災い転じて福となす「足を運ばせてしまって悪かったね」
ヌヴィレットの手から書類をひったくったフリーナは、にこにこと笑った――未だ、ネグリジェ姿のままで。
ヌヴィレットは辺りを見回す。一日中、太陽を隠し続けた灰色の雲は雫をしとしとと降らせ、家路を急ぐ者たちの足を鈍らせている。次いで、懐から懐中時計を取り出して時間を確認すれば、針は午後の五時を少し過ぎた頃だった。
「それは構わないが……」
ヌヴィレットはフリーナの服に視線を移す。
薄手のネグリジェには無数の細かな皺が刻まれている。
それも、ついさっき付けられたようなものではなく、時間をかけて念入りに付けられたものだ。
肩にかけられただけの袖を通されていないカーディガンも今の時期に着るには不適切と言えた。フォンテーヌの気温はほぼ一定とはいえ、それはあくまでも昼間の話であり、雨季の時期の朝晩は冷え込む日も少なくない。それを知らない彼女ではないであろうに。
「体調はどうだ?」
「うん、大丈夫。軽い風邪だと思うから、寝ていれば治るよ」
そう言うとフリーナが咳き込む。激しく上下する背を撫でてやれば、しばらくして生理的な涙を浮かべた色違いの瞳と目が合った。
どうやら、咳は治まったようだ。
「ごめん……ありがとう。でも、移してしまっては悪いから、帰ったほうがいい」
ヌヴィレットの手から逃れるようにフリーナが半歩後ろに下がると誤魔化すように微笑んだ。頬には朱が差し、青色の瞳は蝋燭の炎のように不規則に頼りなく揺れている。
「……何か不便なことは? 食事は摂れているのかね?」
彼の質問にふっと沈黙が落ちた。そう思ったのも束の間のことで、フリーナは目を細めて笑いかけた。
「……うん。キミの心遣いは嬉しいけど、本当に大丈夫なんだ。食料品の備蓄もあるし、薬も……氷枕もあるからね」
――――嘘だ、と本能的に思った。先ほど、一瞬だけ感じた揺らぎは大きな湖にビーズを一粒落としたような些細なものだった。ともすれば、知覚すら出来ないほどに。
隠し事の得意なフリーナを相手にして、違和感を覚えただけでも及第点といったところだろう。
どんなに辛くとも助けを求めようとしない彼女の消えてしまいそうなほど微かな本音を掬い上げたヌヴィレットは腹を括ることにした。後悔はいつだって、小さな違和感を見過ごしてきたことで生じるものだったのだから。
「ヌヴィレット……? 何、を……」
左手をフリーナに翳して、力と精神を集中させれば、不思議そうに首を傾げていた彼女の目蓋がゆっくりと垂れ下がり、力を失った体がぐらりと傾いた。
「おっと……」
倒れそうになる体を抱きかかえる。淑女の体に不遠慮に触れるのは気が引けるが緊急事態だと自身を納得させて、膝裏に腕を差し込んだ。
「少し窶れたか……?」
横抱きにしたことでより距離の近くなったフリーナに問いかける。
返事はない。
当然だろう、意識を奪ったのだから。
抱きかかえる腕から伝わる体温は高く、未だ留まる様子はない。閉じられた下目蓋にはくっきりと黒い隈が浮かび、よく見れば肌も少し荒れている。
こんなことになるのなら、ずっとパレ・メルモニアにいればよかったのに――。柔い頬を撫でながら浮かんだ考えを外へと追い出す。やっとのことで自由を手にしたフリーナをもう一度、鳥籠へと押し込むようなことをしてはならないと自身を叱咤した。
「けほっ……」
フリーナが激しく咳き込んだことで、我に返ったヌヴィレットは、家主の許可すら得ずに家に上がり込む罪悪感を抱えながら、外へと続く扉を閉めた。
単身者用のアパルトマンはヌヴィレットには酷く手狭に感じた。必要最低限の備え付けの家具には体調不良で掃除すら儘ならなかったのか、薄っすらと埃が積もり、ソファには何枚かの服が中途半端に畳まれた状態で放置されていて、より狭さに拍車をかけている。今現在、フリーナが着ている寝間着も、ソファに置いてある服も、やはり、雨季の時期に着るには適していないように思えた。衣替えすらする余裕がないほど多忙であったのか、それとも体調が悪かったのか――あるいはその両方か。
ヌヴィレットは考えながら、ベッドへと足を運ぶ。ふと、彼女を寝かせるには小さいのでは、と思い、その考えに至った理由に苦笑する。どうやら自分は、フリーナに対して、いつまでも高慢で尊大な神なのだと無意識に思い込んでいる節があるらしい。
