黄泉平坂をくだって鶴丸国永が折れた。
「鶴丸はもう帰ってこない」と沈痛な面持ちで言う主を、俺は何を言っているんだろうという目で見ていた。
刀が折れるということは、人で言うところの死ぬということだ。
死んだらみんな黄泉の国に行く。だから、帰ってこないのなら黄泉の国に迎えに行けばいいだけの話なのだ。
俺はその晩、さっそく黄泉平坂を下った。
ゆるやかな下り坂は、進めば進むほど闇が深くなり、自分の手足すら見えなくなってきた。暗闇は光だけでなく音も吸い込むようで、足音どころか、どくどくと拍動している自身の心臓の音すら感じられなくなってしまった。意識して足を動かさなければ、自分が歩いているのか、それとも立ち止まっているのかもわからなくなりそうだった。
どれくらい歩いただろうか、急に周りがにぎやかになった。ザワザワ、ガヤガヤ、明らかに人が話している気配がする。それも老若男女たくさんの人が。声は近づいたり、遠ざかったり、もちろん、真っ暗闇なので人の姿は見えない。不思議なことに誰かにぶつかったりすることもなかった。
ずっと聞いていると頭がおかしくなりそうなぐらいやかましさの中を歩き続けていると、色んな声に混じって探し求めていた声が聞こえた気がした。
「鶴丸」
坂を下り始めてから初めて言葉を発した。
途端に、今まで聞こえていた人々の声が一斉に止まる。また暗闇に一人になったような感覚が戻った。もう一度「鶴丸」と呼んでみる。
「……まさか君も折れたのか?」
鶴丸の声は何故か震えていた。もしかしたら、黄泉の国の住人はうまく声が出せないのかもしれない。先程まで聞こえていた話し声も、単語をでたらめに羅列しただけの会話とは呼べないような意味を成さないものだった。
「違う。あんたを迎えに来ただけだ」
「なんだ。良かった。一瞬、主を七代先まで祟りそうになってしまった」
「あんたの軽口が聞けて、こんなにうれしいと思うのは初めてだな」
「冗談じゃないんだが……」
「なんか言ったか? すまない、聞き取れなかった」
鶴丸の声に変わりはないのに、どうにもいつもより聞き取りづらかった。やはり、黄泉の国の住人になるということは、なにもかもが今まで通りという訳にはいかないらしい。
「いいさ。気にするな。ここに来ると、ちょっとづつ体が朽ちていくからな、俺も顔の周りの肉がそげて、ちょいとしゃべりづらいんだ」
「そうなのか」
「あぁ、そういうわけで、俺は光の下で二目と見られない姿となってしまった訳だから君とは帰れない」
「じゃあ、俺がこっちの住人になればいいんだな」
「どうしてそうなる?!」
鶴丸の頬に穴でもあいているんだろうか、ひゅうひゅうと空気が漏れるようすから、鶴丸の驚きようが伝わってくる。
俺だって、鶴丸が折れたと聞いた時は、それなりに驚いたのだから、これでおあいこだ。
「あんたよく言っていただろう人生には驚きが必要なのさ。予想し得る出来事だけじゃあ、心が先に死んでいくって」
「言っていたな」
「俺にとっての、あんたが言う驚きは鶴丸なんだ。だから、一人で帰ったところで生きながら死ぬようなものならここにずっといても一緒だろ」
「困る」
「何故だ。俺のことが嫌いになったのか?」
「違う。きっと君が俺のことを嫌いになるからだ。頼む、俺のことを嫌いになる前に帰ってくれ」
じゃあな。と、有無を言わさぬ口ぶりに鶴丸が居なくなってしまう。もう二度と会えなくなってしまうのではという焦燥感に駆られた。どうにかして鶴丸を引き留めようと暗闇に向かってがむしゃらに腕を動かす。すると、何かに指先が触れた。掴みやすい棒状のやわらかい何かを握る。そんなに強くにぎったつもりではなかったのに、熟しすぎた果物を握りしめたみたいに指がめりこみ、今度は枝のような硬い芯に行き当たった。そして、ぞわぞわと細長いものが複数、指の間をくすぐりながら、腕を這いあがってくる感覚に襲われる。そこで初めて俺が掴んだものが鶴丸の腕だということに気づいた。蛆がわき、もろくなった皮膚をつきやぶって俺は鶴丸の腕の骨を掴んでいるのだと。
「もしかして痛かったりするのか?」
「痛くはない。もう感覚が無いからな。というか、もっと他に言うことがあるだろう。普通なら蛆が体を這いだした時点でそっちから振りほどくものさ」
「くすぐったいが蛆は死肉しか食わないからな。なんてことない。あんたを逃がす方が嫌だ。それに、鶴丸の肉を食ってるんだから、鶴丸みたいなもんだろう」
「いいや、蛆は俺じゃない。君の身体を俺以外の生き物が触れていると腹が立ってくるな。頼むから、この手を離して蛆を振り払ってくれないか」
「俺は、あんただと思うと愛しさすら覚えてきたというのに」
「頼む」
「わかった。その代わり逃げるなよ」
「あぁ、逃げないと誓おう。その代わり念入りに払い落とすんだぞ」
「これでいいか?」
聞いてから、この暗闇では見えないのではと思い出したが「まだ、袖口についてる」だの返ってくるあたり、もしかしたら見えてないのは俺の方だけなのかもしれない。
「ところで、もしかして君は、俺の容姿を重要視していないのか?」
「なんだ唐突に」
「今の今まで、俺の見目が良いから君は俺を好きになってくれたと思っていたんだ」
「それもひとつにはあった」
「ほら、やはり」
「あくまでもたくさんあるうちのひとつだ。鶴丸だと思えば、鶴丸の外見が好みのひとつにもなるだろう。あんたは俺の見た目が変わったら俺のことを嫌いになるか?」
「そんなわけ!」
「俺も同じだ。なんなら、あんたの顔に口づけでもして証明してみせようか」
「なっ、君! 俺が折れてから急に熱烈になるのは卑怯だぞ」
言葉だけでも動揺しているのが伝わってくる鶴丸の姿が見えないのは、やはり残念だ。
「こんなことになるならもっと素直でいればよかったと思っただけだ。なぁ、もう一度、チャンスをくれないか、鶴丸」
「……仕方ない。黄泉の国を治める神に頼んでみるか」
「本当か?!」
「あぁ、一緒に帰ろう」
「嬉しい。あんたにキスしたい気分だ!」
「それはやめよう。君の口の中に蛆が入った日には、何度たたきつぶしても許せそうにないからな」
こうして二人は仲睦まじく黄泉平坂を上って帰っていったのだった。