ヌヴィレットが彼女に出会ったのは偶然だった。知り合いに無理矢理連れられて行った娼館でヌヴィレットは幼馴染の少女を見つけた。
「フリーナ…?」
自分の酌をしようとしていた少女の腕を掴む。
「だ、誰…?」
本来であれば客の相手をするような年頃ではないのだが、彼女は舞と歌、何より一人芝居に長けていた。高級娼婦の中でも他にはないという取り柄ということもあり、年齢を差し引いても、引く手数多の娼婦であるらしかった。
「いや、すまない。…知り合いに似ていたもので。」
慌てて強く掴んでいた腕を離す。その様子を見ていた娼館の館主が手揉みをしながらやって来る。
「気に入りましたか?でしたら、一晩はこれくらいですぞ。」
提示された値段は、法外とまでは行かないがそれなりに高かった。まあ、ヌヴィレットの感覚からすれば端金の様なものだったが。
「…では、一晩。」
ヌヴィレットがそう言えば、ほら、ご案内しろ!と館主がフリーナをせっついた。
「…あ、えっと…こちらです。」
フリーナの案内で大広間を出る。後ろでヌヴィレットを連れてきた知り合いがピュウと口笛を吹いて茶化すのを一睨みで黙らせた。
長い廊下を歩きながら、ヌヴィレットはずっと探していた幼馴染が見つかった事に安堵の溜息を吐いた。
ああ、早く連れて帰りたい。と、ヌヴィレットの中で欲が芽生える
「えっと、僕に何をして欲しい?」
部屋に招かれ、ベッドに座らせられる。
「お酌?歌?踊り?朗読劇?…それとも夜伽?」
最後の言葉だけが震えているのが分かる。そんな彼女の目には若干の恐怖が浮かんでいる。
「では、歌と踊り。…その後は君にしか出来ないという朗読劇を。」
ヌヴィレットの言葉に、フリーナが安心したかの様な笑みを浮かべた。
「うん。それなら僕の得意科目だ。最高の舞台をご覧頂こう。」
美しいカーテシーをして、歌い、舞い踊るフリーナ。君は少しも変わらないな、とヌヴィレットは音に乗せずに言った。
美しい旋律に耳を傾けながら目を閉じる。思い出すのは、彼女がいなくなったときのこと。
「残念だったな。」
下卑た笑みを浮かべた男はヌヴィレットを見て嘲笑う様に言った。
「お前が求めていたあれは娼館に売っ払った。」
ざまあみろ、と言いながら衛兵に連行されていった男。ヌヴィレットはその場で一人立ち尽くした。
「フリーナ…」
唇を噛み締めてこみ上げてくるものに堪える。思い出すのは幼い許嫁。
決してあの男からいい扱いを受けて来なかった少女はそれでも懸命に知識を吸収していた。ヌヴィレットが会いに来れば、これが出来る様になった、あれを先生に褒められた、と楽しそうに報告してくれていた。
その時のフリーナの顔には痣があった。あの男に殴られたのだろう。平民の生まれでありながら、その見目の良さからフリーナは貴族に養子として引き取られ、ヌヴィレットに充てがわれた。それも彼女の養父を密告するまでであったが。
ヌヴィレットは養父とフリーナを引き離す為に、男の不正を国に密告した。そうすれば、フリーナを保護下に置けると考えたからだ。…今思えば、なんと浅はかで愚かな考えだったのだろうと分かるけど。
「お客様?」
フリーナが目の前で心配そうに手を伸ばす。そのままヌヴィレットの額に触れた。
「具合でも悪い…?」
ああ、君は少しも変わらない。その優しさも純粋さも。
「すまない、少し見惚れていた。素晴らしい歌と踊りだった。」
過去の君も今の君も愛してる、とは言えない。ヌヴィレットには言う資格がない。ここに彼女がいるのは紛れもなくヌヴィレットのせいなのだから。
素直に感想を伝えれば頬を赤く染めてありがとう、とはにかむフリーナ。その様子に欲だけが膨らんでいく。
額に添えられている手を掴んで、引き寄せればフリーナは容易くヌヴィレットの腕の中に納まった。
「お客様!?」
怯えた様子のフリーナに何もしない、と言えば力を抜きなすがままになっている。
「どうか、ヌヴィレット、と。」
