誂さんの現パロくわまつの二次創作(鶴をそえて) 春の彼岸は桜の咲き初めにはまだ早い、が、童謡にもあるように季節は山からやってくる。長い石段を登る間に松井はちらほらと蕾をほころばせた桜の木を見た。それは純白と言ってもよかった。ソメイヨシノとはまた違う、この土地で育ってきた木なのだろう。そう思う。
勤め先の関係で春秋の彼岸は物故者供養の法要が行われ、社員はそれに参加せねばならない。全員、では現場が回らなくなってしまうから、よほど春分の日の開催でない限りそれぞれ代表を一、二名出す程度だけれど今日は随分集まった。
その中で一際目立っていたのが白髪の男だった。齢は自分よりいくらか上か、しかしそれでも若いはずだ。押しつけられた面倒ごとをひとりでこなしてきた結果今のポジションにいるのだと上司らの軽口の中に聞いたことがある。会社所有の不動産を管理しているということで、松井は自分が仕事をする周辺で彼の姿を見かけたことは一度もない。だが、この彼岸の法要では必ず、年に二回、見る。
男がちらりと振り向いた。読経の最中だった。いわゆる美形だな、眼差しに会釈しながら松井は思った。色素が薄く肌は透けるようだ。相手は微笑し、再び前を向く。今度はその横顔を、斜め角度からわずかに見える表情を松井が見つめた。まばたきが読経に合わせてリズムをとっているように見えたのは空気にのまれてしまっているのだろう。読経の声と伽藍に満ちる香の煙。漂う霞の中で松井は奇妙な悲しみを感じる。芋づる式に思い出した? 過去に参列した葬儀のことを。そうじゃない。正体の分からない、海のように広くて深く冷たい何かが心を満たす。それとも自分が沈んでいく最中なのだろうか。
談笑とともに人々が吐き出される中、松井はまだ椅子に座っていた。今日は直帰だ。急く必要はない。
「大丈夫かい」
隣にはあの真っ白な男が佇み、自分を見下ろしている。
「立てるか? 少し外を歩かないか」
松井は黙って頷き席を立った。
境内は広く、誘われるまま歩くと本堂の裏手にも更に細い石段が続いているのを知った。脚に自信は? 白い男は階段にかけた自分の脚を掌で叩く。自信と言うほどアウトドア派ではないが季節のもの、いわゆる神様の落とし物を探して桑名にあちこち連れ回される分には歩くことには慣れている。
「まあ」
という返事が自分にしては無愛想だった。
「重畳」
男は歯を見せて笑い早速階段を登り始める。
参道の石段よりも古びた、もしやこれは昔の墓石ではと思われるものまで使われた石段は、しかし手入れのされていない訳ではない。覆い被さる枝は適度に払われ、落ち葉も昨夜の風が落としたものだろうものしかない。
「楠は一気に葉を落とす。もう少し先だがな」
男は言った。
「古い葉が落ちて赤い新芽が空を染める」
「桜、は」
太腿が重い。石段は段の幅が狭く、急だった。
「あと一息だ」
男は軽々と最後の段を駆け上がった。松井は鉄錆びた、しかし人々の手に撫でられて表面のなめらかに磨かれた手すりにつかまりながら一段一段脚を持ち上げた。
辿り着けばそこは満開の桜の園、ということはなく、しかし開けた墓地を見下ろす山の斜面にはあの白い桜が夢のように咲いている。そう、墓地だった。古く小さな墓石群。時々新しく立てられた白い十字架。
松井は軽く肩を上下させ目の前の光景を見つめ、そして振り向いた。街が見下ろせる。何もかも小さく、霞んでいる。
「俺たちの祈りはここへも届けられている。誰も大きな声で言いはしないがな。せっかく静かに眠ってるやつらを驚かせてしまっては塩梅が悪い」
「……知らなかった」
いや、本当にそうだろうか。松井が口を噤むと、男の表情に静けさが満ちた。
