Recent Search
    Sign in to register your favorite tags
    Sign Up, Sign In

    hatori2020

    @hatori2020

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 32

    hatori2020

    ☆quiet follow

    出来てない。
    プロットのようなもの。ここから話しを膨らませたり、エピソードを入れたりする感じなので荒い。でも書いてて楽しかった~!続きも楽しく書くぞ~!

    それだけちょうだい 自分は不幸だった。幸せを一度でも知ってしまったからだ。
     権田静子はその日、自身が不幸だったと痛感した。不幸の痛みは初恋の痛みも伴っていた。
     生まれてすぐ静子は母に捨てられた。運良く母の妹――叔母が育ててくれたが、幸運とは言いがたい境遇だった。見てくれが少しでも良かったら女郎として売られたのに、静子の顔つきには女衒も匙を投げた。そうこうしているうちに売られる旬をすぎ、静子は十七になっていた。
     それはいつものように従姉妹の理不尽な八つ当たりが終わった夕暮れ。引っぱたかれた頬が熱を持っていた。従姉妹が懸想していた男がどこぞの女に惚れたとかで、腹いせに殴られたのだ。こんな従姉妹だから好かれるわけもないと静子は思っていた。
    腫れた右の視界で、増水していた川を見た。それはいつものように思うこと。
     川に飛び込みたい。厠に行きたいと思うような普通の欲求。ここの橋の欄干は少し低い。これだったら疲れ切った静子でも乗り越えられる。棒きれのように汚く、傷と垢だらけの両腕に力を入れ、体を押し上げた時だった。
    「ちょ! 危ないよ!!」
     突然後ろから肩を引かれた。もう二日間なにも口にしていない静子は抵抗する力も無く、ふらりと引っ張られた方へ倒れこんだ。着物が水たまりで泥だらけになって、また叔母に折檻されるだろうと思った。
     だけど静子は地面に転がることはなかった。目の前が美しい黄色、金色、黄金色、それにとても優しい色合いの瞳。
     その人は躊躇わずに静子を抱き留めてくれていた。
    「ああ、ごめんねぇ。俺、力強すぎたね。でも、あんなとこに乗り出したら危ないよ。……立てる?」
    「あ、……はい」
     夢を見ているような気持ちで顎を引いた。けど、情けないことに静子は立てなかった。その人を失望させてしまうかと思うと頭の中がごちゃごちゃになった。
    「だ、だい、だいじょおぶです。あの、だいじょうぶうですから」
    「──ちょっとごめんね」
     その人は力強く静子を抱いたまま、早歩きで人目に付かないところまで連れて行ってくれた。家と家の間の小道に置いてあった木箱に静子を座らせた。
    「少し待っていて。ここにいてね」
    身を翻して、そのままどこかへ行ってしまった。まるで夢のようだ。綺麗な金の髪。優しげで整ったお顔。甘い声。そして、はじめて抱き上げられた。胸ぐらを掴まれて浮き上がるのではなくて、静子を思って抱き上げてくれた。
    務め人なのだろう。洋装がとてもよく似合っていた。叔父が着ていた洋装がとたんに野暮ったく思えた。従姉妹が懸想しているあの材木問屋の跡取り息子も霞んでしまう。
    そんな人に声をかけられて、あまつさえ抱き上げて貰えたなど信じられなかった。
    ふと、自分が座っている木箱を見てぎょっとした。そこには趣味の良いハンケチが敷かれていたからだ。転がり落ちるように木箱から下りた。座り込んでまじまじとハンケチを見ていると、後ろからとても美味そうな匂いがしてきた。勢いよく振り向くと、その人がきょとんと首を傾げていた。
