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    onoue_mha

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    onoue_mha

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    Domとバレたくない水戸とSubの三井の話

    DomSub洋三「ちっ、みっともねぇな」

     舌打ちの後に響いた冷たい不機嫌な男の声に三井は顔を青ざめさせた。
     顔を上げれば路地裏にしゃがみ込んだ三井を見下ろすリーゼントの学ランがいた。顔は逆光でよく見えなかった。
     Glareを浴びせ、執拗に追ってきた男達からなんとか逃げたと思ったのに、新手に捕まってしまったようだ。

    「はっ、はぁ、はっ、んだよ、てめ」

     焦りと怯えで呼吸が浅い。それでも虚勢を張ろうと脅しつけるような声を出すが、言葉尻は震えていた。
     サブドロップに落ちかけていた。視界が狭く、暗い。肺が縮んだような、喉が狭くなったような苦しさに三井は自分のシャツの首元を掴んだ。額には脂汗が滲み、視界は生理的に浮かんだ涙で滲んでいる。
     男は三井の前にしゃがみ込み、顔を覗き込んだ。

    「助けてほしいか」
    「ちっ、どっか、行け……」

     男が口にした言葉の意味が頭に入ってこなかった。男の冷たい目と表情と、言わんとする言葉がチグハグで理解できなかった。

    「……おい、三井見つかったか!」
    「ちっ、あいつどこ行った?」

     その時、少し離れた場所から三井を探す声が聞こえた。思わず肩を震わせた三井に男がもう一度口を開いた。

    「助けて欲しいか」

     三井を探す男達は、以前にも一度三井にGlareを浴びせてきたことがある。動けなくなった三井を跪かせ、Strip──服を脱げと発したコマンドに必死で抗っていたところを鉄男に助けられた。男同士であるにもかかわらず下卑た欲望を向ける男達に捕まれば、なにをされるかなんて火を見るより明らかだ。
     あの男たちと目の前の男を比べれば男の方がまだマシに思えた。男は冷たい目を三井に向けるが、そこには男達のような欲望は見えない。助けてやるの言葉に嘘はないように思えた。
     身も知らずの男を頼り、助けられるなんて嫌だ。見なかったことにして、捨て置いて欲しい。だがそうすれば、すぐにあの男たちに捕まってしまう。
     三井は散々躊躇して、結局小さく頷いた。自分でさえも儘ならない、ダイナミクスなんてクソ喰らえだ。
     男の手が三井の頬に触れた。熱も情もない、そこらへんの空き缶なんかを触るのと変わらない手だったが、それに却ってホッとした。手からはかすかに煙草のにおいがした。
    「Look」
     男のコマンドに従って、三井は男を見上げた。顔は相変わらず逆光でよく見えなかった。
    「ん、いい子」
     男が三井の頭を引き寄せて、耳元でそっと静かな声で労った。与えられた言葉に強張っていた体から力が抜けた。男の声は素っ気ないが、不思議と自分に酷いことはしないと信じられる気がした。三井は男の肩に自分の額を擦り付けると、背中を男がゆっくりと叩いた。
    「目をつぶって、そう、ゆっくり息を吐いて」
     男の”指示”に従って、三井はゆっくりと目を閉じた。浅かった呼吸と早かった脈が少しずつ落ち着いてくる。汗で顔や首筋に張り付いていた長い髪を男の指が剥がして整えた。
    「上手だよ、そのまま寝ちまいな」
     子供でもあやすような手に三井は少しづつ凪いでいく。自分の前に立ち塞がっていた男は恐ろしく巨大に見えたのに、三井が身を預ける体は思ったよりも小柄で体も薄かった。もしかしたら自分よりも年下かもしれない。そんなことを思いながら三井は意識を手放した。



