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    mae

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    mae

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    ※現パロ兄弟
    ※ひざひげ
    ※いろいろのみ込んで吐き出したやつです。
    ※作中の台詞はこちらを参考にさせていただきました→https://www.aozora.gr.jp/cards/000264/files/42773_39853.html

    『ひと』の飲み方 父は、厳格な人だった。
     源の名に恥じぬ人間であれというのが父の口癖で、源家の跡取りとして誰にも引けを取らないよう、兄のことを厳しく育てて十八年になる。兄はそんな父を心から尊敬していて、そのすべてに応えようとしていたし、実際に、応えていた。

     自宅は、都心の閑静な住宅街にある。外国の城を模した洋館は、父がその財産を誇示するために建てたもので、外観も内観も嫌味なほどに豪華だった。両内開きの玄関を開くと、ダンスホールかと見間違えるほどのホールが広がっている。洋風に拘ったせいで、外とフラットな上に、土足のまま上がるのが決まりだった。その真正面に伸びる大階段には真っ赤な絨毯が敷き詰められていて、寝そべっても余るほどの幅がある。その階段を上り、大振りな花瓶が飾られた踊り場を経由して一八〇度折れ曲がりさらに伸びる階段を上ると、やっと二階にたどり着く。東西に伸びる細長い廊下の左右には、丁寧な装飾の施された扉がいくつも並んでいた。
     そのうちの一つを開ける。コープ状のモールディングが施された洋室は、いつもどこか滑稽に見える。端的に言えば不釣り合いで憐れだ。この国のこの都市の、よりにもよってこの部屋に施されてしまった、華々しい装飾が。
     ため息をついて視線を下げたその先、部屋の真正面。背丈以上に長い出窓へ腰掛けているのは、兄だった。出窓から落ちている片方の足を揺らしながら、窓の外を見上げている。扉を閉めると、視線をゆっくりとこちらに向けて、口角を上げた。
    「おかえり」
    「ただいま。……兄者、また勝手に入ったな」
     その部屋は、俺の自室だった。笑って誤魔化す兄を見ながら、スポーツバッグを床に置く。今日は土曜日だったが、部活動があった。決まった部活には属していないが、運動部の助っ人として呼ばれることが多いので、試合の近い日にはこうして休みでも練習に参加することがある。
    「大変だね」
     兄が、こてんと膝に頭を乗せて、労わるように言った。
     時計を見ると午後六時を過ぎていた。兄は煌びやかなスーツを着ていて、髪もセットされている。兄が顔を動かすたびにふんわりと香るから、香水もつけているようだ。
    「大変なのは、兄者だろう。もうこんな時間だが、行かなくていいのか?」
     汚れたジャージから、人前に出られる程度の服装に着替える。
     今日、兄は父と、父の得意先を交えた会食に参加する予定なのだと聞いている。会場はこの洋館だ。父はこの洋館に人を招待することを趣味としていた。そして訪れた人々に紅口白牙の母と十全十美の兄を紹介し、称賛の言葉を浴びるのが好きなのだ。
     時計を一瞥した兄が、窓ガラスをノックするように叩く。
    「さっき、おまえが帰ってくるの見えたよ」
    「ああ、兄者の部屋からなら、見えるのか」
     この部屋は北側にあるから、正面アプローチの様子はわからないのだった。兄の部屋はこの部屋の向かいにあり、玄関の出入りがとてもよく見える。
    「迎えてあげようと思って」
    「別に、平気だ」
    「……うれしくない?」
    「当然うれしいが?」
