偽装彼氏を溺愛せずにすむ方法。偽装彼氏を溺愛せずにすむ方法。
人が嫌いだ。正確に言えば、自分に一方的な好意を抱いてくる人間が嫌いだ。
ろくに話もしたことがないのに、馴れ馴れしく話しかけられたり、媚を売られたり。
少しでも話をしようものなら、気に入られたと勘違いして、周りに「自分が特別な人間だ」みたいに吹聴されたり。酷い時には、「いずれ結婚する仲なんです」だとか「私が悟さんの初めての相手です」だとか、事実無根すぎることを言いふらされたこともあった。
こんなの人嫌いにならない方がおかしい。
そんな中、自分にとって唯一の気心の知れた親友がいるのだが、なんとソイツは先日「遺跡発掘調査に行ってくるよ」などと言ってアメリカに飛んでいってしまった。なんでアイツは、考古学なんて専攻してるんだ。
そんな拠り所を失ってしまった俺は、兎に角心が死んでいた。まだアイツがいるから耐えられた大学生活は、ただの苦行に成り果てていた。
もうアイツが戻って来るまで、休学届けを出して、引きこもり生活を謳歌してやろうか。自分で言うのもなんだが、俺は『いいところのお坊ちゃん』というやつだ。お金に困ることも、ちょっと休学したところで困ることもない。
アイツだって、遺跡発掘調査のために休学届けを出してるんだ。同じタイミングで復学して、卒業した方がいいに決まってる。アイツ、寂しんぼだからな。俺が先に卒業して、ひとり残りの大学生活を送るのも可哀想だというものだ。
そうだそうだそうしよう。善は急げ。早速大学に休学届けを出しに行こう!
◆◇◆
『駄目に決まっているだろう。馬鹿か?』
「突然連絡して来たと思ったら、なんなの」
久しぶりに連絡が来た親友――夏油傑からの第一声に、眉間のシワが深くなる。
何が駄目かと言えば、自分――五条悟が大学に休学届けを出すことに対してだった。
『全く……さっき突然大学から連絡が来たと思えば……。悟が一身上の都合で休学させてくれの一点張りで、明確な理由も話さないって言うじゃないか。まぁ担当者が君の実家に連絡するより前に私に連絡してくる意味もわからないけど。大方、大学側が五条家のご子息様が急に休学するって言い出したから何かこちらに否があったんじゃって焦ったんだろう。君や君の家が機嫌を損ねたとなれば、世間からどう見られるかわかったものじゃないからね』
滑らかな口調でそう言われ、五条は唇を一文字に結んだ。一身上の都合で受理してくれればいいものを。理由とはそんなに必要だろうか。こんなことになるなら、めんどくさいがそれらしい理由をでっち上げておけばよかったか。
「だって大学行きたくねーし。行ったところで、変な奴らがわらわら群がってくるだけだし」
なんでオマエ、アメリカなんか行ってんだよ、と五条は唇を尖らせる。
ネット通話越しでも親友が拗ねた顔をしているのが容易に想像できたのか、電話の向こうから夏油の苦笑いが聞こえた。その声に思い切り顰めっ面をすれば、それも感じ取ったのか、彼は「ごめんごめん」と謝ってきた。笑い混じりであるから、本気で謝る気はないのだろうが。
『そうだな……じゃあ私の頼みを聞いてくれるなら、君の休学届けの受理について協力しないでもない』
もうこのまま通話を切ってしまおうか。
そう思って電源ボタンに手をかける寸前。言われた言葉に、五条は顔を上げて反応した。
それはまるで希望の光のようで。
夏油が協力してくれるならば、休学するのも無理な話ではない。そう確信し、途端に機嫌もよくなった。
「えっなになに? 俺もアメリカ行って、傑の手伝いすればいいの?」
『違う。君の手伝いなんて恐ろしくて頼みたくもない。貴重な資料を破壊されるのが目に見えている』
「酷くね? じゃあなんなんだよ」
煩わしい人間たちに会わずにすむようになるなら、程度によるがなんだってする。
さて何を頼んでくるのかと、五条は目をキラキラさせながら夏油の言葉を待った。
『人を預かって欲しいんだ。つい先日、高校を退学になった男の子をね』
◆◇◆
俺は人と関わりたくないんだけど?