    「ん、どこだ、ここ……?」
     気付けば三井は狭いアパートで目を覚ました。見知らぬ部屋の中には誰もいない。ぼんやりとしていた頭がだんだんはっきりしてくる。
     三井は髪をかきあげながら部屋を見回した。部屋も、自分が寝かされていた薄い布団も随分と年季が入っていた。壁には自分のものらしい学ランが掛かっていた。自分を助けた男は見当たらなかった。
     枕元にポカリの細長い缶を見つけ、喉の乾きを覚えた。飲んでいいということだろうと判断して、手を延ばす。ぬるくなったそれは喉を潤すが、かつて馴染んだ甘い味が三井にはひどく苦く感じた。一時期は身近にあったが、久しく口にしていないものだった。
    「……ちっ」
     掠れた舌打が部屋に落ちた。ポカリが置いてあった場所のすぐそばにキーホルダーもついていない、平べったい鍵があった。この部屋の鍵だろうか。
     部屋には人の気配はない。男は三井と鍵を置いて部屋を出ているようだ。三井に礼を言わせるつもりもなく、目が覚めたら勝手に帰れということなのだろう。家探しをすれば身元が分かるものが見つかるかもしれないが、家主がいない家でそこまでする気にはなれなかった。

     朦朧とした意識の中で、自分よりも小さな背中に背負われて運ばれた記憶がある。顎を男の肩に預けながら整髪料のうっすらと甘い香りを嗅いだ気がする。
     
    「……チビだったな」

     ぽつと呟いた声が小さな部屋に落ちた。



     それは三井がバスケ部に復帰する半年くらい前の話だった。

     
     
    ***



    「なあ、お前ってDom?」

     一応は声を潜めているものの、不躾な三井の言葉に水戸は片眉を上げた。

    「アンタ、デリカシーがないってよく言われない?」


     徳男と共に昼食を摂ろうと校舎の屋上に登れば、汗ばむ夏の日差しの下で桜木軍団どもが輪になって飯を食っていた。
     三井たちが体育館を襲撃した際は遠慮なくボコボコに殴った挙句、三井を庇って停学になった彼らだが、今では生意気なところもあるもののわだかまりなく三井に接する。今では昼休みに屋上で一緒になれば昼食を共にする位にはなっていた。

     昼食を食べ終わった野間と大楠は煙草を吸いに煙が下から見えにくい給水塔の陰に移動し、桜木と高宮はその場で昼寝、徳男は当番で次の授業の準備があるとかで教室に戻り、水戸と三井の傍には誰もいなかった。
     たまたま水戸と二人きりになったので、かねてから聞いてみたかったことを思い切って三井は口にした。
     一年前くらいの話だ。サブドロップしかけた三井を助けたDomの男がいた。名前もわからないし、顔も声もよく覚えていない。ただ水戸を知るうちに記憶の中の男の雰囲気が水戸に重なる気がしてずっと引っ掛かっていて、聞く機会を伺っていたのだ。

    「で、どうなんだよ」
    「そういうのって、人に言うもんじゃないでしょ」
    「言えねぇのか?」
     やっぱりあの男が水戸だったのではないかと期待を込めて三井が水戸を見つめるのに、呆れ交じりのため息で返された。
    「オレはUsualだよ」
    「はぁ? んなワケねぇだろ!」
    「ちょっと、なんでそんなに怒られないといけねぇんだよ」
     うるさ、とわざとらしく水戸が耳を塞いだ。
    「だって……」

     水戸が以前に三井を助けた男であれば、自分のダイナミクスを知っている。だが、あの男でないならば自分のダイナミクスを明らかにするところから説明をせねばならない。
     水戸に自分のダイナミクスを口にするのは構わないが、自衛のためよっぽどの相手でないと口にしない癖がついていたため一瞬躊躇した。口籠った三井に再び水戸がため息をついた。

