ちょっと前の話"ぽかぽか"という効果音は今日の事を言うのだろう、と思えるほど、暖かく気持ちのいい太陽の下、
「ねーねーサバちゃん」
負けず劣らずの穏やかな声音が耳をくすぐる。
「陸の交尾ってどぉやんの?」
が、その中身はあまりにもこの陽気からかけ離れていた。
「・・・・・・こーび・・・・・・?」
口の横にたまごフィリングを付けたまま、"サバちゃん"ことデュース・スペードは、聞かれた事の意味が分からず、キョトンとした顔を先輩の方へと向けた。
「そーそー、こうび」
ニタリと上機嫌な笑顔をベンチの背に乗せ、リーチ先輩は答えを待っている。
その顔をじっと見つめながら、のんびりぽかぽかしていた頭を少しずつ回し始めた。
「こうびって、えっと、交尾、ですか」
「他に何があんの?」
交尾・・・・・・えっと、動物が繁殖の為にする、あれとかこれの事を言っているのだろうが・・・・・・
「・・・ど、どの動物のですか・・・・・・?」
「え、決まってんじゃん」
そう言うと、先輩はずいとこちらへ顔を近付け、目を細める。
「オレと、サバちゃん♪」
は。
「は?」
そのままペロリと頬に付いていたタマゴを舐めとると、満足げな顔を離し、長い脚を組み替えながら座り直した。
公共の場でいきなり顔を舐められた訳だが、頭の中はそれどころではなかった。
「え、は、えっ?そ、そそそれって・・・!?」
つまりこの先輩は、真っ昼間から、いつ誰が通るかも分からない学園の中庭のど真ん中で、あられもない事を聞いているのである。いや交尾の時点であられもない事であるのは間違いなかったのだが。
いつも気まぐれな人だとは思っていたが、今日はいつにも増して突拍子過ぎる。
「あはっ、サバちゃんってば真っ赤っか〜、アマダイみてぇ」
「いや、ていうか、なんで僕なんですか!?」
じりじりとベンチの端へと後退りしながら、けらけらと笑っている相手にそもそもの疑問をぶつける。
そういう事を知りたいなら、もっと適任者が居る筈だ。
「んー?美味そうだから」
そのギラギラと光る双眸は、完全に、獲物を視界に捉えた捕食者の眼だった。
本能的な恐怖を感じ、更に距離を取るが、先輩の長い四肢がそれを許す筈もなく、一瞬で腕を掴まれて引き戻されてしまった。
「ね〜ぇサバちゃん」
「ひっ・・・」
「オレと交尾、しよ?」
「・・・っ、し、しませんっ!!」
せっかく開いた距離をまた縮められ、肝は冷えているのに、羞恥からか全身は今にも沸騰しそうな程熱かった。
断られたのが気に食わないのか、目の前の先輩の顔は不満を全く隠していない。
「なんで」
「そういう事は、こ、恋人同士がもっとこう・・・親しくなってからするもんでしょう!?」
僕と先輩は恋人ではないし、それ以前に友人かどうかも微妙なところなのに。
とにかくこれ以上距離を縮められないようにしないと何をされるか分からない。空いている脚で踏ん張って、どうにか距離を保つ。
「は?体の相性調べんのが先じゃね?」
「あ、相性って・・・」
サラッと真顔で言われ、こちらがおかしいんじゃないかと錯覚しそうになる。いや、普通がどうなのかなんて、よく分からないのだが。
「じゃあさぁ、コイビトになればしてくれんだ」
「は・・・・・・?」
まるでお気に入りのおもちゃを見つけた時の子供のように、先輩の表情が二パッと笑顔になる。
「サバちゃん、オレと恋人になろ♪」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!」
ガツン!と鈍い音が響く。
「っ、なりません!しません!!」
無我夢中だった。いつの間にか先輩の手が離れていたので、思いっきり地を蹴り、一目散にその場を離れる。背後から「いってぇ〜」という声が聞こえた気がしたが、振り返る余裕なんて全くなかった。
途中で転びかけながらもどうにか教室に辿り着いたが、その後の授業の内容がまともに頭に入ることはなかった。
──────────
中庭での一件以降、気付けばその事を考えていて、授業の内容聞き逃してしまう事が増えた。クラスメイトや部活仲間に話しかけられても気付かないことも増え、昨日は廊下の柱に真正面からぶつかってしまい、横に居たエースは笑い過ぎて息も絶え絶えになっていた。
