甘美古城の扉を小さな手がノックする。
コンコンと軽い音が鳴り、少しの静寂が訪れるとその静寂を断ち切る様に古城の扉が大きな音を立てて開扉される。
「君でしたか。」そう言い、死神は顔を覗かせた。
「うん。お母さんから美味しい紅茶を貰ったからゾグゾさんにも飲んで欲しくて…。」
手元のバスケットに目をやると紅茶の茶葉と焼き菓子のマドレーヌが入れられていた。
少し形が不恰好な物もあり、手作りである事はすぐに分かるような物だった。
「…! 私の為にここまで来てくれたんですか!」
ゾグゾは仮面を付けていながら喜怒哀楽は分かりやすく、その喜びようは少年エメラダの目にも明らかであった。
ゾグゾは嬉々としてエメラダを古城の中に招き入れ、自室まで連れていった。
「この椅子に座って待っててくださいね。今お湯を沸かしますから。」
陶器製の食器が小さく接触する音を出しながら2人だけのお茶会の準備を始めたその背中をエメラダは眺め、お茶会の時には何の話をしようかと思いを耽ていた。
道端で見た事がない綺麗な花が咲いていた事。
お母さんに焼き菓子の作り方を教えてもらった事。その他にも沢山…。
話したい事を纏めようと奮闘していたエメラダは準備が整ったとの声掛けでハッと我に返った。
今私の目の前に居る少年が一生懸命作ったであろうマドレーヌを口元に運ぶ、ふんわりとした柔らかくしっとりとした生地が口の中で崩れていく。ふとバターの甘い風味を感じてしまいそうだ。
「……。」
だがその甘味を感じる事は一瞬たりとも無い。
しかしエメラダがマドレーヌを食べた私の反応をそわそわしながら窺っている。
「…バターの風味が効いていて、とても美味しいですね!作っていただきありがとうございます!」
私は精一杯に美味しさを言葉で表し、感謝を大いに伝えた。
私はいつからか何を食べても味を感じなくなってしまった。元々、活動できる程度の食事さえ取れれば良いと考えていたが、さすがに味が感じ取れないとなると少々辛いものがある。
調べてみるとどうやら私は後天性のフォークになったようであった。
この世にはフォークと呼ばれる者とケーキと呼ばれる者に分けられる人達が存在し、フォークは後天性でなり味覚が無くなる。だがケーキと呼ばれる者を食べる事で味を感じる事ができ、会えば食べたいという食人欲求が出てしまう。
ケーキは先天性でフォークに会うまで自身がケーキである事は分からない。
これは今の私に当てはまっている他なさそうだ。
この私の目の前で幸せそうに談笑しているエメラダから漂う焼き菓子とはまた別の甘く馨しい香りとそれに対して自身が抱いている食人欲求は確かにフォークの性質そのものであった。
最初に会った時より一際その匂いを強く感じるようになり、日に日にこの欲求は膨れ上がりつつある。
鼻腔の奥まで貫く様な甘美な匂いは耐え難いもので、それは仮面越しであろうともお構い無しだった。
幾らかは我慢出来るものの、最近はふとした瞬間に噛み付いてしまおうかと思う程にまで強くなっている。
私は最悪な事態を招くことに対しての緊迫感を覚え、ティーカップをカチャリと置き言った。
「…すみません。この後少し残っている仕事があるのでそろそろお開きにしましょう。」
この言葉を聞いたエメラダはこくりと頷き、
「分かった。ゾグゾさんと久しぶりに沢山お話出来て楽しかった!ありがとうゾグゾさん。片付けは僕も手伝うね。」と後片付けの手伝いを始めてくれた。
それぞれ分担し茶葉やティースプーンなどを着々と仕舞っていく。
私が茶葉を持って行こうとしたその時だった。
パリンと陶器が落ち割れる音がした、その大きな音に反射的に振り向くと。
「痛ッ…… 」
エメラダは落としたカップの破片を拾おうとしたようで、人差し指がぱっくりと切れていた。
血はぽたぽたと滴下し、微小の飛沫を作っていく。
第1関節から第2関節、第3関節へと伝って、次に指の根元に溜まり、手首にまでたらりと垂れている。
血液が重力に引っ張られ動いている様は、まるで生きているかのようだった。
