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    ジェイアズ転生パロつづき

    夜を越えて 後編 次に会ったとき、ジェイドは学内のカフェテリアでひとりでコーヒーを飲んでいた。
     飲んでいたと言うか、とっくに空になったらしいカップは持ち上げられらる事もなく、勉強に集中している風でもないジェイドはただぼんやりと窓の外を見ている。そこに何があるわけでもないのに、焦点を結んでいないようにも見えるジェイドの瞳には、一体なにが映っているんだろう。

     断りもなく、同じテーブルのイスを引いて向かいの席に座れば、その気配に気付いたジェイドが億劫そうに視線を上げて僕を見た。そして僕だと分かった瞬間少し目を開き、でもその視線はすぐにそらされてまた窓の外に向けられる。
    「席なら他にも空いていますよ」
    「えぇ。でも僕はここがいいんです」
    「……では僕はこれで」
    「あぁすみません、言い方が悪かったですね。僕はジェイドと同じ席に座りたいんです」
     その顔は窓の外を向いたまま、少しだけ変わったジェイドの表情に僕はふっと頬を緩める。僕たちは分かり合えないと言い切るくせに、こんな言葉ひとつに簡単に喜んでしまうジェイドがなんとも言えず愛しい。
     ジェイドはそんな自分の反応を恥じるように下を向き、慌てて顔を引き締めたようだけどもう手遅れだ。これまでずっと僕を見て不機嫌な態度を取っていたんじゃなく、うれしさを隠すための行動だったと知ってしまった後ではただただその不器用さが可愛らしく見えてしまう。
     こんな大男を相手に可愛いだなんて僕もいよいよ焼きが回ったらしいけど、恋だと自覚してしまえばこの気持ちは思いの外すとんと落ちて僕の胸に馴染んだ。
     そして分かってしまった以上、僕はもう諦めるつもりはなかった。僕はジェイドが欲しい。
     ジェイドが僕を好きでいてくれるなら尚更、手に入れない理由なんてない。

    「あなたがなぜそんなに僕に執着されるのか分かりません」
    「そうですね、この間は曖昧な言い方をしてしまったのできちんと言います。僕はジェイドが好きです。僕の恋人になってください」

     目を合わせないままジェイドが息を呑む。
     ちゃんと呼吸できているだろうか。
     息を止めたみたいに呼吸音すら聞こえなくて、ジェイドの呼吸を確かめるために僕は口をつぐんで耳を澄ませた。

    「…………この間は、いきなり恋人にならなくてもいいと」
    「えぇ。ですが友達になるのは断られてしまいましたし、お互い好きなのにうだうだしているのは時間の無駄では?」
    「効率重視で合理主義のあなたらしい考えではありますが、先日も申し上げた通り僕たちは考え方が合いません。結果破綻するのが目に見えているのですからそれこそ時間の無駄です。もう少し慎重に考え直した方がよろしいかと」
    「失敗も経験ですから無駄にはなりませんよ。まぁ僕はお前との関係で失敗するつもりはありませんが」
    「ずいぶん自信満々におっしゃるんですね」
    「他人のことをこんな風に思ったのははじめてなので」
    「こんな風にとは?」
    「好きだと」
    「……恋人はいなかったんですか」
    「恋愛には興味がなかったので。それこそ時間の無駄だとさえ思っていましたから」

     それは紛れもない僕の本心だ。
     周りの誰もが年頃になれば恋をするのが当たり前で、人を好きになったことがないなんて可哀想だとかおかしいだなんて言う人もいた。
     思春期の頃には自分は人としてどこか欠けているんじゃないかと少し悩んだ事もあったけど、その内にそんなことを悩む方が時間の無駄だと思うようになった。そして僕はもうそういうものなのだと割り切ってしまえばそれからは人の言葉なんて気にならなくなった。
     恋をすると人生が変わるだとか信じられないくらい幸せな気持ちになれるとか嫉妬して辛いだとか、そんな感情にいちいち振り回されるよりも少しでも多く勉強して知識を蓄え将来に備える方が僕にとってはずっと有意義だったから。
     そうして夢に向かって進み続ける毎日はとても充実していて楽しくて、自分に恋人が必要だと思ったことなんて無かった。独り身は肩身が狭いだとかで体裁を保つ為に他人のご機嫌を伺うなんて無意味じゃないか。そんな事に時間を割くくらいなら自分のために勉強していた方がよっぽどいい。
     ずっとそう思ってきたのに、ジェイドへの恋心を自覚して初めて、僕は自分以外の誰かを心から欲しいと思った。
     ジェイドを他の誰にも渡したくない。
     だから僕は今、ちゃんとジェイドを捕まえておかなくちゃならないんだ。
     
    「ジェイドといるとドキドキするんです」

     それも全部、僕にとってははじめての経験だった。
     
    「名前を呼ばれただけでうれしいなんてこんな気持ちになったのは初めてなんです。ジェイドならわかるでしょう?」

     以前、僕に呼ばれただけで真っ赤になっていたウブなジェイドを思い出して思わず笑みが溢れる。あの時はなんて単純な奴なんだと思ったけど、自分の名前を呼ばれてみて初めて分かった。
     好きな人に自分の名前を呼ばれるというのは、それだけですこし幸せになれることなのだ。

    「それだけじゃありません。視界に見つけるだけでうれしくて目が合えばドキドキして、その視線を僕だけのものにしたくなる」

     自分でも信じられないくらい歯の浮くようなセリフがスラスラと溢れて、目の前のジェイドが黙り込んだまま顔を真っ赤にしていたけど止まらなかった。

    「お前が別の誰かのものになるなんて我慢できません。だから絶対に諦めるつもりはないんです。僕はどうしてもジェイドが欲しい」

     ジェイドは相変わらず目を合わせないままひどく困惑した様子で、うれしいのと困っているのと半々みたいな思い詰めた顔で黙り込んでいた。
     僕の告白はジェイドを困らせるだけなんだろうか。
     ジェイドがどうしてここまで頑ななのか分からないけど、ジェイドがどうしても僕を受け入れられない理由があるなら僕はそれを知りたい。知ってそして、そんなことなんの問題もないと蹴散らしてやりたい。
     
    「ジェイド、お前が苦しんでいることがあるなら僕に教えてくれませんか」

     誰かの為に僕に何かできる事はないかと、心から思ったのは初めてだった。
     できる事なら僕の手でジェイドの苦しみを取り除いてやりたい。僕がジェイドの支えになりたい。ジェイドに僕を、必要としてもらいたい。

    「僕を見て。そんなに怖がらないで、力になりたいんです」
     
     ずっと俯いていたジェイドが弾けるように顔を上げて、見開かれたその目に少し驚いたけど、やっと僕を見てくれたことに安堵してつい笑ってしまった。そうしたら僕につられるようにジェイドも笑って、胸がいっぱいになってしまった。
     あぁやっぱりすきだ。
     僕はずっと一番近くで、ジェイドの笑顔を見ていたい。

    「アズール、あなたは運命を信じますか?」
    「運命? 運命の人とかそういう話ですか?」
    「……えぇ、そうですねまぁ」
     なんとなく煮え切らない言い方が少し気になったけど、やっと僕を見て話してくれたジェイドに僕は浮かれていた。唐突な話題にすこし面を食らいはしたが、ジェイドが会話してくれる気になったのなら何よりだ。
    「信じる信じない以前にあまり好きな言葉ではありませんね。運命って自分の意思とは関係なく初めから定められているものでしょう? 僕は自分の力ではどうにもならないことが一番嫌いなんです。未来は自分の力で切り拓いていくからこそ面白いんじゃないですか。恋愛だってそうですよ。自分の気持ちとは関係なく最初から決められていた相手なんて御免です。運命なんてクソ喰らえだ」

     ……と持論を展開したところで僕はハッとする。
     もしかして今の話の流れでこの返しはまずかったんじゃないか? もしジェイドが運命の恋を信じているのだとしたら全くもって逆効果じゃないか。
     ジェイドは僕の話をどう思っただろうと恐る恐るその表情を伺えば、ジェイドはなぜかすこし誇らしげな表情でうれしそうに笑って、笑いながら一瞬だけ、うれしさに悲しみが混じったように見えた。

    「あの、別に信じてる方を否定するわけではないんですよ、僕はそう思うというだけであって」
     僕の言い訳じみた言葉に今度はくすりと笑ってジェイドが目を細める。
    「いえ、僕も信じているわけではありません。あなたの仰る通りですよアズール。定められている未来なんてつまらない」

     僕の言葉を肯定してくれたジェイドになぜかつきんと胸が痛む。
     僕は間違いなくそう思っているし本心を口にしただけなのに、ジェイドが「つまらない」と言ったことがやけに胸に刺さった。

    「さて、では僕はこれで」
    「待ってくださいまだ話が」
    「僕からこれ以上あなたにお話しする事はありません。僕の気持ちは先日お伝えした通りです。あなたと僕は考え方が違う。ですから僕はあなたの恋人になることはできません」

     一度ならず二度までも、バッサリと振られてさすがに僕もすぐには後を追えなかった。
     空席だらけの広いカフェテリアで、近くに客がいなかった事だけがせめてもの救いだ。あれだけ熱烈に口説いておいてここまでバッサリと切り捨てられるなんて、もしも誰か聞かれていたら今の僕はよほど惨めに見えたに違いない。
     まぁ見られていた所で僕の意思は変わらないけれど。
     あいつがここまで頑固だとは正直思っていなかったけど、僕だってこうと決めた事を譲るつもりはない。
     完全に嫌われているならまだしも、どう見ても好かれているのにこのくらいで諦めてたまるか。ジェイドがあれだけ頑ななのには絶対に理由があるはずだ。その理由を確かめて僕が納得するまでは絶対に諦めてやるもんか。
     いや、それがどんな理由だとしても僕がそれを解消してやればいいだけのことだ。

    「ふふ……、待ってろよジェイド……!」

     絶対にお前に「はい」と言わせてやるからな!



     そんな風に僕がやる気になっていたことなどジェイドが知る由もなく、それ以来ジェイドは徹底的に僕を避けているようで学内で偶然会うことは全くなくなった。意図して探しに行けば顔を見ることくらいはできたけど、話しかけようとすれば見事に躱されて近づくこともできない。
     フロイドに頼めばまた家に招いてくれるだろうけど、なんとなくそうはしたくなかった。僕のせいできょうだい二人の仲が険悪になるの見たくないし、僕とてジェイドの気分を害したいわけじゃない。

     そんな日々が続いてさてどうしたものかと考えあぐねていた時、課題の資料探しに訪れた図書館で、僕は遂にジェイドを見つけた。
     図書館で僕の一番お気に入りの場所、誰も行かないような奥まった通路の更に最奥。ひとり用に間仕切りされた学習スペースの一番端にジェイドはいた。それもうたた寝しているようで、体は起こしたまま奥の壁にもたれかかるようにしてうつらうつらと船を漕いでいる。
     完全に寝てはいないんだろうか。時折目が薄く開いたり閉じたりを繰り返して、でも僕が近くにいることに気付いていない辺り意識は曖昧らしい。

    「よかった……」

     見る限りとても熟睡とは遠いけど、少しでも眠れているなら良かった。
     最近のジェイドとくれば遠目に見ても分かるくらい顔色が悪いことが多く、フロイドに聞いても芳しい返事はない。女性達の所へ行くのをやめてからというものゆっくりと眠れてはいないようで、処方された薬を限界量まで摂取してなんとか細切れに眠れる程度だと言う。
     そんな状態でも学校には来るのだからなんとも呆れてしまう。一度しっかり休んで体調を整えた方がいいのは明らかなのに、休んだところでジェイドの症状が回復することはないということなんだろうか。
     僕はすこし距離を取ったまま、初めて見るジェイドの寝顔をまじまじと見つめていた。本当は起こさないようにそっと離れてやるべきなのに、どうしてもそのやつれた白い顔から目が離せない。
     こんな時に思い出すのもなんだけど、フロイドは僕がジェイドの顔が好みなんじゃないかと言っていたっけ。フロイドとジェイドはほとんど同じ作りの顔なのに、言われてみれば確かに、僕はフロイドよりジェイドの顔が好きなのかもしれない。
     見ようによっては冷淡にも見えるその怜悧な目元も、こうしてうたた寝していると可愛らしく見えなくもないし、いつもは澄まして整った顔が、僕を見て表情を変えるのは正直気分が良かった。でもそんな整った顔に濃いクマを作って、不健康に痩せ細っているのはなんとも哀れで庇護欲が湧いてくる。
     ジェイドのために、今僕にできることはあるだろうか。この頑なな頑固者は、どうしたら僕を受け入れてくれるだろう。

     その場を離れることもできずじっと立ち尽くしていると、三分も経たない内にジェイドの表情が苦々しく歪み始めた。
     眉間に皺を寄せ、今にもうめき声を漏らしそうなほどに苦し気な表情に居た堪れなくなる。
     例の悪夢を見ているんだろうか。
     ジェイドが毎夜魘されるという悪夢。
     それが一体どんな内容なのか僕は知らないけど、これは起こしてやるべきなんだろうか。ぎゅっと目を瞑ったジェイドの額から冷や汗が流れて、悲痛に歪む表情を見ていられない。
     せっかく眠っていたところを起こしてしまう事より、目の前のジェイドをその苦しみから救い出してやりたかった。
     
    「ジェイド」

     僕の声に、少しだけ反応したジェイドの表情がふっと和らぐ。
     僕の声が届いたんだろうか。
     まだはっきりと目を開けないジェイドのすぐそばに立ち、壁にもたれていた頭を僕の方に引き寄せるようにして抱えながらその髪を撫でる。

    「ジェイド、もう大丈夫ですよ」

     僕がいるから。
     怖いものなんて何もない。
     だから戻っておいでと、願いを込めながらぎゅっと抱え込んで碧い髪を撫で続けていると、僕の腕の中でもぞりと動いたジェイドがゆっくりと顔を上げた。
    「あずーる……」
    「はい。アズールですよ」
     僕を見上げたジェイドが何度か瞬きをして、ようやく僕を認識したのか安心したようにジェイドの表情が綻ぶ。
    「良かった……ここに居たんですね」
     悪夢のせいでまだ意識が混濁しているんだろうか。
     ジェイドがなんの話をしているのかはわからないけど、僕はジェイドを安心させるためにこくりと頷いて見せる。
     するとジェイドの腕が僕をぎゅっと引き寄せて、僕の胸に顔を押し付けるように抱きついてきたから僕はまたゆっくりと髪を撫でてやった。
    「……とても怖い夢を見ました」
    「うん、でももう大丈夫ですよ」
    「アズール……」
    「はい、なんですかジェイド」
    「アズール、どこにも行かないでください」
     僕を抱き寄せるジェイドの腕が痛いほど苦しくて、でもその腕を振り解くなんてとてもできなかった。
     僕にしがみつく腕は力強いのにずっと震えていて、まるで幼い子供のように頼りない。

    「僕を置いていかないで」
     
     そう続いた言葉に、僕ははっきりとした違和感を覚えた。
     でも今この場でそれを問いただすなんてとてもできない。こんな風に悪い夢に怯えて僕にしがみつくジェイドを、跳ねつけるなんてとてもできなかった。

    「……大丈夫ですよ、僕はここに居ますから」
    「はい……、はいアズール。よかった……」

     そう言ったきり、ジェイドは僕にしがみついたまままた眠りに落ちてしまった。
     でも今度は悪夢にうなされることもなく、健やかな寝息を立て始めたジェイドを抱えたまま、僕は混乱しきりだった。
     ジェイドが安心して寝落ちてくれたのはいい。いいけどこうしっかりと抱きつかれたままでは身動きが取れないし、さっきの言葉の意味がまるで分からない。
     最近ずっと僕を避けてたのはジェイドの方なのに、「ここに居たんですね」ってなんだ?
     どこにも行かないでって、僕を置いていかないでってどういう意味だ? 
     まさかジェイドの見てる悪夢と僕に何か関係があるのか? 
     ……いやそんなわけない。ジェイドが悪夢を見始めたのは子供の頃からだと言うし、大学に入って初めて会った僕と関係しているはずがない。
     それともジェイドが見ているのはいつも違う夢なんだろうか。そう言えば夢の内容について詳しく聞いたことはなかったのに、僕は何故かずっと同じ夢を見続けているのかと思ってた。でももしその時々に違った夢を見ているのだとして、それがその時ジェイドが恐怖に感じている事だという可能性もある。
     もしそうなら、今のジェイドは僕が離れて行ってしまうことを恐れているんだろうか。そう仮説を立ててみても、やっぱり何かが引っかかる。
     僕のことが好きで大切なんだと言うくせに、いつか来る終わりが怖くて苦しいんだと言うジェイド。だからが関わるなと言ったのに、置いていかないでと僕にしがみつく。
     悪夢で混乱してただけなんだろうか。
     朦朧とする意識の中で無意識に言っただけ?
     でもそれならあれがジェイドの本心だということなんだろうか。それとも寝言みたいに本人の意思とは全く関係なく漏れた譫言なのか。それにしては僕を見てはっきりと名前を呼んだけど、でもさっきのジェイドは、僕じゃない僕と話しているみたいだった。

    「僕じゃない僕?」

     なんだそれ。
     自分で考えて意味が分からない。
     もう何もかも分からない。
     今確かなのはジェイドが僕にしがみついてすやすや眠っていることと、いつまでもこいつを抱えて突っ立っていたら僕の腰が死ぬということだけだ。
     仕方ない。毎度毎度悪いけど、フロイドを呼ぼう。
     
     


    「うわっ、どういう状況? ジェイド爆睡してんじゃん」
     椅子に座ったまま僕の腰に抱きついて、すぅすぅと穏やかな寝息を立てるジェイドにフロイドも目を瞬く。
    「僕にもよく分からないんですけど、僕が来た時にはすでにうたた寝をしていて」
    「まじ? ジェイド寝てたの?」
    「えぇ、でもすぐにうなされはじめて、その……」
     よくよく考えてみればうなされていたから頭を撫でてやるなんて、普通の大学生男子はしないんじゃないだろうか。普通の男友達なら引っ叩いて起こしていたかもしれない。
     そう考えるとなんだか自分の行動が恥ずかしくなって口篭っていると、今にも泣き出しそうな顔のフロイドが、僕にしがみついてすやすやと寝入るジェイドを見下ろしていた。

    「熟睡してるジェイド久々に見た。ありがとアズール」
    「え……」
    「でもこのままじゃアズールがやばいから〜、そろそろ起きよーねぇジェイド」
     フロイドがそう言いながら僕からジェイドを引きはがし、唸って眉を顰めたジェイドの背をポンポンと叩く。
    「ほんとにありがとアズール。起きた時アズールがいたら多分パニックになっちゃうから、悪いけど先行って」
    「え、でも」
    「ほんとにごめん、もう起きそうだからお願い」

     まただ、と思う。
     やわらかな拒絶。
     このふたりは、肝心なところで僕を必要としてくれない。
     フロイドは面白がって僕らをくっつけようとはするくせに、最後の最後でジェイドの意思を尊重して僕の気持ちは無視する。
     仲のいい双子に僕が入り込む余地がないのも分かるけど、結局のところフロイドは二人の世界に僕を入れるつもりはないんだ。

    「拗ねないでってば」
    「拗ねてません」
    「ごめんて」
    「別に謝って欲しいわけでは」
    「でもごめん」

     その謝罪ははっきりと、僕に去って欲しいと告げていた。

    「……わかりました。ではまた明日」
    「うん、ありがとアズール」

     いくら謝ったところで僕に何も教えてくれるつもりはないじゃないか。
     そうやってふたりだけの世界に浸って僕を除け者にして、それならずっとふたりでそうしていればいい。
     全くバカバカしい。
     ジェイドはずっと僕に関わるなと言っていたんだから初めからそうすれば良かった。目の前で苦しんでいたって無視して通りすぎて、フロイドなんて呼んでやらなければよかった。

     そう思おうとするのに、僕はどうしても、ふたりを放ってなんておけなかった。
     ジェイドがあんなことを言った意味も、フロイドが泣きそうな顔をする意味もわからない。
     関わるなと言われても帰れと言われても、後ろ髪を引かれてしまう気持ちはもうどうしようもなかった。








     それから、学校で全くジェイドを見かけなくなった。
     フロイドも顔を合わせるのは2〜3日おきで、以前から気まぐれにサボる奴だったから初めは気にしていなかったけど、一週間連続で休みなのはさすがにおかしいと心配になる。
     学校に来ない間もちょこちょこメッセージのやり取りはしていたのにここ数日は既読すら付かない。電話をしても電源が入っていないらしいし、ジェイドの方に連絡をしようにも僕はその連絡先を一切知らなかった。
     フロイドはまぁ気が向かなければ突然学校をやめると言い出してもおかしくはないけど、学校が好きだからと体調不良でも無理をして通ってくるようなジェイドがずっと休んでいるのは気になった。
     それに最後に会った日の様子を思い出しては、また悪夢にうなされて眠れずにいるのかもしれないと心配になる。そして僕に撫でられて穏やかな寝息を立てていたジェイドが頭から離れなくて、またそうしてやれたらと切に思う。

    「………よし、行くか」

     ひとりでうだうだ考えていても仕方ない。
     どうせ家は割れているんだし、友人が一週間も休んで連絡がないんだから様子を見に行くくらいいいだろう。
     そう心の中で理由を付けて、僕はなんとなく避けていた二人の家へ向かった。
     荘厳なエントランスでインターホンを押して、もし応答がなかったらコンシェルジュに事情を話して部屋を見てきてもらおうか……とぼんやり考えていた時だった。
     モニターを見てすらいないのか、「だれ……?」とものすごく不機嫌なフロイドの声がする。
    「僕です」
     そう言うと、名乗るまでもなくインターフォンの向こうから「アズール?」と返される。
    「そうですよ。お前連絡もよこさないで何やってるんですか。スマホの電源くらい……」
    「鍵開けとくから勝手に入ってきて、今手ぇ離せなくて」
     一方的にそう言ったかと思うと、オートロックが解除される音と共に通話がぶつりと切られる。
    「あいつまた……」
     本当に作法がなってない。
     いいとこのお坊ちゃんなら最低限の礼儀作法くらい躾けられなかったのかと訝しみつつ、その声にやけに焦りが滲んでいた気がして急に心臓が跳ね上がる。
     フロイドが手が離せないなんて何かあったんだろうか。まさか料理の途中だからなんて理由でもあるまいに、ジェイドになにか……
     そう思うと気ばかりが急いて、なかなか降りてこないエレベーターにイラつきボタンを連打する。階段で行こうかなんて血迷った考えが浮かぶけど、30階なんてエレベーターを待った方が早いに決まってる。そう分かっているのに、何もせず待っているだけの時間が惜しくてたまらなかった。
     永遠にも思えるような時間エレベーターを待って、ようやく辿り着いたふたりの家のドアを躊躇なく開く。言われた通り鍵が開けられていたドアは簡単に開いて、中に入った瞬間廊下の奥からガシャーン! と何かが割れる音がした。

     あぁ料理中なだけならどんなに良かったか。
     どうやら、事態はそんな生易しいものではないらしい。
     僕はズカズカと中へ入り込み、リビングのドアを開けてその光景に息を飲む。
     
    「危ないですフロイド! あいつがいたんです! はやく、死ぬ前に殺さなくては……!」
    「落ち着けってジェイド! あいつはもういないんだってば! 大丈夫だからそれ置いてこっち来て」

     キッチンに立つジェイドが投げつけたらしい大皿がダイニングで砕け散っていて、包丁を構えたジェイドから距離をとりつつフロイドがなんとか宥めすかしている。目を血走らせて興奮した様子のジェイドは僕に気付いていないようで、フロイドがそれ以上入るなと僕を手で制止する。

    「ジェイド、大丈夫だからそれ離して。オレの方においで」
    「ダメです……! あなたまで殺されてしまう……早く逃げてフロイド……」
    「逃げないよ。誰もいねぇもん。ここはオレとジェイドだけ。よく見て、ここはオレ達の家だよ」
    「僕たちの……?」
    「そうだよちゃんと見て。このテーブルも椅子もオレらが選んだ家具だよ。さっき割った皿だってジェイドが気に入って買ったやつじゃん。だから大丈夫だよ」
     ジェイドの視線がフロイドの言葉をなぞるように動く。四人掛けのダイニングテーブルに四脚の椅子、そしてみるも無惨に割れてしまった皿を見て、ジェイドはゆっくりと記憶をたぐり寄せているようだった。
    「……そう、ですよね。ここ…は、僕たちの家……。僕と、フロイドの……」
    「そうだよ。親父達にワガママ言って二人暮らしさせてもらったじゃん。ここは安全だよ」
    「安全……、あいつはいない……」
    「うんいない。あいつはもうどこにもいないよ。だから大丈夫。ここは安全、誰も死なない」

     何が起こっているのかは分からないけど、僕がここにいるのは非常にまずいんじゃないかという予感だけがする。フロイドに宥められてせっかくジェイドが落ち着いてきたのに、ふたりしかいないはずの部屋で僕の姿を見たらまたジェイドがパニックになるかもしれない。
     僕はそっと後退り、ジェイドの視界に入らないようにリビングのドアを出る。そしてドア少し開けたまま中の様子を探り、フロイドの言葉だけを頼りに中の状況を伺った。

    「とりあえずそれ置いて。なんかあったかいものでも淹れるから一緒に飲も」
    「そうですね……。取り乱してしまってすみませんフロイド」
    「いいよ。後で片付けとくからジェイドはとりあえず座って」
    「はい……、すみません」

     どうやらフロイドがジェイドをソファへ促して、やっとジェイドは落ち着いてくれたらしい。何が起こっているのかは相変わらずさっぱりだけど、とりあえず場が収まったことに僕もホッと安堵して気が抜けてしまった。
     そして気を抜いたその瞬間、少しだけ開けていたドアに体が触れてカタンと揺れた。

    「フロイド後ろです!」
    「ジェイドだめ……!!」

     ほんのわずかドアが揺れたのと、ジェイドが動き出したのはほとんど同時だった。
     フロイドが止めるよりも早く、リビングのドアを開けてジェイドが振り上げた右手には、さっき割れた大皿の破片が握られていた。
     おそらくは、一番大きくて鋭利な破片を瞬時に拾い上げたんだろう。僕を見下ろすジェイドの手に、その切り口がギリギリと食い込んで真っ赤な血が滴り落ちる。
     そのやけに鮮烈な赤に、僕は思考する間もなく手を伸ばしていた。
     
