それは、食欲にも似た───ああ、まただと思う。
「───ん……」
口の中を優しく探っていた舌がそろりと抜かれ、名残惜しげに下唇をひと舐めして離れる。触れるか触れないかの強さで粘膜を擽られる感触は、まるで小さな電流だ。
刺激を逃せず入間が背を震わすと、大きな掌が慈しみを持ってそれを宥める。背骨に沿って動く手は、何度も繰り返し同じ場所を往復してはその感触を楽しんでいるようだった。
入間の背には悪魔にならあるべき筈の羽根が無い。当然それを収納する管もないため、悪魔達に比べ背中の凹凸は控えめだ。その滑らかさが、アリスは好きなのだと言う。
そう、入間が人間だとアリスに告げてから、既に数ヶ月が経った。
当時の記憶を、今でも入間は昨日のように鮮明に思い出せる。
アリスとクララ。
バラムというイレギュラーを除き、入間が自分の意思で人間である事を告げるのなら、まずはこの二人と決めていた。それを決心するのにえらく遠回りをした気もするが、決めてからは勢いの一手だったように思う。
告白のため呼び出された二人は、初めて『トモダチ』という言葉を耳にした時のように、きょとんと入間の顔を見つめ返して来た。
ややあって、クララが小首を傾げて不思議そうに口を開く。
「人間でも、イルマちは、イルマちでしょ?」
当たり前の事を、当たり前のように告げられる嬉しさを、どう表現したら良いのか。
事前の緊張もあってじわりと涙腺が決壊しかけるのを、入間はぐっと堪えた。まだ、アリスからの反応は無い。
いつの間にか思案するように目を伏せていたアリスの眉間には、僅かに皺が刻まれている。普段なら直ぐに賑やかすクララも、何かを感じ取ってかジッと彼の動向を窺ったままだ。
数秒か、あるいは数分か。もしや受け入れて貰えないのかと入間が恐怖に怯える頃、漸くアリスの唇が躊躇いがちに開かれた。
「───イルマ様は、お辛くないですか?」
たった一言。それだけを尋ねたアリスの表情は、酷く真剣だ。
そこに含まれる意味に思い至った時、とうとう入間の目から一粒の涙が零れた。悲しさからではない。それを伝えるために、直ぐさま袖で目元を拭うと、気持ちのままに表情を緩めた。
「辛いことなんて何も無い───僕は、二人と出会えてこれ以上無いくらい幸せだよ」
泣き笑いのような不恰好な笑顔の自覚はあったが、それでもアリスの愁眉を開く事ができたようだ。次いで何かを言いかけた彼を遮るように、入間の体に柔らかな感触がぶつかってくる。
「私も! イルマちが大好きだよ!」
ぎゅうぎゅうに体を締め付けられる感触と、鈴のような笑い声。零れた涙を吹き飛ばすその存在に、入間も声を上げて笑う。
「こんっのあほクララ、イルマ様が苦しがってるだろうが!」
「アズアズは相変わらず目が節穴!」
「どこがだ! いいから離れろっ」
「へーんだ、ホントは仲間外れで寂しいんでしょ!」
入間を片手で抱いたまま、「えいやっ」ともう片方の腕でクララがアリスに抱きつく。三人で床に転がるように倒れ込むと、初めは文句を言っていたアリスも、やがて仕方ないとばかりに笑いだした。
三人でじゃれるように抱き合って、温もりを分け合う。混じりあった笑声は、幸せの音をしていた。
そんな、これ以上の幸福はこの先無いのではと感じ入った日の帰り道。
思わぬ早さで、入間の予想は裏切られる事になる。
「イルマ様」
弟妹の世話に帰りを急ぐクララと別れ、あと少しでサリバン邸へ着くという頃。
風も無く、草の音すらしない静寂を見計らったかのように、その声はよく透った。
「───好きです」
端的な言葉だ。それゆえ真意を測りかねて、アリスと向き合った入間は僅かに首を傾げた。
「アズくん……?」
「……先程はあほクララに邪魔されましたが」
入間の困惑を正しく受け取ったアリスが、説明に歩みを止める。入間も同様にすると、彼は一度己の唇を湿し、それから静かに語り出した。
「イルマ様が人間であるという告白───相手が我々といえど、異種族。さぞ、勇気が要った事でしょう」
何せ人間の立場から見た悪魔は、客観的に見ればお世辞にも良い印象とは言えませんから、と。苦笑するアリスに入間は否やを唱えようとして、けれど目元に伸びた指先に遮られる。
