出会わなければよかったきっと、こうなる運命だった。
ふわふわと浮いているような心地に包まれながら、そんなことを思う。
つくられたいのち。
きめられたおわり。
まがいもののこころ。
すべてがあたえられ、うばわれ、わたしはどこにゆくこともないまま、きえていく。
すぐそばで子どもたちが泣いているのがわかった。でも、赤子である双子の泣き声は聞こえないから、愛らしく眠っているのだろう。子どもたちの温かな涙が、頬にぽつりぽつりと落ちてくる。
泣かないで、と声をかけたいのにのどを震わすことも出来なければ、頭を撫でてやることも出来ない。
なんて、不甲斐ない母親だろう。
...いや、母親なんていう資格すら私は持ち合わせていない。死ななければ、この子たちをこの家から逃がすことも出来ないのだから。
もう私は願うことしか出来ない。
この子らが上手く逃げ切れるように。
私が出来なかったことをできるように。
自由に生きられるように。
...それから、どれほどのときが経ったのかはわからない。ただただ祈っていたが、もう意識を保つことも難しくなってきた。
体の感覚が徐々に薄れて、さっきまで感じていた赤子の体温も、頬に落とした涙すら感じ取れなくなってきた。
そろそろ消えるのだ、と確信した。
真っ暗だった視界が、白く明るくなっていく。
だが、私の周りには道なんてものはありはしない。ゆっくりと、恐ろしいまでの白い空間が広がっていく。私に行くところなんてない、ということがハッキリと分かってしまった。
暗闇に包まれていたのなら、まだ希望をもてたのかもしれないのに。
そんな愚痴っぽいことを思っていると、だんだん明るくなっていく思考の波に、たったひとつ異物を見つけた。
距離感なんてものないはずなのに、少し遠くにぽつりとなにかがあった。
それは、ひとりの人のようだった。
高い背丈に焦げた肌。
若く見える姿には少々不釣り合いな目を引く白髪。
よく見てみると童顔なその顔は、不機嫌そうな表情に染まっている。
ずっと、ずっと。会いたいと願っていた、彼だった。
「アーチャー...!」
思わず駆け出した。
鎧を来ていたかのように重かった体は、羽でも生えたかのように軽くなっていく。
軽さと引き換えに大事な中身が抜け落ちているだろうが、そんなこと気にしていられない。彼との思い出が残るなら、それでいい。
でもその僅かな時間さえもどかしい。
この彼はわたしが作り出した彼に決まっているのに、触れたくてたまらなかった。
そして彼の前にやっとの思いで飛び出した。
だが、彼は不満気だ。眉をひそめ、高い背丈も相まってまるで私を睨んでいるかのようだ。
しかし、それすらも彼らしい、と思っていると彼が口を開いた。
「...なんで、」
「え」
想像の彼が喋ったことに驚く。今までは夢で見ても、彼は微笑んで私を見つめるだったから。
「...オレよりも、長く生きて欲しかった」
彼は不満げだった顔を引っ込めて、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
眉間に皺を寄せているのは良く見る顔だったが、眉が可哀想なほど下がっている。
このまま放っておいてしまえば、泣き出してしまいそうだ。
こんな顔は初めて見た。
私の想像力はこれほどまでに豊かなものだったのか、と見たこともない彼の表情を見れたことに驚く。
そんな死に際とは思えないようなことを思いながら、彼はわたしの歳よりも長く生きてくれていたのだと、少しだけほっとした。
彼は私と別れたあと、属していた組織を抜けたらしかった。そのため彼がいつどこで、どのように、何をしていて亡くなったかを知る術はなかった。
ただ、もう死んでしまっているだろうな、という確信めいたものだけが私の心に残り続けていた。
よかった、という言葉が口から溢れそうになった。私より長く、この美しい世界を見ていられたのだから。
でも、こんなことを言ってしまえば彼はもっと悲しそうな顔をするのだろう。
「...充分、生きましたよ」
でも、嬉しさから微笑むことを耐えられなくて、少し笑ってそう言った。
悲しげな顔をして欲しくなくて、少し彼を屈ませて両手を伸ばし、彼の頬を優しく包んだ。