    「ジェイド」

     僕の声に、僕の姿に驚いたジェイドが絶句して目を丸める。

    「こんなことをしてはダメです」

     真っ赤な血に濡れたジェイドの右手を両手で包み込み、ゆっくりとその手を解いて握りしめていた破片を奪う。鋭利な切り口が食い込んでいた傷口は見ていられないほど痛々しくて、目を背けたくなるけど僕はその赤をじっと見つめた。

    「アズール……」
     
     消え入りそうなほど、弱々しい声が降ってきて僕は顔を上げる。目に涙をいっぱいにためたジェイドが、信じられないものを見るような目で僕を見ている。

    「アズール……、本当にアズールなんですか……」
    「本当にアズールですよ。他になんに見えますか」
    「アズール……っ」

     そんなに力いっぱい抱きしめたら傷口が痛むだろうに、ジェイドは僕の肩に顔を埋め渾身の力を込めて僕を抱きしめた。
     僕のシャツまで血濡れになってしまうとか、そんな事は考える余裕もなかった。痛みなんてどうでもいいみたいに僕にしがみついて、肩を震わせながらぼろぼろと泣くジェイドを支えているのが精一杯で。
     泣きすぎたジェイドが僕にもたれたまま意識を失いそうになったのを、フロイドと一緒に慌ててソファに運ぶ。そして僕の膝を枕に寝息を立てはじめたのを見て僕とフロイドはようやくほっとひと息吐いた。

    「フロイド、すみませんけど僕は動けないのでジェイドの手当てを」
    「あ……、そうだねごめん。救急箱取ってくる」
    「えぇお願いします」
     
     フロイドが立ち上がった後、僕は膝の上で幼子のように眠るジェイドをまじまじと見下ろした。
     長い睫毛を濡らしたまま泣き疲れて、糸が切れるみたいに眠ってしまうなんて赤ん坊みたいなやつだなと笑いながら、笑っているどころではない血まみれの手のひらに僕は眉を顰める。

    「何をしてるんですかお前……」

     こんな傷を作って、こんなに泣いて。
     それなのに僕の前で立てる寝息は穏やかで、普段眠れてないなんて嘘みたいに安心したようなその顔になぜか泣きたくなる。
     
    「巻き込んでごめんねアズール」

     いつの間にが戻ってきたフロイドがジェイドの手を取って、きれいに清めてからするすると手当をしていく。そのフロイドのやけに慣れた手付きと、いやに充実した救急箱の中身に僕はまた眉を顰めた。
    「もしかしてこういうことがしょっちゅうあるんですか」
    「しょっちゅうはないよ。たまに」
    「たまにでもおかしいだろ。一体何があったんです」
    「最近ずっと眠れてなくてさ、寝てなすぎて錯乱してたって言うか、たまに幻覚が見えるみたい」
    「幻覚!? ご両親は知ってるんですか? ちゃんと病院で相談したのか?」
    「親には言えない。バレたら家に連れ戻される」
    「当たり前でしょう、お前がひとりで抱えていい問題じゃない。きちんと病院に通って……」
    「病院には行ってる! ……でも本当の事は言えない。ジェイドが入院させられちゃうから」
    「させられちゃうって……、そうすべきなんじゃないですか。こんな状態じゃお前まで危険ですしきちんと治療したほうが」
    「入院したって治んねーの! 薬で治せるもんじゃないんだよ!」
    「そんな事わからないでしょう、入院してきちんと調べてもらえば適切な治療法があるかもしれないじゃないですか」
    「そんなのねぇよ。前に入院した時だって治らなかったし」
    「したことがあるんですか」
    「うん……、中学の時。そん時も症状がひどくて全然眠れなくて、あん時はオレも子供だったし、みんながその方がいいって言うからそうなんだと思ってたけど」
    「良くならなかったんですか?」
    「眠れるようにはなったよ。薬漬けにされて。限界まで投薬されて睡眠は取れたけど、起きてる間もずっと意識が朦朧としてて会話もろくにできなくて、少しでも暴れたらベッドに繋がれてさ、あんなのジェイドじゃない。もう二度とジェイドをあんなとこには連れてかない」

     中学生だったフロイドにとってその光景がどれだけ衝撃的だったのか、苦痛を滲ませながら憎々しげに語るフロイドの意思は固いらしい。
     二度とジェイドをそんな状態にしたくないと言うフロイドの気持ちもわかるけど、でもこのままでは絶対にダメだ。
     いつもみたいに朗らかに笑うフロイドなんてどこにもいなくて、すっかりと憔悴し切って疲れ果てたフロイドはジェイドと同じくらい濃いクマを作ってげっそりとしている。部屋はろくに片付けられてもいなくてゴミもそのまま散らかり放題で、以前訪れた時の清潔な部屋とはかけ離れていた。
     このままじゃダメだ。
     ジェイドも、フロイドも。
     
    「ジェイドはどのくらい寝てないんです」
    「わかんない……。全く眠れないわけじゃないけど、5分か10分くらいしか寝てないみたい。でもその度にうなされて起きて……」
    「お前もそれに付き合ってるんですか」
    「ずっとじゃねぇよ。眠れなくてもひとりで大人しくしてる時もあるし、オレはそういう時に寝てる」
    「錯乱してる時も多いということですよね?」

     それにフロイドは答えなかった。
     ジェイドは一体どのくらいの割合でああなっているんだろう。
     そしてその度にフロイドがひとりで対処しているのだとしたらそのストレスは相当なものだ。フロイドだってずっと熟睡はできていないだろうし、これ以上ふたりきりにさせておくわけにはいかない。
     
    「フロイド、これはお前ひとりでどうにかなる問題ではありません」

     これまでは女性達の手を借りて上手くやっていたみたいだけど、それもダメだとなるとフロイドひとりにかかる負担が大きすぎる。でもそのフロイドが家族にも病院にも頼りたくないと言うのだから、他の誰かがフロイドに手を差し伸べなければ。
     そして可能なら、僕がジェイドとフロイドの助けになりたい。

    「フロイド、お前はジェイドがどんな夢を見てるのか知っているんですか」

    「悪夢」としか聞かされていなかったそれが、ジェイドをこんな風に錯乱させている事は間違いない。
     錯乱しているはずなのにいやにしっかりと会話が成立して、ジェイドに見えるというその幻覚は、ただの幻ではないような気がした。まるでかつて見たことがあるかのように、ジェイドの中には、確かにそれが存在しているような。

    「知ってるけど、アズールはきっと信じないよ」
    「夢なんだから信じるも信じないもないでしょう。現実ではどんなにあり得ない事でもジェイドは実際に見ているんですから」
    「うん……、そうだけど、そうじゃねぇの」
    「どういうことです?」
    「ジェイドが見てる夢は、昔実際にあったことだから」
    「昔?」
     
     やはりそうなのかと思いつつ、でもジェイドは幼い頃からずっと悪夢にうなされ続けているというのに、昔って一体いつのことだ?
     記憶にもないくらい幼い頃のトラウマ体験を夢に見るということだろうか。
     
    「アズールは生まれ変わりって信じる?」

     ジェイドは一体どんな恐ろしいトラウマを持っているのだろうと考えていた所で、突拍子もなく聞こえたその言葉に僕は目を瞬く。

    「生まれ変わり?」
    「うん、輪廻転生ってやつ。前世で一回死んで、また別の人間として生まれ変わるっていう」
    「それはわかりますけど、なんですか急に……」

     自分でそう言いながら、さっきのフロイドの話と今の質問に符合する部分に僕はもう気付いていた。
     昔実際にあった出来事を夢に見続けているのだというジェイド。そして今の、生まれ変わりを信じるかというフロイドの言葉。

    「まさか、ジェイドは前世の記憶を夢に見ているとでも言うんですか」
    「ほら、アズールは信じないって言ったじゃん」
    「な……っ、信じないとは言ってないだろ! 確認しただけですよ」

     そうは言ってみたものの、本当に前世の記憶を夢に見ているだなんて俄かには信じられない。そもそもどうしてそれが前世の記憶だと分かるんだろう。
     ジェイドしか知らないのなら確かめようもないはずなのに……と考えて僕はハっとフロイドを見る。

    「せーかい。オレもあるんだ、前世の記憶」
    「フロイドもって……、もしかしてお前たち前世でも双子だったんですか?」
    「うん。そんでもってアズールも一緒だったんだよ」
    「は……? 僕も一緒?」
    「ジェイドとオレは兄弟でぇ、アズールは幼馴染だったんだぁ」
    「僕がお前たちの幼馴染……?」

     ちょっと待ってくれ訳がわからなくなってきた。
     ジェイドとフロイドには前世の記憶があって、ジェイドが見ている悪夢はその前世の記憶で、しかも僕がこいつらの幼馴染?
     
    「そ。しかも人魚で魔法使い」
    「はぁ!? さすがにそんな話は信じませんよ! お前また僕のことからかって……」
    「そんで、アズールとジェイドは恋人同士だったんだ」

     僕の言葉を遮るように、そう言ったフロイドの目は少しも笑っていなかった。

    「でもアズールはジェイドを残して死んじゃった」

     どくんと大きく心臓が鳴る。
     僕にはない過去の記憶。
     前世の記憶があるなんて話もまだ半信半疑なのに、前世の僕らは人魚で魔法使いで、僕とジェイドが恋人で、僕はジェイドを残して死んだなんて言われてもなにひとつピンと来ない。
     でもフロイドが嘘を言っているようにはどうしても思えなくて、嘘でないという事は真実で、僕は、僕は今何を思えばいいんだろう。
     
    「長いこと付き合ってようやくプロポーズして、もうすぐ結婚式って時にね、無差別テロに巻き込まれて。ジェイドの目の前で、ジェイドを庇ってアズールだけ」

     どくんどくんと、跳ねる鼓動ばかりが煩い。
     フロイドの話にはなんの裏付けも信憑性もなくて、フロイドの作り話である可能性もあるのに、そうじゃないと分かってしまう。
     この話が本当だとすれば、今まで僕がジェイドに感じてきた違和感が全てきれいに解消される。
     ジェイドの嬉しそうな顔も、時折見せたあの悲しそうな顔も、置いていかないでと僕にしがみついたことも、僕を見てぼろぼろと泣いた今日のことも、ぜんぶぜんぶ、理解できてしまう。
     
    「ジェイドはずっと、その瞬間を夢に見続けてる」

     体中を巡る血が一瞬で凍ってしまったのかと思うほど、全身が冷え切って指先の感覚すらなくなる。まとわりつくような嫌悪感だけが僕を包み込んで、ぞわぞわと落ち着かない心が叫び出しそうだった。

     僕のことであなたが傷つけられるのは我慢ならないと、ジェイドが僕に言ったことを思い出す。
     ジェイドが見たこともないくらい怒って声を荒げて、女に平手を喰らわせられそうになったくらいでずいぶんと大袈裟な奴だとあの時は思ったけど、そういうことだったのか。
     僕の体が、尊厳が、命が、他者に損なわれるのをジェイドは許せないんだ。
     
     いいことは続かない、幸せには必ず終わりが来る。
     身を以てそれを経験し続けているジェイドが、未来を信じられないのは当たり前だ。
     
    「……ジェイドが言ってた、『あいつ』というのは」
    「テロの犯人。単独犯だったんだけど犯行の直後に自殺してさ、ジェイドはどこにも怒りの矛先を向けらんなかったんだよね」

    『死ぬ前に殺さなくては』と、さっきジェイドが言ったのはそういう意味だったのか。
     生まれ変わっても尚ジェイドは恋人の死の瞬間を見続けて、そして犯人の幻覚に囚われている。でも幻覚を殺せるはずもなくて、今も行きどころのない苦しみがジェイドを襲い続ける。

    「政治も宗教もなぁんにも関係なく、怨恨ですらなかったらしいよ。生きてるのがヤになって、でもひとりで死ぬのはつまんないから巻き込むなら誰でも良かったってやつ。アズールとジェイドはほんとにたまたま一番近くにいて、犯人のお手製魔法薬でドカン」
    「魔法薬……?」
    「名前の通り、魔法を込めて作った薬。爆発の寸前に気付いたアズールが咄嗟に魔法障壁を張ってジェイドを守ってくれたけど、アズールは直撃」
     魔法薬とか魔法障壁とか、僕にとっては全く耳馴染みのない非現実的な言葉なのに、今は何故かそれが話に信憑性を持たせている気がした。生まれ変わりなんて物語の中だけの話だと思っていたのに、こうも訳のわからない事ばかり言われては逆に信じざるを得ない。

    「普通の爆弾じゃなくて魔法が込められたものだったから……本当にひどい状態だったらしいよ。ジェイドは絶対に誰にもアズールの遺体を見せたがらなかった。アズールはきっと今の自分をママに見せたくないだろうから、頼むから見ないであげて欲しいってアズールのママにも頭下げて。だからオレもどんな状態だったか詳しくはしらない」

     実の母親にすら、いやきっと母親だからこそ見せられないような死に様を目の前で見たジェイドは、一体どれだけのものをひとりで抱え込んでいたんだろう。フロイドにすら口を開かず、生まれ変わっても尚、ずっと夢に見続けて。
     
    「人魚ってさ、番を亡くすと長く生きらんないんだ」

     徐に、フロイドが言った言葉にふと顔を上げる。

    「離婚する人魚だって普通にいたのに、本当に愛し合った番を亡くした人魚はさ、さみしくてさみしくて病気になっちゃうんだ。でもジェイドは結構がんばってくれたんだよ。『僕がいなくなったらフロイドがさみしいでしょう』とか言って」

     そう言ったジェイドを思い浮かべているように小さく笑いながら、笑ったままフロイドの目元がすこし苦しげに歪む。

    「アズールがいなくなってからジェイド、何にもなかったみたいにみたいに振る舞おうとするからあんまり痛々しくてさ、いっそオレが殺してやろうかと思ったんだよ」
    「え、まさかお前……」
    「思っただけ。本当にはやってないよ。ジェイドに頼まれたら多分やってたけど」

     あまりにも物騒なことを平然と、けれどとても真摯に言うフロイドに胸が詰まった。彼らの生きた世界がどんな世界だったのか僕にはとても想像がつかない。魔法があって人間ですらなくて、そんな世界の常識はきっと今僕が生きる世界とは違うのだろうけど、信頼しあった兄弟を手にかけることが悲劇でないはずがない。
     でもフロイドがそうしてやりたいと考えてしまうほど、ジェイドが苦しんでいたのかと思うととてもやるせなかった。今の僕にはどうしたってその時のふたりに手を差し伸べることができないのに、どうしたらふたりを救えたんだろうと、考えても仕方のないことばかりが浮かんでしまう。

    「でもジェイド、最後までそうは言わなかった」
    「……お前を兄弟殺しにはしたくなかったんじゃないですか」
    「それもあるかもだけど、ジェイドはアズールと同じくらいオレのことも好きだったから、オレをひとりにしたくないってのも本音だったんじゃねーかな」

     まるで自分を責めるようにそう言ったフロイドに、胸が押しつぶされそうだった。
     ふたりは互いを大切に思い合っていたが故に、置いていくことも手をかけてやることもできなかった。そして自分の存在があったからジェイドの苦しみを長引かせてるしまったのかもしれないと、悔いているようなフロイドに胸が詰まる。ジェイドもフロイドも、すこしも悪くなんかないのに。

    「だからさ、ジェイドがいよいよもうだめだってなった時、オレよかったねぇって思ったんだ。これでジェイドはようやく解放されて、アズールのとこに行けるんだなって思ってた」
     
     それはきっとフロイドの本心だったんだろう。
     その時のことを思い出すようにフロイドの表情がふっと緩んで、でも次の瞬間、またその表情が苦々しく歪む。

    「でも全然そうじゃなかった」

     ぐしゃりと、崩れたフロイドの目に涙がいっぱいに浮かぶ。

    「死んだってジェイドがまたアズールとしあわせになれるわけじゃなかった。なんにも良くなかった。だって生まれ変わってもジェイドはずっと苦しいまんまじゃん」

     それは紛れもない絶望だった。
     解放されたと思っていた苦しみはなくなってなどいなかった。
     それどころか生まれ変わっても尚付き纏う苦しみに、ジェイドはずっと責め立てられ続けている。

    「……オレさぁ、この世界に生まれ変わったのは、ジェイドがそう望んだからだと思うんだ。アズールを殺した魔法なんてない世界で、同じ人魚でもなくて、アズールが、今度こそ自分と出会わずにしあわせになれるように」
     
     その言葉で、ジェイドがどうしてあれほど頑なに僕を遠ざけようとするのかがようやく分かった。
     ジェイドは僕と出会いたくなかったんだ。
     また僕が目の前で死ぬのを見たくなかった。
     前世の僕がジェイドを庇って命を落としたなら、出会わなければ少なくとも僕がジェイドを庇って死ぬことは二度とない。
     僕があいつを大切に思わなければ、愛さなければ、自分のために僕が損なわれることはないから。

     バカなやつだなと思う。
     本当にどこまでも自分勝手な奴だ。
     それでも結局僕らは出会ったじゃないか。
     出会ってそして、僕はまたジェイドに恋をした。
     前世の記憶なんてひとつもないのに。
     なにひとつ覚えていなくたって、僕はジェイドを見つけてしまった。

    「なのになんでジェイドだけ苦しまなきゃなんねぇの……? せっかく生まれ変わったのにさぁ、もう前世なんて関係ねぇじゃん。オレもうジェイドがいなくなるのやだよ」

     一度溢れ出した涙は止まることを知らず、次々とこぼれてはフロイドの頬を濡らす。
     この男がこんな風に泣くなんて一体誰が思うだろう。このフロイドが、堪えることもできず涙を流すくらい限界だったんだ。ジェイドが過去の出来事をずっと一人で抱え続けてきたように、生まれ変わったフロイドはジェイドが苦しむ姿をずっとひとりで支え続けてきた。
     親にすら本当のことを言えず、病院も信じられず、兄弟をもう一度失う恐怖に怯えながら、壊れていくジェイドをたったひとりで。

    「フロイド、今までよくがんばりましたね」

     膝の上で眠るジェイドの髪を右手で撫でながら、隣でぽろぽろと泣くフロイドの頭に左手を伸ばす。そしてよしよしと撫でてやれば、音もなく涙をこぼしていたフロイドが、今度は小さな子供のようにしゃくりを上げて泣きはじめた。
     どれだけ長い間、フロイドは感情を抑え込んでいたんだろう。
     毎夜悪夢に苦しみ続けるジェイドの隣で、自分まで弱音を吐くわけにはいかないと気を張り続けていたのかもしれない。僕が拒絶されたように感じて拗ねていたあの時も、本当は誰かに助けて欲しかったのかもしれない。それなのに誰にも打ち明けられず耐えていたんだ。
     ジェイドとフロイドは、たったふたりで。
     
    「お前の言う通りです。僕はこのままジェイドだけ苦しませることはしません。お前たちはもうふたりぼっちじゃないですよ」

     もしかしたら、固すぎるきょうだいの絆が二人を孤立させてしまっていたのかもしれない。
     でも、今は僕がいる。

    「フロイド、僕にどうして欲しいですか」

     今のフロイドに必要なのは誰かを頼ることだ。
     そしてそれを自覚すること。
     頼ってもいい相手がちゃんといるんだと、フロイド自身が理解すること。
     目に涙をいっぱいに溜めたフロイドが、僕を見てまたぽろぽろと大粒の涙をこぼす。
     
    「あずーる……」
    「なんですかフロイド」

     開いたフロイドの唇が震えて、やっと絞り出し声は、いつものフロイドからは想像もできないくらいか細く頼りないものだった。

    「たすけて」

     ここまでたどり着くのは、フロイドにとってどれだけ大変なことだっただろう。僕はにっこりと笑ってフロイドの頭をぐしゃぐしゃに撫でてやる。
     
    「もう大丈夫ですよフロイド。僕に任せなさい」


     フロイドはぐしょぐしょに泣いてスッキリしたのか、パッと顔を上げて涙を拭うと手際良く部屋の片付けを始めた。床の血痕を拭い割れた皿を片付けて、ついでに部屋中に散らかっていたゴミをまとめてクリーナーをかければあれよあれよという間に部屋は元通り綺麗になった。
    「ごめんね、重いでしょアズール」
    「正直そろそろ血が止まりそうです」
    「あはは、オレ代わるからアズールはシャワー浴びてきて。ジェイドが起きた時アズールがそんな姿だったらまたパニックになっちゃうし」
     そう言われて僕は自分の姿を改めて見た。
     白いシャツはあちこちジェイドの血にまみれていて、僕には傷ひとつないとは言え確かにジェイドが見たら驚くに違いない。過去の僕がどんなむごい死に方をしたのかは想像もしたくないけれど、やっと熟睡して目を覚ましたジェイドの目の前に血まみれの僕がいたんじゃジェイドがショック死しかねない。
    「分かりました、ジェイドをお願いします」
    「うん。ジェイドので悪いけど着替え出しておいたから使って」
    「ありがとうございます。シャワー借りますね」
     フロイドがジェイドの頭を持ち上げた隙に僕はソファを抜け出し、僕が座っていた場所にフロイドが収まってその膝にまたジェイドの頭を乗せる。
    「あは、こんなことしたら今までなら絶対起きてたはずなのにすげー熟睡してる」
     まだ穏やかに寝息を立てているジェイドをフロイドが見下ろして、自分も眠れていないはずなのに本当にうれしそうにまなじりを下げるその姿にぎゅっと胸が詰まった。
    「僕が戻ったらお前も少し寝なさい。ジェイドは見ておきますから」
    「ありがとアズール。そうさせてもらおっかな。あーすげぇ眠い!」
    「ふふ、なるべく早く戻ります」

     フロイドの言葉に甘えてシャワーを浴びて、あちこちについた血を落としながら僕はあれこれと算段を巡らせる。
     僕が夢の内容を知っている言えばジェイドが動揺するだろうし、僕がフロイドから前世の話を聞いたことはまだ黙っておいた方がいいだろう。とは言え事は急を要する。このままふたりきりの生活を続けさせてはフロイドの身が危険だし、とにかくまずはジェイドがしっかりと睡眠を取れる環境を整えて精神を安定させてやる事が先決だ。
     そして今日改めて分かった事だけど、どうやらジェイドは僕と一緒ならぐっすりと眠れるらしい。そもそも悪夢の原因が(前世の)僕なのだから、僕自身がそばにいれば安心して眠れると言うのは実に理にかなっている。となればこれはもう僕が一緒に寝てやれば解決するわけだけど、問題はジェイド自身が僕と距離を置きたがっているのにどう説得するかということだ。
     さてどうしたものかと考えて、でも深く考えるまでもなく結論はすぐに出た。うん、この手しかない。ジェイドにはショックかもしれないが、僕が助けたいのはジェイドだけではないのだ。
     僕はジェイドとフロイド、ふたりを助けたい。



     結局その日、交代でシャワーを浴びに行ったフロイドが戻っても、ソファに放ったままフロイドとふたりで夕食をとっても、泥のように眠ったジェイドは一度も目を覚まさなかった。
     それからそのでかい図体をフロイドとふたりがかりでベッドへ運び、雑に放り投げても起きないジェイドを見下ろしながら「今までなんだったんだよ」とフロイドは半ギレしながら笑った。そして「アズールはジェイドと寝てね」と僕はそのままベッドに押し込まれ、フロイドはあっという間に出ていってしまって寝室にふたりきりになる。
     お互いに好意を持っているとは言え、本人の了承も得ず同衾するのはいかがなものかとすこし葛藤しつつ、ジェイドのやつれた横顔を見ればずきりと胸が痛んだ。今は穏やかな寝息を立てているけれど、こけた頬と目元に残る濃い隈を見れば、これまでジェイドがどれだけつらい日々を送っていたのかどうしても想像してしまう。
     きっと心も体も限界だったんだろう。
     錯乱して幻覚を見るほどに疲弊して、憔悴し切ったジェイドがフロイドを傷付ける前に間に合って本当に良かった。もしもそんな事になっていたら取り返しがつかなかったかもしれない。
     あれこれ考えず今日ここに出向いて良かったと心から思う。僕は自分の行動力に感謝して、少し体を起こすとすやすやと眠るジェイドを上から覗き込んだ。
     元々細身ですっきりとした体型ではあるけれど、すっかりとやつれてしまったその顔に涙が滲みそうになるのをぐっと堪える。
     とにかく今はぐっすりと眠ってくれて良かった。大丈夫、今日を乗り越えられたんだから明日はきっともっと上手くいく。僕がそうして見せる。
     ジェイドとフロイドを、もう絶対ふたりぼっちにしたりしない。

    「ジェイド、僕がいますからね」

     額にかかる碧い髪を梳いてやりながら、大粒の涙をこぼして赤くなった目元に口付ける。
     せっかくの男前の目が明日腫れなければいいけど。そう考えてふと気付く。
     なんだ、フロイドの言う通り僕はけっこうジェイドの顔が好きなんだなと思いながら、落ちてくる眠気に抗えず僕はゆっくりと瞼を落とした。



     翌朝目が覚めると、すぐ隣にある顔が穏やかに目を細めて僕を見つめていた。
     目を覚ました僕に気付くとジェイドはうれしそうに僕の頬に手を伸ばし、「おはようございますアズール」と微笑んで顔を寄せる。