「涙を耐えるほど緊張されていたのでしょう?」
「それは! アズくん達が怖いからでなく、大嘘吐きな僕に失望されるかと思って、」
「どちらにしろ、恐怖されていた事に変わりはない、と」
涙の名残を探るように目尻を撫でられ、入間の喉から羞恥の呻き声が漏れる。
アリスは小さく笑うと、腕を下ろし、代わりに恭しく入間の片手を取った。
じっと、薔薇色の目が入間の瞳の奥深くまでを覗き込んでくる。
「恐怖を押しての我らへの信頼。それに応える術を、私は愚考しました」
秘密には、同等の秘密を。
どこかで聞いた話だと入間が思い至るよりも早く、握られた手の甲にアリスの秀でた額がそっと押し付けられる。
「これまで、私は長くこの胸に燻る浅ましい感情を晒すことに恐怖しておりました。私にとっても、イルマ様の失望は何より耐え難い───故に、語るなら今しかないのです」
───愛しております、と。
吐息のように滑り落ちた言葉は、入間の手に触れ、皮膚の奥へと浸透する。それが血流に乗って脳に辿り着く頃には、流石に入間も理解していた。
アリスのそれが、ただ一人に寄せられる恋情だということ。そしてそれを、嬉しいと感じている自身がいる事に。
喉の奥がひっくと鳴って、入間は初めて泣いてる自分に気付いた。
「イルマ様?!」
「ち、ちがっ、い、嫌とかじゃ、なくてっ」
泣く事に慣れていないせいだろうか。意思に反して引き攣れる喉が恨めしい。
入間は言葉で上手く伝えられない代わりに、握られていた手を辿りアリスの胸に縋り付いた。
息を呑む振動がアリスの戸惑いを直に伝えてくる。困らせていると分かりながら、同時に拒まれない事に酷く安堵した。
入間のしゃくり上げる体を、躊躇いながらも温かな腕がそっと包み込んでくる。
頭を撫で、肩を撫で、背中を撫でる。
まるで形を確かめるかのような仕草に、やがて入間の心も次第に落ち着きを取り戻し始める。
体の震えが収まると、背中を撫でていた手が一瞬止まった後、一際強く背骨をなぞった。
「……羽、ありませんね」
「……だって、人間だもん」
ふふっと二人同時に笑う。
もう一度だけぎゅっとアリスに強く抱きついてから、入間は少し体を離し、頭上の顔を見上げた。
「あのね、繰り返しになっちゃうけど僕は人間なんだ」
「はい」
「だから、当然おじいちゃんとも血は繋がっていない」
薔薇色の双眸が、瞬きでそっと続きを促す。
「……僕の本当の両親は自分のことが大好きな人達で、一緒にいる時間の方が少なかった。挙句、お金と引き換えに僕をおじいちゃんに売る始末で、僕は余り愛情ってものを実感したことがなかったんだ」
「それは……」
柳眉を逆立てたアリスが何かを言おうとして、けれど話に続きがあると察した彼はそのまま口を閉じた。代わりに未だ背に回ったままの手に、僅かな力が加えられる。
ありがとう、と口にしてから、入間は己の思考を整理するように慎重に言葉を選んだ。
「魔界に来て、おじいちゃんに沢山可愛がってもらえて、ああ、これが愛情なのかなって少しずつ分かってきた。でもね、そんなおじいちゃんでも、時々僕の向こうに別の誰かを見るんだ」
それが悪い事だとは言わない。
サリバン程の悪魔だ。これまで入間には想像もつかない程の出会いや別れがあったのだろう。
入間を通してサリバンが思い出を懐かしむ事に役立てるなら、それはそれで嬉しいことだと思う。ただ、目が合っているのに合っていない、そんな瞬間が少しだけ寂しい。
「僕は、魔界に来てからとても我儘になったみたい」
「そんな事ありません! 私だって、叶うならイルマ様に私だけを見ていて欲しい」
当然の欲なのだとアリスは言う。その顔には恥も衒いも無い。
だからこそと言うべきか。入間の方が少しだけ照れくさくなって、額を目の前の胸に擦り付けた。
「そんな君だから、僕を好きって言ってくれて凄く───本当に凄く嬉しかったんだ」
「イルマ様……」
「アズくんなら、ずっと僕を見ていてくれる。そう信じられる。でも、だからってそれを理由に君の想いを受け入れてたら、それはとても不純な動機なんじゃないかな」
入間にはまだ愛がどんなものが確信できない。
