ゴールデンスランバー 躊躇いがちな鋏の音が静まり返った室内に響く。
重厚な扉の向こうでは、一日の始まりに向け人々が活動を始めている。その微かな気配を背中に感じながらトーは不慣れな作業に没頭していた。
秋も深まったこの時期には珍しい鮮やかな黄色が、倉庫から探し出してきた白い花瓶に映える。しかし、豪奢な装飾が至る所に施されたこの部屋にはどうにも不釣り合いな気がして、トーは小さく唸った。
どちからといえばごく庶民的な品種であるにも関わらず、バラの咲き乱れる城の庭園で育てられ、王の執務室に飾られたその花はどこか萎縮しているようにも見える。
(なんだか、親近感を覚えますね……)
商家に生まれ商人として無難な人生を歩んでいた筈が、どういう巡り合せか鎧を纏い騎士として主君に仕えている――そんな、分不相応といっても過言ではない自分の境遇と重なる。
「ほう、花か……」
「アグロヴァル様」
摘み上げていた花と鋏を花瓶の傍に置くと恭しく礼を執る。考え事をしていたせいで主の入室に気付けずにいた。そんな臣下の失態も意に介さず、アグロヴァルの興味は花瓶の花へと注がれていた。
「随分と熱心に世話をしていたようだが、ようやく咲いたのだな」
「はい。ご迷惑をおかけしていなければよいのですが……」
「迷惑などということはない。まあ、お前が花を植えたいと言ってきた時には多少驚きもしたが」
そうですよね……愉快そうに笑ったアグロヴァルの言葉に同意しながら、トーはその発端となった出来事を思い返していた。
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主にそれを願い出たのは、まだ肌寒さの残る春先のことだった。
気分転換にと散策していた庭園で、忘れ去られたように佇む花壇が目に止まった。慣れた手付きでバラの木を剪定していた年嵩の庭師に声を掛ける。
「……ああ、その花壇はもうずっと使われていませんねえ」
どうりで。と、トーは頷く。庭園には何度も訪れてはいたが、何かが植えられていたという記憶はなかった。通り過ぎる度にいつもぽっかりと抜け落ちたように緑の見えない花壇に、何となく引っ掛かるような感覚だけがあったのだ。
「雑草が生えないように手入れだけはしているんですがね」
「日当たりも良さそうですし、使わないのは勿体ないような気もしますが……」
数日前。行商をしていた頃の師匠に、最近取り扱いを始めたという花の種を熱心に勧められたことがふと脳裏を過った。半ば強引に手渡されたリストの中で、唯一興味を惹かれた花の名をトーは口の中で無意識に呟いていた。
庭園の広さから考えればこの花壇は随分とささやかなもので、種から育てるような植物には向いているだろう。ここがウェールズ城内であることを考慮しなければ、という前提にはなるが。
「園芸に興味が?なら、アグロヴァル様にお伺いを立ててみてはどうです?」
「えっ。わ、私が、ですか?」
「きっとお許しくださいますよ」
興味どころか植物を育てた経験すら乏しい。むしろ、自分のことで手一杯でそんな余裕などある筈もない。ただ、彩りを失ったままの花壇がどこか寂しそうに思えてしまっただけで――。
そんなトーの思いとは裏腹に驚くほど順調に話が進み、職務の傍ら庭園の一角にある花壇で花を育てることとなったのであった。
まず、主であるアグロヴァルの許可がすんなりと下りたことが大きかった。
日々職務に追われる身でありながら寝惚けたことを、と苦言を呈されるのも覚悟の上で臨んだトーが拍子抜けするほどだった。
楽しみにしている、とまで言われてしまったらむしろ撤回することなど出来よう筈もない。
初めはごく簡単に考えていたが、調べるほどに一筋縄ではいかないと思い知らされた。植物といえど、命を育てるのだから容易である筈もないのだが。
種を蒔いてからおよそ七か月もの間、トーは時間を見つけては毎日のように庭園に赴き世話を続けた。庭師の指示の元で肥料を足し、切り戻しを行い、葉や茎につく害虫と戦っては切らさぬよう水を与えた。
乾いた夏を乗り越え、ひとつふたつと姿を見せた蕾がほころび、ようやく花を咲かせた。トーは言葉に出来ない喜びと共に、どこか肩の荷が下りたような安堵を感じたのだった。
「なかなか見事なものだ」
「庭師の方が手を貸してくださったので……私一人では到底無理だったでしょう」
「いや、お前が植えていなければ、我はこの花を今ここで目にすることはなかった」
花瓶に生ける途中で机に置いていた最後の一本を手に取り、アグロヴァルは掲げるようにして検分している。