     あぁそうか、かつての僕らはこんな風に穏やかにしあわせな朝を迎えていたのかと、涙が滲みそうになるのを堪えて僕はスッと体を引いた。
     おそらく記憶が混濁しているのであろうジェイドが、今の僕にキスをしたと気付いたら羞恥で発狂しかねない。僕としてはこのままキスしてしまいたかったけど、それはジェイドがきちんと「僕」を受け入れてくれてからにしなくては。
    「おはようございますジェイド」
     僕はベッドの上で体を起こし、スッと背筋を伸ばしてジェイドを見下ろした。
     きっといつもしていたのであろうキスをかわされて、不思議そうな顔をしながらもジェイドが同じように体を起こす。 
    「おはようございます……」
    「突然ですけどジェイド、昨日のことは覚えていますか?」
    「昨日……?」
     やはり記憶が曖昧らしいジェイドはすぐには状況が掴めないらしく、きょとんとして向き合った僕を見つめる。
    「ジェイド、部屋を見て下さい。ここがどこかわかりますか?」
    「部屋ですか?」
     何を言っているのだという顔をしながらも、ジェイドは大人しく僕に従って部屋の中を見回す。そしてそこにある家具やインテリアを順々に見ていけば、そこがかつて「僕ら」が過ごしていた部屋でないことにすぐ気付いたらしい。それから、ここがどこであるかも。
     今の自分が誰で、ここがどこかをはっきりと認識した様子のジェイドがサッと青くなる。
    「あ……、アズール……」
    「はい、アズールですよ」
    「なぜあなたがここに……」
    「思い出せませんか?」
     ジェイドの記憶の整理がつくのを待ちながら、僕はじっと黙ってジェイドを見つめていた。
     とりあえずパニックを起こさなくてよかった。それはよかったけどジェイドが今大混乱しているのは間違いない。必死に記憶をたぐり寄せて目を泳がせ、断片的な記憶を拾いながら青くなったり唸ったりしていたジェイドが、ふと視線を上げて僕を見るとその顔が今度は真っ赤に染まる。
    「も……っ、申し訳ありません! 寝ぼけていたようで……、先ほどのことは忘れて下さい……! 昨日のことはあまり思い出せなくて、僕は一体なにを……、なぜあなたがここに…と言うかそれ僕の服ですよね……!?」
    「え? あぁフロイドが用意してくれたんですが勝手に借りてましたすみません。ちゃんと洗って返しますよ」
    「そうではなく……!」
     ジェイドは何故か両手で顔を覆ってしまったけど、相変わらず耳まで真っ赤になっているのは全く隠せていない。でもまぁとりあえず昨日のことは思い出せないなら今はその方がいいかもしれない。その話は後でゆっくりするとして、僕は赤い顔を必死に隠そうとするジェイドの大きな手を無理やり剥がしてその顔を見上げた。
    「アズ……」
    「よかった。昨日よりずっと顔色がいい」
    「え……」
    「ゆっくり眠れましたか?」
     僕の言葉ではじめてジェイドは自分が熟睡していた事に気付いたようだった。自分が座っているベッドを信じられない様子で見つめて、それからおずおずと顔を上げて僕を見る。
    「……はい、こんなにぐっすり眠ったのはずいぶん久しぶりです」
    「ふふ、それは良かった。では次は腹ごしらえですね。昨日は何も食べずに寝たからお腹が空いたでしょう? 眠るのだって体力がいるんです、しっかり食べて体力を回復させないと」
     そう言いながら僕がベッドを降りてジェイドの手を引けば、ジェイドはまだ混乱しきりの顔で大人しく着いてくる。リビングに入ってもフロイドはおらず、きっと疲れているんだろうとまだ寝かせてやる事にした。
    「キッチンを使ってかまわなければ朝食は僕が用意しますよ。昨日フロイドの夕食作りを手伝ったので勝手は大体わかりましたから」
    「はぁ、どうぞ……」
    「ありがとうございます。あぁそうだ、紅茶はあなたが淹れてくれますか」
     自分の家で勝手にテキパキと動き回る僕に面を食らっていた様子のジェイドは、その言葉にぱちりと目を瞬いた。
    「得意なんでしょう? 僕もジェイドの淹れた紅茶を飲んでみたいんです」
     一瞬、ジェイドが息を詰めたのがわかった。
     過去の僕が、ジェイドの淹れた紅茶を飲んだ事があったのか僕は知らない。
     ジェイドが誰のためにそれを覚え、誰のためにそれを注いできたのかそんな事を僕は知らなくていい。
     過去のことなんてなにひとつ知らない僕が見ているのは目の前のジェイドしかいない。だからジェイドにも、それが伝わってくれればいいと思った。僕が見ているのは今のジェイドで、だからお前も過去の僕に囚われる必要なんてない。今の僕だけを見てほしい。ジェイドが紅茶を淹れるのは、目の前にいる僕の為であって欲しい。

    「かしこまりました」と、小さく答えたジェイドに僕はほっと安堵する。
    「それはできません」と言われなくてよかった。少なくとも今この瞬間のジェイドは、僕の為だけに紅茶を淹れてくれるのだ。

     結局キッチンにふたりならんで朝食の用意をしながら、無言で手を動かすジェイドの表情が時折歪む。そうして何度か口を開きかけては閉じて、すっかりと準備の整ったテーブルで向き合って朝食をとりながら、僕はジェイドの淹れてくれた紅茶をひとくち飲んだ。
     カップを上げた瞬間すこし不安げな表情を浮かべたジェイドをかわいいなと思いながら、はじめて口にふくんだジェイドの紅茶はとても美味しかった。
    「おいしい……」
    「本当ですか? 苦くありませんか? お好みでなければ正直におっしゃっていただいても」
    「本当においしいですよ。フロイドが勧めるだけのことはある」
     不安気だったジェイドの表情がふっと和らいで、でもそのまま自分のカップに視線を落としたジェイドが申し訳なさそうに眉を下げる。
    「すみません、昨日のことを少し思い出しました」
     やっぱりそうだったのかと思いながら、僕は黙ってジェイドの言葉の続きを待った。さっきキッチンで並んでいた時、何か言いたげだったのは昨日のことを思い出していたからなんだろう。
     食器棚から無くなったお気に入りの皿に、握りしめた包丁の感覚。僕がなぜここにいるかも、なんとなくわかってきたんだろう。
    「……ご迷惑をおかけしました」
    「僕は自分から首を突っ込んだだけですから。むしろ昨日来て本当に良かった」
    「良かっただなんて……! やはりあなたはもう僕に関わってはダメです。僕のことはもう」
    「忘れろと?」
     先手を打たれてジェイドが一瞬口ごもる。
     でもジェイドだって、ここで素直に引く程度の覚悟なわけじゃない。ジェイドは毅然として口調を強め、更に僕を突き放そうとする。
    「そうです。僕に関わってもあなたには何の得もない。無駄なことはお嫌いでしょう、何の利益もないことにあなたが時間を割くことはありません」
    「僕は損得勘定でしか動かないと?」
    「実際そうでしょうあなたは、」
    「誰の話をしているんです。 僕の何を知っていてそんなことを?」

     ムキになっているわけではなかった。
     僕のことをよく知りもしないくせに勝手な事を言うなと腹を立てているわけじゃない。
     ただジェイドが、僕ではない僕のことを言っているような気がして悲しかった。
     お前が見ているのは本当に今の僕なのか。
     ただ過去の恋人を僕に重ねているだけなんじゃないか。
     なにも覚えていない僕には比べようもないけれど、僕は僕と話をして欲しい。

    「……すみません、やはり僕たちは」
    「分かり合えないと決めつけるのは早すぎませんか。結論を出すのは十分にやり尽くした後でもいいでしょう。『僕』は、それを無駄だとは思いません」
     過去の僕とは違うから好きになれないと言うなら仕方ない。ジェイドがそう思うなら今度こそそこまでだ。でも今はまだ、そうじゃないと信じたい。
     僕に名前を呼ばれただけでうれしくて真っ赤になってしまうジェイドが、僕自身を好きじゃないなんてことがあるだろうか。
     僕が知らない過去の僕をジェイドは知っているからこそ、前世と今の僕が違うことをジェイドはわかっているはずだ。それでも尚、ジェイドが今の僕を好きになってくれたなら。

    「おはよぉ〜、朝からケンカぁ?」
     無言のままのジェイドと睨み合いを続けていると、リビングのドアが開いて寝起きのフロイドがのそのそと入ってくる。
    「おはようございますフロイド、ケンカなんてしていませんよ。ねぇジェイド」
    「……はい。ケンカではありません」
    「そ? なら良いけど。あ、ごはんオレの分もある? 腹減ったぁ〜」
    「もちろんありますよ。あ、フロイドこの間の件ですけど、僕決めました」
    「この間?」
    「えぇ、ルームシェアの件です」
     寝起きのフロイドの顔がパッと明るくなって、その横でジェイドがぎょっと目を開く。
    「僕ここに引っ越して来ますね。そう言うわけでジェイド、今日からルームメイトとしてよろしくお願いします」
    「ルームシェアって……、フロイド! 僕はそんな話ひとことも!」
    「言ってなかったっけ? でもオレが誘ったんだからいいよね。はい2対1で決定〜! ようこそアズール!」
    「家賃については正式に契約を結びましょう。今の僕の家賃と同等ということで間違いありませんね?」
    「おっけーおっけー! アズールの家賃しらねぇけどそれでいいよぉ」
    「フロイド! 両親に相談もなしにそんな勝手は許されませんよ」
    「えぇ〜、ママは反対しないと思うけど。なんなら今から電話してみる?」
    「そうですね、住まわせてもらうからには僕からもぜひご両親にご挨拶を」
    「ふたりとも……! そんな大事なことを勝手に決めないでください僕は反対です!」
    「えーじゃあジェイドが出てく? それこそママがゆるさねぇと思うよ。オレと一緒に住むのが家出る条件だったじゃん。誓約書も書かされたし」
     なるほどそんな条件があったのか。
     こいつらは好き勝手やっているように見えて意外と親には頭が上がらないらしいから、それは好都合と僕は更に畳み掛ける。
    「ジェイド、昨日のことははっきり思い出しましたか? その手の傷について」
     急に話を振られて一瞬呆然としたジェイドが、ゆっくりとその右手に視線を落とす。さっき一緒にキッチンに立った時だって利き手の包帯は嫌でも目に入ったはずだ。決して浅くはないその傷は今も痛むだろうし、いくら錯乱していたとは言えその記憶を完全に忘れさせてはくれないだろう。
    「お前、下手をすればフロイドを殺してしまうところだったんですよ」
     僕のその言葉に、ショックを受けたのはジェイドだけではなかった。絶句したジェイドよりも先に声を上げたのはむしろフロイドの方だ。
    「何言ってんのアズール! ジェイドはオレを傷つけたことなんてねぇよ!」
    「昨日までは、ですよね」
     今度はフロイドが絶句する。
     フロイドの言う通り、これまでジェイドがフロイドを傷つけたことはないのかもしれない。昨日だってジェイドは幻覚の犯人からフロイドを守ろうとしていたし、ジェイドが刃物を向けたのはフロイドではなく僕にだ。
     だけど、それはまだジェイドがフロイドを判別できていたからにすぎない。今よりもっと錯乱状態が増えて幻覚が悪化すれば、フロイドを犯人だと思い込むようになるかもしれない。そしてその時ジェイドは、間違いなくフロイドに刃を向けるだろう。
    「フロイドも本当はわかっていますよね。今までお前が怪我をしなかったのはたまたま運が良かっただけです。この先もフロイドがひとりでジェイドの世話をし続けると言うなら、いつそうなってもおかしくない」
     何も言わなくなったフロイドから、僕はジェイドに視線を戻す。自覚していなかった分フロイドよりももっとショックを受けているジェイドに事実を突きつけるのは酷だけど、今僕を受け入れてもらうにはこうするしかなかった。
    「ジェイド、お前はフロイドをそういう危険に晒しているんです。僕がここに住むことにお前が納得しているかどうかは関係ありません。ジェイドとフロイドをふたりとも守るために、お前達には僕が必要なんです」
     ジェイドもフロイドももう何も言わなかった。
     こんな言い方をするのはフロイドの本意ではなかっただろうけど、ふたりだけで暮らし続けるのがジェイドとフロイド両方にとっていいことではないのは明らかだ。
    「ジェイド、お前何日大学を休んでいるかわかってますか?」
    「え……?」
    「お前は体調が悪かったのだからやむを得ませんけど、それに付き合ってフロイドがどれくらい休んでいたかは知っていますか?」
    「アズール、それは別に関係ねぇじゃん。オレが勝手にやってんだから」
    「聞いたでしょうジェイド、お前が眠れずに体調を崩していることで、フロイドはお前中心の生活をせざるを得なくなっているんです。それをきちんと理解していますか?」
    「アズール!」
    「フロイドはすこし黙っていて下さい。今僕はジェイドに聞いてるんだ」
     苛立って声を荒げ始めたフロイドには見向きもせず、僕はジェイドを睨み続ける。ジェイドにとってもフロイドにとっても、酷なことを言っている自覚はある。でもふたりを救い出すためには、まずふたりが自覚してくれないと何も始まらない。
    「ジェイド、お前が僕を遠ざけたいと思っているのは知っています。ですがそのワガママのせいでフロイドを振り回している自覚はあるんですか? フロイドの自由をお前が奪っている自覚は」
    「アズール!! オレはそんな風に思ってない! ジェイドのそばにいるのはオレがそうしたいからしてるだけなんだってば! こんな話聞かなくていいよジェイド、やっぱりやめよ、アズールとは住まない。出てってアズール」
     棒のように立ち尽くしたジェイドを僕から隠すように庇って、フロイドに凄まれても僕はジェイドから目を逸さなかった。
    「出てけよ!!」
     胸ぐらを掴まれて投げ飛ばされそうになったって、その場に踏ん張って動かない。
     僕はフロイドの向こうのジェイドだけを見て、ジェイドに問いかけ続けた。
    「ジェイド、お前が眠っているのを見て、フロイドがどれだけ安心していたかわかりますか」 
     僕はフロイドのあんな顔をはじめて見た。
     それが本当に双子のきょうだいに向けるような顔なのかと疑いたくなるような穏やかな表情で、心から安堵したようなその顔をジェイドは知らない。
    「お前が苦しむ姿に、フロイドがどれだけ苦しんでいるかわかりますか」
     自分だけがジェイドの理解者なのだと、誰にも頼らずひとりで全てを抱え込んでしまうフロイドの苦しみを、もっと深い苦しみの中にいるジェイドは気付けない。
    「こんなにも強いお前の片割れが、ボロボロ泣きながら僕にたすけてと言うのをお前は想像できますか」
     もう十分に苦しんでいるきょうだいに、現実を突きつけるのは残酷だ。僕は精神科医でもカウンセラーでもなくて、こんなやり方が正しいのかなんてわからない。
     でも正しくても正しくなくても、僕にできることはこれしかないから。

    「今日目が覚めてわかったでしょうジェイド。お前は僕が一緒なら眠れる」

     ジェイドは、僕ではなくフロイドを見ていた。
     幼い頃からずっと苦しみ続けてきたジェイドは、フロイドも自分と同じように闘い続けていることを知らなかった。
     ずっと一番近くにいたのに、近くて近すぎて、いつも平気な顔でそばにいてくれるフロイドに苦しみまで分け与えていることに気づけなかった。

    「ジェイド、今お前がすべきことは自分を責めて後悔することではありません。今お前にとって一番大切なのは、きちんと眠って体調を回復させることです。そしてフロイドを安心させること。わかりますね」
     ジェイドは何も言わないまま小さく頷いた。
     ふたりがお互いを何よりも大切に思ってくれていて良かった。ジェイドのフロイドを思う気持ちが、僕を受け入れるきっかけとなってくれた。
    「フロイドもいいですね、ジェイドがきちんと眠るためには僕がいる」
    「……うん、さっきはごめん。よろしくねアズール」
    「任せなさい。お前達には僕がいます」


    「では僕は一旦家に戻って諸々の準備をしてきますので」
    「りょうか〜い」
    「あの、本当に今日からここに住まれるんですか? そんなに急がなくてもよろしいのでは……」
    「僕がいないと眠れないくせに何を言っているんです。また錯乱してフロイドに危害を加えるような事になってもいいんですか?」
    「それは……っ、でも今日はずいぶん眠ったので、数日くらい眠らなくても全然」
    「そんな訳ないでしょうバカかお前は」
    「往生際悪いよジェイド。もう諦めなって」
    「そうですよジェイド、腹を括りなさい。今日から一緒に寝ますからね」
     改めてそう宣言するとジェイドはヒッと息を呑んで、それからフロイドを見ると諦めたようにおとなしくなった。どうやら、自分がフロイドの身を危険に晒していたという事実がジェイドにはずいぶんこたえたらしい。
     よし、まずは一歩前進。
     さっきジェイドにも言った通り、今一番大切なのはジェイドがきちんと眠れるようになることだ。そしてその後のことは、正直その時になってみないとわからない。僕と一緒にいることでうまく眠れるように習慣づけて、いずれはひとりでもきちんと眠れるようになれればいいけど、さすがにそう簡単にはいかないだろう。  
     玄関まで見送りに来たジェイドのどことなく不安げな顔を見上げ、僕はこれからのことを想像してみる。
     僕が隣にいてもジェイドは悪夢を見るんだろうか。
     もしそうなった時、僕は上手にジェイドを救い上げてやれるだろうか。
     僕が抱きしめてやったら、ジェイドは安心して眠れるだろうか。
     僕が隣にいても眠れなくなってしまったら、その時僕に何がしてやれるんだろうか。
     僕だって不安がないわけじゃない。
     僕に任せなさいと豪語してみたはいいけど、別に何かいい策があるわけでもない。
     でも僕はただ、ふたりのそばにいてやりたかった。

    「できるだけ早く戻ります」
     そう言って不安そうなジェイドの手を軽く握ってやると、驚いたジェイドが咄嗟に手を引こうとしたから、僕はその手を逃がさないようにもっと強く握る。
    「待っててくださいねジェイド」
     そんななんでもない言葉に、ジェイドは何も言えなくなってぎゅっと唇を結んだ。

     僕の知らないいつかの日、二度と帰らなくなったジェイドの恋人。
     ある日突然奪われてしまうしあわせがあることを、知っているジェイドに「待つ」というのはとても恐ろしいことなのかもしれない。待てども待てども帰らない人を、ジェイドはきっと容易に想像できてしまうから。
     でもそんな想像の恐怖に怯えて、今ここにあるしあわせを見過ごすのは悲しいことだ。

    「必ず帰りますから、いい子にしてるんですよ」

     僕がよしよしと自分よりも高いところにある頭をなでてやれば、ジェイドはちょっとだけ照れくさそうに「子供じゃないんですから」と言って唇を曲げた。そしてそんなジェイドのこどもっぽい表情が、僕はなんだか無性にうれしくなって髪をぐしゃぐしゃに撫でてやる。  
     僕はまたこの顔を見にここに戻って来なければ。
     そしてそして毎日まいにち必ず帰ってくる僕に、いつかジェイド心から安心してくれるようになればいい。

    「ではいってきます」
    「……いってらっしゃい」

     まだ戸惑いながら、それでも小さく送り出してくれたジェイドに僕は微笑んだ。フロイドもなんだか満足そうににこにこしているし、あとはジェイドが一緒に笑ってくれるように、僕にはしなければならないことが山とある。


     
     帰宅してまずはアパートを引き払う準備を整え、とりあえず必要な物を整理してすぐに引越しの手配をした。まぁ引越しはなんとかなるとして、それよりも重要なのは間近に迫った僕の店のオープンについてだ。ジェイドとフロイドをどうにかしてやるのが最優先だけど、だからと言って店の準備を疎かにすることはできない。
     それならつまり、ふたりの件と店の仕事を並行してできればいいわけだ。
     当面の準備を整えると僕はすぐにふたりの待つ家へ戻り、そしてこれからの話をした。

    「フロイドにもまだ言ってなかったんですが、実は僕この夏から休学する予定なんです」

     学年の終わりに合わせ、今年のサマーホリデーは開店準備に全力を注ぐつもりでずっと前から計画を立てていた。在学中の起業はかねてからの僕の目標でもあったし、大学に通いながら経営するつもりではいたけれど、僕の記念すべき一店舗目の出店にはどうしても納得のいく形でやり切りたいという思いが強かった。店舗の規模も小さいし、できることなら経営だけでもなく営業にも可能な限り関わって現場も知りたい。
     それならば中途半端なことをするよりも、今年一年はとにかく仕事に専念したいと決断したことだったけど、こうなったからには都合が良い。
     ジェイドとフロイドは突然の報告に目を丸めて言葉を失っていたけど、僕はそんなふたりを無視してさらに言葉を続けた。
    「そこで提案なんですが、お前たちも僕の店で一緒に働きませんか? 別にお前たちも休学しろとは言いません。空き時間にアルバイトをする程度でかまいませんので……」
     これからこいつらにとってのメリットを並べ立て、どうにかこちらに引き込もうと僕の話術を展開してやるところだったのに、僕の話が始まりもしない内にキラキラと目を輝かせたフロイドが「やる!」と身を乗り出した。
    「……フロイド、こちらから誘っておいてなんですが雇用条件も確認しない内に了承するのは感心しませんよ」
    「だってアズールが作る店なんて絶対おもしれーじゃん。なんでもいいよ、オレ手伝う!」
    「まぁお前がそう言ってくれるなら僕としては大変ありがたいですが……。フロイドの料理の腕前は大したものですからね、キッチン担当の傍らメニュー開発に携わってくれたら僕も心強い」
    「うんうんたのしそ! バズりそうなメニュー考えればいいんでしょ? しかも美味いやつ」
    「もちろん! 見た目での集客力が大切なのは確かですがその為に味を落とすのは僕のポリシーに反しますからね」
    「まーオレが作ればなんでも美味いけどね」
    「ふふ、期待してますよフロイド」
     もうすっかりと乗り気で機嫌を良くしたフロイドから、僕はその横でじっと黙り込んでいるジェイドに視線を移す。
     ジェイドはすこし俯きながら何か考え込んでいるように固く唇を結び、はしゃぐフロイドとは対照的に暗い顔をしていた。
    「ジェイド、僕の店で働くのは嫌ですか?」
     僕が声をかけるとジェイドはやっと顔を上げ、そして僕を見るとまたすぐに視線を下げた。
    「嫌というわけでは……」
    「では気が進まない?」
    「……そうですね、僕は人前に出るのも苦手ですし、あまり気乗りはしません」
     あれだけ女性たちに愛想よくしておいて人前に出るのが苦手とは納得し難いが、思い詰めたその表情を見れば気乗りしないのはきっと本心なんだろう。
     それがなぜかと考えれば、今の僕には容易に想像がつく。
     ジェイドはこれ以上僕と関わりたくないのだ。
     フロイドを守るために僕と一緒に住むことは了承しても、まだ僕自身に心を開いてくれたわけじゃない。
     できることなら僕と深く関わりたくはない。
     これ以上深入りして過去のような関係になることをジェイドは恐れている。
     昔のように愛し合って、また失うことを。

     でもたとえ今は恋人同士でなくとも、出会ってしまった以上もう出会う前には戻れない。
     恋人だろうがただの知人だろうが、僕がいなくなればジェイドはきっとまた苦しむだろう。だったら少しでも一緒にいられる時間を大切にした方がいいじゃないか。また出会って恋に落ちてしまった時点で、僕らはもうとっくに手遅れなんだから。

    「ジェイド、今朝淹れてくれた紅茶、本当においしかったですよ」
     俯いていたジェイドがふっと顔を上げ、その顔がちょっとだけうれしそうに緩む。
    「お前の腕前をフロイドと僕だけで独占しているのはもったいない。ぜひ僕の店で披露してくれたら評判になると思うんですがいかがですか?」
    「あはっ、良かったねぇジェイド。せっかくこだわって淹れてもオレしか飲んでくれなくてつまらないっていつも言ってたじゃん」
    「おやそうだったんですか。それなら僕の店は打ってつけだ。昼間はカフェで夜はバーをやるつもりなんです。フロイドのカクテルの腕前も存分に披露できますよ」
    「まじ? たのしそー! オリジナルカクテル作っていい?」
    「もちろん! フロイドがその日の気分で作る気まぐれカクテルも人気が出るかもしれせんね」
    「もう全部それでよくね?」
    「いいわけあるか! ちゃんとメニュー通りのものも作ってくれなくては困りますよ。気まぐれメニューはあくまでオマケです」
    「ふーん……、ま、いいけど! ね、楽しそうじゃね? ジェイドも一緒にやろうよ」
    「僕は仕入れには一切妥協しませんからお前のこだわりの茶葉を色々と試してみることもできますよ。キッチンを見ましたけどお前もあれこれと集めるのが好きなんでしょう? 自分の淹れた選りすぐりの紅茶でお客様がどんな反応をするか見てみたくありませんかジェイド」
     ジェイドはもう下を向いてはいなくて、今すぐにでもその反応を見たいと期待に胸を膨らませてうずうずしているのが手に取るようにわかった。
     なんだこいつ本当に単純な奴だなと、思わず吹き出しそうになるのを堪えて僕はジェイドのにやけた顔に手を伸ばす。
    「でも朝は僕だけのために淹れてくださいね」
     すり、と頬を撫でてやると一瞬でジェイドが顔を真っ赤にするから、僕は今度こそ堪えきれなくなって吹き出してしまった。
    「ねぇオレもいるんだけど? リビングでイチャつくなっつーの」
    「ふふふすみません、ジェイドがあんまり単純でかわいらしいもので」
     僕がまだくっくと笑いながらそう言えばジェイドはもっと赤くなって慌てふためくし、フロイドはなんだか信じられない言葉を聞いたような顔で目を丸めているし、僕はそれがなんだかツボに入って延々笑いが止まらなくなってしまった。
     そのうちにフロイドがつられて笑い出して、結局はジェイドまで笑い始めてもう何が可笑しかったのかもわからなくなりながら三人で散々笑った。
     昨日ここであったことを考えれば、今同じ部屋で笑い転げているなんて普通ならあり得ないことだと思う。ジェイドはたった一晩眠れただけだし手に刻まれた傷は生々しいし、まだなにひとつ「良くなった」と言えることなんてないのに、三人でいるだけでなぜだか大丈夫だと思えてしまう。あれこれと不安なことはたくさんあるはずなのに、でもなぜか僕らならできると思うんだ。
     それはなんの根拠もなくとても不確かな予感でしかないけれど、きっと僕らは大丈夫。
     三人一緒なら、空だって飛べそうな気がした。