好きとの違いは何か。アリスに同等のものを返せるのか。
これだけ甘えておいて今更だが、入間はアリスを利用したい訳では無い。何も分からないまま、彼に応える事など───
「不純でも、良いではありませんか」
やけにきっぱりとした声で、アリスは言った。
思わず顔を上げると、狙ったように額と額が合わせられる。吐息が触れ合う距離で、熱に潤んだ薔薇色が入間を射抜いた。
「私は貴方が欲しい。そこに可能性があるなら不純でも何でも良い。貴方が他の誰でもなく私のモノになるのなら、それだけで私は何にでもなれる。そんな私こそ、不純の塊みたいなものです」
だから気負わず応えて下さい、とアリスは囁く。
間近から注がれる眼差しが熱い。その熱さに、釣られて入間の頬もヒリついてくる。
「……なんか、今のアズくん、凄く悪魔みたいだ」
「これでも由緒正しい悪魔ですから」
悪びれずに言うものだから、堪らず入間も笑った。
「……でも、こんな風に顔が近いと、頷きたくても頷けないよ」
「では、目を」
閉じるように促された意味を、理解しなかった訳ではない。
入間は数センチ先のアリスの瞳を見返して、その綺麗な薔薇色に自身の姿が収まっているのに気付いた時、ああ、駄目だなと思った。きっと自分は、何度だってこの光景を見たくなる。
この感情が、愛ならばいいと思った。
愛であることを願い、そして瞼を伏せる。
額の熱が離れ、間を置かずに目尻に柔らかいものが触れる。未だ濡れた睫毛に優しく吸い付かれると、入間はそのこそばゆさに身を引きそうになった。けれどいつの間にかうなじに回されていた手が、少しの逃げも許さない。
吐息が目元から鼻に、そして口元に移る。僅かに首の後ろを押されると、次の瞬間にはぴたりと唇が触れ合っていた。
慣れない感触に強ばる入間に、宥めるように首とは別の手が頬を撫でてくる。暖かな体温で顔を包み込まれると、とても安心するのは何故だろう。
入間の体から力が抜けると、それまで大人しかったアリスの唇が意思を持って動き出した。唇全体を擦り付け、上と下それぞれの唇の感触を確かめるように甘く食み、また入間の小さな口を覆い尽くす。
舌先が物欲しそうに唇のあわいをつついた時、とうとう入間に限界が訪れた。
「イルマ様?!」
がくりと膝を崩した入間を、慌てたアリスが両手で支える。その腕に縋り付き、羞恥に目を回した入間は息も絶え絶えに口を開いた。
「……その……もっと初心者向けから、お願い、します」
真っ赤な顔で何とか告げた入間にアリスが謝り倒したのも、後となっては良い思い出だ。
「イルマ様?」
どこか擽ったい記憶に入間がクスクスと笑っていると、アリスが体を離してこちらを見つめてきた。切れ長の目が不思議そうに瞬く様は、少し可愛い。
「うん、ごめんね、ちょっと初めてアズくんとキスした時の事を思い出していたんだ」
「…………あの日は、我ながらに余裕がなく……申し訳ありません」
入間にとっては温かな思い出も、アリスからしたら印象が違うらしい。項垂れた桜色の頭は、慚愧に耐えぬと言わんばかりだ。
入間は少し悩んだ後、共に座っていたソファから伸び上がって、その引き結ばれた口端に口付けた。
途端、アリスの白い頬がパッと赤らむ。彼が齎した口付けと比べたら、入間のそれは児戯に等しいにも関わらず、だ。
こういう所が堪らなく好きだと、入間は感情のままに笑んだ。
「あの時は僕も初めてのことで目を回しちゃったけど、今はもう大丈夫だよ」
そう言って目を瞑ると、意図を察してか、背中に添えられていた手が熱を帯びる。
先程の口付けから少し乾き始めた入間の唇に熱を持った親指が触れ、膨らみを押しつぶすようにして僅かに開かせると、呼吸ごと隙間を塞がれた。
初めに啄んでは離れる小鳥のようなキスを。次いで唇で愛撫するように吸い付かれ、前歯でも軽く扱かれる。そうして入間の唇が熟れて染まる頃に、漸くアリスの舌が歯列に辿り着いた。
今まで覚えてきた口付けを一つずつ再現するようなゆっくりとした行為に、慣れたと言えども次第に入間の息も上がっていく。
口の中を探っていた熱が去りかけた時。ぼんやりとした頭で、無意識のうちにそれを追おうと入間が舌を伸ばすと、慌てたように密着していた体が離された。