それなのにどうして子供を預からなければならないのか。
だからそう言われた時は即座に断った。けれど、『それならおとなしく大学に行くんだね』と言われてしまい。
しかも、預かって欲しい子が、高校を退学になったって。なった、ということは、高校側から退学を言い渡されたということだろう。いったい何をやらかしたのやら。余程の問題行動でも起こさない限り、停学になるなら兎も角、退学なんて早々ないだろうに。
結局、傑に『とりあえず一週間、試してみてよ。嫌になったら途中でやめてもらってもいい。やめるなら大学行きな。続けてくれるなら、休学できるように口添えしてあげる』と言われ、色々と天秤に掛けた結果、本当の本当に嫌だしめんどくさいけど、とりあえずお試しで一週間預かることにした。そのあいだにでも、傑の口添えがなくともなんとか休学できる方法を考えたらいい。まぁいっそ、自主休学すればいい。単位が足りずに留年だとか、そこまですれば流石に家に連絡が入って親が煩く言って来そうだが、それはそれだ。そうなったら、休学届けを受理しなかった大学側が悪いのだ。
そして、夏油の知り合いが来る日。
聞いていた時間の五分前に、家のチャイムが鳴った。
「はーい」
インターフォンの画面を覗き込むと、ひとりの男の子が立っていた。ツンツンとした黒髪に、黒のパーカーとグレーのパンツ姿。
退学になるくらいなのだから、てっきり金髪だとか派手な出立ちをしているのだろうと思っていたが、見事に裏切られた。
『えっと……すみません、伏黒です。すぐる……夏油傑さんの親戚で……あ、五条さんのお宅でお間違いなかったでしょうか……?』
いったいどうして退学になったのだろう。
初めて来た場所、初めて会う人。未成年でなくとも、緊張する場面なのだから、画面越しの男の子のしどろもどろ感は何もおかしいことはない。
だが、「退学になったイコール問題児」という先入観があったために、どれだけガラの悪い態度を取られるかと思っていたのだが、それが尽く壊されて五条は首を傾げた。ふてぶてしい態度を取られれば、そのまま「帰れ」とでも言えたのに。
それに、てっきり知り合いかと思っていたが、親戚の子だったのか。今頃であるが、情報が少なすぎないか。まぁ、休学したいことしか頭になかった自分も自分なのだが。
「今開けるから、入ってきて。そのまま進んだらエレベーターがあるから、それに乗って九階まで上がってきてくれる?」
『わかりました。よろしくお願い致します』
やっぱりイメージと違いすぎる。
画面を切り、そのまま玄関へと向かう。鍵を開けて顔を覗かせれば、丁度エレベーターが到着したらしく、ゆっくりと扉が開いた。
「伏黒くん、こっち」
「! すみません」
「うぅん、よく来たね。ここまで道に迷わなかった? とりあえず上がって」
「は、はい、大丈夫でした……。大丈夫でした、けど、すごく立派なマンションなので、何回も住所がここで間違いないか確認しました……」
「はは、そんな緊張しないで」
客用――と言っても利用するのは夏油くらいのものだったが――スリッパを伏黒の前に置き、五条は部屋の奥へと進む。ちらりと後ろを向けば、伏黒はきちんと自分の靴を揃え、下座へと置いていた。やっぱり不良少年には思えない。
「コーヒーと紅茶、どっちが好き?」
「あ……じゃあ、コーヒーを」
「砂糖とミルクは?」
「無くて大丈夫です」
「ブラック飲めんの?!」
リビングに入り、先にソファに座るよう促しながら、五条はお茶の用意に取り掛かる。