「何百年も前から知っていた。落ち葉も忘却も風と時が吹き流し、そして思い出す。忘れていたこと。覚えておいてくれという小さな囁き」
俺はここの墓守だったんだよ、と声は明るく響いた。二十年前春の法要の席で会長に声をかけられたという。
「二十年前?」
「驚いたかい」
楽しげな笑い声が響く。楽しげだが浮つくことのない、そう、先まで伽藍に響き渡った読経のような強い響き。
「今日で最後だ。転職することにした」
「はあ……」
急な告白に気の抜けた返事しか出ない。
「次の仕事ははっきりとはしちゃいないが、ツテもある。ひとつ東北を巡ってみようと思ってな。桜前線を追いかけてみちのくの旅だ」
「それは……いいね。仕事では随分苦労してきたとか」
「じいさん、何でもかんでも俺にふるんだ。参ったぜ」
でも待ってた甲斐があったよ、と男は言った。
「ここで、こんな話が出来る日を待っていた。彼岸の法要がいつも楽しみだったよ。この日を境に冬が終わる。冷たい風が海から吹きつける季節が終わる。世界を染めるのは桜だ」
風に乗ってちらちらと花弁が降る。ちょいとドラマチックにできすぎだな、と悪戯をしすぎた顔で男は笑い、松井もつられて吹き出した。
急な坂の下りはこたえる。ふたりはゆっくりと石段を下りた。すっかり人気のなくなった境内を横切り、参道の石段をまた下る。
「毎年、毎回見る顔だと思ってたよ」
「僕を?」
「かつての仲間によく似てる」
道行きは続いた。駅前のロータリーを渡る。アーチ街に入る。
「家族は元気かい?」
「え? あ、はい」
「そこのお菓子を買って帰る家族さ」
男がそんなことまで知っているのを、松井はもはや不審には思わなかった。
「ああ。元気だよ、桑名も」
自然と口に出すと男の目が見開かれ、遠い夕日を反射して金色に光った。男は松井の目の前に立ち、手を握り、まっすぐその眸を見据えた。
「さびしくなる」
そして手を離し、気が抜けたように笑った。
「はは……」
妙だろう、と呟き、
「やっと言えた」
ともう一度まっすぐに松井を見た。ああ、目の奥から笑っている、と思うと安堵した。
「お元気で。いい旅を」
「きみもな」
男の後ろ姿は雑踏に紛れてあっという間に見えなくなり、松井はしばらく佇んでいたが、思い出したように洋菓子店に近づいた。
「真っ白なケーキ」
こどものような言葉で注文する。電車に揺られる間も箱の中のケーキを大事に支えた。玄関のドアは桑名に開けてもらった。
「どしたん」
「これ、支えて」
ケーキの箱を渡すと、丈夫な身体に抱きつく。桑名は反射的にばんざいの格好で箱を持ち上げ、驚きを意志の力で封じ込めて松井の抱きつくがままにさせた。
「白いもの、何だ」
「白? ……雪?」
「それから」
「大根」
「他の」
「蕪、山芋、ああ、違うのかな?カスミソウ、スイートピー…は他の色もあるよね、まだ違う? 白、白、ピアノ」
「鍵盤の半分だけだろ」
「それよりも多いけどね。じゃあ、オコジョ冬毛仕様、シマエナガ、そうだ、鶴」
「…………」
「正解?」
「…………」
「これ、鶴?」
桑名はケーキの箱を見上げて匂いをかぐ。
「桑名」
低い声が言った。
「大切な人とお別れしたよ」
語尾が涙に崩れた。
「僕も、今、さびしい」
泣き出した松井の背後、夕景は静かに広がる。都市部の端っこ、ふたり暮らしには少し広めの家の玄関で、開けっぱなしのドアから松井の泣き声は漏れ、桑名は気の済むまでそうさせるし、意志の力でケーキの箱を支え続ける。
「話聞かせて」
桑名はやさしく言った。
「松井が大切に思った人のこと、さびしいこと、ゆっくり聞きたい」
ゆるゆると腕が離れ、ごめん、とケーキの箱が取り上げられる。今度は桑名の手が松井をハグし、トレーナーの袖で松井の涙を拭った。