煙社降臨節暦 第十八夜/おおかねくも 暑さをいつまでも引きずる晩夏だった。初秋という言葉もないような秋だった。それでも連隊戦が終われば、やれやれ季節も一段落といった気配が漂う。皆には白玉入りの氷菓が振る舞われた。万屋から大八車で運んできた氷をごりごり砕いて削って、蜜をかけて、餡をのせて。一口、二口。ごちそうさま、と小さく呟いて村雲江は広間を離れた。
どこもかしこも開け放してある。海からの風があるから涼しいけれども膚はべたつく。井戸端で顔を洗い、手を洗い、念入りに拭った。心臓の音がやや、はやい。一息つき、井戸に映る己の姿を確かめる。戦装束とてきっちり着こなしたそれではないから、整えるといっても髪を少々いじる程度だ。結局、大して変わらなかった。が、覚悟は決まった。もう一度玄関から本棟に入り、長い廊下を辿った。増築を繰り返したせいで歪な曲がり角を幾つもこさえた、その先、一番奥が主のいる御座間である。
風がない。じわりと暑い。主、と声をかけると、村雲江か、と声。近侍の蜻蛉切だ。
「話があるんだけど」
障子が開く。広い御座間の床の間の前に、人形の主がちょこんと座っている。蜻蛉切は障子を開けたまま、そこへ控える。
「おやつは、村雲江さん」
「食べたよ」
答えながら腹をさすると主は蜻蛉切に茶の用意をさせようとする。
「いいから。それより主」
制して村雲は膝を擦り、前へ出る。
「あのさ、大包平」
「……ええ」
「四振、来たよね」
「はい」
「あのさ、俺、見たいなー、とか。ダメ?」
まるで口の利き方がなっていないと我ながら思ったのだが主は何せ人形だから表情を変えないし、近侍の蜻蛉切もたしなめようとしない。
「あっ、ダメだったらいいよ。全然いいんだけど、もし、習合する前になんか暇だなーっていうか、暇ってことはないか、その……」
「しぃっ」
静かで鋭い静止の音が響いた。
「刀はここにあります」
急に背筋を冷たい風が撫でたような気がして振り返ると、確かに四振の刀がそこにある。蜻蛉切が黙って人形を腕に抱え上げた。
「誰も立ち入らん。安心しろと主はおおせだ」
去り際に蜻蛉切が言った。障子が閉じた。
床の間、三方の障子、完全に閉ざされ、夏の外庭、蝉の声、海波の音、全てが遠い。じわりと膚を湿していた汗がすうっと引き、肌寒いほど静かになった。晩夏を経て初秋。熱が引く。長い戦いと戦いの間の空隙。村雲はまだ惑いの表情を消せぬまま四振の刀に向かい合う。全て同じ拵え。同じ刀。大包平。
大包平が自分を気にかけるようになったのは、何、大した接点があった訳でもない。よその本丸の二振が仲いいのを見かけて、向こうから気にかけるようになっただけだ。よその本丸の村雲江と自分は違う。構われたくなかった。煩わしい、疎ましい、腹立たしい、己の胸にあるものに名前をつけてみた。それでも大包平はものともせず、名前を呼び、近づくのだった。遠くにいても、大声で呼び近づいてくるのだった。
一振、手に取ってみる。鞘から出す。美しい刀身だと分かる。一目で分かる。だが、
「よく分かんないなあ」
村雲の口からこぼれたのはその一言だった。だんだんと眉根が寄った。目がそばめられた。唇を噛んだ。泣きたい訳ではないと自分に言い聞かせたが、何故か視界は勝手に潤む。
分かんない。内側に籠もった熱を溜め息とともに吐き出す。
村雲は服を脱ぎ落とした。四振の刀を抱きしめた。白い肌を、刃は傷つけなかった。今ならこのまま食べてしまうこともできる。そう思って、不穏を瞳に宿らせ、目元を赤くして腕の中の刃を睨みつけたが、彼らはしんと黙して語らず、抗うこともせず抱かれるままになっている。らしくないんだよ……、そんな呟きが胸の裡に漏れたけれども声にはならなかった。強く抱きしめた。刃はひやりと冷たく、触れた膚は熱い。いつまでも昼間の続くようだったのが、突然ストンと陽が落ちる。夏は終わったのだ。夕闇の中で村雲江は溜め息をつく。名前を呼ぶように。
四振の大包平は習合されて、彼は知ってか知らずか――いや、恐らくは知りようもあるまいが、とにかく村雲の秘密は秘密のまま誰に漏れることもなく秋はそれなりに深まって、江戸城だ何だと忙しい出陣があり、中秋の名月には二階で江の者どもが使う部屋の窓へ、どこからか屋根を登って大包平が現れて桔梗の花をくれるなど。仕方ないから遠征で何の気なしに摘んだススキを持たせて帰してやるなどするうちに、大包平は折々花を持って訪れて、どうしていつも窓からと問えば「塀を越えるのは得意だ」とうそぶく。
藤袴の季節が過ぎた。庭は雪模様になる。ぬくい冬かと思いきや急に冷え込み始めた。遠く望む山に初めて雪の積んだ日、冬の連隊戦が始まった。村雲江は留守居である。蔵へやられた。大典太とともに大阪城で増えた刀を整理した。習合されるもの。錬結に用いられるもの。つい先日、二振目の兼さんが修行から帰ってきた。食うものはいくらあっても足りない。蔵はすぐにがらんと空く。空いた棚を、村雲は手のひらで撫ぜる。
「どうした」
と、大典太が尋ねる。
「……さびしいのか?」
言葉を選び、問われる。村雲は棚にもたれかかるように首をかしげた。
「ううん」
言葉を探す。
「半分そうかも。半分そうじゃない」
「半分違うのか」
「俺、欲張りになった気がする」
そこにはない刀を撫でて答える。今度は大典太が首をかしげる。
「忘れて、大典太」
「ううん……」
掃除を切り上げて本棟の広間へ戻る。皆がおやつのぜんざいを食べている。刀の数が少ない。一部隊、まだ遠征から戻らない。ぜんざいで腹を温めながら、村雲は庭の椿を眺める。雪がこぼれ落ち、赤が鮮やかに映える。
「遠征部隊の帰還です」
蜻蛉切の報告する声が遠くに聞こえた。