あの頃と変わらない、あたたかな温度が指先から伝わり、思わず笑みを深めてしまったけど、やっぱり彼の顔は晴れることなく悲しげな色を深めてしまっただけだった。
そして数瞬、彼の顔を見つめていたのだが、残されたときはもう僅かのようだった。
目の前の彼が崩れかけている。きっと私も。
ああ、伝えなくてはならない。
「ごめんなさい」
あなたより生きれなくて
あなたと生きれなくて
あなたと同じところにいくことが出来なくて
あなたの望んだわたしに、最期までなれなくて
...ううん、違うよねアルトリア。
あなたが一番に伝えないといけないことはこれじゃない。
最期の息に、言葉をのせて。
「...ずっと、愛しています。◾️◾️◾️」
ああ、でもあなたは最期まで悲しそう。笑って欲しかったのに。あなたが笑う世界を夢見たのに。
解けていく。溶けていく。
彼の顔も体も私の意識もすべてが無にかえっていく。
最期まで私はあなたに守られた。
ひとりで消えていくと思っていたのに、こんなにも暖かい。
あなたは、きっとひとりきりであちらに逝ってしまったのに。
守ってくれた、大好きだった、そんなあなたを守りたかったのに。
ねえ、◾️◾️◾️。
─────わたしは、あなたを守りたかった。たったそれだけでよかったのに。
彼女と暮らしだしてから、4年ほどの月日が流れようとしていた。
彼女との日々は彼女の未来とは相反して、穏やかに過ぎていった。
暖かく離れ難い、このままここで彼女と暮らせたら...なんてことを思わせるほどの幸せ。
だが、自分がこれほどまでの幸福を得てしまっても良いのか、なんていう罪悪感。
この2つの感情はこの4年間、私の日常にまとわりついた。
そして結局、終わりを迎える日が来ることに安堵し、落胆するのだ。
この繰り返しだった。
「アーチャー?どうしたのですか?」
思考の波から顔をあげると、正面から声が飛んできた。
もちろん、ここにいるのは彼女と私の2人だけ。ならば考えるまでもなく彼女だ。
「いや、なんでもない。食べようか」
「はい。今日もとても美味しそうです」
そう言って彼女は微笑み行儀良く手を合わせ、いただきます、と食事を始めた。
今は夕飯時。こんなことを考えていてはアルトリアに心配をかけてしまう。
そう思い、美味しそうに頬張る彼女に目を向けた。
食事をしている彼女を見ていると、頬が緩んでしまう。本当に幸せそうに食べるものだから、そのオーラがきっと周りにもうつっているのだろう。
食べる仕草は彼女と出会った当時から何も変わらない。
だが、愛らしさが目立っていた容姿は美しさを纏うようになり、綺麗になったな、なんて父親くさいことを私に思わせた。
ここに来たときから比べると、背は10センチほど伸び、手足はすらりと長くなった。
美しい金の髪も伸び、会ったときから可愛らしかった顔つきは、可愛らしさのなかにも美しさが混じるようになった。
そして何より、随分と大人らしい表情をするようになった。お転婆だった性格は徐々になりを潜め、落ち着いた雰囲気を纏うようになった。
...まあ、まだまだ子どもっぽいところも充分あるのだが。
「...アーチャー?食べないのですか?冷えてしまいますよ?」
またまた何も喋らず、食べもしない私を不思議に思ったのか、怪訝そうな顔をしたアルトリアが私の顔を覗き込んでいた。
いけない、はやくこんなことを考えるきっかけとなった本題へ移らないと。
「っああ、食べるさ、食べるよ。っとその前にだ」
「?なんでしょう」
怪訝な顔つきは引っ込めたものの、まだまだアルトリアは不思議そうな顔をしている。
そして、少し気を引き締めて言葉を口にした。
「今度の君の誕生日には、街に行ってみないか」
街に行かないか、という私の言葉を聞いた彼女の
様子は予想を超えていた。
行きたそうにしていたのはずっと前から知っていた。
夜にふたりで散歩に出かけたときには、ずっとずっと遠くに見える、かすかな街の灯りを微笑みながら見つめていたし、どのようなところなのでしょう、と思案していることもあった。
だが、彼女は決して行ってみたい、とは口に出さなかったし、彼女の家もそれを良しとはしなかった。
しかし、アルトリアは本当に行ってみたくてたまらなかったのだろう。