     兄は外出する時も帰宅する時も誰かしらに迎えられているが、俺にはそれがないことを憐れんでいるのだった。会食もそうだ。母も兄も呼ばれるが、俺は呼ばれない。そういうことが、この家では多くある。けれどそれは単に、父にとって不要なことだからだ。俺を他者へ紹介するメリットがない。気を使わせて賛辞を受ける必要もない。俺は次男で、跡取りではないから。そしてそのことを、俺自身も望んでいない。
     だがそれは愛されていないということではない。自室もきちんと用意されているし(北側なのはそれを望んだからだ)、兄と違って学校生活に制限がない。やりたいことはすべてやらせてもらえるし、自由な時間は多くある。だから兄に憐れみの手間を掛けてもらう必要は、ないのだ。
     もちろん、当然、兄に気にかけてもらえるのは嬉しい。兄が弟のことを考えているという事実は、弟にとって何よりの幸福だ。言うまでもなく当たり前のことだが。
     ふふ、と兄が笑った。手招きをされるので、近づく。
     兄が身に着けているのはブルーのスーツで、鮮やかな色の中にある艶と光沢が兄の華やかさと上品さを際立たせている。一年前、家族でイタリアに行ったときに店で仕立ててもらったものだ。そのときは色違いで俺も仕立ててもらったのだが、一年前より肩回りが厚くなった自覚があるので、まだ入るかはわからない。
    「ねえ、いつものやってよ」
     冷たいものが手に触れた。兄の手だ。兄は俺の手を取って、その上に自分の手を乗せた。
    「……またか?」
    「うん、緊張しちゃって。嫌かい」
    「嫌ではないが」

     初めて兄が会食に参加すると決まった時だ。まだ幼くて、兄は小学二年、俺は一年の頃だった。兄はその時から優秀な児童だったが、初めてのフランス料理を前にテーブルマナーが不安だと俺に洩らした。その席には母も同席できず、父とその客のみであったが、とても大切な客なのだと父は兄に強く語った。兄に掛かるプレッシャーは、とても俺の想像できる範囲ではなかったのだろう。母と何度も練習したが、それでも不安だと言うのだ。兄が悩まし気な表情をするところを初めて見た俺は、どうにか心の負担を軽くできないかと考えた。当時通っていた学校の先生に相談すると、緊張を和らげるには、『ひと』という字を書いて飲み込むといいのだと聞いた。
     俺はそのとき勘違いをしてしまったのである。通常は『ひと』と自分で書いたら自分で飲み込むものであるが、その時の俺はなぜか、俺が飲み込まなければならないと思い込んだ。
     兄の小さな手のひらに『ひと』と兄が書き、俺がその手のひらに口づけたのである。兄はそれを信じ、すっかり安心した様子で会食に向かった。その会食は大成功して、兄は父に大変褒められた。俺も鼻が高い思いだった。
     その考えが誤りだとわかってからも、「あのとき成功したから」という理由で、兄は事あるごとに、俺に『ひと』を飲み込ませた。

     兄の手のひらを下から支えるように持つ。兄が『ひと』と書くのを待った。
     けれど、なかなか文字を書こうとはしない。どうしたのだと訊ねると、兄は、そういえば、と顔を上げた。
    「これって、手のひらに書かなければいけないの?」
    「え?」
    「『ひと』を飲み込めばいいんだよね。書くんだったら、手のひらでなくてもよくない? というか」
    「……たしかに、そうだな」
    「だよねえ」
     だが手のひらが一番飲み込みやすいのでは、と言いかけて、兄の指が徐に動くのを見た。
     その指は兄の頬に乗り、ゆっくりと、器用に『ひと』の文字を書く。
    「ここでもいいってことだよね?」
     そう言って頬を突き出され、絶句してしまった。
     それは確かに、そうだが。どこでもいいなら、頬でもいいが。しかし、だが……いや、これは。動き出しそうになるのに堪える。そこに書かれたものを飲むのは、如何なものだろう。俺は決して吝かではないのだが。