    「あれ、どしたの? 座ってていいのに。それよりもお腹減ってるんだよね」
    その人は持っていたうどん鉢を静子に差し出してきた。ひどく恥ずかしいことに奪うような勢いでうどんと箸を受け取って食べ始めた。まともな食事はどれくらい振りだか分からなかった。食べながら腹の底からきゅうきゅうと腹がなる。
    「ゆっくりでいいからね。焦って食べなくても誰もとらないよ」
     返事するのも惜しいくらいに静子は必死になって食った。あたたかなうどんなんて初めだった。
    「あ、ありがとうございました。ごめんなさい。あたし、汁まで飲んじゃったんですが、その……」
    「ああ、いいよ。お金はいらないよ。俺がやりたくてしたことだからね。あ、別に何か要求するわけじゃないから変な気を回さないでよ」
     空っぽのうどん鉢を見下ろして静子は恥ずかしい思いに駆られていた。そんな静子にその人はなんでもないようにうどん鉢を受け取った。
    「ごめんなさい。とても、助かりました。ありがとうございました。ありがとうございました」
    「いいって、いいって。──あ、やっぱりひとつお願いしてもいいかな?」
    「は、はい!」
     静子はその人を見上げた。この人がいうお願いならなんでも叶えたい。見上げて目が合うと、その人の瞳の色が鼈甲飴色だと気付いた。従姉妹がいつも甘そうに舐めていたあの飴。その飴色をした男の方。
     指を一本立てて、静子の前に突きだしてきた。
    「もう簡単に死のうと思わない。生きていて辛いのはよく分かるよ。でも、死んじゃったら終わりなんだ」
    「え」
    終わるなんて、最高に幸せなのに。
    その人の優しげな瞳が悲しく揺れた。
    「俺は、誰かが死ぬのはもう見たくないよ」
    「あたしが死んだら」
    きっと一緒に住んでいる家の人は大喜びする。
    「うん。死んじゃったら悲しいよ、俺は」
    静子が死んだら、この人は悲しいと言う。悲しんでくれる。悼んでくれる。さみしいとは思わないと思うけど。
    静子は顎を引いた。ゆっくりと自信なさげに、だけど初めて生きていこうと顎を引く。
    「は、い」
    「うん。頑張ってねぇ。じゃあ、俺そろそろ行くよ」
    「待って!」
    気付いたら静子はその人の腕を掴んでいた。ここで別れたもう会えないと思った。また会いたいと思った。はじめてそんな風に人を思ったことに静子は驚く。だけど、そんな自分を余所に口は勝手に開いていた。
    「あ、あたし権田静子って言います。あ、なたの名前は?」
    「俺? 俺は我妻善逸だよ。そっか、──静子ちゃんって言うんだ」
    「あの! あ、あが、あがつまさんは……」
    きょろきょろと視線を走らせ、自分が座っていたハンケチに気がついた。
    「ハンケチ!忘れています!」
    「ん? ああ、そういえばそうだったねぇ。ありがと」
    善逸がハンケチを拾おうとした。
    「あ、あの、洗ってお返ししますから、あがつまさんはどこにいますか」
    「ええっと? 俺が務めてる場所でいいかな? 住んでるとこはちょっと遠いんだよね。俺ね、さっきの川沿いにある産屋敷商社で働いてるんだ。午前中はいるけど午後はいないことが多いから、訪ねてきてくれるなら午前中がいいと思うよ。おっと、やっば! それじゃあ、またね静子ちゃん!」
     静子がネギひとつさえ残さず食べきったうどん鉢を片手に善逸が走って行ってしまう。それをずっと見送る。すぐに彼の姿は見えなくなったけど、それでもずっと静子は目をそらさずに見つめていた。
     幸せだった。お腹もいっぱいであたたかくて、優しさが悲しいほどに心に染みて。
     だから気付いてしまった。
    「あたしって不幸なんだね」
