政婚5話「そういえば、昨夜はありがとう。クロリンデ」
オートミールを食べながら、フリーナが思い出したように笑いかけた。クロリンデは何のことか分からずに困惑しながら問いかける。
「何のことでしょうか?」
「昨日の夜、僕の様子を見に来てくれただろう?それで『欲しいものはないか?』って聞いてくれたじゃないか」
「失礼ですが、誰かとお間違えでは?」
「ええ!?そんなはず……」
ない、と言いかけてフリーナは口を噤んだ。脳裏に浮かんだのは、節くれ立った冷たい手、あれは、女性の手というよりは男性の手――つまり、僕の旦那様であるヌヴィレットの手だったのではないか、と。
今にして思えば、一介の使用人が仕えるべき相手に欲しい物を問うことはあり得ない。主人の命令に従うのが彼ら彼女らの使命であり、進言などは以ての外だと義理の家族はよく言っていた。だとしたら、やはり、欲しいものを尋ねるのは不自然だ。
だが、これが夫であるヌヴィレットなら全ての辻褄が合う。彼が僕のことをどう思っているのかは知らないが、政略結婚とはいえ、病床に伏した妻がいるのは体裁が悪いとかそんな理由で部屋を訪れたのだろう。あの日は熱に魘されていて、記憶も朧気だが、どうしてかあの冷たい手だけはよく印象に残っている。
そういえば、僕は彼のこと何も知らない――フリーナの顔色が波が引くように青くなっていく。結婚して数ヶ月になるのに、食事を共にすることもなければ、一緒に庭を散策したこともない――やったことと言えば、月に一、二度、決められた日に身体を重ねるくらいだ。その間、会話らしい会話もない。ただ、跡継ぎを作るために子宮に子種を注ぐだけの作業を性交渉と言ってもいいのかすら怪しい。世間一般の夫婦というものがどういうものかは知らないが、仮面夫婦でももうちょっと交流はあるだろう。
「ね、ねぇ……クロリンデ……世間一般的な認識として……閨でしか顔を合わせない夫婦ってやっぱり異常、なのかな……?」
フリーナの疑問にクロリンデは紅茶を淹れる手を止めて思わず、といった風に自身の主を見つめた。
「ご、ごめん……変なこと聞いて……でも、僕、気になって……」
鋭い視線に射抜かれて肩を落とすフリーナ。己の目つきの悪さを思い出したクロリンデは「すみません」と謝ると、ティーポットを机に置いて腕を組んだ。
確かに、ヌヴィレットとフリーナは世間一般の夫婦とは言い難い。それは、政略結婚であったこともあるし、彼女の義家族のせいでもある――だが、何より、とクロリンデは雇い主であるヌヴィレットの顔を思い浮かべた。
「……仕方のないことではないでしょうか?」
クロリンデの言葉にフリーナが弾かれたように顔を上げた。それから、ゆっくりと視線を下に向けた。
「ははっ……キミもそう思うかい? そうだよね……」
フリーナの声は少しずつ小さくなっていく。どうやら、悪い意味に捉えられてしまったらしい。訂正したくとも、口下手な自覚のあるクロリンデには難しいことだった。幾つかの言葉が頭を過ぎるも、そのどれもが違う気がして口を噤む。
「――手作りの贈り物をしては如何でしょうか?」
考えに考え抜いたクロリンデが出した結論がそれだった。頭の中のナヴィアが「交渉ならプレゼント攻撃も有効よね!」と元気よく泡立て器を動かしている。
「手作りの贈り物……?」
「ええ……フリーナ様の手作りであれば、話題作りにもなるでしょうし」
フリーナが首を傾げて復唱する。流石に安直すぎただろうか、と冷や汗を流すクロリンデとは反対にフリーナの瞳は輝きに満ちていく。
「……いいね、それ! そうと決まれば、早速、何を作るか考えないと! ――ありがとう、クロリンデ!」
ここに来て初めて見る年相応の少女の笑みにクロリンデは目を見張った。落ち込んでいたかと思えば、己の提案に喜び、すぐさま実行に移そうとする――くるくる変わる表情と大胆な行動力は見る者を魅了する。そんな彼女の姿は目が眩むほどの輝きを放っていた。
「うーん……難しいなぁ……」
劇団での休憩中、机に向かっていたフリーナは椅子に座ったまま、大きく伸びをした。彼女の目の前には、刺繍枠に嵌められた刺しかけのハンカチが置かれている。その出来はあまり、いいものとは言い難い。
「――何が難しいの?」
