call my name2 学園から麓の街までバスに乗ってる間、フロイドはずっとスマートフォンと睨めっこをして画面の文字を追っていた。
「あ、」
「どうしたんですか」
「ジェイドの目撃情報スレが消えてる」
「え?」
「昨日まではあったんだけどガセネタばっかで全然信憑性なくてさ、どうせ古参の奴らが他のファンまで焚き付けようとしてわざと炎上させてんだと思ってたけど、これヤバいかも」
「なくなったならその方がいいんじゃないですか? ジェイドの個人情報が晒されなくなるわけだし……」
「善意の削除依頼で運営が消したならいいけど、別の可能性もあるじゃん」
「別の?」
「この祭りに加わってた奴らが、都合が悪くなったから消した」
「え、それって」
「今まで晒されてたのはあいつの裏アカにアップされてた写真とか似た奴をどこで見たとかそんなんばっかで、実際にジェイド本人を確認してなんかしたみたいなのは一切なかったんだけど、もしその情報の中に本当のものが混じってて現地を確認しに行った奴がいるとするじゃん。そんでジェイドと鉢合わせたらどうなると思う?」
「……そりゃ、文句を言うなり暴行に及ぶなりするかも」
「でしょ。それがケンカ程度で済めばいいけど、もしそれ以上のことになったら?」
「事件になるような……?」
「うん。でもコアな熱狂的ファンにとっちゃジェイドに実際に制裁を加えてくれる奴はヒーローなんだよ。自分達の大切なバンドを活動休止に追いやった張本人なんて死んでもいいと思ってる奴なんてゴロゴロいるし」
「死んでもなんて……、それはさすがに大袈裟じゃないですか? バンドの活動休止くらいで」
「それくらいでって思うのはアズールがそこまでのファンじゃないからじゃん。まじで命かけて応援してた奴らにとってはメンバーはカミサマみたいなもんだし。あいつらの音楽に命救われたって思ってる人間だって大勢いるし、それがなきゃ生きていけないって奴らもいる。でもそう思ってる人間のうちのほとんどが自分で何かしようとは思わない。殺したいほど憎んでても自分が犯罪者になってまで行動しようとする奴は本当にごく一部だろ。でももしその一部の奴が行動してくれたとしたら、自分では何もできない奴らは大歓喜ってわけ」
「つまり……、ヒーローを守る為に隠蔽工作くらいは喜んですると」
「そういうこと。もしスレに有力な情報があってそこで何かが起こったんだとしたら、スレの存在は奴らにとって都合が悪い。本来なら削除は運営しかできない事になってるけどハッキングの得意な奴なんていくらでもいるし」
いつになく真剣に話すフロイドの横顔に僕は何も言えなくなってしまう。
考え過ぎであって欲しい。
いくらなんでもバンドの活動休止くらいで事件を起こす奴がいるなんて僕には考えられない。
でもそれはフロイドの言う通り、「僕には」であって、犯罪に手を染めてでも自ら制裁を下したいと思う人間は確かにいるのだろう。
膝に置いた手をぎゅっと握りしめ、ざわめく心をなんとか落ち着けようと呼吸を整える。
因果応報、自業自得と言ってしまえばそれまでだ。
もちろん犯罪は犯す方が悪い。それは大前提として、でも今ジェイドに何か起こっているとしたら、それは全てジェイドがしてきた事の結果だ。仮にも元オクタヴィネル副寮長ならば自己責任できっちりカタを付けるべき。
元オクタヴィネル寮長として、そう言うべきなのかもしれないけど。
「ジェイドに万が一のことがあったら許さない」
膝に置いた手をじっと見つめたままの僕の隣で、スマートフォンから顔を上げたフロイドが僕を見る。
僕はジェイドと離れても生きてこられたし、ジェイドを神のように崇めたことはない。
失っては生きていけないのなら僕はとっくに死んでたけれど、今もこうしてぴんぴんしている。
それでも僕なら、大切なものを傷付けられて人任せにしたりはしない。
どんな理由があろうとジェイドに危害を加える奴は絶対に許さない。万が一のことがあったら、その時はどんな事をしてでもこの僕が追い詰めて同じ目に遭わせてやる。
「そういやアズールは『ごく一部』の側だっけ」
「お前だってそうでしょうフロイド」
「あはっ、当然じゃん」
あんまり頼もしくてつい笑みが溢れる。
バンドがどうなろうが僕には知ったこっちゃない。彼らの曲が誰かの命を救おうが僕には瑣末なことだ。
だからバンド存続いかんで犯罪を犯すような奴らの気持ちはやっぱりわからないけど、僕の大切なものを害する奴らは絶対に許さない。
「せいぜいジェイドが無事でいることを祈りましょう」
「哀れな小魚ちゃんが出ないようにねぇ」
「えぇ、僕たちが手を煩わすようなことがなければいいのですが」
まずはジェイドを見つけることが先決だ。
どうかどこかの宿で寝過ごしていてくれと祈りながら、僕たちはバスを降りて麓の街に降り立った。
本当なら二手に分かれて行動した方が効率はいいのだろうけど、有事の際にすぐに対応できるようにとふたり一緒に回ることにした。なにしろジェイドの特徴を伝えるよりフロイドの顔を見せた方が手っ取り早いし、ジェイドの代わりにフロイドが狙われる可能性を考えれば単独行動をさせるのはまずい。
「フロイド、目撃情報スレとかいうやつ、昨日の時点では何か目ぼしい情報はあったんですか」
「いや、昼ごろオレが見た限りでは賢者の島で見たって情報も無かったしそれから放置してた」
「そうですか。では午後になんらかの書き込みがあったのかもしれませんね」
「そーかも。もっと監視しときゃ良かった」
「24時間張り付いているわけにもいかないでしょう。仕方ありません。島内の宿マップ拾えました?」
「うんバッチリ。10軒もねーし余裕でしょ」
「あいつがちゃんと宿に泊まってればの話ですけどね」
「そんときゃパブ巡りでもすればいいんじゃね」
「はぁ……。そっちにいる可能性の方が高い気がする」
「ま、言っててもしょうがねーしとりあえず行こうぜ。ホテル探しながらパブも覗いてこ」
「わかりました。行く順番はお前に任せます」
「おっけ〜。はぐれんなよアズール」
それから僕たちは一軒一軒ホテルを訪ねて歩いた。海辺の観光ホテルにはまず泊まっていないだろうと二人の意見が一致したのでそこは除外して、街中にある小さなホテルをしらみつぶしに当たっていく。
とは言えきちんとホテルとして営業されている所は8軒しかなくて、残りが少なくなる度僕は焦燥を覚えた。
やっぱりあいつホテルには泊まってないんじゃないか? また適当に入った飲み屋で適当な相手を引っ掛けて、一晩だけの約束で転がり込むなんてことが容易に想像できる。
どこに行っても声を掛けてくれる人がいるのでなんて嘯いていたけど、ジェイドの容姿を考えれば何も不思議じゃない。
むしろ分かる。わかりすぎるくらい分かる。
あの顔で「タバコを一本頂けませんか?」とか言って擦り寄られ、「一緒に飲みましょう」なんて誘われた日には大抵の人間はいちころに違いない。
なにせジェイドは他人の懐に入り込むのが抜群に上手いから、どんな人間ならどんな言葉に弱いのかを完璧に見極めて近寄るに違いない。
あぁなんという才能の無駄使い。
その才能、僕ならもっと別のことに活かしてやるのに。
「あ、アズール次あそこ行ってみよ」
またモヤモヤ考え始めていると、フロイドに腕を引かれて僕はパッと顔を上げた。
「え? あぁはい。パブですか?」
「ホテルの一階がパブになってるぽい。ジェイドに好都合じゃん」
「確かに」
覗き込んだその店は、昼間はダイナーとして営業していて夜はパブになるらしい。ついでに注文カウンターが宿屋の受付も兼ねているらしく、平日の昼前とあって客もまばらな店内では、店主が暇そうにカウンターからテレビを眺めていた。
「あの、すみません」
「はいいらっしゃ……あっ! アンタ!」
僕が声をかけるとすぐに振り向いた小太りの中年男は、僕の後ろに立っていたフロイドを見るなり目を丸め、それからほっとした様に安堵のため息を吐いた。
「なんだ戻ってきたんだな。出かけるなら一声くらい掛けてくれよ。未払いのまま逃げられたのかと思ったぜ全く……」
そう言ってやれやれとため息を吐く店主を見て、僕とフロイドは思わず口を開けて顔を見合わせた。
「ご主人……! 昨日ここにこんな顔の男が泊まっていたんですね!?」
「はぁ……? こんな顔も何もこの人じゃないのかい。昨日はひでぇ酔っ払いだったけどよ」
「はぁ〜……。オレじゃねぇよ。それオレの双子のきょうだい。オレ達そいつ探しに来たんだよね」
「双子ぉ? ありゃどう見てもアンタだろ。俺をからかってんのか?」
「だからちげぇんだって。まじで双子なの!」
「こらフロイド。申し訳ありませんご主人。あいつが踏み倒した代金は私がお支払い致しますので、少々お話をお伺いできますか」
「へぇ、まぁ払ってくれるんなら誰でもいいけどよ。俺だって今朝いなくなってることに気付いたんだから、閉店まで飲んでたあと部屋に上がってった後のことはしらねぇぞ」
「なるほど……。ちなみにこちらのお店は閉店後施錠されるのですか? 他に出入り口は」
「店はシャッターを下ろすけど、宿泊者専用の通用口ならあるぜ。夜中に出入りする客もいるからな」
「そうですか。では昨夜閉店後に大きな物音がしたり不審な人物が出入りした様子は」
「変な音はしなかったけど、俺が寝た後のことは分からねぇな」
「夜間に従業員は」
「いねぇよ俺だけだ」
「通用口に監視カメラはありますか?」
「あぁ一応付けてはいるぜ」
「それを見せていただくことは」
「……兄ちゃんたち警察かい? だったら手帳を見せてくれねぇと」
「これは失礼致しました。警察ではありませんが、私こういうものでして」
僕が取り出した名刺を渡すと、店主は小さな文字に目を細めて名刺を少し離す。
「ア、アズール、アー……」
「アズール・アーシェングロットです。ナイトレイブンカレッジでオクタヴィネルの寮長をしておりました。もし一般公開で学園に訪れた事がおありでしたらご存知かもしれませんが、オクタヴィネル寮にあるモストロラウンジは私がオーナーを務めております」
「へーアンタが! ハロウィンには俺も毎年行ってんだ! そういや店でアンタの額縁を見た気がするよ。へぇ〜……、ナイトレイブンカレッジの元寮長さんか。そりゃあ大したもんだ」
「恐縮です。それで、今僕たちが探しているのは学生時代にオクタヴィネルの副寮長をしていたジェイド・リーチという男なんですが」
「あぁ、たしか宿泊名簿にもそう書いてあったよ。……でも本当にあの酔っ払いが副寮長だったのかい?」
「えぇ……、すこし複雑な事情がありまして……。もしご協力頂けるのでしたらモストロラウンジにご招待させて頂きますよ。どうぞご家族やご友人を誘って皆様お揃いでいらして下さい。僕の恩人として特別なおもてなしをさせていただきます」
「へぇ……、特別なおもてなしか……。あの名門校の元寮長さん直々の頼みとあっちゃ仕方ねぇな。こっちに来な、監視カメラの映像見せてやるよ」
「ありがとうございます! さすがご主人、話が分かる!」
急に物分かりの良くなった店主に僕がにこにこ顔でおべっかを使うのを、フロイドが「よくやるな」という目で見てるけれど背に腹はかえられない。
この賢者の島において二大魔法学校であるナイトレイブンカレッジとロイヤルソードアカデミーは古くからここに住む島民達の誇りだ。
学生時代もNRCの生徒であるというだけでチヤホヤされるという事はよくあったし、そこの寮長クラスと知人であるという事は島民にとってある種のステータスになる。
となればこの僕の元寮長という肩書きを利用しない手はない。しかもモストロラウンジのオーナーである僕から直々に頼み事をされ、その対価に特別ご招待となれば彼も友人知人に鼻高々というわけだ。
ラウンジの現支配人には後で僕から謝るとして、とりあえず今はこの店主から可能な限りの情報を引き出さなくては。
「あぁほら、これが昨日の閉店後の映像だよ。アンタの友達はこの人で間違いないかい」
店主が見せてくれた映像には、パブを追い出され足元をふらつかせながら通用口を通るジェイドが映されていた。
通用口から続く階段を登るとその姿はすぐに見えなくなって、ジェイドが階段を登り切るのを見送った店主がいなくなった後にジェイドを追う者はいない。
「ご主人が休まれたのは何時頃ですか?」
「このあとすこし店の片付けをして……、多分1時頃だったかな。いつもより遅くなった分ヘトヘトですぐ寝ついちまったよ」
「1時頃……。それまで不審な物音はしなかったのですね」
「あぁ特には」
全く変化のない映像を店主が早送りすると、店主が寝ついたという時間まで人の出入りはおろか猫一匹通らず、不審な物音はしなかったと言う店主の言葉に間違いはないようだった。
「ご主人、客室は全部で何部屋あるんですか?」
「2階と3階に4つずつ、全部で8室だな」
「昨日は何室宿泊が?」
「昨日はアンタの友達だけさ。オフシーズンの平日なんてそんなもんよ」
僕は早送りの映像を注視したまま様々な可能性を探る。
もしも暴漢に襲われたのでなければジェイドは自らここを出て行ったのか?
最初から宿代を踏み倒すつもりで店主が寝ている間に宿を出たのか、それともやむに止まれぬ事情があって夜中に抜け出したのか。
万が一掲示板にジェイドの目撃情報が上がっていたとして、この宿にいる事がバレていた場合ファンがここに乗り込んでくる可能性も考えたけれど、不審な物音がしなかったと言う店主の言葉通りなら少なくとも宿で乱闘騒ぎになった可能性は低い。
となればやはりジェイドは自らの意思で出て行ったということか。でも、足元もおぼつかないほどぐでんぐでんに酔っ払ったあとになぜ?
