日付が変わってもう小一時間経っている。予定通り進んでいれば今頃はとっくに家に帰ってベッドの中に入っているはずだったのに、現実の僕はほとんど通ったこともないような路上で寒さに震えそうになりながらゆっくり歩いている。原因は隣にいる酔っ払いで、ゆっくり歩いているのもこいつの歩幅に合わせているせいだ。
カインのことはずっと前から気に入らなかった。第一印象から最悪だった。就活で神経をすり減らしたのだろう陰気な雰囲気の両隣のやつらと違って、まぶしいほどの笑顔で自己紹介を始めたときからずっと。実際に働き始めてからも、例の陰気そうな同期の連中に明るく声をかけて、初対面らしいのにあっという間に仲良くなっていた。先輩や上司からの印象も、ノリのいい元気な、仕事の飲み込みも早い将来有望な後輩、といったもので固まっているようだった。が、もちろん僕はそんな感情は抱いていなかった。僕はあいつに対して、弱みを見つけて壊してやりたい、その評価をなんとかしてどん底まで落としてやりたい、そんな気持ちしか持っていなかった。そのために面倒な仕事をめちゃくちゃな納期で押し付けても、あいつは、勉強になります、の一言で受け入れた。しかも僕の大嫌いなあの太陽みたいな笑顔すら浮かべているのだから最悪だった。
そういうわけでもうとっくにあいつの印象は最悪だったのだけれど、今日行われた歓迎会でまだ先があることを知った。
ほとんど聞こえなかったけれど、カインは、お仲間とサークル活動をしたりボランティアにも参加したりと充実した大学生活を送ってきて、今は働き出したばかりだけれど実家に仕送りをいくらか送っていて、とお手本のような優等生の生き方をしているようだった。けれど家事全般は苦手だと言っていて、僕以外のやつらはそんなところが親しみやすいと言って笑っていた。席が離れていたので詳しい内容はわからなかったけれど。……べつに聞き耳を立てていたわけじゃない。声が大きいから嫌でも聞こえてきたんだ。
カインはそういう男だから、きっと飲み方も行儀がいいんだと思っていた。場を盛り上げつつ、けれど酔いつぶれるほどは飲まず、酔っ払いの世話をしてやるようなやつだと思っていた。実際には、酔いつぶれて世話をされる側の人間だった。
本当は、僕は歓迎会自体参加したくなかった。強制参加なんて悪しき文化がなければ絶対に参加しなかった。場を壊さない程度に飲んで切り上げようと思っていた。それなのにこいつが、今新しい料理を頼んだからそれを食べてから、とか、このカクテルがおすすめだからこれを飲んでから、とか。そんなふうにさりげなく引き止めてきて、その誘いを断ることなんて許されない空気になっていて、それでずるずると最後まで残ってしまった。今思うと、元から僕の評判は(仕事以外では)それほどよいわけじゃなかったんだから、無視して帰ってもよかったのかもしれない。けれど、あの場ではどうしてもそれを決行する気にはなれなかった。
他のやつらが帰るときには引き止めないから、あいつはいいわけ? と聞くと、女性だから遅くなると危ないだとか、お子さんがいるから早く帰らないといけないだとか、理由をつけて見送っていた。僕は自分が帰るための理由を見つけようと思って聞いていただけなのに、まわりのやつらはなにを勘違いしたのか、オーエンが誰かとそんなに話すなんて珍しい、おまえでもカインが相手だと甘くなるんだな、とはやし立ててきてうざかった。カインはカインで僕と仲良くなれたとでも思ったのかうれしそうに笑っていて本当にむかついた。
ということで帰れないままでいたところ、さらに面倒なことが起きた。カインはさっき言ったとおり酔いつぶれて介抱される側の人間で、介抱する側の人間に抜てきされたのは僕だったのだ。帰る方向が同じだからという古典的な理由で。
僕と背丈はそう変わらないくせに僕よりも筋肉質で重いそいつに、肩を貸しながら少し歩いた。外の寒さのおかげかカインはしばらくすると自分で歩ける程度には酔いがさめたが、その頃にはもう終電まで五分しかなかった。こいつを残して僕だけ走れば、と思ったが、カインは酔いがさめてからも僕の袖を掴んで離さなかった。僕はこいつが大嫌いで、今だってずいぶん迷惑をかけられてへき易しているのに、なぜだか置いていくのは気が引けて、結局最終電車は僕たちを乗せずに出発していった。実際は駅すら見えない場所にいるから確かなことはわからないけれど、定刻通りであればそのはずだった。