突如としてかけられた声にフリーナは驚き、椅子ごと後ろに倒れ込みそうになったのを寸でのところで踏み止まった。
「怪我はないかしら?……急に声をかけてごめんなさいね、ジェーン」
ふわふわとした栗色の髪をサイドテールにした劇団長はフリーナの目の前の席に着いた。
「あら、刺繍? ふふっ、ジェーンもすっかり貴族のお嬢さんね」
貴族の女性が刺繍を嗜む、というのは有名な話だ。劇団長も元とはいえ、貴族令嬢――もしかしたら、と藁にも縋る思いでフリーナは口を開く。
「劇団長……刺繍を教えてくれる人に心当たりなんてない、よね……?」
フリーナの言葉に彼女は目を丸くした。その後、ゆっくりと目を細め、得意げに微笑んでみせた。
「あら? 言ってなかったかしら? 私、これでも夫と二人で駆け落ちしてきた当初、刺繍工として生計を立ててたのよ?」
「分からないことがあったらなんでも聞きなさい」と劇団長が自信満々の表情で自身の胸を叩いた。その仕草に、今度はフリーナが目を丸くする番だった。彼女が脚本家である旦那さんと駆け落ちをしたことは知っていたが、劇団を作る前のことは初めて聞いたからだ。
「いいのかい……? あ、でも……僕、劇団長に教師代を払えるほどお金がないんだ……」
いくら、フリーナが劇団のトップスターといえど、自由に出来る金銭は限られている。収入の殆どは義家族に奪われるのが当然であったし、僅かに手元に残ってもメイク道具などの劇団では賄えない小物の購入費に充てていた。劇団長が仕事に出来るほどの腕前であるのなら、趣味を飛び越えて職人である。知り合いだからといってタダで教えを請うつもりなどフリーナには毛頭なかった。
「そんなこと? いいのよ。大事な団員からお金は取らないわ」
「で、でも……!」
なおも言い募ろうとするフリーナの口に劇団長が人差し指を押し当てた。
「聞いて、ジェーン。私はね、みんなのことを家族だと思っているの。勿論、貴女のことも……家族に遠慮はいらないわ。母親が我が子に持てる技術を教示するのに金銭のやり取りなんてしないのよ。貴女も他の子たちに演技を教えて、って言われたらお金なんて要らないって言っているでしょ? それと同じよ」
フリーナが無言で頷く。
劇団長はゆっくりと彼女の口から指を離した。生まれ育った環境もあってか、ジェーンは他者からの善意を受け取ろうとしない。それでいて、他者へは無償の善意を与えられる。矛盾しているが、彼女の中ではそれが当然であり、無意識に搾取されることに慣れている。唯一の救いは団員たちに彼女を搾取しようとするような悪意を持つ者がいないことだ。ジェーンに教えを請うた者たちは彼女の価値をきちんと理解して、何かしらの返礼をしているのをよく見かける。
それは彼女が若いながらも劇団の古株であることもあるが、一番の理由は彼女の演技力や演出力を間近で見れば、お金を払わないなど出来ることではない、と舞台関係の仕事をしていれば誰でも思うからだ。卓越した技能を持つ彼女の実力はこの業界において、突出している。本来ならば、もっと大きな劇団で華々しくトップを飾ることだって出来るはずなのだ。
事実、ジェーンはここより大きく、払いも良い幾つかの劇団から何度も熱烈な誘いを受けている。団員たちが生活出来るようになるべく高い給与を払うようにはしているが、やはり限界はある。彼女にも他の団員たちにも、いつでも他所に移籍しても良い旨は伝えているが、実際に出ていった者は少ない。
以前、一度だけジェーンに移籍を勧めたこともあったが、頬を膨らませて「僕がそんな薄情な奴に見えるのか」と逆に怒られてしまって以来、強く言えなくなってしまった。ありがたいと思う反面、申し訳なくもある。
故に自分に出来ることは、彼女がやりたいことが出来るように助力を惜しまないことくらいだ。そのために、彼女の家のことも調べたし、実家を通して苦言を呈したこともあった。けれど、一介の劇団の長と家格が下の貴族家が何を言っても彼女の実家は何処吹く風で、ジェーンを連れ出すことも、幼い心を守ってやることも出来なかった。
「劇団長?」
少しだけ幼さを残した声に呼びかけられて、慌てて顔を上げる。ついつい、思考の渦に囚われてしまっていたようだ。
「なあに? 分からないところでもあったかしら?」
