環壮パロ ザア、とすぐ近くで水の音がした。
「降り始めたのか……」
昨日も、明日も雨。どうせ自宅から出ないのだから何も問題はない。壮五は部屋の中の定位置から外を見やり、パタン、とノートパソコンを閉じた。
人間とは不思議なもので、何もせずとも腹が減る。むしろ何もしていないからこそ、やることがなくて腹が減るのかもしれない。
「どうしようかな……コンビニか、スーパーか……」
部屋の鍵、財布、スマートフォン。順にポケットへ入れながら、表の道を右へ行くか、左へ行くかを考える。
今日もコンビニでいいか。あそこにはお気に入りのハンドクリームが売っているから買い足しておこう。まだ残りも予備もあるけれど、毎日毎時使うから、いくらあっても困ることはない。
靴を履き、ビニール傘を広げ、叩き付けるような雨の中へと出る。目当てのコンビニはマンションを出て二つ目の角を曲がった先だ。コンビニ界では大手で、駅に近いこともあり、割と品揃えもいい。
「いらっしゃいませー」
愛想の欠片もない店員の声を聞きながら、ベタつきの少ない愛用のハンドクリームと食パン、おにぎりを適当に掴み、レジへ。他に用事も思い付かず、すぐに来た道を引き返す。
何も変わらない日常。明日も、明後日も、きっと。
「冷た……」
いつ水溜まりを踏んだのか、左の靴の先がじっとりと濡れていた。この分だと靴下も濡れているだろう。そこから体温が奪われていく感覚に小さく身震いする。羽織るものを着てくればよかったな、と自然に急ぎ足になった。
手入れされた植え込みを横目に見ながらいつもの角を曲がる。傘の水の粒を払い、マンションのオートロックを抜け、エレベーターで四階に着くと。
「……え」
壮五の部屋の前、手前から数えて五番目のドアの横に、何かがあった。
「なんだ……?」
真っ黒な影のような塊。箱ではない、歪な形。リュックのような荷物に見えた。しかも大きい。気味が悪いな、と思ったが、配達の人間が留守だからと置いていったのかもと考え直す。それでも、おそるおそる、そっと触れる。
「……うお」
「わ」
それは、人だった。黒い布だと思ったのはパーカーだったらしい。そのフードの内側から、澄んだ水色の瞳が覗き込むように見上げてくる。
すごく、綺麗。ぼんやりとそう思っていると。
「……キレーな顔」
全身をぐっしょりと濡らした男が、ぼそり、壮五の考えをなぞるように呟いた。
「ええと……そこで何してるの?」
「あー、雨宿り?」
どうして疑問系なんだ。そう思いつつも、何故だか悪い人間には思えなくて。少し考えてから、続ける。
「行くところ、ないの?」
「ない。アテが外れた」
「そう……。とにかく、そのままじゃ風邪を引くね」
壮五は鞄に手を入れると鍵を開け、ドアも開けて。どうぞ、と黒い塊へ声をかけた。
「え?」
「そのままそこにいられても困るから。雨宿りなら中ですればいい」
垂れた目尻に絆されたのか。壮五自身もどうしてそんなことを言ったのか分からなかった。見ず知らずの人間を自宅に招き入れるなんて。知り合いですら自分のテリトリーに入れたこともないのに。
「もしかして……あんた、俺のこと知ってんの?」
「えっ? いや、知らないけど……。あれ、まさか親戚とかだったり……それか生き別れた兄弟とか……」
「……ちげー」
知らないならいい。男は早口にそう言い、ぺこ、と頭を下げた。
「んじゃあ……おじゃま、します」
「どうぞ。シャワーを浴びるなら右の奥のドアだよ」
「……は?」
「え?」
「あー……世話んなろうとしてんのにアレなんだけど、あんたさ、警戒心とかねーの?」
「いや、それは君もだろう。僕が突然背後から襲う可能性もあるじゃないか」
「……あんたみたいな細っこい体、簡単に一捻りだぞ。俺そこそこ鍛えてるし。ほら、体格差、見て」
「自分の身は自分で守れるよ。これでも護身術を習っていたから。心配ご無用」
「……武士……?」
「え?」
「なあ、護身術ってどんなの? それされたら腕折れる?」
「可能性はあるね。暴れなければそんなに痛くはしないし、その場合はこっちも無傷では済まないから、大人しくしていてくれると助かるかな」
「…………じゃあ、風呂」
「どうぞ」
「あ……でも、着替え、ない」
あんたのは無理そう、と腰の辺りに視線を向けられ、ああ、と納得する。自分が細身だと自覚はあるが、向こうも意外とがっしりした体型らしい。背中は猫のように丸まっているが、かなり背が高そうだ。
「……いらねーか」
「え?」
大きめのシャツがあった気がする、と考えていた壮五は、その声に顔を上げて。ふ、と近付いてくる影を認識しながらも、それを避けなかった。
「…………なんでキス?」
「したかったから?」
「疑問に疑問で返さないでくれないか」
「だって俺、なんも持ってない。金もないし……だから、雨宿りのお礼、体で返そうかなって」
「体って……セックスするの? 僕と?」
「男同士でもできるんだって。シたことないから気持ちいいかどーか知らないけど」
「そう……」
まあ、試してみてもいいかもしれない。暇だし、時間はたくさんある。繰り返す日常に少しの変化ぐらい求めたってバチは当たらないだろう。
「それでいいよ」
「え」
「とりあえず、お風呂どうぞ。次に僕も入るから」
「……ここ湯船ある?」
「あ、ごめん、温まりたいよね」
「じゃなくて、あんたも一緒に入ろーよ」
冷えた手に手首をぱしんと掴まれた。風呂どっちだっけ、と雫をしたたらせながらきょろきょろする頭に手を伸ばし、そっと添えて。振り向いたところに唇を寄せ、ちゅう、と下唇だけを吸う。
「……なにそれエロい」
正確に言えばきちんと届かなかったからだけなのだが、そのやり方が気に入ったようだ。もっかいして、と素直にねだってくる。
壮五は再び柔らかに下唇を食んでみた。
「……やっぱり」
「え、なに」
「嫌悪感なかったなって。今さらだけど」
「けんおかん?」
「他人に触れられるのが苦手なんだ。でも何も思わなかったから。君からされた時も」
「さっきのちゅー?」
「…………ふ」
「なんで笑うん」
「あ……ごめん。可愛いらしい響きだなって」
大人びて見えるけれど、もしかしたらまだ学生なのだろうか。かすかに煙草の匂いがするから未成年ではなさそうだけれど。考えを巡らせてみたが、面倒になって、やめた。
ねえ、と呼んで、今度は両手で頭を引き寄せる。男も自分から少し屈み、顔を傾けてキスに応じた。
「……ちゅーすんの好きなん?」
「自分でも知らなかったけど、嫌いじゃないみたいだ」
「なにそれ」
今度はその男が小さく笑う。そう言えばまだ名前を聞いてないな。壮五はぼんやり思いながら、ぺろ、と唇の隙間を舐めてくる舌を口内へと受け入れた。