出会わなければよかった 中編目を覚ませばあたりは荒野だった。
息を吸えばかわいた空気が喉を掠めた。肺は空気を拒絶し酸素を取り込んではくれず、痛みだけを伝えてきた。
体は熱を持ったかのようにあつくて、あつくてたまらない。
どこまでも深く、黒い夜空が正面にあったが、視界は白い靄がかかり始め、だんだん狭まっていく。呑み込んでしまいそうだった黒も、もう分からない。
そして、黒い空が吸い取ってしまったかのように何も聞こえなくて、自分1人ここにいることを知る。
結局、オレは救えなかった。何もかも。ここにいた人びとも。一番救いたかった彼女も。
ゆっくりと瞼を閉じた。
さっきまであつくてたまらなかった体は冷えてきて、そのまま凍ってしまいそうで。寒くて寒くて寒くて。ひとりきりは淋しくて。
彼女にはこんな思いをさせないでくれ、と信じてなどいない神に柄にもなくそう祈った。
時間だけがのそりのそりと進んでゆく。
そういえば、死ぬとき最後に残る感覚は聴覚である、というのはどこで聞いたのだろう。本当だったんだな、でも走馬灯は見えないな、などとまるで他人事のように考える。
そんなとき。
天の上から降り注ぐような、地の底から這い出でるような、はたまた空気全てが震えているような、ヒトの声ではないナニカが聴こえた。
コレは恐ろしいモノだ、耳を貸してはならない、と本能が告げる。
だが、今の自分が求めてやまないもの。
力を持ったモノ。力を与えるモノ。
そんなろくに聴こえも見えもしないモノに、縋りつくように手を伸ばした。
瞬間。
「◾️◾️◾️」
自分が手を伸ばしかけたナニカが弾けるように消え去った。
そして、どこまでも、どこまでも透き通る声が、あの日、自分の全てを奪っていった声が、愛してやまない愛しい声が聴こえた気がした。
もう見えない目をこじ開ける。もちろん何も見えやしない。彼女の姿どころか呑み込まれそうだった空すらも見えない。
でも、でも、確かに、みえた。
ふわりと頬を薄く染めて、透き通った翠の目を瞬かせて、風に金色の髪をからませて、一等お気に入りだった服を着て、オレにゆるりと笑いかける彼女の姿が。
頭にこびりついて、忘れられなかった彼女。
女神にでもなってしまったかのように美しい彼女。
ずっと、ずっと会いたかった彼女。
アルトリア
そう言おうとして、もう言葉が紡げないことを知った。
伝えたいことは泉のように湧き出てくるのに、もう、体がいうことをきかない。喉が乾いて乾いて、言葉を吐き出せない。
でも、どうしても君に伝えたいことがある。
彼女への思いが溢れだしてくる。
腹いっぱい美味しいものを食べろ。
たくさん眠って優しい夢をたくさん見ろ。
自分の好きなように生きろ。すべきことじゃない。したいことを見つけるんだ。
幸せになれ。幸せは外から見るものなんかじゃない。君が感じるべきものだ。
死ぬな。君は君のことを愛している人に囲まれて、おばあさんになって、それから死ぬべきだ。
好きだ。ずっとずっと。地獄に堕ちても。
それからそれから、と考えるけれど、彼女の笑う姿だけが鮮明で。思考は白い膜が張られているようでも、暗い底に落ちていくようでもあって。
あんなにも溢れていた思いも、もう、考えられなくなってきた。
...でも、さいごに、ひとつだけ。
────オレは、お前をまもりたかった。たった、それだけだったんだ。
「ご馳走様でした」
私が作ったマンゴープリンもしっかり食べ終わったアルトリアは、幸せそうに手を合わせた。
「ああ。食器を流しに運んでおいてくれるか?」
「分かりました。とってもおいしかったです、アーチャー」
「君の口になったようで何よりだ」
彼女はすっ、と立ち上がり無駄のない動作で食器を運ぶ。
「まだ、荷解きが残っておりますので部屋にもどりますね」
「ああ。風呂の準備が出来たら呼ぶから、降りてきなさい」
「分かりました。ありがとうございます、アーチャー」
そう言い残すと、皿を運んだときと同じように、無駄の無い動作でさっさと2階に登って行ってしまった。
そんな彼女に妙な違和感が残った。なんだか別人を見ているようだった。
「さて、こんな所か」
彼女が2階に戻ってから、彼女の家から持ってきたいかにも高そうな皿を慎重に洗い、丁寧に拭く。
そのあと風呂を沸かそうと、昼間のうちに掃除をしておいたバスタブが置いてある部屋へ向かう。
この辺りの地域の風呂場は自分の故郷とは違い、普通の部屋にバスタブが置いてあるだけなため、体を洗う場所もないのでバスタブの中でお湯をたしながら洗う。
彼女の家はここの地域に昔からある家ではなく、移り住んできた家系だったのに加え、世間的に言えば金持ちに分類される家だったから風呂には湯沸かしの機能がついており、ボタンひとつでちょうど良い温度の湯が出てきたが、この家はそうはいかない。
昔ながらの複雑な形をした蛇口をあーでもない、こーでもないとごちゃごちゃとひねる。やっとこ良い温度が出てき始めたので、湯を張り彼女を呼びに行く。
しかし、自分も慣れていない風呂の準備に少々時間がかかってしまっていた。もう9時を回っている。今日は疲れただろうから早く寝かせてやろう、と思っていたのに。
「アルトリア!風呂の準備が出来たから入りなさい!」
1階から大きめの声で彼女を呼ぶ。だが、返事どころか2階からは足音ひとつ聞こえない。
「アルトリア?」
もう一度呼んでみるものの、結果は同じ。もしかして、と思い階段を上り彼女の部屋の前に立つ。
「アルトリア、開けるぞ」
なんとなく彼女が今どうしているのか予想が出来たものの、レディの部屋に何も言わずに入るのはさすがにどうなんだ、と思い一応小声で声をかけてドアを開けた。
やっぱり。
彼女は机に出していた分厚い本に突っ伏して、気持ち良さそうにすぅすぅと寝息をたてて眠っていた。
こんなにぐっすり眠っている子どもを起こすのは可哀想だ。しかし、このままの体制では体を痛めてしまうだろう。
「ちょっと失礼」
小さく一言断りを入れ、彼女を横抱きにしてベットへ運ぶ。
やはり、子どもだ。軽くて、細くて、少し強く抱きしめれば壊れてしまいそうな、少女の体だ。
...こんなにも頼りなく華奢なこの体に、いったい彼らはなにを望み、夢みているのだろう。
彼女を片腕で抱きながらベットの掛け布団をめくる。彼女の体を先に寝かせ、結んだままだった髪ゴムをするりとぬいて、そしてゆっくり頭も寝かした。
起きなかっただろうか、と不安になり彼女に目をやる。
彼女は幼げで無防備な寝顔とすぐそばの窓から照らす月の光とが相まって、天使のような愛らしさと人形めいた冷たい美しさが共存していた。
世界の醜さなど何も知らない、純真さというものが肉体を得たらきっとこんな姿をしているのだろう、と思わせるほどの愛らしい姿。
「ごめんな」
苦しくなってそんな言葉が口から漏れ出た。自分の言葉にはっとなった。いったいなにを言っているのか。これは任務だと言い聞かせる。
ペンドラゴンの家がどれだけ人の倫理として外れたことをしでかそうとも、彼らがいることで救われる命は計り知れない。それほどまでに大きな家だ。
今までだって、そうしてきただろ。
一を切り捨てて十を救う。彼女の人生の自由を奪って、大勢が生きる。彼女は一だった。それだけだ。それを今さら、一方的な謝罪で罪悪感を消そうというのか、オレは。
「ふざけるな」
逃げることなど、許されようなどと思うことは許されない。そうだろう。
私にできることは、この4年間だけは彼女に自由をもたらすこと。こんな感情を悟らせないこと。たったそれだけだ。
そんな考えを強制的に切り上げる。夜は冷えるだろうから、毛布と布団を彼女の口元ちかくまでかけ、月の光を遮るかのようにそばのカーテンをしっかり閉めた。
「おやすみ、良い夢を」
君が眠っている間は、幸せな夢を見れますように。
そう願いながら、暖かいオレンジ色のにぶく光っている明かりを消し、音をたてないようゆっくり扉を閉めた。
顔を撫でる冷たい朝の温度に目を覚ました。一瞬ここはどこだろう、と思考を巡らせる。少しでこぼことした白い壁と、カーテンがついていない窓から薄暗い外が見えた。
そこでようやく自分がいる場所を把握した。
ベットから体を起こすと寒さに少し体が震えた。もっと窓の外をよく見ようと、スリッパをひっかけて明かりをつける。
まだ朝が早いため太陽は昇っておらず、部屋からの明かりだけが庭を照らす。特になにを見るわけでもなく、ただ立ち尽くしていただけだったが、ふと、昨日外から少し見た通り枯れていたり、腐りかけている植物たちが見えた。
これを見てしまえば今日の予定は決まった。
「まずは朝食と風呂の準備かな」
することが決まれば頭が冴えてくる。
軽くストレッチを済ませたら、さっさと服を着替えてしまう。これからの準備のことを考えれば薄めのシャツに脱ぎ着のできるジャケットやニットがいいだろう。
「よし、これでいいかな」
一応鏡でおかしなところはないかチェックする。年頃の娘がいるんだ、へたな格好でもして引かれてしまってはかなわない。...別にケイにおっさんと言われたことを気にしている訳では無い。断じて。彼女は兄と違ってそのようなこと言わなさそうだしな。
特におかしいところはないはずだと思い、リビングへ行って暖炉に火をつける。
彼女の部屋は冬だから多少は寒いが、2階にあるためこの家の構造上そこまで冷えない。しかし、リビングと私の部屋がある1階はかなり気温が下がる。だから、2階から降りてきた彼女が寒がる姿が容易に想像できた。
少し経つと、ぱちぱちと火が燃える音とほのかに木の良い香りがしだした。これでしばらくたった頃には暖かいリビングとご対面できるはずだ。
「次は風呂だな」
彼女は昨日疲れてそのまま寝てしまったから、朝は風呂に入りたいだろう。昨日軽く洗ってはおいたが、念の為もう一度洗って熱めのお湯になるように蛇口をひねる。
お湯がある程度沸くまではまだまだ時間がかかるからそのうちに朝食の準備をしよう、とリビングに戻る。