そこまでして宿代をケチったのか、それとも、誰かの呼び出しに応じたのか。
「ご主人、パブは何時に閉めるんです?」
「うちは11時には終いだよ。うちに来るのなんてどうせ近所の顔馴染みのジジイ連中だからな。でも昨日はアンタの友達がもう一杯もう一杯ってしつこくて……結局閉めたのは0時近かったかな」
「それはそれは……うちの者がご迷惑を。モストロラウンジではたくさんサービスさせて頂きますね」
「あっはっは、そりゃいいや。飲んだくれに感謝だな」
「はは……、それで、ジェイドは昨日誰かと一緒でしたか?」
「いや、他の客はうちの常連ばっかでしらねぇ顔はいなかったぜ」
「そうですか。ジェイドは常連さん達と話しをしていました?」
「あぁ、なんだかやたらと気に入られて随分盛り上がってたぜ。結局全部おごられてたな」
「あいつ……」
「ジェイドウケる。ジジィ受けまでいいんだ」
全く、飼い主になりそうな相手だけでなく島のお年寄りにまで擦り寄ってなにをしてるんだあいつは。
誰彼構わず酒やタバコをたかってタダ飯食らいをするような生活になるなんてジェイド自身全く想像していなかったに違いない。
あの頃のジェイドが想像していた未来はきっと、
「アズール?」
「……いえなんでもありません」
あの頃のジェイドが思い描いていたであろう未来に、僕と並び立つ姿を想像してしまって自分でダメージを受ける。
その未来を潰したのは自分なのに、僕の右腕として変わらず隣に立ってくれるジェイドの姿が、僕は今も容易に想像できてしまった。
そして想像の中のジェイドに目を奪われかけていた時、「あっ」というフロイドの声でハッとする。
「ジェイド出てきた」
「え、」
焦って画面に視線を戻せば、もうすっかりいつも通りの足取りでシャンと歩くジェイドが通用口を出ていく所だった。
「ひとりですね……、何時だ?」
「え…と、3時過ぎ。オッサン足音とか気づかなかったの」
「いや全く。熟睡してたからな」
「泥酔している様子もありませんしこれなら気付かなくても仕方ないでしょう。気付かれないように警戒しているようですし」
「え〜じゃあやっぱ宿代踏み倒すつもりでこっそり出たわけ?」
「そうとも言い切れませんよ。この時間に出たって他の店はどこも閉まってるし島を出る船もない。そもそも宿代を払うつもりがないなら最初から寄生先を探すなりして宿を取ったりしないはずです。いくら金に困っていても行く当てもなく出て行ったりはしないでしょう」
「つまり、行く当てがあれば別ってこと?」
このパブへ来る前に会っていたサムさんにもう一度会いに行くとは考えにくい。サムさんの所に泊めてもらうつもりなら最初からそうしていただろうし、彼以外にこの島の知り合いといえば学園の教師陣くらいのものだ。
友達がいるという線も全くなくはないけれど、それこそ島に友人が住んでいるなら最初から転がり込んでいたはず。
だとしたらやはり、今回たまたま出会った相手に呼び出された可能性が高いのではないか。
「ご主人、店内にカメラは設置されていますか? できたら営業中の様子を見せていただきたいのですが」
「あぁ……、あるにはあるけどジジィ共が飲んでるだけだぜ? よそモンはあんたの友達しかいなかったし」
「えぇ構いません。飲んでいる時のジェイドの様子を確認したいので」
できるだけ警戒されないように、にこやかに主人を促したけれどもちろん僕が見たいのジェイド自身ではない。
ジェイドが一体誰と飲んでどのくらい会話を交わしていたか。
常連しかいないというそのジジィ連中の中に、ジェイドの情報をネットに流した、もしくは呼び出した張本人がいないとは限らない。
そして実際にカメラの映像を見て、僕は思わず感嘆のため息を吐く。
「すごいなこいつ」
ジェイドの他人の懐に入り込む能力は学生時代から一目置いていたけれど、こいつは一見近寄り難そうな見た目をしているくせに、その日初めて会った年配の男たちとあっという間に打ち解けて次々と酒を酌み交わす姿に僕は改めて感心してしまった。
店主の言う通り店内には年配の男性客が何組かいるだけで、全員が知り合いらしく突然別のテーブルの会話に参加したりとほとんど近所の寄り合いのような状態だった。
にもかかわらずジェイドはずっと前からの常連客なんじゃないかと思うほどその場に馴染んでいて、男たちに肩を組まれたり頭を撫でられたり、都会に出て行った孫が久しぶりに帰郷したのかと思うほどの歓迎ぶりだった。
「えーオレだってこんなんよくあるし」
「なぜそこで張り合う」
「あはっ、てかジェイド普通に楽しそうじゃん。ほんとに今の生活をそれなりに楽しんでんだね」
そう言ってへらりと笑うフロイドに、僕はどこか複雑な気持ちになってしまう。
画面の中のジェイドは確かに楽しそうで、上機嫌に笑うその姿を見ていると、今僕がジェイドに対して持っている感情はただのひとりよがりな押し付けに過ぎないのではないかと思う。
誰かに縋ってヒモ生活なんかしなくたってジェイドならもっとと、考える事自体おかしいのかもしれない。
今のジェイドがどうあろうと、ジェイド本人が楽しんでいるなら僕が口を挟むべきではないんじゃないか。
「アズール」
「え?」
「またなんか余計なこと考えてんだろ」
「別に余計なことでは……」
「絶対余計なことだね。てかアズールはもう自分のやりたい事わかったんでしょ。だったら別に他のことなんて気にする事ねぇじゃん。アズールが決めたならやりたいようにやんなよ。ジェイドはそういうアズールに振り回されんのがすきなんだから」
「は?」
僕に振り回されるのがすき?
ちょっと面倒な仕事を頼む度に嫌味や小言を言うことにいとまのなかったあいつが?
「それに言っとくけど、ジェイドにとってはアズールと一緒にいるより楽しいことねーから」
いい加減物分かりの悪い僕にフロイドがムスッとして口を尖らせる。
「いい加減わかってよね」と文句を言って監視カメラの映像に視線を戻したフロイドを呆然と見ながら、僕はまだ釈然としない気持ちでいた。
だってジェイドは僕といる以外にも色々と趣味を持っていたじゃないか。山歩きだとかテラリウムだとかきのこの栽培だとか、僕には理解の及ばないことばかりだけどジェイドは夢中になって楽しんでいただろう。
その上誰かさんの人使いが荒いせいで趣味の時間もロクに取れないなんていつも文句を言っていたくせに。
だから僕といなくたってジェイドにはジェイドの楽しみがあって、好奇心旺盛なジェイドの興味を引くものは他にいくらでもあって、それなのにジェイドは僕に振り回されるのが好きで、僕といる事がいちばんの楽しみだったなんて、そんなこと知らなかった。
「まじで溶け込んでんねぇ。ジェイドどんな話してた?」
「さぁ……、細かいことまでは覚えてねぇな。酔っ払いの会話に内容なんてほとんどないしな」
「それは確かに」
僕がぼうっとしている間にフロイドと店主が話し始め、僕ははっとして意識を画面に戻す。
「あぁでもジジィ連中のテッパントークがあってな、それ話すとよそモンは大体食いつくんだよ」
「え、なになに? オレも聞きたい」
「えへへ、聞いて驚け。アンタ達こいつ知ってるか? 知ってるだろ?」
そう言って店主が自慢げに見せたスマホの画面には、ひとりの若い男を囲んで満面の笑みを浮かべる常連たちの写真が映っていた。
そして真ん中の若い男の顔を見た瞬間、僕とフロイドは揃って目を見開く。
「これ……っ!」
「あっはっは! そうだろ当然知ってるよな!? 人気絶頂の世界的バンドのドラマーは、なんとこの賢者の島出身なのさ!」
そう得意げに語る店主の後ろで、僕とフロイドは絶句して顔を見合わせた。
なんということだ。
こんなところで、点と点が一直線に繋がってしまった。
「そしてなんとウチの常連の孫ときた。ほら、ちょうど今アンタらの友達と話してるこの爺さんだよ」
鼻高々に話し続ける店主の後ろで、僕らは店主が有名人と旧知の仲であることに驚いたフリをして画面を覗き込む。
「この子は小さい頃から魔法が使えてな、ゆくゆくロイヤルソードアカデミーかナイトレイブンカレッジから入学許可証が届くだろうってみんなそりゃあ楽しみにしてたんだよ。爺さんはきっと一番期待してただろうな。だけど結局この子に許可証はこなくてなぁ」
段々とトーンダウンしていく店主の口ぶりから、彼がどれだけの期待を背負って育ってきたかがよくよく伺えた。名門魔法士養成学校が二つ並び立つこの島に生まれ、幼い頃から魔法が使えたとあらば周囲が多大な期待を寄せるのも無理はない。
この二つの魔法学校には世界各地から選び抜かれた魔法士の卵達が集められるけれど、入学が認められるのは魔法を使える者たちの中でもごくごく一部の狭き門。しかしそこに地元出身の少年が入学となれば、この小さな島の住民たちの誇りとなっただろう。
だが彼は選ばれなかった。
その時の祖父と、彼自身の落胆はどれほどか。
「結局その子はミドルスクールを卒業した後島を出て行ってな。島外の高校に進学はしたんだが途中でやめちまってよ。でも帰って来づらかったんだろうなぁ……。そのまま何年か顔も見せなくて」
「そうだったんですね……。ではその頃にバンド活動を?」
「そう! そうなんだよ!!」
しんみりと話していたかと思えばどうやらそれもテッパントークのフリだったようで、急に元気になった店主がパッと表情を明るくする。
「しばらくしてあいつがメジャーデビューするって聞いたかと思えば、あれよあれよという間に人気バンドになっちまった! 信じられるか? 魔法学校に入れなくて島を出て行った子供が世界中に愛されるバンドのメンバーになったんだぜ?? あいつらがなんとかっていうチャートで一位になった日は地元連中で朝まで飲み明かしたよ」
「それはそれは……お祖父様もさぞお喜びだったでしょうね」
「そりゃあもちろん! 魔法学校の入学許可証が来なかった時はずいぶん落ち込んでたが、それもきっとこの道で大成功するためだったんだって大喜びさ」
「そうでしたか。本当にお孫さんを可愛がってらっしゃるんですね」
「あぁ、爺さんにとっちゃひとりっきりの孫だからな、そりゃあ可愛がってたよ。魔法が使えるだけでも自慢の孫だったしなぁ」
「そうでしたか……」
ここまでくると、さっきまで自慢げに鼻高々といった具合だった店主もやや声を落とし、今度こそしんみりと物憂げな顔を見せた。
「けどなぁ、アンタらも知ってると思うけど、最近バンドが活動休止になっちまって」
「えぇ、僕たちもニュースで見て驚いていたところです。あんなに人気絶頂だったのにどうしてと……」
「本当にそうなんだよ。爺さんも詳しいことは聞いてないみたいで俺たちもよくしらねぇんだが、何があったのかなぁ……。それを聞いてから爺さんすっかり落ち込んじまって」
僕にとっては全く無関係な他人の事ではあるが、その老人を落ち込ませる原因を作ったのがジェイドなのだと知っている以上なんとも居心地の悪い話だった。
「でも昨日はアンタの友達のおかげで爺さんが久々にいい顔してたよ。ずいぶん気に入ったみたいでどんどん飲ませてなぁ、孫と歳も近いし孫と飲んでるような気分だったのかもな。ほら見てみなよこの顔、うれしそうだろ」
そう言われて画面を覗き込めば、ちょうどその老人がジェイドの肩を抱き込んで酌をしているところだった。
自らもずいぶん飲んでいるのか赤ら顔をしたその老人は、ジェイドの肩をばんばんと叩きながら陽気に話し続けている。そして画面の中の二人の様子に、僕とフロイドはまた黙って顔を見合わせた。
確かに、彼は楽しそうだった。
孫と飲んでいるような気分で上機嫌になっているのだと言われれば十分納得できる。
だがしかし、ジェイドが宿から消えた今の状況を考えれば、事態はそれほどいいとは思えない。
この老人は本当にジェイドを孫のように思って上機嫌だったのか。
それとも、別の理由だったのか。
もし万が一、彼が孫本人から詳しい話を聞いていたとしたら、もしくは孫の状況を心配して情報収集に奔走していたとしたら、何かしらの方法でジェイドの情報に辿り着いていてもおかしくはない。
そしてもしバンドを活動休止に追いやった張本人が目の前に居たとしたら、彼はどう思っただろう。
「……ご主人、彼らのバンドはきっとこの島でも大人気だったでしょう? 島の人たちは活動休止にさぞがっかりされているのでは……」
「あぁ本当にそうなんだよ! こんな小さい島だろ、島の出身者が世界的スターになってみんな夢中だったのに、若い奴らなんかはこの世の終わりみたいな顔してやがったな。あの子の幼馴染の奴らなんかは特にさ」
「幼馴染……。その方達はまだ島に残ってらっしゃるんですね」
「あぁ。うちの近所に何人か住んでるぜ。この辺りは子供がすくねぇからみんな兄弟みたいに育ってなぁ、爺さんには連絡しなくてもそいつらとは連絡を取ってたみたいだよ」
「なるほど……。たいへん興味深いお話を聞かせて頂きありがとうございましたご主人。ジェイドの様子も確認できましたので僕たちはそろそろ失礼致します」
「もういいのかい?」
「はい、ご協力感謝致します。約束通り宿代は私から支払わせていただきますので、どうぞお受け取りください」
そう言って僕がその宿の宿泊費としては明らかに高額な紙幣を差し出せば、店主は目を丸めて「いやいや!」と慌てた声を出す。
「こんなにはもらえねぇよ」
「いえ、迷惑料として受け取っておいて下さい。モストロラウンジからは改めて招待状を送らせて頂きますので、ご都合の良い日にぜひいらしてくださいね」
「なんだか申し訳ねぇな……。それじゃありがたく頂くとするよ。これから友達探しに行くんだろう? 見つかるといいな」
「ありがとうございます。お世話になりました」
「あぁ、気をつけてな。いい旅を!」
そうしてなにも知らない店主に見送られ、僕たちは足早にその場を後にした。
今さっき聞いた店主の話に、僕たちは嫌な予感しかしなかった。この島に着いた時から感じていた正体不明の焦燥がどんどん募って、なにか良くないものが体中にまとわりつく様な不快感が強くなる。
「アズール、近所の若い奴にも話聞いてみよ。ジェイドのこと知ってるかも」
「そうですね、もし知っていたとしても素直にお話ししてくれるとは思えませんが……」
あぁこんな時にジェイドのユニーク魔法があれば。
ジェイドを探しているのにジェイドを頼るなんてなんとも可笑しな話ではあるけれど、今は心底そう思った。
「アズール、ジェイドのユニーク魔法があればとか考えてんでしょ」
