夜を越えて 前編 最初の印象は、何を考えているか分からない胡散臭い男。
いつも貼り付けたような笑みを浮かべ、表面上は穏やかで誰にでも愛想良く隙がない……の割に好き嫌いははっきりしているようで、僕を見るたびスッと表情を失くし不機嫌を隠そうともしない感じの悪い奴。
一体僕の何がいつあいつの逆鱗に触れたのか、僕には全く身に覚えがないというのにとにかくいけすかない嫌な奴だ。その上見るたび違う女を連れて歩いている節操なしで、毎晩取っ替え引っ替えあちこちの女の所を渡り歩いているような女癖の悪い最低のクズ。
「相変わらずですね、お前の片割れ」
「あ? なに?」
そのいけすかないクズとほとんど同じ顔で、僕の隣を歩くフロイドに兄弟のいる方を指してやれば、フロイドはパッとそちらを見てすぐに納得したような顔をした。
「あーね、ナニ、気になる?」
「別に。そういうお前はどうなんです。兄弟として思うところはないんですか」
「えーオレは別に」
ジェイドの自由だし、と言ったその声は本当に気にもしていないようで、まぁこの年の兄弟ならそんなものかと僕も納得する。納得したのにフロイドが、なぜかニヤニヤと僕を覗き込むからついムキになって「なんだよ」と返せば、また「別に~」と意味ありげに笑うからますます気になってしまう。
「言いたい事があるならはっきり言ったらどうですか」
「別にないって」
「じゃあその顔やめろ。ニヤニヤしてうっとおしい」
「えー、だってアズールがジェイドのこと話すなんて珍しいから。すげー仲悪いのに」
「別に悪くありませんよ。あっちが勝手に嫌ってるだけだろ」
「ジェイドに嫌いって言われたの?」
「言われてませんけど、あの態度を見れば明らかじゃないですか」
「ふーん、アズールにはそう見えるんだ?」
「は? 誰が見たってそうだろ」
「オレにはそうは見えねーけど」
「はぁ……?」
一体何を言ってるんだこいつは。
あの誰にでもヘラヘラと愛想のいい男が、僕にだけは愛想笑いすら浮かべず無表情になる理由なんて嫌いだから以外にないじゃないか。
いやいっそ愛想笑いを浮かべる価値すらないくらい無関心なのかもしれない。
「オレきょうだいだから一応ジェイドの名誉のために言っとくけど、ジェイドはアズールが思ってるほどクズじゃねぇよ?」
「不特定多数の女を取っ替え引っ替えしてるような奴が?」
「あはっ、そう言われると確かにクズだけど、それだってちゃんと理由あるし」
「女を取っ替え引っ替えする正当な理由があるならぜひ聞いてみたいですね」
「全然信用ねぇじゃんウケる」
「あいつの人間性は知りませんけど男としてはどう考えてもクズだろ」
「あはは! ジェイドまじでかわいそ」
「かわいそうと言いながら爆笑してるお前も大概ですけどね」
「あはっ、いやでもほんとさ、ジェイドのことちゃんと知ったらアズールもすきになると思うよ」
「今のところすきな要素が一つもないんですけど」
「まじ? 顔とか割とすきじゃない?」
「は? 今そういう話だったか?」
「別になんでもいいんだけどさ。あ、働かせたら超有能だよ。痒いところに手が届くっつーか、アズールが求めてる以上のこと常に返してくると思うよ。ちょっと気持ち悪いくらい」
「それ褒めてるんです?」
でも本当に求める以上の働きをしてくれるならそれはちょっといいな、と思ったのは、相変わらず女と親しげに談笑するその男を見てすぐに吹っ飛ぶ。
前言撤回。あんな女癖の悪い男が僕が作る店に居たんじゃトラブルメーカーになりかね無い。
「まージェイドがいろんな子のとこに行ってんのは事実だけど、別に全員とヤりまくってるわけじゃねーし」
「なんでそんなことわかるんですか。覗き見して歩いてるわけでもあるまいに」
「見てねーけど分かるの。てか全員とヤリまくってたらマジでクズじゃん。ジェイドはただ一緒に寝てもらってるだけだよ」
「一緒に寝てもらってる?」
「うん、まじで寝るだけ」
「いやまさか……、僕らの年代の男女が同じベッドで寝て何もないわけないだろ」
「へーアズールはそういうタイプなんだ?」
「な…っ、違いますよ! 僕は付き合ってもない人と一緒に寝たりしません!」
「あはは分かってるけどさ、ジェイドはマジでただ寝るだけなの。あいつひとりで寝れないんだよね」
「は……?」
ひとりで寝れない?
ひとりで寝れないってってどういう意味だ。小さな子供じゃあるまいし、いい年をした大人がひとりで眠れないなんて本気で言ってるのか。
「ひとりで寝ると怖い夢見るんだって」
「怖い夢? そんなことで??」
「うん、他人からすりゃそんなことなんだけど、ジェイドにとっちゃほんとに大変なことなんだよ」
フロイドはそう言いながら少し目を細め、いつものバカ笑いがすっかり鳴りをひそめてどこか切なげに笑う。
「ジェイドが子供ん時から夢でうなされてんのオレずっと見てたからさ、誰かと一緒にいてジェイドが苦しまないならその方がいいよ」
「子供の頃からずっとって……、それ何かの病気じゃないんですか? きちんと診察を受けた方がいいんじゃ」
「病院ならあちこち行ったよー。あんまり毎日うなされるからママもすげー心配してたし、ママやオレが一緒に寝れば多少マシなんだけどいつまでもそうしてる訳にもいかねぇじゃん」
「それはそうでしょうけど」
「今はオレら二人で住んでるけどオレだって遊びたいしさー、オレ彼女んとこ泊まるからジェイドも女の子のとこ行ったらって言ったら『そうですね探してみます』って言ってそれ以来あちこち渡り歩いてる」
「なんだお前のせいじゃないか」
「せいとかひど。女の子と一緒だと怖い夢見ないらしいからいいじゃん」
「なるほど……、でも本当に一緒に眠るだけの関係なんて成立するんですか?」
「ジェイドが言うにはするらしいけど」
「あいつがそのつもりでも女性の方に下心がある場合もあるじゃないですか」
「あー、それはあるだろうね。ジェイドモテるし」
「でしょう? お前に言ってないだけで普通にヤッてそうですけど」
「それはねぇと思うなー。ジェイド女の子に興味ないし」
「え、それは性的嗜好の問題で? 恋愛対象が同性とか……」
「そういうわけでもなくて、『好きな子以外には』興味ないってこと。オレも一緒に寝てて勃たねーのって聞いたことあるけど反応しないらしいよ。兄弟ながらマジで揺るぎねぇなと思うわ」
「え、あいつ好きな人がいるんですか!?」
「普通にいるけど。超一途でウケるよ」
「は? 一途な男は複数の女性と寝ないと思うんですが……。好きな人がいるならさっさと告白すればいい話じゃないですか。あいつならきっと大概の人は受け入れてくれるでしょう」
「へぇ~? アズールはジェイドのことそんな風に思ってたんだぁ」
「なんだよ……、僕は客観的に予測を言っただけです」
「ふぅ~ん、そうなんだ。『大概の人は』ねぇ」
「だからその顔やめろ。……僕はもう行きます。ではまた明日」
「はいは~い。またねアズール」
とそんな話をしてフロイドと別れた数日後、僕はまた運悪くその一団に遭遇してしまった。
全く、学科どころか学部も違うというのにどうしてこう高確率で会ってしまうんだ。同じクラスの生徒だって何日も顔を合わせないことくらいザラにあるのに、奴がやたらと特徴的で目についてしまうのが悪い。
今日はフロイドも一緒じゃないし、とにかく向こうに認知されて嫌な顔をされる前にとっととこの場を離れよう。そう思って踵を返そうとしたその時、その一団からかしましい声が聞こえてきて思わず振り向いてしまった。
その声は奴を囲んで立つ複数の女子学生から発せられていて、何を言っているかまではハッキリと聞き取れないがどう見てもモメている。
ほら見たことか。フロイドは片割れにやたらと信頼を置いているみたいだけど、不特定多数の女を毎晩取っ替え引っ替えしていて揉めないわけがない。完全なる自業自得で奴に弁解の余地もなければ助けてやる義理もない。よし、さっさと立ち去ろう。
あいつが女性達に責められようが全くもって僕の知ったことじゃない。いやむしろいい気味だと、最後にもう一度振り向いてしまったのが悪かった。
はじめ奴を囲うように群がっていた女子達は今やキャットファイトに夢中になって当人はすっかり置き去りだ。その状況にこれ幸いと逃げ出すのではないかとその表情を伺えば、奴はなんの感情も見えない無表情でその場に立ち尽くしていた。
おい、いつもの薄っぺらい笑顔はどうした。
いつもなら胡散臭い笑みとよく回る口で女性達を宥めすかすくせに、今日はお得意の口八丁が全く機能していない。というかよく見れば、無表情を通り越して表情が強張っているようにも見える。それに、ものすごく顔色が悪い。
もしかして、その場を離れようとしないんじゃなくて動けないのか
立っているのがやっとで歩き出す気力もないみたいにただ静止していて、そして次の瞬間、少し俯いたジェイドが咄嗟に壁に片手をついた。
いつもピンと背筋を伸ばして優雅に歩くあいつらしくもなく、すこし丸めた背中に女子達は気付いてもいない。おい誰か早く気付けよとハラハラして、今にもその場に倒れそうなジェイドから目が離せなくなってしまう。
だけど僕が割り込んでいくのも何だか違う気がするし、そうだフロイドを呼ぼうと僕はスマートフォンを取り出した。そして履歴からフロイドの番号を探し、コールする前にもう一度視線を上げると、190センチの長躯がふらりと傾いだ瞬間だった。
「ジェイド!」
一も二もなく、駆け出してしまっていた。
かしましく騒いでいた女子達は僕の慌てた声に一瞬で喧嘩をやめ、その視線が一斉に僕に集中する。僕は突き刺さる彼女たちの視線をすり抜けて、その後ろで倒れる寸前だったジェイドを正面から抱き止めた。
いくら細身でも無駄にでかいその男の重量はそれなりのもので、力の抜けたジェイドの重みをそのまま受け止めた僕はその場に足を踏ん張る。
「やだジェイドくんどうしたの!?」
「ジェイドくん大丈夫!?」
僕が現れたことでやっとジェイドの状態に気付いた彼女達はまたギャーギャーと騒ぎ立てはじめ、しかしその耳障りな声のお陰で意識を取り戻したジェイドの重みがふっと軽くなる。
「……すみません、僕……?」
本人も状況が掴めないらしく、なんとか自立しようとはしているがその腕はまだ僕の肩に掴まったままだ。
「大丈夫ですか、あなた倒れるところだったんですよ」
その体を支えたまま少し押し返すようにしながら声を掛けると、ジェイドはようやく自分を支える僕の存在に気付いたように視線を下げた。
そしてその視線がはっきりと僕を捉えた瞬間、色違いの双眸が大きく見開かれた。
「大丈夫ですか……?」
目を見開いたジェイドはそのまま口まであんぐりと開けて、何か言おうとしているようだけどその唇はわなわなと震えるばかりで一向に声を紡がない。
まだ気が動転しているのか会話の成立しないこいつから手を放すこともできず、僕は仕方なくジェイドを支えたまま彼女達に向き直る。