現実の彼女は時に笑い、泣き、怒り、感情を忙しなく変化させ、成長し、やがて全ての生き物と同じくヌヴィレットを置いてを去っていく普通の女性だというのに――。
そこまで考えて、ヌヴィレットは思考を断ち切った。
彼女の成長は喜ばしいことであり、同時に離別へのカウントダウンでもあるのだと、嫌でも自覚してしまったからだ。
自身の腕の中でふぅふぅと粗い呼吸を繰り返すフリーナを見遣る。熱の塊そのもののような肢体から熱が失われるそのとき――果たして平静でいられるのだろうか、と詮無いことを考えた。
「ぬゔぃれっと……? 悲しんでいるのかい……?」
不意に目蓋を半分だけ開けたフリーナがふわふわとした声で問いかける。焦点の合わない瞳はそれでもヌヴィレットを真摯に見つめていた。
――なぜ? ヌヴィレットは疑問に思った。彼女に掛けたはずの術が解けるには、まだ時間があるはずだった。ヌヴィレットは術を解いていない。では、彼女が?
困惑するヌヴィレットの頬に熱く柔らかなものが触れる。驚きのあまり大袈裟に体を揺らしたヌヴィレットを宥めるように、細い指が眼尻を撫でた。
「なかないで……」
それだけ言うとフリーナはゆっくりと目を閉じた。彼女が眠りにつくのと同時に頰を撫でていた指も重力に従い、遠ざかって行く。下へ下へと向かった腕は宙ぶらりんの状態で垂れ下がった。
ヌヴィレットは無言のまま、彼女の腕を体の上へと戻すと華奢な体をベッドへ下ろし、薄い毛布を掛ける。
「…………」
ヌヴィレットは少し考えた後、上着を脱いで毛布の上から掛けた。もう少し厚い毛布を探せばいい話なのだが、家主の許可なく家探しをするのも気が引ける。フリーナが起きた時にでも聞いてみようと頭の中に書き留めると、部屋の隅にあるキッチンへと足を伸ばした。
「……食料の備蓄すらないではないか」
何か消化の良いものでも、とキッチンの戸棚を物色したヌヴィレットは溜息をついた。整理整頓の行き届いた戸棚の中は空っぽで調味料ですら僅かしかない。この状況で備蓄はあると言い張った彼女の言葉を信用しなくて本当に良かったと自身の判断を褒めた。
「これは……」
調理台の上にあったメモを手に取る。果物や野菜などの食料品を始めとした消耗品の羅列された紙片は蚯蚓の這ったような文字で書かれており、辛うじて読める程度のものだ。常の彼女ならば考えられないほどの悪筆にヌヴィレットは眉をひそめる。それと同時に、ソファの上に放置されていた服の存在を思い出した。
点と点を繋ぎ合わせたヌヴィレットは再び溜息をついた。寒空の下、薄手の服を着て買い物に行こうなど重症化したらどうするつもりだったのだ、とフリーナを叱りつけたい気分になる。
「そんなに私は頼りないかね……?」
フリーナの眠るベッドに腰掛け、汗の滲む額を濡らした布で拭いながらヌヴィレットが呟く。拭った布を桶に戻したあと、額の上に氷嚢を置き、頭の下に氷枕を敷いた。
結局、氷は見つからず、後々何処かから仕入れてくる必要があるだろう。水だけしか入っていない氷嚢と氷枕でも気休めにはなる。
フリーナ殿、とヌヴィレットが呼びかけようと固く閉じられた瞳が開くことはなく、上下する毛布と上着がなければ死んでしまったのではないのかと勘違いしていたことだろう。
「少し出てくる」
聞こえていないと分かっていても声に出す。
彼女が目覚める前には戻れるといいのだが。
この状態のフリーナを置いていくことに多少の不安もあるが、何か食べさせねば治るものも治らない。
フリーナの文字の下に自身の文字が加わったメモを懐に収めたヌヴィレットはフリーナの家を出た。一度だけ振り返り、明かりの点いていない部屋の窓を眺める。
彼女なら大丈夫だろうという根拠のない信頼を刃に引かれる後ろ髪を断ち切った。
「ヌヴィレット……は帰ったのか……」
フリーナは氷嚢を退かしながらゆっくりと体を起こす。日が沈んだ室内は既に暗く、暗闇が窓の外と家の中の境界を曖昧にしていた。
ああ、喉が渇いた。
サイドテーブルに置かれたランプの紐を引きながら痛む喉を擦る。オレンジ色の仄かな光に照らされた室内を見回しながら、もう少し体調が良くなったら薬を買いに行こうと決意する。
「結局、迷惑をかけてしまったみたいだ……」
毛布の上にかかっていた上着に手を滑らせる。次に会った時、なんとお礼を言えばいいのだろう?
