『きっと全て、夢のせい』 骨張った大きな手が、そっとこちらの内腿に優しく触れる。くすぐったくて身じろぎするマリオンを捕まえるかのように、『彼』が空いてる手を顔に伸ばしてきた。
「オマエ、なんでこんなこと……っ!」
普段腑抜けた顔をしてばかりの彼が熱を宿した瞳で見つめてくることに、動揺せずにはいれなかった。マリオンと『彼』はこんなのことをするような特別な間柄ではない。こんなの夢に決まっている。現実逃避する思考を咎めるかのように、彼が耳元に近づいてきた。
「なあ、マリオン」
「っ、」
吐息が耳元に当たり、ゾクリと身震いした。知らなかった、普段は調子のいいことばかり話す彼の低い声は声色が違うだけでこんないけない気持ちにさせられるなんて。
「……大好き、一生守ってあげるから結婚しよう」
幼い頃と同じようで必死で切実なのに、あの時にはなかった『欲』の色が僅かに混じった声が耳を通して脳を支配し、茹だっていく。全身が激しく脈打つのに血が沸き立つ時のような苦しさはなくて、その代わりに頭がどうにかなりそうだ。
そうして煮えたった頭は近づいていく彼との距離がマリオンの抵抗する気を奪い、そしてふたつの唇が近づき——
「っ!!」
飛び起きた瞬間、マリオンの視界に広がったのは触れてこようとする男の身体ではなく、窓から差し込む光と見慣れた部屋だった。朝日を浴び、ぼんやりとした頭が徐々に冴えていく。目をぱちくりとするのを数分間繰り返し、マリオンはようやく先ほどのことが本当に夢であったのだと理解した。
「サイアクだ……」
同室者がほとんど帰ってくることのないこの部屋で呟いた声は、幸いなことに誰にも届くことはなかった。
マリオン・ブライスは最近、とあることに悩まされていた。それも、深刻に。
「おう、おはよう。マリオン」
起きたばかりで冴えない頭のままリビングに出ると、コーヒーを淹れているところらしいガストがいつもの締まりのない笑顔でマリオンを迎えた。彼自身もまだ起きたばかりなのだろうか、その髪はまだいつもより無造作に見える。
「……おはよう、ガスト」
密かに動揺する心の内を隠しながらいつも通りに振る舞うと、ガストはエスプレッソを飲むかと聞いてきた。頷いてみせると嬉しそうにはりきり始めたガストに対し、マリオンは内心穏やかではなかった。何故なら、ガストこそがマリオンの悩みの種だからだ。
ことの始まりは数日前、ノヴァ達とポップコーンパーティーをした時だった。ポップコーンパーティーで観る映画は、家族で観るからかジャクリーンがいるからなのか色事の描写が出る作品を観ることはあまりない。そのはずなのに、その日観た映画では物語の中盤あたりだったろうか、急に”そういう雰囲気”になって二人の視線が絡み合い、唇が重なりあい、暗転し……そんな風に夜の秘め事がこれから起こると思わせるシーンが流れたのだ。それも、事後のシーン付きで。短いシーンではあったものの、あまりそういうことに明るくないマリオンは少しどきりとした。あくまでも少しだけ、本当にほんのちょっぴり、のことだが。とはいえ一昔前の作品をよく観ているマリオンにとってこういう描写を観ることははじめてでもなく、それ自体は大それた問題ではなかった。本当に問題だったのは、ここから先のことだ。
その日の夜、久々に家族みんなで楽しい時間を過ごせた充足感を覚えながら眠りに就いた後のこと。ガストと"そういう雰囲気”になって口づけようとする夢を見てしまったのだ。
百歩譲って映画に影響を受けてやらしい夢を見てしまった、というだけならばまだいい。それはそれでコドモじゃあるまいし、と自己嫌悪に陥りそうではあるが。問題は、自分が受け身で何よりも相手がよりにもよってガストだったことだ。もちろんここでノヴァやらレンやらヴィクターあたりが出てきても困るが、ガストの場合はなんとなく他の人よりも拙い気がして仕方ない。
「はい、できたぞ。……マリオン?」
声をかけられていることに気づき顔を上げると、コーヒーカップを差し出されていた。どうやら思っていた以上に思考の渦に呑まれていたらしい。
一言礼を告げて受け取ると、彼は心配そうにこちらを覗いた。
「なあマリオン。前から思ってたんだけど、最近様子がおかしくねえか?」
「別に、なんでもな……」
近づけたコーヒーカップを放し、言いかけた言葉を止めた。
「いや、本当はちょっと夢見が悪いんだ」
「夢?どんな夢なんだ」
「それは……どうでもいいだろ」
「そんなこと言わずにさ。ほら、夢って人に話すと正夢にならないって言うだろ?」
ガストは根っからの世話焼きで、上司であるマリオンに対してさえもそういうところがある。それがまるで庇護下の存在と思われているようで気に食わないこともあれば、なんとなく鬱陶しく感じることもある。だが、正直のところ彼のそのような性格にマリオンは幾度も救われていた。認めたくはないが、彼には教えることがたくさんある一方でマリオンが持っていないことを山程持っている。
とはいえ今の状況ではありがた迷惑な話でしかなく、距離を取るようにそっと彼の胸板を押した。
「この話はおしまいだ!オマエ、そろそろ髪型を整えないとパトロールに間に合わないんじゃないのか」
「おわっ、本当だ。……でも、悩んでることがあるなら本当にを聞くからな」
慌てて洗面台へ向かう背中を見送り、ようやくコーヒーに口をつけた。喉元に心地よい熱が通り過ぎて少しずつ思考がクリアになっていき、ようやく余計なことを言ってしまったことに気づいた。
(悪い夢を見たなんて、なんで言ってしまったんだ!)