懇願するように告げれば、フリーナがヌヴィレット、と声を紡ぐ。その様子が嬉しくて年甲斐もなく心が踊る。そのままベッドに倒れ込んで彼女を抱き込んでベッドに横になる。
「寝るの?」
フリーナに問われてああ、と肯定する。
「じゃあ、子守唄でも歌ってあげよう。」
柔らかな旋律が耳を擽る。心地良い感覚に包まれながら二人は眠りに落ちていった。
それ以来、ヌヴィレットは週に一、二回ほどフリーナの元を訪れる様になった。
高価な宝石や立派な屋敷の権利を携えて、フリーナの一晩を買い、舞踊や歌、一人芝居に夢中になる者が多い中、ヌヴィレットは甘いお菓子を持って来てはフリーナの何でもない日常に耳を傾けた。そして、持ってきた菓子を頬張るフリーナを見ては頬を撫で、眦を下げる。
そんな日を繰り返す内に、ヌヴィレットとフリーナの間で身請け話が立ち上がる。
今夜もヌヴィレットに買われたフリーナは、彼の腕の中で貰った飴玉に舌鼓を打っていた。瓶に入った飴玉は赤や黄色、緑や青と色彩に富んでいてフリーナの目を楽しませていた。
「…身請けの話は聞いただろうか?」
目下の懸念事項が出て、フリーナは緊張で固まる。
そんなに緊張しないでくれ、とヌヴィレットはフリーナの頭を撫でる。
「元々、私から言い出した話だ。断ってもいい。」
優しい声と手つきで撫でられて、フリーナは不意に泣きそうになった。
少し、昔話をしよう。とヌヴィレットが切り出した。
「私には、昔、許嫁がいた。努力家で愛らしい娘だった。」
何故、こんな話をするのだろう?とフリーナは思う。ヌヴィレットの話を聞く内に、彼がその許嫁を深く愛していたことが分かる。いいなぁ、なんて思ってしまった。フリーナはこの短い間に彼に恋をしてしまったのだから。耳を塞ぎたい気持ちになったとしても、フリーナにはそれが許される立場にないのもよく分かっている。
「これが私の許嫁の話だ。」
ヌヴィレットがそう締めくくり、部屋に沈黙が訪れる。ヌヴィレットはフリーナのジャボに付いている朝焼け色の宝石を撫でた。
「君が、私の許嫁だったと言ったら君は信じてくれるか?」
言われて、息が止まる。辛うじて、嘘だ、と零したフリーナにヌヴィレットは嘘じゃない、と優しく言った。
「この宝石は私が許嫁の君に贈ったものだ。」
私の瞳と同じ色だろう?と言いながらヌヴィレットは、フリーナの顔を覗き込む。美しい朝焼けにはフリーナがいた。
ーーー僕の宝石と同じ色だ。
「でも、僕、何も覚えてなくて…。」
フリーナにはここに来る以前の記憶がない。ただ、館主からは教えるまでもない程の教養を兼ね備えていたとは聞いていた。恐らく、どこぞの没落貴族の娘なのだろう、と。
これ程までに彼に愛されていた癖に、全てを忘却の彼方に置いてきてしまった自分に恨みが募る。ヌヴィレットはそれでもいい。と言った。
「君の忘却は当然だ。辛い現実から逃れる為の人としての本能だ。…忘れていてもいい。私は、今の君に恋をしたのだから。」
息を呑む。ヌヴィレットも同じ気持ちだったのかと。ならば余程、僕たちは一緒に居ないほうがいい。
「僕の身体は綺麗じゃないよ。…とっくに処女だって喪ってる。」
言ってて悲しくなる。こうやって話すと改めて自分が普通の少女ではないんだと。
いくら高級娼婦と言えど、夜伽をしたことがない者などいない。フリーナもその例に漏れなかった。
「構わない。…寧ろ、その責は私が負うべきものだろう。」
フリーナの手を握り指を絡める。
「愛している、フリーナ。…誰よりも。」
その言葉を聞いて、フリーナの目からは涙が溢れる。フリーナは何度も、何度も僕でいいの?と問うた。
その度にヌヴィレットは彼女にああ、と短く返す。フリーナに優しくキスの雨を降らせながら。
数日後、とある少女が身請けをされて花街から盛大に見送られた。白いドレスを身に着け、立派な馬車に乗せられた少女は、一人の紳士に連れられて、それはそれは幸せそうだったそうな。