ヴァイ墓どこかやつれたように見える風貌の男は今日も対価を手に部屋を訪れる。
「今日も音楽を聴かせてほしい」
握りしめたそれは一晩の酒代にしかならないような端金だったけれど、それは確かに大金だった。
仕方なく弦を持ち上げると彼は安心したように息を吐き出し椅子に腰掛ける。
今日も地獄に、音楽は止まない。
きっかけという程のものではないが、それが話しかけてきたのはとあるゲームの終了後だった。
足早に自室に帰ろうとする私をあれが呼び止める。
これが言うには、ゲーム中聞いた私の音楽が酷く心地の良いものだったということらしい。
一体何を言っているんだと無視して踵を返そうとした、が──私の袖を掴んだその顔があまりにも必死で滑稽だったものだから、話を聞いてやることにした。
「そ、その……変だって自分でもわかってる。でも本当のことなんだ!そんなわけない事ぐらい僕だってわかってる、理解はしているんだ……けど」
「けれど?」
「お前の音楽が……いや、お前の音を頭が認識した瞬間、頭の中がすっと軽くなった気がしたんだ……。その時僕はお前の目の前にいた、そうだろ……?」
「あぁ、地中の土竜が椅子の前までノコノコ現れたからな」
「そのあと僕はぶたれた、そして僕の中に音楽が入り込んだ……思わず振り返ったんだ、痛いはずなのに、苦しいはずなのに体は随分と軽くておかしいなって」
「ほう」
「何かされたんじゃないかと思ったんだ、でもそんなわけないから……だから、その、確かめたいんだ……お前の音楽が、もしかしたら……その、…………になるんじゃないかって」
「あ?なんだ?声が小さくて聞こえない」
「そ、その」
ペラペラと喋り続けていた割に、急に小さくなった声を鋭くつつけば顔を真っ赤にして俯いてしまう。
耳まで赤いその顔には見覚えがある、いや見覚えがありすぎると言ったところだろうか。
「顔を上げて話せ、私はそんなに気が長くないのだから」
無理やり顎を引っ掴んで顔を向けさせる。
長い前髪に隠れていない方の瞳がこちらを向く、情けなく垂れ下がった眉毛が行き場をなくしてぴくぴくと動いているのがわかった。
つややかな目の光が静かに揺れて、動揺している姿を視線で捉える。
「あ……ぅ、その、……僕の、ぼくの……救済に、なる、かな、とおもって」
思わず腹の底から笑いが止まらなくなった。
救済?救い?何を口走っているんだこの男は。
「わ、笑う事ないだろ!」
「はっは、はははは!笑わずにいられるか!貴様私に何を言ったと思ってるんだ?」
「だって!」
「ははは!悪魔に救いを求めるか!胸の十字架など火にくべてしまえ!……はぁ…こんなに心から笑ったのはいつぶりだろう、暇つぶしにはなったぞ、愚者の滑稽な振る舞いよ」
「待って!僕は本気だ!」
涙が出るほど笑った私を真剣な顔で呼び止める。
おかしい、想像の中で彼はかんかんに怒って去っていくはずだったのに。
「お前が悪魔……って呼ばれてたのも知ってる、でも僕はそうは思わない!僕に光を見せてくれたお前のことを、僕はそんなふうに言わない」
垂れ下がった手のひらを彼は両手で握りしめてきた。
その強さに思わず狼狽える、今なら逃げることすら叶わないだろう。
「お願いだ、僕にお前の演奏を……聴かせてほしい」
「……なら、対価はなんだ?」
「対価……」
「悪魔との契約には対価が必要だ、それが救いだと言うのならば尚更の話。空っぽの脳みそでもわかる話だろう?」
暫く考える素振りを見せ、彼は私の掌を彼の心臓の上に置かせた。
「対価は、僕だ」
「よせ、私にそんな趣味は……」
「誰にも言っていなかったけれど、僕は荘園の仕事を手伝わされている、そしてその代わりにここでの通貨を受け取っているから……ゲームの成績に反映してもらうものがあるだろう、あれを働いてる分他の人より多くもらってるんだ。お前ならわかるはず、あれは換金できる」
「……ほう?」
「僕の体をお前に捧げる、そしてお前は対価を得る、ここの通貨として娯楽品に交換するでもいいし、貯めて換金するでもいい、兎に角お前は富を得ることができるはずだ」
断る理由が特にない。
こんなに必死な顧客だ、細かいリクエストも重箱の隅をつつくようなイチャモンもつけてこないだろう、常日頃の演奏に呼び出せば金が手に入る。
好条件、高待遇。
「……いいだろう、私のタイミングでいいならば」
「!本当か……!」
真剣な顔がへにゃり、と崩れた。