     そんな自分に好かれてしまった我妻善逸は、不幸なのか幸福なのか静子には判断できなかった。










     あとひとつの季節が過ぎたら、襧豆子は善逸にお返事をする。
     一年間待った返答は、襧豆子の中で気恥ずかしさとうれしさであふれていた。
     お嫁さんにしてください。
     わたしもずっと好きでした。
     どう返事をするか考えるだけで甘くて、ほんの少しだけさみしい。はやくお返事がしたかった。そう思うようになったのは、善逸が少し離れた街に仕事へ行くようになったからだろう。
     今日も襧豆子が作ったお弁当を持って、善逸は朝早くに家を出た。仕事を始めたのを機に善逸は山の麓に家を借りたが、そこに帰るのは仕事が遅くなったときくらい。そうでない時はいつも山をのぼって竈門家に帰ってきてくれる。
     行ってらっしゃいとお帰りなさいを善逸に言えるのが、襧豆子の秘かな楽しみ。でも行ってらっしゃいは少し悲しくて、お帰りなさいはとても嬉しい。きっと善逸は音で気付いているのだろう。襧豆子の行ってらっしゃいには少し困ったように小首を傾げて、お帰りなさいにはいつも優しい笑顔を浮かべてくれる。
     その日はお日様が暮れても帰ってこなかった。日が沈んだから無理をして帰ってこない。竈門家の約束事その1だ。
    「善逸さん、今日は帰ってこれないんだね」
    「今日は早上がりだって聞いてたぞ。何かあったのかな」
     ぼしょりと呟いた言葉に、後ろにいた兄が答えてくれる。
    「うん。わたしも朝そう聞いたんだけど。……急ぎのお仕事が入ったのかな」
    「それだったら仕方ないだろう。よしよし」
     兄が幼子にするみたいに頭を撫でてくれる。恥ずかしさを感じたけど、つい甘えたくなってされるがままにしていたら、
    「うん?」
    通りがかった伊之助もおざなりに頭を撫でながら唸った。
    「ネズ公。俺、明日出かけるぞ。善市がいる街だ。別にアイツに会いに行くわけじゃんねえからな。アホイに頼まれたんだよ。善市の働いてるとこになんか取りに行けってな。……で? どうする」
    「行く! 行ってみたい! いいよね、お兄ちゃん?」
    「ああ、構わないけど兄ちゃんもお願いがある。この間襧豆子に買ってやった着物あるだろう。あれを着ていってくれ。着てくれないと兄ちゃんもさみしいぞ」
    「もうお兄ちゃんったら。ふふ、わたし用意してくるね。伊之助さん、明日早く行こうね!」
     襧豆子が奥の間に急いで行ったあと、残された炭治郎はちらりと伊之助を見て囁くように感謝の言葉を述べた。
     襧豆子にはいつも笑っていて欲しい。
     ふんとそっぽを向いた伊之助だったが、悔しそうに振り返って言い返した。
    「菅次郎も、明日でかけろよ。カナイが待ってんぞ」
     さわやかに笑った炭治郎だったが、その耳は赤く染まっていた。竈門家には優しい恋が小さく芽生えて、春を待ちわびている。



    善逸が働いている街は襧豆子が暮らす山麓町よりも賑わっていた。人の多さに目を回しそうになるけど、浅草や銀座はもっと華やかだと善逸が言っていたことを襧豆子は思い出した。
    「伊之助さん、善逸さんの務めている会社って大きな川沿いにあるんだよね?」
    「あ、ああ。あいつすげぇぜ。こんなざわざわしてるところに毎日通ってんのか」
    緩く着崩していると言っても着物を着ていることが伊之助には苦痛なのだろう。猪頭をかぶっていないのも、どことなく不安そうだ。
    遅れ気味の伊之助の手を引いて、行き交う人を避けながら進んでいく。ふたりは何度も見知らぬ人に話しかけられた。どこに行くのか、道に迷っていないかといった優しい言葉ばかりだった。