そうすると予想通り。体の芯からじんわりと暖かくなるような、暖炉特有の温かさがそこを占めていた。これで彼女が寒がることもないだろう。そんなことを考え、こっそり笑いながら小さめの鍋を取り出す。
自分としては朝はご飯とみそ汁派だが、ここには炊飯器はないし、この家に暮らしてから初めての朝ごはんが食べたことも無い和食より、慣れ親しんだ洋食の方が良いだろう。昨日の夜はそんなことも考えずに米が入っているドリアを振舞ってしまったし。
そう思い、玉ねぎとトマトとじゃがいもを用意する。玉ねぎは薄切りに、トマトとじゃがいもは形が煮ても残る程度に切る。先に玉ねぎをバターと一緒に炒め、お湯を入れる。そして万能の調味料コンソメを投入してトマトとじゃがいもも入れる。簡単だが食べ応えもあり美味しいし、何より温まる。
鍋を保温できる程の火にしたまま、同じ要領で他の朝食もあとは焼くだけ、とか盛り付けるだけ、というようなところまで作っていく。
そうこうしていると、2階からドタドタドタ、といった子ども特有の足音が聞こえてきた。そして階段を小さい金色が駆け下りてくる。
「すみません、アーチャー!私昨日すっかり眠ってしまって...。お風呂が沸いたら呼ぶと言われていたのに」
昨日と同じ格好で、起きたばかりなのが開ききっていない目や、ぼさぼさの髪からわかる少女が顔をだした。
「おはようアルトリア、走ると危ないぞ。疲れていたんだろう、仕方ないさ。すぐに風呂の準備をしてくるから少し待っていてくれ」
「お、おはようございます、ごめんなさい。でも、それくらい自分でやりますから、大丈夫です」
「君の家の風呂とは勝手が違うから任せておいてくれ。それより、風呂の後に着る服を持ってきなさい」
「で、でも。いろんなことを貴方に押し付けてしまっているようで...」
「なに、気にするな。そういうタチなんだ。ほら、今日は新しい服ばかりだろう、じっくり選んできなさい」
「...すみません、アーチャー。では、お言葉に甘えさせていただきますね」
「...ああ」
なんとも子どもらしくない言い回しだな、と思いながらバスタブが置いてある部屋に向かった。
「こんなもんかな」
湯の温度を確認し、液状のバブルバスも入れる。
すると、
「あの、アーチャー準備してきました」
部屋の外から彼女の声が聞こえたので、部屋からでながらタオルで濡れたところを拭い、彼女に話しかける。
「ああ、良かった。こっちもちょうど準備が終わったところだ。朝食は逃げないからゆっくりつかっておきなさい」
「なっ。わ、私はそんなに食い意地張ってません!」
「でもさっき朝食を見ていただろう」
「だ、だって、いい匂いがしていたらそっちをみてしまいます...」
彼女とぽんぽんと小気味よい会話が続くことが、なんだかとても嬉しかった。
「朝食も私も、ちゃんと待っているからゆっくりしなさい」
彼女の頭にぽん、と手を置きながらそんなことを言う。そうすると少しの間があって、
「...はい。ありがとうございます、アーチャー」
彼女にしてはか細い声が聞こえた。
彼女が風呂に入っている間に完成直前で止めておいた料理を済ませてしまう。ミキサーで混ぜて作ったジュースをグラスに移したり、テーブルクロスを敷いたり、料理を盛り付けたりとしていると、
「アーチャー、お待たせしました」
やはり気を使ったのだろう少し小走りで彼女がやってきた。
「...ああ、早かったな」
姿を見せた彼女は可愛らしいワンピースを着ていた。大きめの白いレースでできた襟とふんわりとしている膝丈ほどの裾が彼女の上品さを際立たせていた。ケイは服のセンスが良いらしい。
うん、やっぱりこの少女にはこういう女の子らしい服が似合っている。
と、勝手に1人で納得していると
「わっ、今日もとっても美味しそうですね、アーチャー」
彼女は昨日の夜と同じようにいそいそとイスに座り、早く座れ、と目で訴えている。アホ毛もぴょこぴょこと機嫌が良さそうだ。顔はやっぱり少しほころんでいる程度だけれど。
「じゃあ、食べようか」
彼女の訴えている目線が熱くなってくるのでさっさと座る。
「いただきます」
「はい!いただきます、アーチャー」
そして、すっかり朝食を食べ終わり皿を洗っているときだった。
「アーチャー、このあと何か予定はあるのですか?」
まだ朝食のジュースを飲んでいる彼女が私に問いかけてきた。
「今日は屋敷の外の掃除をしようと思っている。ほら、庭とか荒れ放題だろう?」
この屋敷は内装はそれなりに綺麗に掃除がされているが、外から見ればいわく付きだと思われてもしかたがないような外観をしている。
庭もまたしかり。荒れ放題で冬だからまだマシだが、こんなに立派な庭に春になっても花が何も無いというのは少し寂しいだろう。
外壁もこの家独特の美しいはちみつ色をしているのに、枯れかけのツルが巻き付きすぎて色がほとんど見えない。
というわけで、宝の持ち腐れ状態のこの家をどうにかするのが今日のミッションだ。...朝思いついただけだが。
などと思いを巡らせていると
「あの、私も手伝います」
「え?」
「昨日からアーチャーにいろいろなことを任せてしまっていますし、私もお手伝いします」
想定外の彼女の言葉に驚いて、まじまじと彼女の顔を見てしまう。だが、いつも通り可愛らしく、真面目な顔をしているだけだった。
彼女の今までの境遇を深くは知らないが、彼女の家には使用人がたくさんいたし、良家の子どもなのだから周りの大人が自分の生活範囲を整えるのは当たり前だったろうに。そういえば今朝も風呂の準備くらい自分ですると言っていたな、と思い返す。
「ありがとう、アルトリア」
「じゃあ...」
「しかし、気持ちだけ受け取っておくよ。今日は特に寒いし、君には勉強があるだろう?」
そう言うと彼女は、あ、という少し惚けたような表情をした。
私はもっと寒いところで任務をこなすこともあるし、それこそ彼女との暮らしが始まる前まではここよりも北の国にいた。だから私にとって今日ぐらいの寒波はなんてことないが、12の少女が長時間庭の掃除というのは少々厳しい気がする。
そして極めつけには、彼女にはものすっごい量の課題がある。経済学だったり法学だったり、はたまた数学だったり。おそらく嫁いだあとのことを考えての事だろう。
誰も口に出したりはしないから私の憶測でしかないが、彼女が選ばれたというのはお飾りの嫁として選ばれたということでは無く、正真正銘、ペンドラゴンの当主としての役目を果たすために選ばれたということだろう。
だから、彼女の年齢には可哀想なほどの量とレベルの課題が毎日のノルマとして課せられているのだ。
すまんな、アルトリア。私は高校までしか出ていないから法学と経済学は全くわからん。自力で頑張ってくれ。
「うう、仕方ありませんね...。ごめんなさいアーチャー、庭をよろしくお願いします」
「ああ、任せたまえ。昼食の時間になったらまた呼ぶから降りてきなさい」
「はい。楽しみにしていますね」
そう言って彼女は顔を少しだけほころばせる。そして、飲みきったジュースのグラスを私に渡し、おろしたてのワンピースの裾を翻しながら階段を駆けていった。
「かわいいな」
ぽつりと口からこぼれて、頬が緩むのが分かった。駆けて行った彼女は本当にかわいくて。妹なんていたことはなかったのに、まるで歳の離れた小さな妹ができたようだった。そんなことを思っているとなぜだかケイに嫌われそうだけど。
彼女がこの先もこんな風に生きていければいいな、と昨日の夜割り切ったはずのことを、性懲りも無く考えてしまっていた。
庭の掃除を始めて、数日後のことだった。
「今日も庭にいるから、なにかあったら呼んでくれ。皿は流しに置いてくれてたらいいから」
庭は私の予想以上に広く、壁に巻きついていたツルは予想以上に頑固で、庭の整備はまだ終わっていなかった。
確実に終わりは見えてきているものの、全ての整備を終わらすにはあともう少しかかりそうだった。
春に花を咲かそうと思えば、早く終わらせなければいけない。
そう思い、まだ朝食の後にだしていたココアを飲んでいた彼女に声をかけてさっそく庭に向かおうとする。すると、
「待ってください!」
彼女の大きな声に呼び止められた。
「!どうかしたかね」
彼女が大声を出すなんてあまりないことだったから驚いて勢いよくふりかえる。なにか気に入らないことでもしてしまっただろうか、と思っていると、
「今日は私も手伝います」
彼女は数日前に聞いたセリフを数日前より強い口調で言った。
「え」
「ですから私も手伝います」
「いやでも、勉強は...」
「毎日の分にプラスして今日の分は終わらせました」
「...」
彼女の言葉に唖然とした。
なぜあの膨大な量にプラスできるのか全く分からない。どんな頭してるんだ。これがペンドラゴンへ嫁ぐ子どもが受けてきた英才教育というやつだろうか。恐るべし。
それじゃあ手伝って貰おうかと思ったが即座にその考えを取り下げた。
もちろん、彼女が手伝ってくれるのはとても嬉しいことなのだが、これを始めた日からすれば暖かいものの、まだまだ寒い。やはり、子どもが長い時間外にいては風邪を引いてしまうだろう。
そして、整備を始めて分かったことだが、この庭に生えている植物や壁に巻きついているツルは本当にしつこく、鋭い棘がついているものまである。自分はそれぐらい構わないが、彼女の柔らかく、小さな手が傷ついてしまうのは避けたい。
やっぱり、彼女がせっかくやる気になってくれているのに申し訳ないが、早々に諦めて頂こう。そう思い、少し考えて我ながら良い案だと思ったことを口にする。
「そうだ、君は家の中をしてくれないか。家なら暖かいし、」
君の手が傷つくこともない、と続けようとした。
が、彼女は私の言葉を遮り、手伝わせようとしない私に苛立ったのか怒ったように早口で私にまくし立てた。