「えっ? いや、だって……そりゃそうでしょう」
「あはっ、アズール昔ジェイドのユニーク魔法を自分のモンみたいに使ってたもんねぇ」
「は……? 別に自分のものだなんて思ってませんよ」
「でも自分が頼めばいつでも使ってくれるとは思ってただろ?」
「え……、それは、だって実際そうでしたし……、えぇ??」
「無自覚だったのほんとウケる。ジェイドはアズールと契約するなんて信じられません〜とか返してくれなそうだから僕なら絶対に嫌です〜とか言ってたけど、そもそもアズールに貸す必要もなかったよね」
「え?」
「だってアズールが『ジェイド、少しお話しして来てください』て言っただけでいつでも使ってくれるんだから実質アズールの魔法みたいなもんだったじゃん。同じ相手に一回しか使えねぇのにさぁ、その決定権をアズールに委ねてたんだよ? やばくね」
「それは……、単に相手がジェイドにとって取るに足らない相手だったからで……」
「だとしたらわざわざジェイドが『おはなし』しに行く必要ねぇじゃん。自分にとってはどうでもいい雑魚相手でも、アズールの利益になるからわざわざ魔法使ってくれてたわけでしょ。ジェイドが自分の魔法について話したがらなかったのだっていざという時アズールの役に立てるようにだし」
「それはさすがに深読みしすぎじゃないですか? 確かに僕の判断でユニーク魔法を使ってくれてはいましたけど、あいつの魔法の性質上知られていない方がジェイド自身だって都合が良かったわけですし……」
「でも小エビちゃんには話してもいいんじゃないかってアズールが言った時は素直にしゃべってたじゃん。結局そういうことでしょ。アズールがいいならいいんだよジェイドは」
「はぁ……? あいつはそんなに主体性のない奴じゃないでしょう。お前よりよっぽど我が強くて自己主張も激しいし……」
「んふふ、まぁそうだけど、そうなのにアズールには甘いってこと」
「え」
「あぁでももしかしたら、アズールと契約して貸しちゃったらアズールが自分のこと頼ってくれなくなるのが嫌だったのかも」
「は……?」
「ジェイドはさぁ、アズールに振り回されんのも頼りにされんのもだぁいすきだから♡」
にたりと目を細め、愉快そうに見下ろしてくるフロイドに僕はぽかんと口を開いてしまう。
確かにあいつはやたらと僕の世話を焼きたがって、頼んだことどころか頼んでもいないことまでいつも完璧に仕上げてくるような奴だった。三年の後半頃にはもはや僕から何か言うまでもなく、常に先回りして僕の欲しいものを与えてくれるからすこし怖くなったくらいだ。
でもそのジェイドの行動は全て、僕の役に立ちたかったからなのか。
僕のために魔法を使い、常に僕の手足となって僕の利益を優先してくれた。僕のことをワガママで強欲で人づかいの荒い守銭奴だとか笑いながら、それでも僕が望むから、僕の望みを叶えるためにジェイドは。
だからジェイドは、僕と別れてそのすべてをやめてしまったのか。
身だしなみをきちんと整えることも完璧に仕事をこなすことも、ジェイドにとってそれらが僕に必要とされたいからだったなら、目的を失ったジェイドが全てを放棄してしまったのも頷ける。
学生時代の僕は、完璧なジェイドしか見ていなかった。
いやもちろん、趣味に没頭すると周りが見えなくなったり特定のことにだけ異常な執着を見せることや、性格に少なからぬ難があることは当然知っていたけどそれでも、ジェイドが僕に害をなす存在であったことは一度もない。
きのこ料理を食べさせ続けるだとかそんな事は僕が本気で拒否すれば済むことで、そうじゃなく、ジェイドが本当に僕を傷つけようとしたことは一度たりともなかった。
フロイドとふたりでグルになって僕を揶揄って遊ぶようなことはしょっちゅうでも、ジェイドは決して、僕の隣を離れようとはしなかった。
僕の右腕として完璧に補佐を務め、恋人としてたっぷりと愛情を注いでくれた。
僕が本当に嫌がることは決してしなかったし、常に僕が快適であるように全てを整えてくれていた。
ふたりの時間が取れるのは仕事や勉強を全てこなした後の隙間時間で、ジェイドのことを後回しにしたって怒らなかったしむしろ終わらない仕事を手伝ってくれることもしょっちゅうで。小言は言っても泣き言は言わず、任せた仕事は完璧に仕上げてくれた。
そんな状態でも仕事と自分どっちが大切なんだなんてテンプレな文句を言わないジェイドはパートナーとして最高で、我慢している姿なんて少しも見せなくて、だから全てを易々とこなしているように見えたジェイドが、ぜんぶ僕のためにがんばってくれていたことに僕は気付けなかった。
僕はジェイドの忍耐と努力を当然のことのように消費して、ずっと蔑ろにしてきたのか。
「……僕は、あいつについて知らなかったことがたくさんあります」
「そうだねぇ」
「本当に遅すぎるかもしれませんけど、まだ間に合うかな」
「あは、そんなのアズール次第じゃん」
「ふっ、そうでしたね」
少しだけ弱気になりそうだった僕の心を、フロイドの些細なひとことがまた持ち直させてくれる。
僕はこうしてジェイドとフロイドに何度も励まされてきた。
本人達にそうしている自覚はなくとも、ふたりの何気ない言葉がいつも僕を奮い立たせてくれたんだ。まだ幼かった十代の頃には僕自身それをわかっていなかったけれど、今になってようやくそれが分かった。
「ずっと一緒にいてくれてありがとうございますフロイド。さぁジェイドを迎えに行きますよ」
「んふふ、やっとオレのこと信じてくれたのぉ? じゃあいこっかアズール」
「えぇ、頼りにしてますよフロイド。と言うかお前の勘だけが頼りですからね」
「うげぇ、アズールのくせに計画性なさすぎ」
「うるさいな、今回は仕方ないでしょう。フロイド、双子のテレパシーとか使えないんですか」
「オレ超能力者じゃなくて魔法士なんだけど」
「お前達ならもしかしたらと思っただけですよ。……ところでお前結局転移魔法はマスターしたんですか? 島にいることは分かってるんだからジェイドの魔力を探れれば直接飛べるんじゃ」
「んーん。練習めんどくさくてやめちゃったから成功したことない」
「お前……、コツさえ掴めれば絶対得意なはずなのに!」
「アズールは苦手だもんね。アズールこそマスターしたの?」
「努力はしてます」
「えらぁい。その調子で頑張って」
「くそ……、地道に探すしかないか」
「探すったってどこを?」
「とりあえずメンバーの幼馴染を探しましょう。近所に住んでると言ってましたし仕事に出てるとしても島内だろ。若者は少ないからひとりくらい見つかるんじゃないですか。頼みましたよフロイド」
「そうやってすぐ丸投げする〜。調子悪い時のオレの状態知ってんじゃん」
「おや、今日は調子が悪いんですか?」
「絶好調」
「よし行くぞ。どっちに行きます?」
「ん〜……、じゃあとりあえず昼メシ食お。オレ朝から食ってないんだよね。すげぇ腹減ったからなんか食べないと無理」
「……仕方ないですね。お前の好きな店でいいですよ」
「やった〜。今日は魚料理の気分。港の方行ってみようぜ」
「分かりました任せます」
腹が減ってはなんとやらだ。
悠長に食事なんてしてる場合かと言ったところで、調子を崩したフロイドと行動するリスクを考えるとここで少し時間を食ってでも腹を満たしておいた方がいい。
この小さな島で暴力沙汰でも起こっていればとっくになんらかの噂くらいは広まっているはずだし、今のところサイレンが鳴り響くような音も聴いていないから警察やマジカルフォースが出動するような事態にはなっていないだろう。
でも逆に、誰にも見つからない場所で何かが起こっていたらと、考えてゾッと背筋が寒くなる。
「フロ……」
「アズール」
嫌な予感がしてフロイドを見上げると、フロイドの視線が何かを捉えたまま僕の声を遮るように言う。
「あそこにいる奴ら見て、あの店の横の若い男ふたり」
そこは様々な商店が連なっている比較的賑やかな通りで、レストランを求めてぶらぶらと歩いていると向かいの通りの建物の隙間にコックコート姿でタバコを吸う二人の男がいた。
年齢はたぶん僕らと同じか少し若いくらいで、仕事の休憩中に店舗の外でタバコをふかしているという様子だった。
僕らと同じ年代の、若い男ふたり。
そしてフロイドの血走った目が、じっとそのふたりを捉えている。
「フロイド、慎重に」
「ジェイドの匂いがする」
「は?」
どういうことだと、確かめる前にフロイドはもうその長い足で石畳みを蹴っていた。
「待ちなさいフロイド!」
そんな事を言ってもフロイドが待つはずもなく、僕は慌ててその後を追う。フロイドは道路を横切って向かいの通りに渡り、驚く人々に見向きもせず一直線にふたりの男の所へ向かい通路を塞ぐように立ちはだかった。
そして何事かと顔をあげた男達が、ありえないものを見たような顔をして目を見開く。
「ジェイド・リーチ!?」
「お前なんでここに……っ! ひとりで動けるわけ……」
「へぇ、やっぱりお前らがジェイドと遊んでくれたんだぁ?」
「は……? お前何言って……」
「おいっ、違う、こいつはジェイドじゃない……。確か双子の兄弟がいるって」
「あはっ、せいかぁい♡ オレはジェイドのきょうだいのフロイドだよぉ」
とろけるような甘い声で言ったフロイドの表情はしかし、獲物を追い詰めた捕食者のものでしかなくふたりの男はあまりの恐怖に声を失ってその場にへたり込んだ。
そしてそうなってしまえば、弱者にかける情などなく後はフロイドに追い詰められるのみだ。
「で、お前らジェイドに何した?」
「しっ、知らない……! 俺たちは何もしてない!」
「え〜教えてよぉ。さっきひとりで動けるわけないって言ったよなぁ?」
「ヒ……ッ」
ねだるように甘い声を出していたかと思えば、次の瞬間にはカッと目を見開いてドスの効いた声で詰め寄るフロイドにふたりの男は益々縮み上がっていく。
「素直に話せば社会的制裁だけで許してやるからさぁ、お前らだって痛い思いすんのヤだろ? オレもお気に入りの靴汚したくねぇんだよ」
「本当に知らない、俺たちじゃないんだ……!」
「本当です俺たちは何もしてない!」
「ふぅん……、本当に知らないんだ。じゃあ仕方ねぇかぁ」
フロイドがすっと表情を緩め、身を引いたことにふたりの男はあからさまにホッと安堵の表情を見せた。だがしかし、男達がほっとしていられたのはその一瞬だけだ。
次の瞬間、柔らかい肉に何かが食い込む鈍い音と共に男の一人が路地の奥へ吹っ飛んだ。
吹っ飛んだ男は腹を押さえてゲホゲホと咳き込み涙と涎を垂れ流し、もう一人の男は驚きに目を見開いてただじっと動けなくなる。
そしてフロイドは身動きの取れなくなった男の前にズイと顔を寄せ、至近距離でスンスンと鼻先を動かした。
「じゃあなんでてめぇらからジェイドの匂いがすんだよ」
ほとんどゼロ距離で、フロイドの黄金に睨みつけられた男はもう逃げられないと気付いたらしい。
呼吸もままならない様子ではくはくと口を動かしながら、男は片手に持ったままだったスマートフォンをフロイドの目の前に差し出した。
「ア? なに」
「ライブカメラ……、ここにジェイド・リーチが、……みんなみてる」
「は!?」
ここまで静観していた僕は、余りにも不穏なその言葉に思わず駆け寄ってそのスマホを覗き込む。
そしてそこに映っていた映像のあまりの衝撃に、僕は呼吸も忘れて息を止めた。
定点カメラで撮影されているとみられる映像は現在進行形でライブ配信されているもので、何人ものアイコンとコメントが次々と流れていく。限定されたアカウントのみが視聴できるクローズド配信のようではあるが、次々と流れていくアイコンを見る限り決して少ない人数ではない。
そしてその視聴者達が見ているのは、人魚の姿で森に横たわるジェイドだった。
「は……? ジェイド?」
「なぜ変身が解けているんです……! 一体いつから!」
「オラ素直に吐けよ」
「……ち、遅効性の解除薬を飲ませて、徐々に変身が解けていくのを配信してた。完全に人魚になったのは今朝日が登ってから……」
人間のする事のあまりの悍ましさに、一瞬で頭に血が上る。
僕たちが常日頃服用している変身薬は、改良に改良を重ねあらゆる苦痛がないように作られたもので、当然それなりに値は張るが効果は抜群だ。服用後たちまち効果が現れ一瞬で変身した後は数ヶ月は効果が持続する。
その一方で、遠い昔に使われていた変身薬は完全に変身するまで時間がかかり、尾鰭を足に作り変える過程は激痛を伴っていたという。
そしてこの男達が使ったという遅効性の解除薬は恐らく、変異に激痛を伴うタイプのものだ。
人間体の柔らかい肉を切り裂き皮膚を突き破って鰭が生え、足の骨がじわじわと溶けて分解されひとつにまとまって尾鰭に作り変えられていく。
それだけでもゾッとすると言うのに、徐々に呼吸ができなくなっていく苦しさと恐怖はどれほどだっただろう。
僕たちの様に肺呼吸もできる人魚達は陸でもすぐに死んだりはしない。
口から酸素を取り入れることができれば直ちに呼吸困難で死に至るということはないけれど、しかしそれも時間の問題だ。
時間が経つにつれ体表が乾いてひび割れ鱗が剥がれ落ち、身動きが取れなくなってゆくゆく肺呼吸も困難になっていく。
そしていつかは、完全にその活動を停止する。
映像に映るジェイドは全く動いていなかった。
遠目の映像では体表がどのような状態になっているのか確認するのは難しい。そしてこの映像からはジェイドが呼吸しているのかどうかさえ、僕らには分からなかった。
ジェイドの安否が分からない不安と恐怖と、そしてそれ以上の怒りでありえないほど体が熱くなる。
どうしてジェイドがこんな目に。
ジェイドをこんな目に遭わせた奴らを、僕らは絶対に許さない。
「行こうアズール」
あまりの怒りに熱くなる僕とは反対に、フロイドは冷え切った目でゆらりと立ち上がった。
そしてその凍り付くような冷たい視線が二人の男を順繰りに睨め付ける。
「オマエら、人魚を敵に回して生きてられると思うなよ」
この男達がした事は種族間の問題に発展しかねない大事件だ。人魚は種族の存続を脅かすものを絶対に許さない。
そしてそれは時として、陸の法に倣わない方法で裁かれることもある。
だが今僕が直々にこの雑魚共の相手をしている暇はない。
今は、一分一秒でも時間が惜しい。
「フロイド、場所は特定できますか」
「カメラの位置情報で特定できるけど、転移するよアズール」
「は!? お前一度も成功したことないって……!」
