未定Azul
一般社員の定時はとうに過ぎたとは言え、僕ら三人は絶賛仕事中の役員執務室で、おもむろにスマホを眺めたかと思えばそそくさと帰り支度を始めたジェイドに僕は小さくため息を吐く。
「すみませんアズール、今日はもう上がります」
「はいはい、またいつもの呼び出しですか」
「えぇ、本当に困ったものですね」
いつもの事とはいえそう言ったジェイドの表情は微塵も困ってなどおらず、むしろウキウキと表情を緩ませているのが癇に障る。例え仕事の途中だろうがこうなったジェイドには何を言っても無駄だ。こいつにとっては彼女の言葉が第一優先で、僕はこの十年でそれを嫌と言うほど見せつけられてきた。
そして浮かれジェイドが帰った後で、僕は呆れを隠しもせず深いため息を吐く。
「よく続きますね」
「ね、まさかジェイドが十年以上同じ子と付き合えるとは思わなかったわ」
「本当にそうですよ。いっそさっさと結婚してしまえばいいものを……。何かしない理由でもあるんですか? ここまで付き合って振られでもしたら目も当てられませんよ」
「あのジェイドが今更逃すようなことはしねーと思うけど、なんでだろね?」
「お前何も聞いてないんですか」
「別にジェイドとそういう話しねーし。てかアズールこそどうなの〜? 今の彼女結構長いじゃん。そろそろプロポーズ?」
ニヤニヤと話題を振ってきたフロイドに、僕は満更でもなく口元を緩ませる。これまで何人もの女性と交際してきたけれど、どの女性とも長続きすることなく中々理想のひとに巡り会えなかった。でも今の恋人は違う。彼女は美しく聡明で僕の仕事にも理解があり、しかも代々続く資産家のご令嬢だ。蝶よ花よと大切に育てられてきた箱入り娘だと言うのに全く気取った所はなく、むしろ心配になるほど謙虚で傲慢さのかけらもない素敵な人だ。そしてあらゆる方面への教養も深く、これから経済界で躍進していく僕を支える妻として申し分ない、まさに理想の人。
「まぁそうですね。そろそろ交際して三年ですし頃合いかと」
「へー、アズールが見せつけてやればジェイドもその気になるかもよ?」
「なぜ僕があいつの背中を押してやらなければならないんですか。あいつはあいつで勝手にすればいいでしょう」
「まーそうだけど」
「ほら、無駄口叩いてないで僕らもさっさと終わらせて帰りますよ」
「はぁ〜い」
そう言ってまた仕事へ戻りながら、僕はなんとなくこれまでのことを思い返す。
陸に上がってナイトレイブンカレッジに入学し、寮長になって初めての入学式の日に現れた異世界人の彼女。様々な厄介ごとに次から次へと巻き込まれる彼女とはそれなりに付き合いはあったけれど、まさかあのジェイドが彼女と付き合うことになるとは夢にも思わなかった。
好奇心の塊のようなあいつが異世界人に興味を持つのはわかるけど、それがまさか恋愛に発展するとは。あいつに恋心なんてものがあったのかと驚いたし、実のところを言えばふたりが本当に付き合っているのか僕は長いこと疑っていた。
ジェイドがオンボロ寮に頻繁に出入りしていることは知っていたし、学園のあちこちでふたりがコソコソと話していたり休日にふたりで出掛けていたことも知っている。特に隠しもせずに大っぴらにそんな行動をしていれば、ふたりが付き合っているという噂が学園中に広まるのはあっという間で、実際どうなのだと本人たちに問う者もいたけれど、当のふたりは否定も肯定もせずにただ曖昧に受け流しているだけだった。
だから僕はまたいつものように、ジェイドが周囲の反応を見て遊んでいるものだとばかり思っていた。彼女も彼女でなんとも食えないしたたかなところがあるし、彼女にとっても何かしら都合のいいことがあってふたりで悪ノリをしているのだろうと。
でもふたりのそんな関係は学園を卒業してからもずっと続いていた。のめり込み易く飽きやすいあのジェイドが、こう言ってはなんだけどひとつのオモチャにそこまで執着し続けるのは珍しい。学園にいるからこそ唯一の女性の存在は珍しくもあったけれど、卒業してしまえばそれこそジェイドは引く手数多だったはずだ。だから彼女との縁もそこでバッサリ切れるのかと思いきや、ジェイドは卒業後もずっと彼女と連絡を取り続けているようだった。
そしていよいよ僕がその関係を信じるに至ったのは、ふたりが裸で一緒にベッドに寝ているところをフロイドが目撃しからだ。いくら兄弟でも寝室に勝手に入るなよと思うし、そしてわざわざそれを僕に報告するなと思うけど、どうやら僕と同じようにずっとふたりの関係を疑っていたらしいフロイドも、それを見てやっと納得したらしい。
そしてそれからというもの、ジェイドは僕たちの前でふたりの関係を濁さなくなった。曖昧なことを言って反応を楽しむのはやめたようで、その日は彼女と約束があるから早く帰りますだとか出張は無理ですなんてのうのうと言ってのけるようになってしまった。おかげで扱いづらいのなんの。
社員のプライベートを尊重しない会社は時代に則していないだとか定時退社は社員の権利だとか、お前は役員だろうがなんて返そうものなら役員が手本とならない会社なんて衰退するだけですよと最もらしいことを言って面倒なので、その内に僕も何も言わなくなった。
まぁジェイドがプライベートを大切にする気持ちは分かるけれど、意外だったのはその理由のほとんどが彼女にあることだ。趣味の山登りだのキャンプだのはきっちり休みの日にするくせに、彼女からの連絡が来るとジェイドは全てを投げ出して彼女の元に駆けつける。
なんだこいつもしかしてウツボじゃなくて犬だったのか? と疑うほどの従順ぶりで、急な呼び出しには毎度毎度うれしそうに尻尾を振って出掛けていくものだから、そればかりは何年経っても驚いてしまう。あの平々凡々な彼女の一体どこにそんな魅力があるのだろう。
見た目も頭脳もごく普通で、確かに謎の思い切りの良さや飛び抜けた行動力はあるけれど、それだけであそこまでジェイドを引きつけられるものだろうか。長年片腕として使い続けているジェイドの優秀さはこの僕が一番わかっている。性格に相当の難はあれど、それを差し引いてもジェイドが特別優秀な男であることは間違いない。そのジェイドが望めばいくらでもいい女は寄ってきそうなものなのに、なぜよりにも寄ってあの人なのか。
僕は長い間そんな疑問を持ちながら、でも彼女と会うことを心待ちにしていたようなジェイドを見るたび、まぁ本人がいいならそれでいいかと無理やり納得してきた。うん、本人が機嫌良く過ごしてくれるに越したことはない。機嫌の悪いジェイドはフロイドよりよほどタチが悪いし、彼女といることでジェイドがしあわせなら僕がとやかく言うことはない。元々僕らはお互いのプライベートまで干渉し合うような関係ではないんだし、部下の交際相手が誰でどんな人間だろうと、僕にはなんの関係もないことだ。
今日、僕はいよいよ彼女にプロポーズをする。
彼女が行きたがっていたレストランを内緒で予約して、資産家のご両親もきっと納得してくれるであろうサイズのダイヤがついたエンゲージリングも用意した。そしてリムジンから降りた彼女をエスコートして店内に入り、満を持して特別な個室へ向かう途中、僕は店内に見知った顔を見つけてしまった。
こんな高級店でジェイドと一緒ならいざ知らず、知らない男とふたりで食事をしていたらしい彼女を見て思わず「げっ」と声が漏れそうになったのをなんとか堪え、僕は気付かないフリをして通り過ぎようとした。なぜ彼女がここにいるのかは知らないが、彼女だってそれなりに大人の付き合いはあるだろう。相手の男は取引先か何かかもしれないし、変に声を掛けて邪魔をするのも良くない。
そう思って通り過ぎようとしたけれど、僕はチラリと横目に見た彼女の服装に違和感を覚える。フォーマルな装いではあるけれど、ビジネスで着るにはすこし露出が多いように感じる。それによくよく考えれば、彼女の仕事からしてこんな高級レストランで商談をするようにも思えない。しかも彼女の視線は向かいの男に釘付けで僕の気配に気付く様子もなく、その男に手を握られて彼女がぽっと頬を染めた瞬間、僕は無意識に足を止めて声を掛けていた。
「おやユウさんではありませんか、こんな所でお会いするなんて奇遇ですね」
声に気付いたユウさんがパッと顔を上げ、僕の姿を見た瞬間さっきまでのぼせていた顔からサァッと血の気が引く。
「ア……、アズール先輩」
「お久しぶりです、お元気そうですね」
そう言って僕がにっこりと微笑めば、ますます顔色を悪くした彼女を見て向かいの男が少し眉を顰める。
「ユウさん、お知り合いですか?」
「あぁこれは失礼! お邪魔をしてしまい大変申し訳ありません。まさかユウさんにお会いするとは思ってもおりませんでしたのでついうれしくて声を掛けてしまいました! ユウさんは私の高校時代の後輩でして」
「あぁそうなんですね! こんなところで先輩に会うなんてすごい偶然ですねユウさん」
「そうですねあはは……。お久しぶりですアズール先輩」
さっきまでの浮かれた顔とは打って変わって、明らかに気まずそうに強張った表情を見れば彼女にやましい事があるのは一目瞭然だ。この男が誰であれ、彼女がジェイドに黙ってふたりきりで食事をしていたのは間違いない。
「ふふ、あなたのことはジェイドからしょっちゅう聞かされていますからあまり久しぶりという気はしませんね」
「あら、じゃあもしかしてこちらの方がジェイドさんの?」
ここまで黙って聞いていた僕の恋人がパッと顔を輝かせる。彼女にはジェイドとフロイドをとっくに紹介しているし、ジェイドには学生時代からずっと付き合っている恋人がいることも伝えていた。
「そうなんですよ、こちらがユウさんです」
「まぁ! ずっとお会いしたいと思っていたんです。初めましてユウさん」
「は……、初めまして……?」
「うれしいです、わたしずっとあなたにお会いしたかったの。あのジェイドさんのハートを射止めるなんてどんな素敵な方なのかしらって。とっても可愛らしい方なのね」
僕の恋人は本当に純粋で無垢な人なので、彼女はこの状況になんの疑いもせずユウさんとの出会いを喜んでいた。戸惑うユウさんと、ひとり蚊帳の外にされた男を置き去りにして。
「あの……、ユウさん、ジェイドさんというのは」
「あぁ失礼、私はこういうものでして、ジェイドは私の側近なんです」
ユウさんに掛けられた言葉を遮って僕が名刺を差し出せば、男は受け取ったそれをまじまじと見てもう一度僕を見上げた。
「モストロカンパニー……代表!?」
「はい。代表のアズール•アーシェングロットと申します。あぁジェイドも役員の一人ですが」
そう言ってにっこりと笑えば、その男は僕と頭を抱え込んだユウさんを交互に見て目を白黒させる。
「ジェイドさんとは学生時代からお付き合いをしてらっしゃるんですよねユウさん、長続きの秘訣をぜひ伺いたいわ」
「おや、そんなこと教わらなくても僕たちは上手くいっているでしょう? レディ、それとも僕に何かご不満でも?」
うふふと笑った彼女に冗談ぽく言ってそっと腰を抱き、そろそろお暇しましょうと促して僕は最後の挨拶をする。
「あぁユウさん、あまり突然ジェイドを呼び出さないでやってくださいね。あいつときたらユウさんからのメッセージひとつで仕事を放り出してしまうんですから……。全く困ったものです」
「はは……、気をつけます」
だいぶ顔色の悪いユウさんに僕は深い慈悲で笑みを向け、ようやく彼女とふたりきりの個室へ向かう。そうして順々に運ばれてきたコースディナーはきっとどれも素晴らしい出来だったのだろうけど、僕は料理の味も恋人との会話も全く楽しめなかった。それもこれも全部彼女のせいだ。
くそっ、あの女!
相手の男は何も知らなそうだったし、ジェイドという恋人がいながら他の男を引っ掛けて遊んでいるなんてとんだ性悪じゃないか。あんな有能な男が恋人なのに一体なんの不満があるって言うんだ。あのジェイドがあんなに一途に想い続けていると言うのに、人魚の純粋な恋心を弄ぶなんて絶対に許せない。もしもジェイドにバレようものなら相手の男が海に沈められたって文句は言えないぞ!? あんな尻軽バカ女のせいで僕の片腕が犯罪者になるなんて真っ平ごめんだ!
食事の間中ずっとさっき見た光景が離れず、あんまり頭に来て腹立たしくて、なんだかとても今日プロポーズをする気にはなれなかった。
せっかくの美味しい食事も恋人との楽しいひと時も彼女のせいで全部台無しだ。今日は最高のシチュエーションで最高のプロポーズをするはずだったのに、全く逆の意味で思い出の一日になってしまった。
あぁもう本当に最悪だ。
まさかジェイドがこんなにも見る目がないなんて思わなかった。とは言えすっかり彼女に惚れ込んでいるジェイドに何を言ったって無駄なのはわかりきっているし、真実を伝えたところであいつの恨みは相手の男にいくだろうから下手をすれば死人が出かねない。仮に上手く説得して別れたとしても信じていた恋人を失ったショックで使い物にならなくなるかもしれないし、どちらに転んでも僕には都合の悪いことばかりで本当に頭が痛い。ジェイドの事だから死体処理は完璧にこなすかもしれないけれど、殺人犯を雇い続けるのは発覚した時のリスクが大きすぎるし、振られてヤケになったあいつを宥めることを考えるとそれ以上に厄介だ。
あぁ、一体なぜ僕があいつの事でこんなに頭を悩ませなくちゃならないんだ。全くもって煩わしいことこの上ないが、この問題を解決しないと僕のモヤモヤは晴れそうにもない。
結局その日はいつも通りのデートを終えて恋人を家まで送り届け、翌日僕はすぐにフロイドにレストランでの話をした。フロイドとてたった一人の兄弟がコケにされるのは許さないだろうと思ってのことだったけど、僕の予想に反し、フロイドの答えはなんともそっけないものだった。
「そんなのほっとけばいいじゃん」
「え、でもジェイドが浮気されてるんですよ? あれだけ惚れ込んで尽くしてるのに可哀想だとは思わないんですか」
「アズールは思うの?」
そう言われるとなんとなく言葉に詰まる。
なんだか厄介なことになりそうだなとは思うけれど、かわいそうかと聞かれるとよくわからない。
「……かわいそうというか、哀れだなとは思いますね。あのジェイドが十年も付き合ってる人に裏切られるだなんて」
「ふーん。てかさぁ、あのジェイドが十年も付き合ってる相手の浮気に気付かないわけねぇと思うんだよなぁ」
盲点だった。
そう言われてみれば確かにその通りではないか。いくら恋は盲目と言ってもあのジェイドが恋人の浮気に気付かないはずがない。
「じゃあ、もしかして知っていて泳がせていると……?」
「その可能性はあるかもね」
「なんのために!?」
「さぁ? 決定的な弱みでも握って絶対逃さないようにするためとか?」
「だとしても恋人が他の男との接触するのをジェイドが許すとは思えないんですが……」
「しらね〜。ジェイドの考えてることなんてさっぱりわかんないし。もう直接聞いちゃえば?」
「嫌ですよもし本当に知らなかったらどうするんです! 殺人事件のもみ消しに奔走するなんて僕は御免ですよ」
「殺人事件てなに。てか起こったらもみ消す側になってくれるんだウケる」
「御免だと言ったのが聞こえませんでしたか?」
フロイドなら分かってくれるだろうと期待した僕が愚かだった。この兄弟、仲はいいくせにお互い自由人すぎて干渉することがほとんどない。学園を卒業をした後はてっきりふたり一緒に住むものだとばかり思っていたけれど、ふたりは卒業と同時にあっさりと離れ、以降はずっと別々に住んでいる。とは言え頻繁に互いの住居を訪れているようではあるが。
「つーかアズール過保護じゃね? 十年も付き合ってりゃそりゃ色々あんでしょ」
「色々の中に浮気が含まれるのはどうなんだ」
「そうだとしてもさー、別にオレらがどうこう言うことじゃないじゃん。ジェイドが自分でどうにかすんでしょ」
「あいつが何かやらかしてからじゃ遅いから言ってるんですよ!」
「ジェイドもいいオトナなんだからそんなヤバいことはしないって。たぶん」
「たぶんじゃ困るんです」
フロイドに話しても全く埒が明かない。だからと言ってジェイドに直接探りを入れるのは憚られるし、どうしたものかと考えあぐねていると、いつもより少し遅く出勤してきたジェイドが現れる。
「おはようございます」
「おはようございますジェイド」
「おはよ〜」
いつものように挨拶を交わすとジェイドはそれ以上雑談することもなく着席し、なんとなくいつもよりおとなしいジェイドに違和感を覚える。いつもなら出社するなりどうでもいい小話の一つでもして僕やフロイドに鬱陶しがられるのに、いつものヘラヘラした笑顔すら浮かべずどこか固い表情で、それでいてすこしそわそわと落ち着かない様子のジェイドはとても珍しい。
「ジェイド、なにかあったんですか」
無意識にそう声をかけてしまった後で、僕はもしかして、と息を呑む。
まさか昨日のことですでに何かをやらかしたんだろうか。こいつの事だから人ひとり始末したところでスッキリした顔でむしろ上機嫌になるのではと想像していたけど、ジェイドにもまだ人の心が残っていたのかもしれない。もしジェイドから「人を殺してしまった」と告白されたらどうすればいいか、僕はその先にすべきことに全力で思考を巡らせた。
でも結果として、ジェイドからそんな告白をされることはなかった。
顔を上げたジェイドは驚いたように少し目を開きしばし呆然と僕を見ていたけど、その内にいつものニタニタした笑顔に戻って「いいえ」と首を振った。
「何もありませんよアズール」
そう言った時にはもうすっかりいつものジェイドで、さっきまでの様子はなんだったのかと思うほどすっきりした表情になっていた。
「あなたこそ今何かとても失礼なことを考えてましたね? そんなに心配なさらなくても、あなたにご迷惑をお掛けするようなことはしておりませんよ」
なんだか全てを見透かされたようにそう言われ、今度は僕の方が拍子抜けしてぽかんとジェイドを見てしまう。
「ほら、アズールの考えすぎだって」
「おや、僕のいないところで内緒話をしてらしたんですか? どんな話をされていたのかとても気になります」
「別にたいした事では……」
「おやおや、ふたりで僕に言えないような悪口を言ってらしたんでしょうか……、ひどいですとても傷付きます」
「ウゼェ〜、いい加減飽きたわそれ。じゃなくて小エビちゃんがー」
「うわぁフロイド! バカやめなさい!」
「おや、ユウさんがどうかされたのですか?」
涼しい顔でそう返してきたジェイドは本当に何も知らないのかもしれない。放っておけと言ったくせになんでいきなり直接言うんだお前は! 気まぐれにもほどがあるだろ!!
「いいじゃん別に。昨日小エビちゃんがいい感じのレストランで知らない男と会ってんのをアズールが見たんだって。そんでそれがジェイドにバレたらなんかやらかすんじゃないかってアズールがさぁ〜」
あぁ、なぜ全て言うんだ本当にこいつは……。
ジェイドはどんな反応をするんだろうと恐る恐る様子を伺えば、ジェイドは相変わらずいつもと変わらぬ笑みで静かに僕を眺めていた。
「なんかとは、たとえば人殺しとか?」
「う……っ、そうですその通りですよ。恋人の浮気なんてお前が許すはずないと思ったんです。お前ならそのくらい平然とやるかと」
「おやおや、アズールは一体僕のことをなんだと思われているのでしょうか……。それはさすがに傷付きますね」
ジェイドはいつものようにわざとらしく眉を下げ、しょんぼりとして見せるけど相変わらず胡散臭さしかなくて本当に傷付いているのか全くわからない。
「まぁそれより振られたお前が腑抜けになってしまうことの方が厄介なんですが」
その言葉にはジェイドがぴくりと反応し、目を丸めて僕を見る。
「僕が殺人犯になるよりも、振られた時のことを心配されていたのですか」
「えぇまぁ。犯罪を犯したところでお前の気の済むようにすればすっきりするかもしれませんけど、やり返す気力もないくらい落ち込んだお前を宥めるのはものすごく骨が折れそうなので」
「やっぱアズールって面白いよねぇジェイド」
僕としては本当にそう思うから言ったに過ぎないのに、なぜかフロイドがニヤニヤとそんなことを言うし、さっきまで目を丸めていたジェイドまで肩を震わせて笑い出す。
「ふふ……っ、えぇ、アズールは本当に何を言い出すかわからない」
「何かおかしなこと言いました? 人魚にとって恋は一生ものでしょう。お前がこれだけ入れ込んでいる人から振られたらなんて考えたら……、心底ゾッとします」
「おやおや、次から次へと恋人が変わるあなたがそんな風に仰るとは驚きです。あなたはいつもとても切り替えが早いようですが」
「それは……、いや僕のことはいいんです! 今はお前の話でしょうジェイド。それで、ユウさんのことはどうするんです。別れるんですか?」
ジェイドがここまで動じないのは予想外だったけど、恋人に浮気されていたと聞いてこいつが許すはずがない。相手を沈めないのなら当然別れるつもりなんだろうと確信してそう言ったけど、ジェイドの反応は全く予想外のものだった。
「彼女がいつ誰と会っていても僕は構いませんよ。それは彼女の自由ですから」
「は……?」
「と言うか、昨日のことは彼女から聞きました。アズールと会ったことも」
「はぁ……? それってあれでしょう、僕にバレてしまったからには先に自分から伝えて誤解だとか弁明してきたのでは?」
「そもそも異性とふたりで食事をしただけで浮気というのは無理があるでしょう」
「騙されるんじゃありませんジェイド! 手を握られたくらいで頬を染めたりして、アレはどう見ても黒でしたからね!? 僕に会わなければきっとあの後最後までいってましたよ間違いない!」
「おやおや……、推測だけで物を語るなんてあなたらしくないですよアズール」
「お前が彼女を信じたい気持ちはわかりますけど、僕を見た時の彼女の気まずそうな顔と言ったら……、アレは絶対にやましいことがある人の態度でした。アレは間違いなく浮気です!」
ジェイドがあまりに落ち着いて予想外の反応を見せるものだから、なぜか僕の方がどんどんヒートアップして止まらなくなってしまう。
ジェイドほどの男があんな浮気女と付き合う理由なんてないだろう。ジェイドにはもっと相応しい人が絶対にいるはずだ。ジェイドがこんなにも愛情を注いでいるのにそれに気付かない傲慢な女なんてさっさと捨てて別の人を探すべきなのに、どうしてジェイドにはそれがわからない。
「アズール、ジェイドが困ってるよ」
フロイドにそう言われてハッとする。
つい一人で熱くなってジェイドの顔もまともに見ていなかったけど、スッと冷静になってジェイドを見れば、ジェイドは今度こそ困りきったように眉を下げていた。
「アズール、先ほども申し上げましたが僕は彼女がいつ誰といてもいいんです。彼女の自由を奪うつもりはありません」
「……だから結婚しないんですか?」
その質問には困り顔を見せただけでジェイドはなにも答えなかった。ただ曖昧に笑って、どこか悲しそうな表情を浮かべただけ。
そんなジェイドにどんどん苛立ちが募る。お前はそんな男じゃないだろう。自分勝手で強引で、他人の都合なんてお構いなしに自分の好奇心だけで突き進むような奴じゃないか。そんなジェイドが自分の気持ちよりも相手の気持ちを優先して、しかも明らかにコケにされているというのにやり返しもせず甘んじているなんて全くジェイドらしくない。
そんなジェイドにとても納得できず、なんとかして本心を暴いてやりたくて僕は更に追い討ちをかけた。
「ではお前は、彼女が他の男と関係を持っても全て許すんですか」
「僕に許す許さないなどという権利はありません」
愛しているから何をしても受け入れると、ジェイドは本気でそんな風に考えているのだろうか。
メッセージひとつで仕事を放り出して駆けつけるくらい愛しているのに、同じだけの愛情を返してもらえなくてもジェイドは平気なんだろうか。
独占欲も執着心も人一倍強いジェイドが、その全てを抑え込んででも望む人が彼女なのか。
「そんなにあの人を愛しているんですか」
「ユウさんは僕にとって掛け替えのない大切な人なんです」
穏やかに言うジェイドに僕はムッと眉を顰める。
それが本当の愛だとでも言うのか。
心から誰かを愛したことのない僕にはわからない。わからないけれど、すこしだけ羨ましいと思った。
永遠の愛なんて信じたことがない僕にはきっと一生理解できない感情なんだろう。
自己犠牲なんてクソ食らえじゃないか。愛する人のために自分だけが我慢するなんてそんなの僕にはきっと耐えられない。
でもジェイドにはできるのか。
そしてそんなジェイドの愛情を一身に受けるのはあの人なのだ。
何もかも平凡で身寄りすらなく、一切の魔力を持たない異世界人のユウさん。
僕はこの日、初めて彼女を妬ましいと思った。
それから一ヶ月ほど経った頃、街中でユウさんを見た。
手を繋いで楽しそうに歩く男はやっぱりジェイドではなくて、この間レストランで会った男ですらない。でも僕は今度こそ見なかったふりをして通り過ぎることにした。
彼女がどこで誰と会っていようが彼女の自由。
それをジェイド自身が認めているのなら、僕が何か言う必要なんてない。
だけど見て見ぬふりをしようとしたそのふたりから、僕はなぜか目を離せなかった。本当に楽しそうに笑い合うふたりは誰がどう見ても幸せな恋人同士で、相手の男はきっと彼女に十年も付き合っている恋人がいるなんて思いもしないだろう。
まんまと騙されている男も哀れだし、それ以上にジェイドを蔑ろにする彼女が許せなかった。ついこの間もジェイドを呼び出したくせに、どうしてこんな風に他の男と笑い合ったりできるんだ。
彼女のこんな本性を知るまではジェイドが幸せそうで何よりだと思っていたのに、その裏にこんな事実があったのかと思うととても祝福なんてできない。ジェイドがそれでいいならもう放っておこうと決めたのに僕のモヤモヤはずっと晴れないし、あの日渡せなかったエンゲージリングは今もずっと僕の引き出しに眠ったままだ。
このままじゃ僕まで前に進めない。
こんなモヤモヤを抱え続けたまま自分だけ結婚になんて踏み出せない。だからこれは僕自身の為なんだと、言い聞かせて僕は駆け出した。
「ユウさん」
男と繋いでいない方の手首を咄嗟に掴み、はぁはぁと肩で息をしながら驚いて固まった彼女をじとりと睨みつける。
「少しお時間よろしいですか」
「え、誰」
彼女を自分の方へ引き寄せようとする男を無視して、僕は掴んだ手に力を込める。自分のバカ力は理解しているつもりだったけど、今日引くつもりはなかった。
「痛……っ、」
「ちょっとアンタなに! 離せって!」
「ごめん大丈夫だから。アズール先輩、離してください」
僕を認識して落ち着きを取り戻した彼女がはっきりとそう言って、僕はスッと手を離した。どうやら彼女も、今日は逃げるつもりはないらしい。
「ごめんね、学生時代の先輩なんだけどちょっと話があるから」
「は!? 何言ってんのユウ、こんな奴に付いてく気かよ」
「うん、ごめん。また連絡するから今日は帰って」
「いや待てって危ないだろ。どうしても話さなきゃいけないならオレも行くから」
「ごめん、ふたりで話したいから。行きましょアズール先輩、そこのカフェでいいですか?」
もはや男の言葉を待たずさっさと歩き出した彼女に、置き去りにされた男が呆然として立ち尽くす。さっきまでイチャイチャしていた恋人がこんな風に態度を変えればああなってしまうのは当然だろう。僕は男を少しだけ哀れに思いながら彼女を追ってカフェに入り、向かい合って座ると彼女がいかにも不機嫌そうにため息を吐く。
「ほんっと最悪……」
は? と大声で言いそうになったのをなんとか堪えた僕を褒めて欲しい。
なんだこの女。
前回の時はいかにも気まずそうに顔色を悪くしていたくせに、二回目ともなるとここまで開き直るものなのか?