「私にだってできます!貴方は私のことを勘違いしているのではありませんか。私はそんなに心配されるほど子どもではないし、寒さにも手が傷つくのにも慣れています!泣いたりしません。それに、家の中なら毎日貴方がしてしまって、することなどないではないですか!」
「す、すまない...」
彼女の迫力にびっくりしてとっさに謝ってしまった。こんな風に感情をあらわにしている彼女を見るのは、出会ってから初めてだった。
彼女の言葉が頭をくるくる回る。
勘違い?勘違いしていたのだろうか、私は。でも、女の子が体を冷やすのは良くないし。というか慣れているってなんだ、慣れているって。寒さはまだ分かる。彼女が育った場所はここより少し寒いところだし。でも、手が傷つくのは慣れていいことなんかじゃないだろう。
なんて思っていると、大きな目をつり上げてこちらを見ていた彼女が、いつの間にか俯いてズボンの端を掴んでいる。そうか、今日珍しくズボンを履いていると思ったら手伝おうとしてくれていたのか、と場違いにも思う。そして、心做しかその手は震えているように見えた。
「あ、アルトリア?」
「迷惑でしたでしょうか」
「え...」
「...私は、アーチャーと2人で暮らしていると思っています」
「...うん。そうだ。私と君は2人で暮らしている」
聡明な彼女にしては珍しくあまり要領が得ない。でも、少しでも彼女が伝えたいことが知りたくて彼女の前に膝をつけ、目線の位置を合わす。それでも、俯いている小柄な彼女の表情は伺うことは出来なかった。
「...一緒に暮らしているのなら助け合うのは当たり前では無いのですか」
しばらく経って彼女は言葉を絞り出すかのように呟いた。そして、彼女のそんな言葉に遠い日の姉の姿が思い出された。
『もう!あんたはねぇ頼るってことを覚えなきゃだめよう』
「それなのに、アーチャーは全部1人でやってしまいます」
『あーー!お姉ちゃんがするって言ってたのに◾◾ってばまた1人でやっちゃって』
「私は出来ないことの方が多いです。アーチャーに迷惑をかけてしまうと思います。でも、」
『頼ってよ、家族なんだからさ』
「頼って欲しい。私は貴方に頼りっぱなしではなく、一緒に頑張りたいのです」
彼女のまっすぐな瞳に貫かれると同時に、彼女の言葉が今度はストンと心に落ちてきた。
今まで彼女が不自由な思いをしないように、と様々なことをしてきたが、彼女はそんなこと望んでいない。もしかしたら、家でもそう願っていたのかもしれない。アーサー王として扱われて、自分ではない影を敬われて、対等として扱ってくれるのはケイだけで。そのケイだっていつもいた訳ではないだろうから、1人で寂しい思いをしていただろう。
それなのに、私は何をしているんだろう。この少女に寂しい思いをさせまいと考えを巡らせていたのに、今彼女を1番寂しがらせているのは自分ではないのか。
私が彼女に対してしたことは、彼女の家が彼女にしてきたことと、彼女からしたら何ら変わらないのではないのか。
「アルトリアすまない、そんなつもりじゃ」
なかったんだ、そう続けようとしたが、彼女がその言葉を遮った。
「でも、もしアーチャーが...迷惑だと思っているのなら、忘れてください。ごめんなさい」
部屋に戻りますね、と少し笑って私に背を向けた。けれど、背を向ける瞬間見えた彼女は今にも泣き出してしまいそうで、自分がやってしまったことを改めて思い知らされた。
「っ、待ってくれアルトリア!」
急いで腕を伸ばし、彼女の細い手首を掴んで呼び止める。でも彼女はこちらに顔を向けようとしない。
「なんでしょうか。わがままを言ってしまったことは謝ります。これからはこんなこと言いませんから、安心してください」
子どもから発せられているとは思えないほどの冷淡な声が妙に響いた。
そして、このことをわがままで終わらせてしまう彼女が悲しかった。こんなこと当たり前のことなのに。彼女は何も悪くないのに。
「違うんだ、君は何も悪くない。悪いのは私なんだ、君の気持ちを考えていなかった。すまない。それに、これぐらいのことたくさん言っていいし、むしろ言うのが当たり前というか、ってそうじゃなくて」
彼女は私に背を向けたままじっとして話を聞いてくれている。
「君に今まで頼らなかったのは君がまだ子どもだからだ。大人は子どもの世話をするものだと思ったんだ。私は親と暮らしたことなどなかったから加減が分からなくて、世話をやきすぎてしまったようだ、すまない。君が手伝うと言ってくれたことは本当に嬉しかったし、迷惑だなんて思っていない」
「...」
「でも、それが逆に君を傷つけてしまっていたようだ。本当にすまない。」
そう言うと、彼女は少し間を空けて消えそうな声で私に問いかけた。
「...じゃあこれからは私を頼ってくれますか?」
「!ああ、もちろんだ。一緒にいろんなことをしよう」
「料理もお風呂を沸かすのも洗濯物も庭のお掃除も、一緒にさせてくれますか?」
「ああ。全部教えるから、一緒にしよう」
そう言うとずっと背を向けていた体をこちらに向けて、
「はい。ありがとう、アーチャー」
今までで1番の、食事をしているときよりも、なんて言ったら自惚れかもしれないけど、嬉しそうな笑顔を彼女は見せてくれた。
ああ、やっぱり可愛いな、彼女には笑顔が1番似合う、なんて思っていると
「では、仲直りです」
そう言うと、彼女は勢いよく私に抱きついてきた。正確には飛び込んで。
「お、おい、アルトリア!」
「?どうかしましたか?」
「どうかしましたか?じゃない!女の子が何してるんだ、離れなさい!」
「でも、仲直りはぎゅっとするものです。ケイ兄さんもそう言っていました」
ケイめ、いったいなんてことを吹き込んでいるのか。いくら妹が可愛いからって偏った知識を植え付けるんじゃない。
「いや、それは世間一般では違う...というか、家族でもない男に抱きつくもんじゃない、女の子なんだぞ!」
「?でも、アーチャーは一緒に暮らしていますよ?」
「そ、そうだが...」
「それとも、やっぱり迷惑でしたか?」
彼女の少ししょんぼりした声にはっとする。しまった、また悲しませてしまう。抱きついているから表情は伺えないけれど、また、泣きそうな顔をしているのかもしれない。
「わ、悪かった。仲直りしよう、ほら」
彼女の小さな体をぎゅっと抱きしめた。小さすぎて簡単に包み込めてしまう。子ども特有の暖かな体温がじんわりと体に染みてくる。抱きしめた分彼女の体の厚みが鮮明に伝わってきて、やっぱり細すぎではないだろうか、食事をもっと取らせよう、などと考えていると、
「ふふ」
と耳元で彼女が楽しげに笑う声が聞こえてきた。体も少し震えている。これは、
「...アルトリア、嵌めたな」
「ふふ、ごめんなさい、アーチャー」
してやられたわけだ、この賢い少女に。ちょっと悲しんでみせれば私が焦って抱きしめてくれる、ということを学ばせてしまった。
「君という人は...」
「だって、私あなたと仲直りしたかったんです」
悪びれもせず、彼女はそう言ってのけた。
「まったく...。これだと今日のデザートはなしかな?」
「な、なんてことを!そんなことしてはダメです!あっ、お庭の掃除をしましょう!2人ですればきっとすぐに終わります!」
彼女は慌てたように話題の方向転換を謀り、パッと私から離れてドアの方に走って行った。腕の中の温もりがゆっくりと消えていく。少し寂しく思ったけれど、
「ほら、アーチャー行きましょう!」
笑顔の彼女が私を呼んでいる。そんな彼女にこちらまで胸が暖かくなって笑顔が移ってしまう。
「ああ、今行くよ」
彼女がよく笑う、こんな日々がずっと続けば良いのに、とまたそんなことを考えてしまった。
彼女が風呂の準備も洗濯物を干すのにも、───料理はまだまだ危なっかしいけれど、慣れてきたくらいの事だった。
もう日が暮れかけようとしていたので、洗濯物を入れようとしていたところを、
「あ、私がやりますのでアーチャーはどうぞ夕食の準備を」
と言ってくれたので、ありがたく料理に専念させて頂くことにする。...お腹空かしているんだろうなあ、と思ったことは彼女には内緒だ。
「まあ、ちゃっちゃと作るか」
と1人で呟いた。
そうしてしばらく経ったころに、急いで作ろうと思い料理に集中していたのだが、ふと気づいた。
「遅くないか」
彼女が洗濯物を取り込みに行ったっきり帰ってこない。昨日はいきなり大雨が降り出して洗濯をし直したから、確かにいつもより量が多いといえば多いのだが。
それにしても遅い。
どれほど多くなろうと結局は2人暮らしなのだ。たかが知れている。窓から見える空はもう暗くなってきていた。
「ちょっと見てくるか」
なんだか心配になって、少し急ぎ足でドアに向かう。彼女には心配しすぎだ、と言われるかもしれないが、言われたら言われたらで謝ればいい。
外にでて庭の方にまわる。ひんやりとした空気に体がぶるりと震えた。
「アルトリアー?何してるんだ?」
なんでもないように装いながら大きな声で彼女を呼ぶ。少しでも早く彼女に何も異変がないことを知りたかった。しかし、返事がなく、心臓が嫌な音をたてる。不安が大きくなって小走りで庭の角を曲がった。
「アルトリア」
そこに彼女の姿はなく、洗濯物が入れられたカゴがあるだけだった。身体中から汗がでる。最悪の状況が脳裏を掠めた。
侵入者の気配はなかった。この屋敷には結界が張られているから、入った時点で彼女も私も分かったはずだ。一定の魔術を無効化する術も組み込まれているから、彼女を操って家の外にというのも考えづらい。この屋敷の結界を破るほどの魔術なら、それこそ気づいたはずだ。
とすれば、彼女が自ら外にでた、ということになる。しかし、1人で外に出るな、ということは口が酸っぱくなるほど教えてきた。そんな彼女が何も言わずに外に出るだろうか。
「っ、くそ!」
いや、そんなことを言っている場合ではない。とにかく彼女の家に連絡して応援を呼び、それからだ。そう思い、駆け出した。
─────その瞬間。
りん、りん
と、すずの音が聞こえた。
侵入の合図!