「どうしようかなぁ」
隣の酔っ払いが楽しそうに笑う。笑える状況じゃないだろ、独り言ならいいけど僕に言ってるなら敬語使えよ、と言いたいことはたくさんあったが、ため息しか出てこない。
「タクシーでも呼べば」
「そんな金ないって」
「あっそ。僕は帰るから」
「置いてくなよ」
独り言ではなかったらしい。なんでタメ口なんだよ。敬語使えよ。いらいらしたが、どうせ今の状態じゃこんなことを言っても無駄なので言葉は飲み込んだ。
「じゃあおまえの家まで送ってやるから。タクシーで吐いたりするなよ」
住んでる場所は知らないが、聞いた感じだと僕の家とそう離れていないようだったから、本当に、仕方なく、どうしてもそれ以外の方法がないから妥協して、遠回りになるかもしれないけれど送ってやることにした。金は冷静になってから請求してやろうか、もう面倒だから諦めようか。そこまで考えていたのに、カインは不満げに言う。
「もう今すぐ寝たい……」
「……じゃあそのへんで寝てれば」
「おまえだってタクシーじゃ時間も金もかかるだろ?」
「は? 僕も一緒に路上で寝ろってこと?」
「いや、路上じゃなくてさ……」
タクシー代を奢って、家まで送って……と、ここまで献身的に考えてやったのに、それに文句をつけるのか。いつもはあんな、誰もが思い描く理想の人間みたいな顔してるくせに、これが本性なわけ? そう思うと失望で胸が埋まった。そういうところが嫌いだったはずなのに、こいつの弱みを見つけてやりたいと思っていたはずなのに、いざそれを見つけてもどうしてか楽しい気分にはならなかった。
「ほら、あそことか」
怒りに似た感情を、というか紛れもない怒りを覚えている僕をよそに、カインは笑顔のまま話し続ける。指し示されたほうを見て、一瞬思考が固まった。ネオンで書かれたHOTELという文字が、夜闇の中でぎらぎらと下品な紫色で光っていた。ホテルだ。もちろん、健全なビジネスホテルなんかじゃない。小洒落ていてそうは見えなかった、なんて言い訳もできない、あからさまな……そういうホテルだ。
まさか知らないわけじゃないだろう。なんのつもりなんだ。そう思ってカインのほうに向き直るが、酔っ払いのへにゃへにゃした笑みが張り付いているだけだった。なんとなく理解する。こいつはただ家に帰るのが面倒で、今すぐ寝たくて、そこに都合よく眠れる場所があった、それだけなんだろう。
一人で行けと言ったが、まだうまく歩けないだとか途中で本当に路上で寝るかもしれないだとかうるさかったから、僕はまたこいつの面倒を見続けることになった。なんで置いて帰らないのか自分でもわからない。
ホテルまでの道を、さっきまでと同じペースでゆっくりと歩く。当たり前だが一緒に泊まるつもりはない。歩きながらスマホで「**ホテル 一人 宿泊」と検索して、一人で泊まれる場所であることは確認した。自動ドアの向こうにこいつを押し込んで、僕はさっさとタクシーを呼んで家に帰る。それでようやく長かった今日が終わる。
そのはずだったのに、また予定が狂ってしまった。元凶はさっきから長い時間シャワーを浴びている。ガラス張りなんて悪趣味な部屋じゃなかったのがせめてもの救いだろう。
ホテルまで連れてきてやって、そのまま帰ろうとした僕をこいつは酔っ払いのくせに馬鹿力で自動ドアの向こうに引っ張りこんで、それからは現実逃避をしていたら部屋に着いていた。一応僕だって少しは酔っているから、あまり意識がはっきりしない。そうだ、酔っているせいで合理的な判断が出来なかったんだ。それならこんなにあの男に付き合ってやっていることにも説明がつく。
僕は先にシャワーを浴びたから、カインを待たずにさっさと寝ることにした。ベッドに入って目を閉じる。それからすぐに睡魔が襲ってくると思っていたのに、どうしてかずっと眠れない。枕が変わったから、なんて繊細な理由のせいだろうか。これまでそんなこと……ああ、わかった。シャワーの音がうるさいからだ。絶対そうだ。