「ここ先輩持ちですからね」
「……えぇもちろん。せっかくお楽しみのところ引き止めてしまったのは僕ですので構いませんよ」
「楽しんでると思ったなら声掛けないでくださいよ最低。これで振られたらアズール先輩のせいですからね」
「はぁ!?」
無理だ。もう我慢できない。
「どの口が言ってるんですかあなた! ジェイドという恋人がいながらよくもまぁ次から次へと……、ジェイドに悪いとは思わないんですか?」
「別に」
「別に……!?」
あまりに悪びれない彼女の態度に怒りが込み上げる。もう無理だ、許せない。こんな人は僕の右腕には相応しくない。いくらジェイドが許そうと、この僕が絶対に許さない。
「あなたがここまで最悪な女だとは知りませんでした」
「なんだ、アズール先輩も結構見る目ないんですね」
「な……っ、なんて女だ……! あなたがジェイドの恋人だなんて僕は絶対に認めませんからね。どんな手を使ってでも別れさせますからそのおつもりで」
怒りに震える手をぎゅっと握り込んでなんとか抑え、ギロリと彼女を睨みつける。こんなに腹が立ったのはいつぶりか分からないくらい腹が立って、自分でも冷静さを欠いているのは分かっていながらなんとかそれだけ言い放つ。でも彼女の方は全く堪えた様子もなく、それどころかひどく冷めた様子で冷静に僕を見返していた。
「どうしてですか?」
「どうして……?」
「アズール先輩になんの権利があってそんなこと言うんですか? フロイド先輩が言うならまだわかるけど、アズール先輩ってジェイドさんの家族でもなんでもありませんよね。それどころか友達でもないんでしょ? だったらアズール先輩はジェイドさんの何?」
「なにって……」
深く考えたことなんてなかった。
確かに僕はフロイドのような血縁者ではないし、同郷の腐れ縁で有能だから重用しているけど友人と言うのはむず痒い。周りから見れば幼馴染という関係なのかもしれないけれど、僕らは何も幼少期からずっと一緒だったわけじゃないからその言葉も僕はなんとなくしっくりこない。だとすれば、現状僕らはただの仕事上の関係でしかなかった。
「上司ですかね……」
「ふぅん、普通上司って部下のプライベートにまで口出しするものですか? だる」
「だるって……」
「だってそうでしょ。軽くアドバイスする程度ならともかく本人の意思を無視して絶対別れさせるとか意味わかんないです。上司が認めなかったからってだからナニってかんじ」
昔から唐突に鋭い言葉を吐いたりする人ではあったけど、彼女からド正論を突きつけられて僕はぐっと言葉に詰まる。
「それに、ジェイドさんは知ってますよ。わたしがこういう女だって」
僕だって知ってる。
ジェイドがわかっていてそれでも彼女を受け入れていることを。
でも、でもそんなのあんまりじゃないか。
「……あなたは、本当にジェイドに申し訳ないと思わないんですか。ジェイドの気持ちを知っていながら、彼を裏切っていることに少しも罪悪感はないんですか?」
「罪悪感?」
僕は気付かれぬ程度にごくりと息を呑む。
どうかあって欲しい。
彼女の中に少しでもジェイドを思う気持ちがあってくれなければあいつが報われなさすぎる。
「ないですね」
あぁ。
最悪だ。
ジェイドはなぜこんな人を好きになったんだ。
「……いつからですか。あなたはいつからジェイド以外の男と」
「そうですねぇ……、23の時だったかな。わたし結構惚れっぽいみたいで、すぐ好きになっちゃうんですよね。まぁ別れるのも早いんですけど」
そう言ってアハハと笑った彼女にもう何も言えなくなる。
本当になんで。なんでよりにもよってジェイドはこの人を愛してしまったんだ。もう五年もそんな関係を続けているなんて、そもそもこの人のどこにそこまで愛する要素があると言うんだ。
「でもジェイドさんはそんなわたしを受け入れてずっとそばにいてくれるんです。本当に変な人ですよね」
そう言った時だけ、彼女の表情がほんの少し変わった気がした。
さっきまでの冷めきった表情が和らいで、困ったように眉を下げたその顔を見れば愛がないなんて思えない。
「本当はあなたもジェイドが好きなんですよね? あなただってジェイドのことは大切に思っているんでしょう?」
僕は縋るような気持ちでそう尋ねた。
好きだと言って欲しい。ジェイドのことを大切に思っていて欲しい。だから心を入れ替えてジェイドのことだけ愛するとそう言ってくれれば、もう一度だけふたりの未来を信じてみたいと思った。
「もちろん、ジェイドさんのことは好きですよ。ジェイドさんはわたしにとって掛け替えのない大切な人です」
「それなら、」
「でも彼だけじゃダメなんです」
「どうして……」
好きだと言うくせに、大切だと思っているのに、なんでジェイドだけじゃダメなんだ。
落ち着きかけていた怒りがまたふつふつと湧き上がる。そしてふたりの感情が全く理解できないことが更に僕を苛立たせた。お互いを掛け替えのない存在だと認識しながらどうしてふたりじゃダメなんだろう。愛しているのに浮気を受け入れるジェイドの気持ちも、ジェイドの愛を知りながら浮気する彼女の気持ちも全く分からない。
そしてそのことにどうしてこんなにも腹が立つのか、僕はそれが一番分からなかった。
「それよりわたしはアズール先輩の気持ちの方が気になるなぁ」
「は……、僕?」
「先輩もうすぐ結婚するんですよね。プロポーズできました?」
「は……っ、なぜあなたがそんなことを」
「だってジェイドさんがなんでも話してくれるんですもん。アズール先輩がめちゃくちゃ真剣に指輪選んでたこととかたまに指輪眺めてニヤニヤしてたこととか」
「う……っ、あいつ」
「アズール先輩の恋人ってこの間レストランで会った人ですよね? めちゃくちゃ美人だったなぁ〜。温厚で人柄も良さそうだったし、社長夫人として隣に立つには最高の方ですよね」
急にニコニコして饒舌になった彼女の言葉は褒めているようでいて少しトゲがあり、わざと含みを持たせているのは明らかだ。
「何が言いたいんです」
「いえいえ、アズール先輩こそどんな気持ちなのかなぁって。別に愛してもない人にプロポーズするのは」
「は……」
「だってアズール先輩恋したことないでしょ? アズール先輩はずっと探してたんですよね。自分の隣に並んでも見劣りしなくて、社交の場でもきちんとした振る舞いができる知識と教養があって、仕事には口を挟まず分を弁えた控えめな性格で、しかも実家の太い素敵な女性を! 良かったですね、やっと理想の人に巡り会えて。でもそこに愛ってないんですよね? わたしにはよく分からないんですけどお金持ちの人たちは今でも家のためとかに結婚される方って多いんですか? だったら別に愛はいらないのかな……? その辺アズール先輩はどう思ってるのかなって。人魚の方はすごく一途でロマンチックだから。あ、でも価値観は人それぞれなのでそういう結婚観を否定するつもりはないですよ! みんな色んな事情があるんだし何が良くて何がダメなんて一言では言えないじゃないですか。だからわたしはアズール先輩はそれでいいと思うけど、アズール先輩は当事者同士が納得してるわたしとジェイド先輩の関係は許せないんですよね……?」
ぐぅの音も出ない。
あまりに正論すぎてこの僕が返す言葉もなかった。しかも両者納得の上で交際している二人と違って、純粋な僕の恋人はきっと僕に愛されていることを疑ってもいないはずだ。僕はそんな純粋な人を騙し、心にもない用意されたセリフでプロポーズしようとしている。
どっちが酷いかと言われれば、そんなの当事者以外に判断しようもない。僕を責められるのは僕の恋人だけで、ユウさんを責めていいのはジェイドだけ。ふたりの関係に、他人の僕が勝手に口を挟むべきじゃなかった。
「……すみません、出過ぎたことを言いました」
あからさまにトーンダウンして項垂れる僕は、彼女にはきっと滑稽に映ったことだろう。ひとりで勝手に怒って勝手に凹んで、しょんぼりする情けない姿を彼女の前で晒すことになるなんて。人前でこんな情けない姿を晒すのはオーバーブロットしたあの日を最後にしようと誓ったはずなのに、まさかまたこの人の前で失態を犯すとは。
「アズール先輩、なんか凹ませちゃって申し訳ないですけど、先輩がここまで怒るのってそれだけジェイド先輩のことが大事だからだと思うんですよね。そこ自覚してます?」
「はい……?」
「例えば他の部下がわたしみたいなロクでもない女と付き合ってたとして、わざわざその女とっ捕まえて問い詰めて別れさせようとします?」
「そんなことするわけないでしょう、部下の交際相手にそんなことしたら異常者ですよ」
「んふふ、壮大な矛盾。今日のアズール先輩はその異常者だったわけですけど、もうこの時点でジェイドさんはただの部下じゃないですよね」
「は……っ、確かに」
「気付くのおそ。じゃあほんとはなんなんですか?」
「ほんとは……?」
「家族ではないですよね。じゃあ友達? 幼馴染?」
「幼馴染と言えばそうですけど、友達かと言われると……」
「じゃあ親友」
「ちょ……、やめてください鳥肌立つじゃないですか」
「うーん難しいなぁ……。でもクソ女に振り回されるのはムカつくんですよね」
「あなたご自分のことをそんな風に」
「思ってたでしょ? ド平凡な無能のくせに優秀な右腕を蔑ろにする最低のクソ女だって」
「ウ……ッ」
「アズール先輩顔に出過ぎ。そんな所も可愛いんですかねぇ」
「は? かわいい??」
「あぁすみませんこっちの話です。とにかく、ジェイドさんのこともう一度ちゃんと考え直してみたらいいんじゃないですか?」
「ジェイドのことを考え直す……? 給料の査定ですか?」
「もう! 違いますってば急にボケないで」
「では何を」
「アズール先輩にとってのジェイドさんとはなにか」
「は? ジェイドはジェイドでしょう」
「なんで急にIQ下がるかな。じゃあヒント」
「お願いします」
「アズール先輩はとっくに恋を知っているかもしれない」
「は??????」
なぜそこで恋の話が出てくるのか、本当にわからず頭の中が疑問符だらけになってしまう。
「わたしからこれ以上は言えません。アズール先輩、お願いだからよぉく考えて。そして結論が出たら、ほんとにほんとにお願いだからそれを素直にジェイドさんに伝えてください。そしたらわたし、ジェイドさんと縁を切ってもいいです」
疑問符だらけの頭の中は、その言葉でさらなる混乱に陥った。なぜ僕がジェイドのことを考え直すとふたりが縁を切ることに繋がるのか。
「何も縁まで切らなくてはいいのでは……?」
さっきまでは絶対別れさせてやろうと思っていたのに、混乱した頭でなぜかそんな言葉が漏れて、彼女は呆れながら目を細め今日初めて見る穏やかな笑顔を浮かべた。
「アズール先輩、わたし、ジェイドさんには誰よりも幸せになって欲しいんです」
あ、答えが出るまで絶対彼女にプロポーズしないでくださいねと付け加え、注文したケーキセットを綺麗に平らげると「ごちそうさまでした」と満面の笑みを浮かべ彼女は帰って行った。
そしてそれから三ヶ月、僕は未だ彼女からの宿題の答えを出せずにいる。
いくら考えても僕にとってのジェイドがなんなのかはわからないし、彼女の言葉を守る義務なんてないのに用意した指輪はいつまで経っても僕の引き出しの中だ。
結局あの後ユウさんとあの男はどうなったんだろう。今のところジェイドが振られたという話は聞かないし、いつも通りのジェイドのまま日々は問題なく過ぎていく。ジェイドは相変わらず有能だし僕と恋人との仲も変わらずうまくいっているし、もうこのままじゃダメだろうか。
ジェイドが現状に不満がないならそれでいいじゃないか。かなり歪な関係ではあるけどふたりともお互いを大切に思っているようだし、やっぱり最初から僕が口を挟まなくても良かったんだ。だったら今度こそ僕は恋人にプロポーズをして、新しい人生を歩んで行くべきじゃないか。
そうだそれがいいと、指輪をしまい込んだ引き出しに手をかけた、その時だった。
スマートフォンの着信音が鳴って、電話に応じたジェイドの表情がサッと曇る。いつも通りに丁寧な応対はしているけれど、いつもより少し緊張感のあるその声に僕は仕事の手を止めた。ジェイドは話しながらで手帳に何かを書き留め、電話を終えると手帳をスーツのポケットに戻して立ち上がった。
「何かあったんですか」
「ユウさんが救急搬送されたそうで、今から行ってきます」
「マジ?」
「え、大丈夫なんですか」
「詳細は分かりませんが意識はあるそうです。何かあれば連絡します」
「そうですか……、お前も気を付けて」
「ありがとうございます。では申し訳ありませんが僕はこれで」
簡単に支度を整えるとジェイドはそのまま慌ただしく部屋を出て行って、僕はなんとなく落ち着かない気持ちのまま開きかけた引き出しから手を離した。
「救急搬送だなんて大丈夫なんですかね……」
「ジェイドの方が動転して事故んなきゃいいけど」
「縁起でもないことを言うな」
そうフロイドを嗜めたものの、いくらジェイドでもユウさんの事となると何をやらかすかわかったものじゃない。僕はジェイドが無事にたどり着くことを祈りつつ、同時にユウさんの容態が悪くないことを願う。もしユウさんの身に何かあったらそれこそジェイドがどうなってしまうか分からない。
「やっぱりお前も一緒に行ってくださいフロイド、あいつ一人じゃ連絡を寄越すかも怪しい」
「仕事途中だけどいーの?」
「いいから、追いつかなくなる前に早く行きなさい」
「はぁい、じゃあ行ってくんね」
フロイドを追い出すように送り出し、僕は一人きりになった執務室でなんとかデスクに向かう。正直気になって仕事どころではなかったけど、ふたりを行かせてしまった以上そうも言ってられない。
それから連絡が来るまでの間は本当に長く感じられたけど、フロイドから「貧血で倒れただけらしい」と連絡が来てなんとか胸を撫で下ろす。念の為今日は入院して明日退院するとかで、ジェイドは付き添いのために明日も休むと言うからいいからもっと休めと週末まで三日の休みをやった。
そうしてそれからニ時間もするとフロイドが帰ってきて、なんだか見たことのない不思議な顔をしていたから僕まで変な顔になってしまう。
「どうしたんですかフロイド、ユウさんは大丈夫だったんでしょう」
「うん、心配かけてごめんなさいって言ってた」
「そうですか、話もできたなら安心ですね。じゃあその顔なんなんですか」
「いやなんか、ジェイドってほんとに小エビちゃんのこと大事なんだなって思って」
「何を今更」
「実はオレまだちょっと疑ってたんだよね。ジェイドの好きな子って小エビちゃんじゃないんじゃねぇかなって」
「何を言ってるんだ急に。今まで散々浮かれウツボを見てきたじゃないですか」
「んー……、そうなんだけどなんか、うまくいえねぇけど、アズールの言う通りかも」
「なにが」
「小エビちゃんになんかあったら、ジェイドダメかもって」
フロイドが神妙な顔でそんな事を言うからどきりとした。今まで僕が一人で騒いでいてもフロイドだけはあっけらかんと笑っていたからなんとなく大丈夫な気がしていたけど、フロイドがこんな風に真剣に言うと途端に不安になる。
そしてそれと同時に、思い知らされて胸がちくりと痛んだ。
やはり彼女はジェイドにとって本当に大切な人なのだ。僕が何を言おうが全く響かないくらいジェイドにとって彼女の存在は大きくて、もし彼女を失ったりしたら、きっとその穴は僕では到底埋められない。
そう思うとさっきよりも強くずきりと胸が痛んだ。
その痛みはズキズキとどんどん強くなって、でもどうしてこんな風に胸が痛むのか、僕にはどうしても分からなかった。
週明け、ジェイドは出社すると真っ先に僕の前に立った。
「アズール、お休みをありがとうございました。おかげでユウさんともゆっくり話し合えました」
「そうですか、それでユウさんの体調は」
「えぇもうすっかり落ち着きました。しばらくは安静が必要ですが僕がついているので心配はいりません」
「それは良かった。付き添いが必要なら遠慮なく言ってくださいね」
「ありがとうございます。ではお言葉に甘えて申し上げますが」
彼女が良くなるまでもう少し休みたいという話だろうか。まぁいくらでもとは言えないが、少し長めの休暇になっても仕方ない。
「ユウさんと結婚します」
「はい?」
「こどもができたんです。妊娠のためとは言え彼女の体調もあまりよろしくないので、いっそ退職して彼女と暮らそうかと」
「はぁ!? 待て待て待て! 結婚はいいですが退職する必要はないでしょう! 必要なら長期休暇は許可しますから……」
「いえ、もう決めたんです。会社は辞めます」
「そんなこと言って収入はどうするんです。こどもが産まれるのに退職だなんて、無職でどうやって育てる気なんだ」
「それはまぁ色々と。貯金も不労所得もありますし当面の生活には困りません。いざとなれば実家の仕事をすこし手伝ってもいいですし」
「それなら別にここの仕事を続けたっていいじゃありませんか。在宅ワークも可能ですし時短勤務だって……」
「実は、会社を辞めることが結婚の条件なんです」
「は……?」
「アズールと縁を切らないなら僕と結婚はしないと言われてしまいまして……、そういうことなので申し訳ありませんが僕はユウさんと結婚するために会社を辞めます。アズール、長い間大変お世話になりました。あぁもちろん引き継ぎはきちんとしますのでご心配なく。業務が滞ることのないように手筈は整えておきますね」
ニコニコと笑顔を浮かべながら矢継ぎ早に繰り出される報告に全く頭が付いていかない。結婚、妊娠、退職……てなんでだ!?
僕と縁を切ることが結婚の条件? なぜなんだ意味が分からない! 誰が好きこのんで無職の男と結婚なんかするって言うんだ。それにあの人、この間は自分が縁を切ってもいいだなんて言っていたのに今度は僕と縁を切れだって? 一体なぜ!? と言うか突然こどもができたってなんだ。あちこちの男と遊び歩いていたくせに妊娠した途端ジェイドと結婚? そりゃ結婚相手としてジェイドのスペックは最高だけど都合が良すぎるにも程があるだろ。それ以前にこどもって、それは本当にジェイドのこどもなのか!?
僕はパニック状態のままジェイドを見上げた。
まさか「本当にお前の子供なんですか?」なんて面と向かってはとても聞けないし、だからと言って自分の子じゃなくてもいいだなんて本人の口から聞くのもキツすぎる。
そもそもどっちだかジェイドはわかっているのか? いや子供なんて生まれてみなきゃ誰の子かなんて分りゃしない。彼女から「間違いなくあなたの子よ」なんて言われたものならジェイドは泣いて喜ぶだろうし、病院から真っ先にジェイドに連絡が来たことを考えればジェイドの子だと考えるのが妥当……。
これは、祝福して送り出してやるべきなんだろうか。
彼女のこどもがジェイドの子でもそうでなくても、それがジェイドの幸せなら背中を押すべきなのか。
ジェイドがしあわせなら。
じゃあ、ジェイドのしあわせってなんだ?
愛する人と結婚してこどもを育てるのはきっとしあわせなことだろう。愛する人がジェイドを愛してくれるなら尚更。
でも、彼女は本当にジェイドを愛しているのか?
「彼だけ」ではダメなんだとユウさんは言った。
じゃあこどももいれば彼女は満たされる?