正面の門の方向からだ。馬鹿な侵入者で助かった、と思い方向転換して全速力で向かう。
無事でいてくれと思わずには居られない。
ごめん、アルトリア、オレがちゃんとしていなかったから。怖い思いをしているだろう。すぐに助けるから。
「アルトリア」
叫びながら最後の庭の角を曲がる。
投影、開始、と呟き手に馴染んだ剣を掴み、振り被ろうとしたとき
「はい?」
気の抜けた彼女の声。
そして、特に怪我をしている様子もない彼女の姿と、見覚えのあるスーツ姿の男が見えた。
「は?」
そしたらこっちの気も抜けてしまって勢いよくずっこけた。
「えっ、あ、アーチャーどうしたのですか?」
彼女がそう言いながらこちらに駆けてきて、心配そうにしゃがみ込む。...スカートでしゃがむのやめなさい。
思い切り打った鼻が痛いのと、顔を上げられないのとでうずくまっていると、
「やあ、久しぶりだねアーチャー」
なんて、懐かしい声が鼓膜に届いた。
「...ああ、久しぶりだなキリツグ」
「相変わらず君は料理上手いね」
「そうなんです!アーチャーはいつも美味しい食事を用意してくれます」
なんて、死んだ目のおっさんと愛らしい天使のような少女がほのぼのと話している。なんともシュールだ。差が凄い。
あの衝撃的な再会を果たしたあと、この男が腹が減ったなどと言うものだから、明日出すはずだった分のものも出してきて、ここに住み始めてから初めての3人での夕食になった。
キリツグは私が組織に入って1年ほどの間、教育係としてついてくれていた人物だ。この世界に入りたての私にたくさんのことを教えてくれた。何事にもキツい人だったけど。
だが、目の前の人物は、昔──といっても10年も経っては居ないけれど、当時のぎすぎすした雰囲気はすっかり鳴りを潜めて、まだ30にもなっていないだろうに、じいさんのような柔らかな雰囲気が漂っていた。
「それで?何しに来たんだ。というか、なんでこの場所を知っているんだ」
そう、ここに彼女と私が暮らしていることは彼女の家しか知らないはず。キリツグは別に探知系の魔術が得意という訳でもない。それでもここが当てられてしまっているのなら、すぐにでも離れて新しい場所を探さなければならない。
「それなら君が心配しているようなことはないよ」
が、そんなことは杞憂だったらしい。
「じゃあなんで...」
「なあに、簡単なことだよ。もともとこの任務は僕がするはずだったってだけさ」
そう言いながら既に夕食を食べ終わっていた彼は、以前会ったときと変わらない銘柄の煙草に火をつけた。
「...そう、だったのか」
任務の担当者が変わることは多々ある。原因は様々だが特に珍しいことでもない。前任者がキリツグだったのは驚いたが、アルトリアがキリツグによく懐いているところを見れば、アルトリアの家と以前から交流があったのだろう。
「あ、そう。なぜ来たのか、だったね」
彼がふーっと煙を吐き出す。
言うまでもなく、前任者が来たということはそういう事だ。
彼女との生活は終わり。
もともと彼の任務だったのだから、彼が戻ってきたのなら彼が担当するのは当たり前だ。
ふと、彼女の方に目をやる。
彼女は状況がよく分かっていないのか、分かっていて平然としているのか。どちらかは分からないけれど、まだ美味しそうに私の作った夕食をもぐもぐと食べていた。
ああ、もうこの表情を見ることは叶わないのか、となんだかよく分からない感情が心から染み出してくる。
私はこの生活が終わることを惜しんでいるんだろうか。
何を、馬鹿なことを。
そんな考えを頭から振り払い、キリツグの方を見た。
「...何を笑っているんだ」
驚いたことに、彼は笑みをたたえていた。彼と出会ってから初めて見る表情。あまりの変わりように、少し離れていた間に彼に何があったのだろう、と考えてしまう。
「悪いけど...ああ、別に悪くはないのか。そっちも君の考えていることは多分ハズレだよ」
「は?」
「僕はこの任務を引き継ぎに来たんじゃあない」
彼の言葉に驚く。
いや、違う。
ほっとしている自分に驚いたんだ。
そんな心を誤魔化すように声を絞り出す。
「...じゃあ、どうして」
「そんなの簡単なことだよ。生まれた頃からこの子のことは知っているんだ。そんな自分の娘みたいな子と一緒に暮らす、何処の馬の骨とも分からない奴を一目見ようと思ってね」
...つまり、後任の奴が気に食わなかったら任務を奪い取ってやったということか。
いつの間にか彼を取り巻いていた柔らかな雰囲気は消え失せて、数年前に元通りだ。キリツグは相当アルトリアを気にいっているらしい。
「まあ、担当が君で良かったよ。間違っても手なんか出さなそうだし」
僕の娘は可愛いしね。
なんていうキリツグの言葉のせいで、飲んでいた茶を変なところに吸い込んでしまった。
「っ!げほっ、ぅっ、ごほ、あ、当たり前だ!」
この男は女の子前でなんてこと言ってるんだ。彼女は10も年下だぞ、いやその考えじゃ同い年なら手を出したのか、ってなにを考えているんだオレは!
