旅「鬼太郎、ほら富士山だ」
腕の中の小さな身体を揺するが、それは眠りのまにまに水木へ全てをあずけ、ぐんにゃりと柔らかいことは男の骨肉に染みついた肉体というものの脆さーー戦場、バラバラになった手足、物言わぬあの肉体ーーを思い出させ一瞬怖気が走る。口の端から垂れるよだれを袖で拭いてやると小さなてのひらがぺたぺた這い回り、水木の手を掴んでようやく落ち着いた。
「……富士山だよ。遠くまで来たなあ」
谷を走る列車は残照を背にした巨大な山影の下、毛虫か芋虫ほどでしかない。男はもう一度、鬼太郎、と呼んだが子どもが目を覚ます気配はなかった。
いいさ、と男は胸の中で呟いた。お前は俺よりうんと長生きをする。その中で富士山を見る機会なんて何度でもあるだろう。この先の未来は明るいのだーー(そう約束したのだ、口約束だろうとも)と頭の中で誰かが呻くーー。それに、長い長い人生の中、流浪のさだめに従うこともあるだろう。
ああ、俺の家はお前の家ではないのだなあ。水木は煙草を取り出すと、片手で器用にマッチを擦った。
でも今は。
「帰ろうな」
水木は天井に向かって煙を吐き、腕の中の子どもに囁きかけた。
「今夜は俺たちの家に行こうな」
既に山影も夜空も溶け合って車窓はタールのように真っ暗だ。遠く、ちかちかと駅の明かりが灯っているが、水木の目にはまだ見えない。