    「ほら、そういうセンシティブな話題なんだから簡単に口にするんじゃねぇよ」
     水戸が苦笑しながら三井を窘め、この話題はこれっきりだと言うように立ち上がろうとするのを慌てて腕を掴んで引き留めた。
    「どうした?」
    「オレ、Subなんだよ」
     立ち上がり掛けていた水戸がすとんと再び座り込んで、咎める目を三井に向けた。
    「三井さんさぁ……」
    「おい、んな目で見てんじゃねぇよ。
     別にお前だったら、知ったからって変なことしねぇだろ」
    「あんたさぁ、そういうことを簡単に……ッ。
     まあ信頼してくれてありがとう?」
     水戸は歯切れ悪くため息をついて、それから皮肉げに笑った。で?、と首を傾けながら続きを促すので三井は言葉を続けた。
    「前にサブドロップしかかってた時に助けてくれたDomがいるんだけど、アレ、お前じゃねぇの?」
    「……さあ、心当たりないけど。
     そいつのこと探してんの?」
    「そん時、ちゃんと礼を言えなかったから、ちゃんと礼を言いたくて」
    「そいつも礼を言われたくてしたんじゃねぇだろうし、気にする必要もないんじゃね?」
     水戸は三井の気持ちを軽くしようと言ってくれているようだが、その言い振りは自分の感謝を否定されているように感じた。
    「そうかもしれねぇけど、オレは助けられたことに感謝してんだよ。
     大体お前はオレが体育館に殴り込んだ時のこともろくに礼を言わせなかったけどよぉ、あん時のことだって俺はお前に感謝してんだからな!」
     喋るうちに先日の体育館襲撃事件後のことを思い出して、声が荒くなる。水戸は困ったような苦笑を浮かべた。
     謹慎明けの水戸たちに頭を下げた三井を、彼らは短かくなった髪をからかってまぜっ返して、まともに礼を言わせてくれなかった。 
    「悪かったって。ミッチーはちゃんと筋を通したい奴だってのはわかったから。
     それにこの前のことだって、そんな気にすんなよ。
     アンタが真剣にバスケに向き合ってるのかも、見てたらわかるよ。ミッチーのプレイでお釣りが来るくらいだって思ってるから」
     な、と水戸が首を傾けて三井の顔を覗き込む。不良の性分と照れから素直に感謝を受け入れられないようだった。
    「……チッ。っていうか、お前、オレのプレイ見てんの?」
     水戸の殊勝な態度に三井は舌を打つも、気になった言葉を聞き返す。
    「見てるよ。ミッチーのスリーもきれいだなって見てるし、この前の翔陽戦だって、ミッチーのこと応援したじゃん」
    「いや、聞こえてたけど。なんつぅーか、その場のノリみてぇなもんかと」
    「勢いで言っちまったとこはあるけど、本音だよ」
     やわらかく微笑んだ水戸にうれしくなって、三井も笑い返した。
    「マジか、ありがとよ!」
     屈託なく笑った三井に水戸が小さく息を吐いた。呆れた顔に首を傾げるが、なんでもないというように水戸が首を振った。
    「なあ、やっぱオレを助けたのお前じゃねぇの?」
     おそらく自分を助けた男も水戸と同じように真正面から礼を受け取らない性分だったのだろう。そう思うと、再び男と水戸が重なった。
    「オレじゃねぇって。
     大体オレがDomだったら、ミッチーが体育館襲撃に来た時にコマンドで言うこと聞かせてるよ」
    「そりゃそうだけどよぉ、水戸は喧嘩にそういうの持ち出したりしねぇだろ」
    「まあ、そういうのダセェよな」
     こともなげに水戸は言い捨てる。だが、そんなことができるDomがどれくらいいると言うのだ。少なくとも三井が不良の時に出会ったDomは感情のままに発露する奴ばかりで、理性でダイナミクスを制御できる奴はいなかった。
    「まっ、そいつだって、ミッチーのこと忘れてねぇんじゃねぇの。だから、いつかどっかで会ったら声掛けてくれるよ」
     な、と水戸が励ますように笑う。
    「そっか、あーでも、お前がそいつだったらいいと思ったんだけどな」