「それに」
なんだ、またなにかあるのか。これ以上余計なことを言えば、一生あんたの呼び方はえろジジイになるから気をつけろよ。
でも、彼は少し笑って言った。
「君が、まるで出会ったころに戻ったみたいだ」
「...」
...それは、良いことなのだろうか。
弱くなっているんじゃないだろうか。全てを救えると、勘違いしていたあの頃に戻ってしまえば、救えたはずの命を、また、取りこぼしてしまうのだろうか。
黙りこくってしまった私を見てアルトリアは気を使ってくれたのだろう、食器を流しに持っていき、
「あの私お風呂に入ってきますね」
と、少し微笑んで2階に行こうとした。
な、の、に、
「お風呂に入るのかい?じゃあ久しぶりに僕も一緒に」
「まて!!このえろジジイ!」
ほんとにキリツグはこんな人だったんだろうか、とちょっぴり涙がでた。
結局、アルトリアに先に入ってもらってキリツグ、私の順で入った。
キリツグが出てきた頃にはアルトリアはすっかり髪も乾かして眠る体制に入っていたので、
「おやすみ。眠れなかったらすぐに僕のところに来てもいいんだよ?」
なんて残念そうにキリツグは言っていたのだが、
「いえ、もう1人で眠れますので。おやすみなさいアーチャー、キリツグ」
「ああ、おやすみ、アルトリア」
バッサリと切られていた。
そして、アルトリアが2階に消えて行ったかと思ったら、
「なんか君に似たんじゃないかい?」
なんて言い出した。言いがかりも大概にして欲しい。
「だって、前はよくひっついてきてくれてたのに...」
「成長して、あんたのおかしさ具合に気づいたんじゃないか」
「ああ、でもそうだなあ」
だが、私の言ったことを総スルーして彼は続けた。
「よく、笑うようになった。昔も笑わなかった訳では無いけど、あんなに年相応に笑うのは珍しかったよ」
「...そうか」
「そうだよ」
「...風呂に、入ってくる」
「ああ、ゆっくりしておいで」
ここはあんたの家か、と思ったけれど自分が今どんな顔をしているのか分からなくて、背を向けたままリビングを後にした。
風呂から上がると、
「アーチャーもどうだい?」
とキリツグが酒を片手にこちらに手招きしていた。
「私はいい。...珍しいな酒なんて、滅多に飲まなかっただろう」
そう言うと彼は少し困ったように笑って言った。
「あー、そうだね。でも少し」
「?」
「しづらい話をしようと思ってね」
「...アルトリアの話か?」
「まあ、そうだね」
「...」
「彼女の今までの境遇は知っているだろう?男として、というのは少し違うかな。アーサー王として育てられてきて、おそらくあの子の意思なんてないに等しかった」
「...」
「そして、あの子をアーサー王に仕立てあげて、今落ち気味になっている、といってもまだまだ力は健在だけど、ペンドラゴンの家を立て直す。それが彼らの目的だって思っているだろう?」
「...違うのか?」
ずっとそうだと思っていた。いや、きっとそうであって欲しいと思っていた。そうであれば、彼女は生きていける。自分が一番考えたくなかったこと。
でも、魔術師が最も大事にするのは、
「ああ、違うね。あいつらは普通じゃないよ。魔術師は血筋を大事にするからね。分家ですらない家の生まれであるあの子を、ただアーサー王として置くわけが無い」
「...」
「死ぬよ、あの子」
心臓がドン、と嫌な音をたてた。手に力がこもり、服に皺がよるのを他人事のように感じた。
「そうかもしれない、とは思っていたんだろう?でも、考えないようにしていた。違うかい?」
図星すぎて、言葉が出なかった。
彼女の家に初めて行ったときにケイは「死ぬ」と言っていた。それは彼女の自由は無くなって死んだも同然だ、という意味だと思っていた。
だが、一度考えてしまえば、文字通りの死にいきつく。
「ペンドラゴンは精神、魂などの人に関する魔術に特化している、ということしか知られていない。封鎖的な家だからね。だから、彼らがどんな手段を使ってあの子から、彼らの血筋であるアーサー王を作り出そうとしているのか、そもそも、彼らのいうアーサー王としての基準がなんなのかも分からない」
「...ああ」
それは、私も彼女の話を男から聞いたときに思ったことだった。何世紀も前の人物だし。言ってしまえば、いたのかどうかさえも怪しい物語の中の人物だ。
だが、そんな人物に似せるということは、
「まあ、1番考えられる可能性としては魂だろうね。姿かたちというのは魂に形作られるものと言われているし、魂が似れば性格も似てくる」
「そう、だろうな」
「もう一度言うよ。ペンドラゴンの家に行ってしまえば、あの子は100パー助からない」
「...それは何故だ」
まだ方法も見つかっていないのだから、そんなの分からないではないか、なんて子どものようなことを思ってしまう。
「魂がアーサー王としての基準であると仮定するとして、あの子の魂をペンドラゴンの子供に移すなら魂のない彼女は生きられない。もし、魂の複製が可能でその魂が子供に移されたとしても、彼らからしたらもうあの子は用無しだ。アーサー王は2人もいらないからね」
頭で考えていた事でも、口にだして言葉にされてしまうと、まるで、鈍器で殴られたような衝撃が走った。
「そのこと、彼女は」
「断言はできないけど、知っているだろうね。家の奴らが言うとは思えないけど、周りの気配には敏感な子だから」
そして、キリツグは息を少し吐いて、また吸って、オレに言った。
「アーチャー、ここからが本題だよ」
「...なんだ」
「もし、あの子に普通の生活をさせようと思っているのなら、やめた方がいい」
「...何故だ」
「君もあの子も、きつくなる。元から人間扱いされないのと、人間扱いされたあとに人間扱いされなくなるのは訳が違う。それに、現に君は罪悪感で潰されそうになっている」
「...だから、キリツグはアルトリアを名前で呼ばないのか?」
「そうだね。名を呼んでしまえば僕はあの子を見送ることを、見殺しにすること、と思わざるを得なくなるからね」
そんなこと、ただの言い訳なんだとすぐに気づいた。この男はそんなことで自分を抑えられるほど、非情にはなりきれない。彼女と会ってからおそらくずっと苦悩し続けたに決まっている。彼女に対する態度でそんなことすぐに分かる。今だって、彼女のことをただの器だなんて思えないから、こうして暇ではないだろうにここに訪れたのだろう。
「だから、もうこんなことを続けるのはやめた方いい」
そう言ってキリツグはまだたくさん残っている酒を少しだけ口にした。
キリツグが言っていることが正しい、なんてことは分かっている。
それでもこの短い間くらい、彼女に楽しく過ごして欲しい。でも、こんなことはただの自己満足でしかない。
この家に来た日に彼女の部屋で思った、彼女の中でこの思い出が生き続け彼女の逃げ出すきっかけになれば、なんていうのは幻想だということにこの1ヶ月彼女と過ごして漸くわかった。
彼女は自分の運命に疑問を持たない。自分がどうなろうとも、周りが良ければそれでいい。そういう子だ。優しい子なんだ。幸せに生きるはずの子だ。
ケイだってそんなこと分かっていたはずだ。
でも、
「キリツグ、ありがとう」
「なら、」
「でも、なら尚のことアルトリアは幸せに生きないとだめなんだ。あの子は頑固だから、多分逃げろって言っても逃げないし、逃げたところで捕まって殺されて終わるって分かってる、賢い子だ」
「...」
「でもさ、だからって自由に生きれるときまで嫌なことしながら生きるのは、違うと思う。...けど、これはオレの自己満足でしかないし、キリツグの言う通りにした方がアルトリアが傷つかないっていうのも分かってる」
「...ああ」
「それでも、アルトリアにはちょっとでも長く笑っていて欲しいんだ。今まで出来なかったことも許す限りさせてあげたいし、もし、泣いてたら泣き止むまで抱きしめてやりたいんだ。この4年間くらい、普通に、幸せに暮らして欲しんだよ」
オレは、彼女の幸せを諦められない。
そう言うと、キリツグは少し笑ってまた酒をひと口だけ喉にながした。
「キリツグ、もう帰ってしまうんですか?」
次の日の朝、3人で食卓を囲んでいると、普段はあまり聞くことの無い不満げな声があがった。
「ごめんね、次の仕事に行かなきゃ行けないんだ。次来るときはたくさんお土産買ってくるから」
「むぅ、お仕事なら仕方ないです。お土産はいいので、またすぐ来てくださいね」
なんてアルトリアが可愛いことを言うものだから、キリツグはでれでれだ。
「そんな可愛いことを言われたら、ますます仕事に行きたくなくなってしまうよ」
だが、そう言ったかと思うと、キリツグは立ち上がってアルトリアのそばに膝をつけると手を握った。
「キリツグ...」
「...僕は今度ドイツに行くんだ。お土産はそうだな、バームクーヘンなんかどうだい?くまのぬいぐるみなんかも有名らしいよ」
「ばぁむくーへん...?あ!本で見たことがあります。生地を少しずつ重ねて焼くお菓子なんですよね?」
「そうだね。じゃあお土産はバームクーヘンをいっぱい買ってくるよ」
なんでだよ。そんなバームクーヘンばかりを2人暮らしの家に持ってきてどうするつもりなんだ。
と私は思ったが、アルトリアは嬉しそうだ。
「!あ、いえ。お気になさらず。キリツグに会えるだけで嬉しいですから」
だが、バームクーヘンを嬉しそうにしてしまったことを恥ずかしく思ったのか、すぐに顔を引きしめた。
「君は本当にかわいいことを言ってくれるね。...ああ、それでなんだけどね」
するとキリツグは少し息を吸って、アルトリアの手を握る力を少し強めた。
「キリツグ?」