暫し、ヌヴィレットへの謝礼を考えていたフリーナであったが、頭の中は白い靄に包まれているようで何の役にも立たなかった。
フリーナは今後の課題として思考を放棄すると、慎重にベッドから降りて覚束ない足取りで壁を頼りにキッチンへと向かう。
「こっぷ……」
戸棚を開けてグラスを取り出し、水を注ぐ。椅子に座って、一口、また一口と嚥下する。痛みを訴える喉では水を飲み込むのも一苦労だ。
「掃除、しないとなぁ……」
埃の積もった部屋を見て、フリーナが独り言た。
問題は山程ある。掃除に買い物、仕事の締め切りだって近いし、ヌヴィレットへのお礼も考えなければ。
「けほっけほっ……ヌヴィレットが帰ってくれてよかった……」
こんな辛い思いを彼にさせるのは嫌だ。いや、彼でなくとも、誰かが自分のせいで辛そうにしている姿は見たくない。
「眠い……」
目をしぱしぱさせながら、水を飲む手を止めた。グラスの水はまだ半分ほど残っているが飲む気になれず、シンクへと置く。
後片付けは、一眠りしてからにしよう。
立ち上がったフリーナはベッドに入る前にクローゼットを開けて、いつもの衣装から神の目を取り外すとそのままベッドへと潜り込んだ。毛布の中で体を丸め、神の目を握りしめる。サロンメンバーは大家から禁止されているが、神の目を持っているだけでもみんながそばにいてくれる気がするのだ。ヌヴィレットの上着に神の目、これ以上にないくらい無敵の編成だ。
「ふふっ……大丈夫……大丈夫だよ、フリーナ。きっと寝ていればすぐに良くなるはずさ……」
薬も食べ物もないけれど、それに匹敵するくらいの心強い味方たち。
ふわぁ、と欠伸を一つしたフリーナは薄暗い毛布の中でとろとろと目蓋を下ろした。
「お薬は毎食後、きちんと飲ませてあげてね。熱が下がらないようならウチに教えて。診察にいくから」
「ああ。何から何までありがとう、シグウィン」
「お礼なんていいのよ。フリーナさんに元気になってほしい気持ちはウチも一緒だから」
薬をヌヴィレットに手渡しながらシグウィンが微笑む。ヌヴィレットも釣られるようにして口角を僅かに上げた。
「ヌヴィレットさんが元気になってよかった」
「私はいたって健康体だが……?」
頭に疑問符を浮かべながらヌヴィレットが首を傾げた。シグウィンは首を左右に振る。
「ここに来たときのヌヴィレットさんは、顔がとっても怖くてメロピデ要塞の皆が驚いていたの。あんなヌヴィレットさんは初めてだったから。きっとフリーナさんのことが心配だったのね」
シグウィンの言葉にヌヴィレットはバツが悪そうに目線を彷徨わせた。メロピデ要塞の者たちにまで迷惑をかけてしまったようだ。
「あ、でも気にしなくて大丈夫。顔が怖い人なんて沢山いるから、明日になったらみんな、忘れてしまっているのよ」
「君が言うのならそうなのだろう。私はそろそろ戻らねば」
話を打ち切り、ヌヴィレットが立ち上がる。見送りのために立ち上がろうとしたシグウィンをヌヴィレットが制止した。
「ああ、見送りは結構。君の診察を待っている者がいるようなのでな」
ヌヴィレットが視線を向けた先には喧嘩でもしたらしい傷だらけの男性二人の首根っこを掴み、歩いてくる公爵の姿があった。
「あら、大変。ウチの出番みたい」
「上までとはいえ、君が不在になることで起こる影響は大きい。また、休暇の時にでも会いに来てくれ。そのときはゆっくり話そう」
「ええ、そうしましょう。またね、ヌヴィレットさん」
シグウィンが手を振る。ヌヴィレットも小さく手を振った。
「ああ、シグウィン。また会おう」
フリーナが目を開ければ、そこは水の中だった。自分は神座に座し、壊れた諭示機を眺めていた。
「まさか……予言は終わったはず……」
吐き出した言葉は泡となり、声はごぼごぼと不明瞭な音になった。失敗――その二文字がフリーナの頭を過ぎる。
僕はみんなを助けられなかった――?