「あなた達、見ての通り彼は体調が優れないようですから今日はそのくらいにしておいてください」
「え……っ、具合が悪いならわたしが看病するよジェイドくん! 今日はうちでゆっくり休もう?」
「は、何言ってんの? ジェイドくんは今日はうちに来る予定だって言ってるでしょ!」
「それはあんたが勝手に言ってるだけでしょ! ジェイドくんが決めたわけでもないのに黙ってて」
彼女たちが奪い合っている「ジェイドくん」は顔面蒼白で明らかに体調不良だと言うのに、それでも尚その目の前で喧嘩を始める女達の神経を心底疑う。そしてお前はどれだけ見る目がないんだとジェイドの方にまで呆れてしまう。
「はぁ……、いい加減にしてください。あなた達では彼を支えて歩けないでしょう。フロイドを呼びますから今日のところはお引き取り下さい」
突然でしゃばってきた僕が何者かはともかく、その片割れの名前を出せば彼女達は渋々ながら納得したようにおとなしくなった。そしてまた連絡してねだとか次こそはうちに来てねだとか、自分勝手な言い分を口々告げて三々五々に散っていく。
そうして彼女達がいなくなって静かになったところで、僕はあらためてその男を見上げた。
「ひとりで立てそうですか?」
ジェイドの左側に立ち、背中を支えるように右手を回したままの僕の肩にはジェイドの左手が乗っている。表情を伺う限り意識はしっかりとしているようだけど、その瞳は前を向いたまま僕を見ようともせずひと言も発しない。
具合が悪くて動けないと言うより、カチコチに固まって石になってしまったみたいだ。
「……フロイドに連絡しますね」
一向に返事をしないジェイドとの会話は諦めて、フロイドに電話をして手短に状況を伝えると、「すぐ行く」と言ったあと通話は一方的に切られた。
全く、この兄弟礼儀がなってないんじゃないか。
「フロイドがすぐ来てくれるそうですよ」
あたたかくも冷たくもなく、平坦な声で言ったつもりだけどジェイドはその言葉で一気に気が抜けたらしい。僕の肩を掴んでいた手がだらりと脱力したかと思えば、そのままずるずると壁際に座り込んでしまった。
「ちょっと、大丈夫ですか?」
「…………………だいじょうぶです」
めちゃくちゃ小さい声だった。
蚊の鳴くような声ってこういうことか。
いや、今の声と比べれば蚊の方がよっぽどやかましい。
いわゆる体育座りの状態で長すぎる脚を折って膝に顔を押し付け、クソでかい男が小さく縮こまっている姿はなんだか面白かった。いやうずくまっていても十分デカくてかさばってはいるんだが、フロイドにしてもこいつにしても、普段見上げるほど背の高い男を見下ろしているのはなんだか不思議な気分だ。
しかしながらフロイドが来るまで特にする事もないので、俯いているのをいいことに上からまじまじ観察していると、その首筋がいやに赤いことに気付く。肌が白いせいで余計目立つのかもしれないが、よくよく見てやれば首だけでなく耳まで赤い。
もしかして高熱でもあるんだろうか。それならせめて水分くらい与えてやるべきか。会話もろくに成立しないし、顔を上げていられないくらいだるいのかもしれない。もし立ち上がれないほど重症だったらフロイドひとりでは連れて帰れないかもしれないし、フロイドが来る前にザッと症状の確認くらいしておいた方がいいだろう。
そう思って僕はジェイドの首筋に手を伸ばした。せめて熱があるかどうかはくらいは確かめておこうと、本当にそう思っただけなのに。
僕の指先が首筋に触れた瞬間、ジェイドは勢いよく顔を上げて咄嗟に自分の手で首を覆った。
さっき目が合った時よりももっと大きく目が見開かれて、そうかと思えば、すでに赤かった顔がもっと紅く染まる。
「……すみません、熱があるか確かめようと思ったんですが」
そんなに素早く動ける元気はあるのか。
そう思って、その反応にふと違和感を覚える。
さっき遠目に見ていた時は、無表情でどちらかと言えば青い顔をしていて高熱があるようには見えなかった。でも今目の前にいるこの男の顔は真っ赤で、相変わらずひとことも話さず固まってしまった。
もしかして、熱で顔が赤いわけじゃないんだろうか。
もしかして、もしかしてだけど、この男照れている……?
固まった男の前で僕もフリーズして、お互いに何も言えずに見つめ合っていると、その内に廊下を走ってくる喧しい足音が聞こえてきた。
「あ、いたいたアズール! お待たせ」
「フ……、フロイド、よかった」
僕は慌ててジェイドから距離を取り、フロイドの方へ近付いて改めて簡単に経緯を話した。
「うん、ありがとアズール。あとはオレがなんとかするわ」
「ひとりで大丈夫です? 人手が必要なら……」
「あー……、たぶん大丈夫。まじでありがと。アズールがいてくれて助かった」
「本当に大丈夫ですか? ろくに口もきけないんですけど……」
僕がそう言うと、フロイドは僕越しにジェイドを見下ろして「ジェイド歩けそ?」と声を掛けた。
「はい、大丈夫です」
そう返ってきた言葉は明瞭で、さっきまであわあわと唇を震わせていただけの男とは思えない反応に僕は驚いて目を見開く。
なんだ話せるじゃないか! さっきまで声も出せなかったのは一体何だったんだ。
「大丈夫らしいから、アズールはもう行っていいよ。忙しいのにありがとね」
「……わかりました。じゃあまた」
「ん、またね」
その場を少し離れてから振り向くと、フロイドがしゃがみ込んでジェイドに声を掛けているところだった。どんな会話をしているのかまでは聞こえなかったけど、ジェイドが何か言った後フロイドがその頭をポカリと殴ったのが見えた。相手は体調不良だと言うのに容赦がない。まぁ双子だからこそできることなんだろうが、そんなふたりの姿を見たあと僕は歩調を速めて歩き出した。
これ以上僕を煩わせないためにフロイドが僕を帰らせたのはわかる。わかるけど、なんだか釈然としなかった。
僕とフロイドは友達だけど、僕とジェイドは別に友達じゃない。
むしろあいつは僕のことが嫌いで、それを露骨に態度に出してくる嫌な奴だ。だからあいつの体調が悪かろうが何だろうが別に僕の気にすることじゃない。友達の兄弟だから気になってしまっただけで、兄弟が来たんだから僕がこれ以上世話を焼いてやる必要もない。だからふたりを置いてひとりで帰ることに、疎外感なんて覚えなくていいはずなのに。
……とそこまで考えて、僕は自分がいま疎外感を感じていることに気付く。
いやまさか、でも。
手助けを申し出たのにもう行っていいと言われて、しかもちょっと拒絶するような態度だった気もする。拒絶と言ったら強すぎるかもしれないけど、どちらかといえばふたりとも僕に帰って欲しそうだった。
はっきりと言葉にはしなくても、「ふたりにしてくれ」と、そう言われた気がした。
ひとりきりで歩きながら、残してきたふたりの姿を思い出して深くため息を吐いた。
ふたりに必要とされなかったことがさみしいなんてバカみたいだ。ジェイドとは友人でもなければまともに会話したことすらないのに。
だからさっきのジェイドのおかしな態度が照れだなんてことはある訳なくて、きっと嫌いな僕に情けない姿を晒したことがよほど耐えられなかったんだろう。あんな風に真っ赤になるなんて、きっと言葉を失うくらい恥ずかしかった違いない。
「あははザマァ見ろ」
僕のことを良く知りもしないくせに、勝手な決めつけで僕を敵視したりするから要らぬ恥をかいたんだ。
そう考えて笑ってみても、感情のこもらない乾いた笑みはすぐに消えてなくなった。
もし僕がジェイドとも友人だったら、ふたりは僕を必要としてくれただろうか。
考えても仕方のないことが、なぜか僕の中でいつまでも燻り続けた。
「おはよーアズール。昨日はありがと」
翌日朝一番で、自分から寄ってきてそう言ったフロイドをチラリと一瞥する。
結局昨日あれからもふたりのことが気になったまま僕はずっともやもやした気分だったけど、フロイドはいつも通りのしまりのない顔でなんだかムカついた。
あの時は僕にはあまり関わってほしくなさそうだったけど、自分から昨日の話を振ってきたんだからあの後どうなったのかくらい聞いてもいいよな? いや僕が見つけてわざわざ連絡してやったんだから聞く権利くらいあるはず。
「おはようございます。それで、兄弟の調子は良くなったんですか」
「んー、良くはなってないかな。とりあえず今日は休ませた」
「ひとりで家に? 大丈夫なんですか」
「子供じゃねーんだから大丈夫だって。昨日だってほんとは休めって言ったのに無理して来たから結局ああなったんだし」
「昨日も朝から不調だったんですか」
「朝からっつーか、ここ数日ずっと。最近眠れてないみたいでさ」
「眠れてない? 例の女性達に添い寝してもらってるのでは?」
「そうなんだけど、最近女の子と一緒でも眠れないんだって。そんで女の子の家行くのやめたらモメたらしい」
「あぁ……」
なんだやっぱり自業自得じゃないか。
自分の都合のいい時だけ会いに行って、必要がなくなったからお払い箱なんてそれは彼女達も納得しないだろう。
でもそれはそれとして、ひとりだと怖い夢を見るから眠れないって話はどうなったんだ。
「じゃあ最近はひとりで寝てるんですか?」
「それが三日くらい一睡もしてなかったみたいでさぁ、それで昨日は限界だったみたい」
「それなのに大学に来てたんですか!?」
「そう、アホでしょ。ジェイドがっこーすきだから休みたがんないんだよね」
「そんな状態で来たって講義なんか頭に入らないだろ」
「オレもそう言った。でもすげぇ頑固で言うこと聞かねーの。だから昨日はオレが一緒に寝てあげたんだよ。オレ超えらくない?」
「え、一緒にって同じベッドで一緒に寝るんですか? その図体で……?」
「しかたねーじゃん。ジェイド女の子よりオレの方がすきだし。オレのおかげで昨日は久々によく眠れたって〜」
「あ、はぁ、そうですか……」
このふたりのことは深く突っ込まないに限る。ジェイドとフロイドは学部こそ別々なのに学内でもしょっちゅう一緒にいるしやたらと距離が近いし、一緒にいない時でもフロイドはジェイドの話ばかりしている。
おかげで僕は本人とほとんど話した事もないのにあいつの専攻や趣味嗜好、すきな食べ物嫌いな食べ物まで熟知してしまっている。
「じゃあこれからは毎日お前が一緒に寝てやるんですか」
「えーそれはヤダ。オレだって別にこの年になって兄弟と一緒に寝たいわけじゃねーんだから。どうしても眠れない時は仕方ないけど。……でも女の子でもダメならそろそろ別の方法さがさなきゃなー」
そう言いながらフロイドがチラチラと僕に視線を送ってくる。なんだその意味ありげな視線は。
「……ほら、あれはどうなったんです、確か本命がいるんですよね? この際さっさと告白すればいいじゃないですか」
「オレもそう思うんだけど、アレは当分無理そう。ジェイドすげぇ臆病だから」
その言葉に僕は本気で驚いて目を丸めた。
常に複数の女性に囲まれてヘラヘラしているあいつが?