「...ドイツにね、君と同い年の子がいるんだ。美人で賢くて、とてもいい子だ」
「?」
「もし、もしね。僕がその子を連れてきたら、友達になってくれないかな」
「え...」
アルトリアは目を見開いた。その顔は少し強ばっている。
「君とちょっと似てるんだ。いつもは大人びてて、でも、ちょっとお転婆で。ほら、そっくりだろう?」
なんてキリツグは笑って見せた。
「だからさ、仲良くしてあげてくれないかな?きっと良い友達になれる」
なんだか、祈っているかのような顔だった。誰かに赦されたいと願っているかのような。痛みを堪えているような。
静寂がこの場を支配した。キリツグは悲痛な顔を彼女に見えないように俯いている。
だが、永遠のように感じたその静寂はアルトリアのやわらかい笑顔によって壊された。
「もちろんです!私その子に会える日を楽しみにしてますね」
「...!ああ、楽しみに待っててくれ、」
アルトリアの答えを聞いたキリツグは一瞬泣きそうになって、内側からほぐれるような笑みを浮かべた。
「やっぱり、言えなかったよ」
彼がぽつりと呟いた。
もう帰る、というときになってアルトリアは何やら自分の部屋でごそごそとしているので、リビングで彼と2人きりだ。
「...アルトリアの名前をか?」
「うん。名前も呼んでやれないのに、友達だなんて。僕は何を言ってんだろうね」
そう言うと、彼は自虐気味に笑った。
「でも、呼んでやろうとしただろう」
「...結果は一緒だよ。僕は自分が傷つくのが嫌で名前を呼ばなかったのに、あの子の傷になるにきまってる友達は作らそうとしたんだ。最低だよ」
「...どんな選択でも間違いなんかではないと思うがね。その選択は彼女に傷を残すかもしれないが、きっと良い思い出も残してくれる」
こう願うことすらもきっとオレの自己満足だ。でも、そう思わずにはいられない。自分がしていることが彼女の笑顔と彼女の思い出になると信じるしかない。
「...そうだね」
そうキリツグが呟いたとき、階段からトントントン、と人が降りてくる軽い音が聞こえてきた。
「お待たせしました!ごめんなさい、思ったよりも時間がかかってしまって...」
彼女が現れることで、部屋の雰囲気がパッとかわった。
「いや、かまわないよ。それにしてもどうしたんだい?いきなり部屋に閉じこもってしまって」
おじさんかなしいよ、なんて言ってキリツグは乱れてしまったアルトリアの髪を直してあげている。
「あ、ありがとうございます。えっと、お友達、ということでしたのでお手紙を書いてみたんです」
手紙で口元を隠すようにしてアルトリアは小さな声でそう言った。初めての友達に戸惑っているようで、頬がうっすらとピンク色に染まっている。可愛い。
「手紙?」
「はい。私お手紙なんて今まで書いたこと無かったので、おかしなところもあるかもしれませんがキリツグから渡してください」
そう言うと、アルトリアは綺麗な薄い青色の封筒をキリツグに渡した。
「...ありがとう。きっと喜ぶよ。返事を楽しみにまっててね」
「!は、はい!」
アルトリアは返事が来る、というのが嬉しかったのか、目に見えてうきうきしている。
キリツグが帰る、ということを知ってからしよしよになっていたアホ毛も元気になっていた。
そうしてしばらく3人で会話を楽しんでいたときだった。
「それじゃあそろそろ行くとしようかな」
キリツグは持ってきていた鞄を持ってそう言った。
「車を置いてあるところまでおくろうか?」
「いや、大丈夫だよ。ちょっとしたら雨も降りそうだし、君たちは家にいるといい」
見送りに外に出てみると、確かに雨雲がそこまでやってきていた。
「ほんとだな」
そう呟くと、アルトリアは何故か私の手を握って、キリツグに話しかけていた。
「ぜったい、また来てくださいね、キリツグ」
「もちろんさ。可愛い君を見るために、またすぐくるよ」
「...ぜったい、ですよ?」
「うん」
「...わすれちゃだめですよ?」
「うん」
アルトリアは念を押すように何度もキリツグに聞き返していたが、そうこうしているうちに、既に家の門までやってきていた。
「それじゃあ、達者でな、キリツグ」
「ああ。君こそ、僕より若いんだから無理しすぎちゃだめだよ」
「キリツグ、ずっと待ってますから!」
「うん。また来るから」
そうして各自別れの挨拶を済ませると、
「それじゃあまたね」
そう一言キリツグはこぼして、1度も振り返らずに私たちの家から去っていった。
アルトリアはずっと見つめている。ぎゅっと私の手を握って、既に見えなくなったキリツグを見ていたが、突然話し始めた。
「アーチャー」
「ん?どうした」
「私、お友達なんて、初めてで、ちゃんとお手紙かけたんでしょうか。...変な子だと、思われないでしょうか」
そんなことを気にしていたのか、と彼女の年相応な悩みに少し心がほころぶ。
「大丈夫だよ。君は優しくて賢い、とてもいい子だ。変な子だなんて思わないさ」
だが、アルトリアはまた私に話しかけた。
「ねぇ、アーチャー」
「...どうした?」
「キリツグはもう一度ここに来てくれるでしょうか」
「...来てくれるさ。だって君とあんなに約束してただろう?すぐにくる、って」
「...そう、ですね。また、来てくれますよね」
そう言って彼女はまた、私の手を強く握った。
でも、いつも暖かかった彼女の手は冷えていて、彼女の不安を表しているかのようだった。
「アルトリア」
そのままにしておけなくて、彼女のことをゆっくりと抱きしめた。やっぱり、体がひえている。
「アーチャー?」
「大丈夫だから。キリツグはすぐにくる。君のことを置いてなんていかない」
「...はい」
やっぱり彼女は泣かないけれど、声は弱々しく、かき消されてしまいそうな程だった。
彼女もそのまま消えてしまいそうに思えて、もっと強く抱きしめた。
黒雲が頭上を支配して、雨が降り出すまでその小さな体を抱きしめていた。
だが、彼女の不安通り、手紙は届いても彼がこの家に訪れることは、ついぞなかった。
彼女と一緒に植えた花の種が発芽して、少しずつ大きくなり、ほとんどのものは小ぶりな、しかししっかりと濃い色の蕾を付け始めた頃のことだった。
「アルトリア、眠ければ自分の部屋で寝なさい。ソファで寝てしまったら春といっても風邪を引くぞ」
彼女はよく眠そうにしていた。朝も昼も夜も関係なく、リビングでうとうとしている。
今日も、まだまだ彼女がいつも寝ている時間よりはだいぶ早いのに、彼女は分厚い本をリビングで読みながら睡魔と戦っているようだった。
「あ、はい...。おやすみなさい、アーチャー」
「おやすみ、アルトリア」
一言声をかければ特にぐずることなく、素直に自分の部屋に行くのだが、最近の彼女は絶対に自ら2階へ行こうとはしない。
ここへ来た頃はすぐに自分の部屋に閉じこもっていたのに。
それ自体はすごく喜ばしい変化で、実際、彼女が初めて食後リビングにいたときは、思わずガッツポーズをしてしまうほど嬉しかったのだが。
「春だからか...?」
そう呟いてみるものの、彼女の起きる時間は相変わらずだった。春だから眠いというのであれば朝も遅くなりそうなものだが。
考えてみても特に他の答えは浮かばなくて、もっと酷くなるようであれば彼女に聞いてみよう、とその日はその思考を打ち切った。
「アルトリア、どうしたんだ?」
まだ蕾だった花も咲き始め、あと数日もすれば満開になっている庭が見られそうといった頃。
朝食をいつも通り食べ終わり、食後に彼女はいちごのジュースを、私はコーヒーを飲んでいたが、アルトリアが眠そうにしているのは全く治らず悪化しているようだった。
「え?何がでしょうか」
「ずっと眠そうにしているだろう?」
「...そうでしょうか」
「ああ、眠いなら今日ぐらい寝ててもいいぞ。...それとも、何か眠れないような心配ごとでもあるのか?」
そう尋ねてみても、彼女は素知らぬ顔で早口気味に返した。
「いいえ、そんなことありません。大丈夫ですよ。...あ、今日はちょっと苦手な教科なのでお先に失礼しますね、ごちそうさまでした」
「...」
絶対嘘だ。確かに今日は数学をする日で、彼女はどちらかと言えば苦手であるけれど。今まで食後のゆったりとしている時間を彼女が削ることなんてなかった。
「...そうか。お粗末様」
でも、彼女に無理やり聞くなんてことは出来なくて、何をすることも出来ず、私はそう呟いただけだった。
そして、ついに庭に植えている花が満開に咲き誇り始めた頃だった。
やっぱり彼女が眠そうにしているのは悪化していた。彼女の大きな目の下には真っ黒なクマができ、周りの景色は春になる準備をするかのようにどんどん色づいていくのに、それに反比例して彼女の顔色はどんどん色味が薄れていった。もともと白かった肌は白いを通り越して青白くなっている。
これにはさすがに黙っていられず、もう一度彼女に尋ねた。
「なあアルトリア、どうしたんだ?顔色が最近ずっと悪いぞ。具合でも悪いのか?医者を呼ぼうか?」
だが、彼女からの返事は数日前と全く変わらなかった。
「いいえ、そんなことはありません。アーチャーは気にしすぎです。ちょっと寝付きが悪いだけですよ」
「だが、」
そう食い下がろうとしたが、
「大丈夫ですからっ!」
彼女は大きな声で私の声を遮り、勢いよく立ち上がって、おそらく自分の部屋に戻ろうと階段へ向かおうとした。
しかし、それは叶わなかった。
「っ、アルトリア!!」
アルトリアは急にバランスを崩し、その場に崩れ落ちるかのように倒れ込んでしまった。
だが、不幸中の幸いか、倒れたのは私のすぐそばだったのでとっさに腕を伸ばして彼女の体を支える。
「おい!アルトリア!大丈夫か!?」
