無機質な電子音が鳴り響く。
「失礼、」
音の主はクリスさんのスマホだった。
かけてきた相手を確認したクリスさんは、少し驚いたような、嬉しそうな顔をしていた。
「すみません、少し電話をしてきます。
長引かないとは思いますが、二人は先に帰ってしまって構いませんので!」
返事をする間もなくばたばたと事務所を出ていったが、ソファにはクリスさんのトートバッグ。
事務所内には気心知れた人しかいないとはいえ、流石に打合せ資料の入った鞄を置きっぱなしにさせてはおけない。
「……だって。僕は一応待つけど、雨彦さんはどうするー?」
「そうだな。俺も待つかな。お前さん一人じゃ退屈だろ」
やれやれと肩をすくめる動作が嫌味でなく似合う人だ。大柄な人は大げさな仕草が似合うのだろうかとぼんやり考える。いつもならさらさらと浮かんでくる言葉も、普段はない6限後に打ち合わせまで終えた頭では流石に難しかった。教授の都合で休講にするのは構わないが、1限から入れている日に19:30上がりは勘弁して欲しい。
普段は九郎先生や幸広さんの置いていった茶葉を使わせてもらうことの多い僕たちだが、今日は僕のリクエストで眠気覚ましのコーヒーだ。少し濃いめに淹れたそれは、冷めてしまうと少し飲みづらい。雨彦さんは電話が長引くと思っているのか、2杯目を注ぎに行った。僕もお願いすれば良かったかなー。
一時間ほどの打ち合わせを終えて、プロデューサーはレッスン室の自主練組を追い立てに行った。冬馬くんを筆頭に、17歳勢が全体曲の練習をしているらしい。確かにいい加減帰らなければならない時間だ。
「19歳は特に制限はないんだったな?」
雨彦さんの持ったコーヒーからは、ふわりと香ばしい匂いがした。雨彦さんも、さっき冷めたコーヒーを一息に飲み干したときより随分美味しそうだ。やっぱりお願いすれば良かった。
「まあねー。今日はちょっと疲れたし、早々に帰れればとは思うけどー。」
「そうか……。いやなに、古論の誕生日だっただろう。
時間は遅いが、飯でもどうかと思ってな」
ぱちりと目を瞠る。雨彦さんからそういう提案が出るとは、あまり想像していなかったからだ。
二人を見ていれば、なんとなく歩み寄ろうとしている様子なのはわかっていた。
なるほど、誕生日を口実にとはよくある手だ。ただし、僕を巻き込もうというのはいただけない。
見守るポジションなら悪くはないが、直接的にはちょっとね、馬に蹴られたくはないし。
「うーん、折角だけど、僕はお断りしようかなー。午後からとはいえ、明日も仕事だし、二人でいってきてよー」
「そうか。疲れているところに悪かったな」
珍しく、少しばかり殊勝に感じる。……もしかして、緊張しているのだろうか。
照れ隠しのようにカップを口に運んでいる。
さて、何て声をかけようか、思案していると、バタンと音をたてて扉が開いた。
「すみません、お待たせしました。」
「いいや、そう待っちゃいないさ。妹さんか?」
「ああ、いえ、学生だった頃の研究仲間です。遠洋研究に出ていたのですが、日本に戻ってきたようで。今から近日公開の研究結果について意見を交わしたいと!大変ありがたい申し出です。想楽、雨彦、申し訳ありませんが、私はこれで!打ち合わせで出た提案については、また後程LINKでお送りします、それでは!」
まさに喜色満面。慌てて掴んだ鞄を手に、髪を靡かせて去って行った。
残されたのは、誘うつもりだった相手に取り残された雨彦さんと、僕。
恐る恐る雨彦さんの顔を見る。
先程まで羨んでいたあったかそうなコーヒーは、随分不味い代物だったようだ。
しかめづら、苦味は恋か、珈琲か。……なんてねー?