「結局、ただの風邪なのに1週間も休む羽目になってしまったよ。みんな、心配しすぎなんだ。風邪なんかじゃ死にはしないと言うのにさ」
公演後、劇団裏には二つの影があった。
壁にもたれ掛かりながらジェーンの話を静かに聞くヌヴィレット。彼女の声には呆れを含みながらも隠しきれない喜色が乗っている。
「家人が君のことを心配する気持ちはよく分かる。それに、風邪は万病の元だという。甘く見ないことだ」
彼の脳裏で妻のフリーナと月明かりの下で見たジェーンの姿が重なる。細く華奢な手足は力なく投げ出され、抱き上げた体は羽のように軽かった。ナヴィアが喝を入れてくれなければ、彼女を抱いたまま途方に暮れていたことは想像に難くない。あんな姿は二度と見たくないな、と思いながらヌヴィレットは思考を打ち切った。
「うぅ……キミまでそんなことを言うんだね……」
「言われたくないのならば、もう少し食事を摂りたまえ。君は細すぎる」
「むっ……僕の体型管理は完璧さ。どんな役でもこなせるのだからね。キミには分からないかもしれないけど!」
「完璧だと言うのなら……なぜ、風邪をひいたのかね?」
「うぐっ……そ、それはだね……」
「劇団長殿が夜の練習はほどほどにするよう、言い聞かせているが聞き入れてくれない、と嘆いていたが?」
それは彼女を散々、心配させている自覚のあるフリーナにとっては特大の釘だった。小さな声で「分かってるよ……」や「でもそれとこれとは……」と言い訳をしてみるも、説得力がないことはよく分かっていた。結局、どの言葉も説得材料にするには相応しくないと判断したフリーナは沈黙を選んだ。
「……自宅で練習は出来ないのかね?」
せめて暖かいところでして欲しいという劇団長の言葉を思い出し、ヌヴィレットは提案した。自宅ならば、警備面においても環境面においても最良と言っていいだろう。自身の予想が正しければ、ジェーンという少女は上流階級の女性だ。仕草や言葉遣いは市井のものに合わせているが、時折、平民的な仕草の中に貴族優雅さや流麗さが見られる。洗練された演技の中に違和感なく同居する貴族性、とでも言えばいいのだろうか。演技に知識が浅いヌヴィレットには上手く言い表す言葉が見つからないが。
「う〜ん……許してもらえないんじゃないかな……前の家もそうだけど、今の家は婚家だから……僕の旦那様が歌や演技に興味があるなんて思えないよ」
「君はそれを夫である男に伝えたことはあるのかね?」
ヌヴィレットの問いかけにジェーンは「ないけど……」と言葉少なに返す。もし、私が彼女の夫であったなら――
「私が君の夫であったなら、君の自由を奪いはしないのだがな……」
口をついて出たと気付いた時にはすでに遅かった。口を手で押さえるも転び出た言の葉は取り戻せない。彼女に気があると思われてしまったら、と考えるヌヴィレットをジェーンは笑い飛ばした。
「ハハッ……本当に、そうだったら良かったのにね。キミと夫婦だったらきっと、こんな気持ちにはならなかっただろう……」
徐々に小さくなっていく声にヌヴィレットは首を傾げる。
「……上手くいっていないのか?」
彼の問いかけに、ジェーンは沈んだ声で「ちょっとね」と返した。無言の時間が続き、やがて口を開いたのはジェーンの方だった。
「ねえ、銀の君……夫婦ってどうしたら仲良くなれるかな……? おしどり夫婦とまではいかなくとも……せめて、おはよう、おやすみが言える仲になりたいんだ」
ハードルが低すぎはしないだろうか、とヌヴィレットは思った。挨拶すらしないとなれば、仮面夫婦の方がまだ会話をすることだろう。
関係の構築を諦めた方がいいのでは、と切って捨てることは簡単だが、彼女の話を無碍には出来なかった。なぜなら、自身もその問題について熟考していた最中であったのだから。
「難しい問題だ……実は私には妻がいるのだが、君と同じことに悩んでいる」
声にしてから、何を言っているのやら、と自嘲する。夜伽のたびに極度の疲労で行為後に眠る妻を置き去りにしているくせに、迷える子羊に教えを説こうとするなど馬鹿げている。
「そうなんだ……」
「ああ……とはいえ、私が一方的に悪く、彼女は何も悪くないのだ。私が無理に彼女との結婚を推し進めてしまったのでな……」