     兄はこの家の跡取りだ。軽はずみに差し出していい頬など持ち合わせてはいないのだ。くりかえすが、俺は、吝かでは、ないのであるが。
     考えに考えていると、兄が微笑んだ。
    「……ふふ、冗談だよ」
    「あ、兄者」
     跳ねるように、出窓から降りる。くるりと回転して、頬を払う仕草をした。何の香りだろうか。兄らしい華やかな香りが鼻孔をくすぐる。
    「ま、お前の言う通り、そろそろいいかもね」
    「は?」
     いや、またかとは言ったが、もういいとは言っていない。そう口にする前に、兄はドアノブに手を掛けた。顔の横で小さく手を振って、じゃあね、と笑い、踊るように部屋から出て行ってしまった。


     会食が始まった頃合いに友人から呼び出され、昼間とは違う部活の練習に参加することになった。公営の体育館が夜の時間にしか借りられなかったそうである。練習を終え帰宅すると、夜の十時を回っていた。
     正面門は淡くライトアップされていた。夜警に挨拶をして、門を開けさせる。足元の、外灯風なガーデンライトに照らされた石畳を歩いていくと、洋館はすぐに姿を現わした。
     洋館の西、正面から見て左側には、反り出るように作られたドーム型のサンルームがある。シンメトリーに作られた洋館の、唯一にして目玉のアシンメトリーな部分であった。
     あのサンルームは、ビル群の隙間から覗ける夕日が美しく見えるし、母が手入れしているヨーロッパを模した薔薇園も、一望できる。父がとても気に入っている場所だった。だから会食はいつもそこでやるのだ。今日も同じで、サンルームからは柔らかな明かりと、しとやかなクラシックピアノの音色が漏れていた。
     会食は順調のようだった。よかった。明日は日曜だから、父は遅くまでワインとシャンメリーで客を引き留めるだろう。
     玄関扉のドアノブに手を掛けたところで、ふいに手が止まった。
     なんとなく気になって、少し戻り、洋館の二階を見た。玄関の真上は二階廊下のホールになっていて、大判の窓がついている。そこから左右等間隔に、自室にあったような大きな出窓が設置されている。その窓から、右に二つ数えた部屋が、兄の部屋だ。夕方、そこから兄は、俺の帰りを見ていたと言っていた。
     明かりはついていなかった。けれど今日は満月で、月明かりがすべての窓に光を差していた。兄の部屋の窓辺にうっすらと浮かぶのは、兄の姿だった。
    「兄者……?」
     サンルームから、大きくて上品な笑い声が聞こえる。会食を中座して自室に戻るなど、これまでなかった。しかし、窓辺に佇むのは確かに兄だ。窓の真下まで近づくと、兄が窓を開けた。落ちそうなほどに身を乗り出す。やはり兄だ。この俺が見間違うはずがない。
    「おかえり」
    「ただいま……、兄者、何をやっているのだ。会は?」
    「迎えてあげようと思って」
     兄は、こてん、と首を傾げて見せる。なぜそんなことを聞くの、と聞かれている気がする。まるで、こちらが誤った質問をしてしまったかのように思える。
    「暗い道を歩くのは寂しいだろう。僕が迎えるのは、うれしくない?」
    「うれしいに決まっているが」
     ふふ、と兄は笑った。瞳が弓なりになるのが見えた。
     月明かりに、兄の身に着けたシャツが白く反射した。上着を、着ていない。ネクタイも外して、シャツのボタンもいくつも開けているように見える。鎖骨が見えた。もう会食に戻るつもりはないのだろうか。特に今日は兄のための会食なのだと、父が言っていたことを思い出す。
     兄は乱れた髪に指を通した。耳に掛けていた横髪を下すと、余所行きの兄からいつもの兄に戻る。
     窓枠に乗ったまま、兄は徐に立ち上がった。兄の部屋の出窓はひどく大きい。兄が立っても、頭がぶつかることはない。ないけれど。
    「兄者! 危ないぞ!」