嬉しいと直ぐに言葉が出てこないのは彼女のくせで、たっぷりと10分は経った後、興奮を抑えきれないような口調で
「よ、良いのですか...」
と頬を赤らめながら大真面目な顔で言うものだから、思わず笑ってしまった。
ただ、笑ってしまったのが彼女のカンに障ってしまったのか、夕飯を食べ終わるまで口を聞いてくれなかった。
だが、そんな子どもらしいところが可愛くて仕方なかった。
それからの彼女は、目に見えて浮き足立っていた。
街に行こうと誘った日から彼女の誕生日まで2週間ほどもあったのに、次の日には既に着ていく服を決め、部屋のクローゼットに飾っていた。
育てている植物には、ケイと私から聞いたことと本だけでしか知らない街の話を毎日のようにしていた。
ここで彼女の想像している街が何世紀か前の市場のようなものである、ということに気づいたのは内緒の話だ。
キリツグを通してしている手紙の相手にも、街へ行くことをそれはもう楽しげに綴っていたそうだ。
そして、私も初めて彼女を連れて人混みに行く、ということで気持ちが高ぶっていたのかもしれない。いつもはしないようなミスをよくした。
今まで焦がしたことなどなかったパンケーキを焦がしてしまい、彼女からは悲しみのこもった目線を投げつけられた。
でも、それさえも楽しくて、彼女と笑いあって過ごした。
希望しか見えなかった。
日々感じていた罪悪感は感じ取らなくなっていった。
幸せだった。
後から思い返してしまえば、お互いその先を考えないように、思い出さないようにしていただけだったのだろう。
街から帰ってくれば、待っているのは終わりだけ。続きなんてどこにもない。
どうせ感じる絶望なら、直前まで感じないように。少しでもぬるま湯につかっていたかった。
お互いに、必死に、目を逸らし続けた。
そしてとうとう、街へ出かける日がやってきた。
「アーチャー、おはようございます!」
「おはようアルトリア」
アルトリアは朝からとても楽しそうだ。
当たり前だ。幼い頃から願い続けたことがやっと叶うのだから。
だからなのか、今日は一段と彼女が幼く見えた。
よおく見てみると彼女はうっすら化粧もしていて美しささえ感じるのに、いつもの落ち着いた様子は欠片も見ることはなく、まるで、あの出会った日に戻ったかのようだった。
でもあの頃と違うのは、ワンピースをさも当たり前かのように着て、
「似合ってますか?」
なんて可愛らしく聞きに来るようになったことだろう。
「もちろん似合っている」
そう返せばとても嬉しそうに笑うのだ。
そして、いつもよりはやく朝食をすませて、アルトリアにコートやらマフラーやら手袋やら耳あてやらを着込ませた。
着込ませすぎてまるで雪だるまのようになってしまったら珍しく彼女はムスッとして、じと〜っと私を見つめてきた。...だってそんな小さな体で一日中外にいるのだからしょうがないだろう...。
そんなこともありながら、まだ陽は上がっておらず薄明るい程度の頃には早々に家を出た。
細道を少し歩いて、ケイに借りてきて貰っていた車を置いてあるところにつくとすぐに乗り込み、大きな街がある方へと走り出した。
「おい、アルトリア!あまり遠くへ行くな!」
街に着くとアルトリアは目をきらきらさせて、キョロキョロと忙しなく辺りを見回していた、のだが。
「こんなに高い建物初めて見ました...。しかも道を挟んで向かい側にも!ずっと続いていますね。この街はこのような建築物が主流、ということでしょうか」
「はっ、これはキリツグが前に言っていた、ばあむくうへん、というお菓子ではないでしょうか」
「アーチャー!これはなんでしょう?」
私と手を繋いで大人しくしていたのはたった30分ほどだけで、それからはめぼしい物を見つける度に小走りでショーウィンドウの前へ行き、店の商品を興味深そうに覗きはじめた。
というわけで、まるで10もいかないほどの子どもに言うようなことを言わざるを得なかったのである。
...別にスッと離れていく小さな手が寂しかった、とかそういうことではない。断じて。
だが、私がそうアルトリアに声をかける度、彼女は駆けていったときと同じように小走りで帰ってきて、ぎゅっと私の手を掴むものだから可愛いと思うことを止められそうになかった。