    この街の人も素晴らしく優しい人ばかりで襧豆子は嬉しくなった。そういえば先日あたりに知り合った材木店のひともこのあたりの出身だと言っていたような気がする。
    何度か間違えたあとに産屋敷商社にたどり着くことが出来たが、思ったよりも時間がかかってしまった。そして、生憎と善逸は会社から所用で出ていると残念な知らせを受けた。小一時間ばかり待っていれば戻ってくるというので、襧豆子は会社前の川辺で待たせてもらうことにした。
    伊之助は頼まれた物を受け取って、そのまま蝶屋敷に向かうように襧豆子が頼んだ。会社に着いたのが遅すぎたので早く届けた方がいいだろうし、伊之助もアオイに会いたいだろうと思ったからだ。
    川辺に座っていると、冷たい風が襧豆子の髪を揺らす。その様を見て、幾人かの男性に声をかけられた。家が近くなのであがってください。美味しい豆茶でもいかがですか。といった襧豆子を労ってくれる言葉だ。丁重にお断りしたが、人々の優しさに襧豆子の心はあたたかくなった。
    (善逸さんが働きに出ている街の人ってみんな優しいのね。良かった。善逸さんがこんなところで働けて)
    「あ! 善逸さーん!」
    川の向こうにチラリと見えた金の髪。襧豆子は立ち上がって手を振ると、金の髪がこちらを向いた。横に誰かいる。
    「襧豆子ちゃん!」
    善逸がおどろいたように声を上げて、橋を渡ってこっちにやってくる。襧豆子も小走りで向かった。
    「どうしたの、襧豆子ちゃん! なにかあったの?」
    「ううん。伊之助さんが善逸さんの会社にご用があって、一緒についてきちゃったの。お邪魔だったかしら?」
    「全然! そんなことないよ~。うっれしいなぁ。昨日襧豆子ちゃんに会えなかったから寂しかったんだよ。えっへへ。あれ? で、その伊之助は?」
    「伊之助さんなら、蝶屋敷に向かってもらってるの」
    「え! じゃあ、襧豆子ちゃんまさかここにひとりで待っていたの! うっそでしょ! 危ないよ、襧豆子ちゃん一人で待ってるなんて絶対にしないで。会社の中で待たせてもらえば良かったのに。竈門の者ですって言えば、すぐに一番いい応接間に通してもらえたよ」
    「そんな悪いよ。それに……あら?」
     襧豆子は首を傾げた。善逸のかなり後ろの方でこちらをじっと見つめている女の人がいたからだ。
    「ん? ああ、そうだった。襧豆子ちゃん、紹介するね。ええと、しずこちゃーーん、こっちおいで~!」
    呼びかけられた女の人はびくりと肩を揺らして、一度躊躇ってからおずおずとこちらにやってきた。
    女の人は具合の悪そうな顔色をしていた。不健康そうに痩けた頬は土気色だ。何か信じられないものでも見たように襧豆子を凝視した。
    「こっちが権田静子ちゃんだよ、襧豆子ちゃん。ちょっと前に知り合った子なんだ。で、静子ちゃん、こっちが俺の襧豆子ちゃん、竈門襧豆子ちゃん」
    「もう、善逸さんってば。俺のって言ったらまたお兄ちゃんに怒られちゃうよ」
    「えへへ、そうだったねぇ。でも、俺の襧豆子ちゃんって言っても襧豆子ちゃんは怒らないじゃない」
    「だって、善逸さんがそんなに幸せそうに言うんだもの。怒れないよ」
    「あの!!」
    突然、静子が声を上げた。
    「お、俺のってどういう意味なんですか……?」
    「俺の襧豆子ちゃんになってくれたらいいなぁって言う意味なんだ。そのねぇ、俺、襧豆子ちゃんに求婚中なんだぁ~!」
     襧豆子は恥ずかしそうにうつむいた。人前でそんなこと言われたことなかった。
    「……竈門さんに、きゅうこんちゅう」
    呆然と静子が呟き、両手を握りしめて襧豆子にたずねてきた。
    「竈門さん、ひとつ聞いてもいいですか。竈門さん、少し前にこの街に住んでいる材木店の男の人と知り合いになりませんでしたか?」