「今なら絶対大丈夫。信じて。オレがアズールをジェイドのとこに連れてくから」
僕はこの時ほど、フロイド・リーチという男を頼もしいと思ったことはない。
僕の手を包み込むその両手が震えていても、僕をまっすぐに見つめる両目が不安の涙でいっぱいになっていても、今この時、僕が一番に信じられるのはフロイドだ。
「お願いしますフロイド。ジェイドのところへ」
「うん、まかせて」
へにゃりと笑ったフロイドの目から涙がこぼれたのを、見たのか見なかったのか、次の瞬間「行くよ」と言ったフロイドにしがみついているのがやっとだった。
転移魔法は高難度の魔法で、転移の失敗による魔法士の行方不明事件は毎年後を絶たない。
それを一度も成功したことがないというフロイドが僕を連れて実行しようと言うのだから無謀にも程があるというものだ。
でも僕はフロイドが失敗するとは全く思っていなかった。フロイドは絶対に僕を連れて行ってくれる。
ふたり一緒に、ジェイドを連れて帰るために。
足が地についた感覚がして、まだぐるぐると目の回るような感覚の中で目を開けた時、目の前には土の上に横たわるジェイドがいた。
「ジェイド!!」
僕たちはほとんど同時に名前を呼んで駆け寄り、ぴくりとも動かないジェイドに顔を寄せて呼吸を確かめる。
弱々しくではあるけれどなんとかまだ息をしている事に安堵して、それからすぐに長い尾鰭に目をやった。
森の中で多少日差しが遮られてるとはいえ空は雲ひとつない晴天で、容赦なく降り注ぐ太陽の光でジェイドの体表はカラカラに渇き切っていた。表面はあちこちがひび割れて硬い皮膚に亀裂が走り、酸素を求めて開き切ったエラがぴくぴくと細かく痙攣している。
海の中のジェイドとフロイドは元々青白い顔色をしているけれど、陸の上で見るその顔は更に青白くとても苦しげでぎゅっと胸が詰まる。
微かにしか漏れない呼吸はあまりに弱々しく、少しでも楽にしてやろうと僕はジェイドに魔法をかけた。
「フロイド、手伝ってください」
ふたりで水魔法を練りあげて4メートルを超えるジェイドの全身を水の中に閉じ込める。それで体表がこれ以上乾くのを食い止める事はできるけれど、ジェイドが十分に呼吸ができるようにする為にはとても酸素量が足りない。
もっと大量の水で包み込んでプールのようにしてやれば多少楽にはしてやれるかもしれないが、その状態を維持したままジェイドを安全な場所まで運ぶのは無理だ。
「どうするアズール、マジカルフォースに救援要請する?」
「いや、ジェイドの呼吸が弱すぎる。救援隊の到着を待っている余裕はありません」
だからと言ってこの状態で自分達の力で病院まで運ぶことはできない。いくらフロイドでもよく知らない病院へピンポイントに飛ぶのは難しいし、こんなに弱った状態のジェイドを連れて危険な海へ転移するわけにはいかない。
考えろ考えろ。
ジェイドは絶対に死なせない。
絶対何か手はあるはずだ。
僕たちは絶対にジェイドを連れて帰るんだ。
こんな所でジェイドをひとりで死なせたりはしない。
他の生き物に命を脅かされることのない水の中。
ジェイドがゆっくりと体を休められて、そして専門医の適切な治療が受けられる場所。
早くそこへジェイドを連れて行かなくては。
その時、森の上空で鳴いたカラスを見上げ、僕は「あ」と気付く。
なぜそんな事に気付かなかったんだ。
あるじゃないか。
僕たちにとって最適な場所が。
「フロイド! オクタヴィネルに飛びますよ!」
「あ、そっか!」
「僕はジェイドを連れてモストロラウンジの水槽に飛びます。お前は学園長に伝えて魔法医術士を連れて来てください」
「え、アズールが転移すんの!? 苦手なのに大丈夫??」
「言ったでしょう。努力はずっとしてきたんです。この僕がモストロラウンジに飛べないとでも?」
「あはっ! 了解! じゃあオクタヴィネルで!」
「必ず来るんですよ! 行方不明になるなよ!」
「こっちのセリフ! ジェイド連れて消えたら容赦しねぇから!」
「もちろん、また後で会いましょうフロイド」
「おっけーアズール。じゃあ先行くよ」
「えぇ僕もすぐに行きます」
次の瞬間フロイドはもう姿を消して、僕は水の膜に包まれた人魚姿のジェイドを抱き寄せる。
「苦しかったですねジェイド。もう大丈夫ですよ」
ぐったりと力の抜けたジェイドはあまりに重く、僕はその重みをしっかりと抱き止めて頭の中にモストロラウンジの水槽を思い浮かべた。
魔法の強さはイマジネーションの強さ。
僕とジェイドとフロイドが三人で作り上げたあの懐かしい場所。一緒に三年間を過ごした思い出の場所へ、今。
体が浮遊して重力が消えるような感覚と、自分を構成する全てがバラバラに分解されて再構築されるような不思議な感覚の中で、僕は決して離れないようにジェイドを強く抱きしめた。
もう二度と離してなるものか。
僕は必ず、ジェイドとフロイドを連れて帰るんだ。
深い深い水の中に沈み込んでいく感覚がして、浮力に助けられジェイドの重みが消えていくのを感じながら僕は変身を解いた。
そうして未だ意識のないジェイドを八本の脚でしっかりと包み込み、岩や珊瑚で傷付けないように気を付けながら水槽の底まで連れていく。
分厚いガラスの向こうには見慣れたラウンジの光景が広がっていて、転移魔法が成功したことに僕はほっと胸を撫で下ろした。
昼時のモストロラウンジに人の気配はなく、営業中にいつもかけているBGMもない。水槽の中の僕に聞こえるのは小さな魚達が泳ぎ回る音と、ぽこぽこと気泡が湧き上がる音のみで他にはなんの音もしない。
僕は腕の中に抱えたジェイドの顔を覗き込み、さっきまでの苦しげな表情が和らいでいることに安堵する。
「ジェイド、僕たちのモストロラウンジに戻ってきましたよ」
そう声を掛けてみた所でジェイドは反応を示さず、僕の声に気付きもしないジェイドを見ていると、ひとりで玄関の床を掃除したあの日のように次々と涙があふれた。
学生の頃、帰省の時以外頑として元の姿に戻ろうとしなかった僕にジェイドはしょっちう不満を漏らしていた。
僕が自分の本来の姿をあまり好きでないことを知っていながら、「でも僕は好きなので」とことあるごとにねだってくるから僕はウンザリしていたけど、ジェイドがそう言うならもっと見せてやれば良かった。
自分勝手でわがままなくせに僕に何かをねだることなんてほとんどなくて、そんな中でジェイドがねだってきた数少ないことだったのに。
どうして僕は、もっとジェイドの声に耳を傾けなかったんだろう。
「ジェイド」
僕はお前に名前を呼ばれるのが好きだったんだよ。
一度も言ってやったことなんてないけど、僕が呼ぶと必ず呼び返してくれるジェイドの声が好きだった。
「ほら、お前が見たかった蛸の姿の僕ですよ」
ジェイドは返事をしない。
瞬きもしない。
「僕を見てジェイド」
僕を見て、僕を呼んで。
返事をしないジェイドの代わりのように、無音だった空間に突然ドアを開ける音が響きバタバタと何人かの足音が聞こえる。
ジェイドを抱えたまま水槽越しに前を向けばフロイドが学園長と魔法医術士らしき男を連れてきた所で、真っ先に駆け寄ってきたフロイドが僕の脚に絡め取られるように抱きしめられているジェイドを見た。
「 」
分厚い水槽越しでその小さな声は聴き取れなかったけれど、少し目を細めたフロイドは、未だ目覚めない片割れの名前を呼んでいた。
一旦僕たちの様子を確かめたあとフロイドは学園長達の方へ振り返り、ふたりを連れてバックヤードの方へ消えていった。水槽への階段はそちらから繋がっているから、もう少しすればフロイド達がここまでやってくる。
そうしたらジェイドを離してきちんと医者に診てもらわなくては。
頭ではそう分かっているのに、ジェイドを誰にも渡したくなくて無意識に脚がジェイドの尾鰭にぎゅっと絡みつく。
ジェイドを失うかもしれないなんて、もう二度とそんな思いはしたくなかった。
何分もしないうちに三人が水槽の上までやって来て、「アズール!」と叫びながらフロイドがそのままドボンと水槽へ飛び込んだ。
飛び込んだフロイドは僕と同じように沈んでいく途中で変身を解き、水中呼吸薬を飲んでいるらしい魔法医術士がその後を付いてくる。
「アズール、ジェイドは!?」
「無事ですよ。呼吸は安定しましたけど、意識はまだ」
「良かったぁ……。ジェイド! 聞こえる? オレだよ」
そう言ってフロイドが顔をぺちぺちと叩いてもジェイドは目を覚まさず、深い眠りに落ちているのかぴくりとも反応しない。
「起きてよジェイドぉ……」
「無理を言うんじゃない。今はゆっくり休ませてやりましょう」
「うん……。とりあえずセンセーに診てもらおアズール」
「えぇ、そう…ですね」
そう言いながら僕はまたぎゅっとジェイドを抱く腕に力を込めた。
フロイドが触れる事はなんとも思わなかったのに、はじめて会った人間をジェイドに触れさせたくなくて身構えてしまう。
「大丈夫だよアズール。ジェイドのことちゃんと診てもらって治してあげなきゃ」
「えぇ……、分かっています。お願いします先生」
おそらくフロイドから簡単に状況を聞いているのであろうその医師は、あからさまな不信感を向ける僕に気分を害することなく穏やかに微笑んだ。
「心配しないで、体は支えたままでいて大丈夫だよ。傷を見せてもらう為に少し触るけれど痛いことはしないからね」
「はい……、よろしくお願いします」
彼はまるで幼い子供にでも接するように柔らかな口調でゆったりと話す人で、在校生でもあるまいに子供扱いをされているのかと普段なら気分を害していたかもしれないけれど、今この時ばかりはなぜだかとても安心できた。
自分でも驚くほど単純だと思うけど、なんとなくこの人ならジェイドを悪いようにはしないだろうと納得してしまう。
「センセェどお?」
「うん、呼吸は安定しているからとりあえず命の心配はないよ。でも体表の傷がずいぶん深いね……。可能であれば変身薬を服用して人間の体の状態になった方が治療は進めやすいと思うけど、変身した時にこの傷がどうなるか分からない以上リスクはある。ただこのまま水の中にいれば治りは遅くなるし感染症を起こす危険性も高い。浅学で申し訳ないのだけど、君たち人魚は海で深い傷を負った場合どう対処してるんだい?」
「どうって、血が出過ぎればサメが寄ってきて食われるし、傷のせいで上手く泳げなくなれば死ぬよ」
「なるほど、思っていた以上にシビアな世界なんだね。海に病院は?」
「陸みたいに傷縫ったり手術したりみたいなのはないよ。内科系の病気なら飲み薬はもらえるけど、外科なんてあったら治療してる間に患者も医者も食われちゃうね」
「ということは、こういった外傷に対する治療法は海では確立されていないんだね」
「うん。自然に治れば生き残るしダメなら死ぬ。そういうもんでしょ」
「そうか……。ではやはり人間に変身して治療を進めた方がよさそうだね。わたしにできるのは陸の治療法ばかりだからね、水中でしてあげられる事はほとんどないんだ。それにこのまま目を覚まさないとなると脳に何らかの問題があるのかもしれないし、詳しく検査をするにはやっぱり陸の病院に行く必要があるよ」
僕の腕の中にジェイドを抱き止めたまま、フロイドがジェイドの顔をぐにぐにとこねくり回す。
「だってさぁジェイド。どうする? 陸に行きたい?」
「意識のないジェイドに聞いてもしょうがないだろう……」
「じゃあどうすんの。アズールはどうしたい?」
フロイドに問われ、僕は改めてジェイドの顔をまじまじと見つめる。
幾分顔色が良くなったようには見えるけど、死んだように眠ったまま小言のひとつも言わないジェイドはまるでジェイドではないみたいだった。
「……一晩ここで過ごして、目が覚めなければ明日陸の病院に連れて行きます。それでいいですかフロイド」
「うん、オレはいいよ。ジェイドもそれでいいよねぇ」
「だからジェイドに聞いてもしょうがないだろ」
「はは、それじゃあ明日の朝また様子を見にくるから、それまでに急変したらすぐに呼ぶんだよ」
「はい、ありがとうございます先生。お世話になります」
そう言って先生を見送った後、水槽の上から学園長が何か叫んでいたけど今は対応する気になれず聞こえないフリをした。
でもとりあえず現支配人にだけは連絡して今日はラウンジを臨時休業にしてもらい、誰も入らないように伝えて夜は水槽の中三人きりで過ごした。
なんの音もしない静寂の中で、三人ぽっちでただゆらゆらと浮いて脚と尾鰭を絡めあって。
もしここに蛸壺があったら三人で籠っても良かったけど、あいにく僕らが一緒に入れるような都合のいい蛸壺はないから、フロイドとふたりでジェイドを挟んでぴたりとくっついていた。
「オレ朝からなんも食ってねぇや。ねぇここの魚食っていい?」
「いいわけないだろ観賞用ですよ。そんなにお腹が空いたならキッチンで何か作ってきたらどうです」
「んーんいい。そこまで空いてない」
「そうですか」
ジェイドに絡みつくフロイドの尾鰭がきゅっと絞まって、フロイドもジェイドから離れたくないんだなと思う。
このままジェイドが目覚めなければ明日の内には病院に行かなくてはならないから、こんな風に三人で過ごせることはもうないかもしれない。
そう考えながらジェイドの右側でうとうとし始めたフロイドを見ていると僕まで瞼が重くなってくる。そういえば午前に会社を飛び出したきり連絡もしていなかったっけ。
2、3日僕らが不在でも会社は問題なく回るけど、朝イチで連絡くらいは入れなくてはと思いながら僕も完全に瞼を閉じた。
早く起きなさいジェイド。
僕が作った会社をお前にも見せたいんだ。
また僕の右腕として働いてほしいと言ったらお前はどんな顔をするかな。
都合が良すぎると怒るだろうか。
それとも仕方ないですねと笑ってくれるだろうか。
あぁでも、僕のオフィスは完全禁煙だからお前が禁煙に成功するまでは見せてやれないかもしれない。
早く目を覚ましてジェイド。
目を覚ましてそして、またお前に名前を呼んでほしい。
結局、翌朝になってもジェイドが目を覚ます事はなかった。
一晩水中にいたおかげでカラカラに乾いていた表皮は元の潤いを取り戻したけれど、一度ひび割れてしまった体表が簡単に元に戻る事はない。
ジェイドの体は全身裂傷だらけで所々深い傷があり、人魚体の硬い体表を持ってしても重傷だと言うのに、変身薬を飲ませて人間の姿になったジェイドの傷はどれほどのものなのかと、その姿を想像しただけで痛ましさに胸が詰まる。