「は……はは、やっぱり、僕なんかには無理だったんだ……」
ごめんよ、ごめんなさい、と意味のない謝罪を繰り返す。赦されようなんて、赦して欲しいなんて思うことすら烏滸がましい。
ただ無意味に泣き喚くフリーナの手を誰かが取った。
「フリーナ!」
顔を上げれば、目映い朝焼けが眼前に広がっていた。
「遅くなってしまった」
パンパンになった紙袋を抱えたヌヴィレットは帰路を急ぐ。休暇届けを出すだけのはずがあちらこちらで呼び止められて、こんな時間になってしまった。まあ、理由は他にもあるのだが……。
「おい、ヌヴィレット様に連絡を入れろ!」
「入らないでくださーい! ここは危険です!」
「まだ、財布とか家に残ってるんだよ!」
戻ってきたヌヴィレットを迎えたのは大勢の人々だった。マレショーセ・ファントムや警察隊、写真機を構えた新聞記者に、アパルトマンの住民たちと大家。嘆く者、苛立ちを露わにする者、騒動をエンターテイメントの一つとして楽しむ者――数多の感情がヌヴィレットの元へ大波となって押し寄せる。その中にフリーナの感情がないことに気づいたヌヴィレットは近くの安全な場所に荷物を下ろすと人集りの最後尾に立ち、愛用の杖を突いた。
「静粛に。……何があった?」
ヌヴィレットの一言で辺りは水を打ったように静まり返る。ヌヴィレットが歩みを進めれば、人垣が割れて、花道が出来上がる。
「フリーナ様が……」
大家が青い顔をして言葉を紡ぐも途中で口を噤む。不自然に途切れた言葉に痺れを切らしたヌヴィレットはアパルトマンの方を向いた。
「これは……」
ヌヴィレットが言葉を失う。彼の目の前では大きな水の塊がすっぽりとアパルトマンを覆い尽くし、ヌヴィレットたちを嘲笑うかのようにゆらん、ゆらん、と不定形に姿形を変える。水の塊は自身の権能とよく似ている気配がした。
神の目の暴走
ヌヴィレットの聡明な頭脳はすぐさま答えを導き出した。
「……マレショーセ・ファントムと警察隊は協力して辺り一帯の封鎖を」
「はっ!」
マレショーセ・ファントムと警察隊の面々は敬礼をすると動き出す。一先ず、彼らはこれで十分だろう。
寧ろ、問題は――ヌヴィレットは集まった人々を睨めつける。今後のことを考えるのなら、此度の件は公にしない方がいいだろう。やっと静かに暮らせるようになったフリーナが住処を追われることがあってはならない。
何より、ここはヌヴィレットにとっても都合が良い場所なのだから。
「な、なんだ!? 霧が……!?」
「前が見えない!」
アパルトマンと周囲の建物に霧を作り出し、結界を張る。もし、規制線を乗り越えて入ってくることがあったとしても、外側へと戻されることだろう。
「私が安全を確認してくる。君たちはそこで待機をしていてくれ」
ヌヴィレットの指示に部下たちが再び敬礼をする。彼は満足そうに頷くとアパルトマンの扉を開けた。
建物の中は外と同じように水で満たされていた。神の目によって発生した水は息が出来た。
ヌヴィレットは泳いでフリーナの部屋を目指した。途中、浮力によってぷかぷかと浮かぶ家具たちを避けながら危なげなく進んでいく。
「フリーナ殿、私だ。鍵を開けてくれ」
扉をノックする。幾ら待っても返ってこない声にヌヴィレットの中で焦りばかりが募っていった。
「……っ! 開けるぞ!」
痺れを切らしたヌヴィレットは合鍵を取り出し、鍵穴に差し込んで回すと、乱暴に扉を開けて中へと侵入した。
「フリーナ殿……!」
神の目を抱きかかえるようにしてベッドに蹲るフリーナを発見したヌヴィレットは手の中で煌々と輝く神の目を奪い取ると床へと投げ捨てた。
フリーナを抱きかかえ、強く揺すってみるも目を覚まさない。焦燥感に駆られるヌヴィレットの足元では力の供給先を絶たれた神の目が徐々に光を失い、それに伴いアパルトマンを満たしていた水も引いていく。
「フリーナ!」
「――――けほっ! けほっ! ヌヴィレット……? どうして……って、うわぁ! どうしたんだい……?」
目覚めたばかりのフリーナは事態が飲み込めず、目を白黒させた。ジメジメとした室内に、びしょ濡れの自身とヌヴィレット。ヌヴィレットに至ってはフリーナを抱きしめたまま沈黙を守っている。
