【イチ桐】晴れの日も雨の日も 深夜三時。春日は本日何度目かとなるバッグの中身のチェックを行っていた。
ハンカチ、ティッシュ、暑くなって汗をかいた時の為のタオル、熱中症予防の為の水、塩タブレット。モバイルバッテリーに財布、桐生が体調を崩さないようにと用意した晴雨兼用折りたたみ傘。そして――とスマホの画面に表示されたアプリをタップし、表示された明日の日付が書かれた電子チケット。
「持ち物よし! 明日のアトラクションの順番確認よし! えーと……なんとかパスの取り方の予習よし!」
ビッ、ビッと指さし確認をしながら春日はすっくとソファから立ち上がると、パシパシと両手で頬を挟むように叩いてから顔を上向かせて目を閉じた。
「いよいよ……明日か」
呟いた春日の脳裏には晴れた空の下で微笑む桐生の顔が浮かんでいた。その頭には自分が半ば無理矢理買わせて装着した耳のカチューシャが飾られている。可愛い。可愛すぎる。そのギャップが堪らない。などと妄想の中の桐生に顔をニヤつかせながら春日は目を開くと、いい加減寝ないとなとベッドへと足を運ぶのであった。
何を隠そう、明日は桐生と二人で念願のテーマパークデートである。この日の為にだいぶ前からチケットを手配し、本まで買って予習し、深夜までイメージトレーニングもした。準備は万端である。
「へへ……桐生さんとデートかぁ」
そのテーマパークに行くのは実は春日も初めてのことで。まさかこの歳になって男二人でそんな場所に行くことになるとは思わなかったが、何事も経験だ。もしかしたら桐生も楽しんでくれるかもしれない。気持ちは高ぶるばかりだった。
「って寝るんだろ! 睡眠時間少なくて当日へたれてたら元も子もないっての」
はい、寝ます! などと一人宣言し、春日は腹にだけタオルケットを掛けると、静かに眠りへと落ちていった。
時刻は五時半。
「なっ…………んでだよぉおおお!?!?」
やたらとうるさい音で目が覚めた春日は、窓を打つ大粒の雨に頭を抱え部屋に声を響かせた。外は雨……どころではない土砂降りである。
「嘘だろ!? 天気予報では雨は明日だって……」
今日は大丈夫だったはず、と慌ててスマホの天気予報アプリを開いて見れば、物の見事に一日ずつ前倒しになっているのに春日はぽとりとソファにスマホを落としてしまった。
「しかも一日この雨が続くだと!? ふっざけんなよおお……」
行き先のテーマパークは屋根のある施設がないわけではなかったが、屋外のアトラクションも多い。待機列はもちろんほとんど外だ。そしてこの雨ではパレードも中止だろう。春日の入念な計画が無残にも崩れ去った瞬間だった。
「……!」
とそこへスマホから着信音が鳴り響き。手に取って画面を見てみれば表示されている名前に春日は泣きそうな子犬のような表情を浮かべたが、覚悟を決めて電話に出ることにした。
「おはようございます、桐生さん」
『おう。起きてたか。早い時間に悪ぃな』
「いえ。桐生さんこそもう起きてたんっすね」
『何だか落ち着かなくてな。目ぇ覚めちまった』
電話越しに聞こえる桐生の声は少し笑みが混じっているようで。ああ、桐生の方も楽しみにしていてくれてたのかもしれないと心が温かくなる一方で、外の景色には申し訳なさが募る一方だった。
「あの……桐生さん、今日なんですけど……」
『ああ。ひでぇ雨だな』
誰がどう見たってデート日和ではない。もし何の予定もないならば一歩も外には出たくないような状況だ。雷が鳴っていないだけまだマシなのだろうが、それにしたってひどい。
とはいえ桐生にもスケジュールを確保してもらっていた手前、このまま行かないというのも申し訳がない。予定していた楽しみ方は出来なくなってしまうが、行くしかないないだろう。