張り詰めていた糸が切れていくような人間の姿を、私は初めて見たかもしれない。
「良い客になってくれる事を願おう、来たまえ」
握りしめられていた手を振り解いて自室へと向かう。
歩幅の差にあわてて早足で追いかけてくる彼が握りしめていたてのひらはまだ少し痛いほどだった。
観客が席についたのを確認して私は腕を振り上げた。
私の指揮に合わせて髪がうねる、音が跳ねる、空気が揺らぐ。
鼓膜に伝わる感覚が脳を震わせる。
そして、彼の瞳は輝く。
やはり間違いではなかったというように。
それにしてもおかしい、普通であればここで精神に異常をきたしているはずだ。
至高の旋律とはいえ行きすぎた芸術は人の心を狂わせる、そして高みにのぼり詰めた私の演奏もその例外ではない。
それを活かしてゲームを行なっているのだから、彼にそれが効かないとなると話が少し変わってくる。
「……」
ちらり、と前髪の隙間から彼の方を見る。
椅子に腰掛けた彼は膝の上に両の拳を握りしめ、小さく唇を振るわせ──それは確実に、彼を感動の至りへと導いている。
そんな姿だった。
(面白い、な)
恐れ慄かれなければ困る。
それが追うものとしてのプライド。
けれどもこの目の前の貧相な男が私に目を輝かせているのは、愉悦でもあった。
この顔を絶望に浸らせたい。
どうにかして彼の心をぐちゃぐちゃにしてやりたい。
目の前にある救いが偽りであるという真実を目の前に叩きつけられ、無様に床に伏せる姿が見たい。
そんな思考が脳内の楽譜と共に現れては消えていく。
何せ私は悪魔と呼ばれた男、そして悪魔そのもの、それを操る者。
彼が救済だの救いだのと言っているコレを、ひっくり返すことなどおそらく造作もないはずだ。
「あぁ、なんて……」
恍惚とした笑みを浮かべる男は気味が悪いが、ここまで酔いしれてもらえるのならば暫くは対価を引っ張れるだろう。
そして、何より酒代になる。
全てを濁らすのに必要なアルコール。
愛してやまないのは、それだけだ。
「……と、まぁこんなところだろう。感想は言わずとも伝わってきたが」
「すごい…本当に、お前は僕の……救いになれるのかもしれない……」
彼はポケットを弄り私の掌に幾つかの〝対価〟を渡した。
キラキラと光る紫の欠片。
それは紛れもなく、ここでの通貨だった。
「い、今持ってるのはこれしかなくて……これ以外が良ければ部屋に戻れば少しはある、次は違うものをきっと持ってくるから。貴方が……選んでくれればいい」
宝石のようなそれの数を数えて、思わず笑みを浮かべる。
これなら一晩どころか、数日は楽しめるかもしれない。
「あぁ、手に入ればなんでもいい。お前がやりやすいようにやれ。だがしかし対価を忘れるなよ、地獄の沙汰もなんとやら……そう言うだろう?」
トン、と指先で心臓のあたりを押すと彼は顔を真っ赤にして部屋から去っていった。
あぁ、なんとも愉快。
恐らく彼は私に惚れているのだ、可哀想に。
見ればわかる、花街の女も、演奏会に顔を見にきた女たちも、あの姫までも、皆私にあの表情を浮かべていたのだ。
生娘のフリでもして同情を誘うつもりだろうが、生憎私にその手の趣味はない。
願望という人間の一番大切な場所にある記憶の中の小さな私は、あたたかくて柔らかいものを願っているのだから。
その日から随分私の財布は温まることになった。
周りの奴らは不審がっていたが、実際私のゲームの成績は良いものになっていたのだから疑うのも無理はない。
上機嫌であるということは、己を良い方向に突き動かす原動力でもあるということだ。
腕を振り上げれば音楽は必ず愚者たちに届き、旋律は彼らを慄かせた。
「随分と羽振りがいいのね、私の鏡は輝きが失われているようだというのに」
「それでも貴殿の美しさは変わらないではないか」
「あら、お上手ね」
町からの帰り道、足を滑らせないように階段で彼女の手を引いていると唐突に話を振られた。
それにしても、彼女のこの細い足でどのように窓を乗り越えているのだろうか?足を挫かないだろうか。
相変わらず嫌な思い出を引きずり起こされる女だ、と気高き瞳から目を逸らす。
「けれど……気をつけて?私美智子に教えてもらったのよ、羽振りと、葬りは同じ読み方だって」
「…何?」
「あら?ええと、どうやって書くんだったかしら。まぁいいわ早く帰りましょう、今日のおやつはクロカンブッシュだって……誰かが言っていたの」