それからは、彼女が駆けて行っては呼び戻す、ということを繰り返しながら、街の隅々まで彼女と歩いて回った。
昼食を摂るため寄ったレストランでの食事はともかく、食後に出てきた紅茶を彼女は大層気に入ったようで、こくこく頷きながら美味しそうに飲み干していた。
立ち寄っためいぐるみ専門店では、ふわふわとしたぬいぐるみたちを恐る恐る触ったり、頭を撫でたりしていた。
特にライオンを模したものが気に入ったようで、まるで顔を緩ませまいとするかのように口をぎゅっと結んで、頬をうっすら染めて見つめていた。
...もう既に家に1匹いるのだから、そう喜んでいるのを抑えなくてもいいだろうに。
大きなマーケットが開かれている巨大な倉庫では、売られているデザートやアンティークに次々と目を奪われていくものだから一層ひやひやした。
しかし、外より幾分か暖かかったため、寒さで赤くしていた鼻先と頬も元に戻っていて、少し安心した。
そうやってゆっくり、でも着実に時間は過ぎていった。
「...なにか、欲しい物でも見つかったか?」
おやつ時も既に過ぎ、ここらでは珍しいことに冷たく輝いていた空も暖かみを帯び出していた。
そして、その反対側を見れば美しく濃い空が見えだしていた頃。
本日何度目かの呼び戻しに応じて彼女が戻って来たついでに、私が街に来たら聞きたいと思っていたことを問うた。
...これが最後なのだ。4年も一緒にいた少女になにか贈りたい、と思うことは当然のことだろう。
ここには彼女が好みそうなお菓子や服、可愛らしい雑貨などが山ほど揃っている。ひとつぐらい彼女のお眼鏡にかなうものがあっただろう、そう思っていた。
「欲しい、物、ですか...」
しかし私の期待を裏切るように、彼女はそう呟いたっきり、少しの間考えるかのように黙りこくってしまった。
何をねだろうか、と子どもらしく楽しんでいる様子は全くない。朝にはあんなに幼く見えた彼女はどこにもおらず、急に大人びて見えた彼女に暗い雰囲気を感じ取るがもう遅かった。
そして、彼女はもう一度口を開いて話し出した。
「...すみません、特には思いつきません。ここにある物は全て好ましい、とは思うのですが、」
この先を聞いてはいけない、と本能が告げる。
どうして。今まで必死に目を逸らしてきたものを、君は、ここで突きつけるのか。
目を逸らしていたのは私だけだったのか?
「明日になれば...私の物なんて無くなってしまいますから」
なんで。
なんで、そんなことを言うんだ。
最後まで夢を見させてくれても良かったじゃないか。
最後まで夢を見て、それから絶望したって、オレたち遅くはないだろう?
だが、私の欲望だらけの心とは裏腹に、彼女は優しく微笑んで清らかな声で続けた。
「明日になっても残っている私のものと言えば、あなたと過ごした思い出くらいですから、」
「あなたと今日を過ごせただけで、もう充分です」
「だから、そんな顔しないでください」
「...帰りましょうか、私たちの家に。ほら、こんなにも冷たくなっています」
そう言って、彼女は目一杯背伸びをして私の頬を包んだ。
会った時と全く変わらない、あたたかくて小さな手のひらだった。
それから、どうやって彼女を連れて街を出たのかは覚えていない。車内でどのような会話をしたのか、していなかったのか、それも覚えていなかった。
ただ覚えているのは彼女と繋いだ手の温もりと、彼女が横にいる気配を感じていたという事だけだった。
「少しだけ、寄り道しませんか」
記憶があるのは、車を降りて家に戻ろうと街灯もなく、真っ暗な細道を歩いているときに、彼女が私の袖を引っ張ってからだった。
振り返ると、彼女はやっぱり優しく微笑んでいた。
だが、優しく笑う割には私の返事など聞くつもりがなかったのか、返事など分かりきっていたのか。私が返事もせぬうちに森の奥に足を進めていった。
そして、私の腕を引っ張って数歩先を先導しながら、雑談を始めるかのように口を開いた。
「...覚えていますか?私の13歳の誕生日に、アーチャーが私をこの森に連れてきてくれたこと」
そんなこと。
「忘れるわけ、ないだろう」
だって、あんなに喜んでくれたじゃないか。
こんな素敵な誕生日は初めてだ、と。
はしゃぎすぎて帰りには眠ってしまうほど、喜んでくれただろう?