     思わず一歩、前に出て叫んだ。兄はまるでこちらの声など聞こえていないようで、両手を広げて、大きく息を吸うように胸を逸らせた。遠くを見た。あそこからどんな景色が見えるのか、そういえば俺は、知らない。
     大きな瞳が、零れそうなほどに見開かれる。
     月明かりがまるでスポットライトだった。
    「や、待て! あの窓から洩れる光は……」
    「……兄者?」
     訝しむように兄を見上げると、兄は気迫の篭った表情で俺を見た。
    「あれは、東、美しく輝いている。なればジュリエット、君は太陽だ! なんと美しい瞳! 大空で最も美しい二つの星が、何か用があって余所へ行くとき、その間代わって光っておくれと姫の瞳に頼んだのだろう。そうして高いところに光り輝いている姿は、翼のある天の使いが、静かに漂う雲に乗り、虚空の中心を渡っているようだ!」
     兄は恭しい仕草で片膝をついた。差し伸べるように、こちらへ手を伸ばす。その手で、俺に続きを乞うた。もう一度、兄者、と窘めるように言うと、催促の手はさらに大きく振れる。目は迫真である。
     こうなると、兄は引かない。俺はため息をついて、記憶に埋もれた台詞を掘り起こす。この後の台詞は……。
    「……、おお、ロミオ、あなたはどうしてロミオなの? お父様から授かった、その名を捨ててしまいなさい。それが嫌ならば、せめてもわたくしを恋人と言って。そうすればわたくしは、最早キャピュレットではない」
     兄が、にこりと微笑んだ。満足げな表情をされると、これが正しいのだという気持ちになってくる。
     すうと息を吐き、兄にロミオが乗り込んだ。悩ましげな顔をして、手を伸ばす。
    「そばに行こうか? こうしてもっと聞いていようか?」
     これは、バルコニーに躍り出たジュリエットがロミオを想いながら大きな独り言を呟き、ロミオがそれを盗み見ているというシーンだ。ロミオはジュリエットの前に姿を現そうかと悩んでいる。
     ジュリエットの台詞。
    「名前だけが、わたくしの敵です。モンタギューでもご立派なあなた。なにがモンタギューと言うのです、手でも、足でも腕でも顔でもない、人の身についたものでもない。あの美しい薔薇をごらんなさい。あの薔薇がその名を棄てても、甘美な香りと美しさは失われない。何か、別の名にしたらよいのに。ああ、ロミオ、あなたは自らの名でもない名を棄て、代わりにわたくしの心を取ってください」
    「ああ、取りましょう」
    「誰? その声には覚えがあります。まさか、モンタギューの?」
    「もうそれではない、あなたが嫌いだというのであれば。返しましょう、あなたの言葉をそのまま」
     兄が、にこりと笑った。月に照らされた頬が美しい。
    「あなたは今日から私の恋人だ。あなたもそうだと言って。……今、そちらに行きます」
    「兄者!!」
     兄が、立ち上がった。両手を伸ばすのと同時に、兄が窓の外へ一歩踏み出した。ぶわり、と髪が跳ねる。体中の血液が音を立てて引いていく。体温がマイナスまで下がるようだった。それなのに兄は、空中散歩でもするかのように優雅で、まるで重力なんて感じないほど、軽やかに飛んだ。
     しかし当然、重力はある。兄は、落ちた。落ちる兄がこちらに両手を伸ばすので、こちらも精一杯伸ばした。
     胸と背中に大きな衝撃を受ける。バキバキと枝の折れる音が聞こえた。鼓膜が空気で震えているのを感じる。視界は白黒と色を変えてなかなかに落ち着かないが、俺の両腕は何かを抱きしめている。表面は冷たい。でも温かで、甘いにおいがする。
    「……兄者」
     腕の中には、兄がいた。先ほどまで、二階の自室にいた兄だ。
    「よく、覚えていたね。ええっと……一年前、だっけ?」
    「……二年前だ」