頭を抱えたくなるとは、まさしくこのような時のことを指すのかもしれない。そんなことを言ってしまえば誰だってどんな夢なのか聞くのはわかりきったことだろう。まさか、「オマエとあられもないことになっている夢を見た」なんて言えるわけがない。マリオンの沽券に関わるし、流石にあのガストでも反応に困るはずだ。
ガストを先に洗面台へ通すと後で自分が顔を洗う時に邪魔であることに気づいたのは、飲み干したカップを片付け終えた時だった。
「おーい、マリオン……?」
「な、なんだ急に」
こちらを呼ぶ声に思わず肩が跳ねそうになったが何事もなかったかのように振り返ると、眉を下げたガストが不安げな表情を隠せずに溜息をついていた。今日の予定はトレーニング中心だったおかげで、ほとんどは目の前の仕事に集中できていた。だが終わってしまえばどうも気が抜けてしまうようで、つい再び考え込んでしまう。
「明日のパトロールについて聞きたいんだけど、声をかけてもぼんやりとしていて返事がなかったからさ……」
こちらに非があると認めざるを得ない返事に、悪かったと素直に返すと「別にいいけどさ」と返事をされたが、その目は構わないと思っている目ではないようにしか見えない。
「それで?聞きたいことっていうのはなんだ」
「時間のことや細かい場所についてなんだけどさ、それよりもさ……」
眉を寄せたガストが、そっと距離を縮めてきた。距離感の近そうなガストと違って、マリオンは家族以外と距離を詰めることが少ない。少しだけ、ほんの少しだけ血液が脈打つリズムが速くなった気がして慌てて後ずさろうとしたが、それより前に彼の骨張った手がこちらの顔へと伸びた。
「……っ、」
とうとうその手がマリオンの頬に触れ、一気に頬に熱が集まるのを感じた。直に触れると自身との形、大きさの違いを実感させられる。ノヴァのものとも、ヴィクターのものとも違う、彼らしい形に思えて、それが今ガストに触れられていることをより実感させられてなんとも言えない感情が胸を占めていく。
頬から伝わる彼の温度があの夢を鮮明に描き、更に心の臓の拍動は激しさを増していく。気づけば少しずつガストの顔が近づいていて、思わず硬く目をつむった。
―が、いつまで経っても何も音沙汰がないことを不思議に思いゆっくり目をつむると、欲の色なんてかけらもないガストがこちらを心配そうに見つめていた。そしてその手をすぐにマリオンの額にへと滑らせた。
「うーん、熱い気もするけど熱って感じでもねえな……。でも、なんか顔は熱いし……」
「な、なんなんだ……?」
「あっ、悪ぃ!急に触って悪かったよっ!いや、最近のマリオン、ずっと様子がおかしかっただろ?だから風邪でも引いたのかと思ってさ……」
風邪を引いたわけではなさそうでよかったよ、と笑うガストをぼんやりと眺めたまま、ぽかんと口が開いた。先ほどまでの暴れ回るような血の動きも、サァッと引いていく。目の前の男の言動をひとつずつ、処理していく。確かに、ガストは最近ずっとマリオンのことを気に懸けているようだった。距離を詰めてきたのは、マリオンの様子を看るため。手を触れたのは、熱の有無を確かめるため。つまり。
「全部、ボクの勘違い……、だと…………っ!?」
ガストがえっと聞き返すのも耳に入らず、先ほどとは違う意味で頬に熱が集まる。反射的に鞭へと手を伸ばしそうになり、ガストがわかりやすくギョッと仰け反った。「マ、マリオンさん……?」「きゅ、急にどうしたんだよ、なあ?」「とりあえず、話してみようぜ?な?コ、コントロール……」と慌ててマリオンと距離を取っていくのに気づき、鞭から手を離した。
「……心配をかけて悪かったな、ボクは風邪なんて引かないからいちいち心配しなくてもいい。明日からはいつも通りに戻ってみせる」
「お、おう……?いや、前にも言ったけど、別に話を聞くぐらいならいつでもするぜ……?」
半ば吐き捨てるかのように言葉を絞り出した後、ガストの声を聞き入れることもなく足早に自室へと歩を進めた。
「おい、待てよマリオンっ!……ってか、結局聞きたいことが聞けてねえっ!ちょっと待ってくれ、マリオン!おーいっ!」
残されたガストがひとりで騒いでることにも彼の質問に答え忘れていることにも気づかず、逃げるように去って行ったマリオンは、部屋に着いた瞬間に頭を抱えて蹲った。
(絶対に言えない、ガストにキスされるかもしれないなんて勘違いしたなんて……っ!)
穴があったら入りたい、そんなことを思う日が来るなんて思ったこともなかった。だが、ガストだって悪いだろう。あんなに距離を詰め、頬なんかに手を添えてきて。そんなの、キスされると勘違いしたっておかしくないだろう。そう、きっと相手がガスト以外でも―
そこまで考え、ノヴァやレン、ヴィクターで連想してみたが、どう考えてもそうはならないように思えて首をかしげた。そんなわけがないだろう、だって先ほどガストの時は確かにそう思ってしまったはずだった。それなのに、他の人ではそうはならないなんて、そんなわけあるはずがない。あるとしたら、それは……。
「……多分、全部夢のせいだ。そうに決まっている」
誰に言ったわけでもない言い訳めいた言葉は、あの日の独り言と同じく誰にも届くことなく消えて溶けた。