「お、おーい……ヌヴィレット……いい加減離してくれないかい……?」
フリーナの肩に顔を埋めたヌヴィレットが首を左右に振った。彼にこうして抱きしめられたまま、随分と長い時間が経った気がする。
「ヌヴィレット! こんなところを誰かに見られたら……!」
力の入らない拳でヌヴィレットの胸をぽかぽかと叩くも、彼はより強くフリーナを抱き締めるだけで何の成果も得られなかった。
フリーナの努力を嘲笑うかのように、複数の足音が駆けてくる音が聞こえ、同じような制服を着たメリュジーヌと人の混成部隊がフリーナの部屋の前で停止した。
「ヌヴィレット様! フリーナ様! ご無事ですか!?」
「あ……」
「あ……」
マレショーセ・ファントムや警察隊の面々と目が合い、フリーナも誰も彼もが口をぽかんと開けたまま静止した。
それから彼ら、あるいは彼女らは一糸乱れぬ華麗なターンを決めると全力疾走で来た道を引き返して行った。
「し、失礼しましたーー!」
「――――あぁ、待っ……!」
引き留めようとするも時既に遅し。フリーナが我に返った時には青色の制服を着た群れは見えなくなっていた。言いふらすような者たちではないことは重々承知しているが、今後、彼らからの見られ方が変わることは明らかだろう。
「おい、キミのせいだぞ! 僕らが恋仲だと勘違いされてしまったらどうするんだ!」
「させておけばいい。それよりも君は休みたまえ」
ヌヴィレットが手を上げる。フリーナはその手を掴むと指と指の間に自身の指を絡めた。
「さっきはしてやられたけど今度はそうは行かないぞ!」
「……離したまえ」
ヌヴィレットの眉間に皺が寄る。彼の耳が薄っすらと朱に色づいたことを興奮状態のフリーナは気が付かなかった。
「嫌だね! また寝かせる気だろう!」
「……今、君の体に一番必要なものは休息だと思うが?」
「それは……そう、だけど……!」
くぅぅ……
言い争いをする二人の声を遮るように間の抜けた音が響く。ヌヴィレットが目を僅かに見開いてフリーナを見れば、彼女は即座に顔を横に背けた。
「フリーナ殿……」
「ぼ、僕じゃない……僕じゃないぞ……」
ふわふわとした淡い髪の隙間から覗く耳は赤く染まり、風邪の発熱とはまた違う熱が絡めた指先から伝わってくる。
「……ふっ」
「わ、笑うなぁ……! しょ、しょうがないだろ……こんな時間なんだ。お腹くらい減ったって……」
ヌヴィレットが繋いでいない方の手でフリーナの頬や首に触れる。まだ熱いな、と彼の口が音を紡いだ。
やんわりとフリーナの手を解いたヌヴィレットは立ち上がるとアパルトマンの中に残っていた水元素の痕跡を消し去った。しっとりと濡れて色を変えていたフリーナとヌヴィレットの服や髪も本来の色を取り戻していく。
「少し休んでいてくれ。外を片付けたら何か作ろう」
「え、あ、そこまでしなくても……」
「君の言っていた食料の備蓄とやらがないことは調査済みだ。薄着で外出をして、私や周囲の者をより心配させたいと言うのなら話は別だがね」
フリーナは考える。健康な状態であったなら言い訳の一つも思い浮かんだのかもしれないが、熱で煮え滾る頭ではまともな言い訳一つ浮かんで来やしない。ただでさえ、ヌヴィレットには迷惑をかけているのだ。これ以上、彼の負担を増やすのも忍びない。
「……大人しく待っていることにするよ」
「そうしたまえ……まだ何か?」
フリーナがヌヴィレットの服の裾を握る。何か不手際があっただろうか、と首を傾げるヌヴィレットにフリーナは躊躇いがちに口を開いた。
「そ、その……なるべく早く帰って来て欲しい…………なんて……ね……は、ははっ……わ、忘れてくれっ……!」
顔を真っ赤にした染め上げたフリーナは素早い動きで毛布を被ると小山を築いた。ヌヴィレットはその上から自身の上着をそっと掛けると頭と思しき丸みを撫でた。
「善処しよう」
慈愛をたっぷりと含んだ声でヌヴィレットが告げる。毛布越しのフリーナはもこもこと動きまわり、やがてこくりと頷いた。
「では、行ってくる」
ヌヴィレットが玄関からフリーナに呼びかける。暫しの沈黙の後、「いってらっしゃい、ヌヴィレット」という少し掠れた彼女の声が聞こえた。
事件の処理が終わったヌヴィレットは鍵を開けると忍び足で歩を進める。
