ぶいえいちえす(仮題) 今日は定時であがろうと、残業なんかしてやるもんかと、ちょうどロッカーから上着を取り出した時だった。足音はほとんど無かったが、誰かが近くに来た、とわかった。直感だ。
「先輩、もう上がるんですか?」
「……上がるけど何」
「まだ上がらないでくださいよ。僕と一緒にステキな残業をしましょう」
その声の方向を見ると、陸川がうさんくさい薄笑いを浮かべて長方形の何かを扇のようにひらひら揺らしながら立っていた。透明なケースに入った、表面に何も書かれていないラベルが貼られた黒い長方形が、彼の左手に握られている。「あ?バカ、俺はもう帰るんだよ」空田が眉間に皺を寄せて言うと「じゃあ、お願いなので。一生のお願い」わざとらしく手を合わせて『おねがい』のポーズをする。
「それ前も言ってたろ。何回目の一生だよ」
空田は取り出そうとしていた上着を無造作にロッカーに突っ込み直し、扉を乱暴に閉めた。ガシャンと盛大な音が鳴る。そして大きなため息をひとつすれば、陸川が「お礼はしますよ、ええ。多分」と相変わらず口が笑っていても目が笑っていない顔で言う。空田はためらわずふたたびさらに大きなため息を吐いた。
少し演技臭い声で、
「じゃあその何回目なのかわかんねえ一生のお願いを叶えてしんぜよう。よろこべバカ川」
言うと、陸川もふざけた声で返す。
「きゃー助かりますー、パワハラ田さん」
「うるせー、ばーか」と返せばすぐさま「小学生並みの罵倒ですね」という煽りが返ってきた。その煽りに返事はせず、ロッカーにもたれ、陸川の手の内にある物を見つめた。「で、何」「これです、これ」空田は鼻で笑った。
「なんだよ、呪いのビデオとか言うわけ?」
「そうだと言ったら?」
「俺は定時帰りを敢行する」
「じゃあ違います」
「じゃあって何だよじゃあって……」
陸川の手に握られているそれは、VHSという、かつて家庭用ビデオテープとして広く普及したものであった。二十一世紀に入り加速度的に衰退し、地デジ化あたりでぱったり見なくなり、二〇一六年にはVHSデッキの生産も終了した。『過去の産物』、そう呼んで申し分ない存在だ。空田でさえ、姉が持っていたアニメ映画のビデオテープをほんの幼い頃に一緒に見たか見てないか程度の記憶であるから、空田より二つ下で兄弟もいない陸川はなおのこと縁遠い代物だろう。
空田は陸川とともに廊下を歩き出しながら、聞いた。
「それ、どうしたのさ」
陸川はしばらく黙って、窓の外を見る。陸川の二歩うしろを歩く空田も、つられて目線を窓の外にやった。窓の外には、人のつくる町の灯りの絨毯が広がっている。その明るさに星が負けて、空は真っ暗だ。
「大学時代の知人が、」
窓のガラスに映り込む陸川の顔が、浮かない表情をしている気がした。空田は遮って口を開こうとしが、しかし、ちょうど声を発しようとしたそのとき、陸川が空田を振り返った。その顔は相変わらずのうさんくさい笑顔だった。
「どうにかしてくれって、怪対課の窓口を通して僕に渡してきました。それだけのことです」
「ちょっと質問いい?」
「内容によります」
「それだけって言ったってさ。わかんねえよ。詳しく教えて?」
陸川が考えるように一瞬真顔になって、黙った。それからしばらくしておっくうそうに口を開く。
「僕、大学時代、オカ研に入ってたんですけど。話したことありましたっけ」
「初耳だけど」
空田がそう答えると「そうでしたっけ。まあどうだっていいです」陸川は続ける。
「今回頼んできた知人はそこで知り合った奴なんですよ。特段仲が良かったわけでもないしむしろ馬が合わないタイプだったんですけどね。あの人はなんというか……怖い物知らずというか、向こう見ずというか……どう言えばいいのやら。大雑把に言うと火に油を注ぐような輩なんです」
空田がなんとなしに「お前と似てんじゃん」と言うと、いつも笑顔――わかりやすい作り笑い――の陸川が珍しく嫌悪感をあらわにする。「やめてくださいよ虫唾が走る」