    「え? はい。知り合いになりましたけど、もしかして権田さんのお知り合いの方?」
    「……」
     静子は何も答えなかった。ただ黙ったまま襧豆子を見つめるだけだ。痛々しそうにかさついて切れた唇が何かを呟く。襧豆子は聞き取れなかったけど、善逸には聞こえたようで彼が困ったように眉を寄せた。
    「ごめんなさい。あたし急用を思い出しました。竈門さん、会えて良かった。また会ってください。それじゃあ、失礼します。ごめんなさい、あまり気の利いた言葉を言えなくて」
     くるりときびすを返した静子を見て、襧豆子はようやく彼女の身なりがあまり裕福ではないことに気付いた。悪い言い方をすると粗末な身なりをしていた。
     静子の棒きれのようながりがりの体が慌てて戻ってきて善逸の前で頭を下げた。
    「今日もおうどんありがとうございました、我妻さん! また会ってください! でもおうどんのために会いたいわけじゃありません! さようなら!」
     一息で言い切ると慌ただしく走り去っていく。とすれ違うとき、彼女の瞳がひたりと襧豆子を見ていた。
     悔しい。悲しい、羨ましい、恥ずかしい。
    たくさんの意味が込められた視線。盛り上がった涙が静子の頬を濡らす。襧豆子の心がとても痛んだ。どうしてあんな風な視線を向けられるか分からないけど、襧豆子は心が痛くて善逸の顔を見ることが出来なかった。
     だけど、何かに取られてしまようで、何かとても大切なものを手放さなくてはいけないようで、襧豆子はそっと善逸の服を握りしめていた。


     帰り道に善逸と色々なことを話したけど、襧豆子が聞きたいことは一度も出てこなかった。
     静子とはどんな関係なのか。それが気になった。彼女は、『今日も』と言って、『また会ってください』と言っていた。つまりは、何度かああやって会っていたのだろう。
     だけど、善逸は何のやましさもなく襧豆子を紹介してくれた。だからふたりの間にやましいことは一つたりとも無いのだろう。
     会話が途切れて、ふうと小さいため息をついた襧豆子の小指を善逸がさりげなく触れ、小指だけを絡めてきた。しっかりと握りしめない小指だけは呆気なくほどけてしまう。
    「静子ちゃんのこと気になってるんでしょう?」
     襧豆子は小さくうなづいた。
    「俺もずっと気になってたよ」
    驚いて善逸を見上げた。
    「だって、あの痩せ方は異常だ。きちんとご飯もらえてない。……それに、どうも家族からあまりよくない扱いを受けてるみたいなんだ。一度、通りかかってね。お節介だと思ったけど助けたことあるんだ。最初に出会ったとき、静子ちゃん身投げしようとしていたんだよ。それからなんとなく気に掛けててね」
    「あ」
     とたんに襧豆子は自分が恥ずかしくなった。嫌悪感に顔が歪む。
    「わたし、やだ。ごめんなさい、善逸さん。わたし、勘違いしていたの。静子さんが善逸さんのこと……!」
     それまで襧豆子は自分が恋愛面で聡いと思ったは一度としてなかった。男性に特別に好かれていても、告白されるまで気付いたことはない。だけど、今回だけははじめてそれを悟った。そして、それを口に出してはいけないことも分かった。
    (静子さんは善逸さんのこと好きなんだわ)
    「静子ちゃんが俺のことを? なあに、襧豆子ちゃん」
    「ううん。なんでもないの。善逸さんがとても優しい人だなって思ったの」
    「優しいかぁ。本当に優しいんだったらどうにかしてあげられるんだけどね。こればっかりはどうしようもないからさ。それこそ、静子ちゃんがあの家から出るしか逃げ道はないんだよね」
    小指はやはり呆気なく離れてしまった。
     季節は段々と約束の季節に近づいていく。その間、襧豆子と善逸は何も進歩もなければ後退もなく、ただ緩やかに絆を深めていった。