すっと伸びた太い茎の先から細い茎が枝分かれして、その先端に一つずつ小ぶりの花をつけている。その数は五つ程だろうか。一本だけでも花束のような様相を呈している。
「花には然程詳しくはないが、この季節には見かけぬ色だ。どういった種類の花なのだ?」
「ヒマワリの一種です。夏に咲くものとは随分と見た目は違いますが」
「ほう、秋に咲くヒマワリか。言われてみれば似たところもあるな」
色は同じく茶色であっても中心部は小さく、花弁が長い。また、葉は丸みを帯びておらず細長い形状をしている。花の色合いこそ共通してはいるが、植物に精通している者でもなければひと目見ただけでは近縁種とは分からないだろう。
「あの、ここに飾っても良いものでしょうか……執務室には似合いませんよね」
「そうか?我は気に入ったのだがな。殺風景な部屋が明るくなったようだ」
「殺風景、ですか……」
視線だけで見渡して、やはり首を傾げてしまいそうになる。細かな彫刻が施された机をはじめとした絢爛な調度品や内装からは、殺風景といった要素を見出すのは非常に困難であると思われた。
(……確かに、年中変化がない風景というのは味気ないとも言えるでしょうか)
この執務室に限らず城内に季節の花が飾られているところを、トーは一度も目にしたことはない。生けるための花瓶すら倉庫に眠っていたほどだ。
緑の溢れる庭園とは対照的に、城内で花を目にする機会といえば来賓をもてなすための宴が催された時くらいだろう。
溜息が出るほど優美で格調高いウェールズ城だが、どこか厳格な印象があるのはそのためかもしれない。これは、城主本人にも通じるものがあるように思われた。
眉目秀麗で目にした者をひと目で魅了するほどの容姿を持ちながら、その反面、戦場では冷酷無比。他人に対してだけでなく自分自身にも極めて厳しい。
物思いにふけっていると、アグロヴァルがくるりと全身で振り向いて、トーは思わずどきりとする。頭の中を見抜かれたように感じてしまったからだ。
すっと差し出されたその手には例の花が握られている。トーと花とを見比べるように視線を往復させたアグロヴァルが、ふっと笑みを深くした。
「それに、お前に似ている」
「え。わ……私に?」
「バラのような華美さはないが、質素な佇まいの中に豪胆さを感じる。我の傍に置くに相応しい」
「……はい」
何と返答したものか逡巡しつつも、トーは僅かに微笑むと花を受け取った。
一本の茎の先に零れそうなほど沢山の花をつける様は、確かに豪胆に見えるかもしれない。
それよりも――何気なく発せられた言葉が胸の奥にじわりと広がって、頬が熱くなるように感じた。アグロヴァルの視線から逃げるように花瓶に向き直ると、小さく息を吐く。
(気に入っていただけたみたいですよ。自信を持ってください、ね?)
物言わぬ花に心の中で語りかけながら、最後の最後の一本をそっと花瓶に差した。萎縮して見えていた花が、今は堂々と黄金色に輝いているように思えて。トーは自分まで誇らしいような気持ちになるのだった。
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再びトーが花を手にアグロヴァルの前に立ったのは、その日の夜半前のこと。
寝室にも飾りたい、そう請われたためであった。鮮やかな黃色は寝室には華やかすぎるだろうと、細身の花瓶と花の付き方が控え目な姿の良いものを選んだ。
「わざわざ用意させてすまなかったな」
「いいえ。アグロヴァル様に喜んでいただけて、私も嬉しいです」
「ああ……」
ベッドに腰掛けたアグロヴァルの手が花瓶に伸ばされる。細い指先が慈しむように黄色の花弁を撫でるのを、トーは言葉もなくただじっと見詰めていた。
橙色の明かりを受けた長い髪が温かな黄金色に見え、手にした花にどこか似ているように思われた。少しだけ伏せた目元は険が落ち、普段の冷徹さは影を潜めている。
君主でも兄でもない、役割から解放された彼の素顔。それを見せるのは自分に対してだけなのを、トーは知っていた。同時に、今まさに誰の目もなく二人きりで過ごしているのだと改めて実感して、胸がざわつく。小さく唇を噛み締めて、溢れ出しそうな感情を奥へと追いやった。
「……こちらで、よろしいでしょうか?」
動揺を誤魔化すように努めて明るい声を出しながら、トーはベッド脇の小机に花瓶を載せた。
「目覚めて最初に目にするのがその花だというのは、良いな」
「ふふっ。本当に気に入ってくださったのですね。頑張って育てて良かったです」
「ああ、来年も花をつけるのだろう?」
え。花瓶の花を整えていた手がぴたりと止まる。確かに多年草ではあるが、花についての詳細は一切伝えていない筈だ。