「んで?その知人さんは今回も興味本位で首突っ込んだっけやばいことになったってワケ?」
「……はい、大正解。と、言っても“多分”大正解、ですが」
「多分って?」
「詳しいこと言わずにこれ渡すだけ渡して帰ったんですよね、あの人」
陸川はVHSと一枚の小さな紙を空田に手渡しながら、ふざけた声色で、
「正解した先輩には正解のご褒美にこれを差し上げましょー」
「ご褒美って、何様だよ」
空田は鼻を鳴らしながら手渡されたそれを受け取った。紙の方はどうやら、ポイントカードとかメンバーカードとか、そういった類いのものらしい。といっても店名などは何も書いておらず、ただ名前の欄に「植野慎」と書いてあるだけだった。陸川の言う「知人」の名前だろう。
「よくもまあ自分で藪つついて出した蛇を他人に寄越すもんですよ」
陸川の独り言じみた呟きに特に何か反応するでもなく、空田はケースからVHSを取り出してまじまじとそれを観察した。ラベルには黄ばみや多少の汚れはあれど、やはり何も書かれていない。左右の窓からは、巻かれた黒いテープが見える。ひっくり返して裏を見てみても、ただテープを巻くための白い丸い窪みがあるだけで何もおかしなところは見当たらない。「外見はまあ、フツーだな。中は見たのか?」そう言って陸川に返した。陸川は受け取りながら答える。
「さっき少しだけ見たんですが、内容は……“僕には”何の変哲も無いように見えました」
「“僕には”?」
「何か感じはするんですが、はっきりとは僕にはわかりませんでした」
陸川は再び歩き出しながら、ひらひらとVHSを手の内で揺らしたあと、バトントワリングのように宙に放ってうまくキャッチする。空田が苦言を呈そうとすると「手持ち無沙汰なので」そう先手を打って今度は、バスケットボールを人差し指の上で回すのと同じ要領でビデオテープを指でくるくると回す。手持ち無沙汰というよりは、「あんな奴なんて正直助けてやりたくない」と口で言う代わりにそうしているとでも言った方がいいような仕草だった。空田は呆れるのも怒るのも面倒くさくなって、ただ、器用だなと感心した。「先輩なら、僕よりもちゃんと視えるだろうし、聴こえるだろうと思って。頼みたくって」
「それを先に言えよ。残業しましょとか言うからなんかやべー面倒ごと押しつけられるのかと思ったわ」
前を歩く彼が少しだけ顔を向けて、目線をこちらに寄越した。
「これも“やべー面倒ごと”、では?」
空田は笑った。「そうかも」「でしょ?」陸川も笑う。少なくとも先ほどまでの笑顔よりは、自然な笑顔だった。
怪対課ではビデオデッキの付いたブラウン管テレビを所有している。時折、心霊映像が映っているだとか呪われてるだとか何とか依頼が入って、ビデオテープが持ち込まれるのだ。といってもビデオテープ文化が下火になって久しい最近は、そのテレビも第一資料室の隅の棚の中のそのまた隅に埃まみれでしまわれているのだが。
第一資料室の扉を開けると、まず先にカビ臭い空気が二人を迎えた。資料でいっぱいいっぱいになった棚が部屋の奥までずらりと並んでいる。資料棚の森をかきわけて、空田は奥へと進んだ。部屋の奥には資料を見るときに使う大きめの机とパイプ椅子が置いてある。さきほど陸川が見たときに使ったのだろう、その机の上には小汚いテレビが出されたままになっていた。部屋の奥だからか、元から薄暗いのにさらに暗い。蛍光灯が弱ってきているのだろう。それにどことなく入り口で感じた時よりもカビ臭さも強い気がして、空田は上唇をひくりと引きつらせた。「フレーメン反応ですか?」陸川にそう言われてもよくわからなかったので携帯電話を使ってインターネット検索をかける。ヒットした画像を見て、軽めの蹴りを陸川の膝裏に入れてから、空田はパイプ椅子にどかりと勢いよく座った。埃が舞った気がしてまた顔をしかめる。
