あなめでたや、われらが愛し子 十月十日の苦しみが流れ出す。生まれたのは人間の子どもだった。
柔らかな身体。細い手足。産声は縋るようだった。産婆に促され乳を含ませる。小さな手指がしがみついた。
積年の悲しみが奔流となり、揉まれるのは心だけではなかった。眩暈がした。庚子は自らが縋るようにして産まれたばかりの嬰児を抱き締めた。産婆が、やさしく、やさしく、となだめる。皺だらけの手が添えられ、両腕がやさしく赤ん坊を抱く。己の肩さえ、こんなにやさしく抱いたことはなかった。
人間の子。あの化け物のような父とは違う、やさしい瞳の色。私の産んだ子。長田庚子の産んだ子ども。で、あると言うのならば。
龍賀邸より夫が帰る。洗い流してもかすかな腐臭と血臭が漂う。だが今日は気にならない。強い血の匂いを纏わせたのは己もそうだった。産みの苦しみ。流した血の匂い。そして得たのはやさしい瞳の子ども。厭ういわれはない。
産婆も下女も下がらせる。長田がいる。監視としては十分すぎるほど十分だ。聞き耳を立てる者もいない。だから。
庚子は赤ん坊を抱いた己の左手をそっと撫でた。慣れた指先が指輪を探り当てる。
いずれ奪われるやもしれない子ども。だが今だけならば。長田庚子とその夫幻治、ふたりきりの今ならばこう呼べる。
――私たちの子です。
影が揺れた。
長田は両手を畳に両手をつき、深々と頭を下げた。
「お目出度う御座います」
顎の骨が壊れ、こぼれ落ちたような心地がした。庚子は息をするのも忘れ、長田の頭を見下ろした。
――今すぐ顔を上げて。
言えない。
――この子を見てください。
言えない。
――人の血の通う、私たちの子。
私と貴方。
――この子のやさしい目を見て。
赤ん坊は長田の手に委ねられる。これより今すぐ龍賀時貞にお披露目しなくてはならない。
立ち上がるすっくとした後ろ姿を見た。皺ひとつない、伸びた背中。庚子は胸元を握りしめる。泣きながら縋る、あれは遠い昔に殺された私の手。
「……なまえ、を」
しゃがれた声で呼び止めた。
「あなたが名前をつけてください」
「……なんですって」
幻治が振り向く。眼を見開いて、今まさに罪を目の前にしたかのように庚子を見る。庚子は怯まない。
「わたしがつけた名だと言えば御父様も反対なさらないわ。わたしは男児を生みました。数十年ぶりの、龍賀の血を引く男児ですよ。このくらいのご褒美はお与えになるはず」
「しかし」
「長田!」
口中に血の味が滲む。
「長田と……名乗って育つのですよ、この子は」
おう、おう、と柔らかな声が上がった。まどろみの中にいた赤ん坊が目を覚まし身体をゆすっている。掴むものを探して手を伸ばしている。幻治が膝をついた。庚子は前をはだけ、夫の肩に手を置き覆い被さるように乳を与えた。
雨の音が庭を打つ。庚子はぐったりとして布団に手をつく。長田は腕の中の赤ん坊を見つめていた。
「弥栄(いやさか)と……」
ぽつりと、彼の男の口からこぼれるには程遠い言葉がふたりの間に落ちて、庚子は顔を上げた。長田が自分を見ていた。
「時弥……とお名づけになったのですね」
「……はい」庚子はしっかりと頷いた。「この子は長田時弥」
立ち上がった長田はもう振り返らなかった。とうとう支えるものをなくして庚子は床にうつぶせる。喉から細く呻き声が上がった。それも長くは続かなかった。涙だけが流れた。震える唇は赤ん坊の名を繰り返していた。時弥、時弥、時ちゃん……。