煙社降臨節暦 第十三夜/ケイト・ダイヤモンドが無性にむしゃくしゃして酒瓶を買って一気飲みして…… 階段は長く急だった。螺旋を巡るうち、永遠に終わらない仕事に従事しているような気にさせられる。事実、何らかの魔法はかかっているに違いない。ケイトが正気を保ったまま塔を上れるのは、予防策を講じていたからだった。事前に説明されていた訳ではないが、こういった面で抜かりないからこそケイトは用心深い金満たちの信頼を得、仕事を繋いでいる。
階段を上りきった先に待っていたのは漆黒の扉だった。その向こうには漆黒の部屋と美しい青空が広がっていた。六面の壁。六面の窓。濡れ羽色の壁紙、黒炭色の窓枠。だがこの街で一番高い場所にあるこの部屋はどこよりも天に近く、窓の外は遮ることのない青空が広がっている。
部屋はがらんとしていた。家具は全て取り払われたのだ。正六角形の中央にひとりの、そう人間の形をした美しいものが佇んでいた。
人形だ。
少女だ、とはじめは思うだろう。そのうち少年かもしれないと思えてくる。性別は混ざり合う。美に収斂する。ケイトはカワイイ、と心の中で呟いた。素直にそう思えた。白からピンクを経て朝焼けの曇天の空のように広がるスカートのフリル。心臓のありかを指し示すようなルビーの薔薇のブローチ。ひとつひとつ、どれもが芸術的で、そして目玉の飛び出るほど高価な代物だ。だが……それも人形を飾る脇役に過ぎない。
十年前に急逝した人形作家の作だと聞く。ケイトも写真集を見たことがある。実物を目にしたのは初めてだった。人形であると信じさせるのは、あまりに不変だから。恐ろしいほど自然につま先立ちで静止し続ける足。軽くほころんだ赤い唇。膚もまるで柔らかい赤ん坊のそれのようだ。いや、まさか……。
壊せ、と命令されていた。それが今回の仕事だった。理由はきいていない。聞かない。それがケイトのポリシーだ。依頼人の心には触れないこと。彼らの心は簡単に人を毒する、とも知っている。
壊せ。
はたしてどこまで。例えば罪人のように首を落とすか。薪になるまで分解すればいいのか。服は。ケイトは人形に近づき、ドレスの胸元に触れた。魔力を込める。風の力を借りれば引き裂くことも簡単だ。そうすべきだろう。壊す。カネのために。
「やめて」
少女のような声が。
それは天井から降ってきたかのように聞こえた。あるいは窓から指す光が何かに反射したのを見たかと。視覚と聴覚が混乱している。
ケイトは咄嗟に舌を噛んだ。口中に血の味。人形を見据えたまま周囲を確かめる。壁紙の色は黒。窓枠は白……違う、あれは黒だ。空は。青い。青空だ。今日の天気予報は晴れ、降水確率0パーセント。
赤い唇が動く。
「やめて、触らないで」
人形が喋っている。驚くことではない。不可能ではない。おしゃべりする人形なら街でだって売られている。が。
ちりちりとうなじから痺れが広がる。赤ん坊のような柔らかい肌。絹よりも艶やかな黒髪。首を傾け、人形は微笑む。うわ…、ほんとカワイイ。
そう、思わせたいんだろ?
無表情を保ったまま、ケイトはドレスを引き裂いた。
「……やめて!」
高い声が叫んだ。
「パパ! パパ! どこ!」
悲愴がこんなに美しい表情を作るものだろうか。ケイトは人形の柔らかな頬に両手をあてる。悲鳴は一段と高くなる。
「パパ! 助けて! 愛する私が犯される!」
「……パパは用済みの人形を壊せって命令したんだ」
低く、漆黒の床を這いケイトの声は人形を縛り上げる。のけぞる首に黒い蔦が這う。
「私はパパを愛してる。パパも私を愛してる」
「愛してないよ」
両手に、ケイトは力を込めた。
「愛されてなんかない」
破壊の音は十二を打つ鐘の音に掻き消される。
バラバラの破片の中にはドレスの残骸、下着の切れ端、去勢された短い棒など様々なものが混じっていた。ケイトはそれをヴォイドの力で磨り潰し、灰より細かな砂にかえし、窓を開けた。塵はその一片たりとも残ることなく空へ消えてゆく。
報告を受けた雇い主は、おお、と低く呻いて顔を覆った。悲愴らしい悲愴が顔に浮かんでいた。憎悪の目がケイトを見た。
「……三倍払おう」
男は言い、床に金貨をばら撒いた。
「拾え。犬のように」
ケイトは床に這いつくばり、金貨を一枚一枚口に咥えた。純度の高い金の味。三倍の報酬は確かだった。
金貨で頬を膨らませたまま、街を出た。家とは反対方向の、東岸の街に向かった。港町は猥雑に賑わっていた。ケイトは顔なじみの薬局で金貨を紙幣と交換し、薬と酒を買った。透明な酒。火のように喉を焼く。勢いよく一口、二口と飲み干し、中身の残ったままのそれを街路の壁に叩きつける。派手な音がした。
「流れ星」
と、どこかで声がした。とっくに夜だった。空を見たが、もう星は見えなかった。
酔っているような気がした。だが冷たい風が目を覚まさせてくれた。信頼のおけるホテルに向かい、いつもと同じ部屋を取り、ベッドに転がる。手招くと、水入りのボトルが宙を漂ってやって来る。それを空になるまで飲み干し、噎せてちょっと吐き出し、笑った。
「誰の名前も呼んでやらないからな」
彼は笑いながら宣言した。そして翌日の昼までぐっすり眠った。