「どうでもいいからさっさと見せろや」
「無言で蹴り入れるのやめてくださいよパワハラですよ」
「はいはいごめんちゃい」
「きもちわる」
「うっせバカ」
隣に座った陸川の手からひったくるようにしてVHSを受け取り、乱暴にテレビの電源をつけた。その瞬間、ザアザアという何かを挽きつぶすような音が灰色の砂嵐の画面とともに鳴り始める。空田は思わず「ぎゃっ」と大きな声を上げてしまった。手だけはすぐさま動いたので一秒もしないうちに音量を小さくすることができたが、しばらく耳の奥でまだ音が鳴っているような気がして、ごまかすように耳を揉んだ。「うるさいですね」テレビの砂嵐に言ったのか、空田の叫び声に言ったのか。陸川がそう呟いて、テレビの操作スイッチを押す。その瞬間、画面の大半を占める灰色の砂嵐はそのままに、一瞬画面の右上に『ビデオ1』という黄緑色の文字が表示された。
空田はふてくされながらも、ケースから取り出してVHSをデッキの口に差し込んだ。少し指で押してやれば、何も書かれていないラベルの貼られたそれは、デッキの中に吸い込まれていく。
デッキ内できゅるきゅると音が鳴り、画面に映る砂嵐がぱたりと止まった。これから画面に映るのは、ビデオテープに記録された映像だ。
陸川が言ったとおり、確かに、映像自体には何の変哲も無いように思えた。
「ほういち?」
それには「レンタルビデオほういち」と、壁に書かれた小さな建物が映っていた。一瞬だけ商店街のアーチ看板が映った。今はどうかわからないが、どうやら昔、商店街にあった店らしい。石畳の柄からして、三番街の方だろう。次に映像は、外から店内らしき空間に変わり、「ビデオをレンタルをするならほういちへ」と、かわいらしい書体の文字が大きく画面を占拠する。文字の下の風景は、色とりどりのビデオケースがぎっしり並んだ棚と狭い通路だ。コマーシャルのために撮られた物らしい。大分古い映像で、とてもではないが鮮明とは言いがたい画質だ。「ジャンル豊富に取り揃えています」という文字と一緒に様々な映画のビデオテープのジャケットがひとつひとつ映る。
始終ポップなBGMが大音量で流れており、耳障りなのだが、空田はその中に紛れて何か聞こえる気がして首をかしげた。『の……、だ……う……………――』巻き戻しボタンを押せば、きゅるきゅるという甲高い音が鳴り、画面が数秒前のものに戻る。ボタンから指を離せば映像はまた再生を始めた。
やはりBGMの裏から何か聞こえる。
「もしかして何か聴こえます?」
陸川が深刻そうに聞いてくる。
「ああ。多分、人の――女かな、うん、そうだ。女だ。なんか言ってる、女の人の声なんだけど」
また巻き戻しボタンを押す。それから、まるでチューニングをするように、空田は息を止めた。
「すみません、頑張って聞き取ってもらっていいですか。僕には少しも聞こえないので」
「ん、わかった。できる限りやってみる」
神経を尖らせ、意識をすべて聴覚に集中させる。慣れたもんだと自分に感心しながら、空田は湧こうとする吐き気をうまい具合に押し込めて、巻き戻したビデオをもう一度再生した。
『呪い、代行致します――』
聞き取れた声は、確かにそう言っていた。相変わらず、きゅるきゅると甲高い音がビデオデッキの中から鳴っていた。が、しかし。
ガチャン、という激しい音とともに、映像もBGMもピタリと止まって、代わりに厭な音だけが鳴るようになった。ひゅっと喉が締まるような厭な予感がして、空田は取り出しボタンを押した。なかなか出てこない。もう一回押した。出ない。五、六回力強く連打した。ビデオテープがデッキから出てくるのを右手で待ち受けていれば、取り出し口の蓋が持ち上がって長方形がやっとのろのろ顔を出す。テレビの画面はまた砂嵐に戻った。
真っ黒な毛。黒いテープが見えるだろうVHSのふたつの窓から見えていたのは、ぎっしり詰まった真っ黒な毛だった。