顔よし頭よしスタイルよし、おまけにこいつらはやたらと羽振りがよく相当な金持ちのお坊ちゃんらしいという事はみんなが知っている。
そんな男から真摯に想いを告げられれば大抵の女性は頷くんじゃないかと思うのに、そんなハイスペックな男でも臆病になることなんてあるのか。
あぁでもそう言えば女の子に興味がないとか言ってたか。仮に相手が同性だとすれば躊躇う気待ちもまぁ分かる。それにもし相手が学内にいるのだとしたら普段のこいつの素行を知っている可能性も高いし、そんな女たらしの告白なんて真に受けてもらえないかもしれない。うん、それはそれでやっぱり自業自得だ。
「あいつやばい事は率先してやるくせに、恋にだけはやたらと慎重なんだよねぇ。どうにかなんねーかな」
「アレだけ僕何でもできますみたいな顔してるくせに?」
フロイドの言う「やばい事」は突っ込みたくないから流して、僕は思った通りを口にした。僕はただ普段の印象的通りのことを言っただけなのに、今度はフロイドが目を丸めてそれからブハッ!と盛大に吹き出した。
「なにアズールにはそう見えてんの?」
「どこからどうみても自信満々みたいな態度だろ。常に僕にできない事なんてありませんて顔してますけど」
「アハハまじか! さすがアズール、いやほんとウケる……」
「はぁ……? 見たまま言っただけなんですけど」
「ギャハハ……! アズールもだけどジェイドもまじでおもしれぇわ」
「面白いことを言っているつもりはないんですが」
「あはは! だよね、わかってる。……んふふ、いやアズールの言う通りだよ。ジェイド確かにそんな顔してる」
「でしょう? なんだ僕にだけそう見えてるのかと思いましたよ」
「いや多分アズールにだけそう見えてる」
「はぁ?」
こいつの言うことは本当に支離滅裂で付き合ってられない。謎のツボで笑い出したかと思えばひとりで勝手に納得して、一体なんだって言うんだ。
「でもさー、ジェイドいっつも無表情で感じ悪いとか言ってたじゃん。それなのに自信満々に見えんの?」
「そうなんですよ。僕をみるとサッと表情を変えて無視するくせに、その顔がなんとも高慢というか高飛車と言うか、優秀な僕はあなたなんかに構っている暇はありませんみたいな顔をするんですよ……! 憎たらしいったらありゃしない」
「あははははは! ちょ、笑わせないでアズール……!」
「だから笑わせてるつもりはないんですよ」
「いやーまじか……、ふたりしておもしろすぎ」
「一体何が面白いんだ」
「ごめんごめん、その感覚ある意味合ってるなと思って」
「どう言う意味ですか」
「ジェイドはアズールに自分のこと優秀なやつだと思って欲しいんだよ。無意識に有能アピールしてるってこと」
「はぁ? いくら優秀でもあんな態度の悪い奴に好感を持つわけないだろ」
「ほんとにぃ?」
「嘘をつく理由がない。そもそもなぜあいつが僕に有能さをアピールする必要があるんですか。本当にアピールしたいならもっと他に友好的なやり方があるでしょう」
「だからさ、無意識のアピールってわけ」
「全く意味がわからない」
「ジェイドは別にアピールしてるつもりはないんだよ。むしろ避けたがってるけど、本心ではアズールに自分を見てほしいと思ってて、可能なら自分がいかに有能か知って欲しい」
「一から十までわからないんですが」
本当に何一つわからない。
フロイドの笑いのツボも、ジェイドが無意識のアピールをしているらしい理由も。
いくらフロイドの言葉とは言えそれはさすがにありえないだろう。これまでの奴の僕への態度を見る限りとても友好的とは言えなかった。友好的どころかその真逆じゃないか。本当に僕に何かをアピールしたいんだとしたらあいつはもっと別のやり方で的確にアプローチしてくるはずだ。にも関わらずあからさまな嫌悪を浮かべるのは、やはり僕のことが嫌いだからとしか思えない。
そう考えて僕が渋い顔をしていると、思い当たることがあるのかフロイドも「まーそうだよね」と頷いた。
「今までのジェイド見てたらアズールが不信感持つのも分かるけど、なんつーかまず、アズールはジェイドのことを誤解してる」
「きちんと話した事もないのに誤解もクソもないだろ」
「それはそうなんだけどぉ、とりあえず前提が違うんだよなぁ」
「間延びした話し方をするな。要点を言え」
のらりくらりと核心に触れず、遠回しな話し方をするフロイドに段々イラついてくる。こう見えて頭の切れるフロイドは、本来ならもっと簡潔に的確な言葉で話せる男なのにわざと焦らされている気がしてならない。
そんなに僕に言いたくないことでもあるのか。でもここまで思わせぶりな言い方をされては気になって仕方ない。
僕が「白状しろ」と意味を込めてぎろりと睨みつけてやっても、フロイドは少しもたじろいだ様子がなくむしろへらりと笑った。
「じゃあ言うけど、ジェイドはアズールのこと嫌いなわけじゃないよ。むしろ逆」
逆?
嫌いの逆とは、つまり。
「てかさぁ、アズールもでしょ?」
「は……?」
フロイドの言葉の意味を咀嚼もできない内にそう言われ、ますます思考が追いつかなくなっていく。
「こないだは否定してたけど、アズール、ジェイドの顔めっちゃ好みでしょ」
「はぁ……?」
「オレに双子の兄弟がいるって言った時ちょっと期待してたじゃん。んで初めてジェイド見た時のアズール、目ぇきらきらしてたし」
まだフロイドの言葉が飲み込めず、ぱちぱちと瞬きをするとフロイドの両目がニタリと緩む。
「もしかして一目惚れしちゃった?」
「は……、はぁ!?」
やっとフロイドの言葉に思考が追いついて、僕は自分でも驚くほど大きな声を出していた。
すると始業前の教室の視線が一瞬僕に集まり、僕は慌てて身を小さくして声をひそめる。
「そんなわけないだろ! 僕はそんな単純な男じゃありませんよ」
「んふふ、そんなムキになんなくてもいーじゃん。もしかして図星?」
「違います! 僕はよく知りもしない相手をすきになったりしません」
「ふーん……、もしかしたらって思ったんだけどなぁ」
僕が重ねて否定すると、フロイドは一気につまらなそうにテンションを下げた。つまらなそうと言うか、むしろすこし落胆でもしたように。
「お似合いなのに。アズールとジェイド」
「またそんな適当なこと言って、お前は兄弟の恋人が男でもいいんですか」
「んー? オレはジェイドがしあわせになってくれんならなんでもいいよ」
背中を丸めて机の上にだらりと寝そべって、憂える瞳でそう言ったフロイドに僕は何も言えなくなってしまう。
僕はひとりっ子だから兄弟というものの感覚がまるでわからないけど、こんな風に兄弟の幸せを願うのはごく普通のことなんだろうか。
そりゃ家族がしあわせであるに越したことはないけれど、このはちゃめちゃなフロイドがこんな風にしんみりと、片割れのしあわせを願う姿は殊勝を通り越してなんだか不思議だった。
「お前達は本当に仲がいいんですね」と、そんなことしか言えなくて黙り込んだ僕にフロイドが小さく笑い、それから突然何か思いついたように体を跳ね上げた。
「アズール、今度ジェイドがムカつく態度取ってきたら名前呼んでやってよ」
「名前?」
「うん。たぶん一発で黙るから」
「はぁ……、よくわかりませんけど覚えておきます」
そう言えば、昨日勢いに任せて一度呼んだ気がするなと今更思い出す。いつもフロイドから散々話を聞かされているので勝手にジェイドと呼び捨てにしてしまったけど、きちんと話した事もない相手を突然そんな風に呼ぶのは馴れ馴れしすぎたかもしれない。
それなのに名前を呼んでやれと言うのは一体どういうことなのか。この間の不躾な呼び方を詫びて丁寧に接してやれとかそういうことか? ジェイドさん? ジェイドくん? いやなんだか気持ち悪い。一度呼び捨てにしておいて今更リーチさんもないし、考えれば考えるほど意味が分からなくてやめた。
まぁまた会ってしまったらその時考えればいいだろう。会ったところでいつものように無視されるのが関の山かもしれないが、それならそれで別にいい。
僕は今まで通り、関わらないようにすればいいだけなんだから。
偶然というのは重なるもので、僕はその翌日早々にジェイドに出くわした。
廊下の角を曲がった途端に目が合ってしまって、僕は思わずその顔をまじまじと観察する。うん、確かにおとといより顔色は良くなったようだ。昨日もフロイドと一緒に寝たんだろうかと想像して、でかいふたりがひとつのベッドに収まっている窮屈そうな姿に笑いそうになる。
でも面白がっていたのは僕だけのようで、しばし固まっていたジェイドは僕の視線に気付いてパッと顔を逸らした。
なんだやっぱりまた無視するつもりか。まぁ別にいいけど。
そっちがそうならこっちだって話す事はないと、その巨体の横をすり抜けようとした時、「あの」と声をかけられて足を止めた。
まさか声を掛けられるとは思ってなくて顔を上げると、やけに神妙な面持ちで床に視線を落としたジェイドがいた。
「引き止めてしまって申し訳ありません、助けていただいたのにきちんとお礼もしないのは失礼かと……」
まるでいつものあからさまに不機嫌な態度は失礼ではないかのように言う。それにお礼を言うつもりなら目くらい合わせたらどうだ。
「先日は本当にありがとうございました。フロイドを呼んでくださって助かりました」
フロイドとほとんど同じ作りのその顔から、フロイドとは全く別の声が紡ぎ出されるのを僕は黙って聞いていた。声はもちろんそのトーンも話し方もまるで違う。僕ではない相手に話す様は何度か耳にしたことはあったけど、近くで聴くとそうか、ジェイドはこんな風に話すのか。
面と向かって声を聴いたのは初めてなのに、なぜか耳馴染みのいいその声に意識を奪われそうになる。
できればもっと、ずっと聴いていたいような。
「あの」
ぼうっとしている僕を咎めるように、ようやく足元から上げられた視線が僕を見る。
「あぁすみません、なんでしょう」
「助けていただいたことは本当に感謝しているのですが、これからは僕に関わらないでいただけませんか」
前言撤回。
なんだこいつ。なにを言ってるんだ?