その子さえいれば、彼女はずっとジェイドだけを見てくれるんだろうか。
愛のない結婚をしようとしている僕にはやっぱり分からなかった。
愛なんてものはなくても結婚はできる。
形だけの家族なんていくらでも作れるじゃないか。
それなのに、ジェイドには心から愛し合った人と家庭を築いてもらいたいと思うのはなぜなんだろう。
ジェイドを悲しませたくない。
ジェイドが妻に愛されない苦しみを抱え続ける姿なんて見たくない。
ジェイドには、愛した人に愛されるしあわせな一生を送って欲しい。
やっぱりもう一度、彼女に会わなければと思った。
彼女がジェイドを愛してくれるならそれでいい。こどもの父親が誰だろうと、彼女がジェイドと生きていくことを決めたならもうそれでいい。
でもどうしても分からないのは、僕と縁を切ることを彼女が結婚の条件にしたことだ。それが彼女にとって一体なんのメリットになるんだろう。僕の会社にいれば重役の席は安泰なのに、結婚するならそれを捨てろとは一体。
いくら考えてもその意図は掴めず、結局僕は彼女に会って直接確かめることにした。彼女がいつ誰と会っていても構わないと言うなら僕が彼女に会ったって構わないだろう。そう言ったのはジェイド自身なのだから、僕が勝手に彼女を訪ねたところでジェイドに咎められる謂れはない。
「こんにちはユウさん、体調はいかがですか」
僕は仕事の合間を縫って日中に彼女の家を訪ねた。例え二人きりで会うことに問題はないとしても、ジェイドに邪魔をされてはまともに話ができるとは思えない。だからジェイドが確実に仕事中である時間を狙って彼女に約束を取り付けた。
「もう大丈夫です。ジェイドさんが心配症過ぎるだけで全然元気なんですけどね」
「そうでしたか、あいつは大袈裟なところがありますから」
「まぁ立ち話もなんですし、狭いですけどどうぞ」
そう言って通された部屋は本当に狭くて、古さに目を瞑ればここよりあのオンボロ寮の方がよほど快適だったろうなと思わずにはいられない。
「アズール先輩はこんな狭いところ住んだことないでしょう。でもわたしのお給料じゃここが精一杯で」
僕の不躾な視線に彼女はあははと自虐的に笑ったけれど、今の僕はそんな彼女の一言にすら神経を尖らせてしまう。こんな狭い部屋で一人暮らしが精一杯の生活で、どうしてこどもを作ったりできるんだ。ジェイドがいたから良かったようなものの、もし一人で育てるつもりだったならこどもに不自由をさせるのは目に見えている。
「そんな怖い顔しないで下さいよ。まぁどうぞ」
そう言って勧められた二人掛けのダイニングセットのイスに座り、出された紅茶を一口啜る。
「おや、お茶を淹れるのはお上手なんですね」
「ジェイドさん直伝ですから。それに茶葉はジェイドさんが持ってきてくれた高級茶葉なんで」
「なるほどそれは納得です」
そんな些細なことからでも彼女の近くにジェイドの気配を感じてしまう。ジェイドが彼女のために持ってきた高級な茶葉、ジェイド直伝の紅茶の淹れ方。この狭苦しい質素な部屋に、ジェイドは一体何度訪れたんだろう。ジェイドの存在が彼女生活の一部になっているという現実に、この空間に自分がいる居た堪れなさに息が詰まる。そして息苦しさに乾いた喉を潤そうと、無理やりに流し込んだ紅茶はひどく苦かった。
「ところで、アズール先輩が気になっているだろうことですけど」
カップを静かにソーサーに下ろした彼女が沈黙を破り、向き合った僕をまっすぐに見てはっきりと言った。
「ジェイドさんの子じゃないですよ」
想像していたことではあるけれど、僕はその言葉に思わず息を飲む。
「それどころか名前も知らない一夜限りの相手との間にできた子なんです。最低でしょ」
「……そのこと、ジェイドは」
「もちろん知ってますよ。彼はそれでもいいって」
「それであなたは、どう思ってるんですか。ジェイドと、結婚することを」
どくどくと激しくなる鼓動で声が震えてしまわないように、一言ひとこと、僕はゆっくりと区切って言葉にする。
今僕が抱えているこの感情がなんなのかわからない。怒りなのかかなしみなのか、それとも諦めなのか。
ジェイドは自らこの人を選んだのだと必死で納得させようとする。自分の意思で、自分から望んで、ジェイドはこの人を本気で受け止めようとしているんだ。
「結婚相手としてはいいですよね。顔はいいしお金持ちだしわたしのこと大好きだし、一生尽くしてくれそう」
真剣さのカケラもないような口調でケラケラと、ジェイドのことを小バカにしたようなこの女を今すぐはっ倒してやりたかった。
本当にどうしてなんだジェイド。
どうしてよりにもよってこんな女のことを、お前は。
「あなたはジェイドのことが好きなんですよね? 自分の子でないと知りながら結婚を申し出てくれたジェイドにすこしも愛情はないんですか」
責めるような口調になってしまったのは自覚していた。でも仕方ないじゃないか。僕はどうしても彼女が許せない。僕の大事な右腕が愛した人がこんな最低な女だなんて、僕はどうしたって認めたくない。
でもジェイドが愛しているのはこの人だがら、だからすこしでも感謝の気持ちを表してくれたら、ジェイドに敬意を払ってくれたら、それだけで良かったのに。
「ジェイドさんのことは好きだけど、愛したことはありません。あの人全然わたしの趣味じゃないし」
鈍器で思い切り頭を殴られたような衝撃だった。
自分のことを真剣に思ってくれる男のことをどうしてこんな風に言えるのかわからない。頭がぐわんぐわんと揺れて思考がまとまらず、もはや夢であってくれとさえ思った。でもこれは紛れもない現実で、僕は必死に別の可能性を探る。
きっとこれは彼女の本心なんかじゃない。彼女はきっと何か理由があってわざとこんな言い方をしているんだ。
「……これまでの付き合いで、あなたがそこまで愚かでないことは知っています。それなのになぜ僕にそんな言い方をするんです。あなた、わざと僕を怒らせようとしていますよね?」
「まさか、アズール先輩に嘘ついてもすぐバレるだろうから正直に白状してるだけです。ていうか、そもそもわたしジェイドさんと結婚したいなんてひとことも言ってないのに勝手にその気になって一人で盛り上がってるのはジェイドさんですからね? わたしは返事もしてないし」
「は……? でもあなた結婚したいなら僕と縁を切れって言ったんですよね?」
「そこまで言えばさすがに諦めるかと思っただけですよ。会社を辞めてまでアズール先輩と縁を切るなんてジェイドさんにとってメリットないし。まさかわたしと結婚する為に今の地位を捨てるなんて思わないじゃないですか」
「はぁ!? じゃあ僕はあなたが結婚を断る口実に適当に付けた条件のせいで捨てられたんですか!?」
「結論から言うとそうですね。でもまぁ、ジェイドさんがそこまでするなら結婚してもいいかなと今は思ってます」
「は……、あなた、以前はジェイドと縁を切ってもいいって仰ってましたよね」
「そうですね。でもアズール先輩はまだ答えを出せてないじゃないですか」
彼女の表情が急に険しくなって、その鋭い視線に射抜かれると僕でもぞくりと背筋が震える。
「だったらわたしがもらってもいいでしょう」
「え……?」
「アズール先輩はずるいです。わたしがずっと欲しかったものを、あなたはずっと前から持ってるのに」
僕を突き刺す彼女の視線に、もはや憎しみと言っていいような禍々しさが籠る。そりゃ多方面から恨みを買うような生き方をしてきた自覚はあるけれど、よもやこの人からそんな視線を向けられる覚えはなくて困惑する。
「ユウさん……? なんの話をしてるんです」
「わたしがどんなに頑張ってもどんなに望んでも手に入れられないものを、あなたはずっと持ってるのに、全然気付かないじゃないですか」
「ちょ……、だからなんの話です」
「わたしだってずっと欲しかったのに、でも、もういいんです。この子さえいれば、わたし、この子の為ならなんでもします」
彼女は慈しみを込めて自らの腹を撫で、それから顔を上げると今度はキッパリと言い放った。
「この子にはちゃんとした父親が必要だから、わたしもう譲りません」
「あなた、自分のこどもの為にジェイドを利用するつもりですか」
「いけませんか? わたしにはこの子より大切なものなんて何もないんです。ジェイドさんの気持ちなんて知らない、どうでもいいです。この子の役に立つから結婚するだけ」
「どうでもいい? ジェイドの気持ちが? あなた……、それで本当に子どもの為になると思うんですか? 母親が父親をどうでもいいなんて言う家庭でその子がマトモに育つとでも」
「知らないんですかアズール先輩、わたし演技なら結構得意なんですよ。この子の為ならいくらだって自分を偽れます。夫を大切にするいい母親になってしあわせな家庭を築いてみせます」
「そんなしあわせはまやかしだ! あまりこどもをみくびらないことですね。こどもは大人が思っているよりもずっと敏感なんです。親の不仲なんて子供にはすぐにわかります。それで心を痛めるこどもの気持ちをあなたは想像したことがあるんですか? そんな家庭で育てるくらいなら片親でも精一杯愛情を注いだ方がずっとマシだ! あなたのエゴにジェイドを巻き込むな!」
怒りに任せて捲し立てた僕にも彼女は全く動じず、ただひたすらに冷めた目で僕を眺めているだけだった。
「ずいぶん怒るんですね」
「当たり前でしょう! 大事な右腕をそんな理由で無理やり奪われそうになって僕が大人しく引き下がるとでも?」
「大事な右腕……。それがアズール先輩の答えですか?」
「は?」
「あなたにとっての彼がなにか」
「……それ以外にないでしょう」
「本当に? それだけでそんなに怒れるものですか? そんなにわたしに彼を盗られるのが嫌なのに?」
「盗られるって、別にあいつは僕のものでは」
「でも大事な右腕なんでしょう? それってもうあなたの一部じゃないですか。アズール先輩は右腕をもがれても生きていけるんですか?」
そのままの意味で受け取れば、右腕一本くらい失ったって僕は何も問題はない。右腕がなくても左腕がある。両脚だってあるし、失った右腕の代わりはいくらだってある。
でもジェイドは、僕にとってのジェイドの代わりには、きっと誰もなれない。
「ま、ここで私たちがなにを話したって結局決めるのはジェイドさんです。会社に残るのかわたしと結婚するのか、その判断はジェイドさんに任せましょう」
「ジェイドは会社に残る気なんてさらさらありませんよ。あなたと結婚するつもりでとっくに引き継ぎを始めてます」
「そうですか。じゃあ勝負にもなりませんね」
「勝負なんて……、あなたは一体ジェイドをなんだと」
「んー、わたしに都合のいい便利な旦那さま、ですかね?」
「あなたいい加減に……!」
「悔しいですか? 悔しいなら奪い返せばいいじゃないですか。やられたらやり返す、アズール先輩の得意技でしょう」
「……それもそうですね。僕は絶対にあなたにジェイドは渡しません」
「そうですか。頑張って下さいねアズール先輩、応援してます」
そう言って、彼女は余裕たっぷりににっこりと笑った。
「ジェイド! あんな女と結婚するのはやめなさい!」
会社に戻るなり僕はジェイドを呼びつけ、怒りのままにジェイドにそう言い放った。
「もう決めたことです。それより、僕の大切な人を『あんな女』呼ばわりするなんてあなたどうかしてますよアズール、冷水でも浴びて頭を冷やしてきてはいかがですか」
「お前が冷やしてこい!! いいですか、お前はあの人に騙されてるんです。あの人はお前のことを愛してなんかいない、こどもの父親役として体よく利用されてるだけだ!」
「知ってますよ」
「は……?」
「あの人僕のことなんて全然好みじゃないので。本当は明るくて活発で要領のいい人懐っこいタイプの方が好きみたいです。僕も愛嬌にはそれなりに自信があるのですが……」
「おい、冗談を言ってる場合か」
「失礼な、僕はずっと本気ですよ。ユウさんが僕のことなんて微塵も愛していなくても、お腹の子が僕の子ではなくても、僕は彼女たちを一生守っていくと決めたんです」
「お前、どうしてそこまで」
「どうしてでしょうね。僕にとっては彼女が一番信頼できる人だからでしょうか」
「それは、フロイドより?」
「フロイドはたったひとりの兄弟ですから別格です」
「じゃあ、僕より……?」
ジェイドは一度僕をまじまじと見て、それからふっとその目元を緩ませる。
「そうですね。あなたよりユウさんの方がよほど信頼できます。ユウさんは誰よりも僕の気持ちをわかってくれて、そしてずっと寄り添ってくれた方ですから、替えはききません」
「お前……! だから絶対騙されてますって! あの人お前の気持ちなんて知らないって言ったんですよ!? そんなのどうでもいいって!」
「おやそうですか」
「そうですかじゃないだろ悔しくないのか! あの人は自分の子のためにお前を利用するつもりなんですよ?」
「利用しろと言ったのは僕です。身寄りもないユウさんが異世界でたった一人でこどもを育てるなんて無理がある。僕はただ、彼女の力になりたいんです。僕にその価値があるなら利用するだけすればいい」
「目を覚ましなさいジェイド!! お前はいつからそんな善良な男になったんだ。誰かの為に自分だけを犠牲にするなんてそんなのおかしいだろ、周りの迷惑なんて気にも留めない自分勝手なジェイドはどこへいったんですか!」
ジェイドがあんまり穏やかな顔でそんなことを言うから、もはや自分でも何が言いたいかわからなくなってしまった。
信じていた人に裏切られたら持ちうる語彙の限りを尽くして精神的に追い詰め海に沈めるんじゃなかったのか。それなのに今のお前ときたら、どんな酷い仕打ちを受けても不当な扱いをされても文句ひとつ言わず黙って受け入れているだけじゃないか。お前はあんな扱いを受けていいような男じゃないのに、お前のこともっとわかってくれる人は絶対にいるはずなのに、あの人なんかより、僕の方がずっとお前のことを愛せるのに。
「……アズール、どうして泣いているんです」
「はぁ!?」
泣いてるってなんだ。
僕は泣いてなんかいないと否定しようとするのに、ボロボロとあふれる涙がどんどん僕の視界を滲ませる。
「お前が……っ! 自分を大切にしないから……っ」
そうだお前が悪い。
あんな人に惚れるなんて見る目がなさすぎる。
あの人よりずっとずっとお前を大切に思ってる人は他にいるだろ。
「……そんなに泣かないでくださいアズール、あなたに泣かれると困ります」
「うるさい! 全部お前のせいだろ!! 僕は嫌なんですよ、お前が自分勝手じゃないのも、好きな人に大事にされないのも……っ」
「無茶苦茶ですね……」
「無茶苦茶なのはお前でしょう! 快楽主義の変人のくせに、肝心なところでこんな……っ、善良ぶって、」
「決して善良ぶってるわけでは」
「じゃあなぜもっと正直にならないんです。ユウさんにもっと愛して欲しいと言わないんです! お前を利用するなら同じだけの対価を寄越せと要求したっていいじゃありませんか! あんな、あんな風にお前を雑に扱うユウさんより僕の方がずっとお前を大切に思ってるのに!」
「え……」
「お前だって、ずっと僕を大事にしてくれていたじゃないですか。散々嫌味を言ったってお前は絶対に僕を傷付けるような事はしなかった。僕をどれだけからかって遊んでも絶対に離れていかなかったし、僕がどれだけ無茶振りしてもちゃんと答えてくれて……、ずっと一緒にいたじゃないですか。あの人よりずっと」
「アズール……、突然どうなさったんですか」
あぁ本当に訳がわからない。
僕は一体どうしてしまったんだ。
腹が立って腹が立ってどうしようもない。
彼女の顔を思い出すだけで頭にきて、ジェイドがあのひとのものになるなんて許せない。
ジェイドは彼女のものなんかじゃない。絶対にあの人に思い通りにはさせない。
だってジェイドはしあわせでいてくれなきゃ僕の気が済まないんだ。
だって、だって僕はジェイドを
「愛してるんです」
口にした瞬間、今までのモヤモヤがやっと晴れた気がした。
ジェイドは目を丸めて立ち尽くしているけど、僕は今、伝えなくちゃならない。
「あんな人にお前を奪われるなんて僕は耐えられない。あの人の為に尽くすくらいなら僕に尽くしなさい。僕なら一生お前だけを愛してやれる。あの人よりずっとずっと。だからジェイド、僕を選びなさい」
「僕と結婚してください」
デスクの引き出しにはまだ恋人へ贈る予定のエンゲージリングが眠ったまま、指輪も花束も用意したセリフすらもなく、思いつくまま行き当たりばったりに吐き出した最低のプロポーズ。
いくら考えても出なかった答えが、まさかこんな形でわかるなんて。
そうか、僕はジェイドを愛していたのか。
突然のプロポーズに僕自身驚いていたけど、されたジェイドは僕以上に驚いて固まっていた。
それはそうだろう気持ちはわかる。
ビジネスパートナーでしかない腐れ縁の幼馴染から突然プロポーズをされるなんて、そんなこと一体誰が想像できると言うのか。この僕ですらできなかったというのに。
気持ちの悪い冗談はやめて下さいとこの場で一蹴されてもおかしくはなかった。でもピシリと固まったままのジェイドからはいつまで経っても反応がない。
「あの、ジェイド?」
「………………早退します」
ようやく声を絞り出したかと思えば、ジェイドは顔を真っ赤に染めて後ずさり、そのまま一目散に駆け出してしまった。
あれ?
もしかして脈ありあのか?
僕の頭の中にいつかの彼女の言葉が蘇る。
僕にとってジェイドはなんなのか、結論が出たらそれを素直にジェイドに伝えろと彼女は言った。そしてその後に彼女が浮かべた穏やかな笑み。
あの時は訳がわからなかったけど、ジェイドには誰よりも幸せになって欲しいのだと、そう言ったのは彼女の本心だったのかもしれない。
もしかして僕は、ずっと彼女の手のひらで踊らされていたんだろうか。
Yu
それに気付いたのは、割と早い段階からだったと思う。
アズール先輩がオーバーブロットして、その後ウィンターホリデーにはジャミル先輩が。多分その頃にはもう、わたしの中でその予感は確信になっていた。
「ジェイド先輩ってほんとにアズール先輩のことすきですよね」
だからそう言ったのは別にカマをかけた訳でもなんでもなく率直な感想だったわけだけど、ジェイド先輩も特に否定することなく「そうですね」といつもの笑顔を見せたから、あぁやっぱりそうなんだとわたしは一人納得したのだ。
「アズールほど面白い人はいませんから。彼を見ていると本当に飽きません」
そう言ってニヤニヤと笑うジェイド先輩を見上げ、アレなんかこれ違うなとピンとくる。
だめだ、やっぱこの人分かってない。
「そうじゃなくて、恋の好きですよ。推し芸人とかじゃなく」
どうやらアズール先輩をおもしろコンテンツか何かだと思っているらしいジェイド先輩に、わたしは容赦なく現実を突きつけた。
あの人を見る時語る時のあなた、恋に浮かされた人のそれですよと。
「まさか」
ジェイド先輩は本気で驚いたみたいに目をまん丸くした。いつも人をおちょくる事にばかり全力を注いでいるこの人を驚かせたのはちょっと気分がいい。
「気付いてなかったんですか?」
「気付くも何も、ありえないでしょう」
「ありえなくはなくないですか?」
「は? え……?」
「よく考えてみてください。ジェイド先輩って、アズール先輩だけ特別扱いしてることたくさんあるでしょう?」
「えぇと……?」
ジェイド先輩は本当にわからないみたいに目をぱちぱちする。普段怖い人がこんな顔をするのはちょっと面白くてなんかかわいい。
「ジェイド先輩って、よくしょうもない嘘つくじゃないですか」
「おやそうでしたか?」
「そうやってわかり切ったことを白々しくすっとぼけるのもよくやりますよね」
「これは手厳しい」
「全然思ってないくせに。そういうのって、アズール先輩に対してもするんですか?」
「……と仰いますと?」
「すぐバレるような嘘ついたり、その嘘に右往左往する様子を見て楽しんだり。特に意味のない嘘とは言え、アズール先輩を騙すようなことをジェイド先輩はするのかなーって思って」
ジェイド先輩はなんだか真剣に黙り込んで一生懸命考えてるみたいだった。くだらない嘘を吐いた記憶でも探してるのかもしれないけど、わたしはジェイド先輩が記憶を整理する前に更に畳み掛ける。
「これはわたしの勝手な推測なんですけど、くだらない嘘をつくことはあってもアズール先輩を本気で貶めるような事は言わないんじゃないかなって思うんですよね。しかも無意識に」
この推測は我ながらいい線を突いているのではないかと思う。正直わたしから見てもジェイド先輩がアズール先輩をおちょくって遊んでるなと思うことはある。ちくちく言葉もすごいしそれに対してアズール先輩があからさまにイラついてても全然気にしないし、我が道をいくこの人の我の強さは相当だなとある意味感心する。
でもアズール先輩に向けられる言葉は他の人をからかってる時と比べるとなんというか、すこし性質が違う気がする。反応を見てからかっているというより、かまって欲しくて意地悪してるみたいな。だけど本当に嫌われたくはないから肝心なところでアズール先輩を傷付けるような事はしない。
ジェイド先輩はきっとアズール先輩がどんな事に傷付くのかちゃんと分かってるから、無遠慮にそこを侵したりはしないのだ。
「呼吸するように嘘をつくジェイド先輩にしてみれば、それってもはや愛じゃないですか?」
「愛……」
「まー自覚してないなら違うかもだけど。変な事言ってすみません! じゃあまた」
そうは言ってみたものの、今のジェイド先輩の反応でわたしの確信は更に深まった。本当に違うならジェイド先輩は面白がって話に乗ってきたはずだ。どうしてわたしがそんな風に思ったのかと根掘り葉掘り聞き出して、散々長話をした挙句全然違いますけど大変興味深いお話でしたとか言って、いい暇つぶしになったと満足気に笑うような人なのだ。
でもそうじゃなかったということは。
「いつ来るかな」
わたしの予想が確かなら、ジェイド先輩は数日以内にオンボロ寮に訪ねてくるはず。あくまで予想だから外れるかもしれないけど、そうなったらいいなぁと思いながら、わたしはひとりニンマリと笑った。
「こんばんはユウさん、夜分にすみません」
ジェイド先輩がオンボロ寮を訪ねてきたのは、わたしの予想よりも少し遅い一週間後だった。
どうやらこれは相当悩んだらしい。
「こんばんはジェイド先輩。こんな時間にどうしたんですか?」
時計を見ればもうすぐ23時を回ろうかという時間で、各寮の門限はとっくに過ぎている。きっとラウンジの仕事が終わってから門限が過ぎた時間を狙って出かけてきたに違いない。
「こんな時間に申し訳ないのですが、中に入れていただいても?」
「いいですよ、グリムはもう寝ちゃったので、起こさないように気をつけて下さいね」
「ありがとうございます。ではお邪魔いたします」
ジェイド先輩はついでのように手土産をわたしに押し付け、入れてもらった対価はこれでチャラとばかりににっこりと笑う。
「汚いところですけどどうぞ、お茶でも淹れましょうか」
「いえ、こんな時間ですしすぐにお暇します。お気遣いをどうも」
「いえいえ。では早速用件をお伺いしますね」
「はい。では単刀直入に申し上げますが、先日あなたに言われたことを僕なりに考えてみたんです」
「そうなんですね、それで何か分かりました?」
「えぇ嫌になるくらい。あなたのおっしゃる通り、僕はアズールを愛しているようです」
お……、そうきたか。
恋心を自覚したくらいかなと思っていたら、どうやらジェイド先輩は自分の深すぎる愛情に気付いてしまったらしい。まぁ一週間も悩んでいたらそうなるか。
でもこんな風に愛を告白するジェイド先輩の表情は全くもって熱に浮かされてなんかいなくて、むしろいつもより冷ややかに冷淡な眼差しでわたしを直視している。コワ。
「それで、ユウさんは何がお望みなのですか?」
そんな怖い顔でズバリと言われると心臓がギュンとなる。例え予想通りだったとしても。
「えへへなんのことでしょう」
「おやおやおや……、あなたも白々しくすっとぼけるのがお好きなようだ。あなた最初から分かっていたんでしょう? 僕がここに来ることを」
やっぱり、ジェイド先輩は話が早い。
「さすがジェイド先輩。ご明察です」
「やれやれ……、あなたには敵いませんね」
ジェイド先輩はここでやっと気を抜いたように怖い顔を緩めて、全然困っていない時にするあの困り顔でわたしを見た。いや、今日はほんとにちょっと困ってるかも。
「あなたに僕のとっておきの秘密を握られてしまったわけですが、黙っていてくれることの対価はなんですか?」
「いやいや、まだ秘密とは言えないじゃないですか。ジェイド先輩に告白するつもりがあるならわたしが黙ってる必要ないし」
そう言うとジェイド先輩はすこしムッとしたように眉を顰めて口を曲げた。ジェイド先輩はポーカーフェイスが得意な人だと思ってたけど、案外顔に出やすいんだなと新鮮に思う。アズール先輩絡みで余裕がないだけかもしれないけど。
「あなたわかっていて言ってますよね。僕が絶対に言うつもりなどないと」
「そうなんですか? いやそうかなーとは思ってたけど、確信まではなかったので」
「はぁ……。どちらにせよ、あなたは僕が口止めに来ることまでは予測してらしたんでしょう? これ以上探り合いをするのも時間の無駄ですし、早くご要望を仰って下さい。僕にできる範囲のことであれば叶えて差し上げますよ」
「やった! 絶対ですね!?」
「現金な人ですね。僕にできる範囲のことであれば、ですよ」
「もちろんです! 余裕でできることなので!!」
ここまで思い通りにことが運んだ事にわたしは興奮して舞い上がっていた。きゃーやったー!
そんなわたしをジェイド先輩は引き気味で訝しんでいたけど、ジェイド先輩が引いてることなんてわたしは正直どうでも良かった。
「わたしがジェイド先輩の秘密を黙っている対価に、ジェイド先輩がわたしの秘密を聞いてください!」
ジェイド先輩は何を言われてるかわからないみたいに目をまん丸に見開く。あは、頭のいい人なのに突然訳わかんないこと言われるとさすがにこうなっちゃうんだ。
「わたしここで聞いたことは絶対ぜったい誰にも言いません。ジェイド先輩の気持ちもぜ……ったい誰にもバラしません。だからその対価に、ジェイド先輩もわたしの秘密を誰にも言わないで下さい。ここで聞いたことは墓場まで持って行くと約束してください。ジェイド先輩、わたしと恋バナしましょう!」
やったー! ついに言った!! やっとここで自由に恋バナできる時がきた!!! 女友達ゼロのナイトレイブンカレッジで、遂についに、恋心のわかる人を見つけたーーー!!!