距離を置いたことで露わになったアリスの顔は、口付けの後にしては青褪めて見える。
(ああ、やっぱり───)
体温に代わって触れる冷たい空気が、これまで入間が密かに感じていた違和感を確信に変えた。
「ねえ、アズくん」
目を合わせ、アリスの手に触れる。微かに伝わる震えは、気のせいじゃない。
「アズくんは、僕に───人間に触れるのが、怖い?」
きっかけは、やはり一つの口付けから始まった。もっと言うと、入間も漸くアリスとの触れ合いに慣れ、深い口付けにも驚かなくなった頃の事だ。
幾度目かのアリスの口内に導かれた入間の舌先に、不意にチリっとした痛みが走った。彼の鋭い犬歯に引っ掛けたのだと気付いたのは微かに鉄の味が広がってからで、あ、と思った次の瞬間には入間の体はきつく掻き抱かれていた。
「アズ……ふ……っ」
背中がしなり一度は離れかけた口が、より深い角度で貪られる。驚きで萎縮した舌は直ぐに探り当てられ、痛いくらいの力で吸い上げられた。
出来たばかりの傷の上を、尖らせた舌先が抉るようにねぶる。
「っ……!」
悲鳴と言うには小さ過ぎる声が、口の中に溶けて消える。それでも熱に浮かされたアリスを正気付かせるには十分だったようだ。
「───! すみませんっ」
体が勢いよく引き剥がされたかと思えば、両手で顔を包まれ口の中を確認される。その必死な形相に入間も呆気にとられていたが、口内に指を入れられそうになると、慌ててその手を押さえた。
「あ、アズくんちょっと待って……!」
「イルマ様、傷は……傷は大丈夫ですか!?」
「大丈夫、大丈夫だから! さっきは驚いただけで、小さい傷だしもう血も止まってるよ!」
べ、と舌を出して見せれば、間近に顔を寄せて検分される。正直そんな場所を凝視されるのは落ち着かないが、心配性な悪魔を思えば背に腹は変えられない。
「……まだ少し滲んでいますが、それも治まりそうですね」
「でしょ? こんなの自分で噛んじゃった時の方が酷いくらいだよ」
入間はなんて事ないのだと笑って見せる。対するアリスは落ち着きを取り戻していたが、その表情は依然陰ったままだ。
やがてポツリと落とされた言葉は、アリス自身、自らに言い含めるような響きを持っていた。
「───……人間とは、こんなにも傷つき易いものなのですね」
後にバラムから聞いた話だが、悪魔は余程強い力を加えない限り、自らの歯で口内が傷つく事はないらしい。多くの者が人間よりも鋭い歯牙を持っているのだから、その口が相応に強靭なのも当然といえば当然だ。
否、部位に限らず、単純に全てにおいて人の方が脆弱なのだろう。
よりによって睦み合ってる最中に、アリスはそれを体感した。それが凝りとなって未だ残っている事に入間が気付いたのは、彼の触れ方が変わったからだ。
固く全身で包むような抱擁が無くなり、舌で触れ合う口付けも全て入間の口内の浅い場所で行われるようになったのはいつからか。逆に言えばそれ以外の変化はなく、変わらず入間を愛おしむ目を見てしまえば、問いただす機会を掴むのが難しいまま時間ばかり過ぎた。
けれど、それも明らかな異常が無ければの話だ。
突然の問いに揺れる薔薇色の瞳は、図星のせいか狼狽を隠せずにいる。入間はその目を見据えると、触れたままの手を逃がさぬよう力を込めた。
制止のつもりか、掠れた声で呼ばれた自分の名には、聞こえないフリをする。
「アズくんは多分、凄い勘違いをしている」
「……けしてそのような事は」
「してるよ。確かに人間は君たち悪魔より弱いかもしれないし、今まで人間と関わりの無かったアズくんが力加減に戸惑うのも分かる。でも、それじゃあ今君の前にいるのは誰?」
意味を測りかねたのか、目前の柳眉が困惑を象る。
入間はアリスの両手を持ち上げると、輪郭を確かめさせるように己の顔に触れさせた。
「僕は、鈴木入間だよ。君と勝負して、なんとか勝った。一緒に遊んで、大変な事件を何度も乗り越えた───それでも大好きな君とちゃんと触れ合う事も許されないくらい、僕は弱いの?」
「イルマ様……」
「人間じゃなくて、[[rb:入間> 僕]]を見てよ」