「僕がひとりで見たときは、こんなことになりませんでしたけどね」陸川の呑気なコメントに空田は肘鉄を食らわせてから、おもむろに立ち上がった。
「行ってみよう」
陸川は目を丸くしてこちらを見上げている。
「はあ?え、ちょっと……行くったって……行くにしても、僕だけでいいです。僕ひとりで行きます。先輩にはこれを代わりに見て欲しかっただけです」
「お前ひとりで何かあったらどうするんだよ。ここじゃ単独行動は禁物って、お前も知ってんだろ」
陸川は、む、と唇をとがらせる。空田はちょっと優位に立てた気持ちになって、八重歯を見せてニッと笑ってみせた。
行ってみるしかない、そう思ったのだ。
「レンタルビデオほういち」は、多少小汚くなってはいたがビデオテープに映っていた姿とほぼほぼ変わりなく、三番街の隅にひっそりと建っていた。「ほういち」の前に立った二人は、別にそうしようと思ったわけでもなしに、たまたま二人とも同じタイミングで上を見上げた。二階はおそらく住まいとして使っているのだろう。穴の開いた障子が見える。二階の窓の下――一階と二階の間の壁――に店名の切り文字看板があるが、「ほういち」の「い」だけやたら塗装が剥げていた。全体的に年季を感じる様相だ。
残業帰りだろう、すれ違った会社員らしき男性に横目で見られた。このあとそのまま直帰するために私服で来たが、そうしておいて良かったと思った。夜も更けてきて元から少ない商店街の人通りがさらに少なくなっている中、「心星区役所怪異対策課」なんて仰々しい刺繍をしたジャンパーなぞ着た奴らが店の前に立っていたら、きっとこの店は悪目立ちしてしまうだろう。あのジャンパー――制服は、警戒させるために着るものでもあるが、警戒させないために着ないものでもある。
その店の入り口のガラス扉には、内側から分厚いカーテンが下ろされていた。一瞬、もう営業はしていないのかと思ったが、カーテンと床の隙間から弱々しい光が漏れていた。しかし、電気が付いているといっても営業しているとは限らない。店主の高齢化が進み、シャッターが目立つようになって久しいこの商店街では、シャッターを下ろしていないだけで経営などとうの昔にやめた店――店舗用に借りていたはずの物件をもはや家の一部や倉庫のように使っている“店だった場所”――だってあるのだ。そう考えてよくよく観察すれば、店脇においてある植木の合間の目立たないところに、割と新しい「営業中」の立て札が出ていた。ビデオに映っていたあのときから、改装などはせずほそぼそと営業を続けてきたのだろう。赤と白の縞模様の古びた日よけテントの穴が、それを物語っていた。
中の様子が窺えないのが厄介だな――と空田は扉の前で足踏みした。営業中と言う割に分厚いカーテンが下ろされているのが不気味であったし、漏れてくる光も明るいとは到底言えなかった。
陸川がまた口だけで笑っている。
「なにか入店マナーとかルールでもあったりするんですかね」
顔が整っていてスタイルも良い、そんな人間が目だけ笑わず微笑んでいると妙に気味が悪い。「さあ。そうかもしれない」空田はぶっきらぼうに返した。
「でもまあ、そういうのは入ってから考えてもいいと、僕は思うんですよね」
あ、やばい。と、思った頃にはもう遅く、陸川はドアノブを回してガラス張りの重たい扉を開けていた。扉の内側につるされたベルがやかましく鳴り響くと同時に、空田は顔をしわくちゃにした。すでに片足を店内に突っ込んでいた陸川の春物のコートの裾を引っ張り、引き留める。なんだなんだと振り返った陸川に耳打ちする。(ばか!考えなしに行動すんな!)しかし陸川はドアノブから手を離すことはせず、空田に対して眉間に皺を寄せた。
(そう言われても。考えたってしょうがないでしょう?僕たち二人とも、そんなに頭が回るタイプじゃないんですから)
(回るわバカ!お前の無鉄砲に俺を巻き込むな!)