「ふふ、そうですね。では、14のときは?」
14のときは、雨が降っていたから確か家で過ごしたはずだ。そうだ、家で、
「大量の料理を作ったな。君が本に印をつけていたものを可能な限り作ったはずだ」
思い出したら笑えてきた。あのときのテーブルを占領する大量の料理と、アルトリアの驚きと喜びが入り交じった顔を忘れるなんて、それこそ無理な話だろう。
「ええ、とても美味でした。...もう一度食べてみたいものです」
「......」
「では、次の年は?」
...次の年も雨だったはずだ。
確か一緒にバースデーケーキを焼いて、ライオンのぬいぐるみをプレゼントして、
「...私の話を一日中したな。こんな男の話を聞きたがるなんて、君も随分変わり者だと思ったものだ」
「そうでしょうか?あなたの話が聞けて、とても嬉しかったですよ」
「嬉しかった?」
「ええ。あなたのことがたくさん知れましたから」
そう言い終えると、彼女はぴたりと足を止め、くるりと微笑んだままの顔をこちらに向けて、
「あなたは私が望んでいたものすべてをくれた。美味しい食事も愛らしいぬいぐるみも、聞きたい話も。して欲しいこと全部、くれました」
そんなことを口にした。
こんな小さな願いが、彼女の望んだ全てだというのか。享受して当然の、こんな、願いとも言えないような願いが。
そう言おうとして、泣いてしまいそうな、照れているような、でもやっぱり澄んでいる彼女の声がそれを遮った。
「でも、私、わがままになってしまったようです。お願い、聞いて頂いてもいいですか?」
彼女の言葉に希望を感じなかった、と言えば嘘になるだろう。その言葉に、私は確かに彼女と生きる未来を一瞬でも、夢見たのだから。
───────しかし、夢は夢でしかなく、現実はいつものように、私に冷水を被せた。
「最後に1度だけ、抱きしめてください」
喧嘩はしてないですけど、良いですか?なんて、困ったように笑っている彼女と目が合った。
ああ、彼女に真っ直ぐ見つめられて、私がお願いを断れるなんて思っているのだろうか。
いっそ冷酷にも聞こえた彼女の声を、私は聞き入れるしかなかった。
彼女の腕を引っ張り、自分の体のなかに細くあたたかい体を閉じ込めた。
それからどれほどの間そうしていたのだろう。
彼女の全てをこんな世界から隠したくて、奪われたくなくて、必死に抱きしめていた。
この静かな森で、彼女と自分の心臓の音だけが響いていた。
どれくらいまだ一緒にいられるか分からない。
こんなに愛しい存在を手放すなんてこと、理解出来なかった。
「ふふ、アーチャー苦しいですよ」
だが、彼女はそうやっていつものように笑った。
だから私も笑って謝ろうと思ったのに、こぼれ落ちたのは全く違う言葉だった。
「好きな子に抱きしめて、なんて言われて我慢出来るわけないだろ、ばか。...これでも大分加減しているつもりだ」
彼女はハッと息を飲んで、少しの間身動ぎもせずにじっと動かずにいた。
また聞こえる音が心臓の鼓動だけになった。
そして、その静かな数瞬が過ぎると、ゆるゆると背中に腕をまわして、彼女はオレのシャツをぎゅっと掴んだ。
「...ええ、ええ。そうですね」
「ああ」
「...私も、苦しい方が、良いです」
よけい、腕に力が入った。
こんなことを言われたら、一層離せなくなるのに。言ってはいけない言葉を紡ぎたくなってしまうのに。
なあ、お願いだから、オレを拒絶してくれ。
お前の誇りを汚したくないんだ。
お願いだ。はやく、はやく。
「なあ、遠くへ行こう、オレと、お前なら」
やめろ、言うな、言うな!