    善逸が静子と会っているのか気になったけど、善逸が何も言わないところを見ると何もないようだ。ただ一緒に暮らしているだけど襧豆子が静子とのことを聞くのは少し憚られた。襧豆子は善逸の婚約者でもなければ妻でもない。
    だけど、襧豆子の周りは彼女の意思とは関係なしに大きく変化した。正月を越してひとつ年を取った襧豆子は多くの男性から求婚されるようになった。釣書が山のように積み重なっている。善逸が煩わしげにそれらを睨み付ける。それが少しだけ襧豆子には嬉しい。ひとり以外の求婚を襧豆子は受ける気などまったく無かった。
     善逸の求婚の返事を一年間待っていることを聞きつけた男が同じように、返事は一年後にお願いしますと言ってきたが、襧豆子はその場でお断りをしていた。何年経っても気持ちは変わらない。襧豆子の心の奥には、鬼が入っている箱を守ってくれた男の子がずっといた。
     あと少し。この柔らかな気持ちを善逸に打ち明けるまであと少し。
     そんなある日。
     彼女が竈門家を訪ねてきた。
     権田静子。何も持たない彼女がやってきた。不幸と不運と、ひとつの覚悟を背負い、雲取山にやってきた。

     折しも、兄の炭治郎は留守で、伊之助は先々週から居を蝶屋敷に移していた。善逸は静子が暮らす街へ仕事に行っている。
    「突然訪ねてきてすみません、竈門さん。あたしのこと覚えていますか?」
    「ええ、静子さんですよね。こんな辺鄙なところまで訪ねてありがとうございます。どうぞ、中に入ってくださいね」
     家の中に通して、座布団を勧めたが静子は固辞した。
    「あたし、うまく言えません。何を言えばいいか分からないけど、竈門さんにお願いがあってきました」
    「それよりもちょっと待って」
     襧豆子は仕舞ってあった軟膏を取り出して、静子の横に膝を付き、彼女の頬に軟膏を塗った。
    「っ!」
     静子がびっくりして後退する。
    「静子さん、怪我してる。少し沁みるけど我慢してね。これ、よく効く薬なんです。兄のお師匠さまが作ってくれた軟膏で、怪我なんてすぐ治っちゃうんです」
    「あ、りがとうございます。竈門さんは優しいですね……」
    「腕も怪我してますよね。ちょっとごめんなさい」
     少しだけ袖をまくると、痛々しい怪我が見えた。何か細長い物で叩かれたような痣。そうだ。伊之助と竹刀で打ち合いをして、受け流し損ねた善逸の腕に似たような痣が出来たことを思い出した。
     静子もまた剣道を嗜む人なのだろうか。などと、呑気なことは思えない。これは、彼女が不当に受けた傷だ。ひどく腹立たしい。
     簡単に手当てをしてから、襧豆子は空の容器にたっぷりと鱗滝が作った軟膏を移し入れて、それを静子に握らせた。
    「たくさんあるから良かったら持っていって。静子さんが持って行ってくれると、これを作ってくれる人に会いに行けるから助かるの」
    「……襧豆子さんにはいっぱい助けてくれる人がいるんですね。もらいます。ありがとうございます」
     立ち上がろうとした襧豆子の腕を静子が強く握りしめてきた。さっきとは真逆の構図だ。
     どこか必死な形相の静子に襧豆子は言葉を失った。
    「竈門さんにはいっぱいいるんでしょう、助けてくれる人。だったら、だったら」
    静子は、はっきりと言い切った。
    「我妻さんをちょうだい。あたしにちょうだい……!」
    「え」
    「だって、これくれたじゃない。たくさんあるからってくれたんでしょう! だったら我妻さんもちょうだいよ!」
     襧豆子の腕を掴んだまま静子は下を向いた。握りしめられた手首が痛い。こんな細い人のどこにこんな力があったのだろうか。