「……あの、そんなことでよろしいのですか?」
「よろしいんです! ていうかずっと飢えてたんです! ずっと言いたくて言いたくて仕方なかったのに話せる相手がだ……れもいなくて、もうほんっと辛かった!」
「そんなにですか? 何も僕相手に話さなくても仲のいいご友人はたくさんいらっしゃるじゃないですか」
そう言われてわたしは一気にスン、とテンションが下がる。
「仲のいい友達はいますよたくさん。でもみんな高一男子なんですよ」
「えぇそうですね?」
「いい奴ですよみんな。みんながいてくれるからわたしも楽しくやれてるし。でもね、高一男子なんですよ」
「はぁ……」
「バカばっかなんですよ! あぁ頭のできの話じゃなくて、そういうことじゃないんですけどね、なんて言うかな、びみょ〜〜に分かってくれそうな人がいないというか……、あとみんなおしゃべり! 口が軽いわけじゃないんだけど素直過ぎてポロッと言っちゃうとか男子高校生のノリでいらんこと言っちゃうとかそういうね!? だからぜんっぜん話せる人がいなくて!」
「はぁなるほど……、なんとなくわかるような」
「でしょ!? となると絶対誰にも話さない口の固い人としか話せないんですけど、その点オクタヴィネルの方々は信用できます。契約には誠実なので」
「なるほど。それでわざわざ僕の純粋な恋心を利用したと」
「その通り! ジェイド先輩ならぜったい誰にも言わないですよね!?」
「ふっ、そうですね確かに。契約を結ぶからには僕から秘密をバラすことは絶対にありません」
「やったー! じゃあ契約成立ですか?」
「えぇ構いませんよ。ですが内容はきちんと詰めましょう。契約を破った時のペナルティも定めなくてはなりませんし、口約束では信用に欠けますからきちんと契約書を用意しましょう」
「え、そこまで?」
「そこまでして正式な契約です。口先だけの約束などいくらでも破れますから」
「え〜わたしは破りませんて」
「いえ、先々何があるか分かりませんから。僕だって何かしらのきっかけでアズールに知られてしまったらヤケになってあなたの秘密を漏らしてしまうかも……」
「契約書を作りましょう!」
「では契約成立ですね。そこでこちらです」
ジェイド先輩はにっこりと笑うとマジカルペンを一振りし、魔法で一枚の紙を呼び寄せた。いや展開はや。て言うか準備良すぎ。
「それは?」
「サムさんのお店で調達した魔法の契約書です。残念ながら僕はアズールのように契約書に効力を持たせるような高度な魔法は使えませんから、魔法道具の力を借りることといたしましょう」
「いやそこまでしなくても普通の契約書でよくないですか?」
「おや、黄金の契約書すら力技で破棄してしまったあなたがおっしゃいますか」
「いや〜あれはレオナさんだからできたことであってわたしじゃとてもとても……」
うわぁすごい根に持ってるし全然信用されてない。まぁ確かに契約書を砂にするのはやり過ぎだったかもしれないしジェイド先輩が疑うのもわかるけど。
「ちなみにこちらは双方の合意がなければ破棄できない魔法がかかっておりますので砂にするのは無理ですよ。破れも燃えもしません」
「わぁ……お高そ〜……」
この人そこまでしてバレたくないんだなと思うと逆に信用がおける。ジェイド先輩になら何を話しても、きっとバラされる心配はないだろう。
「ではユウさん、ペナルティは何にしましょう」
「ペナルティ? そうですねぇ……」
なんも考えてなかった。
お互いの秘密を握ってることがそれだけで抑止力になると思ってたけど、どちらかが別のルートからバレてしまえばジェイド先輩の言う通りヤケになって暴露してもおかしくはない。
「我慢すれば耐えられる程度のペナルティでは意味がありませんから、死んでも回避したいくらいやばいやつにしましょう」
「アレわたし人選間違えたかな……」
今更そう思ったところで後の祭りだ。別にジェイド先輩を甘く見ていたわけではないけど、この人と契約するというのはそういうことなのだとわたしは改めて肝に銘じる。
「僕いいことを思いつきました。もしユウさんが約束を破ったらあなたは一生人魚として海で過ごす。僕が破ったら一生人魚に戻れなくなるというのはいかがでしょう」
「エ……ッ、そんなことまでできるんですか!?」
「魔法の契約書ですから。もし契約を破れば、その瞬間即ペナルティです」
ニタ……と笑ったジェイド先輩は本気だ。本気と書いてマジだ。
「ジェイド先輩は本当にそれでいいんですか。一生元の姿で里帰りできなくなっちゃいますよ? 薬がないと水中で呼吸すらできないんですよ? もう二度とアズール先輩やフロイド先輩と一緒に泳げなくなっちゃうんですよ??」
「契約を破るつもりはありませんので構いませんよ」
「それを言ったらわたしもそうですけど」
人魚が海に帰れなくなるってどんな気持ちなんだろう。海で先輩たちに追いかけられた時は本気でめちゃくちゃ怖かったけど、あんな風に自由に泳げなくなるかもしれないのは怖くないんだろうか。
そう考えてふと、そういやわたしも故郷に帰れないんだったと思い出す。
いや別に全然忘れてたわけじゃないけど。
できることなら帰りたいけど。
でもそっか。
わたしも帰れないなら別にいいか。
人魚になれなくてもジェイド先輩は家族に会えなくなる訳じゃないし、そう考えるとわたしよりずっとマシか。
「わかりました、それでいいですよ」
「かしこまりました。それでは決まりですね」
ジェイド先輩がマジカルペンを振ると、白紙だった紙にさらさらと契約内容が書き込まれていく。
「あなたが僕の秘密を守る代わりに僕はあなたの秘密を守ります。あなたが約束を破ればあなたは永遠に人魚に、僕が破れば僕は永遠に人間に。それでよろしいですね?」
「待ってください契約書10回読むので」
「ふふ、よい心掛けです。それでは心の準備ができたら仰って下さいね」
ジェイド先輩から受け取った契約書をわたしは一文字残さず繰り返し読んで頭に叩き込む。わたしにだけ不利な条項が盛り込まれていないかジェイド先輩の言葉と相違はないか。別の意味でも受け取れるような曖昧な言い回しはないかしっかりと確認し、内容に納得した上でわたしは契約書を先輩に差し出した。
「先輩が先にサインして下さい」
「おやしっかりしていらっしゃる。いいですよ」
今度は魔法ではなく直筆で、ジェイド先輩が「ジェイド・リーチ」とサインしたのを見届け、わたしも同じようにフルネームでサインをした。
「はい、これで今度こそ正式に契約成立ですね。よろしくお願いしますユウさん」
「こちらこそ、よろしくお願いしますジェイド先輩」
はーこれでやっと恋バナができる! と喜んだのも束の間、わたしは自分のペナルティについてハッと気付く。
「ていうかわたしが海に住んだりしたら絶対生き残れませんよね!? 初日にサメのエサになって終わりでは……!?」
「ふふ……っ、僕のことばかり心配して下さるのでずいぶんお優しいんだなと思いましたが、今更気づいたのですか」
「そんな……、わたしだけ契約破る=死じゃないですかひどい!」
「んふふふふ、きちんとご納得されてサインされたんですよね? もう破棄はできませんよユウさん」
「うわぁ嵌められた……! やっぱりオクタヴィネル怖い……」
「まぁまぁ、契約を破らなければいいだけの話ではありませんか。契約を守るか死か、選ぶのはユウさんですよ」
「別に破る予定はありませからいいですけど……」
あぁやらかした。
例え人魚の姿で故郷には帰れなくてもジェイド先輩は陸でいくらでも生きていけるけど、魔法も使えないわたしが人魚になって過酷な海を生き抜けるはずがない。わたしだけ不利な契約じゃない事はしっかり確認したつもりだったのに、そもそもの条件がここまで不公平なものだったとは。
「ふふ、ところでユウさん、契約も成立したことですしそろそろあなたの秘密をお伺いしても?」
そう言われてわたしはチラリと時計を盗み見る。契約書だのなんだのとやっていたおかげで時計はもうすぐ午前0時を指しそうだ。
「とりあえず話すんですけど、今度ちゃんとゆっくり話聞いて下さいね?」
「えぇもちろんいいですよ。あなたと『恋バナ』をする契約ですから」
「良かった。じゃあ言いますけど、実はエースには地元に彼女がいるんです」
わたしがそう言うと、ジェイド先輩がまたきょとんと目を丸める。
「はぁ……、それで?」
「いやこれ本当に誰にも言わないでくださいね!? エースに絶対誰にも言うなってめちゃくちゃ口止めされてるんですから!」
「え……、それはつまりあなたの秘密ではなくエースくんの秘密なのでは?」
「いえ、マブに絶対言うなって言われたことをよりにもよってオクタヴィネルの副寮長に言ってるんだからこれはもう紛れもなく裏切りです。バレたらわたしの信用は地に堕ちてハブられても何も言えないほどの大罪です」
「おやおや……、僕との契約のためにそんな大罪を犯してもよろしかったのですか?」
「はい。まぁ致し方ありません、これを話さないと本題に入れないので」
ジェイド先輩がまたすこし目を開く。
「本題」
「そうです」
ずっと言いたかったのに誰にも言えなかったこと。
誰かに話を聞いて欲しくて仕方なくて、でも絶対誰にも言えなかった。
わたしがそれを口にすれば、間違いなく今の関係が崩れてしまうと分かってるから。優しいみんなに気を使わせたくないし、何よりもわたしが一番今の形を崩したくない。
だからジェイド先輩は話相手として最適だった。
適度に距離があって親密な関係でもなくて、この人に嫌われても別になんとも思わない。そもそも今現在好かれてるのかどうかもわからないし、こんな事を言ったら嫌われるかもなんて考えずになんでも話せる。それに契約さえあれば絶対に秘密を漏らしたりしない人だとそこだけは信じてるから、だからジェイド先輩は、わたしにとって本当に都合のいい人だった。
「わたし、エースが好きなんです」
あぁやっと言えた。
絶対口にすることはないと思ってたけど、これからはもう、ひとりで抱え込まなくてもいいんだ。
認めたくはないけど、たぶん一目惚れだったんだと思う。
突然放り込まれた異世界で、右も左もわからずヤンチャな魔獣(かわいい)と暮らしていかなきゃいけなくなって、自分の意思なんて関係なく働かざるを得なくなって。
もう本当に意味がわからなかった。
目が覚めたら突然異世界で、しかも魔法が存在するファンタジー世界。もしわたしが異世界転生もののヒロインだったら、そこにいたイケメン魔法使いたちの誰かに溺愛されてドロドロに甘やかされるかもしくはわたしを巡る争いが起こるか、はたまた突然発現したチート級の能力で魔王討伐パーティに加わるか、そうでなければ悪役令嬢として迎える確定バッドエンドを回避すべく知恵を振り絞って奔走するはずなのに、なぜかわたしはボロボロのオバケ屋敷と魔獣を押し付けられて魔法学校のこまづかいにされてしまった。
いやなんで? ほんとになんで?? なんで現役JKのわたしが突然用務員のおじさん(仮)にならなきゃいけないの???
「そんな感じでめちゃくちゃ凹んでた時、最初に声かけてくれたのがエースだったんですよね」
契約を交わしたあの日から数日後、わたしは改めてオンボロ寮にジェイド先輩を招き、これまでの成り行きを話して聞かせていた。グリムはツナ缶で釣ってハーツラビュルに遊びに行かせたし、意外とコンプラ意識の高いゴースト達は来客中にむやみに乱入してきたりはしない。
だから今この談話室にいるのはわたしとジェイド先輩のふたりきり。そしてあの契約がある限り、ここで話した内容が漏れる事は絶対にない。
「メインストリートで突然声かけられて、このイケメンだれ?? てなってたら何も知らないわたしとグリムにグレートセブンの事とか色々教えてくれて、あの時はほん…と救われた気がしたんです。あぁわたしにもちゃんと声をかけてくれる人がいるんだなって、すごくうれしくて」
ジェイド先輩に話しながら、わたしは改めてあの日のことを思い出す。あぁこれから毎日この学園で掃除やら雑用やらに追われて、青春とはほど遠い毎日が待っているんだなと思うと憂鬱で仕方なかった。でもそうしなきゃ生きていけないし、帰る方法が見つかるまではとにかくここでやれる事を精一杯やるしかないんだと自分を奮い立たせたあの日、エースが声をかけてくれた事がどれだけうれしかったか。
そしてそのうれしさが蘇るのと同時に、その後の展開を思い出して腹が立つ。
エースのやつ、あの日のことは一生忘れないから。
「でも、その後がほんっとに最悪だったんですよ」
「おや、何かあったのですか?」
「エースのやつ、親切なフリして魔法の使えないわたしと魔獣のグリムをからかってただけだったんです! 雑用係なんてダセーとか世間知らずは幼稚園からやり直せとか……! 今思い出してもほんとに頭くる!」
「おやおや、なんともエースくんらしいですね」
聞いてるだけのジェイド先輩は終始楽しそうにニコニコ笑ってるけど、あの日のわたしにとっては本当にとんでもない出来事だったのだ。憂鬱な一日の始まりに突如救世主が現れたかと思えば急転直下、一瞬にして最悪の気分にさせられたんだから。
「笑い事じゃないんですってば。わたし以上にグリムが怒って火を噴き始めるし、エースはエースで簡単に挑発に乗って応戦し始めるし、どんどん人が集まってケンカがヒートアップして最後にはハートの女王の石像を黒焦げにしたんですよ!? 信じられます??」
「ふふふ……っ、あなた方がハートの女王の石像を燃やしたという噂は聞き及んでいましたが、そんな経緯があったのですね」
そう言いながらジェイド先輩は肩を揺らして笑っていたけど、わたしはその先を思い出して更に深くため息を吐く。
「ほんとに笑い事じゃないんですってば」
学園長から言い付けられた罰掃除にエースは来ないしグリムは怒るし助けてくれたはずのデュースはポンコツだし……。
「ジェイド先輩知ってます? 大食堂のシャンデリア事件」
「あぁ、入学したばかりの新入生が大食堂の伝統あるシャンデリアを破壊して退学になったと噂になっていましたね」
「はは……、結果として退学は免れたんですが」
「おや、ではまさかあの件もあなた方が?」
「そのまさかです。しかもそれを直す為にドワーフ鉱山から魔法石を取ってこいだなんて学園長から無茶振りされて……」
「ドワーフ鉱山? 新入生と魔法も使えないあなたと小さな魔獣だけで??」
「そうです。学園長どうかしてません? 何かあったらどうするつもりだったんだろ……おかげで本当に死にかけたんですから!」
「おや、それは大変興味深いですね。ドワーフ鉱山で一体なにが」
「急に前のめりになるじゃないですか。今はもう使われていない坑道に入ったんですけど、そこでゴーストに追いかけられるわまたケンカが始まるわインクの怪物は出るわでもう散々で……」
「インクの怪物?」
「はい、よくわからないんですけど、今思えばオーバーブロットした先輩たちの後ろにいた怪物と似てたなって……」
「なんと……。それで、その怪物はどうしたんです? 倒してしまったんですか?」
「『しまった』ってなんですか。わたしの知略とみんなのチームプレイでなんとか!」
「ふふ、それはそれは。ご無事で何よりです」
「全然思ってなさそう。まだいるなら見に行こうとしてたでしょ。その好奇心いつか身を滅ぼしますよ」
「ふふふ、肝に銘じます。まぁとにかくそんな困難を乗り越えてあなたはエースくんやデュースくんと親睦を深められたというわけですね」
「確かにつるむようになったきっかけはそれですかね……。ほんと手のかかる奴らだけどなんか憎めないって言うか」
「バカな子ほどかわいいというやつでしょうか」
「同い年なんですけどね!? 協力して怪物を倒した後、一緒に喜んではしゃいでるみんな見てたら男子ってほんと単純だなって思ったけど、なんか絆されちゃったんですよねぇ……」
確かに達成感はあったけどめちゃくちゃ怖かったし本気で死ぬかと思ったし、そもそもエースとグリムがくだらないケンカを初めていなければデュースだって巻き込まれなかったし、あんな事にはならなかったはずなのに、今となっては、あれがあって本当に良かったと思う。
エースとグリムがバカみたいなケンカをしたせいでわたしたちは仲良くなれて、今こうして楽しい学園生活が送れてるのもきっとふたりとグリムのおかげで、あの日があったからこそ、わたしはエースに恋をした。
「まぁあの事件のおかげで学園長に猛獣使いの才能を認められて雑用係から生徒にしてもらえたので、それは良かったんですけど」
「おやそんな経緯が。あなたはしょっちゅう学園長に厄介事を押し付けられているようですが、一応の恩はあるという訳ですね」
「そうなんです。あんな胡散臭い人とは言え無一文のわたしに衣食住と学舎を与えてくれたのは学園長なんで……、その学園長に頼まれると嫌と言えないというかなんというか」
「学園を追い出されては死活問題ですからね」
「ほんとそう。ここを追い出されたらわたし明日から路頭に迷うしかないので」
「ふふ、その時はきっとアズールが力になってくれますよ。彼はとても慈悲深い方ですから」
「ほらそういう所ですよジェイド先輩、隙あらばアズール先輩のことプッシュしてくるじゃないですか。どんだけ好きなんですか」
「おやおや……、僕は慈悲の心で助言して差し上げただけなのですが」
「アズール先輩なんて頼ったら一生奴隷労働させられちゃうじゃないですか。戸籍も国籍もないわたしに人権なんてないし誰も守ってくれないんだから……。まぁでも衣食住を確保してもらえるならそれもアリなのかなぁ。一生食いっぱぐれないってことだし」
「なにもそこまで悲観的にならなくても」
「いやいや異世界でたったひとりで生きていくってことはそういうことですよ。今のところ全然帰れそうな気配もないし、学園長絶対帰る方法なんて探してなさそうですもん」
「それは確かに」
「肯定されるのもつらい……。でもまぁ、今からずっと先のこと考えてても仕方ないんで。ここの学生でいさせてもらえる内はめいっぱい楽しむことにしたんです!」
「それはいいですね。その考えには僕も賛成です。ここでしかできない事を思い切り楽しまなくては損ですから」
「ジェイド先輩はめちゃくちゃ楽しんでますよね」
「もちろん! 陸に来て二年目ですがここはまだまだ知らない事に溢れていますから。いつまでいる事になるかはわかりませんが、僕は陸の生活を思い切り満喫してから帰るつもりです」
「そっか……、いつか海に帰るつもりはあるんですね」
「そうですねいつかは」
「アズール先輩がずっと陸にいても?」
わたしの言葉に、ジェイド先輩は「考えたこともなかった」みたいな顔をして目を丸めた。そっかこの人は、ほんとに「今」を楽しみに生きてるんだ。目の前のことを楽しむのに全力で、いつか来るかもしれない未来のことなんてあまり考えないのかもしれない。
「ジェイド先輩は楽しいことが大好きですよね。じゃあせっかく気付いた恋心を楽しもうとは思わないんですか? どうして告白しないんです? アズール先輩の恋人になりたくないの?」
なんとなく、ジェイド先輩は言わないつもりだろうと思ってたけど、ジェイド先輩がどうしてアズール先輩に言わないのかその本心はわたしにはわからない。
今の関係を壊したくないから? 男同士だから? それともアズール先輩に他に好きな人がいるから? ジェイド先輩はどうして本当の気持ちを隠しておくことにしたんだろう。我が強くて他人の迷惑なんてかえりみないジェイド先輩が、恋心を秘めておく理由はなんだろう。
「僕は、アズールの恋人になりたいとは思いません」
今度はわたしがぱちりと目を瞬く方だった。
ジェイド先輩って独占欲強そうなのに、意外。
「別に恋人にならずとも、今の関係でもアズールは十分僕を楽しませてくれますから」
「見てるだけで満足ってことですか?」
「今のところは。それにアズールはきっと僕に恋愛感情は持たないと思いますよ。彼は将来役に立つ花嫁候補のリサーチに余念がありませんので」
「役に立つ花嫁候補……?」
「そうです。彼はこのまま陸に残って起業するつもりですので、その際に投資してくれそうな資産家だとか有名企業のご令嬢といかに縁を作るかに躍起になっています。アズールにとって結婚とは事業を成長させるための手段に過ぎませんので、その枷となるような恋愛に割く時間など微塵もないんです。ましてや同性相手になど考えもしないでしょうね」
「え……っ、今から出世の為の結婚のこと考えてるんですか? えげつな……」
「ふふ、アズールはとても思慮深く慎重なんです。自らの目標を達成する為には努力を惜しまない堅実な人なんですよ」
「ジェイド先輩はそんなアズール先輩を見ているのが楽しいと……」
「そうですね。努力は惜しみませんがその方向性がなんとも突飛なので、アズールの思考はいつも僕には考え及ばぬことばかりで飽きません。恋人なんていう関係に収まるより、右腕として彼を支える立場の方がずっと近くでアズールを見ていられますから」
ジェイド先輩はなんとも楽しげにそう言ってニコニコと笑う。なるほど確かにジェイド先輩の言うことも一理あるかもしれない。仕事人間のアズール先輩の事だからきっと家庭より仕事を大事にするだろうし、家で過ごす時間より会社で過ごす時間のほうが多そうだ。となるとやっぱり恋人よりビジネスパートナーでいる方がアズール先輩を長く楽しめる……のか?
「でも、愛されたいとは思わないんですか?」
「え?」
「エースには彼女がいるからわたしは諦めたけど、アズール先輩は今恋人いないんですよね? この先他の人に先輩をとられても平気なんですか?」
「先ほども申し上げたとおり、アズールは異性にしか興味がありません。それよりあなたこそ、エースくんに恋人がいるくらいで諦められるんですか? 本当に好きなら奪ってしまえばいいではありませんか。正直エースくんを誘惑するのはそこまで難しくないと思いますが」
ほんとにこの人は、自分のことはすぐはがらかすくせに人の事はズケズケ踏み込んでこようとする。まぁ色々話したくて持ちかけたのはこっちだから全然いいけど。いいんだけど、エースがそんなに簡単に落ちるような軽い男だと思われてるのは許せない。
「ジェイド先輩からすれば、エースってお調子者で単純でちょっと考えが足りないバカに見えると思うんですけど、全然違いますからね」
いやそれも概ね間違いではないけど、でも本当のエースはそれだけじゃないんだ。
「確かにエースはちょっと自分勝手で短気なところもあるし軽率な言動も多いけど、ほんとはものすごくいろんな事を見てくれて気配りができて優しくて男前ないい奴なんですよ。相手がどんなに強くても間違ってることは間違ってるってちゃんと言えるし、頑固だし空気読まないし口も悪いけど自分の思ってることを曲げたりしなくて、わたしには言えないようなこともはっきり言えて、すごくかっこよくて……」
あぁもう無理。
今までずっと誰にも言えなかったから止まらない。
お調子者でやんちゃでバカなだけじゃないエースのいいところ、わたしはずっと見てきたから。まだ一年にも満たない付き合いだけど、それでもわたしはエースの存在にたくさん励まされてきた。わたしがしんどい時にはいつも気付いてくれて、言葉は素直じゃなくてもいつも寄り添ってくれた。
「エースはただの単純バカなんかじゃないんです。わたしにとってはすごく大事な人で、彼女のこともすごく大事にしてて……、だから、わたしが告白したからって簡単に気持ちが変わったりするような人じゃない。エースのことそんな軽い奴だと思われたくないです」
ジェイド先輩にとってエースは元イソギンチャクだっただけの後輩で、特別親しいわけでなくて、そんな後輩ごときのことでものすごくめんどくさい事を言ってるのはわかってる。わたしがエースをどう思ってるかなんてきっとジェイド先輩にはどうでもよくて、だけど、わたしの好きな人のことを誤解されたままじゃ嫌だから。
「これは失礼いたしました。あなたの気持ち、少しわかりますよ」
「へ……?」
ジェイド先輩は興味ないと思ったのに、すんなりと受け入れられてすこし拍子抜けする。まさか素直に謝られるとは思わなかった。
「アズールは誤解されやすいので」
ジェイド先輩はすこし眉を下げて、ちょっぴり困ったように笑っていた。あぁそう言えば前にも言ってたっけ。アズールは努力家なんだけど誤解されやすいんだって。なんかあの時もすごい愛を感じたなぁとふと思い出す。
目的のために手段を選ばないのもそれはそれでやっぱり極悪非道なのでは? と思わなくもないけど、他人の能力を手に入れることができるあのユニーク魔法を完成させるには、アズール先輩の並々ならぬ努力があったのだと思うと素直に尊敬する。小さい頃は太っていて勉強も運動も全然できなかったという彼が、名門校で寮長になるまでの過程をジェイド先輩がずっと見てきたなら、そりゃあアズール先輩がただの強欲な守銭奴だと思われるのは面白くないかもしれない。
「まぁ、エースくんが少々軽率で思慮に欠けることは変わりませんが」
「む、それを言ったらアズール先輩が不当な契約で暴利を貪る悪徳商人であることも間違いないですけどね」
「ふふふ、否定はしませんが、あなたも契約書はよく読みましょうという良い勉強になったでしょう?」
「確かに。ここを出ても詐欺には引っかからずに生きていけそうです」
いかにも親切そうに優しく声をかけてくれる人ほど危ない。うまい話には必ず裏がある、ありがとうアズール先輩、わたしはこれからもその事を心に刻んで生きていきます。
「ところで、そもそもなぜあなただけエースくんの秘密を聞く事になったのですか? 恋人がいるという事くらい別に隠さなくても良い気がするのですが」
「甘いですよジェイド先輩、男子校において彼女持ちというのがどれだけ恨まれるかわかってませんね?」
まぁわたしも全然わかってなくてエースに説き伏せられた訳だけど、この男子校で、しかも入学ほやほやの一年生においては、女子と接点があるという事がもはや妬みの的らしい。それはわたしの存在とて例外ではないらしく、いつもわたしとつるんでいるエースやデュースはただでさえ恨みを買っているのに、そこへ来て更に彼女持ちだなんてバレたらどんな仕打ちを受けるか分からないとエースは言う。
「しかし、それならデュースくんには話しても良いのでは? 彼なら羨ましく思いはしてもエースくんに何かすることはないでしょう」
「それはそうなんですけど、デュースの場合は逆に免疫がなさ過ぎて言いづらいらしいですよ。わたしならすぐ友達に言っちゃうけど、男の子って謎ですね」
「なるほど。一年生にも色々事情があるんですねぇ」
「私たちのこと幼稚園児くらいだと思ってます? 一年だって色々ありますよ!……まぁわたしもエースが彼女と電話してるとこを偶然聞いちゃっただけなんですけどね」
わたしはその時のことを思い出してずぅんと心が重くなる。エースだってわざわざ人気のないところを選んでこっそり電話してたはずなのに、なぜわたしはあの日あの時あそこを通りかかってしまったんだろう。
「う……っ、エースが、電話しながら『好きだよ』って言ってるの聞いちゃって……」
「おやおや……」
「なんかもう事故だったんですけど、バレたからには仕方ないってエースがわたしにだけ教えてくれて、ここに入学する前、ミドルスクールの頃からずっと好きだった子とやっと付き合えたんだってめちゃくちゃうれしそうに……」
「それは災難でしたねぇ」
「あんなうれしそうなエースはじめて見て……」
思い出しても泣けてくる。
突然異世界に飛ばされたのは最悪だったけど、そこで好きな人ができてなんだかんだ毎日楽しくて、短気でバカだけど優しくて頼りになるエースがだいすきで、なのにエースにはちゃんと好きな子がいて、しかもそれをめちゃくちゃ締まりのない顔で報告された時、わたしは一体どんな顔をしてたんだろう。
「もうすっごいショックで、信じられなくて、でも、エースにはしあわせでいて欲しいから……」
この気持ちは絶対伝えないでいようと決めた。わたしが告白してもエースを困らせるだけだから。デュースならきっと失恋したわたしを親身になって励ましてくれるだろうけど、エースは何も悪くないのにわたしのせいで三人の関係がギクシャクしちゃうのは嫌だった。
「……それで壊れるくらいならその程度の仲なんだろうって先輩は思うかもしれないけど、マブ達がいなくなったら、ここでのわたしには何もないから」
自分でぶち壊すくらいなら友達のままの方がずっといい。
エースの彼女になれなくても、女の子として見てすらもらえなくても。
「だから自分を好きになってもらう努力はしないというわけですね。始める前から諦めてらっしゃると」
「……ジェイド先輩には分からないと思います。アズール先輩に振られても家族がいて故郷がある先輩は、失恋なんて怖くないでしょ」
報われない恋が永遠じゃないことなんて知ってる。
今はすごくすごく好きでどんなに苦しくても、いつかはきっと苦しくなくなる時が来る。そしてまた新しい恋をして、エースを好きだった気持ちを忘れる時がくる。わたしはその時笑うために、今この気持ちを諦めるんだ。あぁあの時告白せず友達のままでいて良かったと、心から言えるいつかのために。
「気を悪くされたなら申し訳ありません。あなたを責めた訳ではないんです。ただ僕も同じだなと思いまして」
「え?」
「僕は努力家なアズールをとても尊敬していますが、彼と同じように努力家にはなれません。地道な努力を重ねて彼に振り向いてもらおうとすら思わず、はじめから諦めているので」
淡々と語るジェイド先輩はいつも通りの読めない表情のままで、どんな感情でそう言ってるのかは全然わからない。悲しい? 悔しい? それともそんな気持ちにもならないくらい潔く諦めてる?