大の甘党で、コーヒーを飲む時も大量に砂糖を使う身としては、伏黒の返答に心底驚いた。あぁ、でも親友もブラック派だったか。
「傑と伏黒くんって親戚関係なんだっけ」
「はい。傑さんは俺の母方の兄の奥さんの弟さんの息子さんで」
「軽くややこしいな。あーじゃあ血の繋がりは全然か」
「そうですね」
伏黒と夏油の家系図を聞いた情報から思い浮かべ、近くもなければ遠すぎるわけでもない関係性になるほどと頷いた。けれど、余程親戚同士の集まりが強固な家庭でもない限り、本来そんなに関わりを持たない気もする。
「結構家が近所だったんです。俺の母親が、俺が生まれて間もなく亡くなって、その後俺が小学校に上がる頃に父親も蒸発して。今も生きてるのか死んでるのかもわからない状態ですね。それで俺をどうするかってなった時に、たまたま近所に住んでいた傑さん家に白羽の矢が立ってしまって……」
聞けば、父親は実家と不仲で、母親と結婚したことも子供がいることも言っていなかったらしい。
亡くなった母親は、自分の実家とも、兄の嫁とも、そのまた兄の嫁の家族とも仲が良く交流があったのだとか。
けれど、伏黒は夏油家の存在を知らなかった。それにも関わらず自分に手を差し伸べてくれたのは、母親の人望の賜物だろうと伏黒は言った。確かに両親の実家や、両親の兄弟であれば、手を差し伸べてくれる可能性はあるだろうが、母方の兄の嫁の弟家族となると、まずないだろう。親戚中をたらい回しにされた末ならば分からなくもないが、最初にそこへ辿り着くというのは、なんとも不思議な話だった。
そんなこんなで高校生になるまでは夏油家で生活し、この春寮のある私立高校に入学。けれど、夏休みに入る前に退学してしまった、のだそうだ。
「退学した理由は……って初めましてで聞くのも失礼か。正直、今の君見てても、そんなに素行は悪くなさそうだし」
「え……?」
余程のことがあったのだろうが、今日初めて会った仲で聞くのも野暮というものだろう。お試しとは言え、一週間預かる身なのだから聞いておいた方がいいのだろうが、やはり退学になる程の悪さをするようにも思えない。
そう思って理由を聞かない素振りを見せると、何故か伏黒は驚いたように目を見開いた。
「傑さんに聞いてないんですか……?」
「? まぁ退学になったとは聞いたけど。折角寮のある高校に入ったのに、退学になったから追い出されて、傑の家に帰りづらいって感じなんじゃないの? アイツ、今アメリカだし」
「……すみません、帰ります」
「へ?」
「聞いてないって思ってなかった……いや、そもそも聞いてたら俺を置いてくれるわけがない。すみません、考えたらわかることでした。これ以上貴方に迷惑をかけるわけにはいきません」
「待って待って待って。ちょっと落ち着いて」
ソファから立ち上がろうとする伏黒の肩を押さえ、そのまま座らせる。こちらを見上げてくる翡翠色をした目が不安げに揺れているのを見て、五条は「大丈夫だから」と言った。
「別に君の退学理由には興味ない。僕は僕がしたいことのために、君を利用させてもらいたいの。何があったのかは知らないけど、君は住む場所が欲しい。僕は目的のために君をここに住まわせる。ほら、利害関係は一致してるでしょ」
――オマエは高圧的すぎるんだ。見てくれはいいが、目力も強いな。口調をもう少し穏やかにした方がいいが……それが難しいなら、せめて一人称は「僕」か「私」にしたらどうだい?