    「竈門さんがたくさんの人から結婚してくれって言われてるの、あたし知ってるんです。あ、あたしの従姉妹がずっと好きだった材木問屋の坊ちゃんだって、あんたに惚れて求婚して、竈門さんはその場で断った。ねえ、その人のこと覚えてる? なんて言われたか覚えてる?」
    「静子さん、腕が痛いわ……」
    覚えていたけど、その日は立て続けに三人に求婚されて、似たようなことを言われて記憶が混同していた。はっきりと覚えていなかった。
     ゆるゆると静子が手を離した。襧豆子の手首にはくっきりと跡が残っていた。それを見た静子がハッと顔を上げた。
    「ご、ごめんなさい! あたし、なんてことを」
    「いいの。気にしないで」
    「本当にごめんなさい。それで、あの、さっきの話しなんだけど考えてくれますか? 我妻さんに断ってくれる?」
     襧豆子は少し黙ってから、口を開いた。
    「静子さんは善逸さんのことが好きなの……?」
    「うん、……好き。好きだよ。はじめて、はじめて誰かを好きになった。あんなに優しい人、うまれてはじめて。はじめて優しくしてくれたの、こんなみっともなくて汚いあたしなんかに」
     襧豆子だって初恋だった。
    「あ、あのね。静子さん、善逸さんはわたしのものじゃないよ。だから、わたしが例え断っても、善逸さんをあげるなんてこと出来ないよ?」
    「そんなこと知ってる。でも、竈門さんが断ってくれないと我妻さんはなんでも持ってる竈門さんのもんになっちゃうじゃないさ。だから、断ってよ。お願い断って。竈門さんならこの先たくさんの人に結婚してくれって言われるよ。我妻さん以上の人だってあらわれるよ。でも……、あたしなんかに優しいのは我妻さんしかいないんだよ……っ!」
     鉛を口に押し込められたような気持ちだった。何か言わなくてはいけないのに声が出ない。
     人が苦しんでいるとき、痛みに寄り添って何かしてあげたかった。
     静子はずっと苦しんでいた。彼女を見れば分かる。痩せこけた体つきに、繕われない着物。少し間近で見た静子の着物の縫い目はひどいものだった。見よう見まねで彼女が縫ったのだろう。針仕事は勝手に上手くなる物ではない。ちゃんと教えてくれる人がいなくては上達しない。静子の周りには、彼女に何かを教えるひとがいなかったのだろう。
     ずっとひとりで生きていた静子に、善逸だけが手を伸ばした。だから、襧豆子にくれという。諦めてくれと懇願する。譲って欲しいと願う。
     弟や妹たちに何かを譲ってあげたことは何度もあった。我慢もたくさんしてきた。つらくなかったからだ。自分が物足りなくても、誰かが微笑んでいれば襧豆子は満足だった。
     これも、おなじ、こと、なんだ。
     襧豆子が我慢して、一生懸命に我慢して、この鉛を飲み込んで、にっこりと笑って、「善逸さんに、ごめんなさいって言うね」と、静子に約束してあげれば、きっと喜んでくれる。
     襧豆子は我慢が得意だ。人に物を譲ってあげるのだって嫌いじゃない。いま、手元にあるものだけで十分。それに満たされなければ無い物ねだりになってしまう。それは卑しいこと。
    (善逸さんを、あきらめる)
     心がバキンと割れた気がした。
     静子がその場で土下座をしてきた。
    「どうかこの通りです。お願いします。我妻さんだけでいい。他に欲しいものなんてない。あたし、何にも出来ないし……字だってまともに読めやしない、裁縫だってろくに知らない。あの人のお嫁様になりたいなんて強突く張りは言わない。ただ、竈門さんが持って行っちゃったら、あたしには何もないんだよ!」
     襧豆子は口を閉ざして、静子の手を拾い上げて、土下座をやめさせた。襧豆子もあかぎれは酷い方だけど、就寝前に善逸が柔らかく塗り薬をすり込んでくれるおかげで傷口はふさがっている。だけど、投げ出された静子の手先はひどいものだった。