二人が店先でぎゃいぎゃい小声で言い合っていると、店の奥から「お客さん?」と年配の男性の声が飛んできた。「入っておいでよ」優しげな声だ。「聞こえているね?」
ぞくり、と寒気。まるで時間が止まったみたいだった。冷たいうろこの蛇が服の袖から入り込んで背中や腕を這い回っているのだと勘違いしてもおかしくないほど、悪寒が体中を駆け巡った。
「……先輩?」
陸川の呼びかけにはっとする。気づけば、時間ではなく息が止まっていた。勢いよく空気を吸ってしまい咽せる。「大丈夫かい?」老人の声はちゃんと、心配そうな色をしている。杞憂かな、ともやもやしながら息を整えた。背中をさすってくれていた陸川に「しょうがないから入ろう」と目顔で言って、入店を促した。
店内も映像で見た通りだった。そう、“見た通り”、なのだ。狭い通路の両脇に並ぶ棚の中には、ぎっしりとビデオテープのケース。「イチゲンさんかい?珍しいね」老人の声だ。
「ここはいつも見知った人たちしか来ないんだけどねえ」
その声をたどってレジカウンターの方まで行ってみると、そこには椅子に座って店番をしている老爺がいた。短く薄い白髪、垂れ下がった顎や顔の皮膚、皺の多い手指――随分な年寄りらしい。その店主は、色つき眼鏡をかけており、左の耳介がえぐれたように欠けていた。よほど年月が経っているらしく、その傷から痛々しさを感じることはない。
得体の知れない寒気がひどくて空田は自分の左腕をさすった。聞いてもいないのに店主が話し始める。
「わたしはこの通り目が悪くてね。それに、耳もないだろう?」
「……ああ、だから」
感心したらしい陸川が返事をする。
「耳無し芳一、ですか」
老爺が笑う。「そうそう」
きゅる、きゅる。きゅるきゅる――甲高い音。
空田は猫のようにぴくりと背をこわばらせて、店内の隅に視線をやった。というよりは、視線を釘付けにされた。確かめないと気が済まなくなった。背中で蛇が這うような感触がする。冷や汗が湧いているのだ。
二人をほったらかして、空田は黙って店内の奥へと突き進んだ。陸川の困惑の声も無視して進む。確認せねば、視なければ、そう思った。きゅるきゅるきゅる。
扉だった。棚と棚の間の薄汚れた壁に、「関係者以外立ち入り禁止」という黄ばんだ張り紙のされた扉があった。その奥に自分がいて、その自分と目が合ったような……そんな奇妙な心地が一瞬、ほんの一瞬して、空田は乾いた喉で少ない唾を飲み込んだ。ドアノブに手をかける。確認しなければ。もはやそれは、強迫観念とさえ呼べる感情であった。きゅるきゅる――あ、ビデオテープを巻き戻すときの音だ。さっきから、ずっと。
気づいた瞬間、
「そこは入っちゃいけないよ」
空田は思わず尾を踏まれた猫のような、短い叫び声が喉からぱっと出てしまい、口をとっさに右手で押さえた。後ろにあの老爺がいる。少し目を瞑って小さい深呼吸をしてから、努めて笑顔を作って振り返った。
「すみません。ちょっとお腹が痛くなっちゃってお手洗いを借りたくて。ここかなあって……」
息をするように嘘をつきながらも、空田は思わずぎょっとした。もちろんおくびにも出さなかったが、心臓が一瞬上に向かってぴょんと跳ねたような気がするくらいには、驚いた。椅子に座っていたときはそうは思わなかったが、立ち上がった老爺の体格が想定の二倍ほど大柄で、随分と威圧感があったのだ。少し腰が曲がっているが、しゃんと立てば二メートルほどはあるのではなかろうか。
「ああ、それは大変だね。大丈夫かい」
老爺は心配そうに微笑んでいる。これくらいの老人ともなれば、老いた者に特有の、弱さにも似た落ち着きというものがあっておかしくないはずなのだが、この老爺からはそれが一切感じられなかった。むしろ「捕って食ってやる」とでも言うような、むき出しの加虐的な息づかいがそこにある。「でも、お腹痛いの治まったので、もう大丈夫です」空田は苦し紛れに嘘を続ける。「そうかそうか、それなら良かった」返ってくるのは優しい微笑みだ。空田は寒気を感じずにはいられない。
老爺を追ってきた陸川が焦った様子で、声は出さずに「どうしたんですか」と目顔で言って空田の方を覗き込む。「どうもしない」同じように目だけでそう返して、空田は老爺に笑顔を作り直した。