でもこのまま目を覚まさないジェイドをいつまでも水中に放置しておくわけにはいかない。
不安は少なからずあったけれど、僕らは昨日決めた通りジェイドを水中から連れ出して陸の病院へ連れて行くことにした。
変身薬の経口摂取が難しいジェイドに注射タイプの薬を打ち、変異が完了した状態で魔法医術士の細かなチェックを受ける。全身の裂傷は残っているものの心配していたほど深い傷にはなっておらず、体を作り変える際の効果がいい方に作用したのではないかと全員がほっと胸を撫で下ろした。
それから世話になった先生方にお礼を言ってジェイドを街の病院まで搬送し、そこで詳細な検査を受けたけれど脳には何の問題もなく、なぜ目覚めないのか不思議だと医師達も皆首を傾げた。
二日がかりの精密検査が終わるころには僕とフロイドも疲れ切っていて、いつまでも目覚めないジェイドをふたりしてどんよりと見下ろしていた。
治療のおかげで裂傷はみるみる良くなっていったのに意識だけが戻らない。
どうしてなんだジェイド。
僕もフロイドもここにいるのに、お前だけがいないなんて。
長い長い沈黙が続いた後、またすこし伸びたジェイドの前髪を撫でながらフロイドがその穏やかな寝顔にふっと笑う。
「アズール、オレほんとは、もうジェイドに会えなくてもいいやって思ってたんだぁ」
あんまり穏やかにフロイドが言うものだから、僕はそのちぐはぐさに驚いてパッと顔を上げた。
「海じゃ三日帰ってこない奴は死んだと思って諦めろって言うけど、会わなけりゃどっかで生きてるかもって思えるじゃん。ほんとは死んでるとしても知らなきゃ生きてるのと同じだろ。死んでるかもしんないけど生きてるかもしれない。ジェイドならきっとどこでも楽しくやってるんじゃねぇかなってずっと思ってたけど」
優しく髪を撫でていたフロイドの手がふと止
まって、穏やかだった表情がくしゃりと歪む。
「でもさぁ、目の前で死なれたら信じないわけにいかねぇじゃん」
フロイドは小さく肩を震わせ、そのままジェイドのベッドにぼふんと突っ伏してシーツに顔を押し付けた。
「死なないでよジェイド。もうオレを置いてかないで」
フロイドのそのひとことが、僕の胸を深く抉る。
以前は「もう死んだと思ってた」なんて言っていたフロイドが、本当はそんな風に考えていたなんて。
怒ってないけど許してないと言ったフロイドは、本当はずっとさみしかったんだ。
僕らが別れたせいでジェイドが行方不明になった時から、フロイドはずっと「置いていかれた」と思っていたのか。
あんなに仲が良くていつも一緒にいたふたりを引き裂いてしまったのは僕だ。
もうこれ以上、このふたりを離れ離れにはさせない。
僕が引き裂いてしまったふたりなら、僕が元通りにしてやらなくては。
「フロイド、ジェイドはどこにあのピアスを捨てたんです?」
「は……?」
「部屋のゴミ箱? それとも学園のどこかか?」
「急に何言ってんのアズール」
「いいから答えなさい。捨てたのは卒業式の日だと言ってましたよね?」
「そうだけど……、何する気? 学園の森の池に投げ捨ててたけど」
「学園の森の池!? なにを考えてるんだあいつは!」
「アズールに振られてムシャクシャしてたんじゃねぇの……。それ付けてるとアズールとのことばっか思い出すとか言ってもういらねーって……」
「そうですか分かりました」
「マジで何する気!?」
「フロイド、ジェイドが謝ってきたら全てを水に流して許してやるんですよね?」
「う、うん」
「待ってなさい。必ずジェイドを叩き起こしてお前に謝らせてやりますから」
「えぇ〜……」
「僕は少し出掛けて来ます。あ、もしジェイドが起きたらすぐに連絡ください。できるだけ急いで戻るので。分かりましたね」
「わかったけど……、どこ行くの?」
「取り戻しにいくんですよ」
「ハァ?」
「では行って来ます!」
「いってらっしゃい……」
呆気に取られてすっかり涙の引っ込んだフロイドを置いて、僕はひとり駆け出した。
目的地はもちろん学園の森の池。
でもその前に、購買に寄ってサムさんから買い付けをしなくては。
なにしろMr.Sのミステリーショップには「夢を叶える魔法のアイテム」が「なんでも」揃っているのだから。
街の病院から学園へ向かい、購買のドアを開けるなり僕は叫んだ。
「サムさん!!」
「やぁいらっしゃい小鬼ちゃん。今日は何をお求めかな?」
「探しものを一瞬で見つける魔法アイテム、ありますよね!?」
サムさんはまるで僕が何を求めて来たのかとっくに分かっていたかのように、両手を広げパチリといつものウィンクをした。
「IN STOCK!」
僕がガラリと病室のドアを開けると、まだ目を覚まさないジェイドの傍らに座るフロイドが顔を上げた。
「あれ、おかえりアズール。早かったね」
「えぇ、とてもいいアイテムが手に入ったので思っていたより早く片付きました」
「ふぅん? てか本当に何しに行ってたの」
「コレを回収して来たんです」
そう言って僕は、学園の池の水底から掘り出したチョウザメのピアスをフロイドに見せる。
白いハンカチに包まれていたそれを確かめて、フロイドは驚きに目を丸めた。
「ジェイドが池に捨てたものです。水底に堆積した土やら石やらに埋まっていて掘り出すのは中々骨が折れましたよ」
「……アズール、あのクソでかい池の中からコレ探し出したの?」
「えぇまぁ。そこはサムさんの店で役に立つアイテムを入手したので探すこと自体は簡単でしたよ」
「まじ? ウミウマくんの店やっぱすげーな」
「えぇ本当に。あの品揃え一体どんなルートで品物を入荷しているのか……」
「あはっ、てかなんでわざわざ?」
「僕が嫌だったからですよ」
「え?」
「お前達が離れ離れでいるのはもう嫌なんです。これを取り戻した所でお前達が元に戻れるわけではありませんけど、僕のせいでジェイドが捨てたなら僕が取り戻すのが道理でしょう」
自分でも何を言ってるんだと思いながら話していたんだから、フロイドがぽかんとしているのも無理はない。
本当に何を言ってるんだ僕は。
僕が嫌だから僕が取り戻して来たんだと、謎の理論を展開する自分が急に恥ずかしくなる。
でもそんな僕をフロイドは笑ってくれるから、僕はいつも救われるんだ。
「あはっ、道理かはわかんねぇけど、ありがとアズール」
そう言って笑顔を見せたフロイドに、感極まって僕はぎゅっと唇を引き結んだ。
そうやって堪えていなければ泣いてしまいそうで、ジェイドとフロイドを二度と離れ離れにはさせないと、改めて強く思う。
「アズールに完全に振られた後のジェイドすげぇ不機嫌でさ、八つ当たりみたいにそれ捨てられてめちゃくちゃむかついたけど、戻って来たならもういいや。ぜんぶゆるす」
「簡単に許すんじゃない。あいつが調子に乗るだろ」
「あはは確かに。じゃあ起きたら許してあげるから、早く起きろよなジェイド」
そう言ったフロイドの声はどこまでも優しくて、僕の涙腺の方が決壊しそうになってしまう。
「……早く起きなさいジェイド。早く起きて謝らないとフロイドが待つのに飽きてしまいますよ」
口ではそう言ってみたけれど、本当はフロイドが飽きるなんてことはないから。
だから安心していつでも目を覚まして欲しい。
お前の帰る場所は、今もちゃんとここにあるから。
ベッドサイドに座って暇を持て余し、ジェイドの髪をくるくると指に巻き付けて遊んでいたフロイドが、「あ」と声を出す。
「どうしましたフロイド」
「なんか今ちょっと動いた気がする」
「えっ、本当ですか!? ジェイド! 聞こえますかジェイド!!」
「ジェイド起きたぁ?」
両サイドから枕元に近づいて、顔の近くで代わる代わる声を掛けるとジェイドの表情が少し迷惑そうに歪んだ。
「!!」
「ジェイド!」
「いい加減起きなさいジェイド! 起きないとはっ倒しますよ!」
「ちょ、もう倒れてるって。ジェイド〜これ以上倒される前に起きなぁ」
僕たちが次々と声を掛けるものだから、ジェイドはう〜んと唸って益々眉を顰める。
「ジェイド!!」
反応があったことに興奮して、無意識に握りしめたジェイドの手が、ビクッと震え僕は慌てて掴んだ手を離した。
「もぉ〜アズール握力バカ強いんだから気をつけろって」
「すみません……、大丈夫ですかジェイド」
まだ起きていないジェイドに聞いても答えが返ってくるはずもないのに、つい普段の会話のように聞いてしまってまたすこし恥ずかしくなる。
「………………いたいです」
「え?」
「え?? ジェイド?」
返ってくるはずがないと思っていた声が、聞こえて僕は思考が停止してしまった。
さっきまでうるさいほど声を掛け続けていた僕らは逆にシンと静かになって、ふたりしてベッドの上のジェイドをじっと覗き込む。
するとジェイドが薄く目を開き、日の光が眩しいのか目を慣らすように何度も瞬きしてからゆっくりと瞼を押し上げた。
そしてその視界に僕らを捉え、またパチパチと目を瞬いて今度こそはっきりと目を開く。
「ふろいど……?」
「ジェイド!!」
まだ状況が掴めていないらしいジェイドは、ガバリと抱きついたフロイドにされるがままになりながらぼんやりと天井を見上げている。
「フロイド」
「なぁにジェイド」
やっとはっきりと名前を呼ばれ、フロイドは抱きついていた体をすこし起こして満面の笑みを浮かべた。
そしてジェイドがなにを言うのかと、期待を込めてニコニコとその言葉を待つ。きっと今なら何を言われても叶えてやりたいくらいの気持ちでいるに違いない。
そしてそれは僕も同じで、場合によっては自分がパシらされても致し方なしの心持ちでふたりの会話を見守った。
「フロイド、タバコあります?」
僕らは一瞬ポカンとして言葉を失い、すぐに「あぁ」と呆れる。
ジェイドのこの言葉を聞くのももう何度目か。
そういえば、二度あることは三度あると言ったっけ。
「あるわけないだろ!!」
「ねーよ!!」
ふたり同時にツッコミを受けたジェイドは心底がっかりした顔をして、「そうですか……」とまた眠ろうとしたジェイドをフロイドがポカリと殴る。
「痛いです!」
「んな痛くしてねーだろ! てかまだ寝る気かよ」
「まだ寝足りないので……」
「三日寝てたんだけど!?」
「おやそんなに。どおりで体中あちこち痛むわけですね」
「はぁ……。それは多分長く寝ていたせいだけではないですけど、無事に目が覚めて本当に良かったです」
僕がそう言うとジェイドはのそりと体を起こして辺りを見回し、自分がいる場所を確認してサッと顔色を変えた。
「もしかしてここは病院では?」
「もしかしなくても病院だろ」
「そんな……! 今すぐに退院します」
「は!? 落ち着きなさいまだ目が覚めたばかりなんですよ!」
「以前言ったじゃないですか。無保険なのに何日も入院したりしたら医療費が払えません」
「それなら大丈夫。アズールが払ってくれるから」
「はい?」
「オレが身元引受人でアズールが連帯保証人だから。ジェイドが払えなきゃ最終的にアズールに支払い義務があんの。ジェイドは退院したらとりあえずオレんとこ来るんだからね。親父達にもそう言ってあるし、もう逃げらんねぇからな」
「おやおや……、ついに捕まっちゃいましたか」
そう言って眉を下げ、全然困っていないような困り顔を見せるジェイドがあんまり昔のままで、僕はあの頃に戻ったような錯覚を覚える。
ジェイドがいてフロイドがいて僕がいて、いつも三人で奔走していた、懐かしいあの頃のような。
でもこの幸せは、まだただの錯覚に過ぎない。それを本当にするために、僕にはまだやらなければならない事がある。
「ジェイド、これをお前に返します」
僕はハンカチに包んだチョウザメのピアスをジェイドの前に差し出し、するとジェイドがさっきのフロイドと同じ顔で目を丸める。
こいつらは全然似ていないくせに、こういう所はそっくりでつい笑みが溢れた。
「これは……」
「お前が捨てたピアスです。さっき拾って来たので返します」
「さっき??」
「そ〜。アズール学園の池の底さらって探してきたらしいよ」
「あなたがわざわざ? なぜ……」
「んふふ、それが道理なんだって」
「道理……?」
「フロイド! ……とにかく返しましたよ。ジェイド、フロイドに謝りなさい」
「え?」
「大切なものを捨ててごめんなさいして下さい」
「はい?」
「早く」
「あ……、はい。フロイド、すみませんでした」
「んっふふ、いいよぉジェイド。許したげる」
「よし、これで仲直りですね」
「だからケンカはしてないんだってば」
「だからケンカはしていません」
「ふ……っ、ふふ、お前達そういうところは本当にそっくりですね」
思わず笑いが止まらなくなって、きょとんとしたジェイドとフロイドが顔を見合わせる。
そっくりだそっくりだと散々言われてきたくせに、僕に言われるのはどうやら不思議な感覚らしい。
「よくわかんねぇけど、ジェイドも起きたしアズールも楽しそうだからオレ先に帰るわ。アズール、退院したらオレんちまで連れてきてね。そういう事で、またねジェイド。ぜってー逃げんなよ」
「ふふ、わかりました。気をつけて」
「え、お前達もっと話す事ないんですか? フロイド、お前詳しい状況とか気にならないんですか」
「え〜別に。犯人達のことはなんかママがやたら張り切ってたからオレはもういいかなー」
「えっ、いつの間に……」
「おやおや物騒ですねぇ……。大事にならなければいいのですが」
「アハハ、まぁその辺は上手くやるでしょ。じゃああとはよろしくねアズール、オレは会社に顔出すわ」
「あ……っ、分かりました。よろしくお願いしますフロイド」
「ん。じゃあね〜。もうケンカすんなよ」
そう言ってフロイドが出ていってしまうと、室内が急に静まり返って静寂に包まれる。
聞きたい事も言いたい事も山ほどあるはずなのに、なぜかうまく言葉が出なくて僕は黙り込んでしまって、仕方なくと言った具合にジェイドが沈黙を破ってくれた。
「フロイドが立派に働いているようで安心しました」
「えぇ、フロイドは本当によくやってくれていますよ。……と言うか労働したくないとか言ってたお前がそれを言うのか」
「ふふ、面目ございません。どうしてもあなた以外の下で働く気になれなかったので」
突然ぶっ込まれた爆弾に息が止まる。
ジェイドが働きたくなかった理由がそんなことだったなんて、まさか夢にも思わなかった。
「ですがあなたのおっしゃる通り僕はお金に関心がないので、自ら会社を興してまで稼ごうという気にもなれなかったんですよね」
「……それなら海に戻ればよかったじゃないですか。なぜわざわざ」
