Melty time今にも崩落を起こしそうなほど詰まれた本に、新聞や手紙の束。
薄暗い中、何かの薬品がこびりついた実験器具が並ぶ室内に、ギィギィと不快で
不気味な音が響いている。

　倫敦はベイカーストリートの一角、近頃名が知れてきた探偵の住まう２２１Ｂ。
その話題の探偵は今、ぶすっとふくれた顔で、椅子の背もたれの耐久実験のごとく
負荷をかけては悲鳴をあげさせている。

いくつかの事件を解決したとはいえ、この年若き青年、シャーロック・ホームズは
スコットランドヤードから全幅の信頼を得るには至っていない。
今日も事件現場から追い出され、満足な捜査ができなかった。

彼の比類なき頭脳によって、もう調べるべき箇所の検討はついている。
出るであろう結果も。
しかし頭の固い刑事たちには取り付く島もない。
真実に向かう道のりを阻害された苛立ちは当然あるが、
そんな奴らをうまくやり込めることのできない未熟な己にも腹が立つ。
帰ってきてからは部屋に閉じこもり、灯りもつけずに暗い中不貞腐れていた。

　ホームズ、と優しい声とともに部屋が明るくなる。
同居人のユージン・ミコトバは、床に散乱する物を器用に避けながら
ホームズの元までやってきた。
湯気のたつマグカップがふたつ、手に持ったトレイに乗せられている。
手渡されたマグカップの中身は、英国民が愛する紅茶ではなく、
徹夜のおとものコーヒーでもない。
甘い甘い香りのココア。浮かべられたマシマロが、ゆるゆると溶けている。

「今日は残念でしたね。気を取り直しましょう」

「甘いもので機嫌を取ろうなんて、子供じゃあるまいし」

「大人だから、自分で機嫌を取れるんですよ。その手段が甘いものなら
　それよりよほど安くて、身体にも害がない」

ミコトバが視線でさした先には、細い注射器が転がっている。
医者である彼はその乱用を止めるよう、しょっちゅう注意しているが
返ってくるのは生返事ばかりだ。

　いまだ不貞腐れた顔のまま、ホームズはココアを飲もうとカップに口を寄せる。
ふわりと熱い湯気が顔を覆い、視界がぼやけた。

熱を出してぐずる子供にコーンスターチ湯を作ってくれるナニーのように
一口ごとふうふうと冷ましてくれる人はいない。
隣りで立ったままのミコトバは、平気な顔でゆっくりと、少しずつ飲んでいる。

「焦らず、ゆっくり飲みなさい。君は頭が働きすぎるから
　ときには意識して落ち着かせないと、そのうち倒れてしまいますよ」


いかにも子供に言い聞かせるような口ぶりが、ホームズには面白くない。
子育てならば自分の子供相手にすればいいだろう、と毒づきたくなるが
もし彼が子育てを全うしていたなら自分とは出会っていないのだ。


　つぶらな瞳と愛嬌のある朴訥な笑顔のせいで若く見えるが
実際はホームズよりもずいぶん年が上で、結婚していて子供がいる。
賢さは年齢によらないが、経験の差は埋められない。
こうしてふとした折に見せる余裕にいつも助けられてはいるのに
素直に礼が言えない自分は、まだ本当の意味で大人になっていないのだろう。
カップの中、ココアに映る顔を睨みながら、ホームズはほんの少し口に含む。
繰り返していると、いら立ちが甘さに溶けていくようだ。

「大丈夫ですよ。謎だって、君に解いてほしいに決まってます」

ミコトバはホームズの肩に手を置いて、優しく語りかけた。
何も根拠がない言葉なのに、向けられた笑顔には頼もしさがある。
いくぶん飲みやすい温度になったココアをぐいっと煽り、ホームズは
ミコトバを見上げた。下がり切っていた口の端は、上向いて弧を描いている。

「当然だろう。ボクは名探偵だ」