おこらないでね「兄者」
その一言で、弟の機嫌があまり良くないことはすぐにわかった。
怒っているのだ。そしてその原因は僕にある。
持っていたグラスを空にしてから、声のする方へ顔を向ける。弟はいつものように、二枚の襖を目一杯開けた真ん中で、仁王立ちしていた。寝巻から覗ける足は、廊下の寒さを表したように白い。髪が僅かに乱れているから、一度布団に潜り込んだのだろうか。
「いいところに。膝丸、髭切はもうだめだから連れて行ってくれ」
向かいにいる目の座った刀が、まるで自分はまだ平気みたいに言った。おまえの方がだめなのではないのと反論すると、弟はこちらを見ながら、無論そのつもりだ、とやはり怒ったように告げる。近づき、僕の手からグラスを引き剥がすと、そのまま向かいの刀へ投げるように手渡した。慌てる声が聞こえる。
弟が僕の腕を引き上げた。
「失礼する。行くぞ、兄者」
この部屋で唯一の真っ直ぐな声だった。
連れられて出た廊下は、先程の喧騒とは打って変わってとても静かだ。
息を吐くと、熱風が出ているみたいだった。あたりは冷えている。腕を握る弟の手も冷たい。こちらの熱がじわじわと伝わり、次第に馴染んでいく。
「おまえも飲んだらいいのに」
腕を引かれながら、月を眺める。
そう言うと、ため息が聞こえた。それを今言うのか、と呆れた声も。
「……兄者、何度も言うがな。羽目を外すのはこれで最後にしてくれ。飲みすぎるのは身体にも良くない。明日苦労するのは兄者なのだぞ」
「わかっているよ」
「昨日もそういった」
そうだろう、と弟は立ち止まり振り向いた。つられて僕も立ち止まる。
廊下は冷えて、夜は暗い。窓から差し込む月明かりが弟を照らせた。昨日も見た光景だ。鼻先が影になり、頬は闇に溶けているのに、瞳だけがきらきらと輝いてこちらを見つめている。
この姿の弟を眺めるのが、僕は好きだった。
眺められるのも、好きだった。
「兄者」
弟が僕を呼ぶ。たしなめるように両の腕を掴んで、たしかめるように覗き込んだ。兄者、ともう一度、呟くように言う。
「幼子ではないのだから、我慢を覚えてほしい」
「……あれ、僕、叱られている?」
茶化すようにそう言って顔を覗き込み返すと、眉間に寄せられていた眉が次第に緩み、ハの字になった。
「……そう思うのなら自重してくれ」
両の腕を掴んでいた手がするするとくだって僕の手を握りしめるので、握り返した。弟の指が、僕の指と指の隙間に入り込む。籠を編むときと同じように、ぴったりと結ばれる。
振ってみたが、離れなかった。
一歩、距離を詰める。
弟も、一歩を詰める。そうすると、僕らを隔てるものは何もなくなる。熱が解けていく気がする。
「離れないね?」
「……離さないのだ」
弟は、確かにそう言った。
静かな声で、はっきりとそう言ったのだ。
もう、昔の話だ。