「ただいま」
自宅ではないが、なんとなく、それが適切な言葉の気がして口にした。
返事を待ってから、返ってこないことに安堵する。部屋の明かりが点いていない時点で予想はしていたが、やはり眠っているらしい。
ヌヴィレットはテーブルに紙袋を下ろすとそっとベッドを覗き込んだ。
「……上がってきたか」
小さな額に手を当てる。シグウィンから貰ってきた薬が効力を発揮すればいいのだが。
ヌヴィレットはフリーナの頭を一撫ですると、紙袋から購入したものを取り出し、それぞれ空いていた場所に入れていく。後でフリーナに場所を聞こうと考えながら。
「ふむ……」
買ってきた物を一時的に収めたヌヴィレットはまな板と包丁を取り出すとテーブルに残しておいた野菜や肉を手に取った。本来、食べずとも生きていける体ではあるが、フリーナと数百年を共にしたことでヌヴィレットは空腹というものを理解していた。火を通した水、野菜や肉を煮込み、塩や胡椒で味を付けたスープ、茶葉で香りを抽出した紅茶――同じ水でありながら、調理法一つで趣が変わることをフリーナから教わったヌヴィレットが料理に興味を持つのは至極当然のことだった。
ヌヴィレットは買ってきたミネラルウォーターの封を切ると鍋にいれ、火にかける。切った野菜と肉、少しの香辛料を入れてじっくりと煮込み、浮いてくる灰汁を丁寧に掬っては捨てる事を繰り返す。最期に塩で味を整えれば出来上がりだ。
「いい香りだね……ポトフかい?」
ヌヴィレットの横から顔を出したフリーナは寝起き特有の声で問いかけた。
「ああ。もうすぐ出来るから座っているといい」
ヌヴィレットの言葉に甘えることにして、椅子に腰を下ろす。コトコトとリズムを刻む鍋の音にフリーナのがうとうととし始める。
「フリーナ殿」
心地良いテノールがフリーナの名を呼んだ。まだ重い目蓋を無理矢理に持ち上げた。
フリーナは緩慢な動作でテーブルから顔を上げると、変な跡がついていないだろうか、と思いながらぺたぺたと自身の顔を触る。
「僕……どれくらい眠っていたの?」
「十分ほどだ。君の顔に変化はない、安心するといい」
相変わらず鋭いヌヴィレットにフリーナは再びテーブルに突っ伏した。ああ、お見通しか、と少し恥ずかしい気持ちになる。
「すまないが、手を退けてくれ。食事の準備が整わない」
「あぁ、ごめん……僕も手伝うよ」
「結構だ。君は治すことだけを考えたまえ」
取り付く島のないヌヴィレットの態度にフリーナは不承不承ではあるが従うことにした。
そうしている間にも彼は慣れた手つきでテーブルを拭き、スープ皿やパンを並べていく。
「キミってさ、意外に器用だよね」
「そうだろうか?」
スープ皿にスープを盛り付けながらヌヴィレットは頭を傾けた。ほかほかと温かそうな湯気をたてるポトフは香辛料の香りも相まって食欲を唆る。
「ありがとう、頂くよ。……これは鶏肉だから、プール・オ・ポだね」
スプーンで掬って口に運ぶ。食べやすいように解された丸鶏は柔らかく、ほろほろと崩れていく。野菜は固すぎず、かといって柔らかすぎない絶妙な火の通り具合で食べやすい。
ヌヴィレットの顔を盗み見ながら、フリーナは考える。
彼ならば、得意料理のコンソメスープを好んで作るだろうと思っていたので少し意外だったのだ。
また一匙スープを啜る。灰汁を丁寧に取ったことで濁りのないスープからは彼の拘りをより強く感じられる。
ソーセージや獣肉を使って作るポトフより手間のかかるプール・オ・ポを選んだのは鶏肉を使うからだろうか。獣肉より脂質の少ない鶏肉の方が弱っている胃腸には優しく消化に良いということは一人暮らしを始めてから知った。あのヌヴィレットのことだ。キッチンを見ただけで僕がここ数日、まともな食事を摂れていないことなどお見通しだったのだろう。
「泣いているのか……?」
「えっ……? なんのことだい……?」
顔を下に向ければ、スープの水面に泣いている自身の姿が映り、ぽたぽたと雫が落ちるたびに波紋を作っては消えていく。
ああ、なんて情けない。
泣いていることを自覚したフリーナの瞳からは大粒の涙がこぼれる。止めなければ、と思えば思うほどにこぼれ落ちる雫は量を増す。
「ごめん……ちょっと待っててくれ……」
