祝福 美しい歌声に待ちゆく人々が足を止める。
それはこの国の最高審判官であるヌヴィレットとて例外ではない。何百年間もずっと隣で聞いてきた声を彼が間違えるはずもなかった。
病院の前のベンチに座り、まだ生まれて間もない赤子を抱えて歌う姿は、人々が最初に思いつく理想の神の体現と言えよう。スポットライトのように陽光が彼女を照らす姿は一枚の絵画のようにも、舞台の一部のようにも見えて妙に現実味に欠ける。
ヌヴィレットは覚束ない足取りでフリーナに近づく。体面だとかそんなことよりも彼には気になることがあった。
赤子を抱いていたフリーナは不意に遮られた陽光を不思議に思い、顔を上げた。視線の先には自分を見下ろす見慣れた男の姿。
「やあ、ヌヴィレッ――」
「君の子か?」
周囲の人々がざわめく。誰も彼も聞けずにいた事をこの国の最高審判官様があまりにも直球に聞いたからだ。
「君の子……?」
フリーナはポカンとしたままヌヴィレットの言葉を繰り返す。抱いた赤子とヌヴィレットを交互に見やり、やがて笑い声を上げた。
「ふふふふふふ……あははははは!」
「……何が可笑しい」
僅かにムッとした様子でヌヴィレットは眉を寄せた。フリーナは涙が出るほど笑っていた。彼女の笑い声に抱いていた赤子が眠りを邪魔された事への抗議の声を上げる。
「ふぁ……ふやあああああ……」
生まれたばかりの赤子はまだふにゃふにゃとした柔らかな泣き声を立てる。フリーナはああ、ごめんね、と赤子をあやす。
フリーナはゆっくりと一定のリズムで赤子を揺する。赤子はリズムに合わせるように、うとうとと舟を漕ぐとあっという間に夢の中へと旅立っていった。
「ふう……危ない危ない。僕としたことがつい大声を出してしまった」
赤子を見るフリーナの視線はどこまでも優しさに満ちている。
「愛しい子……フォンテーヌへようこそ。生まれて来てくれてありがとう。……なんて、今の僕は偉そうに言える立場にないんだけれど」
赤子を抱く彼女の顔には自嘲と慈愛が綯交ぜになった笑みが浮かんでいる。ヌヴィレットはズキリと痛みを感じて思わず自身の胸元を強く掴む。フリーナの笑みがあまりにも痛々しく感じた。――その笑みの原因を作ったのは自分だとヌヴィレットは心の中で強く言い聞かせる。
「ヌヴィレット、大丈夫かい?体調でも悪い?」
フリーナが気遣わしげにヌヴィレットを見る。彼はなんとか表情をいつものものに戻し、彼女に向き直る。
「……大丈夫だ。問題ない。――それより、先程の質問に答えてもらおうか」
ヌヴィレットの二転三転する態度にフリーナは戸惑う。一先ず、彼が大丈夫だと言うのを信じることにして『先程の質問』とやらを思い出す。
「ああ、君の子か?ってやつ?」
「そうだ」
ヌヴィレットが頷く。彼の表情は真剣そのもので、フリーナは少しの悪戯心が湧いた。
「そうだ……って言ったらどうする?」
ヌヴィレットが大きく目を見開く。意地悪を言っている自覚はあった。彼が自分の一言にここまでの反応を示したことによる少しの優越感と悪戯が成功したことによる達成感がフリーナの心を満たしていく。横目で周囲の反応を窺えば、事の成り行きを見守っていた人々の間でも動揺が波紋のように拡がった。
「君の子だと言うのなら私は――」
「フリーナ様、お待たせしました 」
ヌヴィレットの言葉を遮るように女性の声がきこえた。
「やあ、ステラ。それにジャンも。用事は終わったのかい?」
「ええ。フリーナ様がその子を見ていてくれたおかげですっかり終わりました」
男性が頷く。二人の男女が並び立つ姿はまさに仲睦まじい夫婦そのものだった。
「それは良かった」
フリーナは赤子を夫婦に返す。そんな3人のやり取りをヌヴィレットと民衆は呆然とした様子で見守る。
「ありがとうございました」
夫婦は一礼するとフリーナに手を振りながら帰っていく。
「……君の子ではなかったのか」
ヌヴィレットはやっとのことで言葉を紡ぎ出す。情けない声になっているのは百も承知だ。
「当たり前だろ?僕の子だとしたらいつ、どこで、子種を貰うんだい?そんなタイミングがなかったのは君も分かるだろう?」
ヌヴィレットは言われて、先週も彼女に会ったことを思い出す。確かに産み月を考えるのなら彼女の腹の大きさは合わない。
「……私をからかったのか?」
ヌヴィレットの言葉にフリーナは悪戯の成功した子どものような笑みを浮かべた。
「そうだよ。……まさか誰も気づかないとは思わなかったけど」
フリーナが野次馬をしていた人々に視線を送る。彼ら或いは彼女らは蜘蛛の子を散らすようにいなくなる。二人は暫し見つめ合った。
「君の子でなくて良かった……」
ヌヴィレットの言葉にフリーナは困惑する。
「えぇっと……それはどういう意味……」
ヌヴィレットは真っ直ぐにフリーナを見据える。熱の籠もった視線で見つめられてフリーナは自身の心拍数が上がるのを感じた。
「私は、私が思う以上に君のことを好いているらしい……愛しているという方がこの場合、正確なのかもしれない……」
ヌヴィレットの言葉にフリーナは真っ赤になって固まる。彼はそんな彼女を見て微笑んだ。
「愛しているフリーナ。……君の返事を私は聞きたい」
ヌヴィレットの言葉には有無を言わせない強さがあった。フリーナは観念したように目を瞑ってから開く。
「……僕も君のことを愛している。きっと君が赤子を抱いていたら嫉妬してしまうくらいには 」
「そうか……嫉妬とはこういった感情なのだな」
ヌヴィレットの口が嬉しそうに弧を描く。今まで共に過ごしてきた中で見たことのない、独占欲の滲んだ笑みにフリーナの思考は完全に停止した。
「……フリーナ殿。抱きしめてもいいだろうか?」
フリーナは、ぱちぱちと目を瞬かせてヌヴィレットの言葉をゆっくりと反芻する。
「やはり、駄目だろうか……すまない、忘れてく」
「いいよ……!」
落ち込むヌヴィレットに両手を広げる。
「ほら、おいで、ヌヴィレット」
どこか気恥ずかしそうにしながらフリーナが微笑む。ヌヴィレットがゆっくりと彼女に近づき、抱きしめた。
「……君はいい母親になりそうだ」
「ふふ……それは気が早すぎるんじゃないかな?」
ヌヴィレットはフリーナを抱きしめながら先程の光景を思い描く。光に照らされて慈愛の笑みを浮かべる徒人の少女。ヌヴィレットの愛しい想い人。強く強く抱きしめてその存在を確かめる。
君の『人生』にあらん限りの祝福を――