耳と尻尾の話(膝さに)普段であれば涼やかな瞳がいまは少しばかりの剣呑を含んで審神者を見ていた。
彼女の視線の先にあるもの――それは膝丸の頭痛の種でもあるのだが、今日が暦の上で二月二十二日だと知っていればこの事態も回避できたのかもしれない。
審神者の力で膝丸の頭部に耳が生えた。
それも猫の耳だ。
毛並みはなめらかで、名前のとおり薄緑色のけむる春の陽気をうつしとったような淡い色をしていた。
そんなところまで逸話のとおりにならなくても。
膝丸はそう思ったが彼女の目を楽しませているのならほんの少しだけいまのこの状況も慰められた。
頭部の異変に気付いたのは寝巻きから内番着へと着替えているときだった。
今日も兄者は自由な寝姿で膝丸の布団に両足を侵犯していた。無理に起こそうものなら次の瞬間なにが起きるか分からない。
そっと手で押し返し、しかし直撃を食らった腹部の痛みのせいで脳が覚醒してしまっ。
障子からはふんだんに光が射しこみ普段の起床時間からは少しばかり早いが身体を起こす。静かに布団を畳み、枕を乗せたところで鼻がひくついた。
遠くからは廊下を行き来する音がかすかに聞こえる。すでにこの時間から働いている刀たちの音だ。
今日の予定を頭の中で繰り返す。非番だ。自由に過ごしていい。
内番着を入れた引き出しを開けた。黒地に白い線の入った上下が数組きっちりと納まっていて、下の段にはいんなーや下着類がこれまた折り目正しくしまわれている。その隣の引き出しには兄者の衣類が押し込まれている。
膝丸はそれまで身につけていた寝巻きの浴衣を衣紋掛けに被せ、ずぼんに足を通した。内番用なので戦装束と比べてゆったりとした作りになっている。
が、今日ばかりは違った。
本丸で訓練をしているといたるところに筋肉がつく。そのためいささか窮屈に感じたのだろう。
「……」
上着を羽織ろうとしてなにかが引っ掛かった。いや、はたき落とされた。
「なんだこれは!?」
むんずと掴んだ尻尾は背骨の終着点から生えている。
尾骨のあたりだ。ひっこ抜こうと力を込めてもうんともすんともしない。
じわりと涙がにじんだ。痛いだけである。
なんとかじゃーじの下に尻尾を押し込めてみたものの今度は座りが悪かった。
縄をあざなうように小さく束ねてみるのだがやはり窮屈で息苦しい。
なにより体毛が生えているのだ。ちょっと動いただけですぐにむしむしする。
が、なんとかずぼんに納まった。
しかし、問題は耳だ。
身体のほうの異変はどうとでもなろう。服を着てしまえば簡単には露見しない。
だが……。
膝丸は頭の上に現れたそれをそっと撫でた。
人の耳の上にもう一組、猫の耳がある。もちろん耳も尻尾と同様に皮膚にくっついて――否、生えているのだ。
起床時の異常な五感の精度は感覚が二倍になったことの証左でもあった。
そしてこの問題をよりややこしくする事態が迫っていることに膝丸は気付いていなかった。
膝丸の立てる物音にさすがの寝汚い髭切も目をこすりながら半身を起こしたのだ。
「……弟……」
あんぐりと開いた口が二の句を次げないでいた。
そしてこの表情はまずい。
好奇心に満ちた瞳がスッと弓なりにしなっていく。
「――ねえ」
「すまない兄者いまから主に用事があるのでもう少し寝ていてくれないだろうか!」
この尻尾は猫のそれだというのに膝丸は脱兎のごとく源氏部屋を駆け出した。
後ろから間延びした声が投げかけられたが膝丸はけして振り返らなかった。
ここでぼんやりしていたら騒ぎを聞きつけたほかの刀にこれを見られてしまうかもしれない。
そうなっては源氏の名折れ。宴会のときに酒の肴にされるだろう。
瞬時に仲間のるーてぃーんを思い出して出くわさないよう廊下を駆け抜けた。
「主、起きているだろうか」
そしてたどりついた本丸の奥座敷には審神者の自室があり、返答があれば誰でも入出していいことになっていた。
気持ちばかりが焦り、声をかけると同時に膝丸は引き戸に手をかけた。とたんに飛んでくる枕を避けて膝丸は「主!」となかば叫ぶように主人を呼んだ。
そこには寝巻きの前を掻き抱いた審神者が怒りもあらわにこちらを見上げて、いたのだが、突然すっとんきょうな声をあげて後ろに二歩ばかり下がった。
「な、なんで……!?」
という言葉が出てきた。
打って変わってその声色は畏怖ではなく狂喜のあまりに弾んでいた。
「どうやら心当たりがあるようだな」
「ないないないないない多分ない。でもなんで?膝丸猫になったの?」
「なってはいない。思考や行動、好み、すべて人間体のときのままだ。変化したところと言えばこの耳と、」