いつにも増して重くなった追加の課題を抱えて、デュースは図書館へと向かう。このままでは優等生になるどころか赤点まっしぐらだ。少しでも遅れを取り戻さなければならない。
「・・・・・・っし!」
パチ、と両の掌で己の頬を軽く叩いて気合を入れてから、課題に使えそうな参考書を探し始める。
先ずは錬金術から。続いて魔法解析学。そして動物言語学も。
借りる本を選びながら、課題の多さを思い出して辟易しそうになる。首を振って沈んだ気持ちを振り払ってから、次の本棚へと向かった。
後必要なのは魔法史の資料だ。荷物を抱え直し、手頃な歴史書を探していたら、ふと本棚の一角が目に止まった。
「珊瑚の・・・海・・・・・・」
無意識のうちに手に取って、ぱらぱらとページを捲る。薄くもなく分厚くもない本には、ごく最近までの珊瑚の海とそこに住む人魚達の来歴がざっくりと綴られていた。
"珊瑚の海"と一口に言ってもその面積は広大だし、人魚にも様々な種類が居るから、本当にざっくりとだ。
(リーチ先輩はたしか・・・・・・ウツボ、だったよな)
いつも見ている先輩もすごく背が高いが、海の中で見た先輩の長さはその比ではなかった。一人でベンチをいくつも占領できそうだ。
挿絵の人魚達を眺めながら、またあの日のことを思い出す。先輩の表情もその声音も、まるで昨日のことのように鮮明に記憶に残っていた。
陸の交尾がしたいと言っていたが、それはつまり・・・・・・その・・・・・・えっちなことがしたい・・・・・・という意味なのだろう。
自分もそういう事に興味がないと言えば嘘になる。だが、相手を選ばずしたいかと問われれば勿論NOだ。
それに、そもそも具体的なやり方だって知らないのだ。多分、アレをアレするんだろうが・・・・・・いままで勉強も恋愛経験もさっぱりだったから、そういった知識も勿論さっぱりだった。
悶々と考えてながら歩いて、人体の構造やら医療やらについての本が並んでいる辺りまで辿り着く。適当に一冊取ってみれば、表紙を見ただけで内容が難しいという事がありありと感じられた。
「べ、別にそういう事をしたいとかいう訳じゃないが、知識として知っておくのは大事だからな、うん」
・・・・・・一体僕は誰に言い訳をしてるんだ・・・・・・?
自分で自分に困惑してしながらも本を開けば、ずっしりと重たく両手にのしかかってくる専門書は、案の定専門用語ばかりで何が書いてあるのかちんぷんかんぷんだ。
それでもどうにか読み進めようと悪戦苦闘していると、ふわりと品のある薔薇の香りが鼻腔をくすぐった。
「前を失礼するよ」
「あ、すみません」
慌てて一歩下がれば、薔薇のように真っ赤な髪を揺らし、少年がその後姿には不釣り合いな分厚い医学書を物音一つ立てずに抜き取った。
「・・・って、ローズハート寮長!」
途端、振り返ったローズハート寮長の表情が険しくなり、思わず顔が引きつる。気迫だけで押し潰されそうだ。何かまた法律違反をしてしまったのだろうかと考え始める前に、周りの本棚が目に入った。
「あっ・・・・・・す、すみません」
「うん、よろしい」
小声で、ただしはっきりと謝罪する。そうだ、ここは図書室だった。女王の法律以前に、図書室で大きな声を出すのはよくない。
こちらの反省を受け取ると、寮長の表情が和らいだ。
「医学に興味がおありなのかい?」
「え、あ、えっと・・・そんなところです」
先程から格闘している本を一瞥し、少しだけ思案すると、ローズハート寮長は再度本棚に視線を巡らせ始める。
「その著書はかなり専門的なものだから、今の君には難しいだろう。そうだね・・・・・・先ずはこれかな」
する、と一冊の書物を抜き取って渡してくれる。適当に開いてみれば、挿絵や図解が多く、今の自分でも意味のわかる単語や語彙で書かれている事が分かった。
「おぉ・・・・・・!」
中身を一切見ずに背表紙だけで的確な本を選び取った寮長をあらためて凄いと思った。もしかしたら、内容を全て暗記しているのかもしれない。声量に気を付けながら感謝を伝える。
「有難うございます!」
「体の構造について把握しておく事は、病気や怪我の予防にも繋がるからね。よくよく目を通しておくといい」
「はい!」
デュースの目が滑らずに本の内容を捉えている事を確認すると、寮長は満足げな表情でその場を後にした。
その背を見送りながら、元々の動機があまり人に言えるものではなかった事を思い出して、少しだけ後ろめたくなるのだった。