沈んだ声にフリーナの気持ちも沈んでいく。彼の気持ちも理解出来るし、彼女の妻である女性の気持ちも理解出来る。
「でも、その……無理を押してでも結婚するくらい好きな相手だったんだろう? キミが心を尽くせばきっと分かってくれるんじゃないか?」
ヌヴィレットが息を吐き出す。好きであればどれほどよかっただろうか。
「……私は、彼女を好いていたから結婚したのではない。ただ、政治的な面で諸々の不利が生じたためだ。彼女を他国に渡せば、戦争の火種に成りかねないと判断し、婚姻という形で縛り付けた。それが、今の私に出来る最善であった……故に、彼女から別れを切り出されたのなら、従うつもりだ。多少の不便は強いてしまうが、私の持てる全てを賭して彼女とその者を支援しようとも考えている」
最低なことを言っていると思う。
本来、無関係な第三者に伝えるべきではない事柄だが、どうしてか、彼女と話しているとつい、言うべきではないことまで話してしまう。
雰囲気が妻である少女に似ているせいだろうか。
「……僕には政治の難しいことは分からないけど、それはとっても愛情深いんじゃないかな?」
優しい少年の声が耳を擽る。
先ほどの話から愛情など一欠片も感じないと思うのだが、とヌヴィレット告げれば、彼女はふふっと笑い声を上げた。
「だって、婚姻で縛り付けられるのはキミの奥さんだけじゃない。キミだって、縛り付けられるわけだろ? それはきっと、覚悟がなければ出来ない。それに、政略結婚とはいえ、別れる、なんて簡単には言えないよ。貴族なら誰だって、名誉を重んじるものだからね。支援する、とまで言える貴族はどこの世界を探してもキミだけだろうさ――僕が思うに、キミは奥さんとの距離感が掴めていないんじゃないかい? 僕に話したことをそのまま話せば、解ってくれるよ」
「そうだろうか……」
「うん、きっと」
遠くから鐘の音が聞こえる。日付が変わる合図と共に、冷たい風が草木を揺らした。
「僕はそろそろ戻るよ。また、風邪をひいたら今度こそ、劇団長に怒られてしまうからね」
「そうしたまえ。あまり劇団長殿を心配させぬようにな」
フリーナは立ち上がって伸びをしたあと、扉の取っ手に手を掛けた。
「おやすみ、銀の君――良い夜を」
「あぁ……おやすみ、ジェーン殿。良い夜を」
「た、ただいまー……」
人の気配のする屋敷に戻ってきた。帰る前にはなかった馬車が停まっていたことから彼は既に帰宅しているのだろう。フリーナはエントランスを見回して胸を撫で下ろす。
「良かった……」
「何が良かったのかね?」
いるはずがないと思っていた声が聞こえてきて、フリーナは大きく飛び上がった。
「い、い、いいいいつからそこに……っ!?」
胸に抱いた鞄を強く抱きしめる。そうしなければ、心臓が飛び出して来そうな気がした。隣を見れば、クロリンデはいつもの無表情で「おかえりなさいませ、ヌヴィレット様」と頭を下げていた。
「三十分ほど前だ。君こそ、随分と帰りが遅かったではないか?」
「うぅ……キミには関係ないだろう……? 所詮、お飾りの妻なんだ。クロリンデがいればどこへ外出していつ帰って来ようが構わないだろう?」
「しかし……」
ヌヴィレットの脳裏にフリーナの夢の中で見た少年の姿が過ぎる。あの夢が現実の再演だったのなら、今頃、彼女を探していることだろう。敷地内であれば自身の力が及ぶが、一歩外に出ればそうもいかない。
また、失いたいのか? ――ヌヴィレットの中で誰かが問うた。
「大公の妻としての体裁を蔑ろにしたりは――」
「駄目だ……君は何か勘違いをしているようだな」
話を遮られたフリーナが大きく目を見開いた。
あぁ、ジェーン殿。私は君の言う私にはなれないようだ。
「そもそも君は私の妻だ。ならば、夫の意見に意義を唱えることなどあってはならないのではないのかね?」
「な、なんだよそれ! そんな乱暴な理論が認められるはずがない!」
「理論も何も、妻は夫の所有物。それが罷り通っているのが貴族社会だと、斜陽とはいえ貴族の端くれならば、君も当然、知っているものだと思っていたのだが」
ヌヴィレットが無感情にフリーナを見下ろした。
怖い。
本能的な恐怖に足が竦む。
宰相閣下は人ならざる者である――と貴族たちがよく噂しているのを知っていた。