     とは言え現実はそう甘くない。
     最初の試練は、その夜早々に立ちはだかった。

    「ジェイド、早くベッドに入りなさい」
    「はい、もう少ししたら」

     かれこれ一時間は似たような問答を繰り返している。
     フロイドにおやすみを言ってそれぞれの寝室に入ったはいいが、僕が先にベッドに横になるとジェイドはドアのところから一向に近付こうとしなかった。
    「ジェイド、いい加減に寝ますよ」
    「はいアズール」
     こいつ返事だけはいいが、その足は床に縫い付けられたようにぴくりとも動かない。
    「眠くないなら横になるだけでもいいですから」
    「後でちゃんと行きますので、先に寝ててください」
    「いえ、お前を寝かしつけるのが僕の役目なので」
    「寝かしつけるだなんて……、僕は子供じゃありません」
    「いつまでも寝たくないとダダをこねるのは子供でしょう。大人なら自己管理はきちんとしてください。さぁ早く来なさい」
     そう言ってタオルケットを浮かしてやると、ジェイドはものすごく渋々、至って不満であるという様子で仕方なく足をすすめようやくベッドの端にでかい体を押し込んだ。
     ジェイドとフロイドがふたりで寝ていると聞いた時は、こんなでかい兄弟が同じベッドにおさまっているなんてどれだけ窮屈なんだろうと想像していたけれど、金持ちのお坊ちゃんが使っているベッドは当然ながら一般学生が使うシングルベッドなどではなかった。成人男性がふたり横になってもまだ十分余裕のあるクイーンサイズである。
    「ジェイド、どうしてそんなに端にいるんです。落ちますよ」
    「寝相はいいので」
    「一緒に寝てた女性たちに言われたんですか?」
     すこし意地悪かなと思いつつ、そう言ってやると背を向けたままジェイドが気まずそうに黙り込む。
    「別に他意はありませんよ。寝相なんて自分じゃ分からないのにと思っただけです」
    「……すみません」
    「なぜ謝るんです?」
     それにジェイドは答えなくて、僕はあれこれとその答えを想像してみる。
     複数の女性と寝ていたことを僕が責めていると思ったんだろうか? それとも僕のことを好きだといいながら他の女性と寝ていたことが後ろめたいとか、僕と付き合ってるわけでもないのに浮気していたような気分になっているとか?
    「……いろんな女性と寝ていたことなら僕は別に気にしていませんよ? お前には必要だったことですし」
     うん、それは本当に僕がどうこう言うような問題ではない。以前は無節操な女たらしだとばかり思ってたけど現実は全然違ったわけだし、今更僕がそれを責めるのは筋違いだ。だから僕が気にしていないことを伝えればジェイドもすこしは安心してくれるかと思ったのに、無言で背を向けたままのジェイドを見る限りそれを気にしていたのではないらしい。というかむしろもっと距離を取るようにベッドの端っこでジェイドがぎゅっと縮こまる。
    「ジェイド、どうしてそんなに離れているんです。もっとこっちへ来なさい」
    「いえ大丈夫です」
    「お前が大丈夫でも僕が気になるんですよ。他の女性と寝る時もこんな風だったんですか?」
     それにはまた答えなくて、僕はそれを無言の否定と受け取った。
    「へぇ……、女性とはくっついて寝てたんですね」
     過去を責めるつもりない。
     全くないけど、他の女は良くて僕がダメなのは納得がいかない。
    「そんなに僕と寝るのが嫌なんですね」
     僕のことが嫌だからくっつかないんじゃないのは分かってる。わかっていつつ、そんな言い方をしてしまう自分を大人げないとは思う。思うけど、それはそれでムカつくじゃないか。
    「他の方とはしていたことを僕とはできないのかと思うとさすがに傷つきます」
     そう言った瞬間、背を向けていたジェイドがバッと僕の方に振り向いた。
    「ちがいます……! 嫌なわけではありません! あなたを傷つけるつもりなんて……」
     その絶望した顔を見た瞬間、僕は自分がジェイドを傷つけてしまったことに気付いた。僕を傷つけることを最も恐れているジェイドに、心無いことを。
    「すみませんジェイド、ただのヤキモチです」
    「え……」
    「ヤキモチ。嫉妬しただけです」
    「嫉妬……?」
    「そう。意地悪言ってすみません。ただ僕とはしないことを他の女としてたことにムカついただけです」
     ジェイドはまだ混乱したままの表情で、可哀想なことをしてしまったなと反省しながらにっこりと笑ってやる。
    「お前の気持ちを知っていながらそんなことで傷ついたりしませんよ。お前は僕のことが一番好きでしょう?」

     僕は知ってる。
     僕に名前を呼ばれただけで嬉しくなって、真っ赤になってしまうかわいい奴のことを。
     興味のない相手にならいくらでもニコニコと愛想よくできるくせに、本当に好きな僕の前ではわざと不機嫌そうに目を逸らしてしまう不器用な奴のことを。
     僕はそんなジェイドのことが、どうしようもなく愛しくなってしまうことを。

    「違いました?」
    「……いえ、僕が好きなのはずっとあなただけです」

     その「ずっと」がどんな意味なのか、今はまだ確かめないでおきたい。
     やっと顔を見せてくれたジェイドがまた背を向けてしまわない内に、僕はじっとジェイドを見つめて話し出す。

    「前は、くっついてないと眠れなかったんですか? 別に怒りませんから正直に話してください」
    「……はい。そうですね、人肌を感じていると安心して眠れたんです。途中で目が覚めてしまっても誰かがいればひとりじゃないんだと思えて」
    「ひとりの時は?」
    「そもそも眠くなることすらありません。眠ればまた夢を見てしまうと思うと怖くて」
    「なるほど。では今は?」
    「今?」
    「体に触れてはいませんけど、同じベッドにいるだけで眠れそうですか? 眠気はあります?」
    「正直眠気はあまり……」
     時計を見ればそろそろ午前1時というところだけど、睡眠のリズムなどとっくに失ってしまったジェイドにとってはそれが早いか遅いのかもわからない。
    「女性と寝る時はどうしてたんです?」
    「お相手に合わせて一緒にベッドに入っていました。すぐには眠れない時もありましたけど黙っていればその内に自然と眠れることが多かったです」
    「そうですか……。じゃあやっぱりくっついてみましょうか」
    「は!?」
    「そんなに驚くことないでしょう。昨日だって僕に抱きついてすやすや寝てましたし。泣き疲れて眠るなんて赤ん坊みたいでしたよ」
    「赤ん坊……!? 忘れてください……! そんなの僕じゃありません!」
    「そうですか? あれはあれで可愛かったですけど」
    「そんな風に言われてもうれしくありません……。僕はあなたにかわいいと思われたいわけでは」
    「かっこいいと思われたい?」
     ジェイドが油断しているのをいいことにずいっと近づいて顔を覗き込めば、図星だったのかジェイドは何も言えなくなって固まってしまう。
    「あははそうなんですね。ではかっこいいところを見せてもらわないと」
    「……言われて見せられるものでもないでしょう。あなたが何をかっこいいと思ってくださるか分かりませんし」
    「ふふ、では僕にかっこいいと思われるように頑張ってくださいね」
    「はいがんばりま……」と言いかけて、ジェイドはハッと我に返った様子で言葉を止めた。
    「いえ、別にそう思っていただかなくてもけっこうです。僕は別にあなたとどうにかなりたいとは思っていませんので」
    「完全に流されてたくせに強情な奴だな」
    「なんと言われても構いません」
    「頑固者」
    「そうですよ。僕は融通が効かないんです」
    「ふぅん。ま、いいですよ。ではそろそろ寝ましょうか。おやすみなさいジェイド」
     まだ眠くないらしいジェイドがこのまま眠れるかはわからないけど、とりあえず初日の今日は様子を見てみるしかない。ただ一緒にいるだけで眠れるならいいし、もし一緒にいても悪夢を見るようならまた色々と考えなくては。
     それにしても昨日今日と目まぐるし過ぎて本当に疲れた。すっかりと疲れ切っていた僕はすぐに睡魔が襲ってきて、すぐにでも落ちてしまいそうなほどの眠気に瞼を落とす。そして意識が切れかけたところで、まだはっきりと覚醒しているらしいジェイドの声がした。
    「アズール、本当に一緒に寝るんですか?」
    「……そうですよ。なにを今更」
    「申し訳ないのですがあなたと同じベッドではとても落ち着いて眠れる気がしません」
     僕は完全に落ちていた瞼をなんとか押し上げ、まだ半分寝たままの頭でジェイドを見る。そうすれば、本当に落ちそうなほどスレスレの端まで離れたジェイドが目をギンギンにかっぴらいて僕を見ていた。
    「すこし落ち着きなさい。目を閉じていればその内眠くなりますよ」
    「あなたがすぐそばにいるのに落ち着けるはずがないじゃないですか」
    「はぁ……? 昨日は爆睡してましたけど」
    「昨日は僕の意識がなかったからでしょう! 僕はあなたが好きだと言いましたよね? こんな、僕のベッドであなたとふたりきりで一緒に寝るだなんて……、もし間違いが起こったらどうするんですか!」
     一瞬渾身の「は?」が出そうになったけど、なんだジェイドはそっちの理由で離れてたのか。実に年頃の男子らしい健全な悩みに、僕の眠気もすっかり吹き飛んでふっと笑ってしまう。
    「お前それで興奮して眠れないんですか」
    「それはそれでしょう……、すきな人が一緒に寝ているなんてそんな……」
     本当になんなんだこいつは。
     意識してない女性とは平気で寝るくせに、いつかの美女の話が本当か嘘かは知らないけどまさかこいつが童貞なんてことはないだろう。それなのに僕と同じベッドにいるだけでこんなに興奮しているなんて。
    「改めてですけど、僕もお前のことが好きだって言いましたよね? お互いにすき同士でなにか起こったとして、それは別に間違いではないのでは?」
     僕は至極真っ当なことを言ったつもりだった。学生とは言えもう成人しているわけだし、いい大人が酒の勢いでもなく合意の上で行為に至ったなら別に間違いでもなんでもないだろう。
     ましてや好きあっている相手なら尚更、僕は望むところだけど。それなのにジェイドとくれば、照明を落とした室内でもわかるくらい顔色を変えて全力で否定する。
    「いえいけません! 恋人でもいないのにそのような関係になるのはやはりよくないです」
    「はぁ……。では恋人になればいいのでは? 僕はその方がうれしいですけど」
    「えっ」
    「なぜ驚く。僕はジェイドがすきですよ。そしてお前も僕のことがすき。なにも問題ないじゃありませんか。とりあえずおやすみのキスでもしてみます?」
    「キス……!?」
    「今朝はしようとしたくせに」
    「それは寝ぼけていたからであって……」
    「では寝ぼけていない時にしましょうか。今とか」
     すっかり眠気も覚めてしまったし、僕はのそりと体を起こして無遠慮にジェイドに近づいた。そしてジェイドが落ちてしまわないように背中に手を回せば、触れた瞬間緊張で体が強張ったのがわかる。
    「そんなに怖がらなくてもとって食ったりしませんよ」
    「怖がっているわけでは……」
    「ではすこしおとなしくしていて下さいね」
     僕はジェイドの背を支えたまま、ゆっくりとその顔に唇を寄せる。
     ……とここで気付いたけど、僕にとってこれはファーストキスだ。ジェイドがあんまりウブな反応を見せるのでかわいくってつい調子に乗っていたけど、恋愛について僕はド素人なのだ。
     セックスの経験どころかキスの仕方だって知らないし、あとは唇を重ねるだけのところまできたはいいが、ここからどうしていいのか皆目見当もつかない。軽く合わせてすぐに離せばいいのか? それとももっと深い濃厚なやつ? はじめてなのに?? そんなことをグルグル考えていると僕までどんどん緊張してきて、心臓がありえないくらいにドキドキと煩く早鐘を打つ。
     中途半端な姿勢のまま止まっているから腕はプルプルと震えてきたし、顔が近すぎて鼻息がかかってるんじゃないかと急に心配になる。キスをするときは目を瞑るのが作法だった気もするけどジェイドは目をかっぴらいたままだし、僕は完全につむるタイミングを見失ってガン決まりの男ふたりがただ至近距離で見つめあっているだけの異常事態になってしまった。
     あぁもうこの状態に耐えられない。
     これはもう思い切ってやるしかないと、僕が残り数センチの距離を詰めようとしたとき、ジェイドがふいっと顔をそむけた。
    「……やっぱりだめです」
     ジェイドが気まずそうに、そしてすこし悲しそうに声を落とす。
    「とりあえず今はフロイドのためにあなたと一緒に寝ます。でもそれがすなわち、あなたと恋人になってもいいということではないんです」
     
     そう言われてしまっては、これ以上強く言うことはできなかった。
     フロイドをだしになんとか同居を承諾はさせたけど、ジェイドはまだ僕自身を受け入れる準備ができていない。どんなに好きでも一緒にいることが苦しいなら、やっぱりそれはお互いにとってのしあわせとは言えない。
    「わかりました。無理やり形だけの恋人に収まるというのは僕も本意ではありませんので」
    「ありがとうございますアズール」
     すこしだけ和らいだようなジェイドの表情に、僕もほっとして改めてその顔を見つめる。
     あぁでもやっぱり惜しいことをしたな。
     僕だってジェイドがきちんと受け入れてくれてからちゃんと恋人になりたいけど、それはそれとしてジェイドとキスがしたかった。
     このまま終わるのもなんだか悔しいから、僕はジェイドの隙をついてすっと顔を寄せその頬にキスをした。突然の不意打ちにジェイドは目を白黒させて、その驚いた表情に僕はちょっとだけ勝った気分になってふふんと笑う。
    「ジェイド、もしお前が僕になにかしたいと思ったら、別にしてもいいんですよ」
    「なにかとは……」
    「なんでもです。キスでも、それ以上のことでも」
     
    「待ってますから」

     ジェイドの心の準備さえできれば、僕はいつだってそうしたいと思った。
     今はまだ望まないだろうけど、僕にもっと深いところまで触れさせてほしい。触れて触れられて、そうしてジェイドのことをもっと知りたいし、僕のことを知ってほしい。
     僕の知らない過去の誰かじゃなく、ジェイドが僕だけを見てくれるようになったら。

    「はぁ……、先は長そうですね」
    「はい?」
    「ふふ、とりあえずくっついて寝てもいいですか?」
    「え……っ」
    「それも嫌です?」
    「嫌なわけでは……」
    「じゃあいいってことですよね。別に恋人でなくてもそのくらいはいいでしょう」
     僕は答えを待たず向き合ったジェイドの胸に顔を埋め、ぎゅっとしがみついて足を絡ませる。
    「ドキドキして眠れません……」
    「ふふっ」
    「笑い事ではないのですが」
    「もっとドキドキしてくれていいですよ。それで我慢できないくらい僕に触れたくなったら、その時はちゃんと教えて下さいね」
     今はまだ行きどころをなくして彷徨っているジェイドの手が、いつか僕をぎゅっと抱き返してくれますように。
     そう祈りながら、僕はふたたび落ちてきた眠気に今度こそ意識を手放した。


     翌朝目が覚めた時、さすがに抱きついたままではなかったけど、僕のすぐ隣にはジェイドがいた。昨晩眠りにつく前の、目をギンギンにかっぴらいたままのジェイドが。
    「……おはようございます」
    「おはようございますアズール」
    「もしかして眠れませんでした?」
    「はい、残念ながら」
     明らかに睡眠不足で顔色の悪いジェイドが申し訳なさそうに眉を下げる。若干予想はしてたけど、まさか本当にこうなるとは。
    「念の為確認しますけど、それは悪夢のせいで眠れなかったということではないんですよね?」
    「そうですね……、あなたがいると思うと緊張してしまって、すみません」
    「いえ謝ることでは……。僕こそすみません。どうやら初日から飛ばしすぎたようですね」
     やはり密着して眠るというのはジェイドにはまだ刺激が強すぎたらしい。一昨日の夜は完璧に熟睡していたから完全に油断していた。僕がそばにいれば安眠できるのかと期待していたけど、まさか別の問題があったとは。
    「……ではとりあえず、離れて眠ることから試してみましょうか。昨日みたいにくっついていると緊張してしまうなら、ベッドの端と端にいるくらいならどうです? それならもし夜中に目が覚めてしまっても見える範囲に僕がいますし」
    「僕としてはあなたが同じベッドにいるというだけで緊張するのですが……」
    「そこはもう慣れてもらうしかありません。お前が眠れなければ僕がここにいる意味がなくなってしまいますし、それではフロイドがいつまで経っても安心できないでしょう? 少しずつでいいですから、一緒に頑張ってみましょうジェイド」
    「はい……」
     いつまでも片割れの名前で押し通そうとするのは可哀想な気もするけれど、とりあえずジェイドが眠れるようになってくれなければそうも言ってられない。結局ジェイドはたった一日眠れただけでまた不眠に戻ってしまったし、なんとか少しずつでも眠れるように策を考えなければ。
     眠れないまま一晩中横になっているだけというのもきっとつらいはずだ。ただでさえ緊張感で張り詰めていたのだろうし、僕といることがかえってストレスになって安眠妨げてしまったのなら本末転倒もいいところだ。
    「ジェイド、今眠気はありますか? 体は疲れているでしょう」
    「そうですね……、確かに体は重いですが、眠れる感覚はあまり」
    「では僕はとりあえず起きるので、お前はそのまま目を閉じてみてください。僕はここにいますから」
    「見られているのも緊張します」
    「慣れなさい。お前の意識改革も重要ですよ」
    「はぁ……」
     全く納得はしていない様子のジェイドをとりあえずいなして、僕はひとりベッドを抜け出すとベッドサイドに置いた椅子に座った。まるで病人のお見舞いに来たようで妙な感じではあるけど、とりあえず僕の言う通り目を瞑ったジェイドを座ったまま見下ろす。
    「……とても視線を感じます」
    「見てますからね」
    「気になって眠気どころではないのですが……」
    「もっと図太くなりなさい。慣れればそのうち気にならなくなりますよ」
    「そうでしょうか……」
     ジェイドは相変わらず納得していない様子だけど、抵抗しても無駄だと悟ったのか大人しく横になってじっと目をつぶっていた。
     こうして黙っている姿を見ると本当に整った顔立ちをしているなと改めて思う。眠れないせいで病的にこけてしまった頬が痛々しいけれど、それでも尚美しいその横顔に惚れ惚れしてしまう。
    「すきですよジェイド」
    「……本当に眠らせるつもりあります?」
    「すみません、思ったのでつい」
    「ドキドキして全然眠れません」
    「ふふ、かわいいやつ」
    「からかってます?」
    「まさか。本心ですよ」
     照れが限界にきたのかジェイドが目を開けて体を起こそうとするから、僕はジェイドの両目を覆うように手を置いてそれを制した。
    「ほら、目をつむって。あたたかいでしょう?」
    「……はい、気持ちいいです」
    「そのままゆっくり息をしてみてください。呼吸をすることだけに集中して、他のことは何も考えないで」
     吸って、吐いてと、ゆっくり指示をしてやれば、ジェイドは僕の声に従ってただ呼吸だけを繰り返す。そのうちに呼吸のリズムが整って、僕の声がなくても規則的になった呼吸は、いつのまにか健やかな寝息に変わっていた。
    「寝た……!」
     眠くないとは言っていたけどやはり体は相当疲れているんだろう。ここまで重ねてきた無理を考えれば当然のことだ。夜は上手くいかなかったけど、とりあえずジェイドを寝かしつけることに成功して僕はほっと胸を撫で下ろす。
     でもこのままぐっすり眠れるかは心配で、もし目を覚ました時に僕がいなかったらまたパニックになるんじゃないかと中々そばを離れられなかった。結局30分はそのままじっと寝顔を見続けて、それでも起きないことを確認して僕はようやく部屋を出た。

    「おはよーアズール。ジェイドどうだった?」
    「それが昨日は一睡もできなかったらしくて」
    「え、アズールがいてもダメだったの?」
    「えぇ。なので今寝かし付けました」
    「いま?」
    「僕が一緒だと緊張して眠れなかったらしいです」
    「まじ? おとといはあんなに爆睡してたのに」
    「えぇ。僕が起きてからようやく眠りました」
    「でも寝れたんだ? 良かった〜」
    「まぁとりあえずは良かったですけど、ジェイドには少しずつ僕と寝ることにも慣れてもらわないと困ります。このままでは昼夜逆転生活になってしまいますし」
    「眠れるならどっちでもよくない?」
    「それじゃずっと僕とすれ違い生活じゃないですか」
     せっかくジェイドが眠れるようになっても、毎回僕と入れ違いに眠っていたんじゃ一緒の時間もろくに作れないじゃないか。これから開店準備だって忙しくなるしあれこれとタスクは山積みなのに、すこしずつ距離を詰めていこうにも僕が起きている間ジェイドが眠っていたんじゃそれもままならない。
    「そりゃまずはきちんと睡眠を取れるようになることが最優先ですけど、今の状態が定着してしまうのも良くないでしょう。人間も日光を浴びて体を動かすことが大切だと言いますし、ジェイドの体力作りのためにも朝起きて昼間活動した方が……」
    「ただアズールがジェイドと一緒にいたいだけじゃん」
     それらしいうんちくを並べ立てて「違いますよ!」と反論してやろうかとも思ったけど、別にムキになって否定するようなことでもないかと僕は大人しく口を閉じた。
     どれだけ正論をかましてやった所で、結局はフロイドの言う通りなんだと思う。
    「そうですね、僕はもっとジェイドと一緒にいたい」
     素直に認めてやったのに、フロイドはなんだか微妙な顔をして不思議そうに僕を見ていた。
    「昨日も思ったけど、アズールは変わったね」
    「それは、お前の言う前世の僕と比べてですか」
    「うん、アズールは昔のアズールと似てるとこもいっぱいあるんだけど、違うとこもいっぱいある」 
    「たとえば?」
    「たとえば、昔のアズールはオレの前でジェイドのことかわいいなんて絶対言わない」
    「おやなぜ」
    「それはまージェイド自身のせいっつーか、超ひねくれてて素直じゃなかったからあいつ」
    「ジェイドが? あんなにわかりやすくて単純なやつなのに?」
    「んふふ……っ、だからジェイドも、今とは違ったってこと。まぁふたりっきりの時がどうだったかはしらねーけど?」
    「ふふ、案外お前の知らない所ではかわいいところもあったかもしれませんよ?」
     フロイドは「そうかもねぇ」と笑いながら目を細め、目の前の僕に昔の僕を重ねてどこか遠くを見ているようだった。でもふっと目が合うと、その瞬間パチリと目を覚ましたようにフロイドが「僕」を見た。

    「オレもジェイドもそうだけど、アズールも昔のアズールとは別人なんだね」

     そんな当たり前のことを、当たり前と思えないくらいにふたりにとって過去の僕の存在は大きなものだったんだろうか。そうだとすれば、ジェイドが今の僕と昔の僕を混同して、また同じことが起こるんじゃないかとジェイドが恐れる気持ちもわかる。

     でも僕は、過去のお前を置いて行ってしまった恋人じゃない。
     今のジェイドはその時の「ジェイド」じゃないし、僕も昔の「アズール」じゃない。
     今のお前を苛ませ続ける悪夢が昔実際にあったことだとしても、それはもう、今のジェイドが抱えているべき苦しみじゃないんだ。

    「ジェイドも、それをちゃんとわかってくれたらいいんですけどね」
      
     フロイドが途方に暮れたみたいに笑う。
     僕らはどうしたらジェイドにそれを伝えられるだろう。
     今の僕は僕でしかないんだと、過去と切り離して考えてもらえるだろう。 
     今すぐには無理でも、少しずつ、目の前の僕だけを見てくれるように、僕にはなにができるだろう。



     それからの毎日は一進一退の日々だった。
     とりあえず一緒にベッドに入ることに慣れるため、ベッドの中で離れて眠ることを試してみたけどやっぱりすぐには眠れなくて、時間をかけて眠れたとしてもジェイドはたびたび目を覚ましてしまうようだった。
     目を開けば僕がいることで安心はできるけれど、ジェイドの悪夢が完全になくなることはなかった。ジェイドの気配に気付いて僕が目を覚ますと静かに泣いていることもあったし、いつかのように僕を昔の僕だと思ってしがみついてくることもあった。いつもより長く眠れた日もあれば一睡もできない日もあったり、日中泥のように眠って夜に目が覚めてしまう日もある。
     それでも以前のように眠れない日が何日も続いて錯乱するようなことはなくなって、大学に行けるようになったフロイドはすっぽかした年度末試験の再試や補講で忙しく、まだ調子の戻らないジェイドは結局進級を諦め休学を選んだ。僕はもう全ての試験を終え単位は十分に取得しているから、大学に通う必要もなくほとんどの時間をジェイドと一緒に過ごしている。
     昼間起きていて調子のいい時には仕事にも同行させたし、店に行く時には自分から進んで着いてくる。そうやってジェイドと行動する時間が長くなると、ジェイドには眠れない以外にも課題が多くあることを気付かされた。
     まず、他者から僕への悪意に敏感すぎる。
     取引先で僕を見下すよう態度の奴がいればあからさまに嫌悪を顕すし、悪意がなくとも道端でぶつかっただけの相手にまで殺気を撒き散らす。下手をすれば僕を躓かせる道端の小石にすら殺意を持ちそうなほどで、僕を幼い子供だとでも思っているのかとにかく過保護が過ぎる。
     その原因が何かわかっているからこそ頭ごなしに叱り飛ばすようなこともできないけれど、どう考えたって、ジェイドは過去に囚われ過ぎていた。

     そしてある日、とうとうジェイドがパニックを起こした。
     仕事を終えた夜の帰り道、僕とジェイドが二人で並んで歩いていたところに、蛇行運転の車が突っ込みそうになったのだ。酔っ払いか居眠りか、ギリギリでかわしてそのまま通り過ぎていってしまった車を僕はただ呆然と見ていたけど、ジェイドはそうではなかった。
    「アズール!!」と僕を呼んだその顔は真っ青で、僕がいくらなんともないと言ってもジェイドはずっと震え続けていた。跳ね飛ばされたわけでも怪我をしたわけでもないのに、無傷の僕を見ながらジェイドの額には汗が吹き出し、全身が震えてどんどん呼吸がおかしくなっていく。苦しそうに胸を抑え、がくがくと足が震えて立っていられなくなったジェイドを僕は必死で支えた。
    「ジェイド、落ち着いて、ゆっくり息をしなさい。僕は大丈夫ですから」
     ジェイドの目は確かに僕を捉えているのに、僕が見えていないように混乱して、怯えていた。
     僕を探して開いた目からは涙があふれ、なんとか酸素を取り込もうと開きっぱなし口からは涎を垂れ流して。
    「アズール……っ、あず、いかないで……っ」
    「大丈夫、大丈夫ですよジェイド。僕はここにいます」
     僕の声を頼りに、ジェイドはふらつく体をなんとかふんじばって僕にしがみつく。そして震え続けるそのおおきな体を、僕はせいいっぱいに抱き止めて声をかけ続けた。
     抱きしめたその体から伝わってくる鼓動がはやすぎて、耳元に聞こえる苦しそうな呼吸が僕の胸を締め付けても、今ジェイドを助けてやれるのは僕しかいないから。
     抱きしめたジェイドの背をゆっくりと撫で、乱れた呼吸を少しずつ整えていく。そうしてぴたりと体を重ね合わせている内に、ジェイドの鼓動が僕の鼓動と同じになっていくような感覚が心地よかった。そんなことを考えているような場合じゃないはずなのに、まるでふたりがひとつに溶けてくみたいで、ジェイドの心ごと抱きしめられているようで。
     実際にはまだまだジェイドに受け入れられているとは言い難いけど、こうしていつか、僕の全てを受け入れてくれるようになったらいいのにと強く願った。