     学校の行事で、演劇をしたことがあった。演目はロミオとジュリエットで、生徒は性別を逆転させて配役をされた。役はくじ引きと話し合いで決まり、俺はジュリエットとして板の上に立ったのだった。観劇した兄はそれをひどく気に入り、演劇が終わった後も、しばらくの間は思い出したように台詞を真似、その先の演技を俺に求めた。
     兄は、飛び降りたのはまるで嘘だったかのようにピンピンしていた。頭の上に小さな葉っぱが一枚乗っていただけで、ひっかき傷ひとつ負っていないようである。優雅に起き上がり、俺に手を差し伸べた。その手を取って、起き上がる。俺の手には、枝や葉が擦れた痕がついていた。
     背中がずきずきと痛んだ。振り返ればベッドほどある生け垣が、すっかり人型に潰れている。庭師が見たら、悲鳴をあげてしまうだろう。しかしこの生け垣のおかげで、兄は怪我一つなく、降りてこられた。降りたというか、落ちたというか。生け垣と、俺のおかげに違いない。
     胸をなでおろす間もなく、暗かった廊下に、明かりが灯されたのが見えた。サンルームからは人影が見える。こちらの様子を窺っているのだろう。思わず兄の手を握った。こちらは暗いから、影程度しかわからないはずだが、人が一人、落ちたのだ。今の音は、きっと皆に聞こえた。こんな無茶をしたと知れたなら、兄は父から叱責を受けるに違いない。呆れられ、その先の未来に影響も出るかもしれない。俺が兄を見つけたせいで。そう考えると途端に不安になった。手に力が籠もる。
     それなのに兄は、そんなことなどちっとも考えていないようであった。のんきに、俺の服についた葉っぱを払う。
    「ねえ、海が見たいな」
    「う、海?」
    「行ってみない? 電車、まだあるよね」
     行こう、と言って、兄は俺の手を引いた。


     行ける範囲の海はいくつかあるが、兄は島が見たいと言って、電車は下りへ乗ることに決めた。ふたつのターミナル駅を乗り継ぎ、地方鉄道に乗り換える。その頃はすっかり零時間近で、戻る電車はもう残っていなかった。乗り込んだ車両は古く、ボックス席がいくつもあった。
     そのうちの一つに向かい合わせで腰掛ける。外を眺める窓に、兄の横顔が反射している。
     窓越しの兄と、視線が交えた。兄はにっこりと笑み、窓に息を吹きかける。白くなったそこに、指で文字を書いた。
    『ひと』
     すぐに、ジワリと白い部分が消えていく。飲み込まれるように『ひと』はあっという間に消えた。
     車内には俺たち二人しか乗っていなかった。夜の電車は、どこかいつも不安になるが、今日は兄がいるから、少しも怖くはなかった。線路が悪く、時折振れるように揺れた。揺れる兄を見る。
    「よかったよね」
    「……よかった?」
     兄が徐に口を開いた。何のことだと訊ねると、二年前のこと、と答える。
    「おまえの演技」
     またその話か。兄の視線に釣られるように窓の外を見ると、真っ暗な住宅街が広がっていた。米粒のような街灯がいくつも通り過ぎる。それらは、舞台上で見た客席に似ていた。明るい板の上から、少し下がった平地を覗く。暗闇できらきらと光る無数の視線。
     二年前、舞台が始まる直前に、兄は舞台袖に来た。校内で、兄の存在は有名で、誰も兄を止めることはしなかった。長いかつらを被り、腰回りの目立つドレスを身にまとった姿を間近で見られることは恥ずかしかったが、兄はひどく褒めてくれた。よく似合っている、と言って。
    「あのとき、緊張してなかっただろう」
    「そういえば、そうだな。まあ、俺はあまり緊張しないし……」
    「どうしてだか、わかる?」
     舞台袖の兄は、出番を待つ俺のドレスに触れた。一回転して、と乞われ、言われたとおりにすると、小さく拍手した。観客席からは、さざ波のような人の声が聞こえていた。照明が落ちる。舞台が始まる。最前列で見ているからね、と俺の手を取った。序詞役が、板の上へ躍り出る。そのとき震えていることに気付いたのだ。手が。
