煙社降臨節暦 第十五夜/越谷の人と朝霞の人とたんぽぽ あたたかな風が吹く。昨夜までの雨と寒さが嘘のような。 夜が来て、いつの間にか朝が来て、再び夜が訪れる。息苦しくなるような時間は永遠に続くように思えたのに、過ぎ去った今となれば一瞬の出来事のようだ。だから洸助は分からない。これが睡魔に襲われた一瞬に見ている夢なのか、それとも既に時は長く過ぎ去りはるか遠く老いた自分が若い自分を思い出しているのだろうか。
現実離れした美しい景色の中にいた。一面のたんぽぽ畑。風に舞う無数の綿毛。知らない山の駅にいる。プラットホームは低く、屋根もなく、たんぽぽ畑に埋もれてしまいそうだ。
それでも列車は来るのだろう。明るい景色、美しい山々を見せるために。それはSLか、トロッコ列車と呼ばれるのんびりした列車のはずだ。そして思い出した。後者だ。 向かいのホームに勇人が立っている。神妙な顔をしていた。
「おまえがそっちで、俺がこっちならさ」
洸助は唇の片端を持ち上げた。
「俺たち行き先逆じゃね?」
「そんなことないよ」
声を張っている訳でもないのに、勇人の言葉ははっきりと、だがソフトに、穏やかに耳に届く。
「この列車は夢の列車だから、火山の周りを一周するんだ。俺たちは同じ景色を見るし、何度も会う」
「すれ違いじゃん」
「正面から出会うんだ。何度だって」
土俵の上で向き合うように、だろうか。
「勇人」
笑顔が自然と落ち着き、静まりかえる。
「慰めなくても大丈夫だから」
線路を隔てた向こう、勇人は首を振る。そんなつもりではないと。だがやさしさは分かっている。市のマスコットキャラクターの力を使ってまで、一面を花畑に変え、あたたかな風を吹かせたのだ。
それでも。
「寒くていい」
目を伏せ、頬を切る風を思い出した。
「雨降っててもいい。俺は、今の季節でよかった。俺、多分、冬好きなんじゃね?」
「かもな」
「これから好きになるのかも」
「お前は、強くなると思うよ」
「ライバルに塩送ってんの、わら」
肩を揺すりながら笑う。笑い声に空気が震え、新たな綿毛が次々と空へ舞い上がる。
「帰るわ」
「うん」
「また連絡するし」
「うん」
「お前んとこのぽぽたんにもよろしく」
ひときわ強い風が吹いてタンポポの葉のさわさわというかすかな音が合唱のように広まった。
「俺、もう少し寝るわ」
「うん、おやすみ」
「勇人、さんきゅな」
もう少し眠る。それだけの余裕があるだろう。考えることもやるべきことも山ほどあった。だが今は眠るのだ。力を蓄え、眠るのだ。目覚めた時、己の名前に恥じぬよう。