なのだろう。そんなことを考えていると、鈍い頭の痛みを感じはじめた。我慢できないほどの痛みではないが、少し横になったほうがいいかもしれない。降谷は大きなソファの上に寝転んだ。
いつの間にか眠っていたようで、気がつくと日も暮れはじめていた。頭痛はいつの間にか消え去っていたので安堵する。
眠っている間、何か夢のようなものを見ていた気がするが、夢の内容を思い出すことはできなかった。ただ、自分よりもうんと年上の大人が目の前にいて、どことなく懐かしい気持ちになったのを覚えている。過去に出逢ったことのある人なのかもしれない。
夢の余韻に少しばかり浸り、窓の外にいるカラスの声に現実へと戻ってくる。
赤井は今どうしているのだろう。耳を澄ませると、ピアノの音色は聞こえず、キッチンから何かを調理している音が聞こえてきた。
身体を起こし、キッチンへと向かう。すると、赤井がキッチンの入口で通せんぼをしてきた。
「ここから先は通せんよ」
目の前に立ちはだかる赤井の顔は真剣だ。
「……何を作っているか秘密ってことですか?」
「ああ」
鼻をくんくんと動かすと、鍋で具材を煮込んでいるような匂いが漂ってきた。
ちらりと視線を泳がせると、それに合わせて赤井が見せまいと身体を動かす。赤井の背後を覗き込みたい気持ちはあったが、降谷は我慢することにした。赤井が記念日のために夕飯作りを頑張ってくれているのだ。赤井の気分を悪くさせるようなことはしたくない。
「わかりました。楽しみに待ってます!」
赤井に背を向けて、おとなしく降谷はリビングへと戻った。どうにも手持ち無沙汰で、テーブルに置かれた『緋色の研究』を手に持つ。一度読んだことがあるような気がしたが、降谷はもう一度読むことにした。夕食ができたのは、それから一時間後のことだった。
テーブルに並べられた料理の数々を見て、「これを全部、赤井ひとりで」と、降谷は驚きの声を上げた。
おしゃれなイタリアンレストランで出てきそうな前菜のカプレーゼ。食欲をそそられる焼き立てのガーリックパン。そしてメインの料理。まるでコース料理を思わせるようなラインナップだ。メインとしてテーブルに置かれているのは、色とりどりの野菜が煮込まれたシチューだった。
「クリームシチューを作っていたんですね」
「ああ」
三月。春の訪れを感じながらも、まだ冬の記憶を残す夜は、肌寒さを覚える。湯気を立てているクリームシチューは、冷えた身体を心地よく温めてくれるだろう。今の季節に合う料理は何かを考えながら、赤井はこの献立を組み立ててくれたのかもしれない。降谷は嬉しくて顔が綻ぶのを感じた。
「すごく美味しそう……ありがとうございます、赤井」
「君に喜んでもらえたのなら嬉しいよ。冷めないうちに早く食べよう」
「ええ、そうですね」
両手を合わせて「いただきます」と声を揃えて言う。お互いタイミングを合わせようとしているわけでもないのに、不思議と赤井とはいつも声が揃った。
スプーンを手に持ち、シチューをひと掬いする。ぱくりと口に含むと、濃厚なクリームソースがとろりと舌に絡まった。ほのかなバターの香りと、素材そのものの甘さが口の中に広がる。ほっとするような温もりが全身にゆっくりと広がってゆくのを感じた。
「……美味しい」
食事が出来るまで時間がかかっていたことを考えると、シチューのルーもすべて手作りなのだろう。
普段の夕食とは違う特別感を感じて、身体だけではなく心まで温かくなる。
空腹感を刺激される美味しさに、シチューを掬う手が止まらない。大きなじゃがいもを口に入れると、口いっぱいにほくほくとした食感が広がり、少し歯を立てるだけで口のなかで崩れてゆく。もぐもぐと口を動かしていると、赤井が何かを言いたそうにこちらを見ていた。「どうかしましたか?」と問いかけると、赤井はこちらの様子を窺うように、真剣な表情できいてきた。
「煮込み具合はどうだ?」