合わさった目はそのままに、アリスの掌に頬を預ける。例えそこにアリスの意思が無くとも、彼の体温は常と同じく入間に安心を与えてくれる。そうして入間は今にも噴き出しそうな己の不安を宥めた。
されるがままだった手におずおずと引き寄せられたのは、それから数拍後の事だ。
許しを請うように、一つ、触れるだけの口付けが瞼に落とされる。
「……申し訳ありません、イルマ様。私は確かに知らず貴方を見縊っていたのかもしれません」
「アズくん、じゃあ、」
「───ただ、深く触れ合う事に躊躇った理由は、それだけではないのです」
予想外の言葉に、入間はぱちりと瞬いた。
視線を受けたアリスが、小さく呻く。自ら切り出したのだから今更誤魔化す気はないのだろうが、言葉を選びかねてるのか彼の口は珍しくぎこちない。
「……人間が我々にとって美味であるという通説は既にご存知の通りですが……その、イルマ様はバラム師の『人間は欲の塊であり、悪魔の糧であった』という言葉を覚えておりますか?」
「確か、初めての授業の?」
ええ、とアリスは頷き、そして何故か視線を僅かに入間から逸らした。
「……私が本当の意味でその言葉を理解したのは、イルマ様に口付けを許されて暫くしてからでした」
「うん?」
「詰まるところ、血肉はただの媒介でしかなく、人の欲こそ真実悪魔の糧だったのです」
「んん?」
アリス自身噛み砕いて言ってるつもりなのだろうが、入間からすればどこか歯に物が挟まった言い方だ。本人もその自覚はあるのか、目線が定まらず落ち着きがない。
このままでは埒が明かぬと、入間はアリスの顔に手を添え些か強引に視線を重ねた。
「つまり?」
「………………つまり、イルマ様の欲求が高まると、体液などにも変化が訪れるのです」
それが悪魔にとっては筆舌に尽くしがたい悦の味であり、欲が強いほどその味も濃くなるのだと。
観念したように告げられた言葉を入間が理解するのに時間が掛かったのは、仕方の無い事だ。理解したくなかった、と言った方が正しいか。
言葉の咀嚼と同時に息を呑んだ入間は、次の瞬間、全身の血が顔に流れ込んだような錯覚に陥った。
「よ、よよよよ欲って! 欲って……!?」
「その、恐らく愉楽に限らず、普遍的な欲求全てに当てはまると思うのですが、如何せん私が確かめられる機会は限られているので……」
「そんな追い打ちを聞きたいんじゃなかった……!」
重ねられる羞恥に顔が焼け落ちそうだ。目眩にも似た感覚に両手で顔を覆うと、いかに自分の顔が発熱しているのかよく分かった。
愉楽と言われて即座に否定出来るほど、入間に自覚が無い訳ではない。だからと言って普通、口付けの最中に自分の欲求が相手に筒抜けだなんて、思う筈もなく。
そう言えば血を流すまでは舌での触れ合いは少し執拗な程だった、と。更なる思考の自爆を招きかけて、入間ははたと気付く。
「……あれ、でもそれが原因ならとっくにキス自体しなくなっていた筈じゃ?」
入間が呟くなり、何かが詰まったような音がアリスの喉から漏れた。
ぱっと面を上げると、同じ速さでアリスの顔が逸らされる。とはいえ、この流れで追及を逃れられるとは彼も思っていないのだろう。
「…………体液にも差異があり、唾液であれば仄かに欲の味が分かる程度なのです」
罪悪感に染まった顔でそれが告げられたのは、恐らく今回のような機会が無ければアリスからこの件に触れるつもりが無かったからか。これまで黙って入間の欲を味わっていた事を自白しているのだと思えば、その表情にも納得がいく。
「唾液は、って事は、血が出た時に少しアズくんの様子がおかしかったのは……」
「……はい、血の濃さは唾液のそれと比較にならず、忘我に至る程でした」
そう言って、アリスは深く息を吐いた。嘆息というには陶然としたそれは、理性さえ蝕む味を思い出したからか。
後悔するかのように眉根を寄せながら、しかし目元は薄く色付いている。妙に色っぽいその表情に入間が固唾を呑むと、アリスの手がさらりと髪を撫でてきた。
「あの時は前知識が無く不意を突かれた形とはいえ、では次に同じ状況になった時にイルマ様に酷い事をせずに済むかというと、正直私には分からないのです」
「酷い事……」