彼女の顔が見えるように支え直し呼びかけるが、彼女の瞼が開くことはない。呼吸は安定しているものの、顔色は血が通っているのか怪しいほど真っ青になっている。
とにかくベットまで運ぼうと彼女を抱き上げた。
急いで、だかあまり揺らしてしまわないように階段を駆け登った。
そして彼女の部屋に入り、布団に寝かせようとすると違和感を覚えた。
何に自分が違和感を感じているのか、彼女をベットに寝かせながら考えていると、布団をかけようとしたとき気づいた。
まだ彼女が下に降りてきてから少ししか経っていないのに、布団が冷えきっていたのだ。
もしかしたら、眠っていないのかもしれない。
「やはり、寝不足か?」
寝かせた彼女の前髪を少しよけて額に手を合わせてみるものの、熱があるようには思えない。それどころか少しひんやりしている。ずっと眠そうにしていたし、寝不足で間違いないだろう。
なにか言えないような心配事でもあるのだろうか。それも、眠れなくなるほどの。
そう思うと、特に自分が何をしてやれる訳でもないが彼女のそばにいた方が良い気がして、彼女用に作られた小さめの椅子をベットに寄せて腰を下ろし、彼女の様子をうかがう。
青白い肌に濃いクマ。どこをどう見てもすぐに休ませなくてはいけない状態だ。
なぜ、もっと早く休ませなかったんだ。こんなになるまで彼女を放っておいたんだ。
ちゃんと寝ろと言うことも、ちゃんと彼女に事情を聞くことも、できることはたくさんあったはずなのに。
「...ごめんな、こんな奴が監督役で」
キリツグがそのまま任務を遂行出来ていたら、今日彼女は倒れるなんてことはなかったんだろうか。
私以外の誰かがついていたら、もっと君は笑顔で過ごしてくれたんだろうか。
...やめよう。考えても仕方のない事だ。
そんなことを考え始めた頭を振り切るように息をつくと、ベットのヘッドボードに私が彼女にあげた、植えきれなかった花の種を入れた袋が目に入った。
そういえば、と花を植えようと思い立った日を思い出す。
庭に花を植えはじめたのは、春に花のひとつもないのは寂しいから、といったありきたりな理由だった。
でも彼女が手伝ってくれて、一緒に庭の整備をして、種を植えて。
芽が出てくると彼女は目を輝かせて喜んでいた。
毎日たっぷり水をあげて、喋りかけてあげればよく成長する、という話をすれば、毎日のように花に話しかけて、重たいジョウロを一生懸命持って、たくさん世話をしていた。
初めて蕾がついた日には私のところに走って伝えに来てくれた。
いつの間にか、彼女の喜んだ顔が見たくて育てていた。
でも、彼女は満開になった庭を見たのだろうか。ここ最近はずっと家にいて、庭にいる姿を見ていない。体力が落ちて、外へ行く気になれなかったのかもしれない。
「...なにしてんだ、オレは」
思わず深くため息をついた。気づけるヒントはこんなにもあったのに。
「...ん」
ぐるぐると後悔の文字が頭の中を回り始めたとき、小さな声が部屋に響いて彼女が身じろぎをした。
「!ッ、アルトリア、大丈夫か?」
起き抜けの子ども相手に思わず大声が出そうになったが、急いで口をつぐみ聞こえる程度の小声で彼女に話しかけた。
すると、アルトリアの瞼がゆっくりと開かれる。
「...?」
「君は寝不足で倒れたんだ、覚えているか?」
そう問いかけてみるものの、彼女は思考がまとまらないのかしばらくの間、ぼーっと私を見つめていた。
「あーちゃー?」
寝ぼけすぎて私が誰かもよく分かっていなかったのか、何度か瞬きをするとそう呟いた。
「大丈夫か?ああっ、まだ起きてはだめだ。倒れてから1時間も経っていないんだ、少し横になりなさい」
「...はい」
そう言うと、彼女は起き上がろうとしていた体の力を抜いて素直にベットに横になり、また少しぼーっとしているようだった。
「アルトリア、寝てもいいんだぞ。眠いんだろう?」
だが、彼女は全く寝る気配がない。
「...いいえ、」
すると、少し間が空いて彼女はただ天井を見つめたまま小さく呟いた。
「そうか...。では、眠れないのか?」
「...いいえ」
それから、心配ごとがあるのか、目が冴えすぎて眠れないのか、と数回質問を重ねてみたが、彼女からの返事は同じだった。
そして、何回か質問を繰り返していると、
「あの、もう十分横になりましたから」
まだつらいだろうに彼女が起き上がろうとしたので、慌てて引き止める。
「ま、待てあと少しだけ。な?」
「...」
これまでの質問と彼女のここ数週間の行動を考え、一番可能性が高そうな質問を口にした。
「なにか、眠りたくないような理由でもあるのか?」
部屋に小さな沈黙が満ちる。
彼女が細く息を飲んだのがわかった。ほんの少し目を見開らき、私から顔を逸らした。
そして、早くなってしまう口調を抑えるかのようにゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
「...いいえ、ありません。ここまで運んで頂きありがとうございます。ですが、もう問題ありませんから、」
─────大丈夫です。
彼女の言葉を聞いた瞬間、体の奥から全身を揺さぶるかのような感情が顔をだした。
「馬鹿か、君は...!」
口が勝手に言葉を吐き出す。
自分が思っていたよりもずっと低い声がでた。
彼女の肩がびくりと震えて、翠色の瞳が怯えるように揺れたのが見える。
でも、謝ることができない。
冷静になることができない。
腹が煮えるような怒りと、目が滲んでしまうほどの悔しさやら悲しさやらが飛び出してくる。
彼女の言葉が血のように全身を巡る。
何が問題ないんだ。倒れたんだぞ。
それを全く関心もなさそうに返事をして。
こいつは、自分のことをどこまで放っておくつもりなんだ。
「なにが、大丈夫なんだ。言ってみろ」
「アーチャ、」
「分かっているのか!?倒れたんだぞ!?」
「っ...」
「君が倒れたのは私の責任だ。ちゃんと君を見ていなかった。本当に申し訳なく思っている。だがな、なんだ君の態度は!なんでこんなことになっても一切自分の心配をしない!」
ここまで言ってようやく我に返る。一気に言葉を連ねたからか、軽く息切れを起こしていた。
そして少し冷静になると、体を起こした彼女が布団をぎゅっとつかんで、俯いているのが見えた。
あんなに巡っていた血が、嘘のように急激に冷めていくのが自分でもわかった。
こんな幼い子ども相手に何を怒鳴っているのか。怖がらせて、怯えさせて、何をしているのか。
「あ...すまな、」
「ごめん、なさい」
すぐさま謝ろうとしたが、彼女が小さく呟いた声が聞こえた。その声は震えていて、もしかしたら泣いているのかもしれない。
「アルトリア、違うんだ。怖がらせたかったわけじゃない。怒鳴ってしまって本当に悪かった」
慌てて、すまないと彼女の前で頭を下げたが、彼女は首を横に振った。
「違うんです」
「?何が違うんだ?」
「...」
「アルトリア?」
彼女の怯えを取り除こうと優しくそう尋ねると、彼女は少し迷うかのような仕草を見せた後、答えを口にした。
「...私には、あなたがどうしてこんなに怒っているのか、分からないのです」
言葉が出てこなかった。
「は」
「あなたはこんなにも伝えようとしてくれているのに、私にはそれが分からない」
ごめんなさい、アーチャー。
そう言ったっきり、彼女は黙りこんでしまった。
悲しげな顔をしているが、それは伝わらなかった自分に対してではなく、伝えたのに伝わらなかった私に対しての申し訳なさの現れなのだろう。
この少女には、人間味が欠けている。
自分のことを心配されて、怒られている意味が分からない。
この少女にどう伝えたらいいのだろう。
どのように伝えたら、自分は心配されて当然の人間だと思って貰えるのだろう。
「...なあ、アルトリア。...、相手のことを心配するっていうのはな、相手のことが大切で傷ついて欲しくないと思っていることなんだ」
「...はい」
「自分が心配している相手が危ないこととか、無茶なことをして傷ついてしまった。でも、相手は全然気にせずに大丈夫、なんて言う。君が、そうだな、例えばケイがそういうことをしていたらどう思う?」
「...怒ります」
「だろう?私からしたらケイの立場が君だったんだ。だから怒った」
「...」
「君は君が思っているよりも、ずっと大切な人だ。君は自分のことを大切だと思えていないのかもしれない。けど、私は君のことが大切だ。そのことを今すぐ理解しろとは言わない。けど、知っておいてほしいんだ」
「...はい」
勢いに任せて色々と喋ったが、酷く恥ずかしいことも言ってしまった気がする。
幸いにも、彼女は真剣な顔で頷いているから、そこまで気にすることはないだろう。
「アーチャー」
「ん?どうした」
私の名を呼ぶと、彼女は私の目を真っ直ぐ見据えて微笑んだ。
「私を大切だと思ってくれてありがとう」
彼女の笑みが重たかったこの空気を軽くしていく。
頬がじんわりと熱くなって赤くなっていくのが鏡を見ずともわかった。
やはり、小っ恥ずかしいことを言ってしまっていたらしい。
「あ、ああ、まあ、それでいいんだ。...それはそうと、眠れなかった理由を聞いてもいいか?」
なんだか彼女の目を見返すことができなくて、口をもごもごと動かして顔ごと逸らす。
そして、彼女にこのような心の内を知られたくなくて、この事態に陥ってしまった原因に話を戻した。
「...」
だが、彼女はさっきまでの可愛らしい微笑みを引っ込めて黙り込んでしまった。
「どうしても言いたくないのなら強制はしない。でも、原因を知れば君を助ける力になれるかもしれない。だから、」
────どうか教えて欲しい。
