煙社降臨節暦 第十四夜/くりへし「あ……」
か細く悲痛な悲鳴が本丸の片隅に響く。たおやかな指先に血がにじんでいた。京極正宗であった。
肉体を持つが故に、どこへでも行ける、飯が食える、自分の足で帰ってくることができる、色々言う者がいるけれども不便を感じ持て余すことも多々あり。それに慣れてゆく。戦い、血を流し、生きるうちに。刀であった時よりも重たい身体は甲斐がある、と心の裡では思うている大倶利伽羅である。戦も、命をかけることも甲斐がある。飯。美味ければ文句はなし。風呂。熱ければ尚よい。便利が増えればそれはそれでありがたくいただくが、本丸の一角にハンドクリームがずらりと並んだのは面食らった。
「京極正宗の手荒れが、それは酷いものでな」
つい先刻、人形の主を抱えて万屋から戻った蜻蛉切が言った。
「主は居ても立ってもいられなくなったのだ」
この本丸が立ち上がり五年か六年。大倶利伽羅の顕現からも同じほどの時が経つ。その間、手荒れがどうのと主が気遣いを見せたことはなかった。が。
並んだハンドクリームを物珍しげに刀たちが眺めている。同田貫正国。肥前忠広。
「桃の絵だ」
「匂いはしねえな」
あかぎれひび割れを気にしない者どもが多かったにしろ。
「食いもんの匂い」
「食い物の匂いだな」
二振が手に取り塗りつけているのは杏の絵の描かれたそれで、甘ぇ……、と二振そろって穏やかな顔になる。
「村雲も選ぶといいよ」
「俺なんかが……」
「前の冬、つらかったろう?」
小書院から出てきた松井江が村雲江を従えてハンドクリームを選ばせている。痒かった、と小さな声で村雲が言った。
人の膚は乾く。冬の戦場では血と汗の乾いたのが膚をひび割れさせる。
「桜の絵」
「匂いは……強くはないね。桜に香りもないけれど、みずみずしくて明るい匂いじゃないか」
容器を掴んで押し出すとクリームは勢いよく手のひらに溢れる。
「……出すぎた」
「誰かに分けるといいよ」
「分ける」
「塗ってあげるといい」
松井は自分の選んだ――金木犀だ――香りのを手に塗りつけながら言う。村雲が突然こちらを振り向いた。
「大包平しらない?」
「……知らん」
「遠征部隊だったろ、今朝は」
肥前が声をかけると、広間か、とぱたぱた駆けてゆく。遅い昼食をとっているところか。廊下を越して声が響いた。
「何をする村雲江。俺の顔に何を塗った。おい。俺はまだ食事の最中……聞いているのか。嬉しそうな顔をするな……とは言わんが! 加減をしろ、加減を。おい、村雲」
「どんだけ塗りたくってんだよ」
声のする方角に首を傾け肥前が言う。同田貫は美味そうな食い物の匂いのクリームをやってきた小夜左文字の頬にも塗っている。
そんな騒ぎの中、アロエ――というらしい――の小さなチューブを一つ掴んでへし切長谷部が離れてゆく。今日、小書院に詰めているのは松井江だ。特に当番を割り当てられていないはずだが、しかし夜までその姿を見かけなかった。
というか夜になり、探し出したのだった。黙って自分の部屋まで連れ込んだ。
「火はないのか……」
長谷部は寒さにぶるりと身を震わせた。火鉢もしんとして暗い。火を入れる間もなくお前を探していたからだ、とは大倶利伽羅は言わない。大倶利伽羅の部屋は板間だ。敷物はあるし、火鉢に火を入れれば宿った力が部屋を暖めてくれるが、今は底冷えする。
問題はない、と思った。あぐらをかき、膝の上に抱えるように座らせる。寒い、と押しのけようとする手を取って息を吸った。 どう、という匂いではない。松井は桜の絵のついたものをみずみずしく明るい匂いと言った。長谷部の手はみずみずしく、しっとりと潤って、匂いは澄んでいる。真夜中に流す涙の匂いか、と思う。唇を押し当て、目を閉じる。匂いが形をなす。みずみずしく清らかな匂いが淡い輪郭を現す。
「何故、水なんか浴びていた」
「……言わせるのか?」
長谷部の歯が耳に噛みつく。凍える前に火をつけなければ。