それはそうだ。彼はこの国を建国した英雄に名を連ねる者であり、五百年間ただの一度も宰相の座を降りたことなどないのだから。
「い、嫌だ……! そんな暴論、僕は認めない!」
「認める、認めないの問題ではない。君は私の言に従う義務がある。従わないのであれば、強引な手段……窓に鉄格子くらいは嵌めさせてもらおう」
ヌヴィレットの態度は変わらない。今も冷たい瞳でフリーナを睥睨している。
言い返すためのカードは手元にない。己がなに不自由なく生活ができているのは間違いなく、彼のおかげなのだから。
反撃は出来ない――追い詰められたフリーナが取ったのはとても人らしい行動であった。
「……逃げたか」
踵を返し、一目散に自身の部屋へと続く階段を駆け上がる。クロリンデのことも、ヌヴィレットのことも、全てを置きざりに、フリーナが取れる唯一の選択肢であった。
「彼女の専属として君を付けたのは失敗だったようだ」
ヌヴィレットは何事もなかったようにクロリンデに向き直る。
「お役に立てず、申し訳ありません」
少しも悪いと思っていなさそうな声と表情でクロリンデは言い放つ。
「何処に行っていたかは……」
「言えません。フリーナ様とのお約束ですので」
ヌヴィレットはため息をつく。ここで彼女に雇用関係を持ち出して脅すことは容易いが、その程度で揺らぐような人物ではないことは長い付き合いでよく知っている。寧ろ、専属であることを盾に取られ、こちらの立場が苦しくなるだけだろう。
「上手くいかないものだ……」
「差し出がましいことを言いますが、今回はヌヴィレット様が一方的に悪いです」
「分かっている……」
走り去っていった少女の顔が今でも鮮明に思い出せる。色違いの双眸は大きく開かれ、涙の膜を張りながらも逃げ出す直前まで一度も反らされなかった。
愚かだな、とヌヴィレットは自嘲する。彼女の幸せを願いながら、追い込むことばかりしている。
「……フリーナ殿のことは頼んだ」
「謝罪には行かれないのですか?」
謝罪――人間社会にはそんなものもあったな、と今更ながらに思い出す。
「私は……いや、今行っても逆効果だろう。きっと、彼女は私の顔をなど見たくもないだろうからな」
ヌヴィレットはもの言いたげなクロリンデの視線に気づかないふりをしながら歩を進める。階段に足をかけたところで足を止めると、執務室へと進路を変えて歩きだす。
動揺しているのが見て取れる動きにその一部始終を見ていたクロリンデは呆れたように息を吐き出した。
「まったく。困ったお方だ」
「いつになったらベッドを使うのかね、君は」
草木も、夜更かしな動物たちも寝静まり静寂が支配を強める深夜。
ヌヴィレットの姿はフリーナの私室にあった。
彼は冷え切ってしまっている少女を抱き上げるとベッドに腰掛けて華奢な身体を温めながら、枝だらけになった木々を眺める。もう、冬の入り口に差し掛かっているというのに、いつまで経っても薄い毛布と毛足の長い絨毯では、厳冬を乗り切るには心許ない。
だからといって、素直にベッドで寝てくれるとも思えない。そもそもヌヴィレットがこうして闇夜に紛れて訪れるようになったのも、彼女がクロリンデにも世話役のメイドにもこのことを悟られないようにしていたからだ。下働きのメイドたちにそれとなく聞いた限りでは、清掃に入るときにはしっかりと使われた形跡のあるベッドになっていると言っていた。
腕の中のフリーナに視線を戻す。縋るようにしてシャツの布を掴み、体を小さく丸めている姿は幼子のようで庇護欲を擽られる。月光色の青みがかった銀髪を手で梳けば、ふわふわとした見た目に反して、ヌヴィレットの指を引っ掛かりなく通していく。
「昨夜は酷い言葉を浴びせてしまってすまない……私はどうも君のことだと平静ではいられなくなってしまうようだ……」
目を閉じて、目蓋の裏に浮かぶのは業火とともに失われた賑やかな日々――もう二度と繰り返してはならないのだと戒める。
「……んんぅ~!」
腕の中のフリーナが抗議をするように手をあちこちに動かす。頬は赤く染まり、額には薄っすらと汗が滲んでいた。
どうやら、湯たんぽがわりの私は不要になったようだ。
彼女をベッドへと寝かせ、額へと唇を寄せたところで正気に返った。誤魔化すようにゴホンッと咳払いを一つする。
「おやすみ、フリーナ殿……良い夢を」