カインが戻ってきたら思いきり文句を言ってやろう。そう思うけれど、あいつはそんなの無視してさっさと寝そうな気がする。考えただけでむかついてきた。
というか、会社ではずいぶんと可愛がられているくせに、これまでもそうだっただろうに、危機感がなさすぎるんじゃないか。自分をちやほやしているやつらの中に、そういう目で自分を見ているやつがいる可能性は考えないのか。それとも、そういう目で見られてきたから、逆に僕みたいな安全なやつを見分ける能力みたいなものを身につけたのか。……いや、あの酔っ払いにそんな判断能力があるとは思えない。
「うわ、暗いって!」
「うるさいな、おまえもさっさと寝ろよ」
「え?」
「あとさぁ、ええと……僕以外のやつにこういうことするなよ」
やっと浴室から出てきたカインが、部屋に響く大声で言いながら照明をつける。暗闇に慣れていた目にはまぶしすぎて、腕で目元を隠す。それから、一応釘をさしておいてやる。べつに、こいつがこれからも同じことを繰り返して、いつかハズレくじを引いてどうにかなろうが、僕にはどうでもいいことなんだけれど。どうしてか、そういう理由でこいつの人生がねじ曲げられることを考えると、むかむかして耐えられなくなった。そうなったとしても自業自得でしかないということは理解しているが、耐えられないものは耐えられないのだ。
「……しないよ。オーエンにしかしない」
「あっそ。じゃあ電気消せよ、もう寝るからこれ以上、」
「お、おい!」
目元を隠していた腕を掴まれて顔の横に縫い止められ、押し倒されているような姿勢になる。は、とその顔を見上げると、火照った顔とまだ少し濡れている髪が見えた。その火照りは酔っているからで、それかシャワーを浴びたばかりだからで、絶対にそのはずなのに、僕の脳は違う理由を結びつけていた。欲だ。それも、特に仲良くもない男に抱くことなんてありえない欲。そんなものに結びつけてしまったのは、僕の頭が突然馬鹿になったからじゃない。
「な、なに? その顔……」
自分の声じゃないみたいだった。それくらい震えていた。カインは、今まで会社ではもちろん、さっき酔いつぶれたときですら見せなかったような、こういう場所でしか見せないような顔をしていた。有り体に言えば、欲情していた。その相手は一人しかいない。
「ここに泊まる意味くらいわかってるだろ? 今さら嫌だなんて言うなよ」
カインの声も震えていた。掴まれている腕が熱い。危機感がないのは、僕のほうだったのか?
「……ごめん」
何も言えないままその目を見つめていると、カインはまばたきを二つしてからそう言った。腕がそっと解放される。
「そういうのじゃなかったんだな、悪かった」
そう言い切ったとき、欲をはらんでいた顔は、もう曇った表情に変わっていた。かと思えば、すぐに無理やり作ったような笑みを浮かべて、じゃあもう寝るか! と、同じく無理やり作ったような明るい声で言った。
僕はそれに安心すべきなのに、それか安心しきれずに今すぐこの部屋を離れるべきなのに、さっきまで僕の腕を拘束していたその腕を逆に掴み返していた。カインが驚いた顔で振り向いてくる。
逃がさない。相手が優しい人でよかったね、なんて笑い話の種になる気なんかない。
「わかってるよ」
僕は全部知っていた。本当はわかっていた。ここに二人で泊まる意味も、こいつの人生をねじ曲げるのは僕じゃなきゃ許せないことも、そして、腕を掴むのも、押し倒すのも、全部僕のほうじゃなきゃいけないことも。全部全部だ。
カインは一瞬期待したように小さな笑みをこぼして、けれどそれからすぐに、欲にまみれているくせにどこか怯えたような表情に変わった。その目に映っている僕は、こいつにこんな表情を浮かべさせた僕の顔は、どんなものなんだろうか。きっと、さっきのこいつと同じ、いや、それ以上の欲望を灯しているんだろう。
そうだ、僕じゃない。危機感がないのはこいつのほうで間違いなかった。