    「……すみませんアズール、取り乱してしまって」
     しばらくするとジェイドも落ち着いて、でかい図体がしょんぼりとうなだれているのがなんだか可愛らしく見えてしまった。
     過去のジェイドはひねくれていて全然可愛くなかったとフロイドが言っていたけど、目の前のジェイドは図体だけでかい仔犬みたいだ。
    「大丈夫ですよ。ほら、早く帰りましょう。フロイドが待ちくたびれているかも」
    「そうですね。僕お腹が空きました」
    「ふっ、それはいいことですね。お腹が空くのはお前が元気になった証拠ですし」
     睡眠リズムがぐちゃぐちゃで空腹すら感じることもなくなっていた以前に比べればこれはいい兆候だ。睡眠時間がぐんと増えた最近はだいぶ食欲も増してだいぶ顔色も良くなったし、体力もすこしずつ回復して活動的になってきた。これで精神面も安定してくれれば僕も安心だけど、それはまだ時間がかかりそうだ。
    「それにしても顔がぐちゃぐちゃですよ。ちゃんと拭きなさい、フロイドに笑われますよ」
     そう言ってティッシュを押し付けるとジェイドは苦笑いをしながら受け取って、それなりに整えはしたけど結局帰宅するなりフロイドに笑われた。
     自分では気付かなかったけど、どうやら僕も相当疲れた顔をしていたらしく、「ふとりともひでー顔!」と僕までいっしょくたにされて爆笑されて、でもその後三人で食べたフロイドのごはんが信じられないくらいに美味しかったら一瞬で疲れが吹き飛んでしまった。これなら店の定番メニューにしてもいいなと思ってフロイドにレシピを聞けば、「適当に作ったから忘れた」なんて言うから「なんでお前はいつもそうなんだ」と小言を言ったら軽くケンカになって、それなのに僕らの言い合いをジェイドが楽しそうに見ていたから、また怒りなんて吹っ飛んでしまった。
     ついさっきパニックを起こしてジェイドが大変な状態になっていたのに、三人で一緒に食事をしただけでこんな風に穏やかに楽しい時間を過ごせるなんて。
     一緒にいるだけで笑い合えるなら、きっとジェイドはこれからどんどん良くなっていく。つらいことがあってももっと楽しいことがたくさんあれば、積み重ねたその経験がジェイドをいい方へ導いてくれるに違いない。そしてそのうちに過去の凄惨な記憶も薄れて、失うことへの恐怖も克服してくれるはず。
     一進一退ではあるけれど、僕らは少しずつでも確実に前へ進んでいるんだ。そう信じられることが、僕にまた勇気をくれた。



     その日、いつものように一緒にベッドに入ると、限界まで距離を取った位置からジェイドが僕を見つめていた。同じベッドで眠ることにもだいぶ慣れて、もう一睡もできないという日はなくなったというのに、ジェイドは一向に距離を詰めてはくれない。そうかと思えばこんな風に愛おしげに見つめてくるのだからたまらなかった。
     もっと近くでジェイドに触れられたらいいのに。
     こうして一緒にいられるだけでもしあわせだけど、僕はもっと、ジェイドに触れてみたい。

    「ジェイド、今日は手を繋いで寝てみませんか」
     僕がそう言うと、ジェイドはあからさまにびくりとして身を固くした。そんな物欲しそうな顔をしてるくせに、本当になんて臆病な奴なんだ。
    「まだ無理そうですか?」
    「無理と言うか……、必要性を感じません。あなたは僕が眠れるようにここにいてくださるんですよね。今はだいぶ眠れるようになってきたので接触の必要はないかと」
    「でも朝までぐっすりは眠れてないでしょう? くっついていればもっと眠れるようになるかもしれませんし、少しずつ試してみるのもいいと思うのですが」
    「いえ大丈夫です! 僕は今のままで十分ですから……!」
    「僕は不満なんですけど」
    「え……っ」
    「そりゃまずはジェイドが眠れるようになることが一番大事ですけど、それができてきたなら僕は次のステップに進みたい」
    「次のステップ……?」
    「そうですよ。僕はお前にきちんと受け入れてもらいたい。僕のことを好きなくせに、いつまでそうやって僕を拒絶し続けるつもりですか」
    「それは……」
    「ねぇジェイド」
     口籠るジェイドに少しだけ近づいて、僕は「必要はない」と言われた手を勝手に掴んだ。
    「必要性なんてどうでもいいんです。僕はお前に触れたい」
     手と手を重ねて、ジェイドの指の間にするりと僕の指を滑り込ませる。そして軽く握ったりすりすりと撫でたり、その肌の感触を確かめるみたいに僕はジェイドに触れた。はじめは少しひやりとして冷たかった手がだんだん温かくなってきて、同じになって、そして熱くなるのをその手で直に感じた。
    「ジェイド、僕に触れられるのは嫌ですか」
     ジェイドは硬直して何も言えなくなってしまったけど、じっとりと汗ばんだ手が振り払われることはなかった。拒絶されないのをいいことにもっと触れてみたかったけど、このままだとまたジェイドが眠れなくなってしまいそうだから、なんだか可哀想になって僕はその手を解放してやった。
    「今日はこのくらいにしておいてあげます」
     そう言いつついつもより少しだけ距離を詰め、固まったままのジェイドの頬に軽く触れるだけのキスをする。
    「おやすみジェイド。明日は手を繋いで寝ましょうね」


     その日以来、ジェイドは少しずつ距離を詰めることを許してくれるようになった。
     まだジェイドから触れてくれることはないけど、僕が触れても嫌がったりはしないし、相変わらず緊張はするようだけどだんだんと落ち着いて眠れるようにもなった。前よりもずっと長く眠れる日が増えて悪夢を見ることも格段に減ったし、うなされて目を覚ましてしまってもすぐ隣に僕がいることでジェイドはずいぶん安心するらしい。
     だからジェイドは順調に良くなっていると、僕はすっかり思い込んでいた。睡眠さえきちんと取れるようになれば後のこともきっと全て上手くいくと。
     でも、ジェイドが抱えている問題はそれだけではないのだと、僕はある日突然知ることになる。
     
     最近は目が覚めるとすぐ横にジェイドが寝ていることが多かったのに、その日ジェイドはまたベッドの端にいた。それもうずくまるように背を丸め、大きな体をぎゅっと縮こまらせて必死にうめき声を堪えているように。
    「ジェイド……? どうしたんです、どこか痛むんですか?」
     慌てて近づいて様子を伺えば、ジェイドは額に汗をびっしょりとかいて右腕をきつく握りしめていた。
    「ジェイド、腕が痛むんですか?」
     僕の声に反応してなんとか視線を寄越したジェイドは、激痛のせいかブルブルと震えながら必死に声を絞り出す。
    「すみません……、いつものことなので、大丈夫ですからフロイドに……」
    「いつものこと?」
     どういうことなんだと問いただしたかったけどとてもそれどころではなく、真っ青な顔をしたジェイドが「くすりを」と言ったのを聞いて僕は急いでベッドを抜けだした。ジェイドがこんな風になっているのを僕は初めてみたけど、いつもの事だと言うなら常備薬があるのだろう。激痛に耐えているようなジェイドのそばにいてやりたいけど、今はとにかく薬を飲ませてやらなくては。
    「すぐに戻りますからね」と声を掛け、僕はフロイドのところへ急ぐ。そしてまだ寝ているらしいフロイドの部屋をドンドンと叩き、返事が聞こえる前にドアを開けてフロイドを叩き起こした。
    「フロイド! ジェイドの薬はどこですか!?」
    「くすり〜……?」
    「腕が痛むようで、ジェイドがいつものことだと」
     突然乱暴に起こされて不機嫌そうにしていたフロイドは、その言葉でピンときたようにサッと起き上がってさっさとリビングへ足を進める。
    「ちょっと待って、すぐ用意するから」
    「えぇ……、お願いします」
     フロイドはきびきびと動いて薬を取り出し、コップの水と一緒にそれをジェイドのベッドまで運ぶと、うずくまったままのジェイドを優しく抱き起こしてその右腕をさすった。
    「薬持ってきたよ。飲める?」
    「……ふろいど」
    「うん、すぐに良くなるから大丈夫だよジェイド」
    「はい……、ありがとうございます」
     フロイドが来たことで少し安心したのか、ジェイドは支えられながらなんとか薬を飲み下してそのまままたベッドに崩れ落ちた。一瞬表情が和んだのも束の間、ジェイドは押し殺すようなうめき声をあげてまたぎゅっと右腕を握り込む。
    「大丈夫、すぐ治るから、もう痛くないよ」
     そのかたわらに寄り添いながら、大丈夫だいじょうぶとフロイドがおまじないのように繰り返し、苦痛に悶えるジェイドの腕をさすり続けている間、僕はなにもできずただ立ち尽くしているしかなかった。
     ジェイドが「いつものこと」だと言ったように、フロイドはこの事態にすっかり慣れているようだけど、僕は今ジェイドがなぜこんな風に苦しんでいるのか全くわからなかった。
     怪我をしたわけでもない。他に病気があるとも聞いていない。それなのにジェイドは顔を真っ青にして、脂汗をいっぱいにかいてただただ激痛が過ぎるのを待って悶え苦しんでいる。
     一体ジェイドになにが起きているんだ?
     毎夜襲う悪夢だけでは不十分だとでも言うように、また別の苦しみがジェイドをこれでもかと蝕む。
     なんで、どうしてジェイドだけ。
     ジェイドを襲い続ける理不尽な苦しみと、見ているだけで何もできない自分に腹が立ってしょうがなかった。
     どうして僕はジェイドを救ってやれないんだろう。
     フロイドもジェイドも、ふたりとも助けてやると僕が言ったのに、結局フロイドに任せきりで僕はまだ何もできていない。
     フロイドに宥めすかされたジェイドが少しずつ落ちついてまどろんでいくのをただ眺めながら、僕は自分の無力さを痛感していた。僕はまだジェイドのことを全然知らない。僕がジェイドのためにしてやれることは、ほとんどない。



    「……ル、アズール!」
    「は……」
    「ジェイド寝たから、リビングいこ」
    「あ……、はい、そうですね」
     立ち呆けている間に頭までボケてしまったらしい。 
     僕は飛んでいた意識をなんとか引き戻し、リビングに戻るとフロイドが淹れてくれたエスプレッソを何も考えず口に含んだ。
    「にが……」
    「それで目ぇ覚まして」
    「すみません、ぼうっとしてしまって」
    「いいよ、びっくりしたでしょ」
     フロイドは僕のカップに勝手に山盛りの砂糖を入れて、カチャカチャとかき混ぜるとまた僕の方に差し出す。僕は差し出されるがまままた一口含み、苦すぎたエスプレッソに加わった程よい甘味にすっと心が落ち着いていくのを感じた。
    「驚きました。さっきのはなんだったんです? いつものことだって言ってましたけど僕が来てからは一度もなかったでしょう?」
    「そう言えばそうだね。いつものことではあるんだけど、いつ起こるかわかんなくてさ。今回みたいにひと月くらい何もないこともあれば何日も連続で痛むこともあって」
    「原因はわかってるんですか? さっきの薬はなんの……」
    「さっき飲ませたのはただの鎮痛剤。頭痛とかで飲むのと一緒。あと原因は多分だけど、幻肢痛」
    「幻肢痛? それって手足を切断した人がなるものですよね? 失ったはずの四肢が痛むという……」
     僕はフロイドの言葉に眉を顰め、そして自分で言いながらすぐにその答えに思い当たってしまった。
     今ジェイドの右腕は間違いなくある。
     それなのにフロイドが幻肢痛だなんて言うのは、つまり。
    「過去のジェイドは、右腕を失っていたんですか」
     ほとんど確信めいて言ったその言葉に、フロイドが複雑な面持ちで頷く。
    「アズールが死んじゃった時にね、ジェイドの右腕だけ一緒に」
     
     またかと、腑が煮え繰り返る思いだった。
     また過去がジェイドを苦しめる。
     どうしてジェイドだけがこんな風に過去に囚われなきゃいけないんだ。
     僕は何も覚えていないのに。
     僕の知らない過去の僕が、今もずっとジェイドを責め立てている。

    「でもその事自体はさぁ、ジェイドは喜んでたんだよ」
    「は……?」
    「腕吹っ飛んで喜ぶとか意味わかんないよね」
    「えぇ全く……。理解に苦しみます」
    「あははわかる。昔のジェイドはさ、アズールの右腕って言われてたから」
    「え?」
    「オレらってさぁ、全寮制の名門校の生徒だったんだよ。そんでアズールが寮長でジェイドが副寮長。その頃からジェイドはスーパー秘書とか言われてたし、実際卒業してアズールが起業してからもずっとアズールの秘書やってて、だからジェイドはずっとアズールの有能な右腕だったんだ」
    「だから……?」
    「だから、右腕は自分の代名詞みたいなものだから、大事な右腕だけでも一緒に連れて行ってくれてうれしいって。イカれてるよね」
     それをうれしそうに語るジェイドを想像したら、気が狂いそうだった。
     腕がなくなって嬉しいはずないだろ。
     恋人だけじゃなく体の一部まで失って、その後の生活はきっと大変だったはずなのにそれをうれしいなんて。
     ジェイドはどうしてそんな風に思えたんだろう。
     腕を奪った僕を憎いとは思わなかったんだろうか。
     苦しみだけ置いてひとりで死んでしまった僕を、どうして恨まずにいられたんだろう。
     
    「……頭おかしいだろ。結局そのせいでジェイドは幻肢痛に苦しむことになったんじゃないか」
    「うん、そうだね。アズールがいなくなってから死ぬまで、ジェイドはずっとその痛みに苦しんでた」
     死ぬまでだって?
     僕の目には、さっき見たジェイドが目に灼きついて離れない。
     あんなに苦しそうに、それをジェイドは、前世からこれまでに何度も何度も何度も、ずっとひとりで、痛みに耐えて、耐え続けて。
    「死ぬまでじゃないだろ……! 生まれ変わってもずっと……っ、ジェイドは今も……!!」

     僕のせいで。
     僕がちゃんと守ってやれなかったせいで、僕が、ジェイドを置いて行ったせいで。

    「アズール!!」

     ガシリと痛いくらいに肩を掴まれ、強く揺さぶられて急激に意識が引き戻される。思考の闇に沈み込んでしまいそうだった僕を、フロイドの声が呼び戻す。

    「アズールまで呑まれてどうすんだよ」
    「フロイド……」
    「過去のジェイドと今のジェイドが違うってことわかって欲しいって言ったのはアズールじゃん」
     毅然として僕を睨みつけるフロイドに、頭を思い切り殴られた気分だった。
     そうだ、前世と今は違うんだと僕はずっと思ってきたはずなのに、その僕がこんな風に引きずられてどうするんだ。
     目の前で苦しむジェイドに一瞬で感化されて思考を塗り替えられたみたいに、前世を知らない僕ですらこんな状態に陥ってしまうなら、その瞬間をずっと夢に見続けてきたジェイドが過去に囚われてしまうのは当たり前じゃないか。僕とは違って長い間毎日毎日、繰り返し悪夢に襲われ続けてきたジェイドの心を取り戻してやるのはとても容易なことじゃない。
     それでも僕は、そこから救い出してやるためにここにいるのに。僕だけは、過去に囚われず手を差し伸べてやらなきゃいけなかったのに。

    「すみませんフロイド。本当に不甲斐ない……。結局僕もお前に頼ってばかりですね」
     僕に任せろと大口を叩いておきながら、自分の無力さにほとほと呆れる。二人の助けになりたいと思っていたはずなのにこんな醜態を晒して、さらに追い詰めるようなことをしてどうするんだ。
    「何言ってんのアズール」
     あんまり情けなくて目を逸らそうとした僕に、本当に驚いたようなフロイドの素っ頓狂な声がする。
    「アズールが来てからいいことばっかじゃん。ジェイドは眠れるようになったしオレも大学行けるし、オレが今こうやって普通に生活できてるのはアズールのおかげだよ」
    「え……」
    「あの日アズールが来てくんなかったらマジでやばかったと思うし。あのままじゃオレまで限界超えて殺し合いになってたかもよ?」
    「殺し合いっておま……っ」
     フロイドはそんなゾッとするようなことをあっけらかんと言ったけれど、それが現実になっていたかもしれないことは、あの日あの場にいた僕にもよくわかっている。
     本当にギリギリだったんだ。
     あの日僕がここに来なければ、今よりずっとひどいことになっていたかもしれない。
    「今アズールがいるからオレは一歩引いたとこからアズールとジェイドを見ることもできるんだし。それってジェイドとふたりだった時にはできなかったことじゃん? だからありがとアズール、オレたちにアズールがいてくれてほんとに良かったよ」
     フロイドはきっと本心からそう言ってくれているんだろう。でも掛けてくれる言葉があんまり優しくて、やさしすぎて僕はまた情けなくなってしまう。結局僕はフロイドの優しさに甘えているんじゃないだろうか。僕がそばにいることでより一層ジェイドの過去を鮮明にして傷付けているんじゃないだろうか。
     僕は本当に、ここにいていいんだろうか。
    「僕は、逆にお前に頼ってしまっている気がしてなりません。むしろ僕がお前たちの負担になっているんじゃ……」
    「なんで? オレらはこれでいいじゃん」
     またあっけらかんと、飄々と言ったフロイドを僕はぽかんと見上げる。
    「アズールがひとりでがんばろうとしなくても、アズールとジェイドがやばい時にはオレが止めればいいじゃん。その代わりオレかジェイドがぶっ壊れそうになったらアズールがなんとかしてよ」
    「責任重大じゃないか……」
    「でもできるでしょ? アズールが自分からやるって言ったんだし。まさか今更やっぱり無理です〜なんて泣き言言わねぇよなぁ?」
     フロイドがニヤニヤと底意地の悪い顔をして、わざと挑発されているとわかっていてもやっぱり腹が立つものは立つ。安い挑発に乗るのはシャクだけど、フロイドの言う通り自分で言ったことにすら責任を持てないようではあまりにも情けなすぎる。うじうじと悩んでいつまでも後悔しているだけなんて僕らしくない。僕は僕にできることをやり切って、そしてどうだ参ったかと見返してやらなければ気が済まない。
    「もちろんです! この僕が一度言ったことを撤回するなんてあり得ません。こうなったらとことん最後までとことん付き合ってやりますよ!」
    「あははさすがアズール。立ち直り早ぇ〜」
    「いつまでもぐちぐち言っていても何も変わりませんからね。腹を括ってさっさと切り替えた方がよほど建設的でしょう。時間は有限なんですから効率的にいかないと」
    「だよねぇ。やっぱアズールおもしれ」
    「面白がっている場合か。お前も頼みましたよ、また僕がおかしくなったら殴ってでも引き戻してくださいね」
    「え、殴っていいの? 仕返しが怖ぇんだけど」
    「もちろんお前がやり過ぎた分はきっちり返しますよ」
    「こわ……。オレが殴らなくてもいいようにがんばってぇ」
    「えぇ善処します」
     僕がいつもの調子を取り戻したことでフロイドも安心したようで、やっと普段通りの空気感が戻ってくる。僕は取り乱して悪かったなと少し気恥ずかしくなりながら、何ごともなかったように接してくれるフロイドにそっと感謝した。

    「あ、アズール」
    「はい?」
    「一応言っとくけど、昔起きたことアズールはいっこも悪くないからね。悪いのはテロ起こした奴だから」
    「……たしかに。その通りですよね」
    「そうだよ。それ以外にないから」

     前世の僕がジェイドを置いて死んでしまったのは、僕らが出会って愛し合っていたせいじゃないし、ジェイドを苦しめている原因は僕がジェイドを守れなかったからじゃない。
     全部テロリストが悪いのだ。
     そのせいで僕やジェイドが良心の呵責を覚える必要なんてどこにもない。僕らが愛し合っていたことは、なにひとつ悪くなんかない。
     だから今のジェイドが、僕と一緒にいることを恐れる理由なんてひとつもないんだ。

     フロイドのおかげで僕はやっと自分のすべきことを再認識した。
     僕まで過去に振り回されている場合じゃない。過去の記憶がない僕こそが、まっさらな気持ちで今のジェイドと向き合わなければ。

    「フロイド、僕、ジェイドときちんと話し合ってみようと思います」
    「うん?」
    「ジェイドの記憶をほじくり返して傷を抉るようなことは良くないと思ってましたけど、僕が知ってることをちゃんと伝えた方がいいかもしれないと思って。お前はどう思います?」
    「へー、いいんじゃない?」
    「ずいぶん軽いな……」
    「だってアズールはそうした方がいいと思ったんでしょ。ならそれでいいと思うよ。オレはアズールのこと信じてるし」
    「もしもの時はお前がいるし?」
    「んふふ、そういうこと。ジェイドがパニクったらオレがなんとかするから」
    「ふふ、それは頼もしいですね。信じてますよフロイド」
    「任せといて〜」とふにゃりと抜けた顔で笑ったフロイドが、僕には何よりも頼もしく見えた。
     本当なら三人で抱えているべき問題ではないのかもしれないけど、前世の話なんて一体誰が信じてくれるだろう。たとえ親身に話を聞いてくれる専門家がいたとしても、ジェイドが病院送りか薬漬けにされるのは免れない。
     二度とそうしたくないというフロイドの気持ちは痛いほどわかる。そうならない為にも、僕らにできることがあるなら最後までやり尽くしたい。
     できることなら僕らの手で、ジェイドの苦しみを終わらせてやりたい。


    「おはようジェイド、調子はどうですか」
     目を覚ましたジェイドは、まだぼうっとしたまま懸命に僕の顔を捉えようと意識を集中させているようだった。
     ジェイドにとって、毎日のこの瞬間は一体どんな感覚なんだろう。
     目の前にいるのが今の僕なのか昔の僕なのか、自分が誰なのか、もしかしたらジェイドは毎朝それを探りながら目を開けていたのかもしれない。
    「アズール……」
    「はい。痛みは良くなりましたか?」
     僕はジェイドの右手をそっと掴み、その手を包み込むように撫でてやる。ジェイドの右腕がきちんとあることを教えるように、僕が、死んでしまった過去の僕ではないことを伝えるために。
    「アズール」
    「なんですかジェイド」
    「すみませんでした……。ご心配をおかけしました」
    「お前が謝ることなんてないでしょう。落ち着いたようで良かったです。もう痛みは引きましたか」
    「はい……、おかげさまで」
    「薬を飲ませたのはフロイドですよ。僕は見ていただけですから」
    「それでも、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
    「謝るなと言ってるのに……。心配はしましたけど、別に迷惑ではありませんよ」
     これ以上なにを言っても平行線になるだけだと思ったのか、ジェイドは曖昧に笑っただけでもう言葉を返してはこなかった。きっと自分の存在が僕にとって迷惑だと本気で思っているんだろう。それなのに僕が気を使って表面的な言葉をかけているだけだと思っているに違いない。
     そう思うとなんだか無性に腹が立った。
     勝手に決めつけて勝手に諦めて、僕の気持ちまで無かったことにしようとするなんて。
     そうやって逃げてみたところで僕らが出会ったことは覆らない。僕の気持ちもジェイドの気持ちも、消えてなくなったりなしないんだ。

    「ジェイド、お前に話があります」
    「どうされたんですか改まって」
     一瞬目を開いたジェイドは、それを誤魔化すように眉を下げてふっと笑って見せた。まるで僕の話から気を逸らそうとするみたいに、わざと茶化すみたいに。
    「大切な話です。お前の、悪夢について」
     ジェイドが一瞬息を詰めた。
     その一瞬でなにを想像したんだろう。
     僕に問い詰められることだろうか、それとも、僕がそれを知っていると言い出すことだろうか。
     ジェイドにとってどちらなら良かっただろう。
     いやどちらでも、ジェイドにとっては最悪のことなのかもしれない。
     僕は一度大きく息を吸い込み、そして決意してジェイドに告げた。

    「僕は、お前が見ている夢を知っています」

     そんな顔は二度と見たくないと思うような、悲痛な表情だった。
     今この瞬間僕はジェイドを傷付けているだけなのかもしれない。だけど例えそうだとしても、この先をずっと一緒に笑い合う為に、僕らは前へ進まなきゃならない。
    「……あなたは、過去のことを」
    「すみません、覚えているわけではないんです。全部フロイドから聞きました」
     そう言った瞬間ジェイドの表情がスッと曇る。きっときつく口止めをしていたんだろうに、これが原因でケンカにならなければいいけど。
    「フロイドに怒らないでくださいよ。僕は聞いて良かったと思っているんですから」
     僕がそう言えば、さっきは少し怒っていたようなジェイドの表情が今度は悲しげに歪む。
     僕にも記憶があったならともかく、僕が他者の口から真実を知ってしまうのは、きっとジェイドにとって望まざることだったんだろう。僕を巻き込みたくないと思っていたジェイドは、絶対に僕に知られたくなかったに違いない。それなのにジェイドの意思に反して僕が知ってしまったことは、またひどくジェイドを傷付けただろう。
    「覚えていないのなら、どうしてあなたは僕のそばにいてくださるんですか」
    「どうして?」
     どうしてそんな簡単なことが、ジェイドにはわからないんだろう。
     僕に過去の記憶はない。
     僕は過去を憐んでここにいるわけじゃない。
     僕にとってのジェイドは目の前のジェイドでしかなくて、僕がそばにいる理由なんて、ひとつしかないのに。
     やっぱり伝えなきゃダメだ。
     今までだって何度も言ってきたつもりだったけど、ジェイドの心に届くまで、僕は何度でも伝えなきゃ。

    「お前が好きだから」

     弾けるように顔を上げたジェイドが、今はじめて聞いたみたいな顔で目を見開く。
     なんでだよ。
     何度も言ったのに、僕の気持ちなんて、お前は少しも信じてくれてなかったのか。