振り向いたその先で、アグロヴァルは傍らに開いた本に目を落としていた。整然とした文字の隣に、今まさに運んできた花の姿が描かれているのを目にしてトーは小さく息を呑んだ。
「その本は……」
「母上の大事にしていた図鑑だ。たいそう花を好まれてな……あれは母上の花壇だったのだ」
思いがけない言葉にトーはがつんと頭を殴打されたような衝撃を覚えた。
母親との思い出をアグロヴァルは何よりも大事にしていた。辛く苦しい別れを埋めるように語られる話は、どれも美しく煌めいていて。
「我ら兄弟も一緒になって花の世話をしたな。泥だらけになって庭師を慌てさせたものだ」
「そんな……知らぬこととはいえ、私は取り返しのつかないことを……」
トーはがくりと崩れるように膝をついた。大切な思い出の詰まった花壇を台無しにしてしまったという事実が、心に重く伸し掛かる。使われていない花壇が存在している、その理由にまで考えが及ばなかったことはあまりにも浅慮であったと言う他ない。
「我はなにも、責めているわけではない。まあ、聞け」
「はい……」
罪悪感に打ちひしがれる肩を優しく叩かれて、トーは赦しを請う罪人のように膝をついたままアグロヴァルを仰ぎ見る。
「母上を亡くしてからは花を見るのも辛くてな。努めて忘れようとしたのだ。だが……」
そこで言葉を切ったアグロヴァルが、ふっ、と溜息混じりに笑う。
「お前があの花壇に花を植えたいと、言ってくれた……それが嬉しかったのだ」
「私は、何も……ただ偶然、目に止まっただけで……」
アグロヴァルが恐縮しきりのトーの手を取り、立ち上がらせる。促されるままにその隣へと腰を下ろした。肩が触れ合うほどの距離にまた心臓が落ち着きを失う。
「過去の思い出に立ち止まるばかりだった我に前を向かせたのは、お前だ。礼を言う」
「そんな、私は……少しでも喜んでいただけたなら、と……」
「ふむ。それで、だな」
脇に置かれていた図鑑をおもむろに持ち上げると、アグロヴァルは膝の上に広げて見せた。爪のまるく整った綺麗な指先が文字列を追うように紙面の上を滑る。覗き込んだトーの顔にみるみる緊張が走った。
「ヤナギバヒマワリ、というのだろう?」
「う……」
「どことなくお前に似ていると思ったが、なるほど。我の直感もそう捨てたものではないな」
花壇を任されることになった時から心に決めていた。本意を知られなくても構わない、自分の想いを託してその花を育て上げ、贈ることが叶うならば――と。
「ちょっとした、思いつきです……そんなに深い意味は、」
「可愛らしいことをしてくれる」
「わわっ」
伸ばされた腕に抱きとめられて、トーは素っ頓狂な声を上げた。
引き寄せるように後ろの髪をやわやわと撫でつける手に抗えず、為す術もなくアグロヴァルの肩に額を載せた。
心臓の音が煩いほどに激しく耳を打つ。それを知られてしまうことと、きっと赤く染まっているであろう顔を見られるのとどちらがましだろうか。思考がぐるぐると頭の中で駆け巡り、身動きが取れなくなる。
「ふっ。家族以外の他人に、このような感情を持つことがあろうとは思わなかったが」
「あ、アグロヴァル様……っ?」
「お前を、ただの臣とは思えぬ。得難い、いや、誰よりも大切な……」
嫌だったか?耳元で囁く声はどこか弱気な音色を含んでいて。トーはただ小さく首を振って、震え出しそうな両腕を宥めつけると、躊躇いがちにアグロヴァルの背に回した。
「自分に嘘はつけても、アグロヴァル様に嘘をつくことは私には出来ません」
「トーよ。我は、お前に出会えたことを嬉しく思う」
「私も、こうしてお傍に居られて幸せです……ほんとうに」
掠れそうな声を絞り出してそれだけ言うと、トーはぎゅっと腕に力を込めた。どんなに言葉を尽くして飾り立てても、想いの全てを伝えることは到底出来そうにもなくて。
触れている場所から感じる体温と、抱き返してくる腕の力強さに身体の隅々まであたたかいもので満たされていくようだった。
「……今夜は共に眠ってくれ。花だけ、と言わずにな」
「私が花に嫉妬してしまうところでした」
蕩けそうな視線を絡ませて、どちらからともなく笑った。場面にそぐわない軽口が何故か妙に心地良い。
きっと交わってはいけない感情なのだと、理解しているつもりだった。知ってしまえば――触れてしまえば、後戻りなんて出来る筈もないのだから。
けれど。心に芽吹いた小さな若葉は、いつしか鮮やかな花を咲かせていた。込めた想いを少しも隠してはおけないほどに。
――貴方の傍に居ます。
密やかに、そして少しぎこちなく重なった影が、ベッドの上に落ちる。
太陽の下から連れ去られた花だけが、ただ静かに二人を見ていた。
☓END☓