膝丸の説明に同調するように頭部の耳が動き、そしてずぼんに押し込んだ尻尾がいつの間にか外に出てうなうなと左右に揺れた。
「尻尾だけだ」
+++++
するすると視線の降りた先にある少しばかり窮屈に抑えつけられた臀部から伸びている尻尾。
原因を突き止めるための形式ばった質問に答えている間も彼女の視線はそこを注視していた。
膝丸が冷ややかに見つめてもいつの間にか主は尻尾に気取られている。
「見せぬぞ」
「なんで」
「異変を確認するなら耳だけで十分だろう。なにも尻など見なくても」
「でもどうなってるか見ないと直しようがないよ。それに裸ならいつも見せてくれるじゃない」
「語弊だ主!あれは医療行為だ」
手入れのことを言っているのだろう。審神者によこしまな気持ちがないことは分かっている。
「これは医療行為じゃないの?」
「うぐっ」
痛いところを突かれた。
すでに審神者の手には刀剣男士お手入れ七つ道具が詰まった小箱が握られている。
獣の耳と尻尾に興奮しながらも、準備の早い主だ。しかし普段の手入れ時とはやる気が違うように感じられるのは思いすごしだろうか。
鋭敏になった触角がこれから巻き起こるであろう危険を察知している。
「ねえ、見せてよ」
「嫌だ」
不服なのか審神者が軽く口をとがらせた。
「見せて」
「さすがに主と言えど素面のときにそのような場所を診られるのは」
主が小箱を畳に置いた。
にじり寄るように身体を近付ける。
「膝丸!」
「そんなところ見せてもつまらぬだろう!」
全身の毛が逆立つような錯覚が膝丸を襲った。
サッと手が伸び、審神者の顔を己の手のひらで覆っていた。こじんまりとした鼻梁が中指の腹にぶつかり、飛び出した言葉は手のひらに吸い込まれた。
「……おわ」
「すまない主!とっさに手が」
柔らかな頬の感触が指先に伝わったかと思えば、次の瞬間、彼女の頬に血の筋が現れた。
「あっ」
と思ったときには曲線に添って垂れた。
膝丸の血の気が引いた。
主を、それも顔を傷つけてしまった。
「すまない!」
顔を傷つけられたというのに審神者は冷静なままだった。
それどころか空中を――猫の耳がある場所を眺めている。
「いいよ。わたしが悪いし」
「だが」
「じゃあお尻見せて」
「それは断る」
すかさず否定したと言うのに何故か主は口元に手をやり、笑みを浮かべた。
「猫ちゃんに襲われたと思えばこの傷も下僕の勲章だから平気だよ」
「俺は君を下僕にした覚えはないのだが?」
「それもそうだね」
曰く猫ぱんちと言うらしい。
刀剣男士お手入れ七つ道具の中には打ち粉や手ぬぐいのほかにも人体用の包帯や止血帯が常備されていた。
審神者の指先が絆創膏を貼る間に件の反応をそう説明されて、膝丸も一応納得することにした。
「それはすぐには治らないのだろう」
左頬に大きく貼られた絆創膏を見つめながら膝丸が訊ねる。
「うん。結構時間かかるね。一週間くらい?もしかしたら残っちゃうかも」
絶句。何も言うことが出来なかった。
膝丸の態度に今度は審神者が慌てる番だった。勢いよく手を振る。
「でも全然平気。膝丸反省してるんでしょ?嫌がる膝丸の尻を執念深く見ようとしたのはわたしだし」
「もう少し取り繕った言い方をしてくれ……」
その後、普段のお手入れと同様に打ち粉を振るわれたのだが刀身本体の傷ではないためか獣の耳や尻尾が消えることはなかった。
肩を落とす膝丸に反して、妙に機嫌のいい審神者は小箱の蓋を閉じて押し入れにしまった。
「膝丸が反省してるって耳を見てたら分かったから」
これ以上長居をするわけにもいかず、それに審神者はまだ寝巻きのままで巫女装束にすら着替えていなかった。
とんだ失態を演じてしまった。
打ちひしがれる膝丸の様子に審神者はまた笑みをこぼした。
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2025/04/25
・治し方ですったもんだ。尻尾の付け根。膝丸の腰は細い。
・肉体関係がある。でも尻は見せぬぞ!そんなところ見せてもつまらぬだろう!
・「本当に耳としっぽ以外は異常がないんだよね。目はどう?明るいところでは猫って瞳孔が細くなるんでしょう?ご飯はもう食べた?」背伸びをして膝丸を見上げる審神者。■変化した当人が気付いていない。目の前で上下に振られる打ち粉にめまいを覚えていたのも事実だ。肉体だけではなく精神までも猫に侵食されようとしているのか。■ひと泡吹かせたくなった。「試してみるか」「それは嫌」