『春日。少ししたらお前の家行っていいか?』
「えっ?」
暗い気持ちでいっぱいになりそうだった春日に、桐生の思わぬ声が耳に届き、目を丸くする。
『さすがに早すぎるか』
「い、いえ! 俺の方だったら全然大丈夫っす!」
『そうか。じゃあ、準備が出来次第そっちに向かう』
「はい。わかりました。外、こんななんで。お気を付けて」
『ああ。また後でな』
そこで桐生との通話は終わってしまい。春日はもう一度窓の外へ目を向けて深く溜息を零すと、ひとまず桐生が来ても良いようにと洗面所に向かった。
「桐生さん! 朝早くから来てもらっちゃって、なんかすんません」
出迎えた桐生はいつも通りの姿で。傘についた雨粒を振り落としてくるくると畳むと、玄関に立て掛けて肩や腕についた水滴を手で払っていた。
「おう……って何だその顔は。これからデートっていう男の顔じゃねぇぞ」
振り返るなり即突っ込まれたのに春日はギクリと肩を震わせる。
計画が水の泡になった落ち込みが隠せていないことに気づかれ乾いた笑みを何とか繕ってみるものの、桐生の顔を見るなりじわじわと涙が込み上げてきそうになってしまう。
「ったくそんなしょげた顔すんな……どうせそんなこったろうと思って来てみたが間違ってなかったな……」
わしわしと頭を掻き混ぜられ、桐生は春日を通り越して部屋に入り、ソファへと腰を下ろす。そんな桐生を追って春日もしおしおと背を丸めながら歩み寄ると、控えめにすとんと隣に座って膝に手を置いた。
予定していた出発時間まではまだ余裕があったが、今日これからを思うと気が重くなってしまい春日はなかなか続く言葉を切り出せずにいた。天候には逆らえない。とはいえ、行き先が行き先だ。さて、どうするか――
「春日。チケットの日付は、今からでも変えられるのか?」
肩を落としていた春日にふと桐生の声が届き、え? と顔を向ける。日付を変えるという選択肢は春日の中にはなかったが、確か……とアプリを開いてみると、どうやら手数料さえ払えば変更が可能そうではあった。
「大丈夫、みたいっすね。え、でも……」
「じゃあ、今日はやめて別の日にしないか? この雨の中行くのは、お前だって本意じゃないだろ?」
桐生の言葉通り、土砂降りの中のテーマパークデートというのはどうしたって百パーセント楽しめるものではない。出来ることなら晴れとは言わずとも、雨が降っていない天気の中二人で思い切り楽しみたかった。
「桐生さん……」
「お前が今日を楽しみにしてたってのはよくわかる。だがな、俺としてはお前に一日中そんな顔されてたんじゃ、楽しめるもんも楽しめないぞ」
「ぁ……」
桐生の言葉に春日はずきりと胸の奥が痛んで。膝の上できゅっと拳を握ると、自分ばかりが空回りしていたと顔を俯かせた。
「お前のことだから、色々準備もしてくれたんだろう。その気持ちは嬉しい。だけどな、デートってのは二人で楽しむもんなんじゃねぇのか」
春日、と名前を呼ばれて恐る恐る顔を上げて桐生へと向ける。そこにはひどく優しく、少し困ったような桐生の柔らかい笑みがあって。
「デートなんてこれから何度でもすりゃいいじゃねぇか。それとも、もう誘ってもらえねぇか?」
緩く首を傾げられるのに、春日はぶんぶんと首を横に振る。それを見た桐生はフッと息を逃がすように微笑むと、春日の頭を両手でそっと掴み、こつんと額を合わせてきた。
「お前からのデートの誘い、いつでも待ってるぜ」
そんなキザな台詞も桐生にかかってしまえばこれでもかというほど様になっていて。春日は思わず吹き出すと、涙をぐっと飲み込んでへへ、と笑った。
