後に悔いるが衆生為り髷の乱れを気に病みはじめる頃、彼の者は来る。
美味い酒を手土産に。
だが、着くなり湯を沸かしては、体を清めろとやいやいと口煩く促し、頭から足先まで糠まみれにされるは常のこと。髷まで無遠慮に解かれ、要らぬ気遣いだと減らず口の一つも叩きたくなることも多い。
が、近頃は待ち遠しい。
湯にて汗や埃は流せるが、髷を結い直すには誰かの手が要る。血を浴びた際に解いて洗いたくとも、首尾よく手を貸す者は居ない。独り身は、斯様な時に不如意なものだ。
とは言うものの。
ざんばら髪をさらすは、些か気が引ける。気心の知れたとは言え、女子。母親の様な人ならば息子らと同じ扱い故、間違いが起こる事もないが。もしや、弟と変わらぬ扱いなのかと、悲喜交々としたものが心中に去来する。
「ゆな」
「何」
「先程も申したが、其処に座られるのは」
ゆなは背を丸めたまま、眼前に座る。それは、まぁいい。厄介なのは、彼奴の尻が置かれた処なのだ。
「あたしもさっき言っただろ、仁」
「む」
「此処の方が、暖かいんだよ」
悪態をつかれた。胡座をかいた股ぐらの間に座すなど構わぬ姿は、たまに迷い込んでくる山猫の如し。つい、溜息交じりの言葉を吐いた。
「好きにしろ」
酒を口にした。ひどい味だ。
晴れた日に来ては日暮れる前に帰る者が、此度は闇より現れた。手には、先程の酒のみ。言を発する事無く何時もの支度を始める背に、声をかけた。
「濡れ鼠ではないか」
「途中から振られたんだ……」
その後、交す言葉は少なかった。互いに身を清め、髪と装束が乾く迄と酒を酌み交わしているうち、寒いと言い出したせいで此の有様だ。小袖は勝手に羽織られ、俺は宍色のまま、傍若無人の振る舞いに耐えた。
天からの恵みは地を潤し、あらゆるものを太鼓とした。朝から変わらずに。
たかを、死なせた日も。
「こんな夜、だったね」
心を覗かれたような囁きと共に、頭が控えめに此方を向く。咄嗟に、是という合いの手を入れた。
古傷が、疼く。
小茂田の矢傷と、胸の奥。時同じく、命の抜けた体躯を肩に思い出す。
火傷の跡が幾重にも刻まれた手は、冷たく空を掴んだまま固まっていた。其の無念を表わすかの如く。
「寒い……」
何時もと変わらぬ声色。だが顔は、手拭いと濡れ髪の作る御簾の先。
それが、胸を冷やす。あの日、容赦なく降り注いだ雨の如く。もたらした者の息は白く四方に参じる。
だがその手は、赤々と、明々と、囲炉裏の炎に照らされている。
「たか、を……どうしたら良かったんだろう……」
酷い雨音。其れに、彼奴の嘆きが重なる。そのまま、肩に小袖をかけたまま、ふらりと立ち上がった。まだ湿って居るのか、歩みに合わせて髪は重たげにゆらりと揺れる。それも十も歩まぬうちに、背を丸めた姿は棚の前で止まった。
「この短刀、あの子が作ったんだ」
言いながら、撫でるような仕草をした。此処に住み始めた頃に、ゆなから預かったもの。常にその棚へ置き、時には眺める事もある。錆びもせず、刃毀れする風情も無い。
「大陸のものに似た形をしておる」
「昔、海賊の船に忍び込んだ時、ひとつ盗んだんだ」
「それを真似たのか」
「軽くて、取り回しがよくてね」
「……左様か」
目を逸らし、薪を囲炉裏へ放り込む。瞬く間に煙玉の如き白いものが広がり、幾度か咳き込んだ。
「むっ」
迂闊であった。薪が雨で湿っていたのであろう、折角清めた髪や体に煙がまとわりつく。
常ならば、今の慌てふためく様を彼奴は揶揄うであろう。が、炎と俺が落ち着きを取り戻しても尚、此方を一瞥することもない。
「戦いを、教えても良かっ……」
「火にあたれ……まだ冷えて居ろう」
言を遮り、炎を見つめ続ける。
雨が弱まったからであろうか、屋根を叩く音が静まっていく。忍んで訪れる者らの手を借りるなどしたこともあり、雨漏りはない。其れだけでも、世捨て人の身には有り難たかった。
「やっぱり、寒いね」
衣擦れの音が近付き、背後で止まる。
「春過ぎたとは思えぬほどにな」
「もうちょっと呑めば、温まるだろ」
不意に右肩より腕をにゅっと突き出したかと思えば、手をひらひらとさせた。何かを手繰り寄せる所作に、其れが俺の持つ瓢箪だと気付くに、さほど時がかかることはなかった。
口を噤んだまま手渡すと、耳元で喉が鳴る音が聞こえてくる。じわじわと傾く瓢箪を目端に、小枝を囲炉裏に放り込んだ。此度は乾いた音が幾らか弾けた後、炎はまた大きさを取り戻す。