「僕はアズールの理想のご令嬢にはなれませんから」
それは、紛れもない事実だった。
ジェイド先輩がどうとか以前に、アズール先輩が女の人しか恋愛対象にならないと言うなら、ジェイド先輩がどんなに頑張ってもどんなにアピールしてもアズール先輩には届かない。もしアズール先輩が本当に自分の仕事に役に立ちそうな女性との結婚を望んでいるのだとしたら、ジェイド先輩はその土俵にすら立てないんだ。
「でも、ジェイド先輩って無意識のうちにめちゃくちゃ努力してるんじゃないですか?」
「はい……?」
「アズール先輩みたいな努力家にはなれないって言うけど、アズール先輩のむちゃ振りにめちゃくちゃ頑張って応えてるじゃないですか。そりゃジェイド先輩は有能だからわたしが同じことをするよりずっと簡単にできちゃうんだろうけど、それだって今までの努力の積み重ねがあったからですよね?」
「……考えたこともありませんでした」
「アズール先輩の側近なんて一般生徒ならとっくに投げ出して逃げてますよ。でもジェイド先輩はアズール先輩のどんなワガママもきいてあげるわけでしょ? わたしはそれって、ものすごい愛だと思うんですけど」
そもそもあの人の片腕なんて大抵の人には務まらないと思うけど、それを難なくこなしてるジェイド先輩はやっぱりすごい。もしかしたらすっごく苦労してる事もあるかもしれないけど、なんて事はないみたいな涼しい顔でやってのけちゃうジェイド先輩のありがたみをアズール先輩はちゃんとわかっているんだろうか。
「アズール先輩がいつか気付いてくれるといいですね。ジェイド先輩のでっかい愛に」
そう言ってジェイド先輩を見れば、さっきまでの感情の読めない無表情はどこへやら、わたしから目を逸らし顔を真っ赤にして俯いていた。
どうやらこの人は、自分のでっかい愛に気づいていなかったらしい。
「どうしたんですかジェイド先輩、もしかして照れてます?」
「……ちがいます。そんなことを言われたのははじめてだったので」
「そんなことってどれですか? アズール先輩の役に立ちたくて無意識に努力してたこと? 自分の愛が思ってた以上におっきかったこと? ねぇねぇジェイド先輩」
「あまりうるさいと口を塞いで沈めてしまいますよ」
「照れ隠しですか? やだ先輩でも余裕なくなることあるんだかわい〜」
「全くあなたは……」
「ふふふ、でもこれは契約ですからね。これからもわたしとたくさん恋バナしてくださいね、ジェイド先輩」
こんな風に、わたしとジェイド先輩の秘密の女子会(仮)はこのオンボロ寮で始まった。
ジェイド先輩はとにかく忙しい。
オクタヴィネル寮の副寮長にモストロラウンジの副支配人、それからアズール先輩の無理難題を叶えるために日々奔走し、加えて本業である学生としての勉強もこなさなくてはならない。しかもその合間を縫って植物を育てたり山に登ったりテラリウムを作ったりと多趣味でもあり、一体どこにそんな体力があるのかと不思議に思う(だからあんなに食べてるのか)
でも契約は契約なので、わたしは隙を見てはジェイド先輩に声を掛けた。
「あ、ちょっとごめん」
マブ達と一緒に教室移動をしてた時、同じく移動中らしきジェイド先輩を見つけてわたしが駆け寄る。他の生徒達もあちこちを歩いている休み時間、ジェイド先輩と内緒話をするには身長差がありすぎるので、「屈んで」という意図でその袖を引けば、ジェイド先輩が長い足を折ってわたしの顔に高さを合わせてくれる。
そうしてやっとジェイド先輩の耳元に顔を近付け、わたしはヒソヒソと小声で囁く。
「今日はシフト入ってますか?」
「いえ、今日は休みですよ」
「やった! 予定がなければ今夜どうですか?」
「いいですよ、時間はいつも通りで?」
「はい! じゃあ寮で待ってますね」
そんな風に簡単なやり取りをして約束を取り付け、わたしは満足してマブ達の元へ帰っていく。契約したとは言え先輩は忙しくて断られる事もしょっちゅうだから、久々の恋バナタイムが確定してわたしはご満悦だった。
でもエースは、戻ってきたわたしになんとも不満気に微妙な表情を向ける。
「お前さぁ……、最近よくジェイド先輩と話してるけど大丈夫? なんか弱みでも握られてんの?」
「弱み? 全然そんなことないよ! 話してみるとけっこう楽しくてさ〜、最近仲良くしてもらってるんだ」
「あの人と仲良くとかまじ!? 騙されてんじゃねぇの? 絶対なんか裏があるに決まってるって! なぁデュースお前もそう思わねぇ?」
「そうか? アーシェングロット先輩も話してみると案外いい人だし、先輩と仲良くなるのはいいことじゃないか」
「はぁ……、だめだこいつ。いい人は後輩にイソギンチャク生やしたりしねぇんだわ。てかもしかして、最近よくグリムを寄越すのってジェイド先輩が来てるからとか?」
「あー……、まぁそうだけど、別にやましい事は何もないよ」
「ほんとか……?」
エースは全然信じてない顔でわたしをじっと見る。そりゃこれまでのジェイド先輩の素行を考えれば信用できないのは最もだけど、やだそんなに見つめられたら照れちゃうからやめて欲しい。てか今日も顔がいいなすき。
「……つか、元イソギンチャクの俺が言えた立場じゃないけど、気を付けろよほんと」
「なに〜? 優しいじゃん心配してくれてんの?」
バッカちげぇよ! とか、ムキになって反論してくるのを想像してた。
それで茶化すように笑うわたしに、もうしらねぇからなとか言ってさっさと歩いて行っちゃう姿を。なのに、なのにエースは全然怒ったりせず、ずっと真面目な顔をしてた。
「そりゃすんでしょ。ユウだって一応女の子なんだからさ、なんかあったらちゃんと言えよ。正直ジェイド先輩に勝てる気はしねぇけど、でもお前になんかあったら黙ってねぇから」
「一応ってなによ」とか、なんとかノリで返してそこはそのまま終わったけど、心臓にわるいからほんとにやめて欲しい。
「キュン死にするかと思ったんですけど! ジェイド先輩聞いてます!?」
「はいはい聞いてますよ」
「もー……、えーすってほんと、ほんとなに?? はーーーー……、すき」
ほんとにやばい。無意識でやってるのやばすぎる。あれがモテる男ってことなの?? いやめっちゃわかるよ、エースは明るいしコミュ力高くて誰とでも分け隔てなく話せるし、間違いなくクラスの中心にいるタイプで生意気なくせに程よい甘え具合で先輩にも可愛がられるし多分後輩からも慕われるタイプだよね。そんなの女子から人気ないわけない。中学生くらいの女子なんてみんな好きに決まってる間違いない。
「エースの何がやばいって、あんなお調子者キャラのくせに締めるとこきっちり締めてくるところがやばいんですよ! おふざけと真面目なとこのバランスが絶妙って言うか、そこ絶対茶化してくるだろうな〜みたいな所で真剣な顔されるギャップがもう……たまらん!! て、はぁ〜〜もうなに? かっこよすぎじゃないですか? ジェイド先輩この良さわかります??」
「さぁ……、とんと分かりかねます」
「わたしの話聞いてました???」
「全部聞いていましたが、僕の中のエースくんと言えば契約書もろくに読まず上手い話にホイホイ乗ってくる軽率で浅はかなカモ……失礼、少々思慮に欠ける軽薄な方、という印象が先行してしまいまして」
「言い換える意味ありました? 何も否定できないけど……」
「ふふ、ですがユウさんは彼のそんな浅慮な面も承知の上で、まだ余りある魅力を感じてらっしゃるというわけですね」
「わかってもらえます?」
「いえ全然」
「デスヨネー」
まぁ別にジェイド先輩にわかってもらおうとは思わないけど。ジェイド先輩に「わかる〜!」なんて言われても気持ち悪いし(絶対言わないけど)わたしは別に話を聞いてもらえればそれでいいのだ。
「まーアズール先輩みたいなタイプを好きになる人にエースの魅力はわからないと思うんで全然いいですけど」
「おや、その言い方ではまるでアズールがエースくんより劣っているようではありませんか。失礼ながらエースくんがアズールより優れている点について思い当たるところがないのですが……、ご迷惑でなければ詳しくお伺いしても?」
やだ急に真顔になるの怖! どうやらジェイド先輩はアズール先輩を貶されるのが地雷らしい。
「違います違います! どっちがいいとかじゃなくて好みが違うってだけの話ですってば。ほら、ジェイド先輩はめちゃくちゃかっこいいしモテると思うけど全然わたしの好みじゃないし」
「なるほどそういうことですね、よく分かりました。僕もユウさんには全く異性としての魅力を感じませんので。まぁあなたが一般的に好まれるタイプの女性なのかも僕にはよく分かりませんが」
「あーわたしは別にモテないんで。ていうかそんなとこで張り合わないでくださいよ、わたし別にアズール先輩を批判してるわけじゃないんで」
「おや、ではあなたにもアズールの良さがわかるのですか?」
「んー……、わたしからすると恋愛的な意味ではないけど、ある意味尊敬できる人だなとは思いますよ。間違いなく努力家だし、わたしには絶対できないようなことを成し遂げてきたすごい人なんだなって」
「ある意味と言うのが気になりますが、おっしゃる通りです。アズールが重ねてきた地道な努力は並大抵のものではありませんから、もしあなたにもアズールと同じくらいの努力ができれば、元の世界に戻る方法も自力で見つけられるかもしれませんね」
「え、ほんとですか!? わたしも頑張れば自分でなんとかできたりするんです??」
「ふふ、アズールと同じくらい努力することができれば、ですので。まず無理でしょうね」
「えぇそんな……、わたしでもやればできるのかと思ったのに」
「本気になればできなくはないかもしれませんよ。友人と遊ぶ時間も食事も睡眠も削ってあなたの持てる時間の全てを勉学に費やし、尚且つ魔力のないあなたが魔法を理論だけで完璧に理解できる日が来たら、あなたが帰る方法もご自分で見つけられるかもしれませんね。まぁそこに至るまで十年や二十年を費やす覚悟は必要でしょうが」
「う……っ、それは確かに無理すぎる……」
「そうでしょうね。ですが、それほどの努力を本気で重ねてきたのがアズールなんです。彼は魔力には恵まれていたようですが、元々はそれを存分に発揮するための知識も頭脳もなかった。にも関わらずアズールは執念だけで努力を重ねこのナイトレイブンカレッジで寮長にまで上り詰めたんです。あのアズールが昔は勉強が苦手だったなんて誰が信じます? 今の彼しか知らない人間達からすれば、アズールの過去なんてきっと想像もできないでしょうね。彼はそれほどの事を自分の力だけで成し遂げたんです。誰にでも簡単に真似できることではありません」
急にめっちゃ語るじゃん。
でもまぁ、ジェイド先輩の言うことはその通りなんだろうなとも思う。
わたしは今でもめちゃくちゃ帰りたいけど、右も左もわからないこの世界で自力で帰る方法を見つけようなんて考えにも至らなかった。学園長が探してくれるって言うからそれに甘えて丸投げして、そのくせ絶対考えてくれてないよと文句を言うだけ。
友達との時間や自分の楽しみを全て犠牲にして、自分の持てる時間の全てを費やして地道な努力を重ねるなんてわたしには到底無理だ。きっとエースにもデュースにも無理かもしれないけど、でもアズール先輩はそれができる人だった。
「先輩うれしそう」
「はい?」
「いやめちゃくちゃわかります。好きな人のすごいとこ自慢したいですよね、もっと話していいですよ」
「いえ僕は事実を申し上げたまでで」
「わかってますよ。ジェイド先輩はそういうアズール先輩がだ〜いすきなんですよね! いいねそういうのもっと聞きたい! これぞ恋バナ」
「はぁ……、ですがあなたがアズールの話なんて聞いても面白くないでしょう」
「そんなことないですよ? アズール先輩のいろんな話聞けるの楽しいし、何より恋するジェイド先輩が見れるのがめっちゃ楽しいです!」
「そんなにいつもと変わらないと思いますが」
「いやいやジェイド先輩も楽しそうですよ! まぁ先輩はいつも楽しそうだけど、でもアズール先輩愛を思う存分語れる場所他にないでしょう? ここでは何を話してもぜったいに漏れる心配はないんですからなんでも話してくださいね! 自分、命がかかってるんで契約は絶対守りますから!」
「ふふ、やっぱりおかしな方ですねあなたは」
「そうですか?」
「いくら都合が良かったとは言え、この僕を話し相手に選ぶ時点で相当変わっていると思いますが」
「でもわたし海で追いかけられた以外にジェイド先輩から害を受けたことないので。学校で話してる分には怖くないので平気です!」
「ふふふ……、これは確かにエースくんも心配になるでしょうね」
「あぁ、なんかジェイド先輩と話してるだけで渋い顔するんですよね。あと心なしか最近わたしに絡んでくる輩が減った気がするんですけど、もしかしてこれってジェイド先輩効果!?」
「おやおやそんなに頻繁に絡まれてらしたんですか」
「そうなんですけど、学校で先輩とよく話すようになってからは落ち着いてて。ただ単に予定聞きに行ってるだけなのになんというタナボタ」
「たなぼた……? と言うか連絡ならマジカメの方にいただいた方が早いのでは」
「え、先輩マジカメアカウント持ってるんですか? 絶対やってないと思ってた」
「もちろんありますよ。僕も現役高校生ですから」
「なんだそれなら早く言ってくださいよ……。学校で探すの結構大変だったのに! アカウント教えてください!」
「いいですよ」
「うわ山とキノコの写真しかないじゃないですか。てかフォロワーすくな。あ、ケイト先輩にフォローされてる〜」
「ほとんどアズールとフロイドとの連絡用にしか使っておりませんので……。ケイトさんは貴重なマジカメ仲間です」
「そういえばなんか時々ケイト先輩のマジカメにジェイド先輩載ってますよね。ジェイド先輩の交友関係が謎すぎる……」
なんか前に「目立つのは得意じゃない」とか言ってた気がするけど、行事のたびにケイト先輩のマジカメに現れるジェイド先輩を見て意外とノリはいいんだなぁと思う。でもジェイド先輩の方のアカウントには人が写ってる写真は一枚もなくて、なんかよくわからない人だなぁと改めて思った。
「ま、これで連絡が楽になりましたね!」
「えぇ、ですが、今まで通り声を掛けていただくのも面白いかもしれませんね」
「え?」
「僕と話すようになってからあなたが絡まれないようになったということは、何か誤解してらっしゃる方が一定数いるということでしょう」
「あー……、そうですね多分。なんかすみません」
「いえ、僕たちにとってはかえって好都合ではありませんか?」
「あ、なるほど確かに」
エースへの気持ちを隠したいわたしと、アズール先輩への気持ちを隠したいジェイド先輩。
わたしとジェイド先輩の関係が周りから誤解されることで、それはいい隠れみのになるというわけだ。
「でも先輩はいいんですか? わたしみたいなのと付き合ってると思われるなんて心外でしょ」
「おやあなたはそんなにが自分に自信がないのですか? 少なくともここであなたは学園唯一の女性ですし、寮長達に一目置かれている存在であることは確かです。この僕相手に自ら契約を持ちかけるような方ですから、その豪胆な性格は僕も感心しているのですよ」
「え、今なんかわたし褒められました!?」
「褒めたかどうかは怪しいですが、あなたは自分らしく堂々としていればいいんです。周りからどう思われようがどうでもいいじゃありませんか」
そっかわたしってもしかしてちょっとすごいのかも。突然異世界に来たかと思えば次から次へとトラブルに巻き込まれて、その度になんとか乗り越えてきた手腕は伊達じゃない? 猛獣使いとしての才能を誇っていいのかも!?」
「ふふ、本当に単純で心配になりますが、あなたを見ているのは僕も楽しいですよ」
「そうなんだ……! じゃあこれからは付き合ってるテイでいきます?」
「僕としてははっきり公言するよりも、曖昧に躱しつつ反応を見ている方が楽しいですね。はっきりさせない方が周囲の関心も長続きしますから」
「なるほど〜。じゃあそんな感じで行きましょうか。でもさすがにアズール先輩とフロイド先輩にはバレません? わたしがジェイド先輩の趣味じゃないことくらいお見通しでしょ」
「どうでしょう。フロイドとは元々そういったことを干渉し合う仲ではありませんし、アズールは恋愛面で僕に関心はありませんので気にしないと思いますよ。むしろあなたにあまり迷惑をかけるなと叱られてしまうかもしれません」
「へぇ……なんか意外。めちゃくちゃ兄弟仲いいのに男同士ってドライなんですね。わたしだったら根掘り葉掘り聞いちゃいそう」
「僕ならフロイドに色々と聞くかもしれませんが」
「え、そうなんですか? ジェイド先輩は兄弟の恋愛とか気になるタイプなんだ?」
「ふふ、あのフロイドがどんな方に恋をするのかはとても興味深いですね。それがどのくらい続くのかも」
「うわ面白がってるだけだった……。めちゃくちゃ嫌がられそう」
「とても嫌がられると思います。僕は気にしませんが」
「うわ〜……ほんといい性格してますねジェイド先輩」
「恐れ入ります」
全然褒められてないことなんて分かってるくせにジェイド先輩はニコニコと笑って、この人本当に性格やばいなと改めて思う。顔がいいからってうっかり好きにならなくて良かった。こんな人に惚れたらきっと人生踏み外すんだろうなーと思いつつ、そんなジェイド先輩の心を唯一乱せるアズール先輩の存在の大きさに恐れ入る。
「アズール先輩ってすごい」
「なんですか急に」
「だって、人の都合なんてお構いなしに我が道を貫くジェイド先輩が唯一評価を気にする人じゃないですか」
ジェイド先輩がまた全然気づいてなかったみたいな顔で目を丸める。この人ほんとに面白いな。
「フロイド先輩が嫌がるって分かってても自分の好奇心を満たそうとするくせに、アズール先輩相手ならきっとしないでしょう?」
「……それは」
「しないですよ多分。だってアズール先輩にだけは嫌われたくないですもんね。……て言うより、本当に嫌がることをして傷付けたくない……てことかな」
多分フロイド先輩に対しては、本気で嫌がってても許してもらえると思って甘えてるのかもしれない。でもアズール先輩が本気で嫌がることをしたら、あの人はきっと全部シャットダウンして離れていっちゃうって分かってるから、ジェイド先輩はアズール先輩の繊細なところに勝手に触れたりはしない。アズール先輩のずっと深いところにある傷をジェイド先輩は知ってるから、それを抉らないように大事に守ってるのかもしれない。
「愛ですねぇ」
こんなに自分勝手で自分の欲望に正直な人が、唯一守りたいと思う大切な人。
いいなぁアズール先輩。
わたしもいつか、誰かにそんな風に愛されてみたい。
ジェイド先輩はまた顔を真っ赤にして言葉を失ってしまった。
やっぱり恋ってすごいな。
こんな怖い人をこんな風にかわいく変えてしまうなんて。
ジェイド先輩は絶対に伝えるつもりはないなんて言うけど、この恋がいつかアズール先輩に届いて報われたらいいのに。
両手で顔を覆って俯いてしまったジェイド先輩の、耳まで真っ赤になった姿を見てなんだか泣きそうになってしまった。
恋ってすごいけどつらいね。
どんなに大好きでどんなに大切な人でも、その人が同じ気持ちを持ってくれるわけじゃない。
だから好きな人が自分を好きになってくれるって、きっと奇跡みたいなことなんだ。
そう思ったら、そんな奇跡を手に入れたエースのしあわせを邪魔しようだなんて思えなかった。わたしは絶対にこの気持ちを伝えないから、だからもう少しだけ好きでいさせてね。いつか完全に吹っ切れたら、その時はずっと変わらない親友でいて欲しい。
少しして、気持ちの整理がついたらしいジェイド先輩がパッと顔を上げ、唐突に「匂わせをしましょう」なんて言い出したから吹き出してしまった。どうやら深く考える事はやめて、この状況を楽しむことに舵を切ったらしい。
その後、オンボロ寮がすこし見切れるアングルで庭の花を撮ったジェイド先輩が、「可愛らしい花が咲いていました」と一言添えてマジカメにアップすれば、ケイト先輩から爆速のいいねがきてふたりで笑ってしまった。
「さて、ケイトさんの拡散力はどれほどでしょうね」なんて、さっそく観測を始めたジェイド先輩の逞しさがちょっと面白くなってくる。
なんかわたし結構大丈夫かも。
今までずっと一人で抱え込んでた時は辛かったけど、性格に多大な難ありとは言え、話し相手ができたことでわたしの心はだいぶ軽くなった気がする。
「これからもよろしくお願いしますねジェイド先輩」
「えぇ、僕もちょっと楽しくなってきました。よろしくお願いしますねユウさん」
案の定、次の日わたしは廊下でケイト先輩に呼び止められた。
「ちょっとちょっとユウちゃん! 昨日のジェイドくんのマジカメなに? ふたりってやっぱり付き合ってんの?」
「マジカメってなんですか?」
「え、ユウちゃん見てないの? ほらコレ、オンボロ寮だよね?」
わたしはケイト先輩が見せてくれたスマホの画面を一緒に覗き込み、昨日ジェイド先輩が目の前でアップしていた投稿を見る」
「ジェイド先輩ってマジカメあったんだ」
「え、うそでしょそういう感じ?」
結局、わたしたちはお互いのマジカメをフォローしないことにした。表面上はつながりがないように見えるのに、匂わせ投稿をする事で周りがどんな反応をするのか見てみたいというジェイド先輩の言葉に乗ったのだ。
「大丈夫? もしかしてジェイドくんが勝手に入り込んでるとか……」
「あはは大丈夫ですよ。最近よく遊びに来るんで、その時に撮ったんだと思います」
「なんだそっかぁ〜……。そう言えば最近よく一緒にいるの見るけど、付き合ってるとかじゃないの?」
探り探りなケイト先輩の言葉を、わたしはにっこり笑って笑顔で躱す。
「うわなにその意味深な笑い」
「ふふふ、ご想像にお任せします。仲良くはしてもらってますよ」
「仲良くか〜。まだそこまではみたいな?」
「どうでしょうねぇ」
「はぐらかす感じだ。ま、無理には聞かないけどね。なんかあったらお兄さんが相談乗るよ〜」
じゃあねとケイト先輩は軽やかに去っていって、エースとはまた違ったケイト先輩の配慮に感謝する。
「さすがお兄さんだなぁ」
ケイト先輩はめちゃくちゃノリ軽そうなのに案外ズカズカと踏み込んできたりはしなくて、でもちゃんとあちこちに目を配っててさりげなくフォローを入れてくれると言うか、トレイ先輩といいケイト先輩といいハーツのお兄さんたちの気配りには本当に頭が下がる。リドル先輩はちょっと柔軟性に欠けるところはあるけど基本真面目で優しいし、なんでもかんでも面白がって首を突っ込んだり何かと言うと契約を持ち出してきたりするどこかの悪徳寮とは違って頼りになる先輩ばかりだ。
「ユウさん、今何か失礼なことを考えてらっしゃいますね?」
「あ、ジェイド先輩こんにちは」
「はいこんにちは。先ほどケイトさんと話してらっしゃいましたよね」
ジェイド先輩はスッと腰を折り、声をひそめてわたしの耳元で囁く。
「お、やきもち妬きなかれぴムーブですか?」
「ふふふそれも楽しそうですが、なにか反響があったのかなと思いまして」
「さっそく影響のリサーチに来たんですね。付き合ってるのって聞かれたけど、笑って誤魔化したらそれ以上は突っ込まれなかったですよ」
「おやそれだけですか」
「ケイト先輩は誰かさんと違って後輩のプライベートを面白半分に詮索したりしないんですよ」
「おやどなたのことでしょうか」
「白々しいなもう。疑うべくもなくジェイド先輩の事ですよ」
「おや、僕は詮索しているのではなく日々アズールの役に立つ情報を集めているだけですよ。健気でしょう?」
「あぁもう自分から認めて開き直ることにしたんですね。いいと思います」
わたしに指摘されるたび顔を真っ赤に染めて黙り込むジェイド先輩はかわいかったけど、いつまでもわたしに手玉に取られて黙っているような人ではないのでこっちの方がしっくりくる。
「……しかし意外でした。ケイトさんならすぐに拡散されるかと思ったのですが、いいねを押してくださっただけでそれ以上のアクションはありませんでしたね」
「普段からバズ狙いの人は信憑性のない情報の拡散には慎重なんですよ。ジェイド先輩のこと警戒して心配してくれてたみたいだし」
「おやおや……、ケイトさんとは仲良くしていただいていると思っていましたのに、警戒されていただなんてショックです」
「完全に日頃の行いのせいですよね」
しくしく、とわざとらしい泣き真似をするジェイド先輩にもそろそろ飽きたのでそれは流して、わたしは遠目にチラチラとこちらを盗み見ている生徒ににやりと笑う。
「ジェイド先輩」
くい、と袖を引けば、ジェイド先輩がまたわたしの目線に合わせるように頭を下げて、角度によってはキスをしてるようにも見えたかもしれない。
「ジェイド先輩の後ろの方、こっち見てる人たちがいますよ」
「ふふふ、あなたも悪い人ですね」
「だってこの状況を楽しむんでしょう? 匂わせ投稿第二弾はどうしましょうね」
「あまり連投するのもつまらないですから、またほとぼりが冷めた頃がいいかもしれませんね」
ジェイド先輩はなんとも悪い顔でにたりと笑って、わたしも釣られてにやりと笑う。
純粋にわたしを心配してくれてる人たちには申し訳ないけど、わたしとジェイド先輩の関係が疑われている以上きっとわたしたちの本当の気持ちがバレる事はない。
こうしてわたしたちはお互いの恋心を何重にも包み込んで隠して、ふたりだけの秘密を共有する共犯者になった。
どうやらジェイド先輩のマジカメは、フォローはしていないけど注視している人たちがたくさんいたらしい。
ケイト先輩がそっとしておいてくれたのにいつの間にか拡散されていた匂わせ投稿は、あっという間に広まって学園中に知れ渡ることになった。
「なんだか拍子抜けするくらいあっと言う間でしたね」
「ね。てかあの写真ほんとにオンボロ寮のはしっこしか写ってないのになんでみんなわかるんですかね? もしかしてわざわざ確かめに来てる人とかいる……?」
「どうでしょう、ハロウィンの時は解放されていましたから記憶している方もいるかもしれませんが、不確かな情報でも一度広まってしまえばそれが真実であるかのように受け入れられてしまいますからね。まぁそう仕向けたのは僕達なのですが」
「確かに……、でもほんとに来てる人がいたら怖いなぁ」
「そうですね、注意するに越した事はありません。何かあったら僕を呼んでくださいね、すぐに駆けつけますから」
「え、なにジェイド先輩が優しくてこわい……なんでそんなにニコニコしてるんですか」
「実は僕たちの噂がアズールの耳にも届いたようで、あまりあなたを困らせるなと叱られてしまいました」
「うわ……、気にしてもらえたのがそんなに嬉しいんですか。叱られて喜んでるのこわ」
「ふふ、アズールはあなたが思っているよりずっと優しいでしょう? アズールは金にがめついばかりの守銭奴ではなく本当に慈悲深い方なんですよ」
「いやわたしだってジェイド先輩よりアズール先輩の方がずっと優しいって知ってますよ。アズール先輩なんだかんだで後輩思いだし」
「は? 一体いつアズールが後輩思いな行動をされたのか詳しくお伺いしても?」
「いや怖いこわい……! 褒めたのに怒らないでくださいよジェイド先輩同担拒否ですか?」
「同担拒否?」
「あ、いいですこっちの話なんで」
しかしこの人こんなんで本当に大丈夫なのか?