    「ああ、いいなぁ。竈門さんみたいに器量よしに生まれていればどんなに人生楽だったんだろう。目が合っただけで殴られたり、見下されたりもしたことないんでしょう。いいなぁなんていい生き方なんだろう」
    じっと見つめてきた静子の瞳は言いしれぬ光が宿っていた。襧豆子から視線をそらさずに、静子が何かに憑かれたように口火を切った。
    「──この怪我、本当は竈門さんのせいなんだよ。あんたが材木問屋の坊ちゃんに求婚されただろう。その腹いせに従姉妹にしこたま打ち付けられたんだ。死んだご隠居の杖なんて持ち出してきて、何度もあたしをぶったんだ」
    胸が苦しくなる。
    「竈門さんが坊ちゃんに色よく返事をしてやりゃあ良かったのに。あの人のどこが悪いって言うのよ!って、殴られたよ。竈門さんは強突く張りだって言われてたよ。でも、坊ちゃんのどこが悪かったの? どうして、断ったの? ねえ、そうやってたくさんの人から想いを寄せられてるけど、何人くらいから結婚してくれって言われたの?」
    「材木店の方は何も悪くないよ……」
     どれくらいの人にそう言われたのか。ふと逸らした視線の先には釣書があった。襧豆子の視線をたどった静子が目を丸くした。
    「うそ、あれが全部、竈門さんと結婚したい男の人? すごいねぇ。だったらやっぱり大丈夫だ。あたしなんて一度だってそんなこと言われたこともないよ。あたしに優しくしてくれたのは我妻さんだけ。でも、竈門さんにはあーんなに優しくしてくれる人がいる。我妻さんから手を離してよ。あたしは──竈門さんみたいに器量よしじゃないからさ、我妻さんとどうこうなるなんて大それた夢なんて持たないよ。ただ、誰かの物になって欲しくないだけなんだ。それだけなの、竈門さん……」

    その日、襧豆子は静子に何も返事が出来なかった。夕暮れ前に静子は山を下りていった。山肌を舐めるように深々と頭をさげて帰って行った。
    残された襧豆子は上の空で洗濯物を取り込む。どうすればいいのかひとつもわからないくせに、一つだけ分かってしまっていること。
    「善逸さんに」
    ごめんなさいと謝ること。
    謝って、この恋をひとつ擲てば、静子は微笑んでくれるだろう。きっと出来るはずだ。襧豆子はずっと我慢をしてきた。それが我慢だとは思わずに、自分が欲しいものやりたいことを押さえてきた。
    ただ、これは襧豆子の心の奥で花開いたはじめての恋だった。箱の中の襧豆子を守り通しあの人の声、鬼を夜の散歩へと連れ出してくれた鬼殺隊のあのひと、列車の中で襧豆子の前に降り立った黄色い羽織。そして、嬉しそうな優しい笑顔で花束を手向けてくれた善逸。
    それらを、全部、全部、捨てる……!!
    「……できないよ」
    襧豆子は膝を抱えてうずくまった。
    思いたくない、考えたくない、そんなこと失礼にあたる。だけど。
    「わたし、善逸さんだけでいいの。他の人の気持ちなんていらない。善逸さんだけで、だけがいいの」
    好きだと思って貰えるのは、とても有り難いこと。それをすげなくするのは心が痛む。でも、他の人の好意のせいで善逸と別れなくてはいけないなら、ひとつたりともいらない。
    どれだけ自分が冷淡なことを思っているのか襧豆子自身よくわかっていた。

    Tap to full screen .Repost is prohibited
    😭🙏😭👏💖💖💖😭😭😭🙏🙏😭😭🙏🙏😭👏😭👏💘💘💘👍👍👍💯💯💯💯💯💯💯💯💯💯💘💘💕💕💖💖💖😭👏😭😭😭😭😭😭😭😭😭😭😭😭😭😭
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    recommended works