感情進化論 ぐるぐる。ぐるぐる。
その言葉はまるでいつか見た水族館の回遊魚のように、入間の頭の中を無尽に巡っては、思考の海を乱し続ける。
「どうかなさいましたか、イルマ様?」
「え?」
そっと、気遣うようにして肩に添えられた手の感触に、入間の視界が景色を取り戻す。
いつの間に放心していたのか。テーブルの上には皿から取り落としたらしいミートボールがコロリと転がっている。つい反射でフォークを伸ばしかけるも、横から割って入った手が、紙ナプキンで汚れごとそれを浚っていった。
「あっ!」
もったいない、と。思わず尊いタンパク源を奪い去った相手を見上げれば、薔薇色の目が入間を窘めるように細められる。
「一度落ちてしまったものは不衛生ですよ」
「う、分かってはいるんだけど……」
人間界にいた時ほど飢えている訳ではない。寧ろ毎日満腹になるまで食べさせて貰っているが、それでも幼少期からの習性はなかなか抜けてくれないようだ。
自らに染み付いた食い意地に入間が嘆息していると、紙ナプキンを横に避けたアリスが遠慮がちに顔を覗き込んできた。
「最近、よく考え事をなさっているようですが、何か悩み事でも?」
「……そうじゃないけれど」
実のところ入間が粗相をするのは、今日だけでも既に三度目だ。一つ一つは小さな失敗でも、似たような事を繰り返していては、アリスが心配するのも無理はない。
とは言え悩みというほど苦しみを伴う訳でなく、けれど簡単に飲み干す事の出来ない感情をどう表現すればいいのか。滑りの悪い唇を魔茶で湿しながら、入間はぎこちなく口を開いた。
「アズくんは……さ」
「はい」
「その……同性の悪魔に告白された事、ある?」
「……はい?」
一瞬自失したように見開かれた薔薇色の目が、次いで鋭く釣り上がる。
「……まさか、どこぞの不埒者に迫られたのですかっ!?」
許せん!と片手に炎を滾らせ立ち上がるアリスに、慌てた入間がその白い袖を引っ張った。
「そうじゃなくて! この前、同性でも結婚出来るって聞いた時に凄く驚いて……あの、僕が以前住んでた地域では見なかったから」
「同性婚を、ですか?」
アリスが不思議そうに首を傾げるのを、入間は小さく顎を引く事で肯定した。
"彼女"の言葉は、入間にとって正に青天の霹靂だった。
『性別がどーのこーのとか、悪魔としてナンセンスだぜ』
嵐のような女悪魔。何よりも己の欲に忠実な、とても悪魔らしい彼女。
そんなギャリーの言葉は一つ一つが直球で、飾り気なく、だからこそ入間の心に深く刺さった。
『好きなもんは好き!』
出会った当初は宣戦布告により言葉の全てを吟味している余裕は無かったが、彼女の言動の起点は結局その一言に尽きるのだろう。初期の入間への敵愾心も、くろむへの愛情あってのものだ。
それ程の熱量を同性相手に抱けるのだと。それを誇れるのが魔界であると知った日から、どうにも入間の心は落ち着かない。
魔界でのカルチャーショックなど今更で、これまでも驚きだけならもっと大きなものを飲み込んで来たのに、だ。
正体不明の胸の蟠りに入間が呻いていると、温かな手が慮るようにその背を優しく撫でた。
「……先程の質問の答えですが」
「……うん」
「数で言えば少数ですが、幾度かそのような機会があった事は否定できません」
「そう、なんだ」
アリスはモテる。それゆえ予想通りの回答だったが、実際に耳にすると胸の重みがズンと増す。その理由も分からないままなのに、胸から押し出されるようにして込み上げてきた言葉が、勝手に入間の舌から滑り落ちた。
「アズくんは……」
「はい」
「……アズくんは、その悪魔達と付き合いたいと思った事はないの?」
言ってから、しまったと己の口を塞ぐ。流石に私的な部分に踏み込み過ぎたのではないか。そう入間が横目でアリスを見遣ると、彼は幾度か瞬きをした後、ふっとその双眸を和らげた。
「こうしてイルマ様と共に過ごせる時間以上に、大事なものはありませんので」
何よりも慕わしいのだと告げる眼差しに、入間の喉がコクリと鳴る。こんな言葉は今までアリスからいくらでも貰ってきたというのに、痛い程に心臓が煩い。
(───なんで、)
何で。何で。
鼓動と同じ数だけ、頭の中で尽きることの無い疑問が明滅する。それは己への問いかけのようでいて、既に顕になりかけている答えへの無自覚な先延ばしでもあった。
「───」
赤面し、目に見えて狼狽する入間に、それを眺めていたアリスがおもむろに口を開きかける。
が、
「イルマち、アズアズっ! 見て見て、売店で変なの売ってたーー!!」
ドンッ、と決して小さくは無い音を立てて、アリスの脇腹に若葉色の影が衝突する。言葉に代わり苦鳴を漏らしたアリスは、数秒悶えた後に、痛みの元凶を怒鳴りつけた。
「~~~っ! なんで貴様はいつもそう落ち着きが無いんだ、あほクララ!」
「だって、早くイルマちに見せたかったんだもん」
悪びれずにアリスの膝に乗り上がったクララが、両手の玩具を入間に向け振ってみせる。半ば椅子代わりにされたアリスが続けて文句を言うも、力づくで退かさない辺り何だかんだで仲が良いのだろう。
そんなシンユー二人の応酬に、入間の顔も自然と綻ぶ。胸の圧迫感は、気付けばいつの間にか過ぎ去っていた。
「───まだ、」
まだ、このままで。
無意識のうちに呟いた言葉に、アリス達の喧騒が被さる。吐息よりも小さな願いは、入間自身の耳にも届く事なく空へと霧散した。