「でもあの子の手は、太刀を取る手じゃなかった」
呟きの後、瓢箪は逆さになり、時を置かず俺の股座に放り捨てられた。それでもまだ、ゆなの腕は俺の肩に下がったままだ。
「物を生み出して、人を喜ばせるものだった」
あの後、鉤縄を渡された時の姿が浮かぶ。
はにかみつつも、わずかに見せる、腕に覚えがあるという顔と語り。
「働き者の、良い手であった……」
言いながら、所在無く揺れる腕を掴んだ。
目に飛び込むは、ひび割れた指先に掌の肉刺、甲の傷と欠けた爪。
誰の庇護も無く、一日を生きる事が精一杯の中、弟を育てた証しが幾筋も刻まれた手。
「お主も良い手をしておる」
「……物珍しいんだろ、こんな傷だらけの手」
「戯れを申すな。弟を護ってきた、立派な手だ」
言の葉代わりに鼻を鳴らされ、軽く手を振り解かれた。かと思えば、すぐに此方が掴まれる。左からも腕が伸び、俺の右手はあっと言う間にゆなの両手に包まれた。
「あんたの手、たかみたい……」
「……」
「肉刺が多くて……あったかくて……」
血塗れの手を、暫く、触るにまかせた。
耳にかかる吐息に、酔いと追憶とは異なるものが混じり始めた頃、ようやく手は止まる。
「たかの為なら、傷付こうが……血塗れだろうが、どうでもよかった」
「……そうか」
「あの子が嫌がっても、あの子の為なら……盗みでも何でも、するって、決めてたんだ」
腕が首に一層絡みつき、多少乾いた髪が肩にへばりつく。何処かは分からぬが、宍もより多く。
「なのに……」
らしくもない弱音と立てた爪が、胸を抉る。やがて、呻きと痛みを伴い、冷えた肌が首から背へと纏い付く。
「あんたの、髪……たかの、と、同じ……」
「……」
「おんなじ……煙のにお、い……が、する……」
雨粒が、肩に落ちる。
熱熱とした心地は、何故だか暫く止むことは無かった。
🍁 🍁 🍁
頭の中は割れ鐘の如く、ぐわんぐわんと響く。
気がつけば、黒雲は去り、温い風がねっとりと体躯にまとわりつく。髷を結い上げたばかりでなくば、頭より水をかぶりたくなる程にだ。誠に、昨日の寒さは何だったのであろうか。
「悪いね」
「独り身の不如意は、よう分かっておる」
「確かにそうだ」
油を付けたゆなの髪に櫛を通し、何時もの形に纏める。艶っぽい仲では無いが、此度はやむを得まい。
「昨日の事、忘れて」
「……何のことだ」
「胸の……その……」
ゆなにしては、歯切れの悪い。ふっと己の胸に目をやると、確かに気にする程のひっかき傷があった。
背を冷や汗が伝う。
……いや、待て。目が覚めた時は、ゆなは俺の背にもたれて、俺は座ったままであったではないか。ついでに言えば、悪酔いの為にそれどころでは無い。
「だから、覚えて居らぬ」
「でも……」
「俺が酒に弱いのは、知って居ろう」
白を切った方が良い。いつの間にか酔い潰れてしまった故、嘘ではない。
「……猫」
不意の声に、其方を向いた。やや丸みを帯びた耳をした猫が、戸口の辺りにて此方を覗き込んで居る。荒ら家へ押し入る無礼者だ。
「胸の傷はな……此奴の仕業だ」
「……」
「此の様によく来るのだ。それで、悠然と俺の股座に座り込むと、そのまま寝てしまう。どかそうとすると、たまに爪を立てられる」
我ながら、拙い嘘だ。が、猫も見慣れぬ者の都合など構わず、股座に座り込み丸くなる。
「ちょっと、そこに座られるとっ」
「其処が具合が良いのであろう。お主と同じでな」
「はぁ……好きにすれば」
溜め息と共に出た言に、猫が軽く喉を鳴らす。
己は俺に対して同じ振る舞いをしつつ、か弱い者にはそう出来ぬとは、何とも言えぬ心地がした。
その内に、髪を俺の手に任せ、彼の者の手は傍らに転がった瓢箪を掴んだ。陽は既に、随分と高いところにある。
もう……いやいや、まだ呑むのかと呆れながらも問うた。
「……此度の酒、鑓川で呑んだものであろう」
「そうさ。相変らず不味いだろ」
「あぁ、ひどい味だ……だがな」
一つ息を継ぎ、痛む頭に手をあてつつ、無理矢理に口端を引き上げた。
「俺を酔い潰したい時には、善いやも知れぬぞ」
「……そうだね」
ようやくの笑い声は、常と何ら変わりなかった。
🍁 🍁 🍁
髷の乱れを気に病みはじめる頃、彼の者は来る。
時折、不味い酒を手土産に。
【終】