追う者追われる者 男は西成の路地を這いずるように逃げていた。逃げる男の背後ではアルミのゴミ箱が激しい音をたてて倒れる。
「待てやァ!」
怒号が逃げる男に浴びせられる。
数人の大きな男たちが唾を飛ばしながら罵詈雑言を叫ぶ。追う男たちの服装も相まって、さながらシャチが大海原で狩りをする様のようである。
ポツポツと等間隔に立てられた街灯に照らされる男の顔は赤黒く腫れ上がり、汗と血でドロドロになっていた。目の上や鼻から血を流しながらも男は命からがら大通りに出た。
──タクシー…!
シャチたちに追われた男は叫びながら両手を上げた。1つ向こうの信号待ちしているタクシー運転手に気付いてもらえるように大きく手を振った。男は映画のワンシーンのように、両腕を左右に大きく振る。その様は空港で大切な人に向けて挨拶する時のようか、はたまた無人島でSOSを求める救助者か。
タクシーを足止めしている信号が青信号に変わった。ワンテンポ遅れてタクシーが発進する。
希望がこちらへ向かって走ってくる。
助かった、そう思った男の前にスッと黒い壁が立つ。男は目の前に急に現れた壁を見上げるとそれは人間であった。行き交う車のヘッドライトに煌々と照らされたその人間は壁と見紛うほどに大きく見え逆光で黒々としていた。
「成田…!」
男は目の前の壁を「成田」と呼んだ。
成田は男とは対称的に汗ひとつかかず、涼しい顔をしている。
成田は穏やかな声で男に声をかけた。
「えらいもったいない事するなあ。タクシー拾わんでもうちの組の車がそこに待ってるのに。」
成田は男を見据えたまま、くいくいっと少し後ろに駐車している黒い車を親指で指さす。
その車体は、大通りを走り抜ける車の灯りと煌びやかな街のネオンを弾くほどに磨き上げられた美しいものであるが、道行く歩行者はその艶やかな車と少し距離を置くように足早に過ぎ去ってゆく。
皆、只者ではない者の車であることに気づいているのだ。
成田はスーツの内ポケットからタバコを取り出し、そこから一本抜き取ると口に咥え、ジッポライターで火をつけた。
ふっと短く煙を吐き出すと
「ちょっと聞きたいことあんねん。車、乗ろか。」と成田は淡々と男に告げた。
その言葉と同時に男にとって唯一の希望だった、ダッシュボード部分に「空車」の表示を灯したタクシーが虚しく2人の横を通り過ぎていった。