白猫とアゼエメ 柔らかいものがアゼムの頬を撫でる。始めこそ衣服や寝具の類がたまたま顔周辺を掠めただけかと思っていたが、それはローブよりも毛足が長く、シーツにしては細長かった。やがてそのふわふわとした謎の物体はアゼムの鼻の下を数回擦ると、痺れを切らしたようにぽんぽんと顔の上で跳ねた。
「……ハーデス……なに……?」
目を閉じたままそこにいるであろう男の名前を呼ぶも、返事は返ってこない。眠っているのか、それとも無視しているのか、思い当たる節が全く無い訳ではないので、アゼムはその場でうーんと唸ってみせた。正直に言えばまだ此処で怠惰に惰眠を貪っていたい。しかしアゼムの顔の上を滑る「何か」はどうやらその場から退くつもりは無いようだった。
明らかに自発的に動いているそれから一瞬陽溜まりのような香りがして、アゼムは漸くしがみ付いていた睡眠欲から手を離す。解いた目蓋で最初に捉えたのは、霧のような物で覆われた白い視界だった。だが霧にしてはいやに質量がある。再度ぺちんとそれに顔を叩かれ、アゼムは恐る恐るその白い毛束を掴む。手の中でしなやかな筋肉が脈動するのを感じながら、顔の上からそれを掃った。
そこまでやれば今自分が掴んだのは小型生物の尻尾であることは容易に想像が付いた。しかし何故小型生物の尻尾がアゼムの顔に置かれていたのか、そしてどうしてこのエメトセルクの居室にその生物がいるのかといった初歩的な疑問は解決されないままである。
「ハーデス、この……これなに……――ハーデス?」
男の真名を呼びながら腕を伸ばすも、手の平に触れたのはすっかり冷えたシーツだけだった。ベッドの上で見失う程エメトセルクは小柄な男ではない。念の為、シーツだけでなく毛布や枕にも手を伸ばすが、求めている体温はどこにもなかった。
暫し天井を眺めてからゆっくりと身体を起こし、今まで自分が眠っていたベッドの上を確認すると、そこにエメトセルクの姿は無く、代わりに雲のように白い毛を纏った大柄の猫がシーツの上で丸くなっていた。
「……」
まだ自分は夢でも見ているのだろうかと訝しんでみるも、部屋に置かれた自分の荷物や中途半端に飲み残された葡萄酒の入ったグラスは、夢だと一蹴するには余りにもディテールが細か過ぎた。となればこれは現実で、今の今までアゼムの顔にその長い尻尾を置いていたのはこの猫なのだろう。
訳も分からないまま、とりあえずゆったりと呼吸をしている大きな毛玉を撫でてみる。長毛種の生物らしく、想像していたよりも一回り小さな肢体がアゼムの手の中で蠢いた。
「うお」
しかし特筆すべきはやはりその毛並みであろう。誰かを彷彿とさせる柔らかさと、誰かを彷彿とさせる細い毛質と、誰かを彷彿とさせるその色は何をどう解釈しても昨夜同衾したばかりの男の髪ととてもよく似ていた。
「ええと……ハーデス……?」
ぴんと立てた三角形の耳がアゼムの方を向く。それまで薄っすらとしか開いていなかった瞳が徐々にまあるく形を変えた。
この世のどんな硝子玉よりも美しい水晶は、やはり見覚えのある星色を湛えていた。
「ハーデス?」
再度確認の意味を込めて問い掛けると、先程までアゼムの上で悠々と漂わせていた長い尻尾が苛立ったようにシーツを数回叩く。
その仕草は本人よりも本人らしい動きに思え、アゼムは思わずその場で一人首を捻った。
「えっ、本当にハーデス?」
自分でも少々間抜けな構図である事は理解していた。しかしエメトセルクやヒュトロダエウスと違って自分は魂を捉える「目」は持ち合わせていない。アゼムにできるのは地道な調査と、対話で根気強く相手の情報を収集する事だけだ。となれば、何故かベッドにいる悪友そっくりの猫に対して聞き込み調査を実施するのは必然と言えよう。
可能性としてまず挙げられるのはなんらかのイデアの使用、もしくは誤作動だろう。だがアゼムが過去借りた物を含め、「人を猫にする」といった魔法に心当たりは無かった。結果として猫になったのか、それとも何かの過程で猫になるのか、今の時点で絞り込むことはできそうにない。それこそヒュトロダエウスに確認すればすぐに分かる事だ。
だからだろうか、目の前でエメトセルクが急に猫になっても危機感らしい危機感が全く湧いてこなかった。本人には悪いが、どちらかと言えば滅多にないこの状況を最大限楽しみたい欲求の方が強い。
試しに猫の鼻先に手を近付けてみると彼は暫く匂いを嗅いだ後、少しだけ身を乗り出してするりとアゼムの指に頬を寄せた。意外と素直な反応だと驚くと同時に、まるで液体を触っているような心地良さに堪らず声が漏れる。猫のイデアは人気が高いと知ってはいたが、確かにこの生物は世界で唯一無二だろう。一頻り匂いを付けられたところで今度は顎の下を指先で擽ってやると、彼はその丸い瞳を細くしてごろごろと重低音を部屋に響かせた。