「君、あの子によく似てるよ」
老爺が空田の顔を覗き込みながら言った。「うん、よく似てる」しみじみと言う。
「誰にですか?」
とっさに聞き返せなかった空田の代わりに陸川が問う。陸川が聞いたのに、老爺は少しもそちらに目線を寄越さない。ただ、空田の目を、食い破るかのように見つめていた。
「その扉の向こうにいる子だよ。あの子にそっくりだ」
その老爺の声は恐ろしいほど低く、聞いていると、背骨の真ん中に針金を通されるかのような心地になる。空田は身震いした。だめだ、やっぱり苦手なタイプだ――そう思いながら平然と「ああ、じゃあ、ほかの店員の人?」どうとも思っていないフリをした。
「まあ、そうだね」
老爺は曖昧に返事をして、きびすを返す。レジカウンターに戻るらしい。空田はほっと胸をなで下ろした。「今時の若い人もビデオなんて見るのかい?」
棚の陳列に不備でも見つけたのだろう、老爺は足を止め、ビデオテープのケースの順番を入れ替え始めた。陸川がそれをじっと見て何か考えているらしく頬を摘まむように撫でていた。
「そこそこですね。学生時代はサークルでよく見てましたけど」
陸川は答えながら、適当な位置でケースの背表紙に目線を移す。どの棚も古い洋画が目立つ。
ここの陳列はどうも不思議だ。タイトル順になっているわけでも、年代順になっているわけでも、役者や監督で分類しているわけでもない。ぱっと見た感じ、滅茶苦茶な並びなのだが、客に乱されたというわけでもなさそうだ。老爺が並び替えたあとの棚を見ても、同じように規則性が見い出せない。
何か考えている陸川に対して、空田はそわそわとずっと、どこかしらに気をとられていた。壁、扉、棚。そこかしこに手があって、そしてそのすべてがこちらに向かって手招きしているような心地がする。しかし、落ち着いているフリだけでもしておかなくては。そう思って適当なタイトルに手を伸ばす。
ケースを取ったそのとき、棚の中から、にゅるりと、細く冷たい手。思わずひゃっと声を上げてケースを落としてしまった。床の上で映画のジャケットがくるくると回る。陸川がとっさに跪いて、落としたケースを取ってくれた。「どうしたんだい?」店主の声にも代わりに返す。「すみません、落としてしまって。中は無事だと思うんですけど」「ああ、じゃあ大丈夫だよ。そのまま元の場所に戻してくれれば」「ごめんなさい、ありがとうございます」どちらかの余裕がないとき、大抵もう片方は不思議と落ち着いている。その点においては、二人は息が合うのかもしれなかった。
(すまん)
(大丈夫です。それより)
ここ、やっぱりおかしいですよね。
二人はこそこそと耳打ちした。常人ならわからない、わかるなら常人じゃない。そんな意思疎通の仕方で。
陸川も気がついていたらしい。どうもこの店は何かがおかしい。
(平気ですか)
(一応まだヨユー)
(さすが。じゃあ、もうちょっと)
(探りいれるか)
(ええ。お願いします)
陸川が老爺に向き直る。「植野さんってひと、ご存知ですか?」老爺の欠けた左耳がぴくりと動いた。
「ウエノさん?」
知ってる、という顔だ。
「ウエノって、……ああ。もしかして。慎くんのことかい」
「ああ、ご存知なんですね」
陸川が老爺の気を引いているうちに、空田は足音を殺して先ほどの扉の前に戻る。古びた扉の端の方は塗装が剥げて茶色い下地が見え隠れしている。老爺と陸川の話し声は同じ位置にある。まだ大丈夫そうだ。ドアノブに手をかける。まわる。鍵はかかっていない。音を鳴らしてしまわないように、そっと扉を押した。ひどく重たく感じる。
暗闇に一筋光が伸びる。足を踏み込んだ。床と壁はうちっぱなしのコンクリートで、ひどく寒々しい。まるで冷凍庫に入り込んだみたいだ、空気が芯から冷えている。そっと背で扉を閉める。視界が真っ暗になった。
部屋の明かり……はバレる可能性が高まるからやめよう。目が慣れるのを待つのも時間がかかる。と、あらかじめ持ってきたフラッシュライトをポケットから出す。静かにスイッチを押せば、強い光の筋が目の前を開く。フラッシュライトの光を使って全体を見回す。