    「ご期待にそえず、すみませんねぇ。
     なあ、そいつってどんな奴だったの?」
     この話はもう終わり、とばかりに水戸が話を変えた。
    「サブドロップ落ちかけてたから、顔とかちゃんと見れてねぇんだよな。
     でも結構チビだった気がする」
    「恩人にひどい言い種だな」
     水戸が苦笑する。
    「あと、そいつのケアがすごかったんだよ」
    「すごかったって?」
    「オレ、スペース入ったことほとんどねぇんだよな。入っても時間かかるし、すっげぇ浅いところまでしか行けてない感じなんだけどよ。
     そいつの時はすぐにスペース入ったし、すっげぇ深いところまで行けたんだよな」
    「それはサブドロップ落ちかけてたってのもあるんじゃない? 反動で安心してスペース入れたみたいな」
    「うーんそうかも?
     でも、それ以来誰とやっても物足りねぇんだよな」
     特定のパートナーがいない場合に医療機関でケアを受けられるプログラムがある。相手は専門の資格を持つ医療従事者のためケアも手馴れているが、どうにも三井にはしっくりこなかった。
    「なんかその言い方ってヤラしいな。
     そいつと、もう一度プレイしてぇの?」
    「それは正直、ある」
    「ハハ、あんた素直だね。
     じゃあもしオレがそいつだったら、オレとプレイしたかったってこと?」
     水戸がからかいを浮かべた目で三井の顔を覗き込む。黒い目がじっと三井を見つめていた。
    「んなんじゃねぇ、よ……?」
     もしも水戸があのDomだったらいい、と思う気持ちとは別にあの時のような深いサブスペースに入ってみたいと思うことはあった。ただその二つを紐づけて考えたことはなかった。つまり水戸と具体的なプレイを想像したことはなかった。
     水戸の言葉をトリガーに初めて──水戸が低い落ち着いた声で三井に跪くことを命じ、膝を折った三井に自分を見ろと言う言葉のままに顔を上げる──そんなシーンを想像してしまった。
     瞬間、三井の背筋がぞくりと震え、腹の奥から掻き立てられるように熱が沸いた。とろんと熱っぽくうるみ出した三井の目に、水戸が目を大きく見開いた。
    「えっ、うぁっ……?」
    「ちょ、ミッチー待て待て!」
     戸惑いながら震える三井に慌てた水戸がペシペシと三井の頬を叩いて正気づけようとする。
    「みと、」
    「ちょっとあんた、変な想像しただろ。目ヤベェって」
     水戸が周囲を慮って潜めた声で三井の顔を覗き込む。崩れ落ちそうになる体を支えようと思わず水戸の腕に縋った。がっしりとした三井のことなど容易に組み伏すこともできそうな固い腕に触れた瞬間、再び腹の奥からざわついた。
    「ん、どーした?」
     不穏な空気を察したのか、桜木が目を覚まし寝ぼけ眼に三井たちに声を掛けた。それを気にするな、と水戸が手を振る。
    「ミッチー具合悪いみてぇだから、保健室連れてくわ」
    「なぬ、大丈夫かミッチー。手伝うか?」
    「いい、いい。
     お前らはゆっくりしてろ」
     ぱちりと目をさまして慌てだした顔をした桜木を水戸が制し、三井の肩から腕を回して腰を抱えながら立ち上がった。
    「ミッチー歩ける?」
    「あ……大丈夫だから気にすんな」
    「オレに寄りかかっちゃっていいから」
     三井より頭一つ分は小さいのに、がっしりとした体が三井を引き上げる。水戸の体温にほっと息を着きたくなるような、もっとその温かさに体を摺り寄せたいような感覚が湧き、三井は戸惑った。こんなにダイナミクスが制御できなくなったのは初めてだ。そのせいか水戸の体温ひとつでこんなに動揺するなんて。慌てて自分の足で立とうとした三井を水戸がいいからと力強く腰を引き寄せた。
    「いい、お前、大げさだって」
    「無理すんな。ミッチー歩けてないじゃん」
     屋上から室内に入り、暗くなった視界に目を瞬かせているうちに階段を下りて特別教室が並ぶ廊下を抱えられたまま進む。めったに人が来ないような一番奥の教室に入り、水戸が鍵を閉めると三井を床に放り出した。