何か深刻なことでも言われるのかと思ったが、料理の出来を心配していたらしい。降谷は少し驚いた。なんでも完璧にこなせるあの赤井が、料理の出来を気にしてこんな表情を向けてくるとは。
いつものポーカーフェイスとは少し違う、わずかに余裕のない赤井の表情に、胸が甘く締めつけられる。赤井がこんな表情をするのは自分に対してだけだろうか。そんなことを考えながら、降谷は赤井の問いかけにこたえた。
「ちょうどいいですよ。もしかして心配してたんですか?」
「レシピに書いてある時間は、あくまで目安だからな」
失敗しないよう、レシピ通り忠実に作ったのだろう。野菜の切り方、調味料の分量、そして煮込み時間。レシピ通りに作ればまず失敗することはないが、煮込み時間はコンロの火力や具材の大きさにもよるところがある。煮込みすぎてしまえば野菜は崩れてしまうので、加減がなかなか難しい。
なぜ、赤井がここまで真剣にひとりで料理と向き合ってくれたのか。記念日である十日に料理を作ることはこれまでに幾度もあった。しかし、赤井がひとりで作りたいと言い出したのは今回が初めてである。しかも、料理の経過を隠そうとしてまで、だ。
降谷はその理由を知りたいと思った。
「……どうして、今日はひとりで作ろうと思ったんですか?」
「これは、君へのお返しだからだよ」
「お返し?」
「……本当は四日後にするべきなんだろうが、俺達の場合は今日が良いかと思ってね」
「四日後? ……あ」
四日後は十四日。その日はホワイトデーだ。赤井はバレンタインのお返しをするために、“白色にちなんだ食べ物”のひとつとしてクリームシチューを選んだのだろう。お菓子ではなく食事を選んだのは、バレンタインでお菓子を作り過ぎてしまったことが記憶に新しいからだろうか。
しかし、バレンタインのお菓子は、すべて赤井と一緒に作ったものだ。降谷ひとりで作ったものではない。
「バレンタインのお菓子は、赤井も一緒に作ったでしょ? だからお返しなんて……」
もしお返しするとしても、自分たちで半々にするべきだろう。赤井が時折口にする、“フィフティフィフティ”だ。そこまで考えて、ふと新たな違和感を覚える。そのような言葉を、赤井が今まで口にしたことがあっただろうか。記憶を振り返ってみても、どこかぼんやりとしていて、いつどこで赤井がその言葉を口にしたのかまったく思い出せない。
赤井のことに関して、記憶がはっきりとしないことが度々ある。
今、自分が抱える疑問のすべては、赤井を中心に降って湧いてくるのだ。気になることは他にもあった。出逢ってまだ間もない自分を、赤井はなぜここまで大事にしてくれるのか。
その疑問は、赤井の一言でさらに深まってゆく。
「俺がしたかったんだよ」
照れているのだろうか。どこかぎこちなく赤井が笑う。
降谷は目を瞬かせた。普段とは異なる、赤井の新たな一面を見た気がする。クラスの女子たちが見ていれば、たちまち黄色い声が上がっただろう。
バレンタインデーの日。赤井は誰からもチョコを受け取らなかった。もし赤井が受け取っていれば、どこかの女子が赤井からバレンタインデーのお返しを受け取ることもあったかもしれない。しかし、今回は、赤井からのお返しを自分が独り占めする形となってしまった。
赤井はこれで良かったのだろうか。
女子ではなく、男子である自分が相手で、本来の意味でイベントを楽しめなかったのではないだろうか。
チョコを受け取らないと言う赤井を、自分は説得した方が良かったのではないだろうか。
そんなことを考えていると、心の奥底にずきりとした痛みを感じた。
顔に出ていたのだろうか。自分を見ている赤井の表情に、かげりが見えはじめる。降谷は慌てた。
完成するまで内緒にするほど、赤井は一生懸命、自分のためにお返しを考えて作ってくれたのだ。降谷は脳裏によぎった考えを頭の中から追い出した。
今は、心の底から赤井に「ありがとう」を言いたい。そう思った。