向かいにいたヌヴィレットが立ち上がり、フリーナの隣に膝をついた。先ほどとは違い、ぎこちなく彼女の体を抱き寄せると、ぽん、ぽん、とあやすように背を叩く。
「風邪を引いたときは、人恋しくなると聞く。つまり、君の涙も孤独感も当然のことと言えるだろう……恥じることはない。人ならば当たり前に持っている感情だ」
ヌヴィレットの声に、言葉に、安心感を覚える。実を言えば、一人でベッドに眠るだけの生活は酷く寂しかったのだ。
「辛かったら声をあげたまえ。私は君を一人にはしない」
今度こそ。
孤軍奮闘してきた彼女の手を離すことはしない。辛いとき、寂しいとき、とんなときでもフリーナのそばにいたいと思う。例え、ヌヴィレットが手を下すことの出来ない壁が立ちはだかろうとも。
沈黙が降りる。
ヌヴィレットは辛抱強くフリーナの返答を待ち続けた。
「……本当に?」
フリーナが発した無垢な疑問。怯えに満ちた瞳がヌヴィレットを捉えた。
「ああ。何でも言うと良い。ここには君と私の二人だけなのだから」
すっかり短くなってしまった髪を撫でる。ふわふわとした手触りは彼女の人柄によく似ていた。
「頭が痛いんだ……」
「そうだろうな。氷がある。後で冷やそう。少しは良くなるはずだ」
フリーナが頷く。
「……熱い、寒い」
「熱があるのだから仕方がない。薬を貰ってきた」
「苦いのやだ……」
「リオセスリ殿から菓子を預かっている。薬を飲んだ後に食べると良いそうだ」
フリーナは抗議の声を上げる代わりにヌヴィレットの胸元で頭をぐりぐりと押し付けた。大方、シグウィンや公爵の善意を無下にしたくはないが、薬は飲みたくないとでも思っているのだろう。
「飲まなきゃダメかい……?」
「飲まねば良くならない」
「む〜……ヌヴィレットのいじわる……」
「意地悪をしているつもりはないが……?」
「僕にとっては意地悪なんだ!」
泣いたり、怒ったり、理不尽なことを言うフリーナはヌヴィレットにとってはずっと望んでいた姿であった。不平不満を押し隠す彼女が風邪を言い訳に、少しでもその重荷をヌヴィレットに共有してくれるのならば、これほど喜ばしいことはない。
ヌヴィレットはフリーナが泣き止むまで、彼女の話を聞いていた。
「すまない。起こしてしまっただろうか?」
眼前にヌヴィレットの顔があった。彼の手には濡れた布巾が握られ、奥には水の入った桶も見える。
「ううん、たまたま目が覚めただけ……まだ帰っていなかったんだね」
フリーナが気怠げに微笑んだ。ヌヴィレットはベッドに腰掛けると体温を確かめるかのように頬に触れた。
「まだ少し熱いか……峠は越えたようだが、まだ予断は許さない状況だ。体力を消耗する行為は避けるように」
ヌヴィレットの手がフリーナの目を覆う。彼の手はひんやりとしていて、気持ちがいい。
フリーナがほっと息を吐き出した。
「ごめん……」
「なぜ、謝る?」
「キミに迷惑をかけた……食事も……財布はそこにあるから、使った分は回収しておいてくれ……今日はありがとう……移る前に帰った方が……」
「断る」
「で、でも……っ」
フリーナの言葉を遮ったヌヴィレットはきっぱりと言い放つ。思わず体を上げたフリーナに彼は不敵に口角を上げてみせた。
「私に人間の風邪が移るとでも?」
暫しの沈黙。
フリーナがくしゃりと髪を掻き上げながら笑い出す。
「ふ……ふふふ……はははっ……それもそうだ……そうだった……」
笑っていたフリーナが今度は激しく咳き込んだ。ヌヴィレットが慌てて彼女の背を擦る。
「ごほっ……こほっ……ごめん、大丈夫」
咳が治まったフリーナをベッドへ横たえて上から毛布をかける。食後、厚手のものに替えたことで必要のなくなった上着はハンガーに掛けられていた。
「おやすみ、フリーナ殿」
ヌヴィレットが踵を返す。彼の背後にあるテーブルに書類が積まれているのが見えた。仕事をしながら看病をしてくれているのだと思うと、なんだか申し訳ない気持ちでいっぱいになる。だが、今ここで「帰れ」と言っても彼は頑として頷かないだろう。
(ねえ、フリーナ。少しくらい、自分の気持ちに素直になってみてもいいんじゃないか? ヌヴィレットも風邪のときは人恋しくなるって言っていただろう?)