「はい? どういうことですか?」
「ですから、今後は僕に何かあっても近寄らないで欲しいんです。僕のことであなたが手を煩わせる事はありませんので、僕には金輪際近寄らないでいただきたい」
はぁ? 自分の体調も管理できないような奴が何言ってんだ。それにその言い方じゃまるっきり僕がおせっかいをしたみたいじゃないか。せっかくの僕の親切を迷惑みたいに、お前があのまま無様に倒れて頭を打ちつける所をただ見てたって良かったんだぞ。
「お言葉ですが、僕は別にあなただから助けたのではありませんよ。目の前で明らかに体調を崩している方がいたから手を貸したまでです。よく知りもしない相手にあからさまな悪意を向けるような方はどうか知りませんが、僕は目の前で困っている方がいれば手を差し伸べずにはいられないんですよ。僕はとっても慈悲深いので!」
当て擦りのようにそう言ってやれば、多少は堪えたのかジェイドはぴくりと反応して表情を強張らせた。
そしてその隙を逃さず僕は更に言い募る。
なにせこれまでの鬱憤が溜まっているのだ。敵が怯んでいる隙に追い詰めない手はない。
「そんなに僕の手を借りたくないのであればご自分の体調くらいしっかりと管理されてはいかがですか。フロイドから多少事情は聞いてますが休むべき時はきっちり休むのも自己管理の一環です。他人に弱みを晒したくなければまず自分で自分を守る術を身につけることですね。自分に関わるなだなんて、せめて完璧に自己管理できるようになってから言っていただきたいものです」
さぁどうだ! 反論の余地もないだろう。
よく回る口でなんと言い返すのか楽しみで、すこしワクワクしながら言葉を待てば、ジェイドはまたいつもの無表情になって、温度のない冷淡な瞳で僕を見下ろしていた。
「全てあなたのおっしゃる通りです。ですが僕がどんな人間だろうとあなたには関係のないことでしょう。そんなに僕のことが気に入らないのなら尚のこと関わらないでいただきたいのですが」
「は……? あなたのことが気に入らないなんてひとことも言ってないでしょう。それはむしろあなたの方ではないんですか?」
「仰る意味がわかりません。あなたとはお話しした事もないのに気に入らないだなんて」
いけしゃあしゃあとそう言い放つジェイドに腹が立つ。今まで僕に対して散々不機嫌な態度を取ってきたくせにどの口が!
目が合えばあからさまに表情を歪めて顔を逸らすし、僕と一緒の時にフロイドが話しかければ僕なんていないみたいに無視していたくせに! 他の人には愛想良くべらべらと喋るくせに、僕の前でだけ仏頂面で口数が減る事くらい知ってるんだぞ。
もう頭にきた。
ここではっきりと白黒つけなきゃ気が済まない。
こいつは一体僕の何が気に入らないのか、全て洗いざらい吐かせてやる!
「ジェイド」
僕は強い口調でハッキリと呼んで下から睨みつけてやった。
そして目を逸らさずジェイドの反応を待つ。
……でもいくら待っても反応がない。
反応がないのでじっと睨み続けていると、無反応のまま目を泳がせたジェイドの白い肌がみるみると赤く染まっていく。
は?
え??
なんだこいつ。
「……あの、もしかしてまだ体調悪いです? 熱でもあるんじゃ……」
そう言って僕が無意識にその顔に手を伸ばすと、ジェイドが驚くべきスピードで反応して後ろに飛び退いた。
「ア? なんだお前」
ものすごいスピードで拒絶されたので僕も反射で素が出てしまった。
そして言った後で、昨日のフロイドの言葉を思い出す。
——今度ジェイドがムカつく態度取ったら名前呼んでやってよ
一発で黙るから、と。
「ほんとだ……」
フロイドの予言(?)通りの状況に僕は怒りも忘れ、面白くなってジェイドの方へ一歩進み出た。
「ジェイド」
そしてもう一度呼んでやれば、ジェイドは顔を赤くしたまま今度は困ったように眉を下げた。ともすれば、今にも泣き出しそうな顔で。
「……すみません、失礼します」
「え? ちょっと、」
そのまま数歩あとずさると、ジェイドはくるりと背中を向けてあっという間に走り去ってしまった。
「えぇ……」
一体何が起きたんだ。
ただ名前を呼んでやっただけで真っ赤になって、血相を変えて逃げ去るなんて。
「なんだあいつ……」
もうすっかりとジェイドが見えなくなった後で、僕はフロイドに言われたもう一つの言葉を思い出す。
———ジェイドはアズールのこと嫌いなわけじゃないよ。むしろ逆
逆。嫌いの逆。
言われた時は咄嗟に飲み込めなかったけど、今目の前で起こったことを改めて考えてみるとなんとなく納得がいく。
「あいつ、僕のことがすきなのか……?」
じゃあなんで関わるななんて言うんだよ。
今までも分からなかったジェイドのことが、僕はこの日もっとわからなくなった。
僕の疑問が調べて分かることならば、わかるまで調べればいいだけのことだ。幸い大学の図書館には膨大な蔵書があるし、そうでなくともインターネットには様々な情報が溢れている。そう、調べて分かることなら僕はすぐにそうしただろう。自分でできることでわざわざ他人を頼る必要はない。ただ、今僕の頭の中にある疑問の答えは何を調べたって分かるはずがなかった。
そしてひとりで考えてもわからないことは、有識者に訊ねるに限る。
「フロイド、ひとつ質問なんですが」
「ん〜、なに?」
「お前の兄弟は僕のことが好きなんですか」
こればかりは僕がどれだけひとりで頭を悩ませても分かることではない。
言葉を濁して遠回しに探り出すのも時間の無駄だし、僕はスッパリとストレートにそう聞いた。しかしフロイドは、そんな僕を面白がるようにニタリと目元を緩める。
「それはオレの口からは言えねぇなぁ」
「は? もうほとんど言ってただろ! 嫌いの逆だなんてほぼ答えじゃないか」
「ふぅん、アズールがそう思うならそうなんじゃないの」
「つまりあいつは僕をすきだということですか?」
「それはどうかなぁ」
「お前……!」
「あはは怒んないでよ。そういうのはオレが言ったってしょうがないじゃん。そんなに気になるなら本人に確かめなよ」
「本人じゃ話にならないんですよ」
「なんで?」
「逃げられたので」
「逃げた?」
「さっき会って話してたらあんまり腹が立ったので、名前を呼んでやったんですよ。そしたら逃げられました。真っ赤になって、それはもう脱兎の如く」
僕はその時のことを改めて頭の中で思い返す。
直前まで無表情で悪態を吐いていたくせに、名前を呼んだくらいで言葉を失って顔色を変えて、それに、もう一度呼んでやった時のあの悲しげな表情。あれは一体なんだったんだ。
「……僕がいじめてるみたいだったんですけど。なんなんですかあいつ」
「ふぅん、それでジェイドのこと気になってるんだ?」
「そりゃ気になるだろ。てっきり嫌われてるとばかり思ってたのに、あんな態度取られたらさすがに気になりますよ」
「んふふ」
「なんだよ」
「嫌いな相手ならそんな風に気にしないんじゃねーかと思って。やっぱアズールもジェイドのことすきなんじゃねーの?」
「はぁ? なんでいちいち好きか嫌いに当てはめようとするんだ! 僕は別に……」
「アズールだってしてるじゃん。ジェイドが自分のこと嫌いじゃないなら好きなのかって言い出したのはアズールでしょ」
「……それは」
それは、えぇと…………
上手い反論が思いつかなくてらしくもなく黙り込む。
確かに、僕はどうしてこんなにあいつのことを気にしてばかりいるんだろう。自分自身がなんとも思っていないなら相手にどう思われていようがどうでもいい事じゃないか。
あいつが僕のことを好きだろうが嫌いだろうが、そんな事は取るに足らないことなはずなのに。
「ところでさ、ジェイドの気持ち確かめてアズールはどうしたいわけ? 付き合うの?」
「は!?」
「そんな驚くことねーじゃん。それとも聞くだけ聞いて満足すんの?」
聞いてどうするかだなんて、そんなこと何も考えていなかった。
僕はただあいつの不可解な態度が気になって、もやもやするからそれを解消したかっただけで、僕があいつと付き合うなんてそんなこんとは想像もしていなかった。
「んで、ジェイドになんて言われたのアズール」
「……金輪際近寄るなと」
「へぇ」
「何があっても関わらないで欲しいと言われました」
「ふぅん、それなのにアズールはハイわかりましたとは言わなかったんだよね。むしろ頭にきて自分から突っかかっていったんでしょ?」
「そう……ですね確かに」
つくづく、何をしてるんだろう僕は。
ジェイドに言われた通り、あいつがどんな人間だろうと僕にはどうでもいいことじゃないか。元々親しかったわけでもないんだから、これ以上関わるなと言われた所で腹を立てる必要なんて何もなかったはずだ。
それなのにどうしようもなく頭にきて、関わるなと言われたことに腹が立って、これで終わりになんてしてたまるかと、そう思ってしまった。
「……よく分からないんです」
「なにが?」
「恋愛感情というものを持ったことがないので、今の僕の気持ちがそれに値するものなのか」
「そっかぁ。じゃあアズールはどうしたい?」
どうしたい?