いつか親友に言われた言葉。そんなの知るかと突っぱねた。だってみんな俺の見た目や「五条家」が目的で近付いて来てんだよ。媚び売って、あわよくば俺と関係持ちたくて。
そんな奴らに、穏やかに接して何になる。寧ろ調子乗らせるだけだろうが。
そう思って、ずっと突っぱねていたのに。
伏黒と話をする時、驚く程自然と一人称と口調を変えていた。高圧的に、威圧的にならないように。怖がらせないように。
彼が出て行くと言うならば、それでもいいはずだ。
夏油には「あの子の方から住むのを断ってきたよ。向こうが拒否したんだから、俺が条件を反故にしたわけじゃないよな?」と言ったっていい。
でも、彼からは、他の奴らから感じるような媚びや羨望、薄汚い欲求が、何も感じないから。
他人を、ましてや初めて会った人を自分のテリトリーに入れるなど、本来あり得ないのだけれど。
けれど、彼を追い出すことはどうしてもできなかった。
「ね」
促すように言えば、伏黒はそっと目を伏せた。自分程ではないが、随分睫毛が長い。
「……五条さんの目的のために、俺がここにいていいなら……よろしくお願いします……」
「うん」
「えっと、住まわせていただくあいだ、どうしたらいいですか? 正直料理はあまり自信ないんですけど、掃除くらいなら。あ、俺に入って欲しくない部屋とか場所があったら教えてください。そこには絶対近づきません」
「君、本当に退学させられたの?」
どう考えたって真面目な子だ。
それに、五条に何の色目も向けないのが、すごく心地いい。
とりあえず一週間。お試し期間として設けたこの一週間が、五条は柄にもなく楽しみになっていた。
まずは彼の下の名前を教えてもらうことから始めようか。
◆◇◆
「めっぐみー! タルト買って来たよ! 一緒に食べよー!」
「タルトだけですよね? 俺の洋服は買ってないですよね?」
「………………」
「買って来てないですよね?」
「…………いやでもだって、絶対恵に似合うんだもん」
「だもんじゃないです! あんた成人してますよね?! っつーか、自分の洋服買うなら兎も角、俺の服買うのやめてくださいって昨日言いましたよね?!」
「うーっ!」
「うーっ! じゃないです!」
伏黒を住まわせて今日で四日。お試し期間も折り返し地点である。
初日に下の名前を教えてもらってから、早速五条は伏黒のことを下の名前で呼ぶようになっていた。
休学届けが受理してもらえるまでは、仕方ないが通学するしかない。相変わらず、一歩門を潜ればどこから湧いたんだと言いたいくらいわらわらとお近づきになりたい奴らが集まってくるが、五条の心情に幾分か余裕ができるようになっていた。
帰宅したら恵がいる。今日何して過ごしてたのか教えて欲しい。それから一緒にタブレットを見ながら今晩食べるものを考えたい。伏黒が下手だが何か作ると言っていたものの、調理器具がお湯を沸かすケトルか電子レンジくらいなものなので、五条からすればいつも通りなのだが、食事はもっぱらデリバリーに頼っていた。デリバリーと言っても、ファーストフードばかりでなく、今はバランスの良いメニューも揃っているので、料理ができなくても何ら問題ない。今時手作りじゃないとなんてナンセンスだ。
兎に角、伏黒が家にいてくれることで、「まぁ家に帰れば恵がいるし」で色々と乗り切れるようになっていた。
そして家で待っていてくれる伏黒に喜んでもらえたら、と思って、毎日お土産を買って帰るのだが、これが何故か伏黒には不満のようで。
甘いものが得意ではないから――初日の夜にお気に入りのケーキを出したら、ひと口でギブアップしていた――伏黒も食べられるようなお菓子やケーキだとか。
着る物に無頓着で、部屋着は中高で使っていたジャージを着ていると言うものだから、部屋着用と外に着ていく用のお洋服だとか。
デザートは五条も食べるからか、そこまで口煩くないが、洋服についてはサイズ的にも伏黒しか着れないために煩かった。別に洋服なんて何枚あっても困らないだろうに。
「あのね。僕は本当は大学に行きたくないの」