「貴方の血を啜り、貴方をより乱したくなる、という事です」
「み、みだっ……」
想像しかけて、喉から「ひぇっ」と上擦った声が漏れる。動転する入間に対し、アリスは逆に憑き物でも落ちたように清々しい顔をしていた。
「……何かアズくん、少し開き直ってる?」
気恥しさを誤魔化す為にわざとむくれて見せる入間に、にこりと薔薇色が笑いかける。
「疚しい事は全てお話しましたから。これでイルマ様も御理解頂けたでしょう?」
自分がどれほど入間にとって危険な存在なのか、と。
卑屈になって自嘲する訳でもない。ただそれが真実なのだと、アリスは静かに微笑した。
その穏やかな目に、入間は言葉を掛けようとして、けれど寸前でそれを飲み込む。
(……多分、アズくんは仮定の話をしても、納得してくれない)
なら、入間が取るべき行動は一つだ。
「イルマ様?」
ソファの上に膝立ちになり、アリスの肩を両手で押さえる。意図を察した彼が身を捻るより早く、その唇に己の物を重ね合わせた。
事前に噛んでおいた舌先には、血が滲んでいる。アリスもそれに気付いているのか、入間が舌でノックしても頑なに唇を開けようとしない。彼にかかれば入間を跳ね除ける事なんて容易いだろうに、抵抗らしい抵抗はそれだけだ。
(やっぱり、アズくんは優しい)
だからこそ入間は諦めずに何度も口付けを落とした。
やがて僅かといえども血が口内に滲んだのか、はたまた入間のあまりのしつこさに覚悟を決めたのか。はっ、と熱い吐息が零れるのを唇に感じて、入間は薄く開けられた隙間に舌を潜り込ませた。
アリスがいつもするように、歯列をなぞり、上顎を擽るように掠め、そして辿々しく舌に触れる。その一瞬だけ押さえた肩が強ばったが、以降アリスからの反応は無い。
拙いながらも何度か表面を舐め、舌先を軽く吸い上げると、入間はそっと顔を離した。
口付けの最中はあまりに無反応だったのでどうしたものかと思ったが、赤くなった顔で何か堪えるよう眉を寄せるアリスの姿から察するに、目論見は成功したようだ。
「……無茶をなさらないで下さい」
「───アズくんなら、大丈夫だよ」
深くなった眉間の皺に唇を寄せ、もう一度「アズくんなら大丈夫」と呟く。
「アズくんが、本気で僕を損なうような事をする訳ない」
「ですが、」
「それでも不安なら、いざという時は僕もちゃんと抵抗するよ。なんて言ったって、僕はあのアスモデウス・アリスに二度も勝ったんだよ?」
入間がおどけて言えば、アリスは一つ息を吐いた後、敵わないとばかりに苦笑した。入間もそれに笑い返し、そして少しだけ視線を彷徨わせる。
「……それにね」
「はい?」
「さっきのでバレてると思うけど、僕はもっとアズくんと、その……キスがしたい、です」
「は……」
改めて言葉にすると、顔の熱がぶり返してきそうだ。虚を突かれたのか、アリスの呆けた顔もいたたまれない。
このままではまともに喋れなくなる予感に、入間は勢いのまま口を開いた。
「僕の欲がアズくんに伝わるって話には驚いたし今でも恥ずかしいけど、だからって君との接触を控えたいかって考えると、胃の辺りがきゅっとしたんだ」
「…………」
「多分ね、お腹が空くのと一緒なんだと思う。アズくんとこうなる前は空腹の状態が当たり前で気付けなかったけど、一度お腹がいっぱいの状態を知っちゃったら、そう簡単には元に戻れない。君から与えられる物が減るだけで、僕はきっと簡単に飢えちゃうよ」
そう一息に言ってしまうと、入間は恐る恐る目前の顔を窺った。
アリスの目が、ゆっくりと瞬かれる。長い睫毛の下で瞳が揺らめいたかと思うと、やがて赤く染まった入間の目元を眩しそうに覗き込んだ。
膝立ちのままでいた入間の腰が、そっとアリスの膝の上に導かれる。
「それは、責任重大ですね」
「……そうだよ」
背中を引き寄せられるままにアリスの肩に額を擦り付ければ、頭上から柔らかな笑い声が降った。
「イルマ様」
呼び掛けに顔を上げると、愛おしげな、それでいて少し艶めいた薔薇色と目が合う。
「───私も、空腹なようです」
その悪戯気な声音に、入間は初めきょとんとした。
それから言葉の意味を理解すると、笑って恋人の悪魔に幸せに満ちた欲を捧げたのであった。