戒指 男の名字を呼び捨てにするのは妻の特権だという。庚子は妻の持つというそれをはなから持たなかった。長田は龍賀乙米のものであり、それは祝言を挙げた今でもやはり変わらないのだ。
故に長田が己の名を呼んだのはいっそ身分不相応にも思われたし、自分の身がそこまで落ちたとも感じられる。
「手を」
と長田は庚子の左手をとった。薬指に金色の指輪が嵌められた。恐れに、庚子は身を固くした。
「……いいのですか?」
長田は表情を変えず、だがわずかに不思議そうに答える。
「夫婦ですから」
「そうではなくて、あなたは……」
その時既に長田の手は離れていた。左手薬指に金の指輪だけが残された。
新床を果たさず、これからも枕を交わすこともない男。だが自分にはあれを長田と呼び捨てる権利がある。私の名は長田庚子だ。この指輪はあの男の妻である証だ。この指輪が薬指に光る限り、あれは私の夫だ。
「私の男(ひと)……」
投げ捨てたい。叩きつけたい。それができない。これは私のもの、そう思うと庚子は悔しくて悔しくて袖を噛んで涙をこらえた。