アズール先輩が自分を恋愛対象にするはずないって諦めてはいるみたいだけど、もし本当にアズール先輩に恋人ができてもこんな風にニコニコ笑っていられるんだろうか。自分の知らないアズールを知ってる奴なんて許さないくらいの勢いで強火担なのに、本気で恋するアズール先輩なんて見ちゃったらショック死するかもしれない。
「……ねぇ先輩、もしアズール先輩に恋人ができても沈めたりしないですよね?」
いやこの人なら自分が死ぬ前に相手を殺すかもしれないと一瞬思ったけど、わたしの言葉にジェイド先輩が思い切り吹き出したからちょっと安心した。良かった、いくらジェイド先輩でも嫉妬で人殺しはしないらしい。
「あなた僕をなんだと思っているんですか。いくらなんでもアズールの恋人を殺したりしませんよ、そんなことしたらすぐアズールにバレるでしょう」
「え〜……、倫理観じゃなくてバレるかどうかの問題なんだ……」
「正直海にさえ引き摺り込んでしまえば絶対に証拠を残さない自信はありますが、あのアズールが恋人を殺されて黙っているとは思えません。アズールにバレた時のリスクを考えると静観した方が身の為でしょう」
「ふぅん……」
いざその時になったらそんな風に冷静でいられる気がしないけどなぁと訝しんでいたら、さっきまで楽しそうに話していたジェイド先輩の表情がふっと真剣に変わる。
「それに、アズールが悲しむでしょう」
さっきまでとあまりにも声のトーンが違うから、違う人が話してるのかと思った。
「恋人を失くすことも、僕が罪を犯すことも。ああ見えてアズールは本当に慈悲深い方ですから、僕を止められなかったことを悔やむでしょうね」
すこし視線を落としていたジェイド先輩が顔を上げて、わたしを見たその目はいつもよりずっと優しく慈愛に満ちている気がした。
「アズールが責任を感じてくれる程度には大事にされている自覚はあるんですよ。だから僕のせいで、アズールにそんな思いはさせられません」
ジェイド先輩がそう言うなら、大丈夫なのかなと思った。
この人の中心はいつもアズール先輩で、アズール先輩が望むのかどうかでこの人の行動は決まる。
わたしにはとても真似できないな。
エースのことはほんとに好きだけど、いつもいつもエースのための選択をできるかと言えばそんな事はないと思う。まぁジェイド先輩だって全てアズール先輩のために生きてるわけじゃないけど、もしも大きな選択を迫られた時、指針を示すのはきっとアズール先輩の存在なんだろう。
「愛だなぁ……」
「あなたそればかりですね」
「だって本当にそう思うんですもん。いいなぁアズール先輩」
「たぶんアズールは迷惑なだけですけどね」
そう言ってジェイド先輩が少し眉を下げた。
あぁこれは本当に思っている時の表情かも。なんだかわたしもやっとジェイド先輩の表情が読めるようになってきた気がする。ポーカーフェイスが得意だったり得意じゃなかったり、本気で困ってたり全然困ってなかったり。ジェイド先輩って真顔で嘘をつくけど意外と表情豊かなんだよな。
日頃の素行が悪いせいで敬遠されがちだけど、仲良くなれば案外かわいい人だと思う。アズール先輩がそこに気付いてくれればいいのになと思うけど、まぁジェイド先輩の普段の態度じゃ無理か。
「また何か失礼なことを考えてますね?」
「ジェイド先輩ってもしかして心読めます??」
「あなたが分かりやすすぎるんですよ。それでよく今までエースくんにバレませんでしたね」
「あははだってまさかわたしが自分のこと好きだなんて夢にも思わないでしょ。今はジェイド先輩が居てくれるおかげでめちゃくちゃカモフラージュになってるし。最近はあんまり突っ込んでこないけど絶対わたしたちが付き合ってると思ってますよあいつ」
「おや、効果があったみたいですね」
「クラスの子たちも直接は聞いてこないけどヒソヒソ話してたりするし効果バツグンでした!」
「お役に立てたのでしたら何よりです」
「はい! この調子でよろしくお願いしますねジェイド先輩」
こんな風にわたしたちの偽装交際は順調に学園中に知れ渡り、ふたりだけの秘密の女子会は不定期に開催され続けていた。吹っ切れたジェイド先輩はアズール先輩への愛を惜しみなく語ってくれるようになったし、わたしのエース愛は相変わらず同調してくれない。
でもわたしはそれが心地良くもあった。わたしたちはお互いの気持ちを理解して欲しいわけじゃなくて、ただ聞いてくれる相手が欲しかっただけだから。わたしはわたしの気持ちを好き勝手に話すし、ジェイド先輩もアズール先輩の面白いところを延々話し続ける。やっぱりアズール先輩はジェイド先輩の推し芸人なんじゃないかと思うくらいその話は尽きなくて、この好奇心オバケのジェイド先輩を(意図せず)楽しませ続けるアズール先輩はやっぱりすごいなと思う。
わたしたちの恋はきっと実らないけど、最強の戦友を手に入れたわたしたちの学園生活はそれなりに充実していた。恋人にはなれなくても一番近い友達ではいられるし、このままずっと、楽しい学園生活が続いて行けばいいと思ってた。
「聞いてくださいよジェイド先輩!」
その日、わたしはいつものようにジェイド先輩を呼び出して、興奮冷めやらぬまま今日の出来事を話して聞かせた。
「エースから彼女の誕プレ選びに付き合ってくれって頼まれたんですけど最悪じゃないですか!?」
「はぁ」
「もうほんと最低……、最悪。エースはそういうデリカシーはあると思ってたのに信じられない」
「一応お聞きしますが、あなたがエースくんのプレゼント選びを手伝うことにどんな問題が?」
「どんな!? 彼女へのプレゼントを他の女と選ぶなんて最悪すぎじゃないですか!」
「あぁなるほど、そちら側の問題ですか」
「そちら側?」
「いえ僕はてっきり、『なんでわたしがエースの彼女のためのプレゼントなんて選ばなきゃいけないの!?』の方かと」
「ちょっとジェイド先輩、もしかしてそれわたしのマネですか? 全然似てないからやめて」
「ふふ、それは失礼致しました。ではそういう気持ちは全くないと」
「もちろんありますよ。どっちもです。彼女にしてもわたしにしても最悪です。そもそも、男子校に行ったはずの彼氏の近くに女がいるだけでも許せないと思うんですよ普通。男子校だから安心してたのになんで女がいるの!?って」
わたしなら絶対そう思う。
こんな僻地の島の学校に通う彼氏なんて、ただでさえ会えなくてさみしいのになんで女がいるの?って絶対思う。彼女の自分がそばにいられないのに、ポッと出のわけのわからん女が一緒に学園生活を送ってるなんて意味がわからないくらい腹が立つと思う。
「それなのに、自分の誕生日プレゼントをそんな見ず知らずの女が選んだなんて知ったらほんっと最悪ですよ、別れるって言われても仕方ないくらいデリカシーなさすぎ」
「なるほど、乙女心とはそういうものなのですね。勉強になります。ということは、もちろん断られたのですよね?」
「もちろん受けましたよ!!」
「おやおや……」
悪ノリが大好きなジェイド先輩ですら本気でドン引いた様子で眉を下げ、呆れ果てた顔で憐れむようにわたしを見る。
「だってあのエースがわたししか頼れないから頼むって頭下げるんですもん……。付き合って初めての誕生日だから、絶対失敗したくないけど女の子の欲しいものなんて全然わかんないからお願いって」
「おや、エースくんも彼女とはミドルスクールから親しくされていたのでしょう? 僕ならアズールの欲しいものは的確に理解していますが。アズールも僕の誕生日には毎年とても素晴らしいプレゼントを贈ってくださいますよ」
「ちょっと急にマウント取るのやめてください。男女だと色々あるんですよ。その辺が高一男子なんですってば。それにエースにあんなに必死にお願いされちゃったら……」
「頼むよユウ!」とわたしに向かって頭を下げるエースの姿をまざまざと思い出す。わたしが渋っていると、ななめに少し顔を上げて「な〜?」と上目遣いに甘えてくるエースの憎たらしさときたら。きっと今までずっとそうやっていろんな人に甘えてきたんでしょ。いつもは生意気なくせに急にかわいこぶって下手に出て、そういう風にすればみんな仕方なく許してくれると思ってるんでしょ。く……っ! その通りすぎて抗えない!
「頼まれると嫌とは言えないあなたの悪いところが出ましたねぇ」
「だってぇ……、エースがデュース達には内緒でふたりで出かけようとか言うから……」
エースの彼女へのプレゼントをわたしが考えるなんてほんとにほんとに最悪だけど、ふたりだけで買い物に行けるチャンスなんてもう二度とないかもしれない。街に遊びに行く時は大体デュースとグリムも一緒だし、たとえ目的が最悪でもこれは最初で最後の擬似デートになるかもしれない。
この恋を諦めると決めたわたしにとって、今回のおでかけがふたりだけの唯一の思い出になるかもと、浅はかにもそう思ってしまった。
「虚しくないんですか」
「う……っ、そりゃ虚しいですよ。虚しいけど、でもきっとこんなチャンス二度とないし……」
「あなたから誘えばいいだけの事では? 友人なんですから一緒に買い物に行くくらい普通のことでしょう。僕はよくアズールとふたりで街へ出かけますよ。フロイドがいなくても特段気にしませんが」
「だからいちいちマウント取るのやめてください。先輩達のはどうせ視察とかでしょ、ドヤ顔やめて」
ジェイド先輩とわたしじゃ全然話しが違う。
先輩達は元々幼馴染でアズール先輩に恋人がいるわけでもないけど、たとえ友達とは言え彼女のいる人をふたりきりのお出かけに誘うのはさすがに気が引ける。わたしが女じゃなかったら気にしなかったかもしれないけど、もし自分の彼氏が女友達とふたりで出かけたらと思うといい気はしないし、逆の立場でも自分が同じことをしたくはない。
「考えすぎではありませんか? あなたがエースくんの恋人の気持ちまで慮って差し上げる必要などないでしょう」
「自分がされて嫌なことはしちゃいけないって習わなかったんですか」
「ちょっと記憶にないですねぇ」
「文化の違いか……」
まぁジェイド先輩が大人の言うことをきちんと守るような性格ならおそらくこんな人にはなっていないと思うので先輩の言葉はともかくとして、彼女の気持ちはもちろん、わたしは彼女を思うエースの気持ちも無視なんてできなかった。
「エースって、めちゃくちゃ軽そうなチャラ男に見えるじゃないですか」
「そうですね」
自分で言っておきながらすんなり肯定されるとカチンとくるけど、付き合いの浅い人から見ればそう見えるのは確かなので返す言葉もない。
「でもああ見えてものすごく一途なんですよ。今の彼女も何年もずっと好きでやっと付き合えた子で、普通に考えたら自慢しまくりそうなものじゃないですか。いくら男子校で妬まれるからってエースならそんなの気にしないでしょ。どんなに揶揄われても逆に煽り散らかして顰蹙買いそうな奴なのに、それでも言わないのは彼女のことを本気で大事にしてるからなんです。何にも知らない奴らに面白半分で茶化されたくないって。彼女がからかいの対象にならないように守って……」
あぁもうなんだかな。
エースの話を聞けば聞くほどどれだけ彼女のことが好きか思い知らされて、わたしの入り込むスペースなんて少しもないんだって実感させられる。
そんな風に他の子を好きな男なんてとっとと見切りをつけて忘れられたらいいのに、忘れたいのと同じくらい、わたしはこの気持ちを大事にしたい。
異世界に来てすごく心細かった時に初めて声を掛けてくれた男の子。最初はあんなにムカついたのに、今となってはエースのいない毎日なんて考えられない。みんながいてくれるからなんとか楽しくやれて、エースがいるから、ここで生きていく事も悪くないと思える。
「複雑なんですね」
「そうですよわたしはジェイド先輩が思ってるよりずっと繊細なんです」
「それは存じ上げませんでした。異世界にたった一人でもへこたれない勇ましい方だとばかり思っていましたので。神経が図太くて強かで、いつも突飛な行動を見せてくれるあなたのことは見ていてとても楽しいので僕も好ましく思っていましたのに」
真顔でつらつらと言うジェイド先輩にちょっと恥ずかしくなる。もしかして褒められた……? 褒めてるのか貶してるのか微妙なラインではあるけど、見ていて楽しいということはわたしもジェイド先輩に面白コンテンツとして認識されているのかもしれない。
「ところでユウさん、当日はどんな装いで行かれるおつもりですか?」
「はい?」
「せっかくふたりきりのお出かけなんですから、どうせならエースくんにかわいいと思われたいのでは?」
「お……、おもわれたい……!」
いつもは出かける時も制服のままが多くて、何を着るかなんて考えもしなかった。今回も当然の様に制服のつもりだったけど、確かに最初で最後のデート(仮)くらいおしゃれして行きたい! と思ったのも束の間、わたしは一瞬で現実を思い出す。
「でもわたし最低限の生活費しか支給されてないんで。私服まではとても」
そもそもお金がないんだった。
身分も不確かなわたしは街でバイトもできないし、部屋着すらエースやデュースのお下がりを着回していると言うのに、お出かけに着ていく服なんてわたしの財力で買えるはずもない。
「ではモストロラウンジでバイトしましょう! 以前お手伝いしてくださったこともありますし基本的な仕事は問題ありませんよね。早速ですが明日はいかがですか?」
「え、いいんですか!? 勝手に決めてアズール先輩に叱られません?」
「スタッフの採用は僕が取り仕切っておりますので問題ありません」
「そうなんだ、じゃあお願いします!」
こんなわたしに仕事を与えてくれるなんてジェイド先輩はなんていい人なんだろうと思ったけど、翌日モストロラウンジへ向かうとアズール先輩から大歓迎された様子からしてどうやらただの欠員補充だったらしい。他のスタッフからも感謝されたから別にいいけど、親切にするふりをして恩を売っておきながら、ちゃっかりアズール先輩の利益の為に動いているジェイド先輩は本当に抜け目ない。
「資金も調達できたことですし、早速ユウさんの服を買いに行きましょう」
週末丸二日ラウンジで働かせてもらって、ニコニコ現金払いでマドルを受け取ったわたしにジェイド先輩が突然そんな事を言ってきたのは月曜の放課後のことだった。この人ほんとに自分勝手だな。
「ジェイド先輩とふたりで?」
「はい。以前ジャックくんのお買い物に同行させていただいたことはありますが、女性のお店には行ったことがありませんので大変興味があります」
「それ知ってる……同行させてもらったんじゃなくて付きまとっただけですよね。先輩ほんと好奇心だけで生きてますね」
「とても楽しいですよ」
「でしょうね」
まぁこの人が決めたことに抗っても無駄だし、どうせ今週中には行くつもりだったしと諦めてわたしは頷いた。
「今からすぐ行きます?」
「そうですね、門限前に帰らなくてはいけませんし」
「わかりました、グリムに言ってくるのでちょっと待っててくださいね」
教室の入り口で話すわたしとジェイド先輩をクラスメイト達が遠巻きに見守る中、わたしは一旦先輩をおいてマブ達の所へ戻る。
「グリム〜、今日ジェイド先輩と麓の街に遊びに行くけど一緒にいく?」
「ゲッ、ジェイドと一緒になんて絶対お断りなんだゾ!」
「そう? じゃあ悪いけど夜ごはんは適当に食べててね」
「なに!? まさかジェイドとウマイもんでも食いに行く気か!? やっぱりオレ様も行くんだゾ!」
「グリム〜、お前さすがに空気読めって。デートだろデート!」
「え……っ、デート!? ユウ、本当にリーチ先輩と付き合ってるのか!?」
最近はなんだかもう諦めでムードでわたしたちの関係を黙認していたエースがそう言えば、本気でただの仲良しだと思っていたらしいデュースが驚いて目を丸める。
「ちょ、デュースお前さすがに鈍すぎんだろ。察しろっつーの」
「で、でもユウはそんなことひとことも……、本当なのか?」
「んふふふふ」
デュースには悪いけど、わたしはまたはっきりとは答えずニコニコと笑って誤魔化す。ほんとごめんデュース。デュースはぜんぜん悪くないし本当のこと言えないのは申し訳ないけど、でもエースを信じ込ませるためにも、わたしはデュースを騙さなきゃいけないんだ。
「子分……、オメー趣味悪いんだゾ」
「まぁまぁ、グリムにはオレがなんかうまいもん食わせてやるからさ。トレイ先輩に頼んで」
「ほんとかエース! 絶対なんだゾ!」
「エース……、それじゃ食べさせるのはお前じゃなくてクローバー先輩じゃないか」
「ユウ、グリムは預かっとくから楽しんでこいよ」
「ん、ありがとエース」
わちゃわちゃするグリムとデュースを制して、早く行けと送り出してくれたエースにずきんと胸が痛む。
たぶん、わたしがプレゼント選びに付き合ってあげることへのお礼のつもりなんだろうな。今ここでエースの彼女のことを知ってるのはわたしだけで、わたしとジェイド先輩のことをフォローできるのは自分だけって思ってるのかもしれない。エースってチャラいくせにこういうとこ意外と律儀って言うか、いい奴なんだよなぁ……
「先輩いこ」
わたしはグリム達を残して廊下へ向かい、ドアのところで待っていたジェイド先輩の袖を掴む。
ちゃんと付き合ってるように見えるかな。
ちゃんとエースが誤解してくれるかな。
わたしエースと出かける時のための服を選びに行くんだよ。わたしがエースとのお出かけをずっと楽しみにしてるなんて、エースが絶対に気付かないくらい楽しそうにしなきゃ。
一生懸命気を張るわたしに気付いたのか、ジェイド先輩がそっとわたしの手を握って耳元に顔を寄せる。
「ユウさん、株価が暴落した時のアズールみたいな顔になってますよ。ほら、株でボロ儲けした時のアズールを想像してください」
わたしは一瞬にして株価大暴落からの急騰に転じた時のアズール先輩を想像して吹き出してしまう。
「あはは……! 目に浮かびすぎる!」
「ふふ、その調子です。その儲けでモストロラウンジ2号店の開店に漕ぎ着けたアズールはさぞかし上機嫌でしょうね」
「めっちゃ想像できる、アズール先輩めちゃくちゃ楽しそう」
頭の中でめちゃくちゃ上機嫌にはしゃぎまくるアズール先輩を想像してみたらその先の妄想が止まらなくなって、経済界でどんどん躍進していくアズール先輩が高笑いする姿が妙にツボってしまった。
これは確かにジェイド先輩がアズール先輩を推し芸人にしたくなる気持ちもわかる。いや妄想だけど、わたしが妄想しているであろうアズール先輩の姿にジェイド先輩は満足気にニコニコして、そんな風に笑い合うわたしたちは周りが引くくらい仲良しに見えたに違いない。
それにしても、わたしを一瞬で爆笑させるジェイド先輩の推しは本当に偉大だ。
「ところでユウさん、どんな服装にするかもう決めてあるんですか?」
「え? いやあんまり……色々考えすぎて決められなくて」
麓の街へ向かうバスの中、なんとも都合よく他に生徒達のいなかった車内でわたしはスマホのアプリを開く。
「色々見てはいたんですけど、ちょうどいいのがわからなくて」
「ちょうどいいのとは」
「狙いすぎず女の子っぽすぎないけどかわいいライン」
「そんなに考えずとも、ユウさんのお好きなものを着ればよろしいのに」
「よろしくないですよ! 普段制服と部屋着姿しか見せてないのに急にかわいすぎる格好したら気合い入れすぎって思われちゃうし、わたしは好きだけどエースの好みじゃなかったら趣味悪いと思われちゃうし、適度にかわいくてエースの好きそうなおしゃれな感じってなに!? て考えたらもうわかんなくなっちゃって……」
「おやおや……、僕は他人からどう見られても全く気になりませんが、女性は服選びも大変なのですねぇ」
「は? ジェイド先輩がそんなこと言います?」
「僕が何か?」
「ジェイド先輩、服はいまだに窮屈で慣れないとか言ってましたよね。じゃあなんでいつもそんなにきっちり着てるんですか? 人の目が気にならないならフロイド先輩みたいに着崩せばいいのに」
「人の目と言いますか、制服については正式な着方をしているだけであって」
「正式〜? この学校ちゃんと制服着てる人なんて数えるほどしかいないじゃないですか。考えてみて下さいよ、寮長ですらちゃんと制服着てるのリドル先輩とアズール先輩くらいですよ。いやツノ太郎もちゃんと着てるか……。そういえばリドル先輩はなんでネクタイリボン結びなんだろ。かわいいから全然いいけど『ハーツラビュルの寮長はネクタイをリボン結びしなければならない』ていう法律でもあるのかな」
規則に厳格なあのリドル先輩がするくらいだからほんとにありそう、とか考えてたら、隣のジェイド先輩が珍しく言い返しもせず黙っているからハッと本題を思い出す。
「アズール先輩は明らかに印象操作の為にきっちりしてるみたいですけど、ジェイド先輩はアズール先輩が好むから自分もそうしてるんですよね? もしかしてまた無自覚でした?」
痛いところを突かれたみたいにジェイド先輩が絶句するから、わたしはまた面白くなってここぞとばかりに突っ込んでみる。
「寮長があんなに厳格なハーツラビュルの副寮長ですら制服は気崩してるのに、ジェイド先輩は制服も寮服もお手本みたいにきれいに着てますもんね〜。そんなに窮屈ならボタン緩めてタイなんて外しちゃえばいいのに、副寮長のジェイド先輩がきちんとしてればアズール先輩が喜んでくれるからちゃんとしてるんですよね。えらいなぁジェイド先輩は。とっても健気ですね、対アズール先輩にだけ!」
正直わたしは適当言ってるだけだけど、ジェイド先輩は思い当たる節があったようで観念したように低く唸る。
「……全く意識していませんでしたが、おっしゃる通りなのかもしれません」
「あはは、逆にジェイド先輩が気崩してたらアズール先輩がどんな反応するのか見てみたい。今度試してみて下さいよ」
「それは楽しそうですね、検討してみます」
「すぐ立ち直る。ジェイド先輩ほんといい性格してますね」
「恐れ入ります。それより、今日はあなたの服選びでしょう。僕のことよりご自分の心配をされた方が良いのでは」
「はっ、そうだった……!」
そうだジェイド先輩をからかってる場合じゃなかった。わたしはまたスマートフォンに視線を落とし、可愛い服を着てポージングする女の子達の姿にため息を吐く。
「スカートなんてこっち来てから一回も履いてないな……」
そりゃ男子校に通わせてもらってる身としては、みんなと同じ制服を与えられてるだけでもありがたいし、文句を言えるような立場じゃないのは分かってるけど。
「ではスカートで探しますか」
「え? いやむりむりむり! 今更エースの前でスカート履くなんてなんか恥ずかしくて無理です! それにスカートだと狙いすぎな感じが……」
急に色気付いて誘ってみるみたいでなんかやだ。エースはわたしがジェイド先輩と付き合ってるって信じてるみたいだから今更そんな風には思わないだろうけど、わたしの方が意識してギクシャクしちゃいそうでむり。
「ではいつも通りのパンツスタイルで?」
「それだといつもと同じで可愛くないですよね〜……あーもうどうしよ」
「ではこういった感じは?」
「それだ!」
ジェイド先輩に向けられたスマホ画面に写っていたショートパンツ姿の女の子は、甘すぎずでもいつものわたしとは違ったスタイルで、カジュアルなエースの私服とぴったりかもしれない。
「こういう感じならいいかも〜! 健康的な足見せはいやらしくなくていいですよね!」
「気に入られたなら何よりです。お店に行くのが楽しみですね」
「はい!」
とりあえず方向性が決まって良かった。ジェイド先輩も案外役に立つかも……と思っていたのはここまでで、実際お店に着いてみるとジェイド先輩は一体そんなのどこにあったのかと思うような奇抜なデザインばかり勧めてくるからめちゃくちゃ疲れる。いやこの人絶対わたしで遊んでるな。
でも久々のショッピングはすごく楽しくて、いくつかお店を見て回ったけどやっぱりどうしてもかわいいスカートに目がいってしまう。リボンとかレースとか、元々あんまり着ないけどほんとはかわいい系が好きだったんだよなぁ。女の子らしいワンピースとか、着てみたかったな。
「ユウさん、そんなに気になるなら試着してみてはいかがですか?」
「え? いやいやいや! 出かける日に着る服買わないと」
「まぁまぁ、着てみるだけなら別にいいじゃないですか。あ、すみません」
わたしが返事もしない内に先輩が店員さんを呼び止めて、なぜかわたしを置き去りにして「試着いいですか?」と話が進んでいく。いやいやちょっと待ってわたし着るなんてひとことも。
ニコニコ顔の店員さんにこちらどうぞと案内されて、すっかり彼氏面したジェイド先輩に「さぁユウさん」と促されては断れない。わたしは渋々フィッティングルームに入り、すっかりと着慣れた制服を脱いでワンピースに着替える。
うわ、下がスースーして落ち着かない。元の世界ではミニスカートの制服を着てたはずなのに、膝丈のスカートでもソワソワしてしまうのはなんでだろう。
わたしは着替え終えて正面の鏡を見つめる。
大きめの襟がついたフレアスカートのガーリーなワンピース。似合ってるかどうかは正直微妙だけど、ずっとこういう服が着てみたかった。
あぁやっぱりかわいい脱ぎたくない。こんなの地元でだって恥ずかしくて着れなかったのに、着てみたら絶対欲しくなっちゃう。
「どうですかユウさん」
外側から声がして、かわいいワンピースに見惚れていたわたしはハッと現実に戻る。やばい早く脱がなくちゃ。ジェイド先輩にこんな似合わない服見られたら笑われちゃう。
「いやどうかな……! ちょっと似合わないかも」
「着替えは終わったのですか?」
「終わったけどちょっと、」
「開けますよ」
「は!?」
この人がわたしの了承なんて待つはずがなかった。言った瞬間勝手にドアが開かれて、ジェイド先輩がワンピース姿のわたしを凝視する。いや無言怖いんだってば。
品定めでもするようにたっぷり眺めた後、ジェイド先輩がにっこりと笑う。
「よくお似合いですよ」
「え?」
「とてもかわいらしいと思います」
「本気ですか?」
「えぇ、普段とは印象が違って驚いてしまいました。それにします? それとも何着か試着してみますか?」
「これにします……」
似合うと言われたことに驚きすぎて、ジェイド先輩お得意の心にもないお世辞かもしれないなんて考えもせず即決してしまった。他にもかわいい服はたくさんあったけど、正直一目惚れだったのでこんな風に背中を押されたら買うしかない。
「ありがとうございましたー」と店員さんに見送られ、ショッパーを抱えて店を出たところでわたしはやっと正気に戻る。
「ワンピース買っちゃった……!」
「ふふ、買っちゃいましたね」
「ショートパンツにするって言ってたのに!」
「そうですね。ですが僕はやはりあなたが好きなものを着るのがいいと思いますよ。好きな人の好みに合わせたいという気持ちも確かに分かりますが、それ以上に好きなものがあるなら堂々と着ればいいんです。それを笑うような相手なら見切りをつけた方がいいですよ」
「ジェイド先輩がまともなことを言ってる……!」
「僕はいつもまともなつもりなのですが……、信用がなくてかなしいです。しくしく」
「先輩ほんと泣き真似下手ですよね。ていうか演技する気ないでしょ」
そんな風にいつものやり取りをして歩きながら、わたしは改めて自分の買ったワンピースの袋を握りしめる。
「やばい……、こんなの絶対気合い入れすぎって思われちゃう……。デートでもないのにわたしだけ張り切ってるみたいでめっちゃ恥ずかしい……!」
エースに笑われなかったとしてもわたしが恥ずかしすぎる! 茶化されるのも嫌だけど全く触れられないのも気まずい。いやわたしどんな顔してこれ着て行けばいいの? 普通の顔ってどうするんだったっけ??