──────────
無事にローズハート寮長が選んでくれた本を読み終えることはできたが、肝心の知識については進展がなかった。よくよく考えてみたら、せ・・・性行為の、それも同性同士でのやり方なんて、普通の書物に載っている筈がなかった。
・・・・・・購買に行けばあるのだろうか・・・・・・流石に試してみる気は起きないが。
「おーーーい、でゅーすくーん」
「ん、どうした、エース」
不意に名前を呼ばれ、現実へと意識を引き戻された。声のした方へと顔を向ければ、エースがソファに寝っ転がっている。行儀が悪いぞ。
「どうした、じゃなくてさ。デュースはどうすんのって聞いてんの」
「え?あぁ・・・すまない、聞いてなかった」
「またかよ〜」
面倒くさそうに寝返りをうってこちらに背を向けてくる。説明を投げられた他の寮生に聞いてみれば、今週末は何処かへ遊びに行こうということでその計画を立てていたらしい。談話室でクローバー先輩のお菓子の試食会をしてるから、と集まった後その話になったらしいのだが、考え事に没頭していて気付かなかった。
かいつまんで話してくれた寮生に礼を言ってから、自分の予定を整理してみる。行けなくはないが、ここ最近の遅れを休日に少しでも取り戻さなければならない。
「僕は遠慮しておく」
また今度な、と、そう伝えれば寮生達は少し残念そうにしながらも会議を再開した。
「ま、赤点デュースはどうせ補習でそれどころじゃないもんね」
「な、前回は赤点じゃなかったぞ!」
いつの間にかこちらに向き直っていたエースの言葉に反応して、つい荒げてしまった声が談話室に響くが、周囲の寮生達は「またいつものが始まったか」と特に気にするそぶりもなく週末の予定を話し合い続けている。
「"前回は"ね〜。ここんとこぼーっとしてばっかだし、今度こそ危ないんじゃねーの〜?」
「うっ・・・・・・」
ぐさりと的確な所を突かれてしまえば、ぐうの音もでない。
「なんか悩みでもあるの?」
「知恵熱出しすぎてセルフ熱中症になったか??」
急に静かになったのが気になったのか、話し込んでいた他の寮生達まで次々に割り込んでくる。
「それともまさか・・・恋煩いとか!?」
「なっ・・・・・・!?」
"恋"という単語が現れた途端、談話室の空気が変わった。
「あのデュースに春が!?」
「女か!?女なのか!?!?」
「肖像画ってオチはやめてくれよ」
「何処住み?てかマジカメやってそう?」
先程まで寛いでいた寮生や、自室に戻ろうとしていた奴らまでもが周りに集まってきた。さっきまで我関せずの顔をしていたのはなんだったのか。
「いやいや、コイツに限ってそれはないっしょ!」
こちらが返事をする前にエースが笑いながら否定すれば、沸き立っていた寮生達は「まぁデュースだしな・・・」と今度はそちらに同調し始めた。なんだか物凄く馬鹿にされているような気がするが、恋だのなんだのが分からないのは事実なので、大人しくテーブルにまだ残っているクッキーを齧る事にした。
「どうせホームシックとかそんなとこだろ」
ソファに座り直し、エースも残りのクッキーをつまみ始める。
「誰がホームシックになんか」
「じゃー何?なんか気になることでもあんの?」
指についたクッキーの欠片をぺろりと舐めとると、珍しく真面目な顔で聞いてくるもんだから、少し驚いた。そんなに深刻そうに見えたのだろうか。
「あー・・・・・・いや、別に、大した事じゃない」
せっかく真剣に聞いてもらってるのだから、話した方がいいのかもしれない。だが、性行為を持ち掛けられて以来その事が頭から離れないなんて、ありのままを説明できる筈もなく、あーだのうーだの唸りながら悩んでいるうちに、最後のお菓子を食べ終わったらしいエースは席を立ってしまったため、自分も部屋に戻る事にした。
"適当に相談乗って見返りに何か奢らせようと思った"という意の捨て台詞のせいで部屋に戻る迄に数悶着あったが、結局、誰にも相談できないままその日は夜を迎えた。
──────────
次の日の放課後、デュースはオンボロ寮を訪ねていた。一人で考えることに限界を感じたが、結局同じ寮のやつらには話そびれてしまったし、監督生に相談することにしたのだ。ジャックやエペルに聞くことも考えたが、なんとなく二人には合わない話題のような気がしたし、エースは論外だ。何より、監督生とは話しやすかった。