    「アンタ、自分のダイナミクスくらいコントロールしろよ。抑制剤は?」
    「バスケの邪魔にならから飲んでねぇ、けど、病院でプレイしてる……っ。
     こんなこと、なったことねぇ……っ」
     バスケ部に復帰してから抑制剤は指先の感覚が鈍くなるような気がして飲まないようにしていた。代わりに定期的に医療機関でプレイはしていた。
    「校内で誰かプレイできる奴いる? いるんだったら、呼んでくるけど」
    「い、ねぇし、緊急抑制剤あるから」
     普段は医療機関を受診してプレイをしているし、校内でプレイをしたことのある相手はいない。そもそもDomだと知ってる奴がいなかった。
     スラックスのポケットをあさり、いつも持ち歩いている小さなポーチを取り出す。中から緊急抑制剤を探すが、手が震えて取り出せない。見かねた水戸がポーチを奪い、ペン型の注入器を取り出した。
    「これ? 腹でいい?」
    「や、脚、で」
     腹は肉がついていないため打ち損ねる時があるから太腿の外側にしろと医師から言われたのを思い出し、ベルトに手を掛けるが手が震えて空振る。水戸が舌打ちをつくと、三井のベルトを外してスラックスを勢いよく膝までずり下した。
    「わりぃ、水戸」
     ガタガタと震える体を抑え込んで、三井はなんとか謝罪を口にした。
     水戸は注入器を軽く振り溶液をかきまぜ、針を上に向けた。溶液に濁りがないかを確認すると軽く二回はじき、針を押し出しながら空気を抜く様子を三井はうつろな目で見守った。なんでそんなに手馴れてんだよ。
    「いいから。じっとしてろよ」
     水戸は三井が動かないように右脚の付け根を抑えつけ、躊躇なく腿に針を刺した。
    「……っ」
     痛みに一瞬体が強張るが水戸は動じる様子もなく針を刺し続ける。
     水戸は眉間に深い皺を刻み、苦々しげに三井を見下ろしていた。その表情にやはりいつかの男の面影が重なった。水戸を見上げる三井の顔は、物欲しげな顔をしているだろう。目の前の男からのコマンドが欲しいと体が求めている。水戸からすれば、ひどく見苦しいに違いない。
    「んな目で見んなよ、三井さん」
     苦い顔で水戸が三井の前にしゃがみ込んだ。ひんやりとした手が三井の頬を包む。三井を助けた男の手は無機質だったが、水戸の手つきは優しかった。この手に触られただけで、衝動が少しだけ満たされるような気がした。
    「水戸、コマンド欲しい、」
    「ごめん、コマンドはできないけど、落ち着くまではこうしてるから」
     ち、と水戸が小さく舌を打ち、自分の肩に三井の頭を引き寄せた。硬い手が三井の背を宥めるようにゆっくりと叩く。
     ヤニのにおいがする学ランをぎゅっと握りしめる。ふっとヤニの匂いに紛れて、整髪料の香りがした。その香りとシチュエーションも相まって、以前に三井を助けた男を思い出す。あの男も同じ匂いを身につけていた。記憶にあるのは学ランと、自分より低い背、それからヤニと整髪料の香りだけだが、全てが水戸と重なる。やはり水戸はあの男だと三井は確信した。
     水戸からコマンドが欲しい。上手くできたら水戸の低い声で三井さんいい子だね、よくできたね、と褒めて、優しく頭を撫でて抱きしめて欲しい。
     こんなのケアにもあたらない。だってその前のコマンドがないのだから。ただ三井が落ち着くのを待ってるだけだ。だから物足りない。多少気がまぎれる程度の満足感しか得られない。水戸は三井が欲しいものを与えられるのに、与えてくれない。見ず知らずだったあの時の自分には与えてくれたのに、“三井”には与えてくれないらしい。
    「水戸、」
    「ん」
     じわっと浮かんだ涙がこぼれないよう、三井は慌てて目を閉じた。三井の背を水戸が優しくなでる。その手つきにひどく腹が立った。こんな腕など振り払って教室から出ていけばいいのに、それもできない。三井が欲しいものを与えてくれないのに、そんな腕でも三井には欲しいものだった。

