青と呼ぶには薄く白んでいる天井があった。
空だ。
明けの空がある。
まだ高く日の登らない空を見上げる影があった。
全身を黒一色に染め上げた男、名を禪院恵と呼ぶ。
男は明けの空を淡々と眺めて、吐息をこぼす。
吐いた息は白く、宙を待ってふわりと消えた。
かぷかぷ、かぷかぷと笑い声がする。
ここは水の中ではない。クラムボンはここにはいない。
“蟹のお父さん”が“やまなし”を手に取って持ち上げた。
「めぐみくん」
幼子の声がする。
“蟹のお父さん”は慌てて影の中に隠れて消えた。
染め粉で染め上げた金糸の髪が朝日に照らされてキラキラと煌めいている。
“伏黒恵”と同じ、ターコイズカラーの瞳を爛々と輝かせて近づいてくる幼子は、ひたり。と手足を赤く染めながら禪院恵の裾を引っ掴んだ。
「雪! ふったで!」
「そうですね」
はあ、と幼子の口から零れる白い息。
着せられた服は上質だが気候に合わない。
寒いだろうに、悲しいことにこの子は嫌われているからお優しく上着を用意してくれる下女はいない。
かわりに、禪院恵はその子を抱き上げてやって可愛い可愛いと撫でて羽織の内側に収めるのだ。
「ゆきがっせん、できるかな?」
「もう少し積もらないと、厳しいですね。
まあ冬は長いから、そのうちカマクラも作れますよ」
「ホンマに?」
「ええ、本当に」
一緒に作りましょうね。と、猫なで声で甘やかせば小さな子供が嬉しそうに笑った。
子供の名前は、直哉と言う。
禪院直哉は、伏黒恵が禪院の姓に入る際に交換条件として五億で禪院直毘人から買い取った恵の妻だった。
①
所謂“やり直し”というやつだ。
恵がそれを思い出したのは、父親が泣きじゃくっている姿を幼いながらに目にした時だ。
そうか、これが己の父親だったかと、彼をなだめすかしながらそう思った。
自覚してから、世界は少し違っていて、変わっていった。
父親は恵を禪院家に売ることなく恵と一緒に居てくれたし、五条悟と父親は何故か意気投合したし、夏油傑は離反しなかった。
その中でも、恵にとって印象に残ったのが直哉の存在だった。
甚爾が渋々といった様子で五条悟(彼も前の記憶があるらしい)と共に恵を禪院に連れ出した時、何故か直哉だけ居なかったのだ。
どうやらその時直哉はまだ産まれていなかったらしく、直哉が産まれたのは恵が十四歳の時だった。
第四子が産まれたから顔だけでも見せに来いというあまりにも横暴な連絡に、悟に連れられて恵だけついて行ったのだ。
恵を殺そうとした男の産まれたばかりの姿を見る羽目になるとは。恵は悟に引っ掴まれたままぼんやり考えた。
「あら。ごめんなさいねぇ、来てくれはって、ありがとうね」
関西訛りの強い人だった。
奈良の方で産まれた、特に孕むことに関してよく適した家系の出身だとかで、直毘人がかなり入れ込んでるようで訛り口調も好きで堪らないんだとか。
直哉を女にしてつり目を大人しくした顔つきに、やり直す前に禪院で直哉だけ関西訛りをしていた理由を察した恵が直毘人を見やった。
見られている直毘人は素知らぬ顔をしている。
彼に、前の記憶はない。
「ほら、見てくださいな。かぁいらしやろ。
この子だけやね、一等私に似てはる」
そう言って赤子を見せびらかした女の腕を覗き込む。
そこにはあんまりにも小さくなってしまった直哉がいた。
薄毛の黒、きゅうと閉じられた細い目。
ああ。と小さな唇から声を出して、見知らぬものを見て短い手足を丸めている。
「……かわいい」
「せやろ」
パッと見でわかるぐらい、美人の顔立ち。
愛くるしさだけを詰め込んだ赤子に恵が息を飲む。
傍から見ていた悟は後にこう語る。
「ありゃ、一目惚れだね」と。
四つから六つの間に、直哉の術式はわかる。
それは相伝ではない、彼はあの家に愛されない。何故なら、もう既に恵が居るからだ。
悟の後ろ盾があって、既のところで「候補」として収まっている恵の脳裏にはあの小さな紅葉のような掌の記憶しかない。
あの掌が、禪院という自己保身ばかりの悪意に飲まれて汚れていく。
蔑まれ、妬まれ、哀れまれ、憎まれる。
――恵は、どうしてもそれが許せなくなった。
②
真依には前世と呼ぶにはあまりにも生々しい記憶がある。
真依が記憶している世界とは少しズレているが、概ね世界は同じように回っていた。
少なくとも、伏黒恵が直哉を娶りにくるまでは、だ。
両面宿儺と虎杖悠仁の間に縛りが設けられ、偽加茂前当主(現当主は加茂憲紀で、当主になると同時に前当主親子を切って母親を家に入れ、五条悟と手を組んでいる)が各地に散らした特級呪霊と宿儺の指を巡る争いが始まって一年経とうとしたところだった。
恵はすっかりガタイの良い男になっていて、知る人が見ればその姿は彼の父親にそっくりだ。
十八にもなればそろそろ禪院のものが嫁だ妻だと言い始めて煩い時期で、直哉が四つになり術式が判明したのもその頃だった。
「……投射呪法だな」