部屋にあったのは事務机とその上に分厚い――古い型らしい――デスクトップパソコンとアナログテレビ、机のその隣には物が散乱しているメタルラック、壊れかけている事務椅子、ロッカー、そしてどこか奥に続くだろう扉……ここは順当にスタッフルームのようだ。
物は試しで恐る恐るアナログテレビの電源スイッチを押した。砂嵐がくるかと身構えたが、ぶん、という音とともに映ったのは六等分された画面だった。それぞれ店内の別の場所を映していて、それのひとつにはレジカウンターで話し込む老爺と陸川の姿が映っている。古い店なのに防犯カメラなどあるのか、いや、古い店だからこそなのだろうか。なにはともあれ陸川は老爺をうまく引きつけてくれているようだ。
未だにビデオテープの甲高い巻き取り音はどこかから聞こえてくる。空田はこめかみが痛いような気がして奥歯を噛みしめた。ここに長居するわけにはいかない、なにか手がかりになるものを見つけて早々に退散せねば。今はうまいこと陸川が足止めをしてくれているが、老爺の気がいつこちらに向くかわかったものではない。空田はフラッシュライトを口にくわえ、物がごちゃごちゃしているラックを両手で物色する。
片付けくらいしろよ、と、思考のいつだって他人事で見下ろしている部分がそう考える。防犯カメラ関連だろうゴテゴテした古くさい機械の隣では幾本かの長いコードが絡まり合って埃が積もっている。この段には特に何もないだろうな、と見切りをつけ他を確認しようとして、気づいた。コードと一緒に黒い長髪が何本か絡まっている。老爺の髪は短く、白い。先ほど話に出た店員の髪だろうか。それにしても、気味の悪い絡み方だ。よくよく見ればコードも叶結びになっている。もしかして、意図があるのか。そう考えながらも、時間が無いためそればかりに気をとられているわけにもいかず、空田はその下の段に目標を変えた。
下の段、もとい棚の真ん中の段には、映画のジャケットが印刷されたケースとは違う、ちょうど「植野慎」によって持ち込まれたものと同じような透明なケースに入れられたビデオテープが六つほど並んでいた。どのビデオテープのタイトルラベルにも黄ばみや汚れはあれど不思議なことに何も書かれていない。ごくり、と唾を飲んだ。
この中の一つを、持ってきた「植野慎」のVHSと入れ替えよう――そんな考えが浮かんで、指先が緊張した。
先ほどのように落としてしまわないよう、慎重に「植野慎」のVHSをボディバッグから取り出す。
普段からあまり動かしているようには見られない。入れ替えたことがバレるとしても今日すぐにというわけではないはずだ。端はマズい、ビデオテープの中身が“おかしく”なっているのが見えてしまう。じゃあ……と、空田は直感で左から四つめを選んで、入れ替え、すぐさまバッグにしまった。
フラッシュライトを左手に持ち、右手でそうっとロッカーを開けてみる。しかし、気をつけたものの、これもまた古いものらしく立て付けが悪かったようで、少々大きな音が鳴ってしまった。どきり、としながら防犯カメラの映像に目線をやったが、老爺が先ほどの音に気を向けている様子はなさそうだ。ほっと胸をなで下ろしながら、空田は中を物色した。
中は埃が溜まっているばかりでほとんど物が無かった。あるのは店員用だろうエプロン、と、名札……名札だ。手に取って見てみる。「水原」とだけ書いてあった。このエプロンも名札も最近は、というよりもうずっと使われていないらしく、カビ臭いし名札に触れた指先も粉っぽい。ロッカーの中にはもうめぼしいものはない。今度は音を決して立てないように、空田は先ほどの何倍も慎重に扉を動かして、閉めた。ふう、と息をつく。
きゅるきゅる、巻き取り音がうるさくなってきた。まるで近づいてきているかのようだ。空田の意識が、本人の意思を無視して、ぱっと向きを変える。奥へ続く扉だ。その向こうから聞こえるのだ。
きゅるきゅる、きゅるきゅるきゅる――……
また視線を絡め取られたまま動けなくなるかと思った瞬間、ポケットに突っ込んだままだった携帯電話が振動して、空田の意識に嵌められかかった首輪を見事に外した。
『もうそろきついです。戻ってきてください』