     水戸があの男だといいと思っていた。
     だが水戸は三井に自分があの男だと口にする気はないらしい。礼を受け取る気がないからだと思っていたが、そうではないのだ。三井とプレイをしたくないから、あの時助けたことも、自分がDomだということも口にしないのだ。そんなことをぐるぐると考えているうちに意識は少しずつ薄くなっていく。
     だったらこんな中途半端な腕などいらない、そう思うのに制御が利かない体は水戸の体から抜け出せなかった。



    「あ……?」
     チャイムの音に三井は顔を上げた。静かだった校舎内が少しずつざわつきだす気配に意識がはっきりとしてくる。
    「三井さん、平気?」
     抑制剤が効いたようでいつの間にか脈は落ち着き、腹の奥で渦巻いていた衝動は鎮まっていた。ぼんやりと声の方向を見下ろすと水戸と目が合う。
    「ちょっとぼんやりしてるけど、落ち着いたみたいだね」
     水戸が三井の目元とまつ毛の先を親指の腹で拭う。涙が肌の上で乾いたのを取ってくれたらしい。
    「っと、あ、水戸! わりぃ!」
     気付けば壁を背に座る水戸の膝の上に乗り、腰に足を回してずっとしがみついていたようだった。慌てて立ち上がろうとした三井を水戸が腰に回していた腕に力を込めて引き留めた。
    「急に立ち上がったら危ないって」
     な、と心配そうな顔が近い場所で三井を見上げた。その顔に三井は喉の奥がぎゅっと締まった。
     水戸は優しい。桜木や軍団のような身内には際限なく大事に扱い、そのラインより外には一線を引いているのは見ていたらわかる。それでも赤木の妹や宮城たちバスケ部、それから自分のような知り合いにも桜木達ほどではないにしても優しく接する。そんな優しを見せてくれるのに、Domとしてのコマンドは三井には与えてくれなかった。抑制剤を打った直後にぐるぐると考えていたことを思い出す。
     三井は水戸に自分を助けた男かと聞いた時、そうだ、という答えしか想像していなかった。水戸が頷けば改めて感謝を伝え、あわよくばもう一度プレイをしたいと思っていた。あの時のケアをもう一度してみたかったというのもあった。ただそれだけじゃなく、水戸自身に対して襲撃事件で友人の居場所を守るために完膚なきまでに自分を叩きのめしながら、結局自身を庇った侠気や今では過去の蟠りなく自分を応援するような器のデカさに惹かれていたのだ。つまり自分はいつの間にか水戸に惚れていた上、あの時の過ちを許されたためか、図々しいことに水戸に受け入れてもらえると思い上がっていたらしい。あの時のことを水戸が許したといって三井をSubとして受け入れるかはまた別であると言うのに。