「それはまぁ、聞いてますが」
「でも休学届けを出すには恵をここに置いとかないといけないわけ。一先ずこのお試し期間はなんとか突破しなきゃいけないわけよ」
「つまり……休学届けを無事に出して休学するために、俺に物を与えてご機嫌取りしようって魂胆ですか」
「ちがーうっ!」
――あぁ、でもそうか。
反射的に伏黒の言葉を全力で否定しつつ、そう言われたらそうか、と納得する自分もいる。
休学届けを無事に出し、休学するためには伏黒を手元に置いておく必要がある。
伏黒が家にいてくれることで、なんとか大学に行くことに耐えられるものの、やはりストレスは溜まってしまうわけで。だからストレス発散を兼ねて買い物をしてくるのだが、何を買おうかと考えた時真っ先に「恵に似合いそうなもの」をチョイスしようとしていた。
休学するためにも、自分のストレス緩和のためにも、伏黒にはここにいて欲しいが、何故だか彼に、お土産を買う行為を「ご機嫌取りのため」と思われるのは、なんだか気に入らなかった。間違ってはいないのだけれど。
「まぁいいじゃん。俺があげるって言ってるんだから。素直に受け取りなよ」
「でも」
「はっきり言って、中高で使ってたジャージとかってめちゃくちゃダサいからね」
「………………」
伏黒の眉間にめちゃくちゃ皺が寄る。自分でも可愛げのないことを言っている自覚はあった。一人称もうっかり戻ってしまったし。けれども彼だって「ご機嫌取り」なんて言うから悪いのだ。だからどっちもどっち。
五条はそう都合の良い解釈をしながら、早速伏黒のために買った服を着せようと、ショッパーから買ったものを取り出した。
◆◇◆
そんなこんなでお試し期間最終日。たまに口喧嘩をするものの、関係性は悪くない、と思う。
来た時の辿々しさとか、緊張感はすっかりなくなったようで、伏黒は案外五条に遠慮なくズバズバズケズケ言うようになっていた。家系図上繋がりはあるものの、血の繋がりはないにも関わらず、親友の面影を感じるのは過ごした時間の長さからだろう。それにしても、それなりに長い付き合いだというのに、夏油に弟のような存在がいたなんて、全く知らなかった。まぁ、休みの日にどこかへ遊びに行くことはあっても、家に行ったことは一度もないから、そんなものなのかもしれないけれど。
そんなことを考えながら、特に理由もなくスマートフォンを弄っていると、突如けたたましく着信音が鳴った。
「……来た」
画面に映し出された、「夏油傑」の文字。
今日がお試し期間最終日なので連絡が来るだろうと踏んでいたが、いざ連絡が来ると少しの緊張が走った。
何故緊張? と思ったが、これで自分が休学できるかどうかがかかっているのだ。そう思えば、この緊張感にも納得がいった。
「もしもし」
『やぁ、悟。一週間お疲れ様』
「別に。恵、変な我儘言ったり、色目使ったりしてこないからね。最初に話聞かされた時は、他人を家に置くとか何の罰ゲームだよって思ったけど。まぁ大丈夫だったよ」
『色目、ねぇ』
「なんだよ」
『いやいや。私が知る中で、悟はこの世で一番整った顔立ちしてると思うよ。家柄も申し分ないし』
「え、なに気持ち悪い」
突如言われた言葉に、五条は背中からゾワゾワ虫が這い上がるような感覚になった。内容からして多分褒め言葉。褒め言葉だろうが、彼が言うとなんとも気持ち悪い。いったいいきなりなんなんだと思っていると、夏油は更に続けた。
『だから、万が一、いや億が一、恵が誰かに色目を使うとなれば、悟くらいの優良物件でやっとなんじゃないかって話。まぁ、性格は全く優良物件じゃないけど』
「まじでなんなんだよ」
褒めていたかと思えば、貶される。いや、もしかすると先程までの言葉も褒め言葉ではなかったのかもしれない。
それにしても。
「ちょっと待って。今の言い方だと、恵が俺じゃない誰かに色目使ったかのような……。いやでも傑の言い方だと……」
『まぁそれは後で。恵も近くにいる? スピーカーにしてくれるかな? 三人で話そう。今後について』