軽やかに階段を降りた彼女は私に興味をなくしたのか、エスコートした男を置き去りにして歩き出す。
女というのはいつもこうだ、だから私は女が嫌いだ……
ぶつぶつ言いながら暫く歩いているといつのまにか屋敷まで帰ってきていた。
和気藹々とお茶会をしている奴等を横目に自室へと足を止めずに戻り、取っておいた瓶のコルクを抜く。
ぽん、と間抜けな音がしてくらりと酩酊するような香りが心の奥に広がり……それは私を歓迎しているかのようだった。
その実、歓迎しているのは私の身体なのだろうが。
喉の奥に流し込んだアルコールは時間と空間の輪郭を四肢から切り離してくれる──死にもよく似たその感覚、そしてその記憶を無くすあたり、お手頃な錯覚を得ることができるのだ。
濁った頭は霞を掴むように思考をあちこちに伸ばす。
「ふ……ふふっ……はは──私が──酔いしれているのではなく──世界が私に酔っているのだ─……」
階段を駆け降りていった女の顔を思い出す。
アン、ドゥ、トロワと頭の中で三拍子が鳴り響く。
同じ読み方なの──と知識をひけらかす無学な女、傲慢で美しく、憐れなあの首!
断頭台の上に登ったあの女は、今では茶菓子の内容を気にしている!
罪ごと切り落とされたあの瞬間過去すらも切り取られてしまったのか?
ここに来たことで、何者かとすり替わっているのだろう。
傲慢な女王、後世では哀れと呼ばれたあの女王、悲劇と呼ばれたその首は!
今では他人に成り代わっている!
「……ぁ──……実に、愉快、だ……」
気づけば私の体は床に転がっていた。
最初は座っていたはずだが、はて。
「喧しい、引っ叩いてしまうぞ……」
ちく、たく、かち、かち、と耳障りな秒針が壁の方から聞こえてきた。
それに目をやると、どうやらかなりの時間が過ぎていたようで、窓に目を向けると外はもう既に暗くなろうとしていた。
ぐらつく頭を無理矢理起こして、なにか食べるものはないかと自室を出る。
まだ夕食は終わっていなかったようで、滑り込むように食堂の席に着く。
だがしかし食べ物は喉を通らず、ヤケクソに水を飲み干し部屋を後にした。
風に当たりたくて、庭園へと足を運ぶ。
外の空気はぐるぐると胃の底を渦巻く不快感など関係ないかのように澄んでいて、時折頬を滑る風が気まぐれに髪の毛を揺らしていく。
木の葉の影を探し、木の幹に腰掛け……なんとなく、鼻歌でも歌ってみる気になってきた。
脳内で鳴り止まない騒音たちを空気に乗せれば、それは小さな音楽になってゆく。
訪れる夜の闇が完全に空を覆い尽くすまで、私はそこにいた。
さてそろそろ気も済んだことだし、と立ち上がってみると、建物の影に隠れてこちらを見ている何かがいることに気づく。
そしてそれがこの前の男だということに気づくのに、大して時間はかからなかった。
「……何をしている?」
「ひっ!」
声をかけると男は後退り、明後日の方向に向かって走り出した。
逃げ切れるとでも思っているのだろうか、ハンターに。
「もう少し大人しく捕まれないのか?髪の毛がちぎれる」
「お前が離してくれれば大人しくなる!」
大袈裟に腕を振って逃げるものだから、その腕を捕まえるのは随分容易かった。
ゲーム中はもう少しスマートに走れるだろうに、何故こんなダバダバとした情けない走り方なのだろうか。
「盗み見とは行儀が悪い、返答次第では暴力を働くことになるが?」
「うっ……行儀が悪い、のは、確かだけど……。……見たかった、んだ……」
「何を?」
「……貴方が、うたっているところ……」
目が点になった。
「音楽ができる人は歌も歌えるんだな、すごいなー……って……聞いてた、見てたというより……引くなよ!」
「いや、引くだろう」
「うぅ、それは僕も……わかっちゃいるんだけど……。でも……」
「でも?」
「貴方の音楽が好きだから……それがなんであろうと、聞いてみたいと思ってしまって……ごめん」
生まれてこの方演奏を褒められ続けてきた人生だったが、こんなしょうもない鼻歌を褒められたことは一度だってない。
それを彼はこんなにも仰々しく扱い、敬い、あまつさえ謝るのだ。
悪くない気分だ、しかし……
「貴様がほめそやすその音楽とやらを、盗もうとしていたのか?」
「うっ……貴方がそう言うならそうなのかも、しれない……下心がないと言えば嘘になる…から」
宛ら盗みがバレた子供のように、俯きしゅんとする。
自らに好意を寄せる人間の、突き放された瞬間の顔と言ったら!