休み時間中、エースが居ない時をどうにか見計らって相談をしたい旨を伝えたら快く承諾してくれた監督生は、寮の談話室をいつにも増して丁寧に掃除しながら出迎えてくれた。
相談のお礼にと持ち込んだお茶を淹れ一息ついてから、監督生に促され、本題を切り出す。
「実は・・・・・・」
デュースは切っ掛けとなった出来事と今の自分の状態を、具体的な相手と内容をぼかしながらも吐露した。
ちなみにグリムは、手土産の中に入っていたツナ缶をさっさと平らげて満腹になったのか、横でぐーすかと眠っている。そのグリムの毛並を偶に撫でつつ、監督生は一度も遮ることなく話に耳を傾けてくれた。
一通り説明し終え、乾いた喉をお茶で湿らせながら監督生を見やれば、話の内容を反芻してくれているのだろうか、腕を組んでじっと机のどこか一点を見つめている。
カップの中身が残り半分を切った辺りで、ようやく監督生は顔をあげた。
「それはきっと恋だね!」
「うぇっ!?」
驚いた拍子に危うく床にお茶を溢しそうになった。まさかここでもそのワードを耳にする事になろうとは。
「な、なんでそうなるんだ!?」
「え?違うの?てっきりその人の事が好きなのかと・・・・・・」
監督生は意外そうな顔をして首を傾げた後、ちょっと待っててね、と言い残して一度席を立ち、すっかり寝入ってしまったグリムを部屋へと運んでいった。
・・・・・・好き?僕が??先輩のことを???いやそんなまさか。海の中で追いかけ回されたのも記憶に新しいし、魔法のコツを教わったりはしたが、廊下で会ったら一言挨拶だけする程度の仲だ。そんな相手のことを好きになるなんて事があるのだろうか。
ぐるぐるする頭を抱えていたら、いつの間にか戻ってきていた監督生に大丈夫かと心配されてしまった。
「わ、悪い、監督生にまでそう言われるとは思わなくて」
一度大きく息を吐いて、心を落ち着かせる。寮のやつらは単純に揶揄ってるだけだと思ったが、監督生までそこに行き着くのなら、可能性はあるのかもしれない。
「けど、あの先輩だぞ・・・・・・?」
口元に手を当て、ぽつりと呟く。正面に座り直した監督生はと言うと、なんとなくこちらに向ける視線があったかい・・・いや、生温い?気がする。
「本人に会って確かめてみたら?」
「えっ」
そういえば、あの日以来リーチ先輩には会っていない。けれど、確かめると言ったって、会って何を話せばいいのやら。
困惑した瞳を向ければ、監督生はにこにこと朗らかな笑顔のまま口を開いた。
「もう一度会えばきっと分かるよ」
何が、と聞こうとしたところで、ポケットの中のスマホが震えた。取り出してみれば、ルームメイトから何か連絡がきているようだが、それよりも寮の門限が迫っていることに気付く。疑問は尽きるどころか湧いてくるばかりだったが、今日は外泊届を出していない。急ぎ帰り支度を済ませて、監督生に御礼を言ってからオンボロ寮を出た。
鏡舎へと向かっている最中も、頭の中は疑問でいっぱいだ。
僕がもしもリーチ先輩の事を好きだとして、先輩は僕のことをどう思っているのだろうか。先輩も同じだったのだろうか。それとも、いつもの気紛れだったのか。
再び、ベンチで隣に座ってきた時の先輩の顔を思い出す。そういえば、最近は機嫌のいい時が多かったかもしれない。
無事に門限には間に合ったが、オンボロ寮からずっと走ってきたからだろうか、いつもよりも寮の中が暑く感じられた。
──────────
「珍しいですね、お一人でご来店とは」
メニューの中で一番安価なドリンクをちびちびと飲んでいたら、カウンターの中からジェイド・リーチ先輩に話しかけられた。
「そんなに珍しいですか・・・?」
こっちのリーチ先輩はいつも柔和な表情をしていて物腰も丁寧だが、フロイド先輩と同じかそれ以上に何を考えているのか分からない。自然と警戒してしまう。
「ふふ、そんなに警戒なさらずとも、特に他意はありませんよ」
リーチ先輩はニッコリとした笑顔を崩さないまま、いかにも高そうなグラスを磨いている。曇りひとつない程にピカピカに磨くと、今度はカウンター内の設備や調度品を点検し始めた。
ふと店内を見回してみれば、客はまばらで、スタッフが忙しくしている様子もない。カウンター席も、今はデュース一人だ。
・・・・・・もしかして、手持ち無沙汰なんだろうか・・・・・・?