さっきまでは見れなかった彼女の目を見て、語りかけているのか呟いているのかも分からない声で彼女に伝える。
すると、彼女は意を決したように口を開き、小さな声で呟いた。
「自分でも、情けないとは思うのです」
「うん」
「でも、...恐ろしいと、思ってしまう」
「恐ろしい...?」
もしかして夢見でも悪いのだろうか、と思っているとアルトリアが口を開いた。
「私、物心がつく頃には既に、悪夢のようなモノを毎日見ていたんです」
「ようなモノ?」
彼女の言い回しが気になり問いかける。
「はい。眠ると必ず真っ暗な部屋にいて、なにかが、ずっと、同じ言葉を繰り返しているんです。別に怖い思いをした訳でも、それを見て泣き出したりした訳でもないですし、もう、何を言われていたのかも思い出せないのですが...」
「そう、か」
幼い子どもが見る夢にしては異常すぎる。
それに、この少女が見ていたというのなら、十中八九彼女の家の者の魔術だろう。
彼女はもう覚えていない、と言っているが生まれたときから見せていると考えれば洗脳してしまう気だったのだろう。忘れてくれて正解だ。
思わず手に力が入る。
本当にこの子には自分の時間というものはなかったんだ。生まれたときから、この子の生はこの子のものじゃなかった。
彼女の家に怒りを覚えずにはいられずにいると、彼女が先程よりも朗らかに口を開いた。
「でも、ある日急に別の夢を見だしたんです」
「別の夢?」
「ええ。美しい夢でした。初めて見たあの景色は忘れられません。今までずっと、夢というのは暗くて少し怖くて壊れてしまいそうなモノだと思っていました。でも、ソレは違いました」
「どんな夢だったんだ?」
彼女の表情がみるみるうちに柔らかくなっていく。それだけで、その夢が彼女の救いであったのがわかった。
「どこまでも続いている花といつも綺麗な青空と、1人の老人がいました」
「老人?」
「はい。いつも私に昔話をしてくれるんです。変ですよね、私の夢なのに私の知らないお話をしてくれるんです」
彼女はうっすらと微笑みながらそう続けた。
懐かしい思い出をゆっくりと取り出して愛でるように、その美しい思い出を語ってくれた。
「いい夢だったんだな」
かけられた悪夢を解き、家のやつにそれを悟られることなく別の夢を見せ続けるなどよっぽどの実力者だ。もし、今までずっと悪夢を見せられ続けていたら確実に彼女は壊れてしまっていた。
彼女のことを守ってくれていたのだ。
「はい。...でも、この家に来てしばらく経ったぐらいの頃に、いつものようにその老人と話をしていると今日が最後だと言われました。これ以上自分と関わることは私にとって良くない、とも」
「?まさか...!」
彼女を救った存在の不思議な行動を疑問に思っていると、そこで最悪なことに気づいた。
彼女を守っていた者がいないのであれば、今の彼女は悪夢を見ていた頃に逆戻りしているのではないだろうか。
「あ、いえ、悪夢は見てはいないんです。でも、一人で見る夢なんて久しぶりで。また、小さい頃に見ていた夢を見るんじゃないかって、思ってしまって。...怖くて、眠れなくなって、しまって」
「アルトリア...」
「情けないですよね。小さい頃見た夢を見たくないから眠りたくない、なんて。それこそ小さい子どものようです。...こんなことに付き合わせてしまってごめんなさい、アーチャー」
「...っそんなことはない!」
思わず大きな声が出た。
彼女の大きな目がこぼれ落ちそうなほど開かれる。
彼女はさっき「大切に思ってくれてありがとう」と確かに言ったが、やはり本質的には理解が出来ていない。
この話を聞いて誰が彼女を責められるだろう。彼女は何も悪くない。こんなこと、なんかではない。幼い子どもがその夢を我慢できていた方が異常だ。トラウマになってしまってもおかしくないほどの夢だ。
「君は何も悪くない。怖い思いをしたのならそう思うことが当たり前だ。君は本当によく頑張った」
「アー、チャー...」
「話してくれてありがとう」
彼女の震えている体を抱きしめる。
「私は君の夢に花を咲かせることも、空を晴らせることも出来ない。もし、君が悪夢を見たとしても助けてはやれない」
「でも、もしそんな夢を見たのならずっとそばにいる。君が恐ろしくなくなるまでこうやって君を抱きしめる。眠れないのなら君に子守唄でも歌うし、眠れるまでそばにいる」
「夢に花がなくて寂しいなら、私が君の夢に負けないくらいの花をこの庭に咲かせる。天気までは操作出来ないが、外の天気なんて気にならないほどの料理を君に振る舞うと約束しよう」
─────だから、これ以上自分を責めないでくれ。
「はい...っ、...アーチャー、ありがとう」
彼女の小さな手が私のシャツを掴んでいるのがわかった。
暖かくて小さくて今にも壊れてしまいそうな命が腕の中で震えている。
こうなるまで彼女は誰にも甘えられなかった。怖い夢を見るから一緒にいて欲しい、その一言さえも言えなかった。
その事実が深く胸に突き刺さった。
彼女を抱きしめてしばらくすると、彼女の震えはすっかり治まっていた。
「アーチャー、ありがとうございます。もう眠れそうです」
いつものような明るく、凛々しさも感じる彼女の声が聞こえた。すっかり持ち直したらしい。
ゆっくりと彼女を腕の中から解放する。さっきまで脆く感じた命は、眩しいほどに美しく輝いている。
「ああ。良かった。ぐっすり寝なさい」
だが、彼女はベットに体を倒そうとせず、ちらちらとこちらを見ている。
「どうかしたか?あ、邪魔なら1階にいるが...」
さっきは眠るまでそばにいると言ったが今の彼女には不要かもしれない。逆に人がいると眠れない、なんてこともありそうだ。
「あ、えっと、そうではなくて...むしろ逆というか、その、.......」
「ん?すまない、もう一度言って貰えると」
彼女の声がだんだん萎んでいき、最後の方はほとんど聞き取れなくなってしまったので聞き返した。
すると彼女は顔を赤らめて叫ぶかのように言葉を吐き出した。
「こ、子守唄を、歌っていただきたいのですが!!」
「え?」
「で、ですからさっきアーチャーが言ったように子守唄を歌っていただきたいのですが!」
3回も繰り返させてしまったことで、赤らめるどころか彼女の顔は真っ赤になってしまっている。
「ふふ」
だが、彼女のそんな表情を見るのは初めてで、思わず笑みをこぼしてしまった。
しかし、彼女はそうは受け取らなかったらしく真っ赤な顔がもっと赤くなっていく。
「な、何を笑っているのですか!アーチャーが言い出したのですよ!べつに、歌って頂かなくてももう眠れますけど、勉強のためにです。そうです。将来私が子守唄を歌う側になった時のための勉強なのです」
必死になって訂正してくる彼女が可愛くて、また笑みがこぼれてしまう。
「ああ、そうだな。歌ってやるから横になりなさい」
だが、これ以上彼女のご機嫌を損ねてしまうのは良くないのでこちらも必死に笑いを堪えた。
「ええ、分かれば良いのです。...では、お願いします」
全くもって子守唄を歌われる側とは思えない生真面目な返事に、また噴き出しそうになるが我慢だ我慢。
少し緊張しているように見える彼女がベットに横になるのを見届けると、遠い昔、姉が私に歌ってくれた1つの歌が思い起こされた。
姉は本当に明るくてうるさい人だったが、この歌を歌う時だけは全てを包みこむ聖母のようだった。まあ、子守唄をうるさく歌われては溜まったもんではないのだが。
「ほら、目を瞑りなさいアルトリア」
「あ、はい」
アルトリアがぎゅっと目を瞑ったものだから、やはり頬が緩む。そんなにしては眠れないだろうに。子守唄なんてこの子は聞いたことなかったんだろう。ぎゅっと瞑られた瞼をほぐすように彼女の瞼の上に手のひらをおく。
そして、昔の記憶をさっきよりも鮮明に掘り起こして小さく、彼女の眠りを邪魔しないように歌った。
この唄のように彼女の夢にも花束が贈られますように。
この先、彼女が歌うときには幸せな時間を形作るモノとなりますように。
彼女が暖かい夢を見れますように。
そう願いながら、短く暖かい、姉との思い出の唄を歌った。あのお転婆だった姉もこう思いながら私に歌ってくれたのだろうか。
ゆっくりと彼女の瞼から手を離す。瞼からはすっかり力が抜け、いつもの愛らしい顔が見えた。
だが、完全には眠りに落ちてはいなかったらしく、彼女が目をつぶったまま今にもとろけそうな声で私に話した。
「アーチャー、ひとつお願いがあるんです」
「ん?どうした?言ってみなさい」
「来年の今ごろになったら、ダファディルが満開になっている庭が見てみたいです」
ダファディルというのはとても色鮮やかで美しく、イギリスでは有名な春を告げる花だ。
今年は球根を植える時期が間に合わなかったため庭には咲いていないが、来年は彼女のお望み通り満開に咲かせることができるだろう。
「ああ、任せておきたまえ。きっと君を満足させるほどの庭にしてみせよう」
その答えに満足したのか、彼女はゆるゆると口角をあげて微笑み、力尽きたように眠りの底に落ちていった。
窓から外を覗くとまだ朝のため明るく、太陽は彼女の眠りを邪魔するかのごとく輝いている。
せっかくの彼女の眠りを邪魔されてはたまらないと思いカーテンをひいて陽を遮り、彼女に陽が当たっていないか確認する。
彼女の眠っている姿は初めて暮らし始めたときと変わらず、どこまでも純粋で穢れを知らない少女に見えた。
きっとこの世界の醜さを一番に理解し、体感しているのはこの子だろうに。
アルトリアはどこまでも美しかった。
「...おやすみ、アルトリア。君の夢は、君に優しい世界でありますように」