僕はどうしたいんだろう。
あいつの不可解な言動の理由を確かめれば僕のモヤモヤは解消されてそれで満足できるんだろうか。
それともフロイドの言うように、確かめた上でその先を望んでいるんだろうか。
どちらにせよ、顔を合わせるたびに逃げられていたのでは前へ進みようがない。
「ちゃんと、話がしてみたい」
まずはそこからだ。
あいつがなぜ僕に関わって欲しくないのか、そのくせどうしてあんな風に顔を赤くしたり逃げたりするのか。
それを知った上で僕がどう思うのか今はまだ全く分からないけど、このままうやむやにしたまま終わらせるのはやっぱり嫌だ。
「好きとか嫌いとかは別にして、……付き合うとかも今は全然考えられないですけど、僕はあいつが何を考えてるのかを知りたい」
「んふふ、いいと思うよ。歩み寄り大事」
「……とは言え、二人になると本当に話にならないんですよ。この間はろくに口もきけなかったし今日は逃げられたし」
「じゃー逃げらんないようにしてやろうか」
「え?」
「うちにおいでよ。逃げ道はオレが塞いどくから」
「なるほど、名案ですね」
学内や飲食店なんかじゃ簡単に逃げられてしまいそうだけど、それなら確かに逃げられない。あぁでも、あの取り乱した様子のジェイドなら窓から飛び出してでも逃げかねない。
「ちなみに何階ですか?」
「うち? 30階」
そうだった。
こいつらは超がつくほどのお坊ちゃんなのだ。
その日の講義を全て終えた後に向かったフロイド達の住処は、首都にある僕たちの大学からも程近く、駅前の一等地にある高層マンションだった。
遠方から出てきている僕と違ってこいつらは実家も近くにあるくせに、このマンションは進学する際に家を出たいと言った双子の為に親が買い与えたものらしい。
間取りもふたりで住むには十分過ぎるほど広く、ふたりの個室の他にゲストルームがふたつもあると聞いてため息しか出ない。リビングの広さは言わずもがな、キッチンがやたらと充実していて冷蔵庫は無駄にでかいし、パントリーにワインセラー、バーカウンターまであってどう考えても設備過多、大学生の兄弟がふたりで住むには豪華すぎるつくりだ。
「すごいですね。ここでパーティーでもするんですか?」
「パーティー? したことねぇよ。ジェイド知らない奴呼ぶの嫌がるし、家族以外入れたのはじめて」
「そうなんですか!? それなのに僕を入れてよかったのか……?」
「大丈夫だいじょーぶ。アズールなら問題ないと思うよ。別の意味で嫌がるかもだけど」
そう言ってフロイドはケラケラと笑ったけど本当に大丈夫なのか。まぁでも今更そんな事を言ってもしょうがない。ジェイドが嫌がる事なんてわかりきっていた上でフロイドの誘いに乗ったんだから、ここまできたらもう腹を括るしかない。
「アズール何飲む? ビール、ワイン、カクテルもひと通り揃ってるけど」
「いやアルコールは……。水をもらえますか」
「残念、オレのカクテル美味いのに」
「それはまた今度いただきますよ」
それほど酒に弱いわけでもないけど、これから話し合いをしようと言う時に酔っ払ってしまっては困る。器用なフロイドのことだからきっと本人の言う通りお酒を作るのも上手いのだろうけど、今日はそれを楽しんでいる場合じゃない。
「それにしても本当にひと通り揃ってますね。よく作るんですか?」
「気分でね。あれこれ揃えてんのはジェイドだよ。凝り性だからさぁ、集め出すと止まんねぇの。紅茶の茶葉もコーヒー豆もたくさんあるよ」
そう言いながらフロイドがパッと開いて見せてくれた戸棚に目を走らせ、そこにぎっしりと並べられた茶葉や豆をひとつひとつ確かめていく。
これから作る店で昼間はカフェを、夜はバーをする予定で計画を練っているので、茶葉や酒類の知識には僕も自信がある。高校時代から趣味でカフェ巡りをしていたし、成人してからは方々飲み歩いているので同じ年頃の学生よりはずっと知識豊富なつもりでいたけど、その品揃えには僕でも目を見張るものがあった。
「本当にすごいですね、でもこんなにあっても飲みきれないでしょう」
「ほんとそれ。一緒に飲んでくれる人がいればいいんだけどねぇ」
「もったいない……、集めたくなる気持ちはわかりますけど宝の持ち腐れですよ。茶葉や豆にも飲み頃があるんですから」
「だよねぇ、アズールが飲みにきてやってよ。ジェイド紅茶淹れんの得意だから、毎日でも喜んで淹れてくれると思うよ」
「毎日って……。僕も暇じゃないんですから」
「あ、じゃあ住んじゃえば? 部屋も空いてるしさぁ、そしたら毎日ジェイドが紅茶淹れるしオレのカクテルも飲めるじゃん。家賃とかいらねーしルームシェアしよ!」
「はぁ? こんな高級マンションにタダで住むなんて絶対に嫌ですよ! そもそも同居人の許可も得ずにルームシェアに誘うなんてどうかしてるだろ。常識を考えろ」
「え〜、タダの方がいいじゃん。アズール守銭奴なのに意味わかんね。てかジェイドがいいって言ったらいいの?」
「あいつがいいなんて言うわけないだろ! それにタダより怖いものはないんですよフロイド。甘い話には必ず裏があるんです」
「裏なんてねーけど」
「そんな事言ってると悪い大人につけこまれますよ! 甘やかされて育った金持ちのお坊ちゃんなんて世間知らずで騙されやすいと思われてるんですから、格好のカモにされて痛い目を見ても知りませんからね!?」
「わかったわかった、気をつけるけどさぁ、少なくともオレの話に裏はないって。タダが嫌だって言うなら今アズールが払ってるくらいの家賃もらうから。それでどう?」
正直、その甘い言葉にはグラッグラに揺れていた。
実家を離れる際に決めた今の家は、家賃重視で大学からもそれなりに距離がある上最寄り駅までも徒歩20分。通学だけでも往復二時間はかかるしオープン予定の店舗からも遠い。その点このマンションからならどちらも10分以内で行けるし、なんと言っても綺麗で広い。
しかしこの物件を賃貸で借りたら一体いくらになるかこいつは分かってるのか? いや絶対に分かってない。そしてそれに対して僕の今の家賃がどれほど見合っていないかも絶対に分かっていないに違いない。いや分かっていた所で僕からの家賃収入なんてこいつにとってはあってもなくても同じくらいの価値しかないに違いないが。
「……やっぱりやめておきます。僕おそらくルームシェアは向いてないと思うので」
「えーそぉ? アズール結構面倒見いいと思うんだけどなー」
「面倒見? お前たちの世話を焼くのはごめんですけど」
まぁ正直ここに住むメリットを考えれば、こいつらの身の回りの世話をしてやってもお釣りがくるくらいだがそうは言っても僕も忙しい。広くて綺麗で立地最高で美味しい紅茶とカクテル付きの物件に未練がなくはないが、身の丈に合わない環境に身を置くのは良くない。
それにもしすぐに仲違いでもしたら出ていくのは当然僕なんだから、その際の転居費用を考えれば直ちに飛びつくのは得策じゃない。あまりにも美味しい話過ぎてぐらりとはきたが、冷静に考えればメリットばかりでないのはすぐにわかることだ。
「えー残念。まぁ気が向いたらいつでも言ってよ。オレは大歓迎だから〜」
「はいはい考えておきますよ」
その後は、ジェイドが帰るまでに夕食の支度をするというフロイドがキッチンに立つ姿を眺めながら取り留めもない話をした。正直こいつが自炊をしているというだけでも驚いたけど、大き過ぎる冷蔵庫に入っている食材やフロイドの慣れた手付きにはもっと驚かされた。
しかも冷蔵庫の中身と睨めっこをして適当に取り出した食材を、レシピもなく手早く調理していくものだから僕はひたすら感心してしまう。
どこかで習ったのかと聞けば、いくつか本を読んだり動画をみたりした意外は全て自己流だと言うから更に驚いた。本は一度読めば全て頭に入ってしまうのだと言うし、基本的な手順さえ覚えてしまえばあとは感覚でアレンジしてしまうのだとか。
「すごいですね……、お前にこんな才能があったとは」
「これくらい誰でもできるんじゃねーの? ジェイドも料理得意だよ」
「そうなんですか? はぁ……天は二物を与えるんですねぇ」
この双子は二物どころか三物も四物も持っていそうだけど。
でもいくら恵まれていても、それがイコール幸せとは限らない。
裕福な家に生まれて顔も頭も良くて、誰もが羨むような人間であっても、夜になるたび悪夢にうなされるような毎日はしあわせと言えるのだろうか。そしてそれを幼い頃からずっと繰り返してきたジェイドのしあわせは、いったいどこにあるんだろう。
ぼんやりと物思いに耽っていると、玄関の鍵が開く音がして僕たちはハッとそちらへ注意を向ける。
「帰ってきた。逃げられたら困るからアズールはここにいて」
そう言われてキッチンの中に押し込まれ、「はい」と木べらを渡された。
「焦げないように混ぜておいてね」
「え、ちょっと」
目の前の鍋ではリゾットがいい具合に炊けてきた所で、フロイドに話しかけようにも鍋から目が離せない。その間にフロイドはパタパタとリビングを出て行って、玄関のほうで「ジェイドおかえりぃ〜」と間延びした声がする。
「ただいまフロイド」とジェイドのホッとしたような声がして、僕にはそんな声で話さないくせにと若干苛つく。
「おなかすいてるでしょ、もうすぐごはんできるよ」
「ありがとうございます。フロイドの作ってくれたごはんが楽しみです」
なんだその会話新婚か?