だとしたら、少しだけ悪いことをしたかもしれない。
監督生に言われた通り、先輩に会ってみようとしたが、そもそもあの人は会おうと思ってもすぐに会えるわけではないのだった。
学年が違うから教室も勿論遠いし、休み時間に行く余裕は今のデュースには無い。昼休みに中庭をはじめそれらしい所を探してみたが見つからず、ならばとバスケ部を訪ねてみたが、このところサボりがちらしく、他に先輩に会えそうな場所といえば、此処モストロ・ラウンジだった。
一人でこの上品な店に客として来る事はあまりなかったので緊張しながらも、案内されたカウンター席に座り、今に至る。
店に来てから暫く経つが、未だ先輩の姿は見当たらない。今日は休みなのだろうか・・・・・・?
もしそうだとしたら、日を改めるかいっそ直接部屋を訪ねるかするしかない。くっきりと噛み跡がついてしまったストローをゆらゆらとグラスの中で揺らしながら、ちらちらと何度もスタッフ用の扉に視線を送る。
カラカラと鳴っていた氷の音が聞こえなくなるかという頃、ようやく扉の向こうから求めていた姿が現れた。
「リーチ先輩!」
「はい」
待ってましたと言わんばかりにすぐ横から返事が返ってくる。
「あ、いえ、ジェイド先輩ではなく」
「あれ?サバちゃんじゃん」
「フロイド先輩」
気怠そうに扉を閉めた先輩は、こちらに気付くと僅かに口角を上げ、ゆったりと近付いてきた。
「な〜に?」
あの時程ではないにしろ、その双眸は緩く弧を描いているのにも関わらず鋭く、思わず息が詰まる。姿勢を正し一度息を吐いてから、すっかり乾いてしまった喉を慎重に開いた。
「・・・・・・話したいことがあるので、後で時間貰えないでしょうか」
「いいよぉ、今聞いたげる」
先輩は即答すると、どかっと隣の席に腰を下ろし、そのまま頬杖をついてこちらの話を待つ姿勢に入ってしまった。
「えっ、でも今仕事中じゃ」
「そうですよフロイド、今日もサボったらどうなるか、忘れてはいませんよね?」
大事な兄弟が絞られる姿なんて、これ以上見たくありません、と付け加えジェイド先輩は眉尻を下げたが、その表情からは微塵もネガティブな感情は読み取れなかった。
フロイド先輩は脚をぶらぶらと揺らし楽しそうにしていたが、それを聞くなり苦虫を噛み潰したような顔になると、渋々と立ち上がった。
「サバちゃんやっぱちょっとだけそこで待ってて」
「いえ、店の中で待たせてもらうわけには」
怠いと呟きながら仕事に取り掛かろうとする先輩に、せめて待ち合わせ場所だけでも決めておかなければと声を掛けようとするも、ジェイド先輩に止められた。
「構いませんよ。是非ゆっくりと寛いでいてください」
流石にドリンク一杯だけで長居するのは気が引けるが、懐に余裕があるわけでもない。再度遠慮しようとするも、ジェイド先輩の満面の笑みから静かに滲み出る"圧"を感じ取ってしまった。
「そ、それなら、お言葉に甘えさせていただきます・・・・・・」
「はい」
デュースが大人しく椅子に座り直すのを満足そうに見届けると、ジェイド先輩は再び備品のチェックに戻っていった。
此処で待つと決めたものの、少々手持ち無沙汰だ。グラスの中はとっくに水だけになってしまったし、1日1時間だけと決めたゲームは既にプレイ済みで、マジカメにも目新しい更新はない。
仕方なしにぼんやりとラウンジ全体の様子を眺めていれば、客席の間を動き回って接客をしているフロイド先輩の姿が自然と目に入った。