    「僕はジェイドのことが好きだから、ジェイドのそばにいたい。たくさん眠って欲しいし美味しいものだって食べて欲しい。そして元気になって、これからもずっと僕と一緒にいてほしい。それだけじゃだめですか」
    「……でも、僕はあなたに迷惑ばかり……」
    「迷惑なんかじゃないって言っただろう! 迷惑なんかじゃない。僕はただお前が大切なだけです。お前が苦しんでるのを見るのは辛いけど、迷惑じゃない。今は辛くても、一緒ならきっと乗り越えられます。僕は絶対諦めないからな!」
     目が逸らせないように、がしりとジェイドを捕まえた手に力が籠る。
     ほら痛いだろう。当然だ、僕らは生きてるんだから。
     でも、そんな痛みすら感じないみたいに虚ろな目でジェイドは言った。
    「僕は、ずっとダメでした。いくら希望を探しても、繰り返し繰り返しあなたを失い続けて、もう信じられるものがないんです。束の間のしあわせを手に入れたところで、僕はずっと、あなたを失う恐怖から逃れられない。……もう一度あなたを失うことになったら、僕はもう耐えられません」
     ジェイドの瞳は目の前の僕を捉えてすらいなかった。
     失うのが怖いというくせに、目を逸らして見ようともしないのはお前じゃないか。

    「ジェイド、僕を見なさい」

     ただそれだけに必死だった。
     ジェイドがどれだけ苦しんでこうなってしまったかもわかっているつもりだったのに、長い時間をかけてゆっくり付き合っていくつもりだったのに、そんなことはもう考えられなくなって、たとえこれが僕のエゴでしかないとしても、なんとかして僕を見て欲しくて、過去の自分からジェイドを取り戻したくて、僕は必死だった。

    「僕は、ここにいるだろ!!」

     僕の声にびくりと身を引いたジェイドの目が、大きく開かれて僕を見た。

    「夢で死ぬのは僕じゃないしお前の恋人でもない。前世の、別人の記憶だ! 今の僕は死んでないしお前は何も失ってない。信じられるものがないだって? バカにするな! 過去の記憶なんかに縛り付けられるくらいなら僕を信じろよ! 今お前の目の前にいるのはこの僕だろ。勝手に僕が死ぬ妄想をするな! 失うのが怖いから最初から見ないふりをするなんて僕は絶対に許さないからな!」
    「……アズール、こわいです」
     目を見開いたままジェイドが僕を見ていた。
     驚いてまんまるになった目が、きちんと焦点を結んで、僕を。
    「だってお前が僕を無視するから……」
     僕は声を荒げてしまったことが恥ずかしくてぶすくれながら、でもジェイドが僕を見ているのがうれしくて自然と頬が緩んでしまう。
    「大きい声を出してすみませんでした」
     僕がいつものトーンに戻るとジェイドもほっとしたのか、張り詰めていた空気がふっと緩んでジェイドも少しだけ笑顔を見せてくれた。
    「ジェイド」
     今度は驚かせないように、なるべく優しく名前を呼んでその手をそっと掴む。
    「僕は何も覚えていないんです。前世の自分がどれだけむごい死に方をしたのかも、過去のジェイドがどれだけ愛してくれていたかも、僕自身の気持ちさえ、なにも」
     ジェイドがちゃんと僕の目を見て僕の声を聞いてくれていることを確かめながら、僕はもう一度伝えた。
    「それでも、僕は今ここにいるジェイドがすきです」
     やっと僕の声が届いたみたいに、ジェイドが照れくさそうにはにかんだ笑顔を見せる。でもやっぱりすんなりと納得はできないようで、その笑顔はそのまま困惑に変わる。
    「あなたは、運命なんて言葉は嫌いだとおっしゃいましたよね。たとえあなた自身に記憶がないとしても、また過去と同じ相手を好きになるなんてあなたはお嫌なのではありませんか? それこそ運命に引きずられているようだ。僕はあなたに、過去とは全く別の人生を生きて欲しいんです」
    「僕らが出会わなかったことにして? もう出会ってしまったのに?」
    「……そうです。今ならまだ間に合うでしょう」
    「そんなわけないだろ。もうとっくに手遅れですよ」
    「アズール、あなたに手遅れなんてことはありません。あなたならこれからいくらでも変えられる」
    「なら何も問題ないじゃないですか。僕は僕にとって一番いい未来を、お前と一緒に切り拓いていく自信があります」
     無責任に大口を叩いているわけじゃない。
     僕はこれまで地道に積み重ねてきた知識と経験を武器に、本当にそうできると信じてる。
    「確かに僕は、はじめから定められている運命なんてものは好きではありません」
     僕は前世なんて知らなかった。
     ジェイドは記憶があったのに僕に会いたくなかった。
     何も知らない僕と、出会いを拒絶したジェイド。
     僕らがこれまで重ねてきた人生の一つひとつの選択は、決して再会のためのものではなかったはずだ。
     それなのに、僕らはまたこうして出会った。
    「僕たちは、自分が選んできた道で出会いを手繰り寄せたんですよ。これが運命でもそうでなくても、僕たちがこうしてまた出会えたことに意味があると思ってはいけませんか」
     
     人生に無駄な出会いなんてひとつもないなんて、そんな言葉はきれいごとだと思っていた。
     僕のこれまでの人生で出会ってなんの役にも立たなかった奴らなんて腐るほどいる。それでもそのすべての出会いがあるから今ジェイドに辿り着いたのだとしたら、それは僕にとって確かに価値のあることだったんだ。

    「ジェイド、僕はここにいます。それでもまだ、お前は過去だけを見て生き続けるんですか」

     どうか僕を選んでと、祈るような気持ちで僕はジェイドに手を差し出した。




     できることなら、もう二度と会いたくなかった。








     物心ついた頃からすでに見始めていたその夢が、はじめなんのことなのか僕には全くわからなかった。
     でも眠るたび、目の前でうつくしい人がぐちゃぐちゃになってしまうのがただただ恐ろしくて、僕は毎夜泣き叫んでばかりいた。
     ただでさえ手のかかる双子だったと言うのに、みっつになってもよっつになっても夜泣きの止まないこどもの相手をしていた両親は本当に大変だっただろう。思い返しても申し訳なくなるけれど、いくつになったって僕がその夢に慣れることはなかった。
     けれど年を重ねるにつれ、その夢に出てくる人の記憶が断片的に蘇ってくるようになった。夜に見る夢とはちがう、白昼夢のようだったり、はたまたついこの間起きたことをふと思い出したようだったり、彼の記憶は僕の中にしんしんと、降り積もるように増えていくのだった。
     そしてそれが前世の記憶だと気付いたのは、僕がフロイドに夢の内容を話した時だった。事細かに話しはしなかったのに、僕が話した人物の特徴だけでフロイドはその名を口にした。
    「アズール」を、僕以外の人が彼を知っていた驚きとともに、僕の記憶に一緒に現れるフロイドが、僕の兄弟の前世なのだとその時確信した。
     僕とフロイドと、そしてアズールは、過去に確かに生きていたんだ。
     その確信が、その後ずっと僕を苦しめることになる。 
     僕たちが過去に生きていたということは、僕が毎夜見続ける夢が、過去に実際に起きたということだ。つまり僕は、前世でアズールと愛し合い、そして目の前で失った。



     それはそれは凄惨な現場だった。
     アズールは僕の後ろにいた犯人の不審な行動にいち早く気付き、僕の右腕を掴んで乱暴に引き寄せた。そしてほとんど投げ飛ばすように僕を地面に叩きつけた瞬間、咄嗟に魔法障壁を張った。
     自分のことなど顧みず、僕を守るためだけに。

     アズールひとりなら自分の身くらい守れなかったはずはないのだ。
     もしも僕が先に気付いていれば他に対処のしようもあったのに、その日のことを、どれだけ後悔したか知れない。
     もしあの日あの場所に行っていなければ。
     僕が一緒じゃなければ。
     僕たちが恋人同士でなければ。
     僕がアズールに恋をしていなければ。
     僕とアズールが、出会っていなければ。

     自分の右腕がなくなったことにも気付かず、からだのほとんどが原型も留めないほどに吹き飛んでしまったアズールの肉片を残った左手でかき集めながら、僕はこの世の全てを恨んだ。
     何が起きたのかも処理できない鈍った頭では、犯人を捕らえることなんて思いつきもしなかった。辺り一面の血の海の中、響き渡る阿鼻叫喚を背に、僕はついさっきまでアズールだったもので手を真っ赤に染めながら、どうしてどうしてと、呪詛のように呟いていた。

     どうして僕たちは同じ海に産まれてしまったんだろう。
     どうして同じ年で、同じ学園に通ってしまったんだろう。
     同じ時を過ごし、彼を愛して、彼に愛された大切な日々が、その瞬間全て恨めしいものに変わってしまった。
     僕らが出会いさえしなければ、アズールがこんな風に損なわれることはなかったのに。

     だからもう、二度と出会いたくなかった。
     愛したくなかった。
     愛されたくもなかった。
     もし彼がどこかで生まれ変わっていたとしても、今度こそ僕と出会わず、お互いを知ることもなく、しあわせに生きていて欲しかった。



     それなのに、運命とは残酷なのだ。
     これを運命だといえばまたアズールは嫌がるかもしれないけれど、運命と言わずしてなんと言うのだろう。
     せっかく僕は人魚でも魔法士でもなく、魔法すらない世界に生まれ変わったというのに、そこにまた、彼がいるなんて。

     大学の入学式の日、違う学部のフロイドが目を輝かせて僕の所に走ってきた時、まさかその名前を聞くなんて思いもしなかった。
    「アズールがいた!」と、大興奮して僕の手を引くフロイドを、僕は思い切り振り払って拒絶した。
     絶対に会わないと言う僕にフロイドはなんでだよととても怒って、生まれ変わって以来一番の大喧嘩をした。
     フロイドが一番近くでずっと僕を心配してくれていたことを知ってる。
     フロイドはいつも僕のそばにいて、励まして、常に僕の一番の理解者でいてくれた。
     だからこそフロイドは、僕がアズールに会えばきっと安心すると信じていたんだ。あんな風に別れた恋人が元気に生きていることを知れば、きっと僕の悪夢もなくなると、フロイドはそう信じていた。
     でも僕はそうは思えなかった。
     出会ってもしまた恋をしてしまったら、また同じことになったら、今度こそ僕は正気ではいられないだろう。
     僕は強かった前世の僕とは違う。
     怖いもの知らずで物騒な人魚なんかじゃなくて、臆病で弱いただの人間だ。

     だから僕は徹底的にアズールと距離を置いた。
     間違っても会わないように細心の注意を払って、視界の隅にも入らないようにいつも神経を使っていた。
     そうまでして会いたがらない僕に、フロイドも結局は折れて僕の気持ちを尊重してくれた。
    「でもオレは関係ねーから仲良くするね」とさっさと友達になってしまったのはさすがと言うかなんと言うか、フロイドらしくてすこしだけ羨ましかった。そうしてあっという間に仲良くなってしまったフロイドから、アズールの話をあれこれと聞くだけで僕は楽しかった。
     自分から会いに行く勇気はないけれど、アズールがまたフロイドと一緒に、楽しく過ごしてくれているのが、僕にとっては本当にうれしいことだったんだ。
     
     入学して一年はそんな風になにごともなくやり過ごして、でも運命は、唐突に訪れるのだ。
     大学の構内でフロイドを探していた僕は、その日、ついにアズールを見つけてしまった。長身のフロイドの影に隠れて、時折ちらりとしか見えないその横顔に、僕の目は一瞬で奪われた。

     あぁアズールだ。
     アズールが生きている。
     アズールが、生きて僕の目の前にいる。
     
     それだけで、僕はどれだけ救われただろう。
     絶対に会いたくないと思っていたのに、決して会わないと心に決めていたのに、その存在は今も間違いなく、僕を照らしてくれる光だったんだ。
     きらきらと、彼の周囲だけやたらと輝いて見えた。
     ただの錯覚なのかとうとう僕の頭がおかしくなったのか、僕はその日生まれて初めて、心から美しいと思う人に出会ったのだ。

     思えばその日から、僕の心はずっとアズールでいっぱいだった。
     一目惚れだなんて言ったら、僕の何を知っているんだとアズールは怒るだろうか。でも彼を見たのはその時が初めてでも、僕はいちねんもずっとフロイドからアズールの話を散々聞かされてきたのだ。アズールの好きなもの嫌いなもの、得意なこと苦手なこと、そして彼が思い描く将来も、僕はフロイドを通してアズールのことをよく知っていた。
     そしてアズールを初めて見たその日、今まで少しずつ集めてきたピースが急速に音を立ててはまり出し、僕の中にはすっかりと完成されたアズールが居座ってしまった。
     それからと言うもの、僕は大学でいつもアズールを探すようになった。
     積極的に会うつもりなんて全くないのに彼のことが気になって、会いたい気持ちが膨らみすぎて、一目でもいいからその姿を見たかった。だけど実際に会えばどうしていいかわからず、僕は緊張して目を逸らすことしかできなかった。視界に一瞬アズールが見えただけでも心が躍って顔が緩んでしまうのに、そんな状態で一体どうやってアズールに接すればいいんだろう。もう昔のような幼馴染でもなんでもない赤の他人の僕は、あの頃のように気安く名前を呼ぶことすらできなかった。
     そんなことを言えばフロイドは「呼べばいいじゃん」と当然のことのように言うけれど、僕にとってそれがどれだけ特別なことなのかフロイドは全然わかっていない。僕がそれをこんこんと説き伏せたところでフロイドは聞く耳持たず、「考えすぎだよ」なんて一言で流そうとする。それがフロイドにとっては簡単なことでも、僕にとっては人生を左右するくらい大切なことなのだ。
     ただ一方的に好きでいるだけなら僕はまだ諦められる。大学を卒業してしまえば今度こそ接点なんてどこにもなくなって、彼は最初から僕なんて知らなかったみたいに別の人生を歩んでいくだろう。
     でも、もしまたアズールが僕の名前を呼んでくれたら。
     惜しくなってしまわないだろうか。
     二度と関わらずに生きていくと決めたのに、もしもまたアズールが僕をすきになってくれたら、その手を掴まずにいられるだろうか。
     掴んでしまったら、またいつか失うかもしれないのに。
     
     アズールが僕を好きになるなんて、ありえない妄想だと思いながらそれを想像しては頭を振った。
     やっぱり僕はこれ以上深入りするべきじゃない。それが僕の妄想だとしても、万が一にも現実にならないために全ての可能性を潰さなくては。
     僕は時々遠目にアズールを見て、フロイドから話を聞ければそれで十分だ。



     でもアズールをはっきりと認識して以来、僕の悪夢はゆっくりと悪化していった。それまでは誰かと一緒にいればなんとか眠れていたのに、だんだん眠れる時間が短くなり、より鮮明な夢を見るようになった。それでもなんとかだましだまし細切れな睡眠は取れていたのに、女性と一緒でもほとんど眠れなくなると、僕は途端に彼女たちが煩わしくなった。
     眠るための便利な抱き枕でしかなかった彼女たちが、健やかな睡眠をもたらしてくれないなら僕にはもう必要ない。僕から連絡をすることもなく彼女たちからの電話も無視していたら、学内で付き纏われることになってそれはそれは面倒だった。
     僕はただゆっくり眠りたいだけなのに。
     かしましく喋る枕なんて僕には必要ないのだ。
     何日も眠っていなかったせいでロクに頭が回らず誰の言葉も入ってこない。僕の周りに群がった女たちが何事か騒ぎ立てていたけど、僕はただこの喧騒が早く止めばいいのにと思いながらその場に立ち尽くしていた。もう何もかもどうでもいい。
     ただゆっくり眠りたい。

     ぐにゃりと視界が歪んだ次の瞬間にはもう目の前が真っ暗になっていた。意識的に眠ることが不可能になっていた僕の体は、どうやら限界を超えて失神するに至ったらしい。暗転していく世界のどこかから、誰かが僕を呼んだような気もしたけれど、僕はそれを判別する能力すら失っていた。
     それなのに、一層やかましくなった女達の声で意識を取り戻した時、僕は床に倒れてなどいなかった。
     僕は何かにしがみついてまだなんとかその場に立っていて、自分が気を失っていたことにすら気付かず呆然としていると、しがみついている何かから声がした。そしてその声の主を見下ろせば、それは他の誰でもなくアズールその人だった。
     驚きのあまり、本当に心臓が止まったかと思った。
     突然のことにわけもわからず、僕が一言も発せずにいる内にアズールが彼女たちを追い払ってしまうと、その場には僕とアズールのふたりだけになった。
     そしてその手はまだ僕を支えるように背に触れたまま、アズールが心配そうに僕を見上げる。そんな風に見つめられて、目を合わせられるはずなんてなかった。

     アズールが僕に触れている。
     触れてそして、彼の瞳が、僕を映している。

     一度にあんまりたくさんのことが起こりすぎて、鈍り切った僕の頭ではとても処理しきれなかった。
     アズールがかけてくれる言葉になんの反応もできずガチガチに固まってしまって、かろうじて聞き取れたのは「フロイド」という名前だけだった。フロイドが来ると言われたことだけはなんとなく理解して、その瞬間僕は床に崩れ落ちてしまった。
     何が起こっているのかさっぱり理解できないけどフロイドが来てくれるならもう大丈夫だ。あとのことはフロイドがなんとか上手くやってくれるだろうと思うと気が抜けて、へたりこんだ僕にアズールがまた心配そうに声を掛けてくれた。
     こんな僕に「大丈夫ですか?」なんて、アズールはどこまで慈悲深いんだろう。僕なんて話したこともないただの他人なのに、こんな風に駆けつけて、僕を抱き止めて……
     少しずつ冷静になってきた頭で今起きたことを思い返してみると、僕はついさっきまでアズールに抱きしめられていて、あまつさえ自分からアズールにしがみつくような形になっていたような気がする。それに僕が倒れる一瞬前、僕の名前を呼んだのは、もしかして。
     アズールにはなんとか「だいじょうぶです」と返したけれどなにも大丈夫なんかじゃなかった。
     大丈夫なわけあるか。これまでずっとアズールに認知されないように極力避け続けてきたのに、アズールはしっかりと僕を認知していたし倒れそうになった僕をわざわざ助けに来てくれた。それも僕の名前を呼んで、僕に触れてまで。
     僕の鈍った頭がはっきりとそれを認識すると、その途端ありえないくらい鼓動が跳ね上がった。バクバクと鳴る心臓が煩いくらいに響いて、全身の熱が一気に上がっていく。
     そして今この瞬間もしゃがみ込んだ僕の上からアズールの視線が突き刺さってきて、もうどうしたらいいかわからなかった。このままでは心臓が爆発して死ぬかもしれない。あぁどうしよう。とにかくフロイドが早く来てくれますようにと一心に願っていたら、首筋に触れたひやりとした感覚に僕は勢いよく顔を上げた。
     見上げるとアズールがびくりと手を引いたところで、今僕の首筋に触れたものがアズールの指先だったのだと気付いてしまう。
     あぁもうだめだ。
     僕は全身の血が沸騰して死ぬに違いない。

     どのくらいそのまま固まっていたのか、全くわからないけどその内にフロイドが来てくれて僕は急死に一生を得た。フロイドがなんとか上手くアズールを帰してくれて本当に助かった。
     アズールがその場を後にしてフロイドとふたりきりになると、やっと緊張が解けて動悸もおさまって、そして僕の横にしゃがみ込んだフロイドに、「とてもいい匂いがしました」と報告したらポカリと殴られた。
     あぁ、アズールと違って僕の兄弟は慈悲がない。



     その日は久しぶりにフロイドと一緒にベッドに入ってたくさんアズールの話をした。大人になってもこうして添い寝してくれるフロイドはやっぱり慈悲深い兄弟だ。

    「ねぇ、まだアズールに告白しないの」
    「しませんよ。するつもりはありません」
    「いじっぱり」
    「なんと言われても僕の気持ちは変わりません」
    「なんで? ……いやわかるけどさぁ、もうお互い知ってんのに避ける意味なくね?」
    「ただの知人でいるのと恋人になるのは全然違うでしょう」
    「告ったからって恋人になるわけじゃないじゃん。バッサリフラれるかもよ?」
    「ふふ、それはそうですけど、万が一にもそうはなりたくないので」
    「そんなに怖がることないのに」
    「僕はフロイドから話を聞けるだけで十分です」
    「それはうそ。いつもアズールのこと探してるくせに。ほんとはもっと会いたいんでしょ」
     フロイドにそう言われると、自分自身でもわからなくなって口を噤んでしまった。
     
     二度と会いたくなかった。
     でも会ってしまって、会ってしまったら、焦がれてしまった。
     きらきらとひかるアズールをもっと見ていたくて、でもアズールに近付けば近づくほど、鮮明になっていく過去の記憶が恐ろしくなる。
     これはもう疑いようのない事実だけど、本物のアズールを知ってから、僕は徐々に代替品では眠れなくなってしまった。今までは人の温もりがあれば安心できたのに、その熱がアズールのものでないことを、僕ははっきりと認知してしまったから。
     ニセモノでは眠れないのに、失うことが怖くて本物のアズールには触れられない。
     会いたくないけど会いたい。
     会いたいけど、失いたくない。
     僕にとって、得ることと失うことはひとつになってしまったのだ。
     長い間見続けた悪夢は、僕に永遠の幸福などないことをこれでもかと植え付けた。
     はじまれば終わる。
     しあわせはある日突然奪われる。
     そんな苦しみを、僕はもう二度と経験したくなかった。 
     だったら最初から、なにも始めなければいい。



     フロイドと一緒だったその日はなんとか細切れに眠れて、一日ゆっくりと休んで僕はまた大学へ行った。フロイドにはもっと休めばいいのにと言われたけど家にいてもすることもないし、一人でただぼうっとしているより講義でも聞いていた方が気も紛れる。
     そう思って行ったのになんの因果か、僕はバッタリアズールに出くわしてしまった。その日は探していたわけでもなかったのに、本当に偶然。
     あまりの気まずさに僕はパッと目を逸らし、アズールも声を掛けてくる様子がなかったからそのまま通り過ぎてしまおうと思ったけれど、ふと思い至って僕はアズールを呼び止めた。
     あの日のお礼を言わないのも失礼だし、でもそれよりも、僕はきちんと自分の意思を伝えておかなければならないと思った。僕のことを失礼な奴だと嫌ってくれたらそれでいい。こんな奴助けてやる必要なんかないとアズールが無視してくれれば、今後僕らに接点ができることもないだろう。
     それなのにアズールは「はいわかりました」と納得なんかはしてくれなくて、これでもかと正論で言い返してくる姿に心の中ではワクワクしてしまった。負けず嫌いで強情で、こういう所は変わらないんだなとうれしくなってしまうけど、僕は極力感情を出さないように顔を引き締めて更に言い募る。でもそれが逆効果だった。僕の言いぶんがよほど気に入らなかったらしく、アズールは苛立ちも隠さず僕を睨みつけて言い放った。

    「ジェイド」と。

     また、心臓が止まるかと思った。

     この間ははっきりと聞き取れなかったけど、今度は明確に、僕の目を見てアズールが、僕の名前を呼んだ。
     感情を隠して表情を取り繕うどころではない。
     また全身の熱が一気に上がって、顔が火照っていくのが自分でもわかる。
     そんな僕を不審に思ったのか、アズールが僕の方に手を伸ばしたから僕は反射で飛び退いてしまった。
     またアズールに触れられたりしたら今度こそ卒倒するかもしれない。イラっとした様子のアズールが悪態をついていたけど、その怒りはなぜか一瞬で消えて今度はアズールがにやりと笑う。そしてそのまま僕の方へ一歩踏み出すと、彼はもう一度僕を呼んだ。

    「ジェイド」と、さっきよりも優しく宥めるようなその声に、僕はもうたまらなくなって気付くとその場を逃げ出していた。

     アズールにもう一度名前を呼んでもらえるなんて思ってもいなかった。
     過去には数え切れないくらいに呼びあった僕らの名前。前世のアズールが人生で最も多く呼んだのは僕の名前だと確信を持って言える。僕らはそれだけ近くにいて、長い時間をずっと一緒に過ごしてきた。愛する人に一番に呼んでもらえることが、僕にとってどれだけ幸福だったか。
     でも生まれ変わった今、僕はその幸福をはじめから放棄するつもりだった。
     もう二度と呼んでもらえなくてもいいから、アズールは僕とは別の人生を歩んで欲しかった。今度こそアズールはアズールらしく最後まで強欲に突き進んで、誰にも害されることなくその一生を全うして欲しかった。
     僕のために自分を犠牲にするなんて、そんな悲劇が二度と繰り返されないように。
     やっぱりもうだめだ。
     これ以上アズールに関わってしまったら、僕はもう戻れなくなってしまう。そうならない為にもこの気持ちにキッパリと蹴りをつけなくてはと、僕はそう決意したのに。

     その日家に帰ると、アズールがいた。
     そして僕に、「おかえりなさい」と。

     慌てて振り向くとそこにはニタリと笑うフロイドがいて、僕は嵌められた事に気付き愕然とした。
     本当に最悪だ。
     フロイドは僕の気持ちを尊重してくれると思っていたのに、まさかこんな手段に出るなんて。
     僕が冷たく睨みつけても、全く臆する様子のないフロイドと一触即発の空気になる。アズールの手前手荒なことはしないけれど、今ふたりになったら入学以来の大喧嘩になりかねない。
     そんな風に睨み合う僕らを、止めたのはアズールだった。そして三人で食事をしないかと言うアズールに、僕はなにも言えなくなってしまった。

     また僕ら三人で揃って食事ができるなんて、考えたこともなかった。
     生まれ変わってまたこんな日が来ることを、望んだこともなかった。
     それなのに今この瞬間に起きた奇跡のようなできごとを、僕が拒むことなんて到底できはしなかった。
     
