煙社降臨節暦 第四夜/とある山を訪れた力士とたんぽぽの妖精、幼馴染のまぼろし 雨蕭々として洗われた山景色は物寂しく、寒い。
先に阿蘇を眺望したのは夏のことだったから、あの時は、背の高い緑はないけれど地の底からずんと滲み出て山肌を染める青の深いこと、トロッコ列車の素通しの車窓ごしに見入ったものだが、この季節山肌を銀に染めるというススキもとうに終わって今、切り立つ山肌はいっそう険しく見える。
夏はこの地の、地震からの復興記念にと招待されたものだったが、こうして自分の足で訪れてみると景色はより広がって見える。
ぽ、ぽ、と耳元で声がした。山に来てぽぽぽと声を聞くというとまるで怪談めいた話だが、しかし勇人は声の正体が分かっているから怖がりもしないし笑って振り向く。
「ぽぽたん」
名前を呼んでやると寒空にたんぽぽの綿毛がまるで風の形なすように舞って、その中にぬいぐるみのようなふわふわと小さなものが現れる。
「大栄翔関、冬巡業お疲れ様だぽ」
ぬいぐりみのようなそれは口をきく。勇人の名を呼び、笑顔を向ける。この九州から遠く離れた朝霞の地で生まれたたんぽぽの妖精は力士となった勇人の相棒といっても決して言い過ぎではない存在で、その証拠に化粧まわしにその姿が描かれているし、市役所の表敬訪問の際にはカメラの前で一番取る間柄だ。
とは言え。
「よく来たね、遠いのに」
このたびの訪問は冬巡業で、朝霞と九州の地の交流事業ではないのだった。大栄翔という力士の自分がよすがであるにしろ、市のマスコットとしての公務もあるこの妖精が九州くんだりまで顔を出すのは不思議な気がした。
すると相手は、きゅっと目の間を寄せた。
「大栄翔関、おかしいぽ」
喋るとふわふわとした綿毛が耳元をくすぐる。たんぽぽの妖精は勇人の肩に乗り、きょろきょろする。つられて勇人もあたりを見渡した。
深く、そして広々と抉られた山と山の間に広がる景色。連なる火山は吐く煙こそ見えないが峻厳で見応えがある。季節であれば山の花々、牛の食む草で青々としているが、今はどこも褪せていて確かに観光ポスターで見る阿蘇の風景とは違うかもしれない。
「ううん、おかしくはないよ。もう十二月になるんだからさ」
「そうじゃないぽ」
たんぽぽの妖精は淡いクリーム色をした小さなからだを震わせた。
風が吹く。
雨のしぶきが頬を打つ。急に足下から雨の匂いが生々しく立ち上った。空が鳴った。顔を上げると暗い空に雲が白い筋をなして渦巻いている。まるで天気図の台風みたいだなと勇人は思う。それが三つも四つも空にひしめいていて、まるで台風銀座だ。
熱い風が頬をねぶった。
「ぽぽたん?」
相棒の鼻息か溜め息かと思ったがそうではない。たんぽぽの妖精は勇人の大きな肩に隠れるようにしがみついている。
「よう」
一声、呼ばれた。
向かいのホームにずぶ濡れの男が立っている。勇人よりやや背は高いだろう。滝の流れ落ちる模様の、見たことのない浴衣が雨でしっとりと体躯に吸い付いている。
こうすけ、と呼ぶ声が喉まで出かかった。ふわふわとした綿毛が喉をくすぐってそれをさせなかった。
男はにやりと笑い親しげに話しかけた。
「夏の阿蘇はいいよなー。写真、ついったに上げたかったのにさ」
男の背後には青く染まった阿蘇五岳が力士を飾る屏風のように悠々としたたたずまいを見せている。――だよな、こうすけ……と言いかけたがやはり綿毛が邪魔して声にならない。しかも汗で貼り付くのだ。
ぐぐん、と勇人は自分の頭が揺れるのを感じた。
声ははっきり聞こえる。姿もはっきり見える。足だってある。洸助だろう、間違いない。懲りずに写真をアップしようとするところも洸助だ。
