食事をしましょう「ソウルに来るなら連絡しろと言っていたので連絡しました」
そろそろ頃合いに煮立ってきた鍋をじっとみつめながらファン・シモクは言った。
そっけない物言いももはや馴染みの物なので怒りも動揺もない。言葉の裏にあるのが社交辞令なのかそれともさらに一歩踏み込んだ「一緒に飯でも食いましょう」なのか。大抵の人間はそこを検討したうえで相手に連絡を取るが、この検事にはそういう機微はない。だが、顔も見たくない相手に連絡を取るようなタイプでもないこともそれなりに長くなった付き合いで知っている。ハン・ヨジンはただシンプルに「そうですね」と返事をした。
「こちらにはいつ以来ですか?」
「先月も来たんですが」
黙ったのは、ヨジンが鍋に肉を入れ始めたからだ。一瞬じっと見つめあうがヨジンはそのままぽんぽんとリズミカルに肉を鍋に投入した。まだ早いと言いたげだったが、ヨジンの判断ではGOだ。箸と肉の皿を持っているのはヨジンなので決定権はヨジンにある。ちなみに具材を選定したのもヨジンなので、すべてにおいて圧倒的に自分に指揮権があると確信している。
「とんぼ返りだったので時間がなく」
「相変わらず検事さんは忙しいですねえ」
「いえ、ただ遠いだけです」
遠いところまで帰らなくてはならないような生活を多分忙しいと言うのだ。鍋の中身をならしながらヨジンは思う。ヨジンは龍山署にいた頃と違って今はデスクワークがメインだ。残業になることもあるが、現場の不規則さや忙しなさとは全く違う。何かといえばこうしてはるばるソウルまで呼び出されるシモクに比べればその意味ではずっと穏やかな日々だ。
もっともその穏やかさがいつまで続くかは別の話だ。この検事と顔を突き合わせて食事などしていると、寝る間も惜しんで動き回っていた時のことを否応なく思い出す。
「今回はいつまで?」
「明日には一度戻ってまた来週」
やはり忙しい。
「今度は何ですか」
「また面倒な案件のようです」
そうでしょうね、と思ったがそれは口に出さなかった。
コネも後ろ盾もない優秀な人材は、それは便利に使われるのだ。初めて出会った時にシモクを庇護していた相手はもういない。一人は鬼籍に。もう一人は在野に。奇しくもその場に居合わせたヨジンはその危うさを肌でも感じていた。警察署内にも派閥や学閥はもちろんある。今いるところなどその極みのような場所だ。だが検察という組織にはそれとはまた違う面妖さを感じる。
「食べますか」
「はい」
食べましょう。
ヨジンの許可を待っていたらしいシモクが箸を伸ばした。
芹の香りと肉の甘味に出汁の利いたスープ。この店はわりと品のいい味付けで物足りない感はあるのだが、その分肉がうまい。黙々と肉に野菜を巻いて口に運ぶシモクも同じことを思っているのがわかる。ちらりと皿の残りの肉を見てためらいなく鍋の中に追加してヨジンを見る。「追加しますか」「はい」ヨジンの返答を待って、シモクが追加を注文した。普段もそもそと小さな声で話すが、張るとよく通る声だ。すぐに店員がやってくる。
肉と野菜を食べているうちに追加の皿が届く。シモクが肉を鍋に投げ込む。
「最近みなさんには会いましたか?」
「誰ですか?」
「……ソ検事やカン地検長」
「ソ検事からは電話がありましたが出てません」
つまり折り返しもしなかったということだ。カン・ウォンチョルにはあの後一度会いに行ったきりのままらしい。龍山署のメンバーと先日食事に行ったことを話しながら、ユン課長を訪ねるか迷っていることは話すのをやめた。それはもっと時間のあるときでいい。楽しいことだけを話したい気分の日はお互いにある。
再びふたりで黙々と鍋をつついた。
「そちらの仕事はどうですか」
カルグクスが煮えるのを待ちながらシモクが尋ねた。
「今取り掛かってるのはわりと平和なやつですね」
「職場はその後どうですか」
聞かれてしまったな、とうっかり箸が止まった。
仲間を売った女と同僚から白い眼で見られていることはシモクはおろか誰にも言っていない。言うつもりもない。これはヨジンが選んだ戦いだから。孤立無援なタフな職場。だが、少しずつ信頼と仲間を得てきつつある。泣き言をいうのはまだ早い。まだやれる。本当の戦いが始まったらなりふり構わずやる覚悟だってある。
「その話は次にしましょ」
だが、久しぶりに会う友人とは、楽しい話だけをしたかった。
あっさりと切り上げるとほんの少しもの言いたげな顔をしてシモクは黙った。ヨジンがどんな状況に置かれているのか。口に出すまでもなく、あの組織の中で生きて来たシモクは知っている。孤立無援に思える中で、頼りになる相手がいる心強さも。今ヨジンがそれを感じていることも。
感情がないのではなく、表に出せない。
昏倒したシモクが運びこまれた病院で居合わせたヨジンに医者はそう説明した。
ヨジンに言わせれば表に出せないのではなく、出し方が下手なのだと思っている。ぎこちなく不器用ではあるがこうして友人のことを気遣ってみせるのは、やさしさや思いやりと言った感情の発露だ。
だいたいこんな風においしそうに食事をする様子を見ればそんなに言われているほどわかりにくい相手でもないと思うのだ。特任チームのメンバーはおそらくみんな感じていた。ぶっきらぼうに見えるのはただ率直なだけ。彼を庇護し、食事をさせたがった上司たちもおそらく恐ろしく怜悧で優秀な男の意外にも素朴な素直さを愛でたのだろう。
「おいしかったです」
「次はソ検事も誘ってみますか?」
「……なんで」
「言ってみただけです」
途端に顔が曇ったのでさっと撤回した。口がへの字になっている。
用がないから電話は折り返してはいないけど、本当は少し、ほんの少しだけ気になってるようだったから言ってみただけだ。ヨジンも取り立てて会いたいわけではない。
「誘ってもこないし、あの人はこういう店は好きじゃないです」
好みの検討が付くということはやはりある程度は関心はあるらしい。クセの強い男だから否応なく印象に残っているのはあるにせよ。
人間ってやっぱり複雑で面白い。
カルグクスを口いっぱい頬張りながらシモクを見ると、ソ・ドンジェの名にちらりと見せた嫌な顔はすっかり消えていた。
久しぶりに会う友人と過ごす楽しい夜だった。