「……僕のために作ってくれて嬉しいです。……ありがとう、赤井」
普段はどこか必要以上に大人びていて、感情の起伏の少ない表情をする赤井が、誰の目から見ても嬉しそうに微笑んだ。つられるように降谷も微笑む。お互いに微笑み合っている、この空間がとても居心地が良い。
今度は自分が赤井に何かお返しをしよう。赤井は何をもらったら喜んでくれるだろうか。今後の楽しみがひとつできて、胸が弾む。
そして赤井は、さらに胸が弾むサプライズを用意してくれていた。
「君に喜んでもらえたのなら嬉しいよ。あぁ、そうだ。デザートにプリンも用意してある。今は冷蔵庫で眠っているがな」
「プリン」
まさかデザートまで作ってくれていたとは。降谷が目を輝かせると、赤井はフッと噴き出すように笑った。
カプレーゼやパンにも手を伸ばしながら、降谷は赤井に感想を伝えた。それを赤井は嬉しそうに、そしてどこか安堵したように聞いていた。赤井は成績もよく、教師や上級生たちからも一目置かれる存在である。赤井自身、誰かに何かを褒められるのは慣れているはずだ。それなのに、当たり前だという顔ひとつせず、赤井は自分の反応を純粋に喜んでくれている。
赤井は食べることよりも、降谷の話を聞くことを優先していた。自分の前からどんどん料理が消えていく一方で、赤井の皿にはまだ多くの食べ物が残っている。まさか食欲がないのだろうか。身体の具合でも悪いのだろうか。赤井の様子を窺っていると、赤井が利き手とは違う手で、スプーンを持っていることに気づいた。あまりにも器用にスプーンを使っているので、今まで気づかなかった。
「左手、どうしたんですか?」
赤井は言いにくそうに言った。
「……ああ、これは少し油断してね」
「油断?」
まさかと思い、降谷は素早くテーブルの下を覗き見る。すぐに赤井は左手を隠したが、一瞬、指に何かが巻かれているのが見えた。
「どうしたんですか? その手!」
降谷は立ち上がり、赤井の席へと移動した。見せてくれるまでここから動かない。そう態度で示すと、隠すことを諦めたのか、赤井が左手の人差し指を上に向ける。天を向いているその指には、絆創膏が巻かれていた。
「大丈夫だよ。痛みも今は消えている」
赤井は、たいしたことはない、という風に言うが、降谷は両手で赤井の左手を掴んだ。座ったままの赤井がこちらを見上げてくる。離せと言われるのかと思えば、赤井は黙ったままだった。降谷は絆創膏に覆われた指を上下左右からぐるりと見渡した。
傷は絆創膏の中におさまっているので、小さくはあるのだろう。だが、傷の具合はよくわからない。
「ちゃんと処置はしたんですか? 火傷ですか? それとも切り傷? もし万が一のことがあったら、あなたは――あなたは――」
声が途切れる。今、赤井に何を告げようとしていたのか、降谷は急にわからなくなってしまった。
赤井と目が合う。赤井は何も言わなかった。ただ、自分の言葉を静かに待っている。
もう一度、頭の中でよく考えて、はっと思い至ることがあった。今ピアノの練習をしている赤井にとって、指の怪我はあってはならないものだ。
降谷は、「ピアノ、弾けなくなっちゃうかもしれないでしょう?」と続けて言った。
自分が言いかけていた言葉はきっとこれだったのだろう。そう納得をしかけて、何かが違うことに気づく。これとは別の言葉を口にしようとしていたような、妙な違和感が記憶の淵を叩いている。
「ああ、そうだな……」
まるで子どもを慰めるような赤井の声を聞きながら、降谷はぎゅっと赤井の左手を握りしめた。怪我をしたのは赤井のほうだというのに、降谷のほうが混乱している。「大丈夫だよ、零君」と赤井が優しい声で告げる。その声に、どうしようもなく降谷は泣きたくなった。
赤井の左手は特別。
自分の心の底から湧き上がってくる言葉がある。しかし、その言葉が持つ意味を知るのは、自分であって自分ではない存在のような、そんな気がした。