     誰も話さない食卓はあの頃とは何もかも違って、気まずい雰囲気ばかりが漂う空気の中で食事をするのはとても居た堪れなかったけど、それでも黙々と食べ進めるアズールを僕はチラチラと盗み見ていた。
     多分カロリーやらなんやらのことを考えているのだろうけど、その割にはカトラリーを口に運ぶ手が止まらない。そしてほとんどフルコースのような品数を食べ終えて、フロイドが最後に振る舞ったデザートを口にした瞬間もうだめだった。
     ずっと顰めっ面をしていたアズールの表情が、ついに堪え切れなくなったようにパッと輝く。そしてフロイドを褒め称えたかと思えば、今日の料理のひとつひとつの品評が止まらなくなってしまうのだからおかしくてたまらなかった。僕はついに肩を震わせて笑い出し、それに気付いたアズールがハッとして照れくさそうに誤魔化し笑いをする。
     アズールは恥ずかしそうだったけど、僕はアズールがフロイドの料理を喜んで食べてくれたのがうれしくてたまらなかった。そして食への探究心が相変わらずなところもうれしくて、さっきまで最悪な気分になっていたことなんてすっかり忘れてしまっていた。
     そうしたら、どうして今までそうやって話してくれなかったのかと言い出したアズールにぽかんとしてしまう。その上そんなに僕のことが嫌いなのかと言われて、僕は驚きのあまり焦って全力で否定してしまった。
     僕のことをアズールが嫌いになってくれればいいとは思っていたけど、まさか僕がアズールのことを嫌いだと思われていたなんて。そんなことがあるはずもないのに、アズールのとんでもない思い違いに僕はサッと血の気が引いてしまう。
     そうしたらこの機を逃すものかとばかりにどんどん追求されて、僕はいよいよ困り果ててしまう。アズールと関わらない為にはそう思われていた方が好都合だと言うのに、僕がアズールを嫌いだなんて、どうしてもそう思われたくはなくはなかった。それに僕の不用意な行動がアズールを傷付けていたなんて知ったら、僕は問われるがままに白状するしかなかった。
     洗いざらいぶちまけたら僕はもう尻尾を巻いて逃げるしかない。また三人一緒に食事ができたこの夜の思い出を胸に、僕はこれからを生きていける。アズールと関わるのはもう本当にこれで最後のつもりで別れを告げたのに、アズールはそのまま僕を逃がしてくれたりはしなかった。
     僕は大丈夫だから気にしないでくださいと言ったら、僕のことが心配なんじゃなく自分がそうしたいだけだと宣うアズールに涙が出そうになる。
     あぁなんてワガママで傲慢なんだろう。
     僕は関わらないで欲しいと言っているのに、僕の言い分なんかは無視してアズールは我を押し通すのだ。
     いつも自分の都合で僕を好き勝手に振り回して、僕はそんなアズールが、狂おしいほど愛しかった。

     その後のことはもう、何がなんだかわからなかった。
     僕もお前を好きだと言ったらどうするだとか、僕と友達になりたいだとか、これ以上僕を悩ませることは言わないで欲しい。僕はもうあなたと関わりたくないんだ。関わっちゃいけないんだ。
     僕はもう、これ以上アズールを好きになりたくない。
     結局それは無理ですと逃げるようにリビングを出て、その後聞こえてきたフロイドの笑い声に僕は耳を塞いだ。
     これ以上アズールとの楽しい思い出なんて作りたくない。
     あの頃が戻ってきたような錯覚に陥って、ズブズブとハマってしまえばいつか取り返しがつかなくなる。だから僕は背を向けて逃げ出したのに、アズールはそんな僕を容赦なく追いかけてきた。
     どうして放っておいてくれないんだろう。
     何度断っても嫌な顔をしても僕の前に現れて、そして僕に笑いかけてくれた。懲りもせず毎日僕を探して当てては他愛もない会話をしたり、時には一緒に食事までして、僕は少しずつそれに慣れてしまっていた。そして今日はいつ来てくれるだろうかと、期待してしまっている自分がいた。
     会えればうれしくて思わず顔が綻ぶ。慌てて引き締めたってもう手遅れで、そんな僕を見てアズールがうれしそうにするのを見るのは、しあわせだった。



     でもある日、アズールが女に絡まれているのを見た瞬間、僕の理性は焼き切れてしまった。
     相手がか弱い女性だなんてことは関係ない。アズールにわずかでも害を成す存在が許せなくて、僕はその細腕を捻り上げた。女が恐怖に震えて悲鳴を上げても僕の怒りが収まることはなく、アズールがやめろと言うから仕方なく手を離したけど、アズールに止められなければ僕はあのままその腕を折っていたかもしれない。
     僕はそんな自分が怖かった。
     今まで一切法に触れるようなこともなく真っ当に生きてきたのに、アズールのことなるとこんな風に簡単に理性が飛んでしまう。アズールを損なうすべてのものが許せなくて、ブレーキの効かなくなった僕はきっといつかアズールにまで迷惑をかける。こんな僕はやっぱりアズールのそばにいるべきじゃない。
     
     それなのに、アズールは「うれしかった」なんて言う。
     僕がアズールを大切に思うことも、僕がその名を呼ぶことも。本当にうれしそうに、しあわせそうに。
     でも、この笑顔はいつか奪われるかもしれない。
     なくなってしまうかもしれない。
     僕はそればかりを恐れて、純粋な気持ちでアズールを愛せない。
     そんな後ろ向きな僕といるのは、アズールにとっていいことなはずがない。
     それでも諦めないと言ってくれるアズールを見るのが辛かった。
     僕にはどうしても応えられない。
     アズールを、僕の暗い人生へ巻きこむなんてとても。



     僕はまたアズールと距離を置くようになって、それは虚無を噛み締めるような日々だった。
     連日襲う悪夢でろくに睡眠が取れず、処方された薬の限界量を超えて摂取してようやく短時間眠れる程度。思考は鈍りなにをするのも億劫になって、ただぼんやりとしているだけの時間が増えた。それでもひとりで家にいたくはなくて、なんとか大学に通ってはいたけどとても有意義な時間を過ごせているとは言い難い。
     そんな時、カフェで突然アズールが向いの椅子に座ってきて、僕が席を立とうとすると「ジェイドと同じ席に座りたい」なんて言うから、僕は性懲りも無く浮かれてしまった。
     あぁ僕はなんて愚かなんだろう。
     アズールから逃げ出したのは自分なのに、僕はまだ希望を捨て切れていない。またこうしてアズールが声を掛けてくれることを、いつも心のどこかでいつも期待している。

    「僕の恋人になってください」

     信じられない言葉が聞こえて、僕は息を止めた。
     息を止めても心臓はあり得ないほど早鐘を打って僕を混乱させるけど、ここは冷静に対処しなければと僕はなんとか言葉を繋いだ。
     でも何を言ってもアズールはめげなくて、どうしてこんなに強くいられるんだろうと不思議に思う。過去のアズールはこんなに強かっただろうか。
     仕事においては常に自信たっぷりに、時にはハッタリをかましてどんな時も大胆に我が道を貫いていたけど、プライベートな人間関係について、彼はことさら臆病だった。
     僕の気持ちを中々信じてくれず、僕の愛を受け入れてもらうまでどれだけ時間がかかったことか。恋人になってからだってまだアズールは僕の心が移ろうことを疑っていたし、彼から素直な愛情を伝えてもらうまでには更に時間がかかった。もしも過去の僕が一度でもアズールを拒絶しようものなら、アズールはきっと僕から離れて二度と戻っては来なかっただろう。
     でも今ここにいるアズールは、断っても断っても何度でも僕に会いに来てくれる。そして生まれて初めて恋をしたのが僕なのだと、臆することなく伝えてくれる。
     名前を呼ばれるだけで、視界に見つけるだけで、ドキドキして自分だけのものにしたくなるのだと、真っ直ぐに伝えてくれるその瞳をとても直視できなかった。
     僕も同じ気持ちですと、抱きしめてしまいたかった。でも目を見たら我慢できる気がしなくて目を合わせられない僕に、アズールは言った。

    「僕を見て。そんなに怖がらないで、力になりたいんです」

     そう言われた瞬間僕は反射的に顔を上げてしまった。
     僕のユニーク魔法の詠唱。それを口にしたアズールに、僕は目を見開く。
     かつて、まだ海の中で僕らがほとんど話したこともなかった頃、アズールはとても臆病なこどもだった。僕らが面白がってその蛸壺を覗くたび、アズールは必要以上に過敏に反応して僕らを追い払った。その頃のアズールは自分をいじめていた奴らを見返してやるのに必死で、弱い自分を見せないように誰かれかまわず虚勢を張って、いつも何かに怯えていた。
     でも蛸壺に散乱した難しい魔導書や、僕にはとても作れない魔法薬、それにたくさん書き取りをした貝殻を見て、僕はアズールがとても才能溢れる努力家なことを知っていた。
     そんなに怖がらなくてもアズールはすごい子なのに。僕は早くそれに気付いて欲しくて、怖がりな彼の力になりたかった。

     それを今、アズールが僕に言ってくれるのか。

     少しだけ、賭けをしてみてもいいかもしれないと思った。
     僕らが出会ったことが変えられない運命なら、僕はこの出会いを受け入れよう。アズールもそれを信じてくれるなら、彼の手を取ってみてもいいかもしれないと。

     そうして問いかけて返された答えに、僕はうれしくなってしまった。
     未来は自分で切り拓いていくからこそ面白い。
     最初から定められた運命なんてクソ食らえだと言い切った彼を、それでこそアズールだと手を叩いて賞賛したい気持ちだった。ゲームのサイコロひとつにも自分の道を左右されたくないアズールが、運命など受け入れるはずもない。
     やっぱりアズールはアズールだったと感服する一方で、同時に、アズールは僕とは別の人生を生きるべきなのだと確信した。
     前世と同じ相手に恋をするなんて、ベタな恋愛小説みたいなロマンチックな運命をアズールは望まないはずだ。これでようやく決心がついた。
    「僕はあなたの恋人になることはできません」
     そう告げて、僕は今度こそアズールへの思いを断ち切った。



     それからもほとんど眠れない日が続いて、もう眠ると言うよりは限界に達した体が気絶するという方法でしか睡眠が取れなくなっていた。
     その日、フロイドに起こされた僕はなぜか大学の図書館にいて、どうやってそこに行ったのかいつから気を失っていたのかも全くわからない状態だった。それなのにいつもより頭がすっきりとしていて、ずいぶん久しぶりに熟睡したような感覚を感じた。
     でもその日が、地獄の始まりだった。
     図書館で眠っていた時は悪夢を見た記憶もなく、僕は本当にぐっすりと深い眠りについていて、「安眠」という言葉がぴったりの健やかな睡眠が取れたのに、その日帰ってからというもの、僕は遂に一睡もできなくなってしまった。
     ひとりでベッドに入ると不安で不安でたまらなくて、目をつぶっただけでも悪夢の映像が浮かんできてしまう。そうなればもう瞼を閉じることすら恐ろしく、フロイドがいてくれてもダメだった。以前ならフロイドが抱きしめてくれれば安心できたのに、今はもうフロイドでも「ちがう」と感じてしまう。
     僕に必要なのはこれじゃない。
     あの日はちゃんと眠れたのに、今の僕には確実に何かが足りない。でもそのなにかがわからなくて、僕は混乱し、おかしくなっていった。
     そして負のスパイラルが起こり始めると、ここのところずっと落ち着いていた右腕の痛みが再発して毎日のように腕に激痛が走り、痛み止めを飲んでも効かないその腕を包丁で切り落とそうとしたこともあった。そうやって日に日に狂っていった僕の記憶はだんだん途切れ途切れになって、次に意識を取り戻した時、僕の手は真っ赤な血で濡れていた。
     そして目の前にはアズールがいて、僕の血まみれの手をアズールの白い手が優しく包み込み、なぜ握りしめているのかもわからない大きな破片をそっと取り除いてくれた。
     僕はわけがわからなくて、でも目の前にアズールがいることだけは確かで、次から次へとあふれる涙が止まらなくなってしまった。
     僕の目の前でぐちゃぐちゃに飛び散ってしまったはずのアズールが、きちんとアズールの姿でここにいる。僕はその形を確かめるようにしがみつき、力を込めても崩れてしまわないその腕が、僕を抱き返してくれた。
     そうしていつの間にか眠ってしまったあとも、アズールの温もりがずっと僕を包み込んでくれていた。



     なんだかものすごく寝過ぎてしまった気がして目を開けると、隣では無防備な顔をしたアズールが眠っていた。今何時だろう。というか今日は何曜日だったっけ?
     時間を確かめてアズールを起こして、仕事に行く支度をしなくてはと思うのに、アズールがあんまりにもすやすやと眠っているものだからその寝顔から目が離せなくなってしまった。なぜかこんなに健やかなアズールの寝顔は久しぶりに見た気がする。毎日一緒に寝てるのにおかしなものだなと思いながら、しあわせそうなその顔を見ているとどうでも良くなってしまった。
     しばらくそうしてじっと眺めているとアズールが目を覚まして、僕はまだ眠そうなその顔に手を伸ばし、いつものようにおはようのキスをしようと顔を寄せた。でも僕のキスはすんでのところでアズールの手に阻まれてしまって、スッと体を引いたアズールがそのままベッドの上で体を起こした。

     それから、アズールに促されて混濁していた意識が徐々にもどってくると、僕は「今の僕」のことを思い出す。
     僕は今大学生で、フロイドとふたりでマンション暮らしをしていて、アズールは恋人ではなくて、それなのにアズールが、僕のTシャツを着て僕の隣で眠っていた………
     僕の服はアズールには大きすぎて、ざっくりと開いた襟元からはアズールの艶かしい鎖骨がくっきりとのぞいていた。それに、それにアズールどうして下を履いていないんですか……!
     僕の服が大きいおかげでワンピースのようになってはいるけれど、なぜかベッドの上で正座しているアズールの白い足が僕の眼前に惜しげもなくさらけ出されている。僕は目のやり場に困って思わず顔を覆い、せっかく直視しないようにしたのにアズールはお構いなしに僕の手を剥がしにかかる。そして間近に僕を覗き込んだかと思えば、本当に安心したような顔で笑ってくれたから、なんだかなにも、心配ないように思えてしまった。

     なぜ僕はアズールと一緒に眠って、アズールと一緒に朝食の用意をしているんだろう。
     ふたり並んでキッチンに立っていると、ズキズキと痛む手の傷から僕は少しずつ昨日の記憶を思い出してきた。
     あぁまたアズールを巻き込んでしまった。
     自分が情けなくて自己嫌悪に陥りながら、アズールのための紅茶を淹れているこの状況も本当にわけがわからない。申し訳なくて情けなくて、謝りたいのになんと切り出していいかもわからない。
     でも僕が淹れた紅茶をアズールがおいしいと言ってくれたから、また僕はうれしくて。
     感情がぐちゃぐちゃで、本当にどうしたらいいかわからなかった。
     僕が何度拒絶しても突き放してもアズールは諦めてくれない。どうしてこんなに折れずにいられるんだろう。こんな僕に構っているのは時間の無駄でしかないのに、アズールにとって不利益しかないはずなのに、アズールなら決してこんな風に時間を浪費したりしないのに。
     
     誰の話をしているんだと言われてハッとした。 
     僕は誰の話を? 前世のアズール? それともここにいるアズール?
     僕が見ているのは誰?
     必死に考えようとするけれど、僕にはわからなかった。
     僕は昔も今も変わらずアズールが好きで、アズールの変わらないところを見つけるとつい嬉しくなってしまう。でもじゃあ、昔のアズールとは違うところは好きじゃないのかと言えば、全くそんなことはなかった。
     じゃあ僕が話しているのはどちらのアズールなんだろう。
     わからない。
     考えようとしても思考がまとまらなくて何も考えられない。こんな状態じゃとてもアズールとは向き合えなくて、全てを放棄してしまおうとする僕を、またアズールが引き止める。
     時間をかけることを無駄だとは思わないとアズールは言った。
     本当にそうなんだろうか。
     散々付き合わせてやっぱり無理だったなんてことになったらアズールは後悔しないだろうか。
     まだ僕のためにアズールの時間を無駄にしてしまうことにはならないだろうか。
     堂々巡りの思考の中では結局結論が出ず、それなのに、事態は僕を置き去りにして急展開で進んでいく。

     アズールが一緒に住むなんて聞いてない。ルームシェアだなんて一体いつそんな話になったんだと僕は耳を疑う。
     だけど、アズールの話を聞いてしまえば僕は受け入れざるを得なかった。
     僕は知らなかった。
     フロイドがそこまで追い詰められて限界だったことも、僕自身がフロイドの身を危険に晒していたことも。
     フロイドがいてくれることを当たり前だなんて思ってないのに、僕は自分のことで精一杯でフロイドのことまで全く頭がまわらなかった。
     フロイドは、むかしのフロイドよりすこし心配症だ。昔から僕らは唯一無二のきょうだいで最高の相棒だったけど、でもお互い干渉し合うようなことはほとんどなかった。僕は僕でフロイドはフロイド。趣味も嗜好も全く違ってそれぞれが勝手に行動してそれぞれに楽しんで、時々はそれを共有して。
     そうやっていつも自由に生きているのが僕らきょうだいだった。でもこの世界に生まれて、幼い頃からずっと悪夢にうなされる僕をそばで見続けてきたフロイドは、いつも僕と一緒にいてくれた。
     無口で陰気な子供だった僕を揶揄う奴がいればフロイドが追い払ってくれたし、僕が眠れない夜にはずっと隣で抱きしめてくれた。泣きながら目が覚めると心配そうに僕を覗き込んでいることもしょっちゅうで、だから僕はずっとフロイドに頼り切りだったんだ。フロイドがいるといつも安心できた。中学生の時に入院した時だって、フロイドが絶対に連れて帰ると暴れていなければ僕は今もずっとあの病院で寝たきりだったかもしれない。
     フロイドには感謝してもしきれない。それなのに僕はいつの間にか、フロイドを思いやることすらできなくなっていた。そしてフロイドを縛っていることにすら気付かず、フロイドの人生まで台無しにしてしまうところだった。
     もし昨日アズールが来てくれなければ、最悪の事態になっていたかもしれないと思うとゾッと背筋が冷えた。もしそんなことになっていたら、僕はもう生きていけなかっただろう。
     アズールの言う通りだ。
     今は自分のワガママを通している場合じゃない。フロイドのためにも僕自身のためにも、僕は現状を改善する努力をしなくては。そしてその為には、僕がアズールを受け入れるしか道はなかった。



     そしてアズールと一緒に眠る覚悟をしたはいいけれど、現実はそんなに簡単なものではなかった。
     だって好きな人と同じベッドに入っていて、どうやって落ち着いて眠れと言うのか。ベッドに入るだけでも一時間以上ごねにごね、ようやく横になってもドッドッと煩い鼓動は止まらない。それなのにアズールはあの手この手で誘惑(?)してくるし、しまいにはくっついて寝ると言い出すものだから気の休まる暇もなかった。
     正面から向き合ったアズールにぎゅっと抱きつかれ、足まで絡められてはたまらない。そんなふうに密着されては呆気なく愚息が反応してしまって、僕はそれをアズールに気取られないようにするために必死だった。気付かれたら最後、今のアズールなら面白がって触ってこないとも限らない。
     なにしろ何かしたければしてもいいとお許しをもらっている身だ。僕がその気になればきっとアズールは拒まないに違いない。あぁでもそれだけはダメだ。そこまでしたら本当に後に引けなくなってしまう。僕はとにかく睡眠をとることだけを目的にアズールを受け入れたのに、自分の気持ちの整理もつかないままアズールの体だけ貪るなんてことは許されない。
     でも密着したままではひとりで落ち着かせることもできないし、あまりにも無防備に抱きついてくるアズールがいっそ憎くさえ見えた。ここからは、僕の理性との戦いだ。



     一日目、理性との戦いには勝利したけれどその代償に睡眠は奪われた。
     アズールがすぐ隣で寝ているという事実に僕の興奮は中々治らず、かつ決して自分から触れないように全意識を集中していた僕はずっと神経が張り詰めたまま、とても眠るどころではなかった。彼の寝顔を見ていると前世の生々しい記憶が蘇って、何度も何度も繰り返し重ねていた行為をまざまざと思い出してしまう。どんな風に触れればアズールがどう反応してくれるか。アズールの好きなところを散々に攻めてぐずぐずに溶かして、とろとろになった彼の中に入った時の感触すら、僕ははっきりと思い出せるのだ。
     アズールが同じベッドで隣に寝ていて、それを想像しない方が無理だ。めくるめく妄想で僕の欲は膨れ上がり、いっこうに萎える気配もない(正直夜中に二度ほどベッドを抜け出した)結果悪夢は見なかったけれど、一睡もできない状態に逆戻りだ。
     悪夢に襲われなかった分精神的には楽だったけど、緊張感の中でずっと起き続けているのもそれはそれで体力が磨耗する。
     アズールが目を覚ました時にはもうへとへとで、これが毎日続くのかと思うと別の意味でげんなりした。アズールは慣れろ図太くなれと言うけれど、僕はとても神経質で繊細なのだ。アズールの視線を感じるだけでもドキドキしてしまって、彼の声が聞こえるたびに翻弄されてあわあわしてしまう。直接触れられなんかしたらあまりの心地よさにまた鼓動が高鳴って落ち着かず…………



     ハッと目が覚めた時、時計はもう正午に差し掛かるところだった。隣にアズールはいなかったけど、どうやら4、5時間は熟睡していたらしい。その間一度も目が覚めることはなかったし、ゆっくり眠れたという感覚もあった。悪夢も見なかったし、目が覚めてひとりでもパニックにならなかった。
     小さなことだけど、それは僕にとって確かな一歩だった。眠るまではアズールがいてくれたけど、その後ひとりでもきちんと眠れたことは僕の大きな自信になった。
     もしかしたら、このまま僕は変わっていけるかもしれない。アズールの力を借りて徐々に普通の生活を取り戻せれば、ずっと頼りきりだったフロイドを自由にしてあげられるかもしれない。
     そう思うと少しだけ希望が見えて、僕がほんのちょっと前向きになれた瞬間だった。



     その日から僕の意識は少し変わったけど、やはり思っていたほど順調にことは進まなかった。
     アズールと一緒に眠ることを積極的に受け入れようと思えるようにはなったけど、やっぱりどうしたって緊張はしてしまう。それに眠れたとしても悪夢が完全になくなることはなくて僕は夜中に度々目を覚ました。
     でも目を開ければそこには必ずアズールがいるから、僕はなんとかパニックを起こさずにいられる。



     その日も、僕は夢を見た。
     あれはちょうど、僕がアズールにプロポーズしようとした日のことだった。
     学生時代から、いやエレメンタリースクールの頃からずっと持ち続けてきた僕の思いを、カレッジを卒業してからアズールはようやく受け入れてくれた。卒業しても頑として離れていかなかった僕を、ようやく信じてみる気になってくれたらしい。それでもアズールはまだしばらく僕のことを疑っていて、彼はずっと心の中で準備をしていたのだ。
     いつ僕の心が変わっても、すんなりとそれを受け入れる準備を。
     僕がどれだけ真心を込めて思いを伝えても、臆病なアズールはあらゆる可能性を常に想定して万全の備えを怠らなかった。僕が浮気をしたとき、他に好きな相手ができたとき、自分に飽きてしまった時、どんなパターンが来ても受け入れられるように、みっともなくすがったりしないように、僕にすら弱みを見せないように、アズールは常に強くあろうとした。
     そんな所まで努力家でなくていいのに。
     だってそれは全部無用の心配なのだ。
     でも裏を返せば、アズールはそれだけ僕のことを愛してくれているということだった。失うのが怖いのは自分にとってそれが掛け替えのないものだからだ。替えがきかないから自分で補うしかない。なくなってもどうでもいいものなら万全の準備なんてしておく必要はないのに、アズールがそんなにも必死に努力するのは、彼が僕を愛してくれていたから。
     でもいつかそれが原因で大喧嘩になった。
     何を勘違いしたのかアズールが、飽きたならさっさと離れていけばいい僕はお前がいなくても平気だと言うから、アズールがどれだけ僕を愛しているかこんこんと説き伏せた。なぜ本人の前で僕がアズールの気持ちを代弁しているんだろうと不思議な気持ちになったけど、事実なんだから仕方ない。けれどアズールは、その時はじめて自分の気持ちを知ったみたいな顔をした。
     なんとまぁ、彼は本当に無自覚だったのだ。
     でも僕に言われてすとんと腑に落ちたのか、アズールは案外素直にそれを受け入れてくれた。
    「確かにそうですね」と認めてから、アズールはようやく僕への愛を口にしてくれるようになった。僕は今度こそ本当にアズールから受け入れられて、天にも昇る心地だった。
     これはもうこのまま結婚するしかないと思い至って、フロイドにも応援されて、プロポーズをするつもりだったのだ。
     アズールがずっと行きたがっていたレストランのディナーの予約が取れたから、そこで指輪を渡すつもりだった。昼間はふたりでぶらぶらとショッピングをして、少し休憩でもしようかと街の広間でベンチを探していた時、それは起こった。
     休日でたくさんの人たちが憩いの時間を過ごしていたうららかな午後、突然アズールに腕を引かれて投げ飛ばされたかと思えば、次の瞬間広場は真っ赤に染まっていた。さっきまで朗らかに会話をしていた周囲の人たちの姿はすでになく、ぐちゃぐちゃに飛び散った肉塊や、かろうじて原形を留めている程度の手や足がそこら中に散らばっていた。
     そして辺り一面の血の海の中で、僕だけが息をしていた。
     
     後で知ったことだけど、犯人は魔法障壁を張って魔法薬で爆発を起こしたあと、空に飛び上がって文字通り高みの見物をしながら高笑いをしていたらしい。でもその時の僕はそんなことには気付かず、ただ、アズールを集めるのに必死だった。



     いつもそこで目が覚める。
     全身に汗をびっしょりにかいて、血に濡れていない手を見てそれが夢であったことを知る。
     隣を見れば、眠っているアズールがいる。
     瞼を閉じてはいるけれどその呼吸は健やかで、アズールが生きていることにホッとする。  
     そしてその胸が穏やかに上下しているのを見ながら、涙が止まらなくなる。
     アズールは生きている。
     ぐちゃぐちゃに飛び散ったりなんかはしていない。
     これからだって二度とあんなことは起こらない。
     何度も何度も言い聞かせるけど、その度にさっき見た悪夢が脳裏に蘇る。
     僕はあと何度、こんなことを繰り返せばいいんだろう。
     アズールといれば、いつかこの悪夢に終わりは来るのだろうか。でももしこれが終わったとしても、長い間見続けたその記憶が消えてなくなることはない。
     アズールが傷つけられそうになると抑えが効かない。
     アズールに害なす全てのものが許せない。
     アズールが少しでも損なわれようものなら、途端にフラッシュバックを起こしてパニックに陥ってしまう。
     睡眠が少し改善されたところで僕には問題だらけで、それなのにアズールとフロイドは、いつも僕と一緒にいてくれた。僕の一歩はものすごく小さく、進んでは戻っての繰り返しだ。改善しているのか悪化しているのか時折自分でもわからなくなるけどそれでも、不思議と三人一緒ならなんとかなるかもしれないと思えてしまう。
     それなら、僕も過去のアズールのように、信じてみてもいいんだろうか。
     過去の僕はいつまでもアズールが心を開いてくれないことをずっと焦ったく思っていたけど、今のアズールも同じ気持ちなんだろうか。何も恐れることなんてないのに、僕が臆病になり過ぎているだけなんだろうか。
     もしそうなら、アズールが望んでくれるように、次のステップへ足を踏み出してみてもいいのかもしれない。