こいつらいつも兄弟でこんな会話してるのか?
一人暮らしをしていると「おかえり」なんて言ってくれる相手がいないのが普通で、毎日毎日人の気配のしない無機質な部屋に一人で帰るのが当たり前な僕はこれだけで胸焼けしそうだ。
「今日のごはんなんだと思う〜?」なんてくだらない会話をしながらふたりの足音が近づいて来るのを聞きながら、僕はぐつぐつと音を立て始めたリゾットを混ぜる。やばい、ちょっと焦げた。
リビングのドアが開いて巨人がふたり入ってくる。ジェイドが前で後ろにフロイド。フロイドはドアを塞ぐように立ったままそこを動かない。
まだ僕に気付いていないジェイドはそのままリビングへ入ってきて、「いい匂いがしますね」と上機嫌にキッチンに顔を向けた。
そして僕の姿を見た瞬間、そのままの姿勢で動きが止まる。
「おかえりなさい。お邪魔してます」
誰かに「おかえり」なんて言うのはいつぶりだろう。少し照れ臭かったけど、言われたジェイドの反応は「照れ臭い」なんてものではなかった。
ヒュッと息を飲み、一瞬で真っ赤になったかと思えば瞬きひとつせず呼吸もしている様子がない。さすがに心配になってコンロの火を止め、キッチンからジェイドのいる方へ向かうとやっと動きを取り戻したジェイドがぐるんと後ろを振り向いた。
リビングのドアはフロイドが塞いでいる。
ニタリと笑うフロイドに、逃げ道がないことを悟ったジェイドは絶望したように表情を削ぎ落とした。
「最悪です…………」
そう言ってフロイドを睨みつけたジェイドの視線が、これまで見た事がないほど鋭く冷たい。
「フロイド、余計なことをするなと言いましたよね」
「余計なことってなに? オレは友達を連れてきただけなんだけど」
「では僕は出かけますのでおふたりでごゆっくり。ご友人との時間に僕が居てはお邪魔でしょうから」
「邪魔じゃないです!」
ジェイドの冷え切ったその声に、僕は咄嗟に声を張り上げていた。
「……留守中に上がり込んで気を悪くしたのならすみません。不快なら僕が帰ります。でもせっかくフロイドが作ってくれたんですから、もし嫌でなければ三人で一緒に食べませんか?」
自分の存在が、ふたりの空気を悪くしているのだという自覚はあった。
やはり来るべきではなかったんだ。
ジェイドが嫌がると分かっていてズカズカ上がり込んだ僕が悪い。
悪いと思ってるのに、僕はまだ帰りたくなかった。
ただ三人で食事をしたかった。
ジェイドとフロイドと僕と、三人で。
振り向いたジェイドはまたあの時と同じ顔をしていた。
少し眉を下げて、今にも泣き出しそうなあの顔を。
食事の雰囲気は最悪だった。
誰も何も喋らず、並べられた料理だけが黙々と減っていく。
雰囲気が悪過ぎて何を食べても味がしない……なんて事は全くなく、どれを食べても最高に美味しかった。僕の確かな舌が言っているんだから間違いない。フロイドは天才だ。
レストランを作ったらフロイドをシェフにしたいくらいだ。誘ったら乗ってくれるだろうか? いや大金持ちのこいつがレストランのキッチンになんて立つはずがない。いやそれにしても美味い。あんまりおいしくてついパクパクと食べ進めてしまってるけど、このままじゃ今日の分の摂取カロリーをオーバーしてしまう。いやすでにしてるか……。仕方ない、今日は緊急チートデーということにしよう。
「アズール、デザートもあるけど食べる?」
悪魔の囁きにごくりと喉が鳴る。
「デザート……、それもフロイドが?」
「うん。昨日作っといたんだぁ、巨峰のシャーベット」
「シャーベット……、いただきます」
「良かった。じゃー用意すんね」
やっとフロイドがにこにこと笑って空気が少しだけ和らぐ。ジェイドには聞かなかったけど、フロイドは当然のように三人分のデザートを用意してそれぞれの前に置いた。
「いただきます」
「ドーゾ」
美しいガラスの容器にのせられた紫色のシャーベットに銀のスプーンを差し込み、ひとさじ目を口にした瞬間耐えられなかった。
「うっま……」
みんな黙り込んでいたので僕も我慢してたけど、もう耐えられない。美味すぎる。
「すご……、うま! すごく美味しいですよフロイド! どれもお前が作ったとは思えないほど美味しかったです。お前本当に天才ですね!?」
いよいよ興奮が抑えきれなくなって、つい今日食べた料理の品評を始めると、僕とフロイドの向かい側に座ったジェイドが肩を揺らして笑い出した。
「は……っ、すみません、あまりに美味しかったものでつい」
「いえ、調子がいい時のフロイドが作った料理はどれも絶品なんです。あなたに食べていただけて良かった」
はじめて、面と向かって普通に話すジェイドを見た気がした。
不機嫌でもなくテンパって赤面してもない、僕に向かってにこやかに笑うジェイドを初めて見た。
言葉の内容はほとんど入ってこなかった。
ただジェイドが笑ってくれたことがうれしくて、そして同時に、どうしてと思う。
「ジェイド、どうして今までそうやって話してくれなかったんです?」
自分の素の反応に気付いていなかったのか、ジェイドはまたこれまでの様に絶句して固まってしまった。でもさすがにここから全力では逃げられまいと、僕は更に言葉を重ねる。
「どうして僕を見るたびに不機嫌そうにするんです。そんなに僕が嫌いですか?」
ズバリとそう言うと、ジェイドはショックを受けたような様子で唇をわなわなと震わせた。
「あなたが何を考えているのか言われなければ分かりません。何も言わないならあなたは話もしたくないほど僕が嫌いなのだと解釈しますがそれでいいんですね」
「あなたを嫌いだなんてまさか……!」
考えたこともなかった、正にそんな顔でジェイドが顔を青くする。
「だって僕を見るたびに顔を顰めて目を逸らしていたでしょう。僕がフロイドと一緒に居ても空気みたいに扱うし、挨拶すらしてきたことないじゃないですか」
「それは……!」
「それは?」
青かったジェイドの顔が今度はまた赤くなって、それから何か言おうと口をパクパクさせるけど結局言えなくて、口を噤んではまた開きをしばらく繰り返す。
デザートを食べ終えたフロイドはとっくに飽きて席を離れ、ソファに寝そべって雑誌を読みながらヘッドフォンで音楽を聴き始めたようだ。どうやらそっちはそっちで勝手にやってくれということらしい。逃げ道は塞いでくれるんじゃなかったのか。
「あなたは僕のことが嫌いなんですよね。だから関わるななんて言うんでしょう? 金輪際、二度と関わってほしくないくらい僕のことが嫌いだから。それなら普段のあなたの態度も頷けます」
「ち、ちがいます……!」
「違う? ではどうして僕を避けるんですか。わけもわからず冷たくされれば僕だって傷付きますし不快です」
僕がそう言うと、ジェイドはまたショックを受けたような顔をしてあからさまにしゅんとした。
「……申し訳ありません。あなたを傷付けるようなつもりは全くなかったのですが……、不快な思いをさせてしまったことは謝ります。ですがそれは僕の意図するところではなく……」
「意図したのでなければなんだったんです? 見ている限りあなた僕以外の方にはずいぶん愛想がいいじゃないですか。それなのに僕にだけずいぶんと態度が悪かったように思うのですが」
「それは……、あなたを見ると顔が緩んでしまうので必死に引き締めていたと言いますか……」
その口から語られたあまりにも予想外な言葉に、僕は目の前で赤面する男をぽかんと見つめてしまう。
「すみません……、そんなに見つめられると目のやり場に困ってしまうのですが……」
顔を伏せてもじもじとするその姿があまりにも信じられなくて僕は我が目を疑った。
これは現実か?
誰かに答えてほしくて僕は縋るようにフロイドを見たけど、フロイドは完全に我関せずと言った様子でこちらを見もしない。
仕方なく僕は正面の男に向き直り、恐る恐る確かめてみる。
「それはつまり、不機嫌で顔を顰めていたのではないと?」
「そのような事は決して」
あぁ、気が遠くなりそうだ。
フロイドの言う通り、僕はずっとジェイドを誤解していた。つまりこいつは、僕が嫌いだったのではなく僕のことが好きだから、僕を見るだけで緩んでしまう顔を引き締めるために、無意識に不機嫌そうな態度になってしまっていたとそういうことらしい。
僕は今までずっと勘違いをしていたのか。
でもこれって僕が悪いのか? あんなあからさまに嫌そうな態度を取られて気付くわけなくないか??
でもじゃあ、僕に名前を呼ばれただけで真っ赤になっていたのはもしかして。
「……僕があなたを呼んだ時のことですけど」
僕がそう言うとすぐに思い当たったのか、ジェイドは「あぁ」といってまた恥ずかしそうに目を伏せた。
「まさかあなたに名前を呼んで頂けるとは思っていなくて、その……、うれしくて」
あまりのことに言葉も出なかった。
じゃああの時こいつはうれしすぎて会話ができなかったのか。
僕がほんの少し触れただけで過剰に反応したのも恥ずかしかったからなのか。
なんだこいつ。僕のこと好きすぎか?