「僕にとって海はあなたに出会った場所ですから。思い出が多過ぎてとても」
僕が想像もしていなかった言葉が次々とジェイドの口から語られて、もう頭の中がぐちゃぐちゃだった。
付けていると僕のことばかり思い出すからと大切なピアスを捨ててしまったジェイドが、海に帰れるはずなんてなかったんだ。
僕は本当に、ジェイドのことを何もわかっていなかった。
「あぁそう言えば、僕のピアスを見つけてくださって本当にありがとうございました。実は捨てた直後に後悔して僕も池に潜ったんですが見つけられなくて。本当はすぐにでもフロイドに謝りたかったのに一度捨ててしまった手前引っ込みがつかなかったんです。あの時はフロイドもすごく怒っていましたし……、それからズルズルと連絡を取れないままになってしまって」
ぜんぶはじめて聞く話だった。
ジェイドが後悔して池に潜ったことをフロイドは知っているんだろうか。いやもし知っていたら、ぶつぶつと文句を言いながらもジェイドと一緒に探していたに違いない。
それに本当はすぐに謝りたかったなんて、再会した時フロイドに話すことはないなんて言っていたのはただ引っ込みが付かなかっただけだったのか。
「本当はフロイドに会えなくてずっと寂しかったので、許してもらえて良かったです」
そう言って本当にうれしそうに笑うジェイドに、僕は堪えきれなくなって泣いてしまった。
こいつらはどうして本当にこう、お互い寂しかったくせに意地を張って、でもふたりをそうさせてしまったのは僕で、僕は、このふたりに何を返せばいい。
「……ジェイド、僕がお前にしたこと、本当にすみませんでした。今更遅いのは重々分かっているんですが、僕はどうしてもやり直したい。お前が僕に怒るのはもっともですが、僕の話を聞いてくれますか」
過去をなかったことにはできない。
犯した過ちは全て受け入れて償って、これからの話をしたい。
ジェイドはそんな僕を受け入れてくれるだろうか。
ジェイドはもう前に会った時のような冷たい目で僕を見なかった。
殺意を感じるほどの怒りも浮かべず、ただ穏やかな瞳で僕を見ていた。
「分かりました。あなたの言い分はきちんと聞かせていただきますので、その前に僕の話を聞いてくださいますか」
「もちろんです……! 昔の僕はお前の話をきちんと聞いてやらなかったと反省しています。それも謝りたいと思っていたので……。聞かせてください。ジェイドの考えてること全部」
この時まで、僕は舞い上がっていた。
ジェイドが僕の声に耳を傾けてくれた。
僕に話したい事があると言ってくれた。
ジェイドの話を聞いて僕の気持ちを伝えて、そうすれば何もかもが上手くいくと思っていた。
ジェイドとフロイドと僕と、また三人に戻れると。
でもそうではなかったんだ。
ジェイドが穏やかだったのは、もう覚悟を決めていたからだった。
「あなたが僕に別れを告げた日のことを、あなたは覚えているとおっしゃいましたよね」
「えぇもちろん。僕も相当な覚悟をして伝えたので、忘れるわけないでしょう」
「そうですか。あの日のことは僕にとっても一生忘れられない思い出です」
ふふっと涼やかに笑うジェイドの微笑みはどこか冷たさを含んでいて、少しだけぴりりと緊張が走る。
「三年生の最後の日、ホリデーが明ければ僕たちがバラバラの実習先に旅立つという時に、あなたは僕に別れましょうと言いましたよね」
「……えぇ、そうです」
「僕はあの時あなたが別れを告げたのは、僕の能力が足りていないせいなのだと思いました」
「え……?」
そんなわけあるか。
ジェイドは補佐として誰よりも優秀で、僕が手放せばどこから声がかかってもおかしくないくらい有能な男だったのに、どうしてジェイドはそんな風に思ったんだろう。
「僕はまだあなたが求めるものに達していないのだと思ったんです。あの頃の僕はまだあなたが一生隣に置きたいと思えるほどの存在ではなかったのだと」
僕は驚き過ぎて目を丸めた。
まさかジェイドがそんな思い違いをしていたなんて。
僕たちは、そんな所からすでにすれ違っていたのか。
「だからあなたと離れていた一年間で僕は必死に頑張りました。あなたが長い間積み重ねてきた努力には到底及びませんが、それでも少しでもあなたに近付けるように。どうすればあなたの役に立てるか考えて、どんな僕ならあなたに認めてもらえるんだろうとそればかり考えていました。いずれ起業するであろうあなたの役に立ちそうな資格を片っ端から取得して、実習の合間に専門外のことも勉強して知見を広げるために寝る間も惜しんで励んでいたんです。一年後胸を張ってあなたに会えるように」
ジェイドはもう僕の方を見てはいなかった。
ずっと押し込めてきた想いが堰を切ったように溢れて、止まらない言葉を淡々と吐き出し続けるジェイドに胸が押し潰されそうに苦しくなる。
「そうして成長してあなたに会ったら、あなたはきっと僕を認めてくれるだろうと思っていました。あなたは努力には正当な評価を下さる方ですから、よくやりましたと褒めて、僕をずっと隣に置いてくれるかと」
そこまで言うと、ジェイドは自嘲気味にふっと笑って苦々しく眉を寄せた。
当時の自分に思いを馳せ、昔のジェイドを嘲笑うように。
「だから卒業式の日、僕は期待に満ち溢れていたんです。自分にやれるだけのことはやった。あなたならきっと僕の努力を認めて一緒に来て欲しいと言ってくださるだろうと」
その日のことを思い出し、このまま心臓が止まるんじゃないかと思うほど胸が締め付けられて息が止まりそうになる。
苦しくて苦しくて、でもあの日のジェイドはきっと、今の僕よりずっと苦しかったんだろう。
ジェイドは長く息を吐き出し、自らを必死に落ち着けようとでもしているようにその胸をぎゅっと掴む。
「でもそうじゃなかった。あなたは確かに僕を褒めては下さいました。『よく頑張りましたねジェイド。さすがオクタヴィネルの副寮長です。元寮長として僕も誇らしいです』と、あなたが言ったのはそれだけです。あなたは、誇りだとは言っても必要だとは言わなかった」
その時のことを、僕もはっきりと覚えている。
会わない間にどこまでも有能になっていたジェイドが、とても遠い存在になってしまった気がした。
ほとんど会わなかった一年で僕だってもちろん成長したし、将来のビジョンがより明確に想像できるようになっていた。
僕が思い描くその未来にジェイドが居てくれたら考えたことは一度や二度じゃなかったけれど、考えれば考えるほど、僕にとってジェイドの存在は大き過ぎた。
ジェイドに頼り切りにはなりたくない。
もしもの時に立ち直れないほど依存してしまったら、これまで自分が築き上げてきたもの全てが音を立てて崩れてしまいそうで。
僕は僕ひとりで、立っていかなくちゃならないから。
前を向いていたジェイドの顔が、僕の方を向いてそのふた色が僕を見つめる。
熱くも冷たくもない瞳で、さっきまでの穏やかさも消えて、何もないような鈍い色が真っ直ぐに僕を見ていた。
「その時気付いたんです。あなたは僕の能力が足りないから別れたのではなくて、僕が有能過ぎたから切り捨てたんですよね。あなた自身が僕に頼るのが嫌で、自立できない自分になりたくないから僕を捨てたんでしょう。僕が有能であればあるほどあなたは僕を遠ざけたかった」
核心を突かれて僕は何も言えなかった。
否定することはもちろん、肯定することすらできずただ鈍く光るジェイドの瞳を見ていた。
「だったら、僕は一体どうすれば良かったんですか」
ジェイドの切実な問いにつきんと胸が痛む。
あの時どうすることが正解だったのか、それは今の僕にも分からない。
「完璧で有能な右腕なんかじゃなく、何もできないバカのふりをすれば良かったですか。努力なんてひとつもしない怠惰な男なら良かったですか。でもそんな使えない男をあなたは愛したりしないでしょう」
何もかもジェイドの言う通りだ。
あのジェイドだから僕は愛した。
だけど同時に、あのジェイドだったから僕は別れを告げた。
「僕はどうしたら、あなたとずっと一緒にいられたんですか」
真っ直ぐに問われたその答えを、僕は持ちあわせていなかった。
あの頃の僕がもう少し強かったら、僕がもっとジェイドのことを信じられていたら、そしたらきっと、僕はジェイドの成長を諸手を挙げて喜んでいただろう。
僕のパートナーはなんて優秀なんだろうと素直に喜んで、そんなジェイドに愛される幸せを享受できただろう。
でもあの頃の僕はそんなジェイドを受け入れる自信がなくて、ジェイドに別れを告げたのは僕自身の問題で、ジェイドは何も悪くなかったのに。
「答えられないのなら、あなた自身の手で終わらせてください」
「え……?」
無意識に俯いていた顔をぼんやりと上げると、呼び寄せ魔法を使ったジェイドの手の中に懐中時計のようなものが現れた。
シルバーのチェーンに繋がれた円形の部分には文字盤のようなものが見えるけれど、数字の配列が普通の時計よりも複雑で針が五本も付いている。
「それは?」
「卒業式の日、あなたと完全に決別したあと僕がサムさんから購入したものです」
「え……っ、じゃあそれが3億マドルの……!?」
「そうです」
今ジェイドの手の中に3億マドルがあると思うと、一体その時計のようなもののどこにそんな価値があるのかとまじまじ見つめてしまう。
「ふふ、気になりますか?」
「そりゃ……。一体何に使うものなんです? 普通の時計とは違うようですけど、やっぱり歴史的価値のある魔法道具なんですか?」
「えぇそうですね。これは数百年前に作られてから幾度も所有者を変えて魔法士だけに受け継がれてきたものなんだそうです」
「へぇ……、なぜそんなものがあの購買に……」
と言っても今更だけど、代々所有者を変えてきたその貴重な品が、今ジェイドの手の中にあるというのはどんな巡り合わせだったんだろう。
そしてそれは、あの時のジェイドが本当に求めていたものだったんだろうか。
「これをあなたにお譲りします」
「え……、は!?」
「僕には使えなかったので」
「使えなかったって、それは一体何に使うものなんです? お前が使うために購入したんじゃなかったんですか」
「えぇ。もちろんそのつもりでした。ですが、僕にはどうしてもできませんでした」
「できなかったって一体……」
「これは、自分の過去に飛べるアイテムなんです」
「自分の過去……?」
「はい。ただしひとりが使えるのは三度だけ。三度使用すると所有者の権限は消滅し、使用権は次の所有者へ移ります。そうしてこの時計は何百年も受け継がれてきたそうです」
「えぇ……! 時空を超えるアイテムなんて国宝ものじゃないですか! いや国宝レベルでもそんなのあり得ませんよ」
「ふふ、そうでしょう? そう考えると3億マドルはお買い得だと思いませんか?」
「そう言われてみれば確かに……、っていや! それにしたって学生に売りつけていいような代物じゃないだろう!」
「その時はもう卒業しておりましたので」
「だとしてもですよ! 第一使ってみないと効果がわからないのにぼったくられたんじゃないですか?」
「まぁそうですねぇ。サムさんも実際に使用してはいないらしいので、効果は使ってみてのお楽しみというところでしょうか」
「お前な……。で、どうしてそれを僕に? そもそもジェイドはそれを使って何をするつもりだったんです」
「僕はそれで、あなたがオーバーブロットした日に戻ろうと思っていたんです」
そう言ったジェイドの瞳が、ほんのわずかにきゅっと細められた。
忘れもしない、僕がオーバーブロットした日。レオナ・キングスカラーに黄金の契約書を砂にされ、僕がみっともなく泣き喚いたあの日。目が覚めた僕に、ジェイドがはじめて好きだと言ってくれた日。
「……それは、つまり」
「えぇ。あなたへの告白を、なかったことにしようかと」
やっぱりそうかと納得する一方で、僕はひどくショックを受けていた。ジェイドにとってはそれが最善なのかもしれないと思いながら、とてもすぐには受け入れることができない。
「もしもあなたと恋人同士になっていなければ、僕たちはきっと違う形で一緒にいられたと思うんです。僕は分を超えてあなたに接することなく、あなたは恋人の僕にほど依存を強めることもなく、ただの幼馴染としてビジネスパートナーとして、あなたの右腕として、僕はずっとあなたの隣にいられたんじゃないかと」
「……お前は、本当にそれを望んでいるんですか」
「えぇ。そうすればフロイドと仲違いをして寂しい思いをする事もありませんでしたし、ずっと三人で楽しくやれたでしょう? 僕があなたが嫌悪するような暮らしに堕ちる事もなかったでしょうし」
「別に嫌悪してるわけでは……」
「無理をしなくてもいいですよ。救いようのないクズの自覚はありますので」
「……でも、本当にそう望んでいるならどうしてできなかったんです。使用者に何か細かな条件でも?」
「いえ、単に僕の気持ちの問題です」
「気持ち?」
「えぇ。僕は、できることならずっと三人一緒にいたかったと今でも心から思っています。でも、あなたの恋人として過ごした時間も僕にとっては本当に大切なものだったので」
ジェイドは本当に困っているように眉を下げ、目を細めて悲しそうに微笑んだ。
「どうしても、自分の手でなかったことにはできませんでした」
じゃあなんでだよと叫びたかった。
ジェイドが今もそんな風に思ってくれているなら、僕だってなかったことになんてしたくない。
僕にだってジェイドと過ごした時間は大切な宝物で、本当にしあわせな時間で、失くしたくなんか
「でも、あなたと別れてから僕はずっと苦しい」
なんでとは、とても言えなかった。
僕はジェイドの苦しみを分かってやれない。
恋人だった時でさえジェイドのことをちゃんと見てあげられなかった僕に、別れた後の苦しみなんて理解してやれるわけがなかった。
「あなたのいない毎日は面白いくらい退屈で、誰といても何をしていても僕はいつもあなたのことを考えていました。そしてその度にずっと苦しかった。もうあなたのことを思って苦しむ毎日は嫌なんです」
「……これから、やり直すことはできないんですか」
「またいつかあなたに捨てられるかもしれないと怯えながら?」
「それは……」
「どうかあなたの手で終わらせてくれませんか。どうせ捨てるなら初めから慈悲なんてかけないで欲しい。僕が何を言っても受け入れないで欲しいんです」
心から懇願するような悲痛な面持ちのジェイドを見て、僕の決心がぐらりと揺らぐ。