悪魔の囁きのような弱気な心の声に耳を澄ます。フリーナは心の中で首を左右に勢いよく振った。
(いいや、甘えるな、フリーナ。これ以上、彼の仕事の邪魔をしてはいけない。ただでさえ、神の目のことで彼やパレ・メルモニアのみんなに余計な仕事を増やしたのだから)
「どうかしたかね?」
ヌヴィレットの声で現実に引き戻される。彼の目が一定の場所で固定されているのを不思議に思い、視線の先を追えば、フリーナの手がヌヴィレットのシャツの裾を掴んでいた。
「……ちょっとした悪戯さ。びっくりしたかい?」
急いでヌヴィレットのシャツから手を離して笑って見せる。
我ながら、なんて苦しい言い訳をするものだ。
おどおどと視線を泳がせるフリーナにヌヴィレットはため息を漏らすとくるりと向きを変え、彼女と向き合うようにしてベッドに腰掛けて華奢な体を抱き締めた。
「ヌ、ヌヴィレット……!」
フリーナが羞恥心と困惑の入り混じった声を上げた。ヌヴィレットは意にも返さず、不遠慮に彼女の背を撫でる。
「辛かったら声を上げろ、と言ったはずだが?」
厳しい口調とは裏腹にその声と背を撫でる手つきは存外優しかった。背を撫でられる感覚と彼の言葉にフリーナの涙腺が緩んでいく。
「優しくしないで……今、キミに優しくされたら泣きたくなってしまう……」
「それは良いことを聞いた」
「だ、だめだぞ……僕を甘やかさないでくれ……」
ぽろぽろ、ぽろぽろと止め処なく流れる雫はヌヴィレットの肩を濡らす。フリーナはしゃくり上げるようにして声を上げて泣き出した。
「一緒に寝よ?」
「フリーナ殿、それは……」
泣き止んだフリーナがヌヴィレットの袖を摘んで上目遣いに彼を見上げた。
落ち着け、とヌヴィレットは自身を叱咤する。
「やっぱり、だめだよね……?」
言い淀むヌヴィレットにフリーナは諦めたように袖から手を離すと、もぞもぞと毛布を口元まで被った。
「……はぁ」
「我儘言ってごめん……ちょっとした冗談なんだ……」
「冗談ではないのだろう? 君はもう少し、我儘になったほうがいい」
ヌヴィレットは毛布を剥ぐとフリーナの隣に体を滑り込ませた。シングルベッドは二人で寝るには些か不向きな大きさだ。
「他に要望はあるかな? 私に出来ることであれば応えよう」
たっぷり時間をかけてからフリーナが眠そうに口を開いた。
「……手を……手を繋いで欲しい」
フリーナがヌヴィレットに手を伸ばす。その手を掴めば、フリーナがへにゃりと気の抜けた、幸せそうな笑みを浮かべた。
「満足かね?」
ヌヴィレットの問いかけにフリーナが頷く。
「うん。とても……ありがとう、ヌヴィレット」
フリーナの眼が閉じられる。
「おやすみ、ヌヴィレット……また明日……」
「おやすみ、フリーナ殿。また明日」