    「……もう大丈夫だ、悪かったな」
     水戸の胸を押しやりながら立ち上がる。水戸がそっと三井の体を支えていた腕から力を抜いた。
     立ち眩みとかはなさそうだし、放課後の練習にも支障はなさそうだ。
    「足、痺れてねぇか?」
    「ん、オレはへーき。ミッチーも膝とか、大丈夫?」
     水戸も立ち上がり、ケツの埃を軽く払った。おう、と頷いた三井に、そう、と水戸が緩く笑った。
    「五限はさぼっちまったけど、六限は間に合うから早く行きな」
     単位ヤベェーんだろ、と促す水戸と並んで二人で空き教室を出た。
    「水戸、助かった。ありがとな」
    「大したことしてねぇよ」
     三井の礼を水戸は軽く笑って受け流した。三井がどんなに感謝していたって、水戸には言葉通り大したことがないのだろう。水戸と出会ってから今まで、ずっとそんなもんだったのかもしれない。
     なぜ自分にはコマンドをくれないのかを確かめれば、望まぬ答えが返ってくるのは容易に想像が着くので、聞きたくない。そもそもなぜ三井が落ち着くまで付き合ってくれたのかを聞いても、水戸には他意はないのだろう。これが三井でなくて、宮城でも、赤木妹でも、同じことをやったに違いない。ここまでは水戸はただの知り合いであっても付き合ってくれるラインなのだろう。
     三井の顔が翳ったのを心配そうに水戸が顔を覗き込んだ。
    「まだキツイんだったら、保健室行く?
     放課後まで休んでから部活出なよ」
    「いやいい、出席日数やべぇし。お前もサボんなよ」
    「今日はもういいかな」
     ちょうど屋上に登る階段に辿り着き、水戸はヘラっと笑いながら右手の人差し指と薬指を立ててタバコを吸う真似をした。サボって屋上でタバコを吸うつもりのようだ。
    「程々にしとけよ」
     ひらひらと手を振って水戸が三井を見送る。その涼しいスカした顔が無性に小憎たらしかった。
    「水戸、ありがとな」
    「ちゃんと病院でケア受けなよ。
     緊急抑制剤ずっと使ってっと、慣れて効かなくなっちまんだろ」
    「おー、もう迷惑掛けねぇようにするから」
    「三井さん」
     水戸から顔を逸らし、立ち去ろうと足を踏み出した三井の腕を強い力が引き留めた。
    「んだよ」
    「三井さんが心配だから言ってるの。
     アンタ自分で抑制剤も打てねぇじゃん。今回みたいにサブドロップしちまった時に周りに碌でもないDomしかいなかったらどうするの」
    「それは……」
     目を泳がせた三井をじっと水戸が見つめる。その瞳はたじろぐ程に真剣で、心から三井を心配しているように見えた。
    「望んじゃいねぇ奴とplayして、そのままヤられたくねぇだろ。
     ちゃんと自衛しろって言ってんの」
     わかった? と釘を刺してくる水戸に三井は頷いた。それでもお前がplayしてくれればいいだろうが、という不満が表情に出てしまったのだろう、呆れたように水戸が眉を上げた。
    「本当、Subって我儘でしょうがないヤツだね」
     水戸が呆れ混じりに笑いながら三井の頬に触れた。
    「……水戸?」
    「ほらもう授業行きな」 
     空気の読めないチャイムが六限の始まりを告げ出す。ポンと水戸が三井の肩を叩き、促した。
    「チッ、じゃあな!
     今日はありがとな!」
     駆け出しながら振り向いて礼を言う三井にひらひらと水戸が手を振る。次の授業は確か英語だった。担当のムラタはチャイムの音と同時に職員室を出るので今からでもヤツが来る前に教室に滑り込めるだろう。
     廊下を曲がり際に振り向けば、先程の場所に立ったままの水戸と目が合う。三井が水戸に手を振れば、水戸は早く行きなとばかりに苦笑しながら緩く手を振りかえした。
     水戸の表情に顔が歪みそうになるのを抑えて、前を見る。
     恋の自覚と同時に失恋をして、その上惚れ直すなんて、なんて日だ、そう思いながら三井は教室に向かって廊下を駆けた。
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