海に向かう道のりの最後に待ち構えていたのは翠緑の具足を身につけた小柄な男だった。
「何者か」
砂浜に生えた手頃な岩に腰を下ろしたままこちらには背を向けていた彼の鋭い誰何に、虎は反射的に身をすくめた。誰を問われてもあいにく今は答える正体すら持たないのだ。
虎の無言は慌てた気配だけを伝えたのか、男は小さく息を飲むようにして重ねた。
「…長曽我部、か」
低く、怒りを滲ませたようにも見えるそれはいかにも小さく、そうであることを期待する、ことを否定するような、複雑なかたちをしていた。
「いっ……否ッ、某、名乗る名はござらぬが、そのう、お尋ねの御仁とは違いますればっ!」
なので虎は慌てて、こちらを振り返った小柄な男の眼前に身を投げ出し、今ある己をありのままに明かすことにした。勢い良く現れた虎の姿をつま先から頭上まで確認して、男は嘲笑うように鼻を鳴らす。で、あろうな、と呟き脚を組み直すと、膝から下には何も身に着けていないのが見えた。
砂浜の続く海岸線の果てを見やり、彼は言う。
「我は独りで良かった。唯一で良かった。あれの手の内の、大勢の一つに甘んじるなど度し難い。
手前勝手にその場しのぎに自らの主張ばかりを張り上げては、即座に目移りをして忘れてしまう、良い迷惑であったわ」
言いながら、月光につたう微笑は諦めたように儚いのだった。
「……故に、あのような策を採ったのでござるか」
名もなき虎の問いには非難はなかった。ので、彼は少しばかり愉快そうになって首を傾げた。虎が記憶しているよりも軽妙な仕草である。
「故に、とは。そしてどの策のことを言うておる?」
眼差しは細く、鋭い。問い返されて、虎はたりと黙り込む。見た記憶とは別の光景が目の前を過ぎていって、眩暈がした。
これは自分の知る歴史ではないと確信があったのだが、しかししばしの沈黙の後、押されるようにして続きを口にした。
「石田殿を欺き、大谷殿を欺き、北の果てより次々と軍を破り、最後には四国にて天下統一を果たした策にござる」
「ほう、知らぬはずのことを良く知っておることだ。あれに聞いたか」
「……」
「ふん、まあ良いわ」
白い砂を白い足で踏んで、彼はゆっくりと波打ち際へと移動した。それでも、と続いた言葉は淡々と冷たく、寒々しい色をしていた。
「それでも、最期にあれが見たのは我ではなかった、それが総てよな」
音もなく、彼の足は波に沈んでいった。さあ、刻限なり。我もまた還らねば。
「か、え、る?」
「左様、我が還るべき海へ。」
半分だけ振り返った彼の貌はすでにぼやけて滲んでいる。謳うように言う声は変わらず朗々と無感情である。
「名もなき虎よ。貴様にもまた帰るべき歴史があろう。…貴様の識るままの、貴様を待つ場所があるはずよ」
波の音が強く響いて、耳鳴りのように鼓膜をふさいだ。たまらず膝をついて、目を閉じる。
「……願わくば、我が有能なる手駒であれ」
ざあざあと雑音じみた音がひときわ強く、心なしか愉しげな男の声をかき消して――止んだ。
恐る恐る目を開けた虎の目の前にはただ夜の海が広がっている。