夏油の言ったことをしっかり咀嚼しようとしたところで、夏油はあっさりと次の行程に移ろうとした。この男はいつもこういうところがある。
――まぁ、いいけど。
今からこれからどうしていくのかを決めていくのだ。五条の要望もこれでどうなるか掛かってくる。
五条はひとつ溜息を吐き出すと、隣の部屋にいる伏黒を呼び出した。
◆◇◆
「傑さん、やっぱり俺もそっちへ行っちゃだめですか?」
「なんでそうなんの」
『ぶっ、くくっ、くっくっく……』
リビングに移動し、ふたりソファに並んで座り、ローテーブルにスピーカーモードにしたスマートフォンを置いてすぐの第一声。
伏黒の言ったことに五条がツッコミを入れ、そんなやりとりを聞いた夏油が電話越しで肩を震わせながら笑う。
『なんだい、恵。悟が何か迷惑をかけたかな?』
「いや、俺がお世話になっている立場ですよね」
『まぁ迷惑をかけていたか。毎日のように新しい洋服買って来られてたんだものね』
「なんでオマエが知ってんだよ」
『毎日メールでやりとりしていたからね』
「ちっ……」
『初めて聞いた時は驚いたよ。君が自分の買い物に糸目をつけないのは知っているけれど、誰かに物を買ってあげるなんて話、初めてだったからね』
「だからそれは俺のご機嫌とりのためで……」
「だからそれはさぁっ!」
『あっはっはっ!』
テンポよく会話が進むが、五条はこのやりとりに既視感しかない。連日嫌というほどした会話。そこに夏油がいるかいないかの違いしかなかった。
「何回も言ってんだろ!? 僕が恵の服を買って帰るのはただのストレス発散! 別にご機嫌とりじゃないんだってば!」
「でも五条さんは大学を休学したくて……」
「休学はしたいけどねっ! まぁでも今は恵がうちにいてくれるなら別にどっちで、も……」
早口で言っていた返しが、どんどん小さくなっていく。
何言ってんだ俺は。
自分で言っておきながら、何故自分がこんなことを言っているのか分からず、五条は伏黒から視線を逸らす。電話越しに、ニヤニヤ笑う親友の顔が見えた気がした。
『ふふ。五条家のおぼっちゃまは、余程うちの可愛い家族を気に入ってくれたようだ。それは何より』
――これなら安心して私の家族を任せられる。
その言葉に、夏油はこの同居生活の継続を好意的に見ているのが、窺い知ることができた。それにほっとしている自分がいることにまた疑問が湧いたが、一先ずそれは隅に追いやっておく。
一方、ここから出て行くことを検討していた伏黒は、夏油の言葉に動揺しているようだった。不安そうに、翡翠色の目が揺れる。多分、自分のことを嫌っているわけではないと思うのだけれど。
「メールでも言いましたが……傑さん、そもそも俺のこと、何も五条さんに話してないですよね」
『ん?』
「俺の事情を知らない人のところで、お世話になるべきじゃない」
『はは、まぁね。でも君のことを何も知らない状態であんな話をしても、悟には突っぱねられていただろうからね』
「当たり前じゃないですか」
はぁ、と伏黒が溜め息を吐き出す。初日に会話をした時にもしていた表情だった。
『けど、恵だって恵から悟に話さなかっただろう?』
「……っ、それは……」
『恵のことをベラベラ人に話す趣味はないよ』
「…………」
自分からは話しにくい。それなら夏油が言っておいてくれれば。けれども、当の夏油はそれをしない。
あぁ、意地の悪い男だ相変わらず。
五条はこっそりと溜め息を吐き出した。
ここは自分から動くべきなのだろう。そしてそれを夏油も見越している。彼の掌の上で転がされる趣味はないが、今回限りで乗ってやってもいい。
「言いにくいのかもしれないけど、いい加減何があったのか話してくれてもいいんじゃない?」
「! 五条さん……」
「恵が何を気にしているのか知らないけど。話してみたら、案外僕にはどうでもいいことだったりするかもしれないし」
伏黒は気遣いができる子だ。別にそこまでしなくても、と五条が口出ししてしまうことも、この一週間のあいだに何度もあった。今回だってその可能性は大いに有り得る。
少しでも言いやすくなればと思い、そう言ってみたものの、伏黒の憂いの表情が晴れることはなかった。ならば。