私は今までに無いほどその光景に目を奪われ、思わず生唾を飲み込んだ。
だが残っていた理性が滔々と流れ出てくるその欲求を堰き止め、私を正気に引き戻した。
正気を取り戻した私は傷の手当をしなければいけないと思い声を掛けた。
「…怪我をしてしまったんですか!取り敢えずガーゼで傷を押えてください!」
エメラダは受け取ったガーゼを艶々した血が溢れ出ている傷口に押し当てた。
じわりと滲み、白い布生地の中に染み渡って広がっていくのは今の私の心境を表しているかのようだった。
この私の部屋は、暖炉の中の薪達がパチパチと弾ける音と手元の本を捲る音だけが小さく鳴り、本棚には犇めきそうな量の書物がずらりと並んでいる。この古本独特の匂いがこの空間を薄らと満たす。私にとっては居心地が良い場所だ。
私の静謐な時間…。
暖炉の日向の様な暖かさと、この静まり返った夜が私の眠気を誘う。
腕を組み、うたた寝をしようとしていると不意に気配を感じた。死神だ。
絶対に扉から入って来てくれと頼んでいるのに、黒魔術を使い床から出てくる。
毎回心臓に悪くたまったもんじゃない。
「こんな夜分になんの用ですか?尋問ならこの間やりましたでしょう。」
死神は項垂れている様子で言った、
「…話を、話を聞いてくれませんか。」────
────「…つまり、あの少年を襲ってしまいそうで不安だ…と。」
「はい…近頃は、衝動が強くて。怖いんです。」
そう言う死神の手は震えていた。
「死神の性では、もう1つの人格がいますが、この衝動は私自身が何処か望んでいる事なんですよ。」
「私が、これを抑えられなくなってしまったら…あの子を無惨に食い散らかし、本当の獣になってしまう…そんな気がしまして。」
だいぶ参っている様子の死神は深く溜息を吐き出した。
「…。」
「…貴方は、私がケーキという事…知っていますか。」
「…え?それってどういう…」
「そのままの意味ですよ。私、ケーキなんです。」
私自身がケーキという事に気づいたのは、孤児院に勤めていた頃だ。小さくて柔らかい頬を持っている可愛い子供達の面倒を見ていた時に、ある1人の子供に血が滲むほど手を強く噛まれた事があった。不思議に思った私は噛んできたその子に理由を聞いてみた。
「何故私の手を噛んだのかな?良かったら教えてくれないかい?」
優しく発したこの問いに関して帰ってきた答えは驚くものだった。
「だって、おじさんからすごく甘い匂いがして美味しそうだったから……。食べたくなって……。」
この言葉で分かった。この子はフォークだ。だとすると…私はケーキという事らしい。
「…話してくれてありがとう坊や。いいかい?今回の事は周りに話してはいけないよ。これは、おじさんとの約束だからね。」
そう言いその子の頭を優しく撫で、部屋まで送ってやった。
この世界ではフォークはケーキの人を殺し、貪り食う殺人者として忌み嫌われている。私はあの子もいつか人を殺し貪り食うのだろうかと少しの間思いを馳せていた。
「貴方…ケーキなんですか?!」
目の前の月顔の男が言っている事に私は驚いた。
何故なら甘い匂いなど微塵も香っていなかったからだ。
「ケーキの匂いなんてしませんけれど…。」
それに対し、目の前の男は鼻で笑った。
「そりゃ、悪魔も憑けば少しは変わるでしょう?なんたって体が黄色くなる程ですから。」
どうも信憑性が無い。この男が私を揶揄う事など容易に想像できる。
「貴方まだ信じていませんね?まぁ、無理もありませんか。……良いでしょう証明してあげますよ。」
そう言うと本の紙を垂直に指に立て、勢い良くスライドさせた。
数秒経つとじわりと赤い線が黄色い肌に現れた。
と同時に甘い香りが微弱だが鼻腔に届く。
「ほら、貴方の好きなケーキの血ですよ?舐めたらどうです?」
笑みを零しながら目の前の男は言う。
少々癪に障るが、この男を利用すればあの少年を傷つけなくて済むかもしれない。
「…そうさせていただきます。」
男の黄色い指の高さまでしゃがみ、切り傷に舌をつける。
これが歪な2人の関係の始まりだった。