過去の過ちをなかったことにはできないと思っていたけど、ずっと苦しんできたジェイドの苦しみを取り除いてやれるなら、それをできるのが僕だけなら、僕が今本当にすべきことは。
「お願いします。僕をまだ少しでも大切だと思ってくださるなら、どうかこの苦しみから僕を解放して。僕に恋をしないあなたと、違う未来を一緒にいさせて下さい」
僕はもう一度自分の心に問う。
僕が心から望むのは恋人として隣に居てくれるジェイドなのか。
それとも、なんの憂いもなくただ僕の隣で笑ってくれるジェイドなのか。
過去を変えることでジェイドがこれまでの苦しみから解放されて健やかでいられるなら、ジェイドとフロイドが僕の両腕としてずっと隣に居てくれるなら、僕の恋心は、なくてもいい。
「お前が、心からそう望むなら」
「ありがとうございます。あなたの慈悲に感謝いたします」
「よく聞いて下さいねアズール。針は全部で五本。まずは一番長い針を今から何年前に飛ぶかに合わせます。あくまでも自分の過去なので生まれる前には飛べません。十年前なら10に、五年前なら5に。一番外側の数字に合わせます」
「なるほど……、分かりました」
「はい。では残りの四本は長い方から順番に日付と時刻です。何月、何日、何時、何分。長い方から順ですよ、間違えないでくださいね」
「長い方から日付と時刻ですね」
「そうです。一度のワープで滞在できるのは1時間までです。1時間を超えると強制的に現在に戻されますので注意してください。ただし1時間経っていなくても針を操作すれば他の時間には飛べます。何年前に飛ぶかはあくまでもあなたが今現在存在している本来の時間からの計算なのでそれも注意してください」
「分かりました。操作方法は覚えました」
「では、ほんの少しでいいのであなたの魔力を時計に注いでいただけますか」
「分かりました。……これでいいですか」
「はい。では今をもって、この時計の所有権は僕からあなたに移りました。これでこの時計を使えるのは今現在あなただけです」
「なるほど……所有者の魔力に反応して使用回数をカウントするんですね」
「えぇ。ちなみに戻ってくるのは飛んだ時点の場所と時刻ですので、どこかひと気のないところで使うことをお勧めします」
「ここではダメですか?」
「もし未来が変わったらあなた知らない人の病室に飛ぶことになりますよ」
「なるほどそういうことか……。分かりました。場所はこれから考えます」
「えぇ、あなたのご自由に」
「それで、もし僕が過去を変えたとしたら今ここにいるお前はどうなるんですか」
「さぁ……、少なくとも強制的に変身を解除されて傷だらけで病院に運び込まれるような事にはなっていないんじゃないでしょうか」
「……その場合、僕の記憶はどうなるんでしょう。今まで僕が経験してきたことはなかったことになるのか……?」
「それも実行してみない事にはなんとも」
「わからない事ばかりですね」
「申し訳ございません」
「まぁいいです。とにかくやってみるしかありませんね」
「お願いします。良い結果になることを祈っていますよ」
「えぇ本当に」
もし万が一これがもっと悪い方向に転んだりしたら本当に笑えない。そんな事になったらいよいよフロイドに合わせる顔がないというものだ。
ジェイドを連れて帰るとフロイドに約束したんだ。
今度こそ、ジェイドとフロイドが離れ離れにならずに済む未来を選ばなくては。
「ではジェイド、また会える日を楽しみにしています」
「えぇ。次に会うのはあなたのオフィスかもしれませんね」
「だといいですね。……ではまた必ず」
「はい、いってらっしゃい。良い旅を」
妙にすっきりとした顔でにこやかに笑うジェイドは、あのカフェの水ぶっかけられ事件で再会して以来一番のイイ笑顔だった。
愛想よく手まで振ってにこやかに送り出してくれて、それでも結局、ジェイドは再会して以来一度も僕の名前を呼んではくれなかった。
ジェイドの病室を出て、僕は学園の裏の森に向かった。
あそこなら普段めったに人もいないし、居たとしてもNRCの関係者だから突然人がいなくなったり現れたりしても少し驚くくらいで済むだろう。
万が一何かあればすぐにサムさんの店にも行けるし、本当に緊急事態になれば学園長も渋々ながら手は貸してくれるはず。
まぁあの人たちにこれ以上借りを作るなんて御免だからそんな事態にはならないことを祈るけど、念には念をだ。
学園の敷地に入るとまっすぐに森へ向かい、そこでもなるべく人の来なそうな場所を選んで僕は木陰に腰を下ろした。
卒業してからもうずいぶんと経つのに、一体こんなところでコソコソと何をしているんだと自分に呆れながら、僕はジェイドから譲り受けた懐中時計をポケットから取り出す。
手の中にすっぽりと収まってしまうそれに3億マドルもの価値があるなんて俄かには信じられないけれど、ジェイドから聞いた効果が本当にあるのだとしたら確かにそれだけの金額になってもおかしくはない。
使用回数がたった三度とは言え、自分の過去に戻ってもう一度やり直せるならば、なにがなんでも欲しいと思う人間がいるのは当然なのだろう。
ただ僕自身に、過去に戻ってでもどうしてもやり直したいことがあるかと問えば分からなかった。過去をなかったことにはできないとずっと思ってきたけれど、それが可能だとして、僕がやり直すとするならば。
思考の海に深く沈み込みそうになって、いやそうじゃないと僕はブンブンと頭を振った。
僕は自分のためにコレを使うんじゃない。
ジェイドを苦しみから解放する為に、僕は過去に戻るんだ。ジェイドの望む通りジェイドの告白を受け入れず、聞こえなかったふりでもしてやり過ごせばいい。そうすればきっとジェイドもそれをなかったことにして、当たり前のように僕の右腕として隣にいてくれるはずだ。
僕たちは恋人同士になることなく、付かず離れず、僕がジェイドを突き放すこともなく、きっとフロイドと一緒に同じ未来を共に。
それだけ忘れなければいい。
三人の未来を手に入れるために、自分の恋は捨ててもいいと決めたんだから。
僕は改めて手の中の懐中時計に視線を落とし、ジェイドに教わった通りに針を合わせていく。
僕がみっともなく泣き喚いてオーバーブロットしたあの日のことは忘れようもない。
ナイトレイブンカレッジ二年生だったあの頃、モストロラウンジを作って寮長に就任して、何もかも順調だと思っていた僕の自尊心を、全て打ち砕かれたような気がしたあの日。
それまで僕が必死に積み重ねてきたものを一瞬で失って、やっぱり僕はグズでノロマな蛸に過ぎないのだと、突きつけられたようなあの絶望。
長い時間をかけて掻き集めた能力を全て失った僕には、なんの価値もないのだと思い知らされた気分だった。
あの時はとにかく黒くてドロドロな感情に支配されて、冷静な思考なんて全く働かずただ黒い衝動だけに突き動かされていた。
だからそんな風になった僕に、ジェイドもフロイドもきっと愛想を尽かしてしまうだろうと思っていた。
でも実際にはそんなことはなくて、ふたりは変わらず僕の隣にいた。
寮生からの信頼は少なからず失ったし、一部の生徒たちからの見る目はあからさまに変わったけれど、僕は本当に大切なものはなにひとつ失っていなかった。
長い時間をかけて蓄えた知識が消えたりはしなかったし、元々悪かった頭を必死に働かせて向上させた学力が落ちたりもしなかった。僕が寮長であることも変わらず、モストロラウンジを取り上げられたりもしなかった。
僕はただそれまで集めてきた他人の能力を失っただけで、自分自身が積み上げてきた知識も学力も自信も、大切な両腕も、なにひとつ失ってはいなかったんだ。
そしてそれは結果として、僕の人生のいい転機になったのだと今となっては思う。
失ったものはまた取り戻せばいい。
悪いものは全て捨て、より良いものを作り出せばいい。
その為にやりたいことはいくらでもあるのに時間は有限なのだから、僕は立ち止まっているヒマなんてないのだ。やりたい事は全てやる。欲しいものは全て手に入れる。そしてそれを達成できるかどうかは、全て自分のこれからの行動にかかっている。
そう思えたことが、あの日の僕を更に強くした。
そしてそう思わせてくれた一端は、間違いなくジェイドとフロイドの存在だ。
もしもあの時ふたりに愛想を尽かされていたら、僕の行先は前途洋々とはいかなかっただろう。リーチ兄弟に見放された僕に寮生達はついてきてくれなかったかもしれないし、ふたりを欠いたモストロラウンジの経営がどうなっていたかもわからない。
もちろん僕ひとりでもできる限りの手立ては打っただろうけど、信用の回復にはきっと時間がかかっただろう。
だからあの日、オーバーブロットから醒めても僕の傍に居続けてくれたふたりに、今度は僕から恩返しをしなくては。
五本の針を全てセットして、あとはリューズを押し込めば僕は過去に転移する、らしい。
一度に滞在できるのは一時間だけだと言うから、僕は慎重に記憶を探って時間をセットした。
あの日ジェイドが僕に告白したのは、オーバーブロットから醒めて部屋に戻されたあと、日付も変わる間際の事だった。
疲れ切って消耗はしていたけれどぐっすりとは寝付けず、寝たり覚めたりを繰り返していた時にドアがノックされて時計を確かめたのを覚えてる。
こんな時間に誰だろうと思いながら、こんな時間に僕の部屋を訪ねてくる奴なんてふたりしかいないことを僕はとっくに知っていた。
全ての針が正確にセットされていることを何度も確かめ、僕はリューズに指をかけた。
使用回数が3回に限定されている上、一度の滞在時間が1時間という事はその1時間には1億マドルの価値があるというわけだ。1億マドルあったら僕ならあれをしてこれをしてと、余計なことを考えそうになるのを必死に振り払って僕は意を決する。
過去を変えて現在に戻ってきた時、今の僕とジェイドがどうなっているかはやってみなければ分からない。
チャンスは三度だけ。
失敗すればもう何があっても僕たちに未来はない。
でも失敗を恐れていてはこの先に進む事はできない。僕は今度こそ覚悟を決め、懐中時計のリューズを押し込んだ。
目を開けると、そこは懐かしいオクタヴィネル寮の寮長室だった。
暗い室内に窓の外から差し込む光はなく、今は海上から陽の光が届かない夜であることがわかる。そして体が異様に重く、泥のようにベッドにへばりついて起き上がれそうにない。
なんとか顔だけを動かしてベッドサイドの時計を見れば、針は11時50分を指していて僕は心の中で「よし」と呟いた。
時刻は僕が指定したものとピッタリ同じ。そして体が上手く動かないこの状況を考えれば、僕は正確に時空の転移に成功したらしい。
そして僕は改めて室内に視線を走らせる。
照明の灯っていない室内は真っ暗だったけど、少しするとその暗闇にも慣れて部屋に置かれている家具や調度品が目に留まるたび懐かしい思い出が次々と甦る。
あぁここは確かに僕が二年間を過ごしたあの場所だ。
この場所でジェイドに告白されてそれを受け入れ、僕たちはただの幼馴染から恋人になった。
他人に言わせれば僕たちは「ただの幼馴染」なんて言葉では括れないほど近しい関係に見えていたようだけど、僕たちにとっては本当にこの日までただの腐れ縁に過ぎなかった。
互いに心の中ではどう思っていようと、少なくとも表面上は。
でもこの日を境に僕たちの関係は変わった。
そしてはじめてキスをしたのも、はじめて体を重ねたのもこの場所で、僕とジェイドはここからいろんな「はじめて」をふたりで経験していった。
恋人としてのケンカも仲直りも、たくさん繰り返してそれでも僕たちはずっと一緒だった。ジェイドが僕を心から愛してくれているのを知っていたから。そして僕も同じ気持ちで、時には互いに意地を張ってフロイドの助けを借りながら、ずっとしあわせだった。
でも僕は今からその全てをなかったことにしようとしている。
ジェイドの気持ちも僕の気持ちも見て見ぬ振りをして、はじめからなかったことにして、三人のために違う未来を選ぶ。
それが僕たちの最善なのだと言い聞かせ、数分後に迫った分岐点にバクバクと早鳴る心臓をなんとか抑えつける。
大丈夫。
なにも心配することなんてない。
きっと全てうまくいく。
コンコンコンと素早く3回、廊下側からドアを叩く音がしてどきりと心臓が跳ね上がる。
時間帯を気にしてのことか気づかなければそれでいいと思っていたのか、いつもより控えめに、静かにノックされたその音にあの日の僕はすぐに気付いた。
あんなことがあった後で気まずくて、本当なら寝たふりをしてやり過ごしても良かったはずなのに、僕はなぜか、そうできずドアの向こうへ声をかけた。
「はい。どなたですか」
誰が来たかなんて分かりきっているのに、僕はあの日と同じようにそう言った。
あの日も僕はジェイドかフロイドだろうとあたりをつけておきながら、恐らくジェイドだろうと、半ば確信しながらそう言ったのだ。
「……ジェイドです」
そしてすこし驚いた様子でためらいがちにそう言ったジェイドに、僕は魔法でドアを解錠して「どうぞ」と促した。そうすればジェイドはおずおずとドアを開き、細く開いたドアから滑り込むように部屋に入ってすぐにドアを閉めた。
「申し訳ありません、起こしてしまいましたか」
「いえ、ちょうど目が覚めたところだったので」
「眠れないんですか?」
「すこし眠りが浅いだけですよ。寝たり起きたりしてしまって」
「そうですか」
自分から訪ねてきたくせに、ドアのところに立ったまま動こうとしないジェイドの表情はよく見えなかった。体が重くて起き上がるのもだるいから、僕はなんとか顔だけを向け暗闇に目を凝らしてジェイドの表情を窺う。
「そんな所に立ってないでこちらへ来たらどうです。何か用があったのでは?」
「用と言うほどのことではないのですが……」
「用もないのにこんな時間にどうしたんです」
そう言ってやるとジェイドは渋々といった様子で足を進め、僕は枕元の読書灯をつけてベッドサイドだけほのかに明かりが灯る。
そうしてジェイドの顔がやっと見える所まで来ると、僕はその顔を見てぎょっとした。
エッ、わっっっっか!
ジェイド若……、え、は?? ジェイドってこんなに幼かったか??
肌とかめちゃくちゃきれいだし(今もきれいだけど)触らなくてもわかるくらいつるつるすべすべで、今よりすこしふっくらしてると言うか、いや今が痩せ過ぎてるだけかもしれないけど張りがあって柔らかそうで……、とにかく若……っ! 十代のジェイドってこんなだったのか!?