     ……どちらの、手だったか。
     向かいに座る兄の手が、俺の手を取った。細い指が『ひと』という形を描くように動いた。丁寧な文字。見るのは、二度目だった。
     なぜ、忘れていたのだろう。
     兄はゆっくりと、手のひらに口づけをした。
    「これ、やっぱり効果あるよ」
     顔を上げた兄が、こちらを見て微笑む。これないとだめだね。それから窓へ視線を移して、今日は失敗したなあ、と独り言のように呟いた。
     堰き止められていた血流が、一気に流れ出たかのように顔が熱くなった。その熱を逃がすように、手のひらで頬を包むが、その手が先ほど口づけられた手だということに気付いて、頭を打ち付けたくなる衝動に駆られた。
     振り払うように咳払いをすると、その様子を見ていた兄が笑った。
    「さっき、頭を冷やせって言われてね、だから海に行こうかなって」
    「それは……」
    「海、冷たいかなあ……」
     窓の外はいつの間にか開けていたようで、街灯がなくなっていた。影に見えていた家の形も見えず、地平線が伸びている。海の近くまで来たようだった。がたん、と大きく揺れて電車が止まった。
     無人の改札を出ると、月明かりがいっぽんの道を照らしていた。まるでステージのようだった。導かれている。兄がこちらの手を握るので、握り返して、真っ直ぐに進む。
     大きな道路を渡り、コンクリートの堤を越えると、なだらかな坂のように砂浜が広がっていた。踏み入ると足元は覚束ない。スニーカーの隙間に砂が入り込んで気持ちが悪いと思ったが、兄はさっさと靴を脱いで裸足になってしまった。
    「じゃあ……、競争!」
    「兄者!!」
     勇ましく笑った兄が、一気に駆け出す。ワンテンポ遅れて、こちらも駆け出した。運動量なら、負けていない。足は俺の方が速い。けれど兄には追いつけなかった。
     兄はためらうことなく海の中へ突き進んでいった。
    「待て! 兄者!!」
     追いかけて、海に入る。海は、冷たかった。波が寄せて返すと、どこにいたのかわからなくなった。遠ざかったのか、近づいたのかわからない。目の前の兄はあっという間に腰の高さまで浸かっていて、妙な焦燥感に駆られる。窓の外に、ためらいなく踏み出した兄の姿がちらついた。その先に行かれたら、俺はもう抱きとめられない。俺が抱きとめられなければ、一体誰が兄を抱きとめるというのだ。
    「兄者!!」
     もう一度兄を呼ぶと、兄はやっと振り向いた。そしてばしゃばしゃと水を跳ねさせながら、戻ってくる。
    「寒い」
    「当然だろ」
    「暗くて島も見えない」
     スラックスはびしょ濡れで、ベルトの金具はきっと錆びて使い物にならなくなるだろうと思われた。シャツだけでなく、頭の上までしっかり濡れている。風邪を引いてしまうぞ、というと、兄は、なぜおまえの髪は濡れていないのか、と不満げに言った。
     このまま陸に上がるより、こうして浸かっている方が温かいのではないかと思われた。兄がいると、先ほどまでの不安に似た気持ちは霧散した。海はもう怖くない。いくらでもここにいられる気がする。
     兄の濡れた前髪をよける。ワックスが残っていて、少し硬かった。海水を浴びたせいか、先ほどまで香っていた匂いは消えていたが、甘い匂いはそのままだった。これが兄の匂いなのだ、きっと。
    「ま、どうして、ここへ?」
     徐に、兄が俺の手を取った。幼げな表情で、俺を見た。続きだ。今度はジュリエットの台詞を、兄が奪った。
    「まあ、なんの為に? あの石垣は高い故、容易では登られぬのに。それにおまえの身分では、もし家のものが見付ければ、たちまち命は亡くなってしまうというのに」
     手に手を重ねる。包み込むように強く握る。兄の手はひどく濡れている。
