煙社降臨節暦 第十九夜/弊本丸のへし切長谷部 ぱん、と額が割れて光が溢れ出すような目覚めだった。すっきりと起きた。力が漲っていた。起き上がる。肉体の中心たる重みが消えている。へし切長谷部は床の上に仁王立ちになり、しばし寒気に我が身を晒した。
寝間着の帯を解く。胸がふっくらしている。下着の前はぺしゃんと平らになっていた。念のため手で触れる。ない。陽根が消え、足の間に伊邪那美命(いざなみのみこと)が成り成りて成りあわざるところと称したものがある。うん、女体になった。
胸周りがきついということもなし、普段通り戦装束を身に纏うのに不便はなかった。髪の長さも元の通り。頬がやや丸みを帯びた気もするが、どうということはない。夜更かし、深酒でも顔はむくむものである。仔細なし。であれば気にすべきはひとところのみ。表へ出た。主は御無事だろうか。
時たま、あることだ。主の霊力が乱れれば、その力により励起された刀たちにも乱れは広がる。これまでも新しい刀の鍛刀の成らなかった時、主の悲しみは霊力の暴走を引き起こした。初めの頃こそてんやわんやの本丸であったが、何度と繰り返せば皆々本日は休むべぇなというゆとりも生まれる。故であろう、今朝も騒ぎ立てる声は聞こえない。
しかし妙であることは、連隊戦こそ続けども、昨日は何か大きなしくじりであるとか、そういう類の出来事が起きた訳ではないのだ。で、あれば純粋に主の身に異変が起きたものと思われる。
早足で東の棟を抜けようとしたところで、妙な声を聞いた。誰かが吐いている。厠から反吐を吐く不愉快なほどの声が聞こえる。
「誰か……」
と言いかけ立ち入ろうとしたところで、来るな、とへしゃげた声が低く響いた。村雲江の声だった。
「どうした」
「ほっといて」
「誰か呼ぶか」最近仲の良さそうに見える刀を思い出す。「大包平とか」
「呼んだら殺す」
物騒なせりふだ。よほど切羽詰まっている。彼の身にも異変が起きたには違いあるまい。刀の折れるほどの危機が及ぶことはないにしろ……。
はやり踏み込むかと戸に手をかけたところで、やめろ、との声が背後から聞こえた。
背の高い男が立っていた。長い黒髪を束ね髪に、わずかにほつれた髪が赤く一筋、二筋。
「……貴様、肥前忠広か」
「ここは任せて他を頼まれてくれ」
目元は鋭いが険のあるそれではなく、切れ長の中に落ち着いた瞳の光がある。太刀ほどの背丈になってしまっては元の装束では寸が足りるまい。軽装の着物だが、襷掛けに尻はしょり。余程忙しい様子だ。これに気づかず俺は寝ていたのか?
「主は」
「寒さで人形が割れた。今は村正様が抑えておられる」
人形の主。今朝の目覚めが思い出された。額を割って溢れる光。あれは主を夢見たものだったのだ。駆けだしそうになる足を、ぐっ、と踏み堪えた。霊力で抑えている、と言うならばみだりに結界を踏み荒らすことはまかりならぬ。御座間に至るより前に門前払いを食らうだろう。一呼吸。
「近侍はどうした。蜻蛉切は」
「大千鳥が案の定鳥になってな。今は槍総出で追いかけているが」
目元口元が引き攣ったのが己でも分かる。
「あいつは初めてだったか……」
苦み走って駆け出そうとしたところを乾いた笑い声に足が止まった。
「心配せんちゃよか」
くはっ、と肥前忠広は笑った。
「大手門、裏門、裏鬼門は大太刀の抑えとる。大千鳥ば回収すっなら後は大事なかろうたい」
「……肥前?」
「おいがこつは気にすんな」
今度はわざとであろう訛りを聞かせ、太刀の肥前忠広はにやりと笑う。
「大事にゃならねえよ。させねえだろ。明日は審神者の就任記念日だ」
力むなよ、と小突く拳が重かった。女体には堪えた。低い声を漏らすと、ああ、と肥前忠広が気づいた顔をした。
「あんたもだったか。悪かったな」
「気にするな。慣れている」
「厨房に行ってくれ。飯作る人手が足りねえ」
本棟へ爪先を向けると、背後で厠の戸を開ける音がした。肥前忠広が声をかけている。村雲江の罵る声は聞こえなかった。