「大栄翔関」
肩の後ろから小さな囁きが揺さぶる。
「どうして間違いないことをわざわざ確認するんだぽ?」
それは……離れているからだろう。線路二本分の距離。
声を張る。
「お前も来るって聞いてなかったよ」
「そうかー?」
「だって……」
言いかけた言葉が消える。俺は何を言おうとしていたのだろう。冬巡業に彼がいるのはもちろんのことだ。阿蘇へはひとりで来たが……。
何故。そんな暇があっただろうか。俺には小学校の訪問と交流の予定が入っていて……。
「なあ」
夏草の景色を背に、雨に濡れた笑顔が近くに見える。
「そっち行っていいか?」
高地だからか? 音が歪む。
もう一度名前を呼ぼうとすると急に飛んできた綿毛が目の前を覆う。濡れた頬にはりつく。妖精のいたずらだ。
「もう……」
勇人は両手で顔を拭う。指の隙間から向かいのホームが見える。
指の格子の向こう、滝のような雨が降っていた。
裸の両足が濡れたホームを踏みしめている。爪の伸びすぎた足。
突然、怖くなった。
両手で顔を覆ったまま視線を上げる。浴衣ではなく黒い肌。腰には草や蔓を蓑のように巻いている。ざんばらの髪が濡れて頬にも肩にも貼り付いている。まげを結っていない。目は、ぎょろりと大きなものが顔の中心にひとつあるきり。
足下から冷えて、そうだ夏ではないと思い出す。七月の末、確かに俺は阿蘇へ来た。鉄道復興を祝った行事でトロッコ列車の到着する濡れたホームに立ってた。けど、あれは夏の話で、今はもう十二月で、ススキも終わって、阿蘇は寂しい……そうじゃない、俺は火山の麓には来ていない。冬巡業、そんな暇は入れられなかった。この大きな山の…、阿蘇に辿り着くよりずっと手前、町の、小学校で俺は子どもたちと交流する予定があって、小さな手、子どもの手がたくさん、握手して。
「すげえでかいっすね!」
耳の奥に蘇る子どもの声がそのままホームの向こうから聞こえた。
両手の覆いを外す。幼なじみの姿は消えていて、給食着の小学生が立っている。もう一度指の隙間から見る。姿はさらに小さくしぼみ、狐ではない、狸でもない、動物の姿になった。
空をつんざくような声が放たれる。動物は飛び上がり、宙できりもみした。線路が轟音を響かせた。トロッコ列車が線路の終点を突き破って走り去る。
「これ、夢かな」
プラットホームに残された勇人は顔を拭った。
「いつ覚めるんだろう。全然起きる気がしないんだけど。むしろ今ばっちり起きてるみたいな」
「こっちだぽ」
ぽぽたんがぬいぐるみのような手で、トロッコ列車の突き破った黒い穴を示す。勇人は自然と困り顔になりながら笑う。
「そっちにおばけもいるんじゃないの?」
「ムジナだぽ」
「むじな……」
そういえばそんな動物の名前を聞いたことがある。それとも落語だったかな?
「ジブリの映画みたいだ」
黒い穴の中を歩きながら勇人は呟く。
「千と千尋だぽ?」
「んーん、ぽんぽこ」
おばけ、と言いかけて言い直した。
「阿蘇のむじなも冬巡業見たかったのかな。子どもみたいだった。あの声、小学校で聞いた子どもの声に似てた。僕とも遊んでよ! とかそんな風に言ってたのかなあ」
ふわりと肩にあたたかなものが乗る気配。綿毛が頬をくすぐった。
「きっと大栄翔関が思ったとおりだぽ」
夜、幼なじみに連絡してみる。ジブリみたいな動物に会った。写真ねーの? という返信に撮ってないと答えたら秒と間をおかず、わら、と返ってきた。
「洸助」
勇人は声に出しながら返事を打つ。
「ちょっと電話しようか」