温かい海中から出たばかりの体に、冷たい空気が刺さる。
流石に濡れたままでは風邪を引きかねないと、髪を乾かすだけの時間があるかを確認する。
夜明けには早い時間を指し示す携帯の画面表示を見ながら、ふと自身の誕生日が近いことに気づいた。
芸能人とは、日付感覚の失われる仕事だ。
実際の誕生日は明後日だというのに、ラジオの録音を始めとして、番組収録のスタッフなど何度も祝いの言葉をかけてもらっている。ファンレターにも、誕生日と祝いの言葉が増えている。
研究に没頭しては忘れていたが、アイドルを始めてからは意識すること多くなった。
本当にありがたい話だが、面映ゆくもある日々だ。
海の魅力を広めようと志した道だが、自身に与えられた恩恵は計り知れない。
特に、つい海の話に夢中になってしまう自分を引き留めてくれる想楽と雨彦には、感謝してもしきれない。
さて、自分に何か返せるものはあるだろうか。もらってばかりの自分に、返せるもの
身支度を整えながら思案を巡らせていると、汽笛のような、しかし鋭い音を響かせる海風に晒された。
舞い上がる髪を咄嗟に抑えて、反射的に閉じてしまった目を開けた。
幕が上がるように、夜が明ける。
空と海が淡い紫色に染まる。
そう、まるで、瞳の色のような――
「……ああ、雨彦のいろ、ですね」
なんとなく惜しくなって、カメラアプリを起動する。
広い砂浜では、拡散されたシャッター音は小さく、寂しく聞こえた。
薄く青みがかった紫に、つい思い出された雨彦のトーク画面を呼び出してしまう。
一瞬の美しい光景を誰かに共有したくなり、そのまま送信する。
まだ早い時間だ。失礼だったと慌てるが、削除する暇もなくコール音が鳴り響いた。
「ああ、すみません。起こしてしまいましたか」
「いや、起きてたから気にするな。お前さん、また海にいるのか?」
電話越しの声ははっきりとしていて、今目覚めたようではないことにほっとする。
「ええ。夜行生物は一部夜明け前に活発になりますので、その観察に」
「相変わらず熱心だな。それで、この写真は?」
「夜明けの海が美しかったもので……朝早くにすみません」
やはり迷惑だっただろうか。雨彦にはふとしたときに甘えのような態度をとってしまっている。
改めなければと反省していると、聞こえてきたのは存外楽しそうな響きだった。
「確かに、滅多にお目にかかれない光景だな、これは」
くく、と喉にかかるような笑い方は、電話でもなければ聞き取れなかっただろう。
珍しいものを聞けたと耳をすませていると、予想外の誘いが返ってきた。
「そうさな。11日、午後の打ち合わせと雑誌のゲラ受け取りだけだったろう。折角の誕生日だ、一緒に夜明けの海でも見に行くかい」
「あ、雨彦も海に興味を?やはり海の美しさは……!」
「落ち着け。誕生日くらい、付き合うさ。お前さんの海語りついでに見物していくのも面白そうだ」
「……本当に私は、もらってばかりですね」
「そうでもないさ。古論が与えてる分、誕生日に返ってきているんだろう」
機械越しに聞く雨彦の声に、励まされる心地がした。
「ふふ、ありがとうございます。はい、では、楽しみにしています」
「まずは、今日の仕事を片付けることからだな。髪、きちんと乾かしてから来い」
「はい!それでは、また事務所で」
電話が切れたことのは、空はすっかり明るくなっていた。
誕生日が待ち遠しく感じるのは、久々の感覚だった。