果たして厨だが、集まった者の少ない訳ではない。ただ異変のあれば、元へ正すのに一番力となるのは飯であって、皆いつもの倍は食うから作っても作っても足りぬ。人手が要る。色々と集まっているのは予想の内だったけれども。
「ム、助太刀か」
「おはよう、長谷部」
「なんだ、てめえは無事か。重畳なこった」
「…………」
人間無骨、不動行光が上手く世話を見てくれたようだ。厨に馴染んでいる。握り飯を作っている。同田貫正国。慣れたものである。伸びた髪は邪魔にならぬようおさげ髪にし、握り飯を作っている。大倶利伽羅も文句を言わず握り飯を作っている。
ただし全員胸がでかい。
豊満という言葉と貧相という言葉が同時に頭に浮かび、流れ去った。
「ぼうっとしてないで、あなたも働くんですよ、へし切」
宗三左文字が新たなおひつを押しつける。でかい。まさかそんな。この前の異変では鶏ガラのままだったのに。
よろめきながら座る。隣に源清麿がいる。
「おはよう。具合はどう?」
一番のボインだった。丸く、大きく、包まれると心地よかろうやさしげな形だった。清麿がにっこり笑った。
「まずは気付けに」
一杯差し出される。何も考えず飲み干した。胃の腑からカッと熱くなった。わはは、よし、握り飯を作らなければ。
夕暮れ時の広間には、子ども、女体、猿面、犬、猫、鳥数羽、形はそれぞれなれど全ての刀が揃う。
主は新たな人形が馴染むまで籠っている。審神者の就任記念日にお披露目なのだからいっそ縁起がよかろうと大太刀連中が笑う。一日、暴走する霊力を外へ漏らさぬよう抑え続け、皆、髪がぼさぼさである。ちらりと見遣ると松井江と肥前忠広に挟まれて村雲江の姿が見えた。赤い蝶の髪飾りをつけている。女体になったのだ。五月雨江のように犬になった訳ではないらしいが、その方がましだったとでも言うように顔面が白い。なんとか粥を食べている。
他に目立って困った様子の刀は見当たらない。ただし迫力はあった。威圧感というほど脅し萎縮させてくるものではないにしても、圧倒的であった。女体になった者、皆、胸がでかい。
何となく項垂れてしまった。
その後頭部を掠めて、ヒョッ、と鋭く歌う風。
ざっ。
一斉に総毛立ち、立ち上がり、へし切長谷部の背後を見た。純白の鶴の羽が一、二枚、ひらひらと舞った。柱に矢が刺さっている。
薄紫の毛並みの犬が矢を抜き取り、鹿の姿になった桑名江のもとへ運ぶ。鹿は犬を伴って近侍の蜻蛉切に差し出した。矢文だった。
蜻蛉切の顔色が変わった。
「誰か、受け取り箱を」
小夜左文字が畳を蹴って駆けだす。
促されて蜻蛉切が文を読み上げた。救援の要請であった。ここより離れた遠い山麓にある藤の花に囲まれた本丸の審神者の、切迫した言葉であった。
「わんぱく長谷部にさんたくろぉすの正体がバレた……」
嗚呼、と悲痛な呻き声。がっくりと膝をつく一期一振。皆、その悲しみを思った。例の本丸のわんぱく長谷部国重はこの本丸に縁を持って以来、堂々と遊びにくることはできなくとも、折に触れて顔を見せ桜花を散らし、面々に愛されているのだ。蜻蛉切もまた苦しげに続きを口にした。
「ついては……」
「huhuhu……」
どこからか天琴の音が響いた。千子村正が前へ出る。
「ワタシが一肌脱ぐしかありませんね」
「村正…」蜻蛉切は戻った小夜左文字が差し出すものを見た。「着るのだぞ……?」
「例の本丸はわれわれも恩義を受けた身。であるならば脱ぐべき衣も着ようではありませんか」
「村正……」
村正は小夜左文字の手から受け取った真紅の衣をばさりと勢いよくはおった。桜が舞う。いざ、出陣と思われた。
だが動かない。
村正は、huhuhu、と再び笑った。
「釦(ぼたん)が閉じませんね」
皆、向かいやら両隣やらと眼を遣った。鳥獣さえも場に集う刀たちを見回した。
ボインしかいない。
へし切長谷部の他は。
「救世主(めしあ)!」
「くっ……!」
本丸一致団結の声援を背に受け、さんたくろぉすの衣裳をまとったへし切長谷部は望月を駆る。師走を切り裂く風のように。