ずっと見ていれば、偶に全く聞きなれない単語がずらずらと並んだ注文が入ってもメモひとつ取らずに全て正確に覚えていて、一度に沢山の料理や飲み物を両の腕一杯に乗せても全然ぐらついていない。それどころか、余裕たっぷりにその状態でお客さんと談笑もしていたりする。
普段の態度はたしかにいい加減だが、そういうところは素直に凄いな、と思う。難しそうなことでも、顔色ひとつ変えずに軽くこなしてしまう。ああいう人のことを、きっと"天才"って言うんだろうな。
すっかり見入っていれば、テーブルへと料理を運び終わった先輩と目が合った。
「あ・・・」
流石に見過ぎだったかもしれない。慌てて口の動きだけで「すみません」と伝えると、先輩がにっこりと笑った。
「ッ!?」
その瞬間、ドキりと心臓が跳ねたような感覚に襲われると同時に、顔がカッと熱くなる。急な異変に頭が追いつかず固まっているうちに、先輩は再びホールとキッチンとを往復し始めていた。
(・・・・・・??????)
未だドクドクと自身の脈打つ音が鼓膜にまで届いている。
徐にカウンターへと向き直りグラスに手を伸ばせば、磨かれた表面にうつる自分の顔が真っ赤に染まっていることに気付いて、更に混乱した。
だって、おかしいじゃないか。
あの時だって、今だって、笑いかけられただけなのに、全力で走った後みたいに心臓がうるさくなって、身体中が熱くなって、耳まで真っ赤になって、頭からは先輩の姿が離れなくて。そんなのまるで本当に、
(好きみたいじゃないか・・・・・・!!)
そう考えたら、また一段と体が熱くなる。きっと今体温を測ったら保健室行きは免れないだろう。頭を抱えて縮こまり少しでも心を落ち着けようとするが、熱はなかなかおさまらず、ようやく心臓が大人しくなったのは先輩の勤務時間が終わる頃だった。
人目を避ける為、鏡舎の裏へと移動する。シフトを終えたリーチ先輩は、呼びかけられた時の僕の裏返った声が相当面白かったのか、今のところ機嫌がいい。一方の僕はといえば、ラウンジからここまで、あまり先輩の顔をまともに見られなかった。
「それで?話ってな〜に?」
先輩は適当な所で立ち止まると、こちらへと振り返る。思わず顔を僅かに逸らしてしまったが、これ以上逃げる訳にはいかない。思いっきり深呼吸してから意を決し、真正面から相手の顔を見据えた。
「あの!この前のおはにゃしっ」
噛んだ。
「ぶはっ、サバちゃんだっせぇ〜〜!」
「・・・っ」
思わず吹き出した先輩は、そのままケラケラと腹を抱えて笑っている。その姿を見て、またとくりと胸が高鳴った。
どうやら僕は、リーチ先輩が無邪気に笑っている姿が好きらしい。心の隅に残っていた疑念は消え、確信へと変わった。
そうと分かれば、伝えるべき事は一つだ。
「・・・・・・好きです、リーチ先輩」
今度こそ、目を逸らさないように。こちらに向けられたオッドアイを真っ直ぐに見つめる。
「僕は先輩のことが好きなんだって、今日やっと気付けました。この前はあんな風に断っておいて今更かもしれませんが・・・・・・お、お付き合い、して頂けないでしょうか!」
勢いよく言い終え、深々と頭を下げる。言いたい事は言えたし、腹も括った。後は答えがイエスでもノーでも潔く受け入れるだけだ。
足元でおぼろげにうつる長い影が動く気配は無い。
手袋に覆われた拳を血の気が失せてしまうほど力一杯握りしめながら、辛抱強く返事を待った。すごく、すごく長い時間に感じられる。さっきまで聴こえていた筈の、風に揺れる草の音も、それぞれの目的地へと向かう誰かの足音も、闇の中で寝床を探す鳥の声も、何も聴こえない。まるで、世界から音がなくなってしまったみたいだった。
その静寂を打ち破るように、一つの音だけがはっきりと耳に届く。