会話の合間に打って知らせてくれたのだろう。防犯カメラの映像を見れば、老爺がレジカウンターの席から立ち上がろうとしていた。これ以上の長居は無理だ。見切りをつけた空田は、部屋の中のすべて――入れ替えたビデオテープ以外の――を自分が入る前に戻して、静かに部屋を出た。奥の扉が気になりはしたが、それを探ることは許されなかった。
空田は気がつかなかったが。奥の扉の向こうからする音は、テープの巻き取り音だけではなかった。
爪を立てて壁を掻く音がひっそりと、一緒に響いていた。まるで助けを求めるかのように。
部屋を出た空田は、適当な棚の前でめぼしい映画を探していたフリをした。案の定、老爺が来たので、素知らぬ顔をしておく。
「何か借りていきなさい、一本分タダにしてあげよう。サービスだ」
老爺はそう言って空田の隣に立った。何を考えているのだろう、と空田は並ぶタイトルたちの上で滑らせていた視線を老爺に向けたが、老爺は先ほどと同じような野蛮な目つきのまま、しかし穏やかな微笑みをたたえているのみで、何を考えているかなどとてもではないがわからなかった。「いいんですか?」「いいとも」相当な歳のようだし、老爺にとっては空田も孫くらいの歳なのだろうか。しばらく他愛もない会話を交わした。それでもずっと、空田はひやひやしてしようがない。「一本タダで貸してくれるって……一見のお客みんなにしてるサービスなの?」少し砕けた口調で聞いてみる。すると、老爺は先ほどまでぼんやりと棚の方に向けていた頭を、ぐりんと勢いよく空田に向けて、
「いいや、君だけさ。君は特別だからね」
口の端を目一杯つり上げた。口をがぱりと開けた蛇みたいで、空田はどきりとしてしまった。目をまん丸にした空田を見て、老爺は言う。「冗談だよ、驚いたかい?」ときおり見え隠れする厭な眼差しや表情がなければ、この老爺は、外見に少し特徴的な部分はあれどいかにも普通の老人と呼べる。
「と、言っても。若いひとはビデオデッキなんか持っちゃいないか」
「……はい。冷やかしになってしまって申し訳ないです」
「いやいや、いいとも。今時こんなビデオだけでレンタル屋やってるからね、これで儲けようなんてハナから考えちゃあいないさ」
そう笑って空田の背をぽんぽんと叩いた。特段強く叩かれたわけでもないのに空田はまたひゃっと声を上げた。心臓を素手で鷲掴みにされたような痛みが身体を一瞬走って、必要以上に驚いてしまったからだ。どっと脂汗がこめかみににじんだ。
とっさに見た老爺の目は、色つき眼鏡の向こうで、冷たく刺すようにこちらの目を射貫いていた。
きれい、うまそう、はらだたしい、にくい、じゃま、……ぜんぶわかっている。そんな言葉をその目が断片的に呟いている。そんな気がする。
空田は老爺の視線から目をそらしながら、
「でも、せっかくなので。何か一本借りてもいいですか」
とにかく再びここに来る理由が欲しかった。「植野慎」の持ち込んだVHSと入れ替えた、あのテープだけでどうにかできるとは思えない。
「いいけど、見られないのにビデオテープなんか持って帰ったって邪魔なだけだろう」
「知り合いにデッキ持ってる人いるので、使わせてって、頼もうと思います」
「おお、そうか。じゃあ、何か借りて帰るといい」
老爺は腰に手を当てて、何やら満足げな顔でレジカウンターに戻っていった。空田はボディバッグの中身がひどく重たいような気になってきた。ただ思いつきで交換してきただけだ。このビデオが何らかの証拠となる確証はない。それでも、空田は自分の直感を信じるほかなかった。厭なときだけ的中率が高い勘だ、きっと今回も当ててくれる。そう言い聞かせるように、何度もそう心の中で呟いて、大して興味があるわけでもない映画のVHSを手に取った。陸川が近づいてきて言葉の裏で耳打ちする。
「それ借りるんですか?」
(先輩が調べにいってる間、ちょっと気になることがありました)
「ああ、なんとなくいいなと思って」
(気になること?)
「僕、それ見たことありますけど」
(あとで報告します。そろそろ出ましょう。顔色、悪いですよ)
「ん。おもしろかった?」
(そうか?)
陸川が目を細めて頷いた。「ええ、とっても」老爺の眼差しに刺されたあとだと、ひどく安心するまっすぐな目だ。まあ、もちろん口だけ笑ってその目は笑ってないのだが。