「言ったら、恵の望むようにここから出ていけるかもよ?」
「……!」
「そんな理由なら預かれない。僕がそう言えば、恵は気兼ねなくここを出て行けるだろ?」
「……そう、ですね……」
自分も夏油と変わらない。意地の悪い言い方をしている自覚はあった。
けれど五条がそう言ったことで、伏黒も漸く意志を固めたようだ。
五条とは目を合わせないように逸らしたまま、ゆっくりと口を開く。
「実は……俺が高校を退学になったのは……教師を殴ったからなんです」
「え。そいつ、恵に何したの?」
「えっ」
『あははははっ!』
伏黒が漸く話せた第一声に、五条は間髪入れず、そう訊ねる。
すると、伏黒は驚いたように顔を上げて五条を見、夏油は愉快そうに笑い声を上げた。
本来ならここは、「何で殴ったの」「何でそんなことしたの」とでも言うところなのだろう。けれど、五条は瞬時に「相手が何かしたからそうした」と判断し、そう言った。伏黒が、理由もなく教師を殴るはずがないと。
「中高生あるあるの反抗期ってことも考えられなくもないけど。恵がそういう分別付けられないとも思えないしね」
『悟なら兎も角ね』
「うっせぇよ。んで、相手何したの?」
夏油の茶々を一蹴しつつ、五条は視線を伏黒に合わせる。伏黒はそんな風に五条から言われると思っていなかったのか、「えっと、その」とおろおろしながら言い淀んだ。
『男教師に性的暴行受けたんだよねー』
「はぁっ?!」
言い淀んだ理由が、夏油の口から言い放たれる。『恵のことをベラベラ人に話す趣味はないよ』と言っていたのはなんだったのか。
夏油の衝撃発言に五条は目を見開き、まさかここで夏油が先に口を出すと思っていなかった伏黒は慌てて両手を前に突き出し、ぶんぶんと横に振った。
「な、何もないです! 本当に! ちょっと机の上に押さえ付けられて、腕とか胸ぐらを掴まれたので、それで反射的に……!」
「いやいや、それさぁ……」
『ソイツ、恵が通っていた高校の理事長の息子なんだよね』
「げ」
正直言って、伏黒の言っていることが本当であれば、殴ったのは正当防衛だろう。
何もないと必死に言っているが、それは何もないとは言わない。貞操を奪われるなど論外だが、机の上に押さえ付けられるのも、身体の一部を掴まれるのも、伏黒が嫌だったのなら立派な犯罪行為なのだ。
にしても、その教師がどうしているのかは知らないが、その教師がなんらかの処分を受けることはあっても、伏黒が退学になることはまずないだろうに。
いったいどんなカラクリが、と思ったが、その答えもまた夏油が明らかにしてくれた。
一生徒の貞操よりも、身内の保身。自分たちの体裁。
「腐ったみかんかよ」
『そういうこと』
「はー……なるほどねぇ……」
五条は天井を見上げたまま、大きく息を吐き出した。それからソファに座り直し、伏黒の方を見る。
「んじゃ、今の話を聞いた上で。僕はこのまま恵を預かっていいと思ってる」
「え……でも……」
「教師を殴るような子だから、置いてもらえないって思った? 正直ねー、今の話聞いて、どっちかっつーとその教師にムカついてんの。教師とその家族にね。そりゃ暴力はいけないよ。正当な理由無しなら論外。でも恵の言ってることが本当なら、そもそも恵が退学処分を受けることもないと思ってる」
「…………」
「さっき言ってたこと、嘘だったりする?」
「う、嘘ではないです……! ないです、けど……」
まだ何か隠していることがある。
伏黒の様子からして、その予想はきっと間違いではないだろう。それが何なのかはまだ情報が足りないので、全て憶測の域でしかないが。
まぁいずれにせよ、五条は「預かる」と言ったことを撤回しようとは思わなかった。
『じゃあ、恵はこのまま悟に預かってもらうってことで。ところで悟』
「お。休学届けのこと?」
伏黒を預かる話が纏まったとなればこのことだろう。
五条の声がワントーン明るくなる。
けれど、次に夏油が言ったのは、本当に突拍子もないことであった。
『恵の彼氏になる気はないかい?』