でも、でもじゃあ、もう一度呼んだ時泣きそうな顔をしたのは?
三人でと食事に誘った時同じ顔をしたのは?
あれは絶対に、うれしかったからじゃない。
僕は目の前で複雑な顔をした男をまじまじと見上げる。
嬉しさと恥ずかしさと気まずさと、それから戸惑いが混ざったようななんとも言えない表情をしているこの男のことを、僕は何にも知らなかった。
どうやら僕のことがものすごくすきらしいのに、僕と関わりたがらないのはなぜなんだろう。普通好きなら少しでも近づきたいと思うものじゃないのか? そんな普通がこいつに当てはまるのかはわからないけど、僕はもっと、ジェイドに近付いてみたいと思う。
そしてこの変な男が、本当は何を考えているのか知りたい。
その心の中に、少しでも触れてみたい。
「僕に関わってほしくないと言ったのはなぜですか」
その言葉にジェイドは一瞬目を開いて、それからまた視線を落とすと静かに言った。
「ご迷惑でしょう」
「何がです?」
「僕のような男に慕われても、あなたに迷惑をかけるだけです。これでも身の程は弁えていますから、これ以上あなたを煩わせることは致しません。今後はあなたに不快な思いをさせることがないように気をつけますので、どうか今日話した事は忘れて下さい」
悟り切ったような顔で淡々と言うジェイドに僕は思い切り顔を顰めた。
何言ってんだこいつ。
ここまで言って言い逃げする気か。
「は? そんな話を聞いて忘れられるわけ……」
「すみません、僕はこれで失礼します。最後に三人で食事ができて良かったです」
最後?
忘れてくれとか最後とか、僕の話も聞かずに勝手すぎないか?
誰が迷惑だなんて言った?
誰が煩わしいなんて言った??
僕の言い分も聞かず、ひとりで勝手に終わらせようとするな!
「ジェイド」
席を立ってリビングを出ようとしていたジェイドが驚いて振り向く。そして驚きに目を開いたままのジェイドを、僕はぎろりと睨みつけてやった。
「僕は迷惑だなんて思っていません」
「え……」
「僕は今日聞いたことを忘れませんし、この先あなたに関わらないつもりもありません」
「……ありがとうございます。あなたが慈悲深い方なのはわかっていますが、僕のことは本当にお気になさらないでください。僕は大丈夫ですから」
「あなたのことを心配して言ってるんじゃありまけん。ただ僕がそうしたいだけです」
また、ジェイドがあの悲しそうな顔をする。
どうしてそんな泣き出しそうな顔するんだよ。
その顔を見ると僕まで泣きたくなるからやめて欲しい。
でも僕は、その理由が知りたい。
「僕もお前が好きだと言ったらどうします?」
ずるい言い方だとは思いながら、そうとしか言えなかった。
まだ僕自身自分の気持ちがわからない。ジェイドのことが好きなのか、どうしてこんなにムキになっているのか。わからないけど、でもどうしてもこのまま終わりにはしたくなかった。
「……ありがたいことですが、僕にはどうにもできません」
「どうして」
「考えられないんです。誰かと付き合うとか、恋人をつくること自体。僕には向いていないので」
そう言われてしまうとぐっと言葉に詰まる。
僕も同じだから、ジェイドがそう言う気持ちもわかってしまう。
でもここで引くわけにはいかなかった。
ここで引いたら、多分ジェイドはもう二度も僕に関わろうとしない気がして。
「……急に恋人にならなくてもいいんです。友人ではダメですか」
「え」
「僕はあなたの友達になりたい」
僕の一生のうちで、こんな小っ恥ずかしいセリフを口にする日が来るなんて思ってもみなかった。
結論から言えば、僕からの友達申請はあえなく却下された。
ジェイドはまっすぐに見上げた僕の視線を受け取ることもなく、俯いて目を伏せるとそのまま頭を下げて「すみません」と言った。
それから、「それは無理です」と。
そう言ったかと思えばジェイドはそのまま踵を返し、今度こそリビングを出て行ってしまった。そしてその場に取り残された僕が呆然としていると、ジェイドが出て行ったことに気付いたフロイドが振り向いてヘッドフォンをはずす。
「話終わったの?」と振り向いたフロイドが、呆けた僕の間抜け面を見て腹を抱えて笑っていた姿は今思い出しても腹が立つ。あんまり腹が立ったので思い切り腕を捻り上げてやったら本気で謝ってきたから仕方なく許してやったけど。
それにしても、どうして僕の方が振られたみたいになってるんだ?
僕を好きなのはあいつの方なのに、友達になることすら無理ってなんだ。本当に頭に来る。頭に来るし全く納得がいかない。
納得がいかないことに、この僕が黙っていると思うなよ。
その日から僕は謎の闘志に燃え、事あるごとに自分からジェイドに話しかけるようになった。これまで偶然会ってしまうことはよくあったけど、今や奴の時間割を入手してまで会いに行っている。
その度にジェイドは複雑な顔をするけど、今後僕を不快にさせないと言った通り無視をすることはなかった。ぎこちないながらも会話に応じ、世間話程度ならなんとか成立するし、あいつの好きなものの話ならむしろ一人で勝手に喋りまくるくらいには打ち解けてくれた気はする。それに時々フロイドを交えて一緒にランチをすることもあるし、あいつは無理だと言ったけど、これはもう「友達」の範疇なのではないだろうか。僕がそう言えばきっと否定するだろうからあえて言わないけど、僕に対するジェイドの表情は少しずつ、少しずつ柔らかくなってきている。
「ちょっといいかしら」
そう声を掛けてきたのは、とある上級生の女性だった。
学内でも有名な美人で、資産家の令嬢である彼女の周りには常に人が群がっている。しかし今日は一人のようで、ざっと見回しても取り巻きの一人も連れていないことを訝しみながら僕はよそ行きの笑顔を浮かべた。
「僕に何かご用でしょうか」
「突然ごめんなさいね、ジェイドのことで少し聞きたいことがあって」
彼女のような女性が僕自身に用があるはずがないとは思ったけれど、なるほどそういうことか。
まさか彼女までジェイドの添い寝相手の一人だったとは。
「えぇなんでしょう」
「単刀直入に聞くけど、最近ジェイドと寝てるのはあなた?」
単刀直入にも程があるのではないか。
あまりにもストレートな物言いに僕が絶句すると、彼女はふふ、と小さく笑って眉を下げた。
「あぁごめんなさい、勘違いしないで。添い寝してるのかってことよ」
「……まさか、一緒に寝たことなんてありませんよ」
「あらそうなの? 最近女の子たちには声を掛けてないみたいだし、よくあなたを見かけるからてっきりそうなのかと」
「ご冗談を。第一僕らは友人ですらないので」
その言葉に嘘はない。
確かに最近話すことは増えたけど、何しろ僕は友達になることすらお断りされているので。
僕がジェイドの添い寝相手でも友人でもないと分かると、彼女はあからさまに態度を変えて高慢に笑った。以前ジェイドの周りでギャーギャーと言い争いをしていた女たちの様にやかましくはないけれど、これはこれで中々にタチの悪そうな女だなと辟易する。
ジェイドの奴、どれだけ人を見る目がないんだ。
「あら、じゃああなたの片想いかしら?」
「は……?」
「知ってるのよ、あなたが最近やたらとジェイドに付きまとってること」
「……何が仰りたいので?」
「聞きたいならはっきり言うけど、目障りなのよ。男のくせにジェイドに色目を使ってみっともないとは思わないの? 相手にもされてないくせに滑稽だわ。彼の本命は私なのよ。だからジェイドの周りをうろちょろしないでちょうだい」
やっぱりそんな話かとしらけ切ってしまう。
自信満々に正妻面をして滑稽なのはどっちだと言いたくなる。ジェイドが添い寝相手に微塵の情も持っていないことは明らかなのに、どうしてこう恥ずかしげもなく断言できるのか。この女は一体、ジェイドの何を見ているんだろう。
「あなたが本命だとジェイドがそう言ったんですか? 添い寝の相手なら大勢いるのに?」
「ふっ、この私を他の女と一緒にしないで。あなたあの噂を知らないの?」
「はぁ、あの噂と言われましても何のことやら」
「そんなことも知らないの。かわいそうな子ね、知らないなら私が教えてあげるわ」
「はぁ……」
「確かにジェイドが一緒に寝る相手は大勢いるけど、彼は誰ともセックスしないのよ。本当に一緒に眠るだけ。でも私は違うわ。私だけは彼としたことがあるの。それが私が本命である証明よ」
何と言っていいか、言葉も出なかった。
まぁ仮にこの女と寝たことが事実だとして、それだけで自分が本命と言い張れる根拠がわからない。頭湧いてんのか。
「ふふ、ショックで言葉も出ないのかしら。そういうことだからジェイドのことは諦めてちょうだい。今後一切彼に近寄らないで。わかったわね?」
「いえ、わかりません」
「は……?」
「今うかがったあなたのお話から僕とジェイドが交遊を断つべき理由がひとつも見つからなかったのですが」
「はぁ? あなたバカなの? 私の話聞いてた!?」
バカはお前だろ、とは言わず僕は淡々と冷静に説き伏せることにした。正直こんな女に構っている時間は惜しいがこのまま放置しては今後もいちいち絡まれかねない。そうなっては鬱陶しいのでこの手の相手にはきちんと話を付けておくに限る。
「あなたの仰る通りあなたがジェイドの本命だとして、ではなぜジェイドは毎日あなたと一緒に寝ないのですか? そもそもなぜジェイドが他の女性のところに行くのを許しているんです? あなたが正式に交際されているならあなたはジェイドにそれをやめさせる権利がありますよね。それなのになぜジェイドにそうさせないんです?」
「その辺の女なんてどうでもいいのよ。他の相手に私より美人な子なんていないもの。ジェイドがそんな女相手に本気になるわけないでしょう」
話を聞けば聞くほど意味の分からない女だ。
そこまで自分に自信があって余裕を見せていながら、どうして僕にはこんな風に突っかかってくるのか。
「ではなぜ僕にこうして牽制をかけにいらしたんです? あなたの仰る通りなら男の僕なんて取るに足らない相手だと思うのですが」