目の前のジェイドの姿にあまりに驚きすぎて若干語彙力が低下しながらも、僕はまじまじとその若いジェイドを凝視してしまう。
17歳のジェイドなんだから今より若いのは当然も当然で、酒とタバコに浸って不摂生を繰り返した大人のジェイドと比べれば肌質や髪質が格段にいいのは当たり前なのに、目の前のジェイドが僕の記憶の中のジェイドよりもずっと幼く見えて僕は我が目を疑った。
若い……というか幼い。
学生時代のジェイドは同じ年代の生徒達の中でも大人びていて、顔が整っているから余計そう見えたのかもしれないけど、落ち着いていて常に冷静で、ともすれば少し冷たいような印象を持たれがちな男だと思っていたのに。
それなのに今僕の目に映るジェイドはとても幼くて、ちょっとかわいい……とすら思ってしまう。
あの頃はそんな風に思ったことなんかなくて、いつも完璧にかっこよくて澄ましてて僕を揶揄ってくるジェイドの事をすこし憎らしいとすら思っていたのに、大人になってから見るとこんなにも違って見えるなんて。
そんな新鮮な感覚に驚きながらも、僕は本来の目的を思い出してなんとか気持ちを切り替える。
僕は今からここでジェイドの告白を受けるのだ。そしてそれを、僕はなかったことにしなくてはならない。
「こんな時間にどうしました?」
「すみません、あなたの様子が気になってしまって」
そう言ってジェイドは笑顔を浮かべたけれど、ジェイドがこんなに笑うのが下手くそな男だったなんて、僕は知らなかった。
昔も僕はこの顔を見たはずなのに。
あの日の僕は自分のことで精一杯で、ジェイドがどんな気持ちで部屋に訪ねてきたのかなんて、推し量ることもできなかった。
だからきっと僕を不安にさせまいと浮かべた作り笑いに、僕は単純に、安心していたんだ。
あんなことがあってもジェイドは僕を見捨てなかった。
僕を心配して会いにきてくれた。
ただ、そのことがうれしくて。
だから僕は、ジェイドがこんなにも不安に押しつぶされそうな笑顔を浮かべていてことに気付けなかった。
幼い僕は幼いジェイドの不安を読み取れず、ただ、ジェイドがまだここに居てくれる喜びを噛み締めていた。
「アズール」
僕を呼ぶ声にぎゅっと胸が詰まる。
ずっと聞きたかったその言葉。
僕の名前を呼ぶ、ジェイドの声。
それがすこし震えていることさえ、あの日の僕は気付けなかった。
でも僕が聞きたかったその声は、今の僕を呼ぶものじゃない。
ジェイドが切実に欲してやまなかったのは、あの日の僕。
まるで僕がそこにいる事を確かめるかのように、僕の存在をなぞるように、ジェイドの声が僕を呼ぶ。
「アズール」
呼ばれるたび心が震えた。
ジェイドが呼んでいるのが今の僕でなくとも、あの日気付けなかったジェイドの想いが、今の僕の胸に深く刻まれる。
「あなたが生きていてくれて良かった。もしあなたがいなくなってしまったらと思うと、僕はとても怖かったんです」
こんな風に心情を吐露している時でさえ、泣き喚いたりしないジェイドを僕はとても冷静な男なのだと思っていた。
「怖かった」と口では言っていてもその口調は落ち着いていて、でもそんなジェイドが僕に面と向かって素直な感情を告げてくれていることに、あの時の僕は喜びすら感じていた。
それがジェイドにとってどれほどの恐怖だったか、そこには少しも目もくれず。
「そして気付いたんです。僕にとって、あなたを失うより怖いことはないと」
あぁ。
ジェイドはこの時こんなにもはっきりと僕に伝えてくれていたのに。
僕はどうして、そんなことを忘れてしまえたんだろう。
僕は自分の自信のなさのせいでジェイドを捨てた。僕を失うことが何よりも怖いと言ったジェイドから、僕は僕を奪った。
ジェイドはこんなにも率直に打ち明けてくれていたのに。なにひとつ受け止めてやることができず、僕は。
「……こんな気持ちを伝えたら、あなたが僕を遠ざけてしまうかもしれないと思ってずっと言えなかったんです。でも、あなた自身を失ってしまったらもう二度と伝えられないので」
ジェイドの色違いの瞳が、まっすぐに僕を見て小さく揺れる。
「すきですアズール」
そしてもう一度、僕はその言葉を聞いてしまった。
「どうか、僕をずっとあなたの隣に居させてください」
あぁ。
あぁ……。
あの時ジェイドはこんな顔をしていたのか。
あの日の僕はジェイドの言葉が嬉しすぎて、舞い上がって、まともな思考なんて働かなくて、ジェイドの表情をちゃんと見てあげられなかった。
かっこよくて完璧なジェイドから告白されたとばかり思っていたのに、ジェイドがこんなにも不安気に、思い詰めたようにその言葉を口にしてくれた事を、僕は今になってようやく知った。
きっとなけなしの勇気を振り絞って伝えてくれたであろうジェイドに、胸がいっぱいになって全身が震えるほどの愛しさが込み上げる。
僕はこの瞬間、確かにジェイドを愛していた。
きっといつか離れていくだろうと思っていた男はいつまで経っても離れていかず、それどころかずっと隣に居させてくれると乞う。
その喜びに、打ち震えたのはその時も同じだった。
ジェイドは自分が何を言っても受け入れないでほしいと言った。
どうせ捨てるなら最初から慈悲なんてかけるなと。
でも、でもこれは慈悲なんかじゃない。
ジェイドが精一杯に伝えてくれた心からの想いを、嘘で跳ね除けるなんてどうしてもできない。
僕は僕のエゴで、ジェイドを受け入れたいと思ってしまった。
「僕も、ジェイドがすきです」
そう言った瞬間ジェイドの瞳が驚きに見開かれたのを見て、僕は思わず笑ってしまった。
あの日もそうだった。
うれしくてうれしくて、ジェイドの言葉を疑うこともせずぽろりと返した言葉に、ジェイドが驚いているのがあんまりおかしかった。
自分から言ったくせに固まっているから面白くて、もう一度言ってやるとジェイドがようやく呼吸を思い出したみたいにヒュッと息を呑む。
「すきですよジェイド」
「あ……、あの、僕が言っているのは恋愛的な好意のことでして……」
「僕もそうですけど」
「……っ」
しれっと返してやればジェイドは言葉を失い、さっきまで澄ましていた(と思い込んでいた)顔をみるみる真っ赤に染めて目を泳がせた。
そういえばそんな事もあったなと、思い出して僕はますます可笑しくなってしまった。
普段は冷静沈着で僕をおちょくる事を楽しみにしているような奴が、好きだと言ってやっただけでこんなに動揺して。
あぁそうだ。
確かにこうだったと思い出して、今度は涙が溢れそうになる。
なんだ。
僕はちゃんと知ってたんじゃないか。
ジェイドの完璧じゃないところも、僕のひとことで簡単に動揺してしまうようなところも、いろんなジェイドをたくさん、ずっと見てきたはずなのに。
「あの、アズール……」
涙を流す僕に、ジェイドがわたわたして慌てて涙をぬぐってくれる。
そう言えばあの日も僕は泣いていたっけ。
ジェイドの想いを知れた喜びと、オーバーブロットの時のどろどろな感情が入り乱れて情緒がめちゃくちゃだったのをなんとなく覚えてる。
でもジェイドが隣で手を握ってくれたから。
あの時はこんなおっかなびっくりに及び腰で握られていたなんて全く思わなくて、ただジェイドがそこに居てくれることの安心感を力強く感じていた。
だから僕はぐちゃぐちゃの情緒の中でも素直にジェイドに甘えられたんだと思う。今思い出すとちょっと、かなり恥ずかしいけど。
「ジェイド、両思いなんだから僕たちは今日から恋人ですよね?」
「え……っ、あなたがそう思ってくださるのなら……、はい。そうだとうれしいです」
「ふふ、では今日からは恋人としてよろしくお願いしますねジェイド」
「はい……。よろしくお願いしますアズール」
「ところで、せっかく部屋にふたりきりなのに恋人らしいことはしてくれないんですか?」
「え…………っ」
「あはは、お前案外ウブなんですね。意外です」
「あなたこそ……、なんだか慣れてらっしゃるようで意外です」
「慣れてるわけないだろ。恋人なんてジェイドが初めてですよ」
「……っ、そういうところですよアズール」
「なにがです? まぁいいですけど、ちょっと起こしてもらえます? 上手く力が入らなくて」
そう言ってジェイドに両手を伸ばせば、ジェイドはほんの一瞬ためらった後、すっと体を寄せて僕の背中に手を回すようにしながら抱き起こしてくれた。
そうしてヘッドボードに背中を預けるように体を起こした僕は、抱き起こしてくれたジェイドの首にそのままぎゅっとしがみつく。
「アッ、アズール……っ」
「ふふ、人魚の時は分からなかったですけど、人間の体はなかなかいいものですね。こうしてるとお前の体温が伝わって心地いいです」
体温だけじゃなく、ばくばくと煩く跳ねるジェイドの心音までが伝わってきて僕までドキドキしてしまう。
ジェイドとはこの先散々いろいろなことをしたけど、この時この体の僕がジェイドとこんな風に抱き合うのははじめてで、どさくさ紛れに抱きつきながらすごく緊張したのを覚えてる。
伝わる体温が温かくて心地よかったのは本当だけど、温かかった体がどんどん熱くなっていく感覚がすこし気恥ずかしかった。
人間の体同士でそんな風にぴたりと触れたのははじめてだったのに、もっとずっと触れていたくて離れられなくて。
今回のことでさすがにもう僕を見放すかもしれないと思っていたジェイドと、こんな風に抱き合っていることが信じられないくらいに嬉しかった。
そしてそう言えば、僕はこの後ジェイドとはじめてのキスをしたんだ。
ぎゅうぎゅうに抱き合っていると離れるタイミングがわからなくて、離れたくないけどずっとこうしているわけにもいかなくて、いつかは離さなきゃいけないのにいつ離したらいいかわからない。きっとお互いにそうで、ずっとドキドキして離れたいような離れたくないような、はじめての経験に頭の中がぐるぐるになって、それで結局プチパニックの僕がジェイドの頬にキスを……。
思い出してカッと顔が火照る。
あぁあの頃の僕はなんの経験もなかったくせに意外と積極的だったらしい。でもだって、せっかく両思いだとわかって好きな人と恋人になれたんだから恋人らしいことをしたいと思うのは普通じゃないか? 普通に決まってる。
そうだから、僕はぜんぜん悪くない。
ジェイドはどんな顔をしてるんだろうとチラリと視線を上げれば、ピチピチの17歳のジェイドが照れ臭そうにはにかんだ笑顔で下手くそに笑った。
う……っ。もうダメだかわいすぎる。
あの頃こんなかわいいジェイドを見逃していたなんて十代の僕は一体ジェイドの何を見てたんだ。……いや僕だって初めてのことばかり戸惑っていたし、同い年の男として見れば「かわいい」なんて感覚にはなれなかったのかもしれないけど、でも、あの時のジェイドはこんな風に僕を見てくれていたのか。
そう思うとまた愛しさが込み上げて、僕はたまらずジェイドの腕の中で伸びをしてその頬に唇を寄せた。
音も立てずただ触れるだけのキス。
でもジェイドにそんな風に触れたのはうまれてはじめてで、キスをした僕もされたジェイドも何が起こったのか分からずしばらく固まってしまった。
もしかして嫌だったのかなと、恐る恐る顔を覗き込めばジェイドがあり得ないほど真っ赤になっていて、僕はやっぱり笑ってしまったんだ。
お前でもそんな顔をすることがあるんですねとしたたか笑ったら、ジェイドは子供みたいにヘソを曲げてあなたにそんなことされると思っていなかったんだからしかたないでしょうと怒って。
でもジェイドが怒っていたのなんてほんのすこしの間で、僕がもう一度頬に不意打ちのキスをしてやったら口をぱくぱくさせて、それから仕返しみたいに抱きしめられて顔中にキスしてくるからしばらくそうやってじゃれ合って、ふたりしてはぁはぁ言いながら一体なにをしてるんだとふと冷静になったかと思えば、今度は急に真剣な顔をしたジェイドにどきりとした。
そういう顔をしているとやっぱりすこし大人びていて、無意識に見惚れているとその顔が少しずつ近づいて来る。
あっ、これはついに……! と思ったら、土壇場で口の端ギリギリにキスをしたヘタレなウツボに僕はムッと眉を顰める。そして襟元を掴んで強引に引き寄せ、今度こそ僕はジェイドに唇を重ねた。
一度ちゅ、と吸い付いてすぐにはなし、それからまたすぐにもう一度唇を押し付ける。
今度はさっきより長く、はむはむと弄ぶようにして最後にぺろりと唇を舐め、勝ち誇った顔をしてやれば、ジェイドは一瞬放心した後すぐに反撃を開始した。
ジェイドの大きな手に両頬を包み込まれて動けなくされて、窒息しそうなほどの長いキスに頭がクラクラとする。酸素を求めて開いた唇の隙間からジェイドの舌が入り込み、口内まで余すところなくその長い舌に触れられてどうにかなりそうだった。
さっき起こしたはずの体はとっくにシーツに押し付けられていて、はじめてのことで余裕もなく僕の上にのしかかるジェイドの重みが心地よかった。
そうしてはじめて抱き合った時と同じに終わり方なんて分からず、僕らは何度も何度も繰り返しキスをした。重ねても重ねても足りなくて、欲張りな僕らはお互いを貪るように求め合ってまたキスを繰り返す。
ファーストキスってなんだっけ。
確か甘酸っぱい味がするとかなんとか言ってなかったか。
僕たちのはじめてのキスは、そんな爽やかさとはかけ離れた、深くてドロドロなキスだった。
ハッと気付いた時、僕は森の木陰に座っていた。
慌ててスマートフォンを確かめてみても全く時間は進んでいなかったけど、どうやら向こうで一時間が経過して強制的に引き戻されたらしい。
頭の中はまださっきまでのキスの余韻に浸りながら、しかし数分もすれば僕の意識はじわじわと現実に引き戻されていく。
そして完全に正気になった所で僕は頭を抱えた。
なにをやってるんだ僕は!!!!!!!!
一体何をしに過去まで行ったと思ってるんだ!
ジェイドの告白を聞かなかったことにしなきゃいけなかったのに、めちゃくちゃに流されてあっさり受け入れた挙句、普通にイチャイチャタイムを堪能して帰ってきただけじゃないか!!!!
あぁ一体どうしてこんな事に。
チャンスは3回しかないというのにすでに1億マドルをドブに……、じゃなくて1回分を無駄に使ってしまった。
ジェイドの望みを叶えてやるために過去に行ったはずなのに、僕は結局自分のエゴを押し通してしまった。
本当にそんなつもりじゃなかったのに。
ジェイドと一緒の未来を選ぶために過去に飛んだはずなのに。
どうしても、あの時のジェイドを跳ね除けるなんてできなかった。
自分の意思の弱さを呪いながら、僕はもう一度今見てきたものを頭の中で反芻する。
あの頃の僕が見逃していたジェイドの表情や、気づけなかったジェイドの気持ち。それを知れたことは、僕にとって本当に無駄だったんだろうか。
今の僕が知ったところでジェイドの苦しみが消えることはないし、ジェイドにとってはなんの意味もない事なのかもしれない。
でも僕にとっては?
過去に飛んで、僕はあの頃の自分の気持ちを改めて再確認した。
僕は間違いなくジェイドを愛して必要としていたし、ジェイドも僕を大切に思ってくれていた。
あれから過ごしたふたりのしあわせな時間は決して嘘なんかじゃないし、ジェイドも僕も本当はそれをなかった事になんてしたくない。
だったら、なかった事にしないまま、ジェイドがその先苦しまずに済む道を選ぶべきじゃないか?
ジェイドは恋人にならずに一緒にいたいと言ったけど、恋人のままずっと一緒にいれば全て解決じゃないか。
つまり、三年の終わりに僕がジェイドに別れを告げなければいいだけの話だ。
あぁ、どうして今までそんな簡単な事に気付かなかったんだろう。そうだそれがいい。
僕たちが別れなければ何も問題はないんだから。
過去から戻ってから来たばかりの僕は、すぐさま次に飛ぶべき日を決めた。
ジェイドと一緒の未来を選ぶ為のチャンスはあと2回。
三年生の最後の日、ジェイドに別れを告げたその日に、僕はいかなければならない。