「気持ちいい?」
そう問い掛けてから、昨夜も同じ台詞を彼に囁いていた事を思い出し一人苦笑する。その時の彼は真っ赤な顔をして肯定とも否定とも取れる嬌声を聞かせてくれたが、果たして今の彼はどうだろうか。
顎の下だけではなく、そのまま眉間や後頭部などにも愛撫の範囲を広げると、不意に山の如く動かなかった猫の身体がこてんと横に倒れた。一瞬目が合ったような気がしたが、確信を持つ前に猫は再びその瞳を目蓋の裏に隠してしまう。どうやらお気に召したらしい。
意外と「尽くす側」になるのも悪くないかもしれない。そんなことを考えながら目の前に現れた白い腹毛も他の場所と同じように撫で付ける。この不貞腐れたような顔をして甘えてくる姿は紛れもなくいつものエメトセルクであった。
さて、こうして思うがまま猫と戯れてみたが、ただ可愛らしいというだけでこうなった経緯や詳細は全く分からない。やはりヒュトロダエウスに直接会う必要がありそうだ。
「その前に何か作るか……」
アゼムに腹を見せたまま寝息のようなものを立て始めた猫からそっと手を離し、勝手知ったるエメトセルク邸のキッチンへ向かう為、大きく伸びをしてからベッドを降りる。昨日持ち込んだ土産を適当にパンに挟んでサンドイッチにでもするか、と方向性を固めたところで背後からにゃあと声を掛けられる。
反射的に振り返ると、先程までのだらしない姿から一転して、しゃんと背を伸ばした猫が怒ったように低い声で再度鳴いた。
「何だよ、ちゃんとハーデスの分も作るよ」
しかしそれを聞いても納得できないと言わんばかりに星色の瞳が徐々に吊り上がる。弱ったなあとベッドの横で膝を突き、猫と目線を合わせる。「お前も腹減ったろう?」と声を掛けても猫は微動だにせず、喉だけでヴゥと唸ってみせた。
吸い込まれそうな大きな瞳が日の光を浴びてキラキラと煌めいている。何時間でも眺めていられるくらい美しい真円に気圧されていると、痺れを切らしたのか猫の湿った鼻がアゼムの鼻先をちょんと押した。
「……熱烈だなあ」
異常事態ではあるが緊急性は低い。ならもう少し後で出掛ける準備をすればいいか、と一旦準備諸々と空腹を全て棚の上に上げてしまう。
いつもエメトセルクにそうするように、白猫の頬に手を添えればアゼムの手の中に小さな重みが掛けられた。さすがに人間以外に対して性欲は湧かないが、猫の姿でここまで甘えられればいくらアゼムといえど庇護欲が刺激されてしまう。
「可愛いよ、ハーデス」
「何をしているんだお前」
猫が喋った――のではなく、聞き覚えのある低い声はアゼムの背後から冷たく放たれていた。慌てて振り向くと、そこには白猫の片鱗すら無い、この部屋の主である人間のエメトセルクが腕を組んで立っていた。
「えっ! あれ!?」
しかしアゼムの手の平には未だ猫の体重が掛けられたままである。ここから導き出される答えはただ一つであるが、この期に及んでその真実を認めまいと脳が拒んでいる。拒んではいるが、少しずつ頬に血が集まるのを止めることはできなかった。
「呼び出されたから少し出掛けてくると言っただろう」
「……そうだっけ」
夢現に何か声を掛けられたような気はしていたが、内容までは思い出せそうにない。恐らくエメトセルクの反応を見るに、自分は無意識に返事をしていたのだろう。だから書置のような物も無く、エメトセルクは部屋をそのままに外へ出ていたのだ。
「あと、その猫も所用で預かっていると昨日伝えただろう」
「えっ……――あっ」
聞いていないと抗議しようとしたが、昨夜のやり取りが一瞬アゼムの脳裏で再生される。確かに「今仕事で猫を一匹預かっている。隣の部屋で寝ているからあまり騒ぐな」とその時言われていた。
次から次へと言い訳が浮かんでは「あー」や「うー」などの意味の無い文字列に変換されて口から零れ落ちる。てっきりエメトセルクが猫になってしまったと思って、そのまま同衾した相手に話し掛ける要領で接してしまったとアゼムが認める前に、件の白猫が大きく欠伸をした。
エメトセルクはアゼムの隣に立つと、そんな自由な猫をそのままひょいと抱き上げる。
「ところで、お前の『ハーデス』はいつメスの猫になったんだ?」
これ見よがしに猫のつるりとしたフォルムの尻がアゼムの方へ向けられ、勘弁してくれと懇願する代わりに両手で顔を覆った。
この口止め料は高く付きそうだ。