ひとり混乱して頭を抱えるわたしの横で、ジェイド先輩が憐れっぽくため息を吐いてわたしを見下ろす。
「ユウさん、そんなに気になるなら僕の趣味だと言えばいいじゃないですか。僕が選んだものを着させられてるだけだと言えばエースくんも納得すると思いますよ」
「そう……、かな?」
「いくらエースくんでも僕の趣味に突っ込んだりしないでしょう」
「そうかも……! ジェイド先輩天才!?」
「ふふ、これで心置きなくワンピースを着られますね。ところでユウさん、まだバイト代残ってますよね?」
「そうですね、まだ余裕あります。ごはん行きますか?」
「ワンピースに合う靴が必要なのでは?」
「確かに……! わたし制服用のローファーと運動靴しか持ってないんだった!」
やばい、ジェイド先輩が言ってくれなかったらわたしかわいいワンピースにいつものローファー履くとこだった。別にローファーでも悪くはないけどせっかくかわいい服着るなら靴も合わせたい!
結局その後もジェイド先輩が何軒も付き合ってくれて、靴を買ったらバッグもと、ひとつひとつは高くないけどなんだかんだでわたしの二日分のお給料はすっからかんになってしまった。
「あぁもう帰りのバス代しかない……」
時間的にもなにか食べて帰るつもりだったのに、これじゃもう諦めてオンボロ寮に帰るしかない。
「今日はありがとうございました。先輩おなかすいたでしょう? わたしは先に帰るのでごはん行って下さい」
「おやつれないですね、せっかくですからご一緒しましょう。ご馳走しますよ」
「えっ!? いやダメです! オクタヴィネルに借りなんて作れない!」
「ふふ、週末バイトに入ってくれたおかげで僕も助かりましたから。そのお礼です」
「そんな、わたしもバイト代もらえて助かったんでこれ以上はもらえないです! 人手不足の時はまた呼んで下さい」
そう言い切った瞬間、わたしのおなかからぐぅ〜〜っと盛大にクレームが上がる。
「ふっ、くくく……! 分かりました、では次回のバイト代の前借りということでいかがですか? 次回一時間タダ働きして下さい」
「く……っ、わかりました。一時間以上働いたらちゃんとお給料くださいね!?」
わたしは空きっ腹に屈してジェイド先輩の提案にのり、アズール先輩を連れて行きたいというレストランの下見に連行されて、そこでたっぷり一時間アズール先輩の自慢話をされたのち帰路に着いた。
はぁなんか今日はめっちゃ疲れた。
疲れたけど楽しかったな。
ジェイド先輩と別れてオンボロ寮に帰ったら、さっそく今日買ったものを全部出して並べてみた。はじめて買ったかわいいワンピースを壁に掛け、ひとしきり眺めてやっぱり買って良かったなと思う。
「ふわぁ……」
無事に服も買えてほっとしたら急に眠気に襲われて、わたしは眠い目をこすりながらなんとかシャワーを浴びてすぐにベッドに潜り込んだ。あの服を着てエースと出かける日が楽しみだな。
目を瞑るとすぐにうとうとしてぐっすりと深い眠りに沈み込み、翌朝寝坊していつもより遅めに食堂に駆け込むと、とっくに食事を終えたらしいジェイド先輩がいやにニコニコとして近寄ってきた。
「おはようございますユウさん」
「おはようございます。どうしたんですか、なんかいいことありました?」
「今朝、ユウさんに言われた通りネクタイを緩めてアズールを迎えに行ったのですが」
え、ジェイド先輩もしかして毎朝アズール先輩を迎えに行ってんの? という脳内の疑問はスルーして、ジェイド先輩が心から嬉しそうに笑みを深める。
「『お前らしくないですね』と言いながらアズールがネクタイを結び直してくれたんです。僕のだけ」
「うわ」
どうやら、フロイド先輩は放置されているのに自分だけ結んでもらえたことがうれしくて仕方なかったらしい。ジェイド先輩は隠しきれない笑みを浮かべて上機嫌だったので、朝っぱらから食堂の隅でヒソヒソしているわたし達はさぞバカップルに見えたに違いない。
皆さん違いますよ、この人好きな人にネクタイ結んでもらえたのがうれしすぎてわたしに報告してるだけですからね。
まぁ死んでも言わないけど、今日もジェイド先輩がご機嫌でなによりだ。
遂にエースとお出かけの日が来て、着替えを済ませわたしはテンション上がりまくりで鏡の中を覗き込んでいた。
「やばい、かわい〜! 買ってよかった〜! 靴もバッグも超ぴったりさいこー!」
こんな風におしゃれして出かけるなんて一体いつぶりだろう。いつもは下ろしっぱなしかひとつにまとめるだけの髪を今日はハーフアップにして、リボンを結んだだけでもテンションがぶち上がる。ここは男の子でもメイクするのが当たり前の学校でほんとに良かった。わたしが気合い入れてメイクしても茶化されたりしなのだけはすごく助かる。
わたしはなんとか誰にも会わずに学園を抜け出し、バスに乗って麓の街へ向かう。今日はデュース達には内緒でお出かけなので、一緒には行かず待ち合わせをしようと決めていた(すごくデートっぽい)そんな感じでバスに揺られている間までわたしはウキウキと浮かれまくっていたけど、いざ待ち合わせ場所が迫るとあり得ないくらい緊張してドキドキが止まらなくなってしまう。
やばい。
わたしほんとにこの格好で大丈夫だった?
やっぱりどう考えても気合い入れすぎじゃない??
ジェイド先輩はわたしらしく堂々としていればいいって言うけど、エースにドン引きされたらどうしよう。さすがに面と向かって「似合わねー」なんて言われることはないにしても、心の中で思われてたらめちゃくちゃつらい。言わなくても顔に出てたらどうすればいいの? わたし泣いちゃわない??
悪い考えばかりが浮かんで頭がぐちゃぐちゃになってくるけど、待ち合わせの時間は刻一刻と迫るし待ち合わせ場所はもうすぐそこだ。
いやいやいや大丈夫。もし微妙な反応されたら「ジェイド先輩の趣味で〜」て言えばいいんだもん。よしよしその手でいこう。
わたしは最後に深呼吸をして呼吸を整え、あと少しに迫った待ち合わせ場所へ向かってまた歩き出す。とその瞬間、「ユウ?」と背後から声がした。
「お、良かった。いつもと雰囲気違うから違う人だったらどうしようかと思って焦ったわ」
「エ、エース……! 今きたの?」
一本前のバスで行ったから先に待ってると思ってたのに後ろから声をかけられて、心臓が飛び出すかと思った。
「早く着いたからちょっとブラブラしてた。てか私服初めてみたけどそういう系なんだなー。ちょっと意外」
え、なにこれどっち?
変な顔はされてないけど気を使われてるのかなんとも思ってないのかどっちなんだろう。今こそ「ジェイド先輩の〜」を言うべき??
わたしは一瞬迷って、でもあの日、ジェイド先輩が言ってくれた言葉を思い出す。
わたしはわたしの好きなものを着ればいいんだって。それからジェイド先輩に勧められて初めてかわいいワンピースを着てうれしくて、帰ってからも眺めてるだけで幸せで、今日だっておしゃれして出かけられることがめちゃくちゃうれしくてテンション上がってたことも。
今日までの楽しかったことを考えたら、エースにどう思われるかは二の次でいいやって思えた。
「実はこういうの好きなんだ。こっち来てから全然スカートはけなかったからうれしくって! 服買う為にモストロラウンジでバイトしたんだから」
「へぇ〜そうなんだ、似合ってるじゃん」
「え……、ほんと?」
「いつもと雰囲気違うから驚いたけどさ、いいんじゃね?」
「ほんと? かわいい!?」
「かわいいかわいい。デュースが見たら真っ赤になって絶句するぜ」
「あはは! じゃあ今度デュースにも見せてあげよ〜」
「いいねその時はオレも呼んでー」
エースの反応は拍子抜けするほど普通で、お世辞でもかわいいとまで言ってくれて、わたしの心配ごとがぜんぶ一気に晴れた気がした。
なんだ、大丈夫なんだ。
好きなものを好きって言って、着たいものを着ても受け入れてくれるんだ。
ジェイド先輩の言う通り考えすぎだったのかも。気合い入れすぎとか似合わないとか思われたくなくて我慢してたけど、思い切ってすきな服を選んで良かった。
「ね、ところでエース、プレゼントの目星くらいはつけてるの?」
「いやぁ〜……それがマジでなんも浮かばなくてさ」
待ち合わせ場所から適当にぶらつきながら探りを入れてみれば、要領のいいエースらしからぬ答えにわたしもう〜んと唸らざるを得ない。
「ちなみにユウはなにもらったらうれしいわけ?」
「彼氏がくれるならなんでもうれしいよ」
「ダウト! そういう建前とかいいからもっと現実的なの教えてよ」
「建前じゃないですけど!? 彼氏が自分のために選んでくれたものならなんでもうれしいに決まってるじゃん!」
「へー、じゃあユウはジェイド先輩から『ユウさんの為に一生懸命選びました』ってキノコ贈られてもうれしいのかよ。誕プレに〜?」
無駄に再現度の高いエースの声真似のせいでわたしは瞬時にそれを想像してしまい、多分全然うれしくないなと一瞬で思う。ていうかそもそも彼氏じゃないし。
「……わかった謝る。そうだなぁ、常に持ち運べるものとか、身につけられるものは喜ぶと思うよ。ベタだけどアクセサリーとか」
「アクセサリーかぁ〜……。確かに良さげだけど、それも結構好み分かれねぇ? あげたのが全然気に入らないデザインだったりしたらすげー凹むんですけど」
「それこそさぁ、彼氏が一生懸命選んでくれたと思うからうれしいんじゃん。エースは見栄張りすぎなんだよ」
「そうかぁ? こいつセンスなさすぎ! とか思われたら最悪じゃん」
「へー。エースのだいすきな彼女はそんな風に思う子なんだ」
「思わない……、と思いたい」
ちょっと自信なさげにしょぼんとするエースがなんだか面白くて可愛くて、つい笑ってしまいそうになるのを堪えてわたしはまた「う〜ん」と考え込む。
「参考までに聞くけど予算は?」
「3万マドル」
「3万!? 付き合って最初の誕生日にしては張り切りすぎじゃない?」
「そう? 女子ってとりあえず高いものもらえば喜ぶんじゃねぇの」
「いや、エースくんそういうのマジで良くないよ。最悪、それこそ嫌われる発言だからね?」
「なんでだよオレだって一応この為にバイトしたんだぜ? 彼女の誕生日くらい奮発したってよくね?」
「いやいやいや、確かに高いものを喜ぶ子もいるけどエースの彼女もそういうタイプなわけ?」
「いや……、うーん、どうだろよくわかんねぇ」
危ない、もしここにジェイド先輩がいたらエースくんはご自分の恋人の事もよくわからないのですか笑笑笑? とか煽り散らかしてるところだった。わたしは頭の中のマウント男を反面教師とし、極力心を落ち着けて冷静に声をかける。
「……ちなみに、エースがもらったプレゼントはなんだったの?」
「オレの好きなバスケチームのスポーツタオルとキーホルダー。部活がんばってねって」
「青春じゃん……。でもこんな事言って悪いけど、多分それってそんなに高くないよね」
「あー、確かに?」
「じゃあエースそれもらった時うれしくなかったの? こんな安物かーって思った?」
わたしがそう言うとエースはムッとして口をまげる。
「んなわけねーじゃんスゲェうれしかったっつーの! キーホルダーは部活のロッカーの鍵にずっと付けて使ってるしタオルもめちゃくちゃ役に立ってるし……って、あー……、そっか」
「そうだよ。別に金額とかじゃなくてさ、それって彼女がエースのこと考えて選んでくれたものでしょ。エースがバスケ部なこととか好きなチームとか、エースの好きなものちゃんと知ってて選んでくれたわけじゃん。その気持ちがもううれしくない?」
「うん……。うれしい」
「多分だけど、そういう子にいきなり高いものあげると逆に気を使わせちゃうと思うよ。次の誕生日はもっといいものあげなきゃ……とか」
「あ〜……、そうかも。確かに彼女なら思っちゃいそうだわ」
「……ということを踏まえてだね、なんかないわけ。彼女の好きなもの」
「そう言えば、小さい時からずっと猫飼ってるって言ってた」
「お、いいじゃん! 猫のグッズとか喜ぶかもよ?」
「猫か……、いいかも」
「じゃあとりあえず雑貨屋さんとか行ってみる? 途中で他に思いついたら別のとこでもいいし」
「だな、とりあえず行くか!」
「いこいこ、いいもの見つかるといいね」
「ん、ありがとなユウ。今日来てくれて助かったわ」
「ランチ奢りだからね? 忘れてないでしょうね」
「もちろんわかってるって! もー早く行こうぜ〜」
やっと目処が立つとエースは途端に元気になってずんずん歩き出す。わたしは普段からエースやデュースに合わせて少し急いで歩いてるけど、わたしより15センチは大きいエースが早足になると結構着いていくのも大変で、そう考えるとジェイド先輩ってかなりわたしに合わせて歩いてくれてたんだなと感心する。そういう細かな気配りができる所もスーパー秘書たる所以なのかなと思いつつ、わたしはハッと気付く。
わたしから見ればアズール先輩も十分大きいから気付かなかったけど、ジェイド先輩とアズール先輩って、エースとわたしと同じくらいの身長差なんだ。だからジェイド先輩は人に速度を合わせて歩くのに慣れてるんだ……!
「ねぇねぇエース、彼女って身長何センチ?」
「なに急に。正確にはわかんねーけど、多分ユウと同じくらいかも」
「ほんと? じゃあいいこと教えてあげるけど、彼女とデートする時はもう少しゆっくり歩いてあげた方がいいよ」
「え?」
「実はわたしいつも結構早足で歩いてるんだよね。だからエースに早足で歩かれると着いてくのけっこうしんどい」
「は!? お前そういうことはもっと早く言えよもー……、ごめん。今度から気をつける」
悪態を吐きつつ素直に謝ってくれるエースの優しさがうれしくて、初めて会った頃なら多分こんなに素直じゃなかったのになぁと思うとちょっと泣きそうになる。きっとわたしも、友達としてエースにちゃんと大事にされてるんだ。
「ごめん、わたしが合わせるのが普通だと思ってたから全然気にしてなかったんだけど、ジェイド先輩と歩いてる時わたし急いでなかったなって今気付いて」
「まじ? はー……、やっぱあの人すげぇな。ユウとなんて30センチ以上違うじゃん。……なんかアレだな、お前、ジェイド先輩にちゃんと大事にされてんだな」
まーそれは別にわたしの為じゃなく、対アズール先輩用に培われた技術なんだけどね。だけどそんなことを言えるはずもなくにこりと笑って誤魔化すと、エースはすこしホッとしたように表情を緩めた。
「安心したわ」
ぽん、とエースの手がわたしの頭を優しくたたく。
なにそれ。
なにそれなにそれぇ……!
萌えすぎて死ぬんですけど……!!
「ちょっとぉ……子供扱いしないでよ」
「あはは」と笑ってまた歩き出したエースの後を追えば、振り向いたエースが「このくらいで大丈夫?」とわたしに歩調を合わせてくれる。
「うん……、だいじょうぶ」
はぁ…………。
なんでわたしはエースの彼女のプレゼント選びなんて付き合ってるんだろう。
なんでエースは、わたしの彼氏じゃないんだろう。
しばらく歩いていろんなお店を回ってみたけど中々ピンとくるものがなくて、わたしたちはとりあえずランチをしてから作戦を立て直すことにした。
「てか猫グッズってありすぎじゃねぇ!? 何にしていいか全然わかんねぇ……」
「もう一回猫から離れる? 絶対それじゃなきゃダメってわけじゃないんだしさ。あ、わたしデパコスとかうれしいよ。自分で買うには高いけどパッケージのかわいいコスメとか超テンション上がるし」
「さてはちょっとめんどくさくなってきただろお前」
「だってぇ〜……」
そりゃめんどくさくもなるよ。
どんなに真剣に選んだってわたしがもらえるわけじゃないし。なにが悲しくて彼女の為にプレゼントを選ぶ好きな人を見続けなきゃなんないの。
「ランチ食っただろ。奢ってやったんだから最後まで付き合えよな」
「もう十分手伝ったと思うんだけどなぁ……」
ていうかランチで入ったお店もカップルばっかだったし。周りのカップルがイチャコラしてる間も正直ずっと居た堪れなかった。かわいい服を着てエースとふたりで買い物に来れたのはうれしかったけど、内容がやっぱり全然うれしくない。
ジェイド先輩に話したら「分かりきっていた事じゃないですか。初めから全て承知で行ったのはあなたでしょう」とか言われちゃうだろうな……。あーその通り過ぎてなんも言えない。
「ジェイド先輩の事考えてんの?」
「え? あっ、いや、え〜っと……」
「別に隠さなくていいって。ユウだって本当なら休日はカレシと過ごしたかったよな〜」
いや全くもって全然そういう意味で考えてたわけではないんだけど、別に解く必要もない誤解なのでわたしはまた曖昧に笑う。
「そんで実際どうなの。上手くいってんの?」
エースから今日そんな事を聞かれるとは思ってなくて、なんだかぎゅっと胸が詰まる。全然見せかけだけの関係だし、カモフラージュの為のニセ彼氏と上手くいくも何もないけど、わたしは「うん」と頷いた。
「わたしジェイド先輩にはなんでも話せるんだ。ジェイド先輩は、わたしの気持ち一番わかってくれるから」
「ふぅん……。オレらには話せない事もあるんだ」
あるよ、いっぱい。
エースへの気持ちは、一生絶対に話さない。
「そっか。よかったな」
「え?」
「最初は騙されてんじゃないかと思ったけど、ユウが好きならそれが一番じゃん。なんだかんだでジェイド先輩も大事にしてくれてるみたいだしぃ〜?」
「……まぁね。ジェイド先輩はエースよりずっと大人だし」
「いっこしか違わねぇじゃん!」
「そのいっこが重要なのよ。エースも彼女に愛想尽かされないようにがんばんなきゃね」
「じゃあその為にもそろそろプレゼント探し再開しますかね。ちょうどそこにアクセサリーショップあんじゃん。あそこ付き合ってよ」
「はいはい、じゃあそこで最後ね。そこで決まらなかったらわたしは先に帰るから」
「まーしょうがねぇか……。いいの見つかりますように!」
そう言って入ったショップで、エースの視線が一点で止まる。
「ユウ、ユウちょっと見て!」
「え? なに、なんかいいのあった?」
「これ! 運命じゃね!?」
エースが指差したのはペンダントトップに猫のモチーフがついたシルバーのネックレスで、しかもその猫は、なんとハートの首輪をしていた。
「おぉ……! かわいい」
「だろ? しかもこのハート、オレの目の色と一緒じゃね!?」
「まぁハートって大体赤だしね」
「うわぁすげー……鳥肌立った。もうコレにするわ、決まり」
わたしの冷めたコメントはスルーして、すっかり盛り上がったエースはいそいそとレジへ向かい「プレゼント用でお願いします!」と聞かれる前に申し出る始末。
正直、正直あれをもらったらめちゃくちゃうれしいと思う。むしろわたしが欲しかった。
ネックレスっていいよね。指輪ほど目立たないけど制服の下にもこっそり付けれるし、めざとい子に指摘されても「彼氏からもらったんだ」って自慢できるし。ていうか実はわたしも最初に見た瞬間「エースの瞳とおんなじ色だ」って思ったし。いいなぁ彼女。きっと毎日あのネックレスを付けて、ハートを見るたびにエースを思い出すんだろうな。いいなぁ、いいなぁ……
レジのお姉さんがわたしに気付いてにこりと笑ってくれたけど、いえね違うんです。それ全然わたし用じゃないんですよ。わたしただの付き添いなんで。
可愛く包装してもらったプレゼントを持って大満足のエースとショップを出て、学園へ戻るバス停までの道を一緒に歩く。
浮かれまくったエースは黙り込んで俯いたわたしの様子なんて気付いてもいないみたい。せいぜい疲れて無口になってるんだろうくらいに思ってるんだろうな。あぁほんとに疲れた。早くオンボロ寮に帰ってグリムをだっこしたい。
「ユウ、今日はほんとにありがとな」
浮かれポンチから不意にかけられた言葉にわたしはやっと顔を上げる。
「お前がいてくれてまじで良かった。ユウがアドバイスくれなかったら絶対コレ買えてなかったし、ほんっと助かったわ。まじでありがとなユウ!」
あぁ、エースのキラキラの笑顔が眩しすぎる。
その言葉がわたしに対する感謝だとわかってはいても、その眩しい笑顔が本当に向けられているのはわたしじゃない。
わたしじゃない、エースがだいすきな女の子。
エースが大事そうに持った、プレゼントを首につけられるただ一人の女の子。
その子のための笑顔でわたしを見ないで。
あぁもうダメかも。
やっぱり今日来るんじゃなかった。
エースにアドバイスなんてするんじゃなかった。
彼女のプレゼント選びなんて失敗しちゃえば良かったのに。
……こんな風に、思いたくなかったのに。
ここで泣いたらエースに変に思われちゃう。
だから絶対堪えなきゃ。堪えなきゃいけないのに、もう限界だよ。
今にも涙が溢れ出しそうで、でもそんなわたしの涙は、エースの後ろにヌッと現れた人影を見て一瞬で引っ込む。
「こんにちはエースくん」
「うわ……っ、ジェイド先輩!? いやこれは違くて、別にユウとデートしてたわけじゃ……」
「一緒に出かけることは聞いていましたから大丈夫ですよ。……ですが、そろそろユウさんを返していただいても?」
「もちろん……! どうぞどうぞ!」
「ふふ、それでは失礼して」
そう言ったかと思うとジェイド先輩は一瞬でわたしを抱き上げ、こどもみたいに抱っこしてエースの前から連れ去ってしまう。
「え、ちょっとジェイド先輩……! ごめんエース、また明日ね!」
「お、おう、じゃあなユウ」
急な展開にすっかり涙は出なくなって、わたしはジェイド先輩の肩越しに慌ててエースに手を振った。エースも呆気に取られていたけど、わたしだって意味がわからない。
え、なんで? まさか今日ずっといたりした? いやでもこんな目立つ人に尾行されてて気付かないことある??