     僕が嫌がらなければ、アズールは少しずつ僕に触れてくれるようになった。
     不安な時に抱きしめてくれたり、頬を撫でてくれたり、おやすみのキスをしたり。まだ口へのキスは無理だけど、アズールに触れられるのはちっとも嫌じゃなかった。むしろうれしくて、あたたかくて、しあわせな気持ちになれる。
     くっついて眠ることにも慣れてきて、だんだんと悪夢を見る回数は減っていった。長く睡眠が取れればその分日中の調子もいいし、外へ出かけて行ってアズールの仕事の手伝いをすることも多くなった。
     ここのところはすこぶる調子が良くて、だから僕はすっかり油断していた。僕の問題でこれ以上アズールを心配させたくはないのに、久しぶりに襲ってきた右腕の激痛に耐えられず、僕はうずくまってブルブルと震えていた。あまりの痛みに自分でベッドを抜け出すこともできず、ただ歯を食いしばって耐えるだけの時間が過ぎる。フロイドに連絡したいのにスマートフォンに手を伸ばすことすらできず、ただひたすらに、アズールが気付いてくれるのを待つだけの時間は地獄だった。
     
     

     目が覚めた時、すぐに聞こえてきた声の方を見上げ、僕はぼんやりとした視界の中にその姿を見つける。
     あぁ、アズールだ。
     生きているアズール。
     生まれ変わって出会った、僕の恋人ではないアズール。
    「アズール……」
     また、迷惑をかけてしまったなと思う。
     きっとフロイドが薬を飲ませてくれたんだろうけど、アズールにもフロイドにも心配をかけてしまった。
     すっかりと痛みの引いた体を起こし、改めてアズールに頭を下げる。アズールは迷惑じゃないと言ってくれるけど、こんな面倒な僕なんてお荷物以外のなにものでもない。ふたりは優しいから僕を安心させようとしてくれるけど、僕にはそれすら申し訳なかった。やっぱり僕は、ふたりから離れた方がいいのかもしれない。

    「ジェイド、お前に話があります」

     突然、アズールが怖い顔をしてそんなことを言うからびっくりしてしまった。
     弱気な僕の心を見透かされてしまったんだろうか。でもアズールがどんなに真摯に向き合ってくれても、僕はそれに応えられそうもない。
     どんな話をされるんだろうと身構えていたら、僕の悪夢の話だと言われて一瞬でその光景が脳裏に浮かび、背中を嫌な汗が伝う。
     急にどうしたんだろう。
     今までアズールがその内容を追求してきたことはなかったのに、どうして今になってそんな話を持ち出すんだろう。僕はフロイドにだってあの日の詳細までは話していない。事実として何が起こったかは知っていても、アズールがどんな最期を迎えたかは僕しか知らないのだ。 
     
    「僕は、お前が見ている夢を知っています」

     サッと全身の血の気が引いた。
     どうして。
     まさかアズールにも前世の記憶が?
     一瞬そう考えたけど、フロイドから聞いたのだと言われて今度はフロイドに対する苛立ちご募る。
     アズールには絶対に知られたくないとあれほど言ったのに。記憶のないアズールにどうしてそんな酷なことをとフロイドを詰りたくなるけれど、アズール自身が、フロイドを怒るなと言う。しかも聞いて良かっただなんて。

     そんな訳はないだろう。
     せっかく生まれ変わって普通に生きてきたのに、凄惨な過去の出来事なんて知らなかった方がいいに決まってる。
     過去に囚われるのは僕だけで十分だ。アズールにまでそんな暗い過去を背負わせるなんて、それだけはしたくなかった。

     もしもアズールにも記憶があったのだとしたらここまで僕に親身になってくれる理由もわかる。アズールは優しいから、あんな風に置いて行った僕のことを放ってはおけなかっただろう。でも、今のアズールはそうじゃないのに。
     はじめから放っておけば良かったんだ。
     平穏な日常を乱す僕になんて構わず、アズールはアズールの人生を生きてくれれば良かった。
     なのにどうして、どうしてアズールは僕なんかのそばに。

    「お前が好きだから」

     びっくりした。
     もう何度も言われていたはずなのに、なぜかこの時はじめて、僕はそれを理解したような気がした。
     こんな何をどう考えても面倒ごとの塊でしかないような僕を、この人は本気で好きだと言っている。しかも迷惑なんかじゃないなんて、アズールは正気だろうか。絶対に諦めないと言って僕の手を握り込むアズールの手に痛いほど力がこもる。
     本当に痛い。
     痛みを感じるのは僕が今生きているからで、目の前のアズールが馬鹿力で握っているからで、でも、いくら懸命に生きようと足掻いても、僕はその度にずっと打ちのめされ続けてきた。
     少し希望が見えたかと思えばすぐにそれを覆い尽くす闇が現れる。その闇はあっという間に僕を呑み込んでからめとり、身動きを取れなくしてしまう。もうずっとそんなことの繰り返しだ。
     アズールとフロイドがどんなに僕を励ましてくれても、それに応えられない自分が嫌になる。今だって、もうアズールの言葉がほとんど耳に入らない。いっそ諦めて見捨ててくれたらいいのに。そうすれば僕も、期待に応えられない自分にがっかりすることもなくなる。

    「僕はここにいるだろ!!」

     急に大声を出したアズールにびっくりして顔を上げると、僕の視界いっぱいにアズールがいた。
     アズールはそのまま至近距離でものすごい剣幕で捲し立て、ずっと怒り続けているから僕は彼から目が離せなくなってしまった。
     これはもう励ましというか恫喝ですアズール。
     いつもは落ち着いてスマートに話すあなたがこんなに取り乱して、自分を信じろと。
     怖いですと言ったらハッと我に返り、照れ隠しのように取り繕うアズールがおかしかった。そしてアズールが笑うと、なぜだか僕もつられて笑ってしまうのだ。

     そしてもう一度、僕を好きだと言ってくれたアズール。
     過去の記憶ないアズールと、過去に囚われ続けている僕。
     これまでの僕たちの選択のひとつひとつが、こうして僕らをめぐり合わせた。

    「これが運命でもそうでなくても、僕たちがこうしてまた出会えたことに意味があると思ってはいけませんか」

     運命でも運命でなくとも。
     僕たちは、出会えたことに意味がある。
     その意味を、前向きに捉えてみてもいいだろうか。
     過去なんて関係なく、僕らは僕らのこれからを作り出すために出会ったのだと。この出会いは過去の記憶を癒すためのものでも、忘れるためのものでもない。
     ただ今ここにいる僕とアズールが、未来を紡ぐための出会いなんだと。

    「ジェイド、僕はここにいます。それでもまだ、お前は過去だけを見て生き続けるんですか」



    「アズール」
     祈るように差し出した手を掴んでもらえないまま、ジェイドが僕を呼ぶ。
    「なんですか?」
    「あなたにとってフロイドはなんですか?」
    「なにって、友達ですけど」
     この場面で急になんの話だと思いながら戸惑いつつもそう答えれば、ジェイドはなんだかとてもおかしそうにふふふと肩を揺らす。
    「何かおかしなこと言いました?」
    「いえ、すみません。あのねアズール、昔のアズールは、絶対に僕らのことを友達なんて言わなかったんです」
     そう言われて僕はムッと眉を顰める。どうしてこのタイミングで過去の話なんてするんだ。そう思ったけど、なんだかジェイドがすっきりとした顔をしていたから、僕は口を挟まずそのまま話の続きを待った。
    「僕らがどれだけアズールを好きでもアズールは本当に疑り深くて、僕らはどうせいつか離れていくだろうってそれはそれは長い間ずっと疑っていたんですよ」
    「へぇ、過去の僕はずいぶんひねくれていたんですね」
    「そうかもしれませんね。だから僕の気持ちを理解してもらうのも一苦労でした。僕がどれだけ真心を込めて気持ちを伝えても全く信じてくれなかったんですから」
    「そんなにあからさまに伝えても? 昔の僕はずいぶん鈍かったんですね」
    「ふふ、鈍いと言うより、慎重だったんだと思います。僕の言葉が本当に信じるに値するものなのか、アズールは長い時間をかけて見定めていたんですよ」
     なんだかこの間ジェイドが言っていた話とはずいぶん違うなと思う。僕は効率重視で損得勘定でしか動かない男だったのではなかったんだろうか。もしそうなら自分が信じられないものはさっさと切り捨てていただろうし、そんなに長い時間をかけて見定めるというのがわからない。
    「それこそ時間の無駄では? とりあえずつきあってみたら良かったのに」
    「それまでの積み重ねがあってのことですから。アズールはとても慎重で、疑り深くて、臆病で、とても純粋だったんです」
     聞けば聞くほどその男のことがわからなくなる。物事に事前調査は重要とは言え慎重すぎても仇になる。時には大胆な決断と行動力が必要な時もあるし、過去の僕はずいぶん今の僕とはだいぶ異なる性質だったようだなと首を傾げる。
    「彼を弱い人だと思いますか?」
    「お前の話を聞く限りでは、軟弱者だったように聞こえますけど」
    「ふふ、まさか。あなたは僕よりずっと強い人でしたよ」
     そう言ったジェイドはなんとも誇らしげだった。
     自分のことを語っているのでもないのに、あぁジェイドは、本当にその男のことが好きだったんだなと改めて思い知らされる。
    「繊細で傷つきやすくて、傷つかないように予防線を張ってばかりいる人でした。でも驚くほど立ち直りが早いんです。何かに失敗して落ち込んでも、翌日にはもう別のことを考えだして目を輝かせているんですから。僕はそんなアズールを見ているのがとても楽しくて、とても愛しかった」
     なんだろうこれ。
     すごく負けた気分になる。
     そんな男より僕の方が優れていると見せつけてやりたいのに、結局ジェイドは過去の僕しかみていなかったのか。
     不貞腐れているのが表情に出てしまっていたのか、そんな僕を見てジェイドがくすりと笑う。

    「でも、あなたは彼と全然違う」

     馬鹿にされているんだろうか。
     昔と今を見比べて、昔の方がよかったとそう言いたいのか。
    「お前は昔の僕の方が好きでしたか」
     僕が捨て鉢にそう言うと、ジェイドは困ったように眉を下げて曖昧に笑った。そうかそういうことか。やっぱりお前は昔の僕のことが

    「アズール、僕ひとの顔と名前を覚えるのがとても苦手なんです」
    「はい……?」
     またジェイドが突拍子もなく話題を変えて、今度はなんの話だと僕は訝しげにジェイドを見た。
    「興味のない人のことはほとんどおぼえられなくて……、実は一緒に寝ていた女の人たちの名前もさっぱりで」
    「最低ですね。そう言えばあのものすごい美人の名前も覚えてないって言ってましたっけ」
    「誰のことを仰ってるのかはわかるんですが、実は彼女が美人だというのもあまりピンとこなくて」
    「本気で言ってます??」
    「はい、人の美醜にも全く興味がなかったもので」
     あの高飛車美女の名前どころか、顔までろくに覚えていないなんてさすがに驚いた。驚いたけど、結局それがなんなんだ。
    「で、急になんの話です?」
    「ふふ、今の僕はこんな有様ですが、でも前世の僕には得意技だったんです。全校生徒はもちろん、あなたの仕事に必要な取引先の人間達の顔と名前に家族構成、SNSの裏アカウントまで全て把握してたくらい」
    「は!? それこそ正気ですか」
    「えぇあの頃の僕にとっては。僕はあなたのお役に立てることならなんでもしました」
     自信満々にそう言い放つジェイドに僕は呆気に取られてしまう。なるほど、フロイドが言っていた「スーパー秘書」とはこのことか。確かにそこまで有能な右腕が居れば怖いものなしな気がする。
    「ですが、今の僕は契約違反者の取り立てに法スレスレのことはしませんし、契約が成立できないようにわざと妨害するようなことも致しません」
    「過去はしてたって事ですか……? 昔の僕は詐欺師でもしてたんですか」
    「まさか。あなたはとても慈悲深い方でしたよ。法に触れるようなことは一切しませんでしたし」
    「法を掻い潜るようなことはしていたんですね……」
    「ふふ、あなたはとても面白い方でした。あなたの考えることはいつだって突拍子もなくて、あなたといれば僕は退屈する暇もなかった。人遣いが荒いとも言いますが……、昔の僕はそれはそれは有能なあなたの右腕だったんですよ。今の僕とは違って」
     そこまで言うと、さっきまで誇らしげにつらつらと語っていたジェイドがスッと眉を下げた。
    「今の僕は、到底過去の僕には及びません。知識も経験も行動力も、全てにおいて。怖いもの知らずだったあの頃の僕と違って、今の僕はとても昔のようにあなたのお役には立てない」
     僕としてはそんな知らない男の話をされても、というのが正直なところだったけど、それだけ優秀だった過去の自分と今の自分を比べてしまう気持ちは分からないでもない。今の方が優れているならば問題はないけれど、悪夢に脅かされ続けてきたジェイドが、今の自分に絶対の自信を持っているとは思えなかった。
     そんな自分に絶望しているのかと思えば、ジェイドは僕を見て穏やかに目を細める。
    「でもあなたは、そんな僕を好きになってくれた」
     僕はうれしくて目を見開き、首がもげそうなほどに頷いてしまいたかった。
     やっとジェイドが僕の気持ちを受け入れてくれた。僕の気持ちを信じてくれた。ジェイドが僕を見て、僕だけに話しかけてくれている。
    「あなたは自分の気持ちをまっすぐに僕に伝えてくれましたね。もし過去のあなたなら、拒絶し続ける僕にこんな風に思いを伝え続けてはくれなかったと思います。そもそも今の僕のことなんて好きにすらならなかったかも」
     うんうんそうだと一人で勝手に頷いたあと、もう一度僕を見たジェイドの顔がにっこりと綻ぶ。
    「昔の疑り深くて臆病なアズールだったら、今の僕らはきっと始まってもいなかった。でもあなたがしっかりと僕を掴まえてくれていたから、僕はあなたに向き合うことができました」
     ジェイドの言う通りなのかもしれない。
     僕がジェイドの言う通り怖がりな男のままだったなら、臆病者同士の恋はきっとうまくいかなかっただろう。
     でも今の僕は違う。
     何度拒否されても、僕はこの恋を絶対に諦めない。
    「そういうあなただから、僕はもっと好きになったんですアズール」
     気付いたら、ジェイドに飛びついてベッドに押し倒していた。
     あぁもうバカ。
     言うのが遅いんだよ。
    「ジェイド……、好きですジェイド。もう絶対離さないからな!」
     今更やっぱり無理なんて絶対に許さない。
     僕は逃さないようにジェイドをぎゅっと抱きしめ、ジェイドの腕が、同じように僕を抱き返してくれる。
    「僕のそばにいてくれてありがとうございますアズール。あなたが好きです」
    「ジェイド……」
     ジェイドの両手が僕の頬を包み込む。
     ジェイドから僕に触れてくれたのはこれがはじめてだった。うれしくてうれしくて、見つめ合えば自然と近付いた唇がゆっくりと重なった。
     音もなく静かに触れて、すぐに離れようとしたら、下からがっちりと掴まれて僕は中々解放してもらえなかった。触れ合った唇をぺろりと舐められて、あわあわしている内にジェイドの舌が僕の口内に入り込む。そして舌を絡め取られ散々に弄られ、上手く呼吸もできず涙目になってジェイドがようやく唇を離した。
     このバカ。僕ははじめてなんだから手加減くらいして欲しい。それにお前、さっきから硬いものが当たってるんだよ。
     でもジェイドはそれを隠そうともせず、むしろ僕に押し付けるようにして腰を揺らす。そしてすっかりと興奮して欲を乗せた男の目で、じっとりと僕を見上げた。
    「アズール、僕がしたいと思ったら何をしてもいいと言いましたよね」
     今僕を見つめているのは本当にあのウブで可愛かったジェイドだろうか。もしかして僕は騙されていたんじゃないかと疑いながら、僕だってもう我慢できなかった。
    「臆病なお前はどこまでできるんですか?」
    「……そんな風に煽るのはあまり得策ではないと思いますよアズール。僕はこれまでかなり我慢してきたんですからね」
    「おやおや、僕はいいと言ったのに。では存分に楽しませてもらいましょうか」
    「ふふ……、それでは覚悟してくださいねアズール。今までずっと我慢してきた分、たっぷり僕を受け入れてくださいね」
     その言葉に応酬する前に、僕はぐるんと体勢を入れ替えられてあっという間にジェイドに組み敷かれてしまった。こうして下から見上げるとやっぱりでかい。
     その大きさだけで威圧されてしまいそうになるけど、まじまじと見つめた男の顔がめちゃくちゃに好みだったから、僕は思わず頬を緩めてその首に両手を伸ばした。

    「すきですジェイド。たくさん愛して」







     大学から帰ってきたフロイドが僕らの寝室を開けた時、僕らはふたりして素っ裸でぐーすか眠っていた。
    「えぇ!? なにどゆこと? 展開早くね!?」
    「……うるさいですよフロイド。勝手に入らないで……」
    「オメーらが電話出ねぇからだろふざけんな!」
     寝ぼけながら返事をしたジェイドの頭をフロイドがぽかりと殴り、「痛いです!」と恨めしそうに言ったジェイドの声で僕は渋々瞼を押し上げた。
    「おかえりなさいフロイド」
    「ただいま。てかこの状況で普通に寝てるアズールさすがだよ」
     フロイドはイライラした様子でベッドに寝そべったままの僕らを見下ろし、呆れたようにわざとらしいため息を吐く。
    「すみません、起きたいのはやまやまなんですけどあちこち体が痛くて」
    「生々しい話やめてぇ? つか何してんのジェイド。最初から飛ばし過ぎだろ」
    「すみません止まらなくて」
     全く悪びれもせずジェイドがそう言えば、フロイドはまた大きなため息を吐いたけど、その顔はとても怒っているようには見えなかった。
    「で、ちゃんと付き合ったわけ」
     そう言われて僕らは顔を見合わせる。
     そう言えば付き合うとかどうとかの話はしていないけど、これはもうどう考えてもそういうことだろう。
    「もう恋人同士ということでいいですよねジェイド」
    「そうですね。よろしくお願いしますアズール」
    「今かよ!」
     フロイドがまた「はーーーー」と盛大にため息を吐いて、顔を上げるとその顔はもう笑顔でいっぱいになっていた。
    「おめでとアズール、ジェイド。今日はオレがごちそう作ってあげる」
    「本当ですかフロイド! もう腹ペコなのでたくさんお願いしますね」
    「はいはい。アズールは食べれそ?」
    「なんとか……。食卓まで行けるかの方が問題です」
    「もーまじで程度ってもんがあんだろ調子乗りすぎ!」
    「以後気をつけます」
     全然気をつける気のなさそうなジェイドがキリッと返事をして、くたくたの僕は突っ込む気力もなく再び目を閉じた。
    「できたら起こしてください……」
    「いいよぉ、ゆっくり休みな。ジェイドは手伝って」
    「え、全部フロイドがつくってくれるんじゃないんですか」
    「ア? 手伝いくらいしろっつーの。さっさと服着ろ!」

     フロイドに引きずられるようにしてジェイドが出ていったあと、静まり返った寝室で僕はやっとひと息ついた。
     全くジェイドのやつ手加減てものを知らないのか。何もかもはじめての僕に次から次へと容赦なく。普段はしないような体勢であれこれされたせいで体中あちこち痛くてたまらない。……まぁ煽ったのは僕だし気持ちよかったけど。
     寝落ちる前までジェイドとしていたことを思い出すと、またすぐに体が熱をもってくる。はじめてなのにすごく気持ちよかった。ジェイドが慣れているせいもあったんだろうけど、僕の気持ちいいところを全部知られてるみたいでちょっと恥ずかしかった。
     ……あれちょっと待てよ?
     もしかしてジェイドは昔の僕としてた時のことを思い出して再現してたのか? そう考えるとなんだかムカつくけど、ムカつく以上に気持ちよかったからとりあえず忘れることにした。
     だってもう昔の僕らはいないんだから。
     ここにいるのは、今を生きる僕らだけ。

     ジェイドの匂いがする枕をぎゅっと抱きしめて、すーっと吸い込みながら落ちてくる眠気に身を任せた。起きたらフロイドのおいしいごはんが待っている。
     今はただ、何も考えずに眠ろう。
     


     
     
     目が覚めるとちょうどリビングからいい匂いがして、僕はジェイドに抱えられてなんとか食卓につき、三人一緒にフロイドの作ってくれたごはんを食べた。
     僕がこの家に引っ越してきて以来、一番和やかな食卓だった。料理は美味しいしジェイドもフロイドもニコニコしているし、なんの憂いもないような、ごく普通の食事風景だった。
     ジェイドが今日のことを話し出すまでは。

     おいこらジェイド、お前はなんでそう何でもかんでもフロイドに話すんだ。フロイドもフロイドで当たり前のことみたいに聞いているんじゃない。
     僕とジェイドがどんな会話をしてああなるに至ったか、一言一句覚えているんじゃないかと思うくらい詳細に語るジェイドに居た堪れなくなる。
    でもそんなジェイドの話に、フロイドがところどころで眉を顰めて不思議そうな顔をする。
    「昔のアズールが繊細で臆病……? まー確かにそういうとこもあったかもしんねーけど、基本的には強欲でワガママで超人遣いの荒い守銭奴だったよ。魔法でも物理でもむちゃくちゃ強かったし、すげー面白いこと考えるから退屈はしなかったけどその分死ぬほどコキ使われたしさぁ。しかも超負けず嫌いで根に持つタイプ。文句言われたこととか絶対忘れねーの。こっちが忘れた頃にドヤられてなんの話? てなったりとかしょっちゅうだったなー。そう言えばこないだアズールが休学するって聞いた時オレらめちゃくちゃびっくりしたんだよね。昔のアズールなら仕事も学業も投資もやりたいことは全部やります! て感じだったからさぁ、なんか一個に集中するアズールとか超新鮮〜。ジェイドのことにしたって、付き合うまでは長かったけど付き合ってからは一生逃さない為にはどうするべきだと思いますかとかオレに聞いてきたりして囲い込みに全力だったし」
    「フロイドその話は初耳なんですが詳しく」
    「うっざ、んな細かいとこまで覚えてねーよ」
    「……なんだかジェイドから聞いた話とだいぶちがうんですが、まさか別人の話してます?」
    「ふふ、同じ人ですよ。臆病で強欲な慈悲深いアズールです」
    「今のところ慈悲深いエピソードひとつもないんですが……」
     このふたりの話を聞いていると僕の頭の中にハテナがいっぱい浮かぶ。
     臆病と強欲と慈悲深いはどれも共存しないような気がするんだが、過去の僕はどうやらむちゃくちゃな人物だったらしいことと、ジェイドの趣味が悪かったことだけは分かった。
     いまいち納得がいかなくて隣のジェイドを覗き込めば、うれしそうに笑ったジェイドがスッと顔を寄せる。
    「あっ! ここでちゅーすんな!」
    「すみませんアズールがあまりに可愛らしかったもので」
    「……バカか」
     なんかこいつ吹っ切れてキャラ変わってないか? それともこっちが素なんだろうか。
     まぁどちらにせよ、僕の可愛いジェイドにかわりない。
    「そういうことはふたりきりの時にしてください」
     僕がぺちりとその頬を叩くと、ジェイドがまたパァっと満面の笑みを浮かべる。
    「あーハイハイ勝手にしてぇ。片付けはジェイドね」
    「え、そんな。今日はアズールと僕の記念日なのに」
    「僕も一緒に片付けますから。ごちそうさまでしたフロイド」
    「アズールは休んでていいよぉ。アズールに無理させた責任取ってぜーんぶジェイドがやるから。ね、ジェイド」
    「アズールの為とあらば仕方ありませんね。あなたはゆっくり休んでいてください」
    「はぁ……、ありがとうございます」

     なんだかふたりがかりで甘やかされている気がしてならないけど、今日のところは本当にあちこち痛むので甘えてしまうことにしよう。
     僕はリビングのソファにゆったりと座りながら、キッチンで片付けを始めたジェイドを見ていた。ジェイドに任せると言った割にフロイドはあれこれとジェイドを手伝って、結局のところジェイドにも甘いフロイドがおかしくなってしまう。
     そしてこんな穏やかな日常が、これからもずっと続いて欲しいと願う。



     結論から言えば、僕らの日常はずっと穏やかに過ぎてはくれなかった。
     だいぶ改善されたとは言えジェイドの悪夢も幻肢痛も完全にはなくならず、ジェイドが全ての苦しみから解放される日はまだ来ていない。時折フラッシュバックを起こしてパニックになってしまうこともあるし、悪夢で眠れない夜もある。
     それでも僕は、これからもずっとジェイドと生きていく道を選んだ。完全にはなくせないなら少しでも和らげられるように、そうやって苦しみを分けあいながら、支え合って生きていけばいい。
     僕らはこれからいくつもの夜を一緒に越えていくだろう。
     抱き合って眠る夜も、悪夢にうなされる夜も。
     僕はこれからもずっと一番そばで、ジェイドとふたり、幾千の夜を越えていく。





     



     


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    @shin_sugarmaro

    MAIKINGクズヒモジェのはなし続き

    支部にあげた部分の直後から
    注意書きは1を参照ください。

    ※ジェイドが酷い目に遭う描写があります 痛いのが苦手な方はお気をつけください

    あとモブめっちゃしゃべる
    call my name2 学園から麓の街までバスに乗ってる間、フロイドはずっとスマートフォンと睨めっこをして画面の文字を追っていた。
    「あ、」
    「どうしたんですか」
    「ジェイドの目撃情報スレが消えてる」
    「え?」
    「昨日まではあったんだけどガセネタばっかで全然信憑性なくてさ、どうせ古参の奴らが他のファンまで焚き付けようとしてわざと炎上させてんだと思ってたけど、これヤバいかも」
    「なくなったならその方がいいんじゃないですか? ジェイドの個人情報が晒されなくなるわけだし……」
    「善意の削除依頼で運営が消したならいいけど、別の可能性もあるじゃん」
    「別の?」
    「この祭りに加わってた奴らが、都合が悪くなったから消した」
    「え、それって」
    「今まで晒されてたのはあいつの裏アカにアップされてた写真とか似た奴をどこで見たとかそんなんばっかで、実際にジェイド本人を確認してなんかしたみたいなのは一切なかったんだけど、もしその情報の中に本当のものが混じってて現地を確認しに行った奴がいるとするじゃん。そんでジェイドと鉢合わせたらどうなると思う?」
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