それ以上は彼女への侮辱にあたる。それに、こんなにも耐えてきただろう。耐えられるはずだろう。
そして、オレの身勝手な言葉を聞いた彼女は、ゆっくりとオレの体を押して、距離をとった。
はやく拒絶して欲しいと願っていたくせに、体の底から冷えていったのがわかった。
そりゃそうだろう。こんな欲だらけの男、清らかな彼女が触れ続けることを許されるはずがない。
だが、顔を歪ませているだろうと思われた彼女は、予想に反しうっすらと微笑んでいた。
彼女は首を縦にも横にも振ることはなかった。ただオレをまっすぐと見つめる翡翠色の澄んだ瞳は、その先を決して言ってくれるな、という強い意志を伝えてきた。
そうか。君は、もう決めているのか。
分かりきっていたことをもう一度認識した。彼女はそういう人だ。最後まで貫き通す、強くて、美してくて、眩しい人だ。
そうして、彼女との別れを覚悟したときだった。
突然、光が散った。
オレから少し離れていた彼女を中心とするかのように、円を描きながら光が空間に飛び出した。それはだんだん形を球体へ変えて、彼女を包こもうとしていた。
「アルトリア」
必死に腕を伸ばすが、術式に阻まれて届かない。
どういうことだ。迎えは家に来るはずだったのに。どうしてこんな魔術が。
だが、焦る私とは反対に彼女は冷静で、やはり微笑んでいた。
そして、光に包まれながらも口を開いた。
「ごめんなさいアーチャー。元々、こういう手筈だったんです。私の体には、どこにいようが強制的に転移する術式が組み込まれていました」
「...ごめんなさい、最後に家に帰れなくて。私が帰ろうと言ったのに。たくさん嘘をついてしまいました」
彼女は微笑んだまま、悲しげにそう言った。
そして、少し息を整えて、最後の言葉を紡いだ。
「ありがとう、◾️◾️◾️。私は貴方を」
「っ!どうして、その名前を...!」
「愛しています」
そうして、彼女は消えていった。
彼女が消えたあとに残ったものは、術式にこもっていた見知らぬ魔力の残滓だけで、何もなかった。
はじめてひとりで家に帰った。
家は朝出ていった時とまるで変わらなかった。
ただ、彼女がそこにいなかった。
眠ることどころかじっとしていることもできなくて、部屋をひとつひとつ回って行った。
リビング。洗面所。風呂場。小さな収納部屋。本棚だけの部屋。
そして、彼女の部屋に入った。彼女が居ないことを除けば、いつも通りに見えた。
だが、
「...ライオンがいない?」
彼女の誕生日に私が贈ったぬいぐるみだけが消えていた。
もしかしたら、こっそり持ち歩いて持っていったのかもしれない。なんとも彼女らしくないが、ここになければそうなのだろう。そんなにも気に入ってくれたのなら、贈った者からすればこれ以上嬉しいことはない。
ふっと笑みがこぼれた。まだまだ、あの子は子どもだったのだ。もう、涙も出なかった。
そうして、彼女の部屋を後にした。
1階に降り、もう朝も近いが少しでも眠ってしまおうと思い、最後に自分の部屋に入った。
すると、机の上になにかがあるのを見つけた。
朝出るときには何も置いては行かなかったと思うんだが、と思いながら近づいた。
そうして、私が目にしたのは、
彼女に贈ったはずのライオンのぬいぐるみだった。
「どうして...」
何故、彼女のぬいぐるみがここにあるのだろう、と考え、彼女が言っていた言葉を思い出した。
「明日になれば私の物は無くなる」
確かにそう彼女は言った。
だから、彼女が私物を持っていくとはやはり有り得なかったのだ。
何故私の机に置いていったのかは謎だが、お気に入りの人形を自ら手放すことで自分に区切りをつけたかったのかもしれないし、私に返すことでこれを処分されるのを避けようとしたのかもしれない。
だが、もう既にその真意は分からない。
彼女はもういないのだから。
「ん?」
そして、さらに近づくと、もうひとつ彼女が置いていったらしきものを見つけた。
それは、とても丁寧に作られた押し花のようだった。
彼女は押し花を作るのが得意とは言えなかった。言ってしまえば、どちらかというと私の方が上手いぐらいだった。
だが、これは空気も入っていないし、花も綺麗に押せていた。本当に綺麗に作られていて、彼女が相当な努力をしたのだろう、ということは想像にかたくなかった。
「何故置いていったんだ...?」
だが、どうして私の部屋に置いていったのかはやはり不明だった。
花に意味でもあるのだろうか、と押し花にされている花を観察してみる。
「カランコエ、か?」
特徴的な花の中心部と4枚の大きな花弁から、間違いないだろう。庭にも植えていたし、彼女も気に入っていた。
カランコエの押し花なんて、彼女でなくても随分難しかったろうに。
彼女が四苦八苦しながら作っている様を想像して、思わず笑みがこぼれた。成功するまで、きっと何回も失敗しただろう。そして、失敗してしまった押し花をみて彼女は悲しげに顔を顰めるのだ。
彼女に知られればへそを曲げられそうなほどの勝手な想像をしたら、それに紐づけられたかのように、彼女がカランコエについて言っていたときのことを思い出した。
「アーチャー、花言葉を知ってますか?...ええ、そうです。私もあまり多くは知らないんですけど、花に意味があるなんて素敵ですよね」
そうだ。彼女は、カランコエが
「一番好きな花言葉ですか?そうですね...私はカランコエの花言葉が好きで、たしか花言葉は」
...君は、どうしてこんなにも、強くて、綺麗で、眩しくて。もう、きっと
「──────あなたを守る」
一生、君には敵わない。