「そんなこと言われたら、俺まじで何度でも誘っちゃいますよ?」
「ああ、望むところだ」
「毎日でも、一緒にいたいってだけで連絡しちゃうかもしれませんよ? いいんですか?」
「構わねぇさ。その時は、先約があってもお前の誘いを優先しちまうかもしれねぇな」
くっくと笑って言う桐生に、春日はきゅうう……と胸が締め付けられる思いで。
本当にこの人には適わないなと改めて口元を緩ませると、桐生の頭に手を回して抱き寄せ、そっと口付けた。
「桐生さん。大好きです」
「ああ、知ってる」
「あっ……!? その返しなんかずるい!」
「ん? 何がだよ」
「何って……なんか、なんかずるいです!」
「フッ……何言ってんだ」
変な奴だな、と笑って今度は桐生の方から口付けられ。
「俺も好きだぜ、春日」
と囁かれるのにはボンッと顔どころか全身が一気に熱くなってしまい。
「っ……ずっっるー……」
と思わず声が出てしまうのには。
「何だよ。何やっても結局ずりぃのかよ……」
と桐生が不服そうな声を上げるのに、どちらからともなく笑いが込み上げて。
外は相変わらずの土砂降りだったが、こんなゆっくりとした時間を早朝から楽しむのも悪くないなと春日は心の靄が晴れていくような気持ちになっていた。
***
「へえ……! こんなとこがあるなんてなぁ! 異人町は俺のが長いってのに、桐生さんよく見つけましたね」
あれから数時間後。雨の勢いはすっかり収まり、小雨になったのを見計らって二人は傘を差しながら異人町を散策していた。
連れて行きたい所があると桐生に言われ、春日はただその隣に並んで歩いていただけだったのだが、辿り着いた小さな公園の景色には思わず声が上がってしまった。
「だろ? 何でもない公園だが、俺はここが結構気に入っててな。今の季節はこいつが見頃だから、いつかお前にも見せたいと思ってたんだ」
二人分の傘が並んだその先には、色とりどりの大ぶりのあじさいがいくつも並んで咲き誇っていた。それは昨今の観光地にもなっているような見栄えの良い品種ではなく、昔ながらの自然で育っているような古き良きあじさいではあったが、雨の雫に濡れた姿は晴れた空の下とは違う趣があり、春日は思わず顔を近づけてそれを楽しんでいた。
「あっ! かたつむり! 桐生さん、かたつむりいますよ!」
ほら、ここ! と春日が指を差して振り返ると、桐生がガキかと笑いながらも歩み寄って隣に並んで体を屈める。
「後ろにちっこいのもいる! これ、親子ですかね!?」
「さあな。そうなんじゃねぇか?」
「こんな小さくてもちゃあんとカラあるんだなぁ。すっげぇ……」
感心して目を輝かせ、のっそりと動くそれらを眺めていると、ふいに桐生の笑い声が聞こえた気がして春日は傘を傾け、その顔を覗き込む。
「いや。お前は本当に何でも楽しめるんだなと思ってな」
「えっ……なんか、変でしたかね?」
「いいや。それがお前のいいところだ」
連れて来て良かったと続けられるのに、春日も嬉しそうに笑顔を見せる。
思わぬ雨のデートとなってしまったが、結局のところ、春日にとっては桐生と一緒にいられるならばそれで良いのだと実感する。
入念に計画したデートコースや、旅行でなくとも。ただ傍で、この人が笑ってくれるならばそれでいい。
「ね、桐生さん」
「うん?」
「今度また、桐生さんからもデートに誘ってくださいよ」
「何だ急に」
「いいから! 俺だって、誘われたいっす!」
だめ? と迫ってみれば、桐生はむ……と口を噤んだ後にそうだな……と小さく呟いて。
「じゃあ……この後ホテルでも行くか?」
とニヤリと笑まれるのに、春日は動揺を隠しきれず傘を落としてしまうのであった。