    「ああ、あの石垣は、恋の軽い翼で越えた。いかなる鉄壁も、恋を遮ることはできない。恋は欲すれば、どのような事もあえてするもの。かの家人でも、俺を止める力は持たない。仮にあなたに愛されないのであれば、立ち処に見付けられ、憎まれ殺されたい。愛されぬ苦しみより、はるかにやさしい」
    「誰が導を?」
    「恋に。今は月明かりに姿を変えているが」
    「……ふふ」
     とん、と兄が俺の肩に頭を預けた。小さく震えて、笑っているようだった。堪えきれない、というように、抑えているが、声は洩れている。月明かりに照らされた兄の髪はきらきらと輝いていた。波が大きく足にぶつかった。すっかり浸かった足元の砂はどんどん削れていくようで、まるで細い塔のてっぺんに立っている錯覚に陥った。けれど平気だった。
     震えていた兄が、やっと落ち着きを取り戻したように、大きく息をつく。
     兄が、手のひらに『ひと』と書いた。その手のひらを俺に差し出す。
     その手を取って口づけると、兄はまた笑った。
    「舞台の上のおまえ、ジュリエットなのにかっこよくて、素敵だったよ。最後の短剣を胸に突き刺すシーンは、圧巻だった」
    「そうか。うれしい」
    「……不思議だけれど、ロレンスに助けを求めたジュリエットの切実さが、今は少しわかる気がするよ」
     兄が指先で、俺の肩をなぞった。
     ロレンスとは、他家と結婚させられそうになったジュリエットに助けを求められ、毒を使った仮死の計画を立てた修道僧のことである。愚かな修道僧だ。
    「では、次は俺がロレンスをやろう」
    「え?」
    「俺は、兄者が望むなら、何にでもなる」
     自分の手のひらに『ひと』と書いた。手が震えているのは、寒さのせいではなかった。不思議そうな顔をしている兄に差し出すと、兄は少しだけこちらの様子を窺って、それから、手のひらに口づけた。
     兄の両肩を掴む。一年も先に生まれているのに、友人の誰よりも華奢である。兄は強いが、強い兄を守るのは俺しかいないと思われた。抱き寄せると、兄はすっぽりと腕の中に収まってしまった。海水はひどく冷えるが、兄は温かかった。
    「俺には、ロミオの台詞は何一つ理解できなかった」
     腕の中の兄はすっかり動きを止めていた。呼吸音だけ聞こえる。
    「今は、わかる。何よりも高い石垣を越える力が湧くことも、愛されないのなら殺される方がマシだと言い切る気持ちも、月さえ味方していると感じる瞬間も」
    「……そう」
    「けれど俺はロミオではないからな。わかるが、しかしそうは思わない。石垣を越える力があるのは鍛えているからだろうし、殺されるより生きて道を切り開くべきだ。月は天気予報でどうにでもなる」
     両肩を掴んで、兄から離れた。兄はぱちくりと瞬きをした。睫毛に水滴が乗っているのが見えた。それを指で払う。
     腕を引いて、兄を海から引き上げた。上着も何も持たずに出てしまったから、きっと風邪を引いてしまうだろう。けれどそれでもよかった。兄は強いから、風邪などすぐに治してしまう。
    「先ほども言ったが。俺はロレンスにも、ロミオにもジュリエットにも何にでもなろう。兄者が望むなら、何にでもなるしなんでもできる。俺は兄者の弟なのだから。だから兄者も、思うように生きると良い。兄者は、何にでもなれるしなんでもできる。俺の兄者なのだから」
     くしゅん、と小さなくしゃみが聞こえた。兄の鼻が、赤くなっている。寒いようで、兄は震えていた。俺も寒い。抱きしめると、兄の力が抜けたように感じた。
    「きっと、すごく、怒られるね」
    「……当然だろう」
     だが、それでいいのだ。
     言い切ると、兄は笑った。


     発熱したのは、俺だけだった。