呆然とした様子で、遠くからほんの瞬きの間に直毘人の胸に飛び込んできた直哉を抱きとめて呟かれた一言。
まるでそれが当然のように使われた術式の開示は、瞬く間に禪院家に広がった。
一族の代表が十種影法術を相伝しなかった子供を見下す集まりというのは給仕を行う真依ですら居心地が悪い。
父親の隣でピンと背をはる姿を大人に嘲笑われるのは、きっと前の彼にもあったものだ。
真依は直哉が好きではない、好きではないが、この家で十種影法術を相伝しなかった子供がどういう扱いを受けるのか身をもって知っている。
伏黒恵がいる以上、彼は前みたいに扱われない。前だって、大人が五人も集まれば表向きは笑って裏ではヒソヒソと聞くに絶えない言葉を連ねていた。
そんな中で彼がケンケンとイキリ散らせていたのは、次期当主として第一候補であったことと、父親から相伝した術式を完璧に使いこなせていたことだ。
今世も、直毘人と同じ術式を相伝した彼だが、次期当主になれない彼にどこまで大人の悪意を耐え抜くことが出来るのか。
――真依のそんな自問自答に答えを出したのは、伏黒恵だった。
直哉の術式が判明し、理不尽な暴力に直哉が晒されはじめて二ヶ月ほどだった頃だ。
恵が黒装束に羽織を下げてこう言った。
「直哉さんをお嫁にください」
阿鼻叫喚とはこの事だろう。
十四も歳下の、それもまだ四歳の子供を嫁に欲しいなど前代未聞も過ぎる。
禪院家はそれはそれはもう大騒ぎになり、当時直哉の世話をしていた女中が直哉に頭を下げさせ「ふしぐろめぐみさまにおつかえするには、ちからもおよばず。おやくめもはたせそうにありません。もうしわけございません」などと言わせたものだからもう大変。
恵は子供にそんな事を言わせるなとカンカンに怒り、直毘人もそんな事をさせるなと怒鳴り散らし、件の女中はそれはもう見る目もないくらいの折檻を受けて禪院家から家族ごと追い出されたのだという。
わけも分からず渦中に閉じ込められた直哉は、恵のことを密かに慕っていた女たちからいじめを受けたり男共から“そういう目”で見られ笑われ、可哀想なくらい禪院家では腫れ物として扱われた。
持ち前の性格でなんとか気張ってはいたものの、少し視線を外すと隅っこで声を押し殺して泣く姿はあまりにも悲しくて、それを宥めたくて近づくとピタリと泣き止んでまた気丈に振る舞い出すのが痛々しかった。
――直哉を連れ出して、二人で禪院から逃げ出してしまおうかとすら思った。
が、結局そうはならなかった。
直毘人と恵との間でどういう会話がなされたのかはわからない。が、最終的に恵は自分が次期当主として禪院家に入ること、それから直哉を引き取る為に五億を支払うことを条件に嫁にしたらしい。
何をどうしてそこまで直哉に執着するのか、真依にはわからない。
直哉を虐めていた人間を全て禪院から叩きだし、直哉の為だけの家をつくり、直哉を娶り続けるためだけに女を抱きに行く男のことなんか、ちっともわからないのだった。
③
真希は、一つ歳下の従甥のことがイマイチよくわからなかった。
「おう、会いに来たぞ」
「おはようさん」
きゃらきゃらと笑う直哉を抱きあげれば嬉しそうに頬を寄せてくる。
これがあの忌々しい屑だというのだから、やはり幼い頃の教育は重要である。
「恵は?」
「おやんよ」
六つになってなお舌っ足らずなのは、直哉を相手にしてくれる大人が少ないからだろう。それもそうだ、恵が信用している人間以外が下手に直哉に口を出せばこの家から追い出されてしまう。
――真希には前世の記憶がある。
流石に姉妹ということもあって、そこはバラけなかったらしい。棘やパンダに記憶が無いのは寂しかったが、真依や恵に記憶があったことで真希は挫けずに生きてこれた。
「今日は、姉さんと遊ぼうか」
「うん!」
禪院家のだだっ広い敷地の隅。
屋敷から遠い離れに建てられた直哉だけの屋敷。
殆ど軟禁された状態で学校に行くこともなく、会話をするのは恵か家庭教師か真依くらいしかいない直哉はとにかくコミュニケーションに飢えていた。
小さな直哉の足でも一時間も歩いていけば実の父親が居る距離に暮らしているのに、この離れに住み始めてから一度も父親に会えていないのだという。
寂しくないか聞いたら、寂しくないと返ってくるのは嘘だろう。小さい直哉は四つの頃から平気なフリをするのがとても上手だった。
前世の、あの直哉はどうだったんだろうか。
まあ、あれは幼い頃から甘やかされて生きてきたのだから、つっけんどんな所は変わらずとも今よりは生きづらくなかったろう。
「ほら、術式使うな」
「〜!」
遊びと称した手合わせを真希に命じたのは直毘人だ。
四歳という若さで、善も悪も性的な知識はおろか常識すらも知らぬまま幼妻にされてしまった息子を心配しているのだろう。そりゃそうだ。
真希だったら早々に恵から取り上げて逃げ出すが、直毘人は当主であり、何を切り捨ててでも恵の術式を禪院に引き留める必要があった。