「ごめん」
「謝罪はいらない、行動で示せ」
「そんな!急に手持ちなんて……」
「お前は私に体を捧げると言ったな?」
突き放したから、引き寄せる。
腕を掴んでぐいと引っ張れば、バランスを崩した体は私の方へと倒れ込む。
「ならばその体、私の為に全てを使え。働け、貢げ、その分だけ私は貴様に恩を与えるだろう、返す機会をくれてやる」
「へっ……?」
「貴様の言う救済が私の与えるものだというのなら全てを捧げろ、と言っているんだ。そんなにわかりづらいことか?」
離れようとした体を無理やり引き寄せる。
顔の輪郭が腹に当たる。
もごもごと何かが動いている気がする。
「これでわかっただろう?力の差は歴然……そんな私に取引を持ちかけてきたのはお前だ、今更後悔してももう遅い」
両手で力一杯離れようとするのがあまりに滑稽で、逆にギリギリと締め付けるように抱きしめる。
男を腕の中に入れる趣味はないと思っていたが、これはこれでなかなか。
好意など微塵もないが、愉悦と言われればそれは確かにここに存在するだろう。
「離…っ、離して…!」
耳まで赤くなった顔を、左手で無理やりあげさせる。
存外素直に上を向いたその顔は酸欠のせいか赤く、瞳が潤んでいる。
情けない顔を晒して、まるでいつもの彼とは他人のようで、その姿を晒す相手がこの私というのが愉快でたまらなかった。
「施しを受けたければ身を差し出せ、私は神でもなければ凡人でもないのだからな」
ふと、今ここで彼にキスをしたらどうなるだろうと考えが頭をよぎった。
ここで色恋に持ち込んで、手玉に取るのも悪くない。
そもそもの話、明らかにこの男は私に惚れているのである。
「あっ……!」
瞳と瞳が合ったのにようやく気づいたようだった。
生娘のソレだ、穢されることを知らない無垢な瞳。
俗世を見て濁り切ったようになったような瞳。
苦労をしたとは聞いているが、結局のところこいつもただの〝人間〟だ。
「は、なして……」
悪くない。
使い捨ての玩具だと思えばの話だが。
「だめ、違う……そんな、つもりじゃ…っ!」
女は嫌いだ。
どいつもこいつも自分のことばかり。
無理難題を押し付けてきたあの女、自分の利益しか求めず私を閉じ込めようとしたあの女、消えていったあの女、女、女!
嫌いだからこそ、力を持って手に入れる事で己を慰めることになる。
きっとそれは人間である以上、この男だって変わらない。
「やっ……!」
キスをした。
うるさいから、口を塞いだにすぎない。
柔らかくて湿った女のものとはちがう、どこかガサついて薄いものだった。
「………それでは、また今度。夜に」
可哀想なほど真っ赤になった顔を背に、私は歩き出した。
あぁ哀れ、なんて痛ましい、彼は私の虜になってしまったようだ。
何度も見てきたあの顔は、どうせ数日もすれば移り気になってしまうだろう、ならば。
その間だけでも遊んでやるのが礼儀というもの。
束の間の夢を見せてやろうではないか。