「ちょっとジェイド先輩、そろそろおろしてください!」
「ひとりで歩けますか?」
「歩けますよ赤ちゃんじゃないんですから!」
「おやおや、今にも赤ん坊のように泣き出しそうでしたが」
人気のないところまで行くとやっとストンと地面に下ろされ、わたしはムッと唇を尖らせる。
「もしかしてずっと見てたんですか」
「えぇ、どういう展開になるのか興味があったので」
「最悪……、悪趣味……。変態、ストーカー」
わたしは散々に悪態を吐きながら、でもおろされた後もジェイド先輩の腕を掴んだ手を離すことができなかった。ジェイド先輩に掴まってなかったら、わたしはとっくにへたりこんでいたかもしれない。
「う……、うぅ……っ」
さっき引っ込んだはずの涙がいつの間にかぼろぼろと溢れて、いろんな感情が一気に膨れ上がる。
「ワンピース、えーすに、似合うって言われてうれしかった」
「それは良かったですねぇ」
「かわいいって言ってくれて、ほんとにうれしかったのに……」
楽しかったのなんてその時だけだった。
本当はエースの口から彼女の話なんて聞きたくなかった。彼女の為のプレゼントなんて一緒に考えたくなかった。せめて彼女がめちゃくちゃ嫌な子ならよかったのに、なんでそうじゃないの。
「えーすの彼女なんてきらい……っ、いなくなっちゃえばいいのに……!」
溢れてしまった言葉がわたしの本音だったのかと、心底自分が嫌になる。
上っ面ではエースのしあわせを願いながら、本当は彼女に嫉妬して、憎んでいた。
そんな醜い自分が恥ずかしくて、きれいな言葉で取り繕おうとしていた自分が全部偽りだったんだと思い知らされて、ぜんぶぜんぶ嫌になってしまった。
「うわぁああん……!」
わたしはジェイド先輩にしがみついてこどもみたいにわんわん泣いた。こんな風に泣いたのなんて一体いつぶりだろう。オンボロ寮で眠った最初の夜だってこんな風には泣かなかった。しくしく泣いてたら親分に「うるさくて眠れないんだゾ」と言われたから仕方なく埃っぽい布団をかぶって声を殺して泣いた。
あの日だって今日ほどは悲しくなかったのに、もしかして今日がわたしの人生で一番悲しい日かもしれない。
顔がぐしゃぐしゃになるまで散々泣いて、わたしが泣き止むまでジェイド先輩はずっと抱きしめてくれていた。なんなんだろう本当に変な人。バカみたいに泣くわたしがそんなにおもしろかったのかな。わたしはようやく涙が溢れなくなった目元をぐしぐしと拭い、すんと鼻を啜り上げてジェイド先輩から体を離す。
「ごめんなさい鼻水ついちゃった……」
わたしの涙と鼻水でべちゃべちゃになったシャツにジェイド先輩がブフッと吹き出し、やれやれと言いながらマジカルペンを一振りするとあっという間にパリパリの綺麗なシャツになる。
「わ……、いいなぁそれ。わたしも魔法が使えたら良かったのに」
「もうスッキリしたんですか?」
「とりあえずは。ひとりになったらまた泣くかもだけど」
「おや、では今夜は夜通しピザパーティーでもします? 夜中にコーラを飲みながら食べるピザは美味しいですよ」
「ふふっ、アズール先輩が卒倒しそう」
「フロイドと一緒にアズールの部屋でやるのが楽しいんです」
「最早ただの嫌がらせ」
リーチ兄弟に部屋を占拠され、目の前で暴飲暴食されてめちゃくちゃ嫌な顔をするアズール先輩の顔が目に浮かぶ。アズール先輩もほんと大変だな。でもアズール先輩がしっかりしてくれないと誰もこの兄弟の手綱は握れないので、自分のウツボの面倒はしっかり見てもらうしかない。
「ところでユウさん」
「はい?」
「エースくんの彼女、いなくしちゃいます?」
「はっ!?」
急に物騒なことを言い始めたジェイド先輩の表情にぞくりと背筋が冷える。「そろそろご飯でも行く?」みたいなテンションで、あんまりいつも通りに普通な顔で言うものだから、それってこんなノリで話していいことなのかと脳がバグる。
「だっていなくなって欲しいんでしょう? 僕ならできますよ」
「いや、何言ってるんですかダメに決まってるでしょう! 絶対ダメですからね!? 何にもしちゃダメですよ!!」
「ふふ……っ、冗談ですよ。さすがに僕も陸で人殺しはしません」
「なんだ……、先輩の冗談はわかりにくいんですよ全く……、本当にダメですからね!」
「ふふふしませんてば。やっぱりあなたは優しいですね。結局は誰も憎みきれない」
ジェイド先輩からそう言われると、なんだか優しい方がダメみたいな変な感じがする。でも別に、わたしは優しさで止めてるわけじゃない。
「憎いですよ。でも彼女がいなくなったところで、わたしの気持ちが晴れるわけじゃないし」
「でも彼女さえいなければ、エースくんはあなたに恋をしてくれるかもしれませんよ?」
「そうかもしれないけど、もっと彼女を忘れられなくなるかもしれないじゃないですか」
「ふむ……、なるほど。そういう可能性もありますね、参考になります」
「あまり参考にしないで欲しいなー……」
この間も人殺しはしないと言ってたけど、この人のことだから実際どうしようもない状況に直面したら正直どうなるかわからない。
「殺しはやりませんてば」
「ヤダ心読まないで」
「ふふふ」
何がそんなに面白いのか、相変わらずにこにこと上機嫌なジェイド先輩を眺めながら、この人ってほんとにいつも楽しそうだなと思う。わたしも先輩くらい図太くて好奇心旺盛だったらこの境遇ももっと楽しめたのかな。全然楽しみたくはないけど。
「あ、そう言えばジェイド先輩におみやげあるんです」
「僕に?」
「エースと雑貨屋さん見て回ってたらたまたま目に入っちゃって。はいコレ、開けてみてください」
バッグから取り出した小さな細長い紙袋を雑に渡すと、言われた通りに袋を開けたジェイド先輩が中身を見た瞬間に吹き出す。
「なんですかこれ……! よくこんなもの見つけましたね、ふふふふふ……っ」
「上についてるタコちゃんを押すと芯が出てくるボールペンです。アズール先輩の前で使ったら絶対嫌な顔しそうだなと思って」
「絶対にされます。そして間違いなく無視されますね。ありがとうございます今度使ってみます」
どうやらジェイド先輩はそのボールペンがだいぶ気に入ったらしい。せっかくだからメガネを描いてからあげれば良かったかなとかしょうもないことを考えながら、こんなもので喜んでくれるなんてジェイド先輩って割とちょろいよなと思う。
まぁこの人の喜ぶ基準が、面白いかどうかに偏ってるだけかもしれないけど。
「……自分の選んだものが喜んでもらえるのってうれしいですよね」
「ふふ、そうですね」
「ジェイド先輩でもちょっとうれしいし、好きな人が相手だったらもっとうれしいんだろうな」
「おや、僕のことを好きではないみたいに仰る」
「はいはいジェイド先輩もすきですよ。恋してる相手って意味ですよ分かってるくせに」
「これは失礼。ユウさんは僕のこともお好きだったんですね」
ジェイド先輩はそう言ってまたにこにこと笑う。まったく、この人の言葉はどこからが真剣でどこからがお遊びなのか全然わからない。そう言えばフロイド先輩が、ジェイドの話は9割聞かなくていいって言ってたっけ。
タコちゃんボールペンをカチカチしながら無邪気に喜ぶジェイド先輩をぼーっと見ながら、エースからのプレゼントを受け取った彼女の姿を想像してしまう。わたしは顔も全然知らないけど、きっとエースはもっと鮮明に想像してるんだろうな。
「エースも最初から自分で選んであげたら良かったのに」
そしたらきっと今日とは違うものを選んでただろうけど、何もわからないところから一生懸命考えて贈ったものを喜んでもらえたら、きっともっとうれしかったはずなのに。
「わたしなんかに頼らないでさ……、その方が彼女も絶対よろこぶよ」
「今回のことはユウさんにとって良い経験になりましたね」
「はぁ……? めちゃくちゃ苦い思い出になったんですけど」
「ですから、『他人の恋路には首を突っ込まない方が吉』という教訓を得たではありませんか」
「ふ……っ、確かに。今後エースに彼女のことで何か頼まれても絶対断ってやろ」
「それがいいと思いますよ。見ず知らずの人間のためにあなたが気を病むことはありません」
「もしかして励ましてくれてます?……ジェイド先輩って意外と優しいんですね」
「僕は慈悲深きオクタヴィネルの副寮長ですから。常に慈しみの心は忘れません」
「嘘くさぁ……。オクタヴィネルってなんで寮長副寮長揃って胡散草さしかないんですかね。フロイド先輩が比較的まともに見えてしまう不思議」
「ふふ、フロイドはああ見えてとても常識的なんですよ」
「確かに。アズール先輩やジェイド先輩と比べるとフロイド先輩の方がまともな事言う時ありますよね」
まぁそこには、時と場合と気分による、という条件が付け足される訳だけど。
なんだかもう色々と考えるのも億劫になってしまって、泣きすぎてぼんやりとしたままただ俯いていると、頭上から「ユウさん」とわたしを呼ぶ声がする。
「なんですかジェイド先輩」
先輩、背が高すぎて目を合わせるのも大変なんだよな。ずっと見上げてると首が痛くなるし、と思っていたら、ふっと笑ってジェイド先輩の方が斜めにわたしを覗き込む。
「これはフロイドの言うところの1割の方だと思って聞いて欲しいのですが」
「つまり聞いた方がいい話し」
「ふふ、そうです。僕はあまりあなたの信用がないようなので」
「契約については信用してますよ」
「えぇそれはもちろん。ですが僕はアズールほど契約にこだわっている訳ではありませんので、契約がなくても僕は僕の思うように行動しているつもりです」
つまり何が言いたいんだろ。わたしはいまいち話の趣旨が掴めず、きょとんとしてジェイド先輩を見上げる。
「あなたは信じてくださらないかもしれませんが、僕はこれでもあなたのことを大切な友人だと思っているんですよ」
「え、わたしを?」
「えぇ。確かにあなたと僕は契約で結ばれた秘密を共有する関係ですが、僕は想像していた以上にこの契約を楽しんでいるんですよ。あなたからいつお声がかかるかワクワクするくらいには」
「ほんとに? でもよく断るじゃないですか」
「僕もお応えしたいのはやまやまなのですが、アズールからの言い付けで多忙を極めておりまして……、本当はもっとあなたとお話ししたいと思っているんですよ」
「なるほど、そりゃわたしよりアズール先輩の方が大事ですもんね」
その返しには無言でにっこりと笑って、そうかと思えばその胡散臭い笑顔がほんのすこしだけ真剣な顔に変わる。
「あなたが誰かに話を聞いて欲しかったのと同じで、僕もあなたに話を聞いてもらえることがうれしいみたいです。これでも、僕はあなたと話ができる事でずいぶん救われているんですよ」
「えへへ……、そんな風に言われるとなんか照れますね。ジェイド先輩のお役に立てたなら光栄です」
「まぁ今日はエースくんがどんな反応をするか面白そうだったので来てみたのですが」
「やっぱり面白がってるじゃん!」
「えぇ、元々観察が目的でしたのでこちらから話しかけるつもりは全くありませんでした」
「そうなんだ……ずっと影から見てニヤニヤしてたんですね。でもじゃあなんで声かけてくれたんですか?」
「あなたが今にも泣き出しそうだったので」
そう言ってジェイド先輩が眉を下げて目を細めたので、わたしは逆に驚いて目を開く。
「自分でもよくわからないのですが、見ていられなくてつい声をかけてしまいました。出しゃばってしまい申し訳ありません」
珍しく本当に申し訳なさそうにそう言ったジェイド先輩に、わたしはふるふると首を振る。
エースは気付かなかったのに。
彼女のプレゼントのことで頭がいっぱいで、わたしに「ありがとな」って言いながら彼女のことしか考えてなかったエースは、わたしが一生懸命泣くのを堪えていたことなんて全然気づいてなかったと思う。
エースの目にはわたしなんて全然映ってなくて、わたしは友達だけど、彼女と比べれば自分はずっとちっぽけな存在になった気がした。
ちゃんとわたしを見てくれて、わたしのほんとの気持ちに気づいてくれる人なんていないんだと思ってたのに、ジェイド先輩はちゃんと見ててくれたんだ。
「……ありがとう先輩。ストーカーされるのはキモいけど、ジェイド先輩が来てくれて本当に良かったです」
「お役に立てました?」
「すっごく。あと少し遅かったらエースの前で泣いてたかも。そしたらヤケになって告白してジェイド先輩のこともバラして今頃人魚になってたかもしれないです」
「おやおや……、それは間に合ってよかったです」
「ほんとですよ。ジェイド先輩に倫理観とか道徳心がなくて良かった。普通後輩の尾行とかしないんで」
結果オーライとは言え、はじめから全部見られてたのかと思うと今更に恥ずかしくなる。今日何してたっけと改めて思い返して、そして一日のできごとがふつふつと甦る。
「今日、嫌なことばっかじゃなかったです」
「それは良かった」
「エースがわたしの服似合うって、……かわいいって言ってくれて本当にうれしかった」
「だから言ったでしょう? とてもお似合いですよ」
「エースに褒めてもらえたことはすごくうれしかったんですけど、実は自分の好きな格好してお出かけできたことがそれ以上にうれしくて、でもこの服を買えたのはジェイド先輩が好きなものを着ればいいって言ってくれたおかげだから、ジェイド先輩、本当にありがとうございました」
「ふふ、僕も意外といいところがあるでしょう?」
「そうですね、ジェイド先輩もたまにはいい事言いますね! 9割信用ならないけど」
「せいぜい7割くらいだと思うのですが……」
「それでも半分以上じゃないですか。ま、また時々買い物付き合ってくださいね。わたしいっぱい働くんで!」
「おや、それはアズールが喜びそうだ。よろしければ正式なスタッフになりませんか? あなたも色々とご入用でしょうし」
「う〜ん……臨時バイトの方が気楽だし助っ人の方が感謝されるしなぁ」
「ふふ、あなたも中々に打算的ですよね。まぁ気が向いたら仰ってください。ユウさんならいつでも歓迎ですよ」
「考えときます」
エースに言ったら「絶対やめとけ!」とか言われそうだけど、そうは言ってもお金は欲しいしなぁ。これまで質素倹約に努めていただけに、おしゃれして出かける喜びを知ってしまったのは大きい。
アズール先輩にこき使われる労力と物欲とを天秤にかけて、ウンウン悩みながらジェイド先輩と一緒に学園に帰りながら、ふとさっきまでワンワン泣いていた自分を思い出す。
ついさっきまではこの世の終わりみたいに悲しかったのに、もう別のことを考えてるわたしってなんて単純なんだろう。でももしジェイド先輩が来てくれなかったら、今頃ひどい気持ちでエースの隣を歩いていたか、ひとりになってずっと泣いていたかもしれない。
長い足をゆっくりと運んで、わたしと同じ歩調で歩いてくれるジェイド先輩をおよそ30センチ下から見上げる。
「ジェイド先輩」
「なんでしょう」
「わたしにとっても、ジェイド先輩は大事な友達ですよ」
そう言うとジェイド先輩はさっきのわたしみたいに少し驚いて、それからほんの少しだけ照れくさそうに目を細めた。
「では僕もマブの仲間入りでしょうか?」
「それはちょっと違う」
おやおやと眉を下げ、またわざとらしく悲しそうな顔をするジェイド先輩にわたしはあははと笑う。
おかしいなぁこんなはずじゃなかったのに。
この人になら嫌われても気にならないから都合のいい話し相手に選んだはずなのに、わたしはいつの間にジェイド先輩と友達になっちゃったんだろ。
「もしかして騙されてんのかなぁ……」
いつかアズール先輩が、ジェイドは人の懐に入り込むのが得意みたいなこと言ってなかったっけ……? もしかしてわたしもまんまと付け込まれてるだけなんだろうか。
わたしがスッと隣から距離を取ると、遅すぎる警戒が面白かったのかジェイド先輩がプッと吹き出して笑い出す。ずっと思ってたけどこの人って意外とツボ浅いんだよな。
「あなたがつけ込まれやすいのは確かだと思いますが、僕の友情は本物ですよユウさん」
「嘘くさぁ……先輩の真顔何も信用できない」
一瞬前まで声を上げて笑っていたくせに、急にキリッとしていい声で言うから本当に信用ならない。でもその信用ならない胡散臭い先輩がいてくれたから今日のわたしが救われたのは確かで、それならまぁ、今日のところはいいか。
「ところでユウさん、ピザパーティーの話なんですが」
「あ、本当にやる気なんですね」
「せっかくですから純愛映画をこき下ろす会も同時開催しましょう」
「なんですかその性格悪そうな会」
「いえ、陸で人気だという恋愛映画を色々と観てみたのですが、いまいち腑に落ちないことが多くて」
そう言えば少女漫画原作の恋愛映画とか友達の間でも人気だったよなと思い出す。わたしも一緒に観に行ったことはあるけど、ご都合主義の超展開すぎていまいち感情移入できなかったんだよな。でもイケメンキャラの胸きゅんセリフにキャッキャ言ってる友達の前でそんなこと言うのもしらけるし、なんとなく話し合わせて笑ってたっけ。
「わかりましたやりましょう」
「本当ですか!」
ジェイド先輩なら感想が全然違っても気にしなくていいし、ちょうどむしゃくしゃしてたところだし。
学園へ戻ったあと、お泊まり支度を整えたジェイド先輩と再合流してわたしたちはコーラ片手にピザを食べながら観た恋愛映画にそれはそれはボロクソ言いまくった。こんな出会い方あり得ないだのこの男を好きになる意味がわからないだの、挙句の果てには脚本が悪い音楽が大袈裟すぎそもそもミスキャストだのと散々こき下ろして、日頃溜まった鬱憤を画面の中の純愛映画にぶつけまくった。あぁ純粋なラブストーリーをこんな風にしか見られないなんて、わたしの心はすっかり荒んでしまったんだわと嘆きながら見始めた三本目、どうせ俳優人気にあやかったありきたりな恋愛映画なんでしょと斜に構えてコーラをガブ飲みしていた序盤から、わたしは少しずつグラスを傾ける手を止めて、途中からはずっと画面に釘付けになってしまった。
設定はごくごくありふれたラブストーリーなのに、主人公が紡ぎ出すそのセリフから、視線から、一瞬も目が離せない。セリフのないシーンで主人公が見せる表情や動作のひとつひとつからもその繊細な気持ちが伝わって、主人公と自分は全く違う人間なのに、彼の気持ちが直接に胸に伝わるみたいにダイレクトに響く。その喜びも悲しみも、本当に自分のものみたいに感情移入してわたしは途中から涙が止まらなくなってしまった。
エンドロールが流れる頃にはわたし顔面ぐしょぐしょで、隣のジェイド先輩は泣いてこそいなかったけど、感極まったようにエンドロールを最後の一文字まで見つめ、画面が真っ黒になってからもまだ画面に釘付けの視線を外せずにいた。
そんな風にじっと黙り込んだジェイド先輩をぐしょぐしょの泣き顔のまま見上げながら、あぁこの人にも人の心あったんだなと今更に思う。こんな物騒な人を黙らせちゃうなんて映画の力ってすごいな。今度ヴィル先輩の作品を観たらちゃんと感想伝えよう。
でもその後に観た四本目はこの日一番の駄作で、三作目の余韻をぶち壊された分もあいまってわたしたちはまたボロクソに言いまくった。あまりの駄作っぷりにその内観ているのもつまらなくなって、わたしたちはそのまま談話室のソファで一緒に寝落ちてしまったらしい。
翌朝グリムに叩き起こされると談話室はピザの空き箱と食べかけのポップコーンや飲み残しのコーラでひどい有様だったし、わたしに至っては深夜の暴飲暴食でむくんだ顔と泣きすぎて腫れた瞼で最悪だった。かと思えばジェイド先輩は寝癖がついてる以外はいつも通りのスッキリした顔で、わたしを見るなり大爆笑する姿にやっぱり人の心がないなと思う。
そしてもっと最悪なことに今日は学校なので、登校前に少しでもこの顔をなんとかしなくてはととりあえずジェイド先輩を追い出し、瞼を冷やしてみたりメイクで誤魔化してみたりと手を尽くしたけどほとんど焼け石に水だった。
登校してマブ達と顔を合わせると、深夜までピザパーティーをした挙句映画で泣きすぎて瞼を腫らしたわたしをエースに散々笑われたし、食堂ではまたやたらと上機嫌なジェイド先輩がニヤニヤと近寄ってくる。
「先行ってんなー」
「うん、あとでね」
エース達がわたしから離れるとタイミングを見計らったようにジェイド先輩が隣に立って身を屈め、「ユウさん」とまた耳元で囁く。
「なんですか先輩。なんかいいことありました?」
「ふふ、昨日いただいたタコのペン、アズールの前で使ってみたのですが、それはそれは嫌な顔をされました」
「ああ……」
まぁそうなるだろうなと思って贈ったので大体思惑通りではあるけど、それをこんな風にうれしそうに報告してくるジェイド先輩の趣味嗜好はやっぱりよくわからない。
わたしは「良かったですねぇ」と生返事をして適当にあしらい、マブ達のところへ戻るとエースはいつも通り、何事もなかったようにわたしを迎え入れてくれる。
「エース、最近ジェイド先輩のこと色々言わなくなったよね」
「なに、なんか言って欲しかった?」
「そうじゃないけど、初めの頃はすごーく心配してくれてたじゃん」
「あー……それはもう忘れろって。なんかオレの考えすぎだったみたいで恥ずいわ。普通に上手くいってんでしょ?」
「まぁ、見ての通り」
ただの先輩後輩なので上手くいくも何もないわけだけど、秘密を共有し合う共犯者としての関係ならこの上なく順調だし、嘘は言ってない。
「良かったじゃん。なんだかんだでけっこうお似合いだし」
「え、お似合い!? どこが?」
「なんで驚くんだよいいことじゃん」
「や、なんか意外で……。わたしとジェイド先輩なんてどう見ても釣り合ってないのにどの辺がそう見えるわけ?」
わたしは本当に驚いて目を見開いた。性格に多大な難ありとは言えあのハイスペックなオクタヴィネル副寮長とわたしなんて、はたから見れば釣り合ってないにも程がある。男子校にいる唯一の女子というアドバンテージを最大限に活かしてやっとなんとか騙せているくらいなつもりだったけど、エースの目は節穴なんだろうか。
「なんつーか、けっこう雑に扱ってもユウにはいつもニコニコしてんじゃん? はじめは絶対騙されてると思ってたけど、お前も無理して合わせてる感じじゃないし、案外いいコンビだなーって」
「いやいやジャックとかセベクもけっこう邪険にしてるじゃん。それでもいつもニヤニヤしてるよ?」
「そこはさー! 男の後輩で遊んでるのとユウに対するのはちげぇじゃん。絶対ユウにだけ優しいって」
「そう……? そう言えば、ジェイド先輩わたしのことが大切だって言ってたな」
「は、まじ!? あの人面と向かってそういうこと言うんだ?」
「わたしも直接そんなこと言われると思ってたなかったからびっくりしたけど、言われてみればジェイド先輩わたしにはけっこう優しいかもね」
昨日エースの前で泣きそうになってたわたしを助けてくれたのもジェイド先輩だし。いつものジェイド先輩ならその後どうなるか面白がって隠れて見ててもおかしくなかったのに、とっさに声を掛けてくれたのは本当に先輩の優しさだったのかもしれない。
「確かに情が深いとこはあるかもね」
まぁその情はもっぱらフロイド先輩とアズール先輩限定でかけられてるものだけど、わたしの存在もジェイド先輩の心の端っこくらいには引っかかっているということなんだろうか。
それから話題は今日の実践魔法の課題に移って、実践では完全にサポート役に徹するしかないわたしはなんとなくマブ達の聞き役に回る。
エースとデュースとグリムと、こうしてなんでをもない日常会話をしていると、あぁわたしもなかなか上手くやってるなと自分自身に感心する。エースの彼女のことであんなにワンワン泣いてたのはつい昨日のことなのに、何もなかったみたいに平然と「友達」をしてるわたしはジェイド先輩が言う通り結構ず太いのかもしれない。
エースにとってわたしはマブでありジェイド先輩の彼女で、彼氏と上手くいってるように見えるわたしをエースはもう心配したりしない。エースへの気持ちを隠して友達で居続けることを望んだのはわたしで、これはわたしが選んだ通りの道で、なのに、やっぱりどうしても虚しさは募る。
わたしジェイド先輩の彼女なんかじゃないよ。
わたしはジェイド先輩の大切な存在になりたかったんじゃない。
本当は、エースの特別になりたかった。