「いいよ」
「・・・・・・えっ?」
思わず顔を上げれば、先程の無邪気な笑顔ではなく、獲物を見つけた捕食者のようなニタリとした笑みを浮かべた先輩の顔がそこにあった。
言葉の意味を理解できずに呆けていれば、先輩が一歩此方へと踏み出す。
「じゃあさぁ」
「えっ、あのっ・・・!?」
突然距離を詰められたことに狼狽えて身を引こうとした直後、景色が急速に下へと流れていった。倒されたのだと気付いたのは、顔の横に先輩の手が置かれた後だった。
「リーチ先輩??」
「さっそくしよっか、こーび」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!?し、ししししません!!!!!」
大慌てで先輩の下から脱出を試みるが、下半身は既に押さえ込まれているし、唯一自由だった腕も動かそうとした途端に捕まってしまった。振りほどこうにも、上から押さえつけられたのでは分が悪く、びくともしない。
「コイビトになったらするっつったじゃん」
「言ってませんよ!そ、そういう事はもっと仲良くなってからというか、段階!段階を踏みましょう!?」
「段階〜?何があんの」
先輩の顔に苛立ちが滲み始める。
「えぇっと・・・・・・手を、つなぐ、とか・・・デートとか、き・・・きす・・・・・・とか、そういう事から始めませんか!?」
もう自分でも何を言っているのか分からなくなってきたが、先輩の動きが止まってくれたので良しとしよう。無表情で固まったままピクリとも動かなくなってしまったので、いつも以上に何を考えているのか分からないし、腕の力が弱まる気配も無いが。
脱出する隙を伺っていると、再び先輩が目を細め、ニヤリと笑った。その、なにか良いことでも思いついたと言わんばかりの表情で軽く舌舐めずりをすると、更に距離を詰めてくる。
「っ!!」
さらりと海色の毛先が目の前を過り、反射的に目を瞑った。瞬間、同様に硬く引き結ばれた唇に、ふわりと柔らかい物が触れた気がした。瞼を上げれば、視界から先輩の姿はなくなっており、身体も自由になっている。
上半身を起こして辺りを見回すと、鏡舎の中へと向かおうとする後ろ姿が目に入った。
「先輩・・・?」
「今日はそこまでね」
呟く声が聞こえたのか、一旦立ち止まって顔だけをこちらに向ける。そこまで、とは一体何のことだろうか。
座り込んだまま、無意識のうちに指先でふにふにと自分の唇に触れていると、遠のいていた筈の足音がいつの間にかすぐ近くにまで戻ってきていた。
「さ〜ば〜ちゃん」
「おわっ!?あれ、リーチ先輩?」
ぱちくりと目を瞬かせていると、先輩が長い脚を折り畳んで隣にしゃがみ込み、目線を合わせてきた。にやにやと悪戯っ子のような笑みを浮かべながら、スッとスマホの画面をこちらに向けてくる。
「早くかえんねーと、金魚ちゃんに首はねられちゃうよ?」
液晶に浮かび上がる数字は、タイムリミットが目前であることを告げていた。
「やばい・・・!」
勢いよく立ち上がり、挨拶もそこそこに大急ぎで鏡舎の中へと向かう。と、
「サバちゃん」
「ひゃ、はい!?」
寮の敷地へと繋がる鏡に飛び込もうとしたところで後ろから声がかかり、すんでのところで足を止める。
振り返ると、先輩もまた自身の寮の鏡へと片脚を突っ込んでいるところだった。
「またね」
ニコリと、尖った歯が僅かに覗く程度の柔らかな笑みと共にひらひらと片手を振られる。その笑顔に、こちらもまた精一杯の元気で応えた。
「はい!また明日!」
ちなみに、連絡先を交換し忘れていたので、次に会えたのは三日後だった。