「……男だから気に入らないのよ」
それは単純に、同性愛に対する嫌悪感だとか男女差別的な感覚とは違っているように聞こえた。
さっきまで高慢に笑っていたその顔から余裕が消えて、憎々しく歪んだその表情の方が、僕にはよっぽど美しく見えた。
「女になら絶対負けないわ。私が一番きれいだもの。どんな女が相手だって私は勝つ自信があるの。絶対に誰よりも私がジェイドを満足させてあげられる。だけどジェイドが女にはないものを求めているんだとしたら、私には勝つ術がないじゃない」
もしかしたらこの人は意外と、ジェイドの本質を見ているのかもしれない。
自分がジェイドの眼中にないことを自覚していて、他の女たちのところへ行くのも止められなくても、それでも勝ち取る自信があるのだ。でもどんな女にも負けるつもりはなくても、もしジェイドが同性にしか恋愛感情を持たないのだとしたら確かに彼女に勝ち目は無くなってしまう。
プライドの高い彼女は、他の女たちの前ではきっと毅然として余裕を見せているのだろう。彼女の言葉の真偽は別にしても、「この人には敵わない」と思わせる魅力が確かに彼女にはある。それは容姿への絶対的な自信からくるものなのかもしれないし、絶対にジェイドを手に入れるという確固たる決意からくるものなのかもしれない。
その強いひとが、今目の前で取り乱して泣き出しそうな顔をしている。
「お願いだからジェイドの目を奪わないで」
ジェイドが僕を見ていることを、彼女はもう知っているのだ。
「ジェイドの前から消えてよ。これ以上ジェイドに近寄らないで、私からジェイドを奪わないで、ジェイドを好きにならないで……!」
哀れだなとは、もう思わなかった。
この行為がみじめでみっともないことを彼女はきっと分かってる。相手にされていないのに滑稽なのは自分だと彼女は自覚しているんだ。
それでも、言わずにはいられなかった。
はじめから何もせず諦める事なら誰にでもできるけど、彼女は諦めない道を選んだ。
それほど誰かを想って、貪欲に突き進む姿はいっそ清々しいほどに美しい。
「ジェイドのどこがそんなに好きなんですか」
「え……?」
「僕はあいつの事をよく知らないんです。あなたほど美しい人がそんな風に取り乱すくらい好きになる要素があいつにあるんですか? それならぜひ教えて欲しい。あなたはジェイドのどこが好きなんです?」
「……ふざけてるの?」
「いえ、お気に触ったなら申し訳ありません。純粋に気になったんです。僕もジェイドの事を知りたいので」
「そんなことあなたに話すわけないじゃない……、バカにしないで!」
「そんなつもりは」
「うっとおしいのよ! 消えてよ!! 二度とジェイドに関わらないで!」
興奮した彼女が振り上げた手が空を切り、僕は反射で目をつむった。だけど僕に向かって振り下ろされたはずの手が頬を叩く事はなく、代わりに彼女とは違う人の声がした。
「何をしているんですか」と、僕ら以外誰もいない廊下に響いた声はどこまでも冷たい。
振り向けば慌てて走ってきたらしいジェイドが僕越しに彼女の腕を掴んでいるところで、その顔には見たことのない類の怒りが浮かんでいた。
「アズールに何を言ったんです」
「痛い……! 離してよ」
「何を言ったんですか!」
「ジェイド! 手を離しなさい!」
彼女の手首をギリギリと掴んだまま鬼の形相をしたジェイドに僕の方が焦ってしまう。絡まれていたのは僕のはずなのに、このままでは彼女の方が暴行の被害者だ。
「何でもありません、ただ話をしていただけです」
「ただ話しているだけで殴る人がいますか」
「殴るなんて大袈裟ですよ。ただの平手打ちじゃないですか」
「同じことです! この女があなたに暴力を!」
「ジェイド! 冷静になりなさい、彼女の手を折るつもりか!」
彼女は目に涙をいっぱいに溜めて、痛みと恐怖でぶるぶると震えていた。きっとこんなジェイドを見たのは初めてだったんだろう。激昂するジェイドを前に、彼女は何も言えずただ立ち尽くしていた。
そんな彼女の様子に気付いたジェイドはやっと掴んだ手を離し、口では「すみません」と言いながらまるで悪びれた様子がない。その視線は明らかに「お前が悪い」とその人を責めていて、彼女の手首に残った痕などどうでもいいとばかりに気にもしていないようだった。
「大丈夫ですか」
仕方なく僕が代わりに声を掛ければ、彼女は小さく震えたままこくこくと頷いた。よほど怖かったんだろう。さっきまでの威勢はどこへやら、可哀想なくらいに怯えている。
これでもう十分夢は砕けただろうに、更に追い討ちをかけるようなジェイドの言葉が彼女を貫く。
「あなたが彼に何を言ったかは知りませんが、もしあなたが彼に害を為すようなら僕は許しません」
こいつ見る目もないけど容赦もないなと、酷く冷たい横顔をしたジェイドを見上げながらそんな事を思っていた。
「少なくとも、僕は名前も覚えていないあなたよりアズールの方がよほど大切です」
彼女に向かってそう言い捨てると、今度は僕の手を掴んでジェイドがぐんぐんと歩き始める。ジェイドの長い足で進まれては引きずられてしまうので、僕も仕方なく歩調を速めて着いていくしかなかった。
ジェイドがあまりにぐいぐい引っ張るから突っ込む余裕もなかったけど、こいつ今サラッとすごい事言わなかったか?
一緒に寝た女の名前すら覚えていないのもアレだし、でもそれより、僕のことが大切だと、ジェイドの声がはっきりと言った。
掴まれた手が熱い。
延々早足で歩いているせいで動悸がしているのだと思いたいけど、多分それだけじゃないのはもうわかっている。
胸がドキドキしてる。
この感情は、やっぱり恋なのかもしれない。
「……申し訳ありませんでした。僕のことであなたが傷付けられるのは我慢ならなくて」
一体どこまで行くつもりだと思い始めていた頃、ようやく怒りが落ち着いたらしいジェイドが立ち止まって言った。
「別に大丈夫ですよ」
「ですが、」
「あの人に何を言われようが僕にとっては痛くも痒くもない。別に大したことではありません」
「でも、僕が嫌なんです。例え誰であろうとあなたの尊厳を傷つけるのは我慢ならない。あなたを損なうようなことは許せないんです」
ずいぶんと大袈裟な物言いにふっと吹き出しそうになるけど、大真面目に言ってるジェイドを見ているとなんだか慰めてやらなきゃいけないような気分になる。
「よく知らない人に何か言われたところで僕の尊厳が傷付けられることはありません。僕は何も損なわれていませんよ。そうでしょう?」
ほら、と手を広げて僕を見せつけるようにしてやれば、ジェイドは一瞬目を丸めてそれからふっと気が抜けたように笑った。
「そうですね。失礼いたしました、出過ぎた真似を」
「うれしかったですよ」
「え?」
「そんなに僕が大切なんです?」
「あ……」
僕の不意打ちにジェイドがみるみる顔を赤らめて、さっきの彼女には悪いけどジェイドのこんな顔を見られるのがおそらく自分だけであることがつい嬉しくなってしまう。
「それに、初めて名前を呼んでくれましたね」
「あ……っ、申し訳ありません馴れ馴れしく……!」
「別に構いませんよ。僕だって勝手にジェイドと呼んでますし。どうぞこれからも名前で呼んでください」
僕は本当にうれしくて上機嫌でそう言ったのに、ジェイドはまた「あの顔」をした。今にも泣き出しそうな、悲しみを無理やり押し込めたみたいな辛そうな顔を。
「……いえ、やはりもう、僕に関わらないでください」
この期に及んで、ジェイドがどうしてここまで頑ななのか僕には分からなかった。
僕が大切だと言ったくせに。
僕が傷付けられそうだと思っただけで血相を変えて飛んでくるくせに、どうして。
「……最近は僕が話しかけると嬉しそうにしてくれている気がしたんですが、違いました? 僕に会えるのを楽しみにしてくれているのかと」
はじめこそ戸惑っていたけど、少しずつ変わってくれたと思ってた。
僕が声を掛けるとふっと表情が柔らかくなって、うれしさが隠せていないようなはにかんだ笑顔を見せてくれるのがうれしかった。
だからこのまま、少しずつ僕を受け入れてくれるのかと、そう思ってたのに。
「……だからダメなんです」
「どうして」
「あなたに会えるのがうれしくて、楽しい時間が増えるほど、僕はつらいんです」
「は……? 意味がわからない。うれしくて楽しいならいいことじゃありませんか」
それなのに辛いと言う意味が分からない。
全く、ジェイドについて僕は分からないことばかりだ。
「いいことは続かないんですよアズール。幸せには必ず終わりがあるんです」
「なんだそれ……。終わりが怖いから僕と一緒にいたくないと?」
「あなたにはわからないでしょう」
「えぇ全く分かりませんね」
「そうでしょう。だから僕たちは絶対に分かり合えない。それならはじめから一緒にいない方がいいんです。あなたの貴重な時間を僕のために無駄にすることはありません」
そう言って一方的に跳ねつけようとするジェイドに無性に腹が立った。
本当にそうなのか。
確かに価値観の違いは致命的な問題かもしれないけど、考え方が違うからと言って話し合いもせずはじめから諦めることが本当に正しいのか?
違いを埋めていくことは不可能?
すり合わせは時間の無駄
いや、そんなことはないはずだ。
「僕は無駄だとは思いません」
「……アズール、僕たちは違うんです。絶対に分かり合えない」
「僕は諦めません」
「アズール……」
「僕は欲しいと思ったものは手に入れないと気が済まない。だからジェイド、僕はお前のことも諦めません」
ジェイドがまたあの顔をした。
やっぱり僕は知りたい。
お前がどうしてそんな顔をするのか。
どうすればお前にそんな顔をさせなくて済むのか。
いつか必ずくると言う幸せの終わりを、最大限まで引き延ばすにはどうしたらいいか。
そしてその幸せをジェイドと一緒に過ごすために僕は何をしたらいいのか。
今はまだ、全てが真っ暗闇の中にあるみたいに何も見えなかった。