     あの夜、兄の所在は携帯端末のGPSで把握されていたが、海に飛び込んだことでそれが途切れ、家人が慌てて捜索にきたので、海から這い上がって少しの時間で迎えが来たのだった。兄はあのくしゃみひとつだけで、それからは至って健康だった。俺はと言えば、帰宅した瞬間に発熱し倒れ、一週間寝込んだ。ちなみに兄を受け止めたことによる背中の打撲は、全治三週間だった。
     俺は意識がほとんどなかったので、兄がどのような処遇を父から受けたのか、詳しく知ることは出来ていない。
     目覚めると、あたりは薄く明るかった。朝なのか、夕方なのか判断がつかない。体調は、動いてみようかと思える程度には回復していた。
     視界の端で、出窓を囲っていたはずのカーテンが揺れている。視線を滑らせると、窓から影が落ちている。
     起き上り、影を落としている人物を呼んだ。
    「……兄者」
    「あ、おはよう」
     片足を乗せた兄が、出窓に腰掛けていた。
    「また、勝手に入ったな、兄者」
     笑った兄は、薄いストライプの入った上質なスーツを纏っていた。身体を起こして近づくと、甘い香りがする。香水だ。髪もセットされていて、上品な耳が見えた。スーツに触れる。一週間前とは、違うもの。けれどこれも、同じものを誂えてもらったから、持っている。半年前に、フランスで仕立てて貰った。こちらは同じ柄で同じ色だ。兄が同じにしようと言ったのだ。おまえも似合うから、と。
     時計を見ると、午後五時を過ぎていた。すっかり着飾った兄を見て、父との関係はさほど変わっていないことを察し、胸を撫でおろす。
     その様子を見ていた兄が笑った。
    「おまえが気にすること、ないよ」
    「そうは言うがな……」
    「ねえ、いつものやつ、やって」
     そういって兄が、こちらへ向いた。手のひらに細い指で『ひと』の文字を書いてみせた。今日も会食、と兄は言う。先週ダメにしてしまったから、それのリベンジなのだそうだ。それを、俺に向けて差し出す。もう失敗できないという、その手を掴む。
     兄のための会食。
    「兄者は、どうするつもりなのだ」
    「何が?」
    「先週と同じ、ということは、」
     言い終わる前に、俺の口元が、兄の手に覆われた。『ひと』を書いたのとは別の手だ。俺の口を塞いだまま、困ったように笑っている。言わせたくないのか、言われたくないのか、これはどちらなのだろう。
     いつか、兄は言った。ロレンスに助けを求めたジュリエットの切実さが、少しはわかる、と。
     思い起こされた声色と兄の手のあたたかさは、言葉にし難い情動を俺に与えた。突き動かされるように、口元の手を引き剥がし、『ひと』と書かれた兄の手を掴む。その手のひらを兄の唇にぶつけ当てた。兄が目を見開いている。その手をすぐに剥がして、兄が『ひと』を飲み込まないうちに、唇へ、素早く口づける。それは、いつもと同じように、一瞬だった。
     離れると、兄は少しこちらを睨んで、それから眉を下げ肩をすくませて、笑った。
    「おまえ、何にでもなるといったけど」
     兄は俺の肩を押して、少し距離を取る。
    「ロレンスにも、ましてジュリエットやロミオになんて、絶対になれないよ」
    「……そうか?」
    「うん。おまえは、どこにいっても、ずっと僕の弟」
     兄者。そう呼びかける前に、兄は天使のように出窓から室内へ降り立ち、部屋を横切ってドアノブに手を掛けた。少しだけ扉を開けて振り返る。顔の横で小さく手を振って、じゃあね、と笑い、踊るように部屋を出て行った。
     兄の耳。
     横髪が耳に掛けられて、普段は見えない上品な耳が見えた。それは、ほのかに赤く染まっていた。そのことに、気が付いてしまった。
     夕日が差し込む部屋のなか、たった一人、先ほど飲み込んだ『ひと』が、腹の底で踊りだすのを感じていた。
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