moonly「月見ぃ?」
大学の学食、無機質で愛想のないテーブルに肩肘をついた以蔵はその一言に眉根を寄せる。
「うん、今日は晴れるらしいよ」
向かいに座ったふたつ上の幼馴染はそう言うと、手にしたサンドイッチの頂点に噛み付いた。
「待て待て待て待て、龍馬、話が見えん」
昔からこの男――龍馬の話はどうも話の芯をわざと外して人を試すようなきらいがある。
さっぱり何を言いたいのかがわからず、やきもきした表情で以蔵が目を細めると、龍馬はすぐにその情緒じみた表現を訂正した。
「うちにおいでよ、ってことさ」
「は? どいて?」
「月見酒、なんてひとりじゃ寂しいだろ」
「酒」
「うん。最近以蔵さん、バイト忙しくて全然相手してくれなかったじゃないか」
ニコニコと人当たりの良いいつもの顔で龍馬が笑うと、近くを行き過ぎる女子学生がそれに釘付けになっているのが目に入る。
「……ちっ」
幼馴染の顔が良いことは分かっているが、それにしても毎度これだとむかっ腹も立つ。
自分だって、この男のような方向性ではないにしても、かなり整った顔をしている部類に入るはずなのに。
この青年の隣にいるとそれも霞んで見えなくなってしまうくらいに、青年の顔と雰囲気には卓越した何かがあった。
「ね? だから今日はうちにおいで」
「どういてわしが……」
「そりゃあ、恋人だからだろ」
『えっ』
龍馬がさも当然の如く言い放った言葉が耳に入って、丁度通りすがった女生徒たちが抑えきれずに感嘆をこぼす。
「?!」
「ね?」
「ね? やないわ阿呆!!」
以蔵は顔を歪め、椅子を倒してしまいそうなほど雑に立ち上がると、とっくに食べ終えていた学食の器を片付けもせず、その場を去っていく。
「ぼく今日四限で終わりだから、家で待ってるよ~」
ひらひら、とその背に向けて手を振った龍馬は、何事もなかったようにまた、サンドイッチにぱくりと歯を立てた。
「まぁだどくれちゅう?」
「…………」
お世辞にも広いとは言えない、借り住まいの台所。
龍馬の借りている賃貸マンションは学校から徒歩圏内で、賃貸料も高くはない。それゆえか同じ大学に通う学生たちが多く入居していて、まるで寮のような様相を呈している。
「にゃあ、以蔵さん?」
キッチンでなにやらごそごそやっている龍馬が幾度となくその名を呼ぶ。すると居間のソファに大股開きで腰掛け、暫くそれを無視していた以蔵はその執拗さに根負けし、ついにわっと声を荒げた。
「当たり前やろうが!!」
「わぁ、どうしたの」
「おまん、あがぁに人の多い所で……」
振り向いてきつく睨む視線を受けた龍馬は、隠しきれない笑みを浮かべる。
「あれ、照れてる? かわえいにゃあ」
「ほうやない!!」
ぼすんばすん、とソファの背を穴が開くかと思うような力で殴り倒す以蔵を見て、龍馬はぱちくりと瞼を持ち上げる。
「あれま」
そうしてすぐさま冷蔵庫へ手を伸ばすと、中から取り出した缶を不機嫌な幼馴染に差し出した。
「はい、ビール。今日は僕の奢りだから、機嫌直して?」
「…………」
「いらない?」
「…………」
以蔵は無言で目の前に突きつけられたアルコールの缶を睨んだが、すぐにそれを奪うように受け取る。そしてむっとした表情のままカーテンと窓を開けると、その奥へ消えていった。
「…………」
本当は彼の機嫌が悪いわけではないことを、龍馬はよくよく知っている。
もしそうなら、彼が自分の家にやってくることもないし、渡したものがいくらアルコールであったとしても受け取るわけがない。
――気まぐれな黒猫はただ純粋に、公衆の面前での恋人呼ばわりを恥ずかしがっているだけなのだ。
「めった、しょうまっことかわえい……」
部屋の中に残された龍馬は、簡単な酒の肴の仕上げと盛り付けにかかりながらぼそり、ひとりでなければ呟くことすら憚られる言葉を漏らした。
猫の額のようなバルコニーには、先客によって厚手のレジャーシートが敷かれていた。
「…………」
その上には申し訳程度の小さな小さな折り畳みテーブルが置いてあり、さらにそこには豆皿が幾つか、種々彩とりどりの酒肴を携えて整列している。
「どう? お月様、見える?」
家の中とベランダを幾度も行ったり来たり、やっと最後の豆皿を置いて恋人の隣に腰を下ろした美青年が、わざとらしい質問を口にする。
「……おん」
フェンスと上階のベランダによって長方形に切り取られた隙間からのぞく、黒々とした宵闇に浮かぶ中秋の名月。
棚引く薄雲が風に流れて迫るのを、以蔵は缶ビールに口をつけたまま、ぼんやりと眺めている。
「すごい、ちょうどこの隙間から見えるね」
「ちくと窮屈そうじゃのお」
「確かに。でもこれはこれで、綺麗じゃないかな」
「ほうかぁ? わしにはようわからんにゃあ」
「ふふ、じゃあ月より団子にしようか」
「おん、それがえい」
ふたりはそれぞれ好き勝手に皿の上の供物を平らげにかかる。里芋のポテトサラダ、干し柿とクリームチーズ、かぼちゃの茶巾蒸しにぶり大根。
帰路にあるスーパーの惣菜まで月見めいて、大学生の男たちには些かパンチに欠けるものばかりではあるが、これもまたセレンディピティってやつだよ、なんて実しやかに囁く声が嬉しそうで、以蔵はつい文句を言うことも忘れ、隣の青年の横顔を眼差した。
「……ふふ、照れるなあ」
「……?」
「そんなに見つめられたら、照れる」
ちらり、龍馬はさきに視線だけを流す。
「うれしい」
それから横に座る青年の腰に手を回し、ぎゅっとその身体を横から抱き締めた。
「……おい」
放っておけばすぐ離れるかと思えば、いつまで経ってもそのままぴたりとくっついている恋人の、汗ともアルコールとも違う香り。
それに鼻をひくつかせたのがばれないように、以蔵はぎろりと龍馬を睨め付ける。
「ん?」
「なにしゆう」
「スキンシップ」
「暑苦しい、離れぇ」
「やだよ」
煙たがられてますます腰を抱く力を強くした龍馬は、恋人の癖っ毛を器用に鼻先で掻き分け、隠れていた首筋にくちびるを押し当てた。
「ちょっ、オイ!!」
「怒鳴ると声、聞こえちゃうよ」
「ッ…………」
二部屋隣の同窓生もどうやら考えることは同じらしく、数人で集まって狭いバルコニーで酒盛りに興じているらしい。
わいわいと賑やかな軽口が聞こえ、以蔵ははっと口を噤む。
「……」
ちゅう、ちゅう、と膚肌を吸う音が夜風に紛れ、消えていく。おしゃべりな唇は得意の話術や折角並べた夕餉に見向きもせずに、執拗にそれだけを繰り返す。
「りょう、ま、もう」
(ここじゃあ、いかん)
以蔵のそっとひそめられた声、月明かりですらわかる火照った頬、懇願するように見詰める瞳がしとど濡れそぼるのを見て、龍馬はそっと頷いた。
「……わかったよ」
撫子のような幼馴染の様子を秘密裏に愛でながら、にこりと穏やかに微笑むと。
「これ以上は、お月様にも見せたくないからね」
秋の